小樽高商、早稲田大の軍事教練反対闘争(社研時代)のその後、学園の様相はどう変ったか?
一気に軍事訓練が本格化したのでもなく、一気に忠君愛国の日本精神がよみがえったのでもない。数十万の失業者をよそに、銀座ではモボ、モガとよばれたハイカラさんが闊歩し、学園都市では弊衣破帽、高下駄のバンカラも珍しくなかった。
90年前の1929年4月、第三高等学校に鳥海山の麓から政治的に無色無所属の苦学生が入学した。その30年後の1959年4月、わたしも受験のため吉田山の「紅萌ゆる丘の花」の石碑の前で先輩と記念写真を撮った。三高は京大教養部と名を変えていたが、教室も多分学生食堂も、元のままだった。柔剣道場も新徳館も、由緒ある尚賢館も現役だった。さらにそれから60年後の今日、このテーマに取り掛かった。ある一断面で全体を想像できるわけがないが、この方法でしか私は仕事ができない。
苦学生の名は土屋祝郎、7人の子を残して母が他界すると、貧しい木こりの父は9歳になったばかりの息子を寺に上げてしまった。そこは貧乏寺で労働力としてこき使われ折檻に耐えきれなくなって13歳のとき吹雪の中を脱出して象潟の蚶満寺に辿り着いて救われた。三高生になった土屋は学費が切れるころ縁あって釧路の弁護士夫妻の養子になった。以下、土屋祝郎『紅萌ゆる-昭和初年の青春-』(1978年 岩波新書)に依拠する。
新緑の初夏、「草木も眠る丑三つ時」[と書いてある]長さ八尺を越すような丸太ん棒を押し立てて裸に近い一団が喊声を挙げて寄宿舎「自由寮」を襲った。彼ら自身も寮の上級生である。寮歌を歌いながら音頭をとるように丸太ん棒を持ちあげては廊下にドスンどすんと打ち下ろすからたまらない、寮全体が鳴動して揺れる。百鬼夜行の如き集団は手に手に竹刀、バット、なければバケツ、やかん等の鳴り物を持って北寮から中寮へと部屋部屋をつむじ風のように荒らしてゆく...。もちろん寮生は一人として寝ておれない。
これはストームという先輩後輩のお近付きの伝統儀礼でどこにでも似た行事があるらしい。私が卒業した高校と大学の運動場でもファイア・ストームがあったようだが関心がなく実際に見たことはない。今も吉田寮vs熊野寮のストームと機動隊のガサ入れが年中行事のように実在しているようだ。
自由寮生の平和で自由奔放な三高生活を記録する上で欠かすことのできないのがほとんど日課のようになっている夕食後の回遊散歩である。彼らが三高コースと呼んでいた道順はこうだ。寮を出て医学部横を抜けて荒神橋の木橋を踏み鳴らして賀茂川を渡る。府立第一高女の寄宿舎前では顔をあげ寮歌の蛮声を一段と張り上げる。京都御所に突き当たって寺町通りを南下し新京極の繁華街を高歌放吟しながら通り抜け四条通りで左折し祇園の円山公園に至り一服する。そこに至る道々の土屋による滑らかで心地よい描写は古都京都の当時の風情を今に伝えているが、わずかに下に記す以外は割愛せざるをえなかった。
天下に知られた祇園の桜はほとんど朽ち果てて一本を残すのみである。「しかしその一本は四方に枝を張った枝垂桜で...かつての名妓を思わせるような風格をもって、夜目にも明らかな存在である」
土屋の一団は竜馬と慎太郎の銅像を建てる予定地の芝生で休息する。後続の集団をまじえて誰かが寮歌を歌いだすと人の輪が組まれる。他校の寮歌も飛び出す頃になると猥歌が出ることもある。
このあと元のグループに戻って、知恩院、平安神宮の門をくぐって北上し、ほぼ真四角の優に一里を越えるコースを終える。三高生による傍若無人のお騒がせ伝統は、たとえば四条大橋の上で綱引きをやるとかの京大生の振る舞いに、今も生きている。
1929年の6月末「突如、命令が下った。今春即位式を挙げたばかりの今上天皇が、大阪の城東練兵場において、関西の大学・高等学校の全生徒を招集して観閲式を挙行するというのである」 三高生も制服制帽に腰に帯革、脚にゲートルを巻き三八式歩兵銃をかついで分列行進に参加したが全校生の三分の一ほどしか参集しなかった。
しかも三高参加者の態度たるや直立不動の天皇に対する不敬、軍部に対する侮辱もいいところだった。銃の持ち方は出鱈目、行進はデモの行列のように「分裂」していた。政治的に無色(ということは伝統保守)の土屋が嘆息することしきりである。土屋は中学時代みっちり軍事教練を受けていた。
三高の軍事教練は形ばかりだった。野外演習はほとんどなかったが、有っても途中で抜けて松林の中で焚火をして喫煙したり空砲を放ったりしていた。教官は熱意も権威もなかった。生徒が分列行進ができず私語を平気でしていたのはそういう訓練を受けていなかったからである。それだけではない。エリート意識を裏返しした反権威主義も否めない。伝統的に反権威主義が濃い「京の都」の学生だからなおさらそうだった。
軍教教官と体育教官の関係は不明だが、体育教官は出欠点検も準備体操もないままクラスを二組に分けてラグビーをさせるだけだった。わが高校でも体育はもっぱらラグビーだったが専任教師が戦前の習慣に従っていたのだろうか。三高の銃器庫の銃は手入れされたことがなく赤さびを帯びていた。
三高生の行進がだらしなかったのは彼らがアカかったからではなく何も色付けされていなかったからである。ほかの高校、大学の色のスペクトルは分からない。忠君愛国の思想が徹底していて、麗しき龍顔を間近に拝して一同ただ恐懼感激した高校もあった。
土屋もそういう感激をすることを想像していたが何時間も直立不動の姿勢を崩さない天皇をまじかに見ているうちに修身教科書で形づくられた神々しい天皇像が次第に薄れていくのを感じた。耳にタコができるほど聞いた御稜威miitsuの意味がますます解らなくなった。かのキリストも生まれ故郷では予言者ではなくただの大工のせがれと見られていたから、土屋にとって近くで見る天皇の神々しさが薄れるのは自然の流れだと私は考える。
1929年入学生は、前年の3.15事件による大検挙、河上肇教授追放、学連・社研の非合法化、三高当局による処分があって、社研学生の働きかけを受ける機会がなく非政治的、ノンポリであった。彼らが入学試験会場に入る前に数人の学生に社研に入らないかと秘かに勧誘を受けたが、後に三高学園闘争のキャップになる土屋ですら社会科学と社研の意味が解らず、入学後担任に訊かれて何の疑いもなく勧誘者の名前を答えている。国家権力による左傾学生の治安維持法による弾圧に呼応して反動的生徒課が頭をもたげていた。
多くの学生は知る由もなかったが、国家権力は大学と高校の自治と自由をつぶして国家意志に従わせる方針を固めていた。前年文部省は大学の思想問題に対処するため学生課を新設した。高校では生徒課である。
三高当局は4月末、マルクス主義宣伝[非合法社研活動]等の理由で4名の無期停学処分を発表し、5月末さらに3名の無期停学と峠、長曾我部、石川ほか1名の退学を発表した。石川は受験時に土屋を勧誘しようとした学生だった。共産党関係という以外具体的な処分理由は示されなかった。報道禁止中だから理由の付けようもなかった。
4.16共産党事件がらみの処分だった。全国規模の大検挙があったが京都関係は学生19名労働者6名だった。起訴された者は京大生3名のみだった。検挙学生の中に三高生峠一夫たちが入っていて当局を驚かせた。高校生検挙は全国初だった。法網から漏れた学生を特高の別動隊となって掬い取る形の、三高の警察化が大学に先んじて始まった。
にわかに「処分反対」「自由を守れ」の張り紙、ビラが多くなり、クラス代表者会議がひんぱんに開かれ、ついに学生大会に発展した。土屋は所属していた野球部のマネージャーに全部の要求にバッテンを付けろと指示され憤慨して即退部した。学生大会は敗北に終わり処分の再審議は成らなかった。
暑中休暇を終えて学校に戻ってみると、藤田、津田、佐伯が「自主退学」していた。入学したばかりの退学である。4.16「思想事件に連座したもので、6月の学生大会にだけ関するものではないらしかった」 彼らは浮いていたのでいつしか忘れ去られた。
続いて人柄と才能で全寮生から敬愛を受けていた上級生の大井川が川端署に検挙され行方不明になった。文芸作品で教授をうならせ、主将として剣道でインターハイ優勝を飾る経歴の持ち主だった。「生徒課は学校のなかに設けられた警察であり、特高であった」 という土屋の分析は的を射ている。
文部省と官憲は三高生の非合法活動の根拠地は自由寮にあるとにらんだ。
1930年7月2日「ついに[新徳館で]学生大会が開かれた。全校生九百余のなかで七百名以上が参加した」 学生の要求は次のとおり_。
①自由寮に門限、出入り制限反対 ②正副代表任命制(自主管理撤廃)反対 ③クラス代表者会議の自主化 ④生徒課佐藤副主事の即時解職 ⑤保証教授制度(10人を1組とし思想善導保証教授に毎週1回訓話をさせる文部省令による新制度)撤廃
ビラの散布、貼付程度の違反で2月に社研の残党読書会員がほとんど処分されていたので、昨年の学生大会の二の舞が案じられたが、要求は圧倒的多数で可決された。寮問題が全校問題と理解された瞬間だった。
ただちにクラス代表者会議がストライキ指導部に切り替えられた。学生は運動場にクラスごとに集まり衆議一決、そのまま準備なしで自由寮を占拠し籠城した。そしてすべての門を閉鎖し全校占拠を実行した。学校側は教授会を開き1週間の休校を決定した。
土屋は半官の共済部の委員長として公費で兵站を組織した。仲間の活動家が寮の賄部と交渉して籠城中の食事を確保した。学校側のチフス、赤痢発生のデマには後に検挙されることになる安田徳太郎ドクターによる全籠城者健康診断で対処した。
真夏の不自由な着の身着のままの籠城である。1週間目の7月8日指導部は近くに家のある学生に対して着替えのための帰宅を許した。籠城学生は三分の一に減った。翌日学校側と警官隊が隙をついて突入、制圧した。
三高ストライキは完敗に終わった。除名26名、停学15名、謹慎393名。土屋は共済部前委員長塩見が土屋の分まで責任をかぶってくれて処分を免れた。
ここから無党派だった土屋の非合法活動が始まる。目標はクラス代表者会議の再建である。学校当局との交渉団体=学生自治会づくりに昼夜奔走した。アジトを変えてビラを作り夜間校舎に忍び込んで教室にビラを入れた。自治会の機関誌「自由の旗」を発行した。会議は大文字山等の山中でした。京大の共産主義青年同盟[共青]本田が接触して来て「赤旗」を渡された。3年時には共青同盟員、三高自治会キャップ、京都地方自治会協議員になっていた。
1931年満州事変前後、東北・北海道大飢饉農民救援運動が盛り上がり学生たちは自発的にプラカードを作り繁華街でカンパを募った。1932年明けには学年末テスト期間にもかかわらず三千数百円のカンパが集まった。軍事推進側がおこなった満州軍馬救援募金は三十余円だった。
特高は学生が多く登校する学年末を狙って活動家を逮捕した。1932年1月27日、転々と居場所を変えてアジトがわれていなかった土屋は、校長室に呼ばれてそこで手錠をかけられた。川端署武道場での拷問で睾丸が腫れ黒い血尿が出た。2度3度の拷問に耐えられずついにアジトを白状した。手製の謄写機以外何も証拠が出なかった。2月20日特高の車で生徒課応接室に運ばれ教授達8人に活動放棄を説得された。同時に検挙された5人は父兄に引き取られたが土屋は警察に戻され3月20日三高中途退学の処分をくらった。その日全協の指導で東京地下鉄がストに入り電車4両を占拠して籠城に入った。この年失業地獄のさなか組合活動は戦前のピークに達した。
拷問に屈した後悔で留置場で眠れぬ夜が続いていた時遠くの方から「紅萌ゆる」の寮歌が聞こえて来た。川端署は「三高コース」からはずれている。裏道から歌声が近づいて来るからには三高生の激励、抗議の歌声に違いない。土屋の悔し涙はいつしか感激の涙に変わった。留置場の窓枠まで手を伸ばして無事と感謝を伝えたいが足腰が立たなかった。
満州建国に至る高校生活と学生運動の一断面が読者に伝わっただろうか? 全国で、社研活動家が逮捕と放校で底をつき、リベラリスト活動家が指導し、学園の自治と学問の自由、学生処分問題、学費問題、学生消費組合・新聞部・弁論部・講演部、右翼的体育団体利用問題等を課題とする学生騒動が頻発した。学生運動というより学園闘争である。満州事変の1931年が学園闘争のピークだった。
「世間ではこの時期を学生騒動慢性時代と呼んでゐる」(菊川忠雄『学生社会運動史』) 決して三高だけが自由擁護に立ち上がったのではない。全国の高校、専門学校、大学の学生が学内問題で自治と自由を要求して苦闘した歴史を今に生きる後輩たちは掘り起こし誇りとすべきだ。
1932年中に京大、三高の左翼組織がほぼ壊滅した状態で権力側は一体となって1933年滝川事件を起こし大学の自治、学問、思想の自由を葬ることに成功した。
執筆を終わって、三高を対象にしたことで絞り過ぎて読者に当時の大学生、労働者の政治活動について偏ったイメージを抱かせはしないか、不安になった。社研時代と違って土屋が三高生だった時代には、共産青年同盟にかかわった大学生、労働者の運動は、赤色革命、ソヴィエト支持志向が強く、合法、非合法を問わず、枚挙に暇のない数の検挙者を出している。
1933年の検挙者は東大生362名、東大以外の学生200名以上である。内京大学生は54名である。たとえば滝川事件最中の6月、15名が検挙(京都共産党事件)され再建京大共青細胞(高木養根キャップ)は壊滅した。改訂治安維持法の「目的遂行のためにする行為」の暴威にさらされて1933年をもって非合法左翼組織は終焉を迎えた。
滝川事件の思想傾向にすこし触れておこう。発端は滝川京大教授の「『復活』にあらわれたトルストイの刑罰思想」と題する講演だった。トルストイだから報復罰ではなく教育罰を善しとする。それが折から思想弾圧中の司法、内務、文部省首脳部と蓑田胸喜らの原理日本社、政友会に滝川教授追放の口実を与えるきっかけとなった。
5月初め京大当局は30余名の学生を放校その他の処分に付している。6月6日の時計台下の大ホールで行われた全学学生大会には学生7000のうち5000余が結集し「大学の自治」「研究の自由」を叫んだ。6月12日、闘争の最中に、全学部学生代表者会議は早くも「京大問題の真相」なる詳細な経過報告書を発表した。それによると東北大、東大、京大の学生が「左右両翼に偏しない」自由擁護の連盟を結ぶ運びとなった。京大では左翼のビラまき事件(1件)に抗議声明を出した。東大では血盟団テロを起こしていた七生会が学園に対する政治的干渉を排撃する声明を出した。
7月、打ち続く全国規模の大検挙で京大は孤立させられ、残留した法学部教官は反動化し弾圧側にまわった。学生指導部は解散と教室使用禁止を申し渡され、検挙されてしまった。滝川事件で「自由の牙城京大」はあっけなく落城し、大正デモクラシー以来の我が国の自由主義の灯も消された。
その後土屋は釧路の義父母の許に帰り拷問で痛めつけられた身体を癒し1年後1933年2月20日に上京し日本労働組合全国協議会(略称=全協)城南地区のオルグになる。前年に岩田義道、上京の日に小林多喜二が拷問死しているから覚悟の上の入党だった。土屋の党活動についての記録を私は見ていない。
4回の検挙と服役、予防拘禁を経て、戦後北海道で国鉄を手始めに労組結成を指導した。
予防拘禁については著者の体験談『予防拘禁所』(1988年 晩聲社)を推薦する。史料価値も高い。日米開戦直前に軍国政府は治安維持法を再改定し予防拘禁制を追加した。危険視されたら誰彼なく令状なしで引っ張られ拘置所に放置され、2年ごとの更新でいつまでも拘束される。
二人の特高が土屋を連れに来た時、病臥の身の義母は「あなたがたのちょっとというのは長くて長くて待ちきれるものではありません」と抵抗した。日米開戦の3日後義母は布団の中で冷たくなっていた。死床の下に20通近い書きさしの遺書があった。毎日書いたのであろう。どれにも上五のない同じ一句が綴られていた。「・・・・・早く帰れよ我が家に」 上五は、呼びかけだから「祝郎[しゅくろう]さん」以外は考えられないが、それでは音余りになる。母子の胸中は察して余りある....。
カヴァー写真は「獄中記」の断片(市立釧路図書館所蔵)
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