まるみのあっちこっち巡り

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世界遺産 韮山反射炉

2022-11-16 00:13:32 | お出かけ 中部



幕末期における近代製鉄技術導入への
挑戦を物語る韮山反射炉の現在に至るまでの
保存の取り組みなどについてガイダンスセンターで、
映像や展示物で学ぶことができます。







1922年3月には国の史跡に指定されています。

伊豆長岡には何度か訪れており、
20代の時にはその存在を認識していたのに
興味がわかなかった場所に世界遺産に認定されると
見ておかなくては思うようになりました。







観覧料500円を支払いガイダンスセンターへ。
建築空間を活かした迫力ある映像で、
歴史や価値を知ることができます。







1840年のアヘン戦争を契機に、日本では列強諸国に
対抗するため軍事力の強化が大きな課題となり、
薩摩や佐賀などの各藩では、
西洋の先進的な技術を導入しました。

幕府は、韮山代官江川英龍をはじめとする
蘭学に通じた官僚たちにより、
近代的な軍事技術や制度の導入が図られ始め、
反射炉は、鉄製大砲を鋳造するために必要でした。







韮山反射炉は、稼働を終えたのち
150年以上にわたり、地域住民の理解や協力の下、
適切な補修・修理工事を重ねながら
今日まで保存されてきました。







2015年7月8日、世界遺産に登録。







反射炉は、17世紀から18世紀にかけて
ヨーロッパで発達した金属を溶かし、
大砲などを鋳造するための溶解炉。

反射炉本体は、連双2基(4炉)、
高さは約15.7m。







石炭などを燃料として発生させた熱や炎を
炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、
鋳物鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温に。

その高温に耐えられる良質の煉瓦は現在の
静岡県河津町で生産されました。







韮山反射炉は、現存する反射炉本体のみで
完結したのではなく、関連する様々な建物群や
隣接する河川からなる大砲製造工場としての
産業システムを形成していました。







当初は下田港近くに着工、基礎工事が行われていたものの
1854年3月、下田に入港していたペリー艦隊の水平が
敷地内に侵入する事件が起きたために、
急遽韮山の地に建設が変更となったそうです。

なぜ韮山にという長年の私の疑問も明らかに。
銅像は韮山代官江川英龍氏。

静岡県伊豆の国市中268

2022.10.30


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