忘れてよい旅の苦い思い出が、ときどき頭に浮かぶ。
苦いのを選ぶわけでもないのに、旅の思い出は、常に苦味が強い。
思い出をつくるために旅に出かけると、人は言いながら、なぜ苦みを求めて歩き回るのだろうか。
楽しいということは、その場にいるから楽しいのであって、持っては帰れない。
旅で得た楽しさを超えた楽しさを、常日頃体験できるなら、わざわざそんな場を求めに行くこともない。
旅の宿に出てくる酢の物には、たいがい舌を刺すような、ひどくはないにしても何かむせ返るような刺激がある。
反対に、腐りかけていはしまいかと思わせる異臭に、弛みきった味がついたかつかないかのような、不可思議なものもある。そういうものが出てくると、酢はもともと腐りかけのものだからなどと、理屈をつけて喉を通さなければならない。
安宿を選ぶからと言われてしまえばそれまでなのだが。
旅でただ一度、これは、という酢の物に出会ったことがある。
奥湯河原のTという名、漢字三文字をなぜ仮名の三音に読むのか、文法だの字源だのをいくらこねまわしてみても解明できない名前のところだった。
河鹿の声を聴いているところに、その酢の物が出てきた。
その味がいくら佳かったからといって、日常の食卓には再現できない。「やさしい酢」などと名のついたものをスーパーの棚に見つけても、強弱の違いだけで、ツンツンの程度が、少しやわらかいだけでしかない。やはり化学製品なのだ。
気に入った味も、毎日続けば、いつかは厭きもくるだろう。
思い出が嫌だというこの偏屈人間が、旅に出なければならないときはどうすればよいのか。方法はある。
旅を無念に思えばよいのだ。