・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

看板

2011年08月06日 | つぶやきの壺焼

看板の多い街並みは、ときには風情を誘い、ときには目障りになる。

言葉は、それ自体が看板のようなソフトウエア要素を持っている。それがハードウエアの看板に書かれると、感覚が重なって目障りの因になるのだろうか。

静かに聞き流せばどこかに有難みもありそうなお経も、経本を渡されて合唱を強要されると当惑感のほうが勝ってしまう。
経本と看板が、どこか似ているなどと言えば、喝!とやられるかもしれないが、そんなことで怒らないのが仏様、どうぞご勘弁を。

看板の一種である言葉の世界に、さらにまた看板を並べて掲げる人がいる。
文法を教えようという人である。

何々詞、何々語、何々相などと、いくつもの看板のカタログを、パラパラとめくって見せては言葉を覚えようとする人を惑わす。
言葉を学問研究する人は別として、文法は、言葉の理解への案内標識程度にしておけばよいのに、大先生が書いた規定集の解読こそが、言葉を覚えるための関門であるかのように、教育課程で強要される。
そうなれば、難解看板を読みこなすために、いちいち立ち止まらなければならなくなる。

文法は、未知の言葉の国に行くガイドブックの記事と思えばよい。必ずそれに乗って走らなければならないレールのように考えたのでは、走り出したとたんにくたびれてしまう。

コメント
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