人の口から発せられた声は、しゃべる、話をする、ものを言う、この三態だけをとらえても、みな違う効果をもたらす。
しゃべるは、声が出ているだけで意味をもっていない。TV放送にあらわれる声は、意味がありそうに思っても、ほとんどこれに属する。
話になると、いくらか意味を持ってくる。出すためだけの声でなく、何か伝えようとする力が、音波に乗せて意味を運んでくる。
ものを言うになると、意味から、聞く人の心を動かす強いエネルギーが出てくる。
もとマスコミと呼ばれ、コミュニケーション機能の集合体のように言われていたものも、いちばん肝心なコミュニケーションの役割を果たしてないと気づいたとき、怜悧な彼らはその名を放棄し、メディアという呼び名に切り換えた。
メディアなら、名前どおり中途半端であろうとどうであろうと、メディウムすなわち媒介するものの複数形だから、たとえ偽名であっても情報という名をつけたなにかが行き交ってさえいれば、その行為がウソではなくなる。看板どおりなのである。
一度に見せる人数が増えれば見る人は喜ぶ。
雑多な音でも一度に八方から聞こえる感じがすれば人びとは興奮する。内容は無関係、見る人は自分の涙より画面で見る涙をたたえる。大臣までが、泣き面を見せるどころか、泣く声ではなく鳴き声を出して聞かせる。
しゃべる、話をする、ものを言う、この割合がどのくらいなのかと、考えても仕方のないことであるのに、ふと思い出したのが正規分布のあの曲線だ。
無理に関係があると見る必要はないのだが、あの曲線が、「確からしさ」などという体裁のよい言葉を使いながら、不確かさの評価に使われるものであることを考えると、メディアの正体とどこか通じるものがありそうな気がするのである。