自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

グアラニー族布教区の興亡/大ミッション地方とバンデイランテ

2024-07-26 | 移動・植民・移民・移住


再移動、再建、新設と変遷を重ねたこれらの教化村は「1720年代の時点で、ミッションの総数は30に達し、人口も12万1168人を数え、その繁栄ぶりは遠くヨーロッパへも伝わった。*

*田島久蔵・武田和久編集『パラグアイを知るための50章』  配置図出典は『幻の帝国』

グアイラ地方から移動後のスペイン人町ビリャ・リカもロレトとサン・イグナシオ・ミニも移住先を確認できる力作画像である。スペイン人町が三つしかないことが、イエズス会ミッション村の自立性を物語っている。イエズス会ユートピアは確かに存在したのだ。

まずは、その後のバンデイランテの爪痕をたどってみよう。
上掲図で、パラグアイ北部にイエズス会ミッション村が無いのが目立つ。そこイタティン地方にはグアイラ地方から撤退したイエズス会外国人会士4人が創った200から400家族からなる四つの教化村があった。
1648年末バンデイランテにより三つの村が破壊された。布教長スエルクが陣頭に立って守り通した一村は、バンデイランテとエンコメンデロ双方の魔手から逃れるため、点々と移動をつづけ、10年後の1659年、南部にサンタマリア・デ・ラ・フェとサンティアゴを築き今に至っている。上掲図のパラグアイ側ミッション「パラナ右岸地方」にその名がある。

イエズス会のパラグアイ管区教化地はパラナ川とウルグアイ川によって三つの地方に分かれる。パラナ川右岸地方(現パラグアイ)とパラナ川左岸地方(現アルゼンチン、ミシオネス州)とタペ地方(現ブラジル、リオグランデ・ド・スル州)である。地図では一目瞭然分かれているが、布教は一体として行われた。したがって、以後ひっくるめて大ミッション地方と呼ぶことにする。大ミッション地方布教の最大の貢献者は二人のメスティソ(混血)神父、ロケとモントヤである。

ウルグアイ川の東南部のタペ地方はグアラニー語で大きな村の意味のとおり人口が多かった。大西洋に流れ出る川が多く水に恵まれた土地だが、地形が険しく先住民(勇猛で知られる狩と漁の遊動民も居た)の抵抗も激しかった。ミッション地方のパイオニア、ロケ・ゴンサレスの主導で教化村は13村にまで発展していた。その間ロケは一部のカケに恨まれて殉教した。
イエズス会管区長はバンデイランテ襲来に備えて、ブエノスアイレス司令官に少数の銃の所持を求めたが拒否された。管区長は許可を得ないまま銃を購入し、元兵士であった修道士に銃の扱い方、戦闘訓練を開始させた。
1636年末、予期した通りバンデイランテの大部隊がタペを襲った。
かのモントヤが指揮をとったが戦力差は如何ともしがたかった。教化村はじりじりとウルグアイ河畔に追い詰められていった。13あった教化村の名は最終的には入れ替わって上掲図では一つしかない。サン・ミゲル(世界遺産「グアラニーのイエズス会伝道所群」の一つ)である。
モントヤはアスンシオン、ブエノスアイレスの両司令官に援軍を求めたが黙殺された。モントヤは以後現地を離れて、スペイン王室、ペルー副王に長年陳情し続けた。
その間グアラニー語の辞典を作り布教手引きを発行した。王室にパラグアイの布教活動を広く知ってもらうために書いた『パラグアイの精神的征服』は、グアラニーミッションの旗手としてのモントヤの名を不動のものにした、と伊藤慈子さんは綴っている。
1639年1月、モントヤたちの努力が実って国庫から得た150丁の鉄砲と弾薬に勇気百倍のグアラニー軍がアサバ・グアスの戦いでバンデイランテを初めて打ち破った。しかし、布教長アルファロ(法令発布者の息子)は戦死した。捕虜になった2000のマメルーコと17人のパウリスタは罰せられることなく釈放された。教化村には罰する権限がなかったのである。

1641年3月、バンデイランテの大部隊、450人のパウリスタと2500人のマメルーコが250艘の船と多数のカヌーで 、ウルグアイ川を下ってきた。
アサバ・グアスの戦い以来、ミッションの村々は厳戒態勢を敷き、戦備を整えていた。秘かに銃を購入し、二人のカケに陸軍と水軍を分担させた。事前に来襲予報をつかんで川の上流に見張りを配置した。総指揮は元兵士の修道士がとった。黒澤明監督の名作「七人の侍」はフィクションだが文明社会からもっとも遠い、隔絶したミッション地方で類似の現実ががあったことに心が弾む思いをした。
ムボロレー河畔を戦場に選んで待ち伏せして、差し掛かった船団に不意撃ちを加えた。あわただしく上陸して隊列を整えるバンデイランテを4000のグアラニー部隊が包囲した。八日間のにらみ合いの末、バンデイランテは和平を申し出た。拒否されて夜陰に乗じて血路を開いた。翌日の昼すぎまで続いた激しい戦闘でバンデイランテの損失は2000人に達し、600艘のカヌーと400丁の銃が残された。
ムボロレー教化村はウルグアイ川西岸にある。グアラニー軍の勝利は期せずして西岸がスペイン領(今日のアルゼンチン領)になる根拠となった。ムボロレーの戦いの後、グアラニーの軍事組織は次第にアスンシオンとブエノスアイレスの軍司令官に頼られる存在になっていく。勝利の報に感動した国王は翌年、グアラニー教化村を領土防衛に利用する計画を発案した(武田和久論文 takeda2010.pdf)。
バンデイランテの矛先も大ミッション地方をあきらめて西北方面、ラ・プラタ湾方面に方向転換した。グアラニーの民兵がその方面の領有権防衛のためにその都度動員された。スペイン国王の保護に対する見返りである。

この間、イエズス会教化村は、その特権と繁栄をねたむアスンシオンのパラグアイ管区司教カルデナス(フランシスコ会士*)とエンコミエンデーロ、市会議員と市民に長年中傷、告発され続けていた。暴動になった例をあげる。
* アスンシオン周辺のグアラニーはフランシスコ会教化村に属しエンコミエンダ制に服していた。
上掲イタティン地方が1641年末からバンデイランテに侵寇されたとき、アスンシオンは珍しく「援軍」を送った。バンデイランテが住民を捕らえて去ったあと、スペイン人は唯一残った村に入るやいなやイエズス会士に替えて在俗教会の神父を後釜に据え、住民をエンコミエンデーロに分配しようとした。グアラニーたちは逃げ隠れしたり、派遣されてきた役人や神父に食べ物を供給することを拒んだりして、スペイン人たちを撤退させた。
折しもアスンシオンではパラグアイ総督が死亡し、それを奇貨としてカルデナス司教は全市民の集会を招集して拍手で己を総督に選ばせた。聖俗両権を握ったカルデナスに扇動された市民は暴徒と化し、異端と目された同市のイエズス学院=コレジオを襲い内部を焼き払い、会士を追放した。司教が「有る」と宣伝していた金銀は探したがなかった。学院の牧場から牛や羊を残らず奪い去った。
カルデナスの暴挙と勝手な統治は王室の怒りを買い、新司令官が大ミッション地方から招集したグアラニー・ミリシア(民兵)3000人によって鎮圧された。

次回はイエズス会教化村の150年間の繁栄と終焉を対象とする。



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