自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

62年ぶりの同窓会=「友だち」会/遊び友達今いずこ

2018-06-01 | 体験>知識

わたしは現役時代同窓会に出なかった。出たくても多忙で出られなかった。2年前に引退してから望郷の歌をネットで探して口ずさんだりして、同窓会を待望するように変わった。
1週間前に母校屏山中学9期生の喜寿同窓会が久留米でありワクワクしながら参加した。
わが故郷では同期生は互いのことを「友だち」という。以下に出て来る「友達」は同期生のことである。110名中30名が参加した。顔に見覚えのある者、名前に記憶のある者、まったく記憶を呼び覚ませない者がほとんどで、遊び友達、一緒に学校に行き帰りした友達は一人もいなかった。若い頃賀状を交換していた親友ふたりは消息不明だった。
当時は運動会で部落対抗リレーがあるほどに内の友達は行動を共にすることが多かった。男女合わせて十数人いたはずのの友達が誰も参加していなかった。物故と闘病の二人をのぞいて消息を知ることができなかった。
物故者に黙祷をささげたあと懇談になった。初参加のわたしは指名されてマイクの前に立った。東京から参加した夫婦と女性ひとりをのぞいて、みんなは今も故郷周辺で生活していて互いに暮らしの中身を気軽に語ることができるが、私は自分がどう生きて来たか短い時間で語る気にはなれなかった。47年間少年サッカーの指導をしたことだけ言ってあとは誰かの為になるかも知れないという思いで闘病体験を語って終わった。
懇談するにあたって私には誰かと共通の想い出があまりなかった。皆は今に続く長い過去を語り、私はむかしの数少ない記憶の断片をいくつか口にするだけだった。私の家に遊びに来たことがあると何人もが言ってくれたが私はまったく想いだせなかった。それに30人の内だれ一人として今現在草野町に住んでいなかった。わたしの故郷が遠のいていく気がした。望郷の念に大きな温度差があったことを思い知らされた。最後に皆で兎追いしで始まる『故郷』を歌った。私は皆で肩を組んで『誰か故郷を想わざる』も歌いたかったが希望は叶わなかった。
突然、〇〇です、憶えていますか、と話しかけられた。「あっ、目元に憶えが・・・。私の初恋の人」 出席していないと思っていたので年甲斐もなく思わず空気を読めない対応をしてしまった。もう一人の女性が「えっ?!」と声を発した。笑い飛ばしてお終いにすべき話題が凍結されてしまった。あとは当たり障りのない話になった。私の家に来たことがある、母が当時珍しかったコーヒーを淹れてくれた、と想い出を話してくれたが、わたしにはまったく記憶がなかった。
「友だち」との60何年ぶりかの邂逅で語り合いたいことを語れなかったことは時間がたつにつれて後悔の念となって私の思念の片隅を占めるようになった。腹ふくれる心地がした。吐き出してすっきりするためにこの稿を書くことを今朝思い付いた。
想い出だけが私の故郷だったのに、だれともそれを語れなかった。次の日、思い出を託す風物はないか、草野町の紅桃林を訪ねた。駅舎は立派になっていたが無人駅だった。中学はとうの昔に火事で炎上していた。我が家はまだ残っていて小柳姓の住人がいた。廃屋になってなくてよかった。屏風山脈から流れ来る「門辺の小川のささやき」は歌のとおりだった。ようやく思い出が次から次とよみがえったが語り合えるひとは寝たきりの老いた母しかいない。写真に収めて老母を喜ばすことにした。


先祖の墓碑を確認して手を合わせるつもりで、子供のころの記憶をたどってそこに行ってみた。当主は不在で庭にあるはずの石碑はなかった。近所の同姓の家は現代風に建て替わって別姓に替わっていた。旧日田街道だった道路は整備され、風景が新興住宅地のように一変していたが、土曜日の昼前どの家も留守で石碑の在り処を訊くことはできなかった。
昼食のために当主の弘美さんが柿の摘果作業から帰って来て柿畑の真ん中にある彼の先祖の墓地に案内してくれた。大きな三段の台座の上にかつて私が見た石碑が陳座していた。碑文が刻んであるはずだが、風化でできた石の皺なのか文字の痕跡なのか不明で、読みとる手がかりは遺っていなかった。


弘美さんは古い書付もなく先祖の伝承もあまり御存じなかった。わたしのほうが詳しいぐらいだ。先祖は領主草野家の刀鍛冶で代々同姓〇右衛門を名乗っていたことが周りの古い墓石の銘から読み取れる。宗右衛門、三右衛門の名があった。
草野家第19代城主家清は秀吉の島津征伐の折和睦成立後に謀殺された。発心城は焼け落ち、わが先祖は鍛冶屋、百姓として子孫を遺した。遠くは熊本県荒尾にも同姓がいたが、今は旧三井郡の4地区の子孫が当番で墓掃除をし、墓を建立した1957年4月29日以来毎年同じ日に菩提寺である専念寺から坊さんを呼んで先祖供養を催しているそうだ。台座に刻まれた建立者数十名の中に今は亡き父の名があって慰められた。
「故郷は遠くにありて想うもの」をあらためて実感させられた旅だった。
  

 



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