http://www.youtube.com/watch?v=GHWw0g9zwv0
ピアノはだいたい腰かけて弾くものだが、弾いている途中で立ち上がる人もいる。
ジョージア オン マイ マインドを弾いているキース・ジャレットがそれだった。
満員のトイレの前で地団太を踏んでいるような、姿勢というより姿態なのだが、それには立って弾かなければならない突き詰めたものが感じられる。
会議や集会でものを言うとき、立ち上がるか、座ったままか、それは場の空気と気合の入れ方による。
発言の場所が決めてあって、そこに入れ代わり立ち代わり発言者が現れて何かを言う。
大昔の拡声装置のない時代の方式を、いまだにそのまま変えないのが議会の様式になっている。あのやり方は、施行規則か何かで決めてあって、そのとおりにしなければ議会として認められないのだろうか。
それにしては、ときどき行儀の悪いのも出てきて、運動会の棒倒しに似た光景になるのがまた奇妙なのだが。
決まった場所で立ってものを言う、そのほうがしっかりしたもの言いができることは確かだが、いま先生方がやっていることには、もの言いなどと言えたものでないのもある。
ふたことみこと、ぼそぼそ言っては行ったり来たり、時間を稼いでいるつもりか知れないが、税金の空費に間違いない。背を丸めて原稿を早口で読み飛ばすかと思えば、うつろな目をちろちろ動かしながらあらぬことを口走る。
立って話すのではなく、立たされて口ごもるような、姿勢以前の格好の悪さをわざわざTVで放送し、世界中にばらまく。
姿勢が、すがた、いきおいを表さなくなっている。これは弛背という字に入れ替えないと、文字が実態の象徴であることから遠ざかってしまうのではないか。
借りものの姿勢で机をたたいただけでは、人の心を打つことはできないのだ。