数年前にこのブログで大正は現代の母型であるという観点から大正デモクラシー、社会運動の勃興、大正ルネサンスを論じた。暗い閉塞の時代から抜け出した明るさのなかに自由な生命の躍動とモダンな生活の放縦が垣間見られた。それは戦後期昭和の母型を想わせる。
自分史で一息入れた後、大正の戦争「シベリア出兵」を投稿した。宣戦布告のない、兵士にとってすら意味不明の、市民に積極的に支持されていない戦争であったが、戦争指導と現地の様相は昭和前期の日中戦争のそれにオーヴァーラップする。昭和の戦争はよく15年戦争と表現されるが、実際は、同一の、ときには代わり映えのしない指導者によって、ずるずると反省もなく大正時代から30年間続けられた長期戦争の後半部だった。
これだけでは大正時代を大まかにもカヴァーできない。大正デモクラシーとシベリア戦争は相反する事象で、それゆえにシベリア戦争後に起こる両者の相克と反動を特別に論じなければ昭和の軍国主義と戦争、ひいては現今の戦争に傾く世相を理解することはできない。扱う期間は大正の最後の三分の一1922~1926年である。
1922年、日本軍はシベリアから撤兵した。その前年二つの暗殺事件があった。単独テロであったが北一輝の日本改造法案と響きあうかのような決起だった。
1921年9月28日、安田財閥創始者安田善次郎が大磯別邸に訪ねて来た朝日平吾(31歳)に刺殺された。斬奸状に曰く「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ」
犯人は大陸浪人上がりの政治ゴロだった。貧民救済、「労働ホテル」建設を口実に財閥に寄付を強要していた。
大戦景気は財閥を増殖し新たな貧困を産み出し貧富の格差を拡げた。そこに戦後恐慌による不景気がかぶさった。革新、改造が左右を問わず時代のキーワードになったゆえんの一つである。
現場で自殺した朝日の葬儀は労働組合員も加わって盛大になった。37日後の原敬暗殺を誘発したと云われる。
11月4日、原敬首相が東京駅頭で刺殺された。暗殺犯中岡艮一(18歳)は山手線大塚駅の転轍手。尼港事件で政治問題に目覚めたと供述した。やはり反財閥、普通選挙支持の改造トレンド。
中岡は異例のスピード裁判で無期懲役となったが10年で出所した。調書、公判記録等が亡いのか真相究明がなされていない。
原敬の平民宰相の看板は色あせていたと考えられる。一国の首相が暗殺された事件の決着にしては裁判が軽い。まるで首相が間接的に裁かれているかの様だ。
1922年・・・
2月23日、普通選挙請願の民衆、警官隊と衝突。
6月、ワシントン海軍軍縮会議、戦艦空母の保有比率を英5:米5:日3に決定。軍縮で戦艦7隻建造中止。造船不況で解雇、失業、争議。
8月、陸軍、約5個師団を縮減。現役将校の失業対策として中学校以上に軍事教練導入浮上。したたかな陸軍、転んでもただでは起きぬ!
この年、日本共産党非合法結成、赤化防止団結成。
民権と国権、両方に極端主義イクストリーミズムの兆し。
1923年・・・
6月5日早朝、警視庁(高等課長正力松太郎指揮)による共産党幹部一斉検挙。治安警察法容疑で29名起訴。
9月1日正午、関東大震災が発生し東京、神奈川に死者・行方不明 10万5千余人、家屋滅失数十万戸という空前絶後の災厄をもたらした。
戒厳令と治安維持令が発せられた。ともに天皇の勅令である。軍と警察が治安維持と被災者救済にあたった。
9月3・4日、亀戸署は、労働争議が熾烈な管内でかねてから目を付けていた活動家*川合義虎、平澤計七ら10名を連行し習志野連隊に引き渡した。
*1919.10 警保局、労働運動内情探索(スパイ活動)を指示。平沢計七には常に尾行がついていた。計七はまた争議指導者として2度亀戸署に検束されたことがあった。
以下木村愛二氏*の論考に便乗させていただく。電網木村書店「関東大震災に便乗した治安対策」からのコピペである。
亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。
社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣*」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。
「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」
つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。
*世間は広くて狭い。木村愛二氏は当ブログ「樺美智子さん死の真相」の映像に瀕死の樺さんを抱えるキャップを被った青年として写っている。石光真臣は真清の弟である。
砂町の自警団4人の殺害についても木村氏による記述に従う。
この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。
ここからは私見である。真相不明の殺人である。自警団員言動の元ネタは古森署長の報告書。騒いだから鎮圧のため軍に引き渡した、という言い訳は、計七達の場合も同様である。
城東区(現江東区)は北から亀戸、大島、砂の3町からなる。言わずと知れた南葛魂の街である。人情と義侠心に厚く、権力者に媚びへつらったり怖れたりしない反骨精神から砂町のお兄さんは何か「曲がったこと」をとがめて警察ともめたのではないか。今後の課題として保留しておく。
計七達社会主義者、共産主義者の殺害は、権力側がその危険度に敏感に反応した結果だと思う。南葛は「赤化」労働運動の震源地と見られていた。江東区の労働団体は、殺された10人の内9人までが20代の労働者であることから分かるように、ひ弱なインテリが逃げ出してしまったほどに戦闘性が際立っていた。国家権力の危機意識は相当なもので末端官憲まで浸透していた。
計七ら10名は惨殺され闇に葬られた。ようやく10月10日以降に当局の発表があり、軍の武器使用は戒厳令下適正だったとされた。犠牲者遺骨の回収と判別を不可能にする目的で警察と憲兵は荒川放水路四つ木橋下手の堤防下から朝鮮人百余人の遺骨を掘り起こしてどこかヘ搬送した。計七たちの遺骨もそれに混じっているのでどうにもならないとされた。
文末に平澤計七の斬首遺体の写真を掲載する。惨たらしいので不用意にスクロールしないでほしい。
川合義虎(旋盤工、21歳)は結成されたばかりの日本共産青年同盟の初代委員長で「南葛労働会」の若い指導者だった。日本社会主義同盟に関わって検挙歴あり。平澤計七は「準労働者組合」の組織者である。元は友愛会城東支部(代表平澤計七)で一緒だったが当時は分裂して対立関係にあった。川合義虎は計七が追求していた労働組合の総連合設立に反対しなかった節がある。ボルシェヴィキとアナキストの対立で総連合は流産した。
平澤計七は、元鍛冶工で東京府下の有数の工場街である亀戸と大島に「労働者の共生空間」を創った。労働夜学校、労働演劇、生協、労働金庫の先駆者である。八面六臂の活躍をした大正ルネサンスの巨人と云えよう。
藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』(1996年)
そこに至るまでの経歴をたどってみよう。弁と筆が立つ計七は友愛会の本部書記、出版部長を務め、争議指導に文芸活動に、と東奔西走した。
友愛会の幹部を大学卒が占めるようになり同時に若手労働者の指導者(渡辺政之輔、山本懸藏)が育って来ると、友愛会は創始者鈴木文治排斥と階級闘争への傾斜を強めて行った。やがて名称も労働総同盟に改称した。
改革派は計七が争議処理たとえばボス交渉等で労働者に不利な妥結をしたと弾劾決議案を提出した。
敗れた計七は友愛会を脱退して城東連合会のほとんどの会員300余名を引き連れて1920年10月「純労働者組合」を結成し大島労働会館に事務所を構えた。
綱領「資本主義に代わる総ての人類に平等なる幸福を来たらしむるの新社会の建設を労働者の団結の力をもってなすこと」「また地方自治を重んじ人類愛をもって総てに対すること」
計七は、緩やかで地域的な革新の道を歩もうとしたが、その前に皇国主義とマルクス・レーニン主義の新旧思想と権力、権威が立ちはだかって道を断ち切った。
1922年、計七は、総同盟系と非総同盟系の統一行動実現に尽力した。弁護士山崎今朝弥経営、平澤計七編集の労働界唯一の新聞『労働週報』がセンターとなって、治安維持法の前駆である「過激社会運動取締法案」反対運動の共闘組織「全国同盟」が結成された。
1923年2月11日、全国主要都市で演説会、デモが行われ、東京では106人が検挙された。同法案は、震災を挟んで、「治安維持法案」として復活した。
平澤計七 遺体写真 享年34歳
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