自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

尼港事件秘録『アムールのささやき』/遅すぎた日本の反省

2017-04-04 | 体験>知識

♪ はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  鬼ン池の久助どんの 連れんこらるばい
      森繁久弥  島原子守唄  https://www.youtube.com/watch=g6D5Yk8MkCI

鬼池村の久助どんは実在の人物ではない。でも鬼が連れに来る、怖い、と幼い子は感じるにちがいない。
尼港パルチザンの暴威が国中に伝わると、天草地方では「パルチザンが来るゾ」と言えば泣く子もだまった、と表題の著者石塚経二は書いている。以下の記述も『アムールのささやき』に取材した。
島原の子守唄発祥の地・口之津港の対岸に鬼池港[現在]がある。ここ[手野]の出身者池田清太・ユキ夫妻と鬼池出身の池田団造・モカ夫婦が明治28年頃女性を連れて尼港に渡り開業したのが尼港水商売の草分けといわれている。時折り帰郷して女性を募集していったが、その羽振りのよい暮らしぶりはの評判になって、つてを求めて出稼ぎする者が増して行った。ちなみに両夫妻とも殉難者である。 
北のからゆきさんの話である。これまでの記事で、満州、シベリアの都市、駐屯地、奥地の鉄道建設現場、鉱山等、日本人の居る所には、日本人の男性の数を上回る女性がいることに気付かれたことだろう。尼港でも同じだった。大きな「日本遊郭」があった。人口が激減する厳冬期調査による日本人娼妓数は86人(1919年1月)であった。
居留民犠牲者395名の内身元不明は80名。身元判明者の過半は九州出身で、熊本県116,長崎県79,なかでも熊本天草出身者が突出して多い。
上記最初の引率者が見知らぬ女衒(人買い)ではなく島内身近の夫婦だったことが一番の理由だろう。鎖国中長崎港出島がオランダと清国に、幕末には長崎港稲佐が露国に、開港していた事情もまた大きな理由に違いない。浦潮艦隊の休息地・長崎港ではロシア村ができ「稲佐遊郭」が大繁盛した。

男も女も家のために出稼ぎ感覚で移住したと思う。家族を守るために犠牲になることは、国のために出兵することと同様一面美徳(忠孝の美徳)だった。それは男も女も同様だった。「おんなの仕事」と取材をうけた古老たちは話している。多面、誘拐あるいは甘言で騙された娘がいるのもまた紛れもない事実である。森崎和江『からゆきさん』(1976)
石塚経二は村別に犠牲者の名簿を地図を付けて掲載した。鬼池と手野出身者が各26名でダントツに多かった。遺族たちは1937年手野村に尼港事件殉難碑を建てた。側面に恩人島田元太郎頌徳記を掲げた。以後毎年3月12日に慰霊祭が行われている。
遺族が恩人として感謝する島田元太郎とは何者か?
彼には二つの顔がある。まずは、尼港日本人の先駆者でサケ・マス、毛皮、砂金、用具・用品等の商業と廻漕業、製材業、鉄工業で財を成した島田商会の社主であり、加えて居留民会長で「尼港の帝王」とよばれた顔である。島田紙幣(兌換商品券)がロシア紙幣より価値があったことで彼の経済力の大きさがわかる。

  出典 土井全二郎『西伯利亜出兵物語』(2014)

たまたま上京中で難を逃れた島田はその後、遺族代表として10数年間補償救済運動に奔走した。そして3度にわたり救済金の交付を受けた。政府は被害者の財産調査が不可能なため職業別でランク付けして算定額を決めた。最多職業の「妾、娼妓、酌婦」は最低ランクにされた。しかも在留年限による割増額の対象外だった。島田は出身地長崎県国見町に島田家之墓の横に自費で尼港事変殉難者碑を建立した。
島田の第2の顔は「沿海州のキング」「無冠の領事」とよばれる顔である。ロシア語、中国語に通じ居留民はもちろん露人、華人に渡りをつけられるので陸海軍、領事館、実業家に重宝がられた。とくに参謀本部との関係が濃密でさながら沿海州代理店である。以下、高橋治『派兵』(1973)に依拠する。 
島田は田中参謀次長に手紙で献策した。要約するとそれは、ロシア人各階層世論の傾向と仏米英の暗躍に関するホットな情報に基づいて出兵の機が熟していることを強調し、かれら連合国に後れを取るなと警告を発した内容だった。
「小生は当地の人心を鼓舞して自治宣言を志望する迄に機運を導きたれば、小生の任務は之れにて尽きたるものと存候」あとは「当路者の決心のみ」と諜者が奉行に下駄を預けるがごとき対等の物言いが小気味よく響く。そして候補地として浦潮とニコリスクと武市をあげた。

島田はその武市に中島正武参謀本部第二部長の随員の一人、日露協会幹部を名乗って乗り込んだ。仕事は参謀本部の民間スタッフとして武市に謀略組織を立ち上げる手伝いだった。そして、その流れで設置される石光機関に久原鉱業の鳥井肇三を推薦した。島田は武市と尼港の金鉱山にかかわる久原房之介[日立、日産、JXの祖]と親交があった。また義勇軍をつくるよう武市居留民会に働きかけた。
石光は思想信条を異にしたためか一言も島田に言及していない。島田は、武市と尼港の居留民義勇軍結成に関わったプロモーターである。同じ先制奇襲攻撃でありながら武市で起こらなかったことが尼港で起こった。その違いは
一考の価値がある。

さて『アムールのささやき』に話題を移そう。
著者の石塚経二は、1919年生まれ、第2次世界大戦に従軍。1972年刊の本書を「互いの誤解」によって起こった悲劇の日ソ両国の英霊に捧げ二度と過ちを繰り返さないことを願っている。反省は主題ではなく「ささやき」にすぎないが、相対主義であり含蓄を感得できる。
「パルチザンとは愛国者という意味である」
当時敵方にも言い分があるという見方は石光真清等に限られて極めてまれである。日本中が一部知識人を除いて鬼畜ロシアの声一色に染まった。「やがてそれらは対ソビエト恐怖感、対支那反感にも変わっていった」
「三年後の関東大震災の混乱のとき、発生した甘粕大尉事件、消防団や民衆による朝鮮人暴行事件等は、これらの影響があったこととして注意を要する所である」
恐露病は幕末に発生するが日本はそれを自衛圏を拡げることで癒そうとした。日清戦争で朝鮮を獲り、朝鮮を守るために満州の露西亜軍を叩いた。日露戦争に勝利すると鮮満が自衛圏になり、それを護るためにあらたにザバイカル州とアムール州と沿海州及びそこを横断する鉄道沿線に自衛圏を拡大する必要が生じ、そこに出兵してみたが沿海州まで押し戻された。2年近く沿海州を防波堤にするべく粘ったが、結果は負け戦で、かろうじて北樺太(サハリン)を保障占領することで面目を保った。
これをソ連側から観たら満州・朝鮮・サハリン自衛圏の回復、拡大ということになり、戦争目的となる。日本の恐露病は治癒されることがなくロシアが始終仮想敵国でありつづけた。

帝国陸海軍は前例のない長期「出兵」の失敗を反省しなかった。
①緩衝国、傀儡政府の樹立構想、挫折⇒満州建国と汪兆銘傀儡政権の擁立で再挑戦
先に観た沿海州武装解除の対象は、蝟集するパルチザンだけではなく、寝返りつつあるエスエル政権と白軍だった。なぜ自分たちが・・・と驚き、不思議そうに首をかしげる彼らの表情が記録にもあるし想像もできる。
ロシア人の人心が離れていく根本の原因は占領軍のおごりと無神経であった。
既出松尾日記から一、二例を拾い上げる。村を焼き払ったとき食料と貴重品を奪い、貴重品を戦利記念品として故郷に軍事郵便で送った。貴重品の所有者は有産知識階級であろう。村を占領した日本軍は村人全員に土下座の見送りを強いた。かかる屈辱で愛国心に目覚めない有産知識階級はまれであろう。
 
朝日新聞 2017.3.29 

②謀略と外交の二途戦略、参謀本部(現地)暴走と統帥権悪用⇒軍国主義国家へ
アムール州討伐での村落焼尽、沿海州「武装解除」に観られる如く、陸軍大臣と政府はそこまでは考えていなかった。現地が独断決行して政府が既成事実を追認した。師(いくさ)のことは天皇の大権である、統帥権を干犯する気か、と現地は本国首脳部に開き直った。
日本はシヴィリアン-コントロールがまったく利かない国体だった。
③利害関係が深い列強とくに米国による牽制が不可避⇒日本の孤立、日米戦争
欧州が戦場の世界大戦で英仏独露が疲弊する中、漁夫の利で焼け太りした日米は国力を高め両国だけ元気があった。シベリアでも互いに相手の動向に敏感で自国が不利にならないように自国が有利になるように牽制しあった。互いに相手国を仮想敵国の筆頭にあげるようになる。ただ日本は米国の力を甘く見て対米外交を戦略化できなかった。
いち早く日米戦争を予見して戦略化したレーニン政府は戦闘を避けて時間を稼ぎシベリア戦争でまともに戦うことなく日本に勝利した。
蒋介石政府もまた大陸の奥深く退避して持久戦に持ち込み、米国を日中戦争の切り札にする戦略で日本に勝った。
後知恵だが、シベリア戦争は日中戦争の原型マトリックスである。反省のない日本が過ちを繰り返すことになる。




 

 

 

 



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