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・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

事例

2011年08月16日 | つぶやきの壺焼

ものごとの説明に、何か事例を挙げられると、何となくわかったような気になる。
言葉、思想など、抽象的なことで初めて聞いたような言葉も、例の力で意味を呑み込んだと思ってしまう。
その場合説明者は、説明にとって都合のよい例を必ず持ち出す。条件の違う別のことが、その言葉なり思想なりに当てはまるかどうかはわからない。
この当たり前のことに、多くの人は気づかないでいる。あるいは気づかないふりをしている。ぼんやりか温情、どちらもあたたかい。

事例というものは、説明する側に好都合な条件に合わせて用意するからこそ有効になる。悪い言葉をあえて使えば、事例は欺瞞の道具なのである。

質問する側から怪しげな道具を使ってくださいなどと言う注文は、到底出す気にならないものと思うものだが、事実には逆のことが多い。
Yahoo 知恵袋にも、私をだましてくださいというような呑気な質問が土日休日にはずらっと並ぶ。
まことに不思議な現象と思いながら、つい覗きに行ってしまう呑気者もここにいるからおかしい。

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シンガーソングライター

2011年08月15日 | つぶやきの壺焼

 

久しぶりに五輪真弓の歌を聴いた。

「天空」
http://www.youtube.com/watch?v=JhcXkXA6leU

「雨」
http://www.youtube.com/watch?v=P3x2UJxialY&feature=related

「海」
http://www.youtube.com/watch?v=G_MAPgR-5h8&feature=related

 

詩を作る、曲を作る、歌う。
シンガーソングライターという言葉には、人を欺く行為という意味も加わったという。(twitter nihon_go_bot)


みやこにはそういう人の集まるところもあって、感じがわからないでもないが、あまり感じのよい使い方ではない。


新語を思いついた。
sinker tongue writer シンカートングライター:でたらめ記者、急に見えなくなる舌を持つ物書きをコジて見たのだが、どうだろうか。

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危機省設置を

2011年08月14日 | つぶやきの壺焼

危機省という役所と担当大臣を置いてはどうか。

去年までなら縁起でもないと一蹴されてと思うが、こう何もかもいっぺんにやってこられては、誰か一人は、しっかり危機全体のことを抑えて指揮する、腹の据わった人が必要なのではないか。

総理大臣など、功を残すしか頭にない人らは危機には役立たない。自分の好きなことしかしないからかえって邪魔になる。


省の構成員は志願制国家公務員、当然優遇はされてよいが、怠惰放埓は許されない。
出世だけを考えて仕事をする人間はその省の官僚にはしない。
役人ならばみな同じと思ってしまってはみもふたもなかろう。
危ない思いもはらはらすることも、一億余のこの国の人のためならばと、身を挺して働く人は、必ずいる。

官邸は、することはたくさんあっても、できることがなければ、せめてこのくらいのことを残して終わったらどうだろうか。

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赤道直下

2011年08月13日 | つぶやきの壺焼

孫が言いだしたペルセウス座流星群の話が、なぜか赤道におよび、そこにはどんな国があるのだろうということになったが、さて、すぐには出てこない。
Google 地図を見たが、全体が見渡せるような縮尺では、国名の読み取れないところもある。

ザイールと呼んでいた国はすでになく、コンゴ民主共和国となっている。
西隣のもともとコンゴと呼んでいたところはコンゴ共和国と呼ばなければ区別がつかなくなっている。

赤道は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの中の計10か国を横断している。
「赤道直下マーシャル群島」と歌の文句にあった洋上の島はこの数に入れてない。岩礁などもことによるとあるかもしれないが、それは辿りようがないからやめておく。

それにしても、アフリカでも南米でも、赤道の通っているところは、なぜもめごとが多いのか。
太陽熱の影響が集団熱中症のような現象を起こしやすいのだろうか。

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外国語

2011年08月12日 | つぶやきの壺焼

ウルドゥ語で朝昼晩の挨拶をどう言えばよいのか教えてほしいと質問があった。

ウルドゥ語はパキスタンの国語で、インドでも一部の州で公用語にされている。
Google の翻訳サイトを紹介したら、ケータイなので読めないという。
画像にして送ったが、見ることができたかどうか。

しかし、挨拶言葉を見て知っているだけでは何の役にも立たない。
自分の思っていることを声に出して伝えなければ、会話にならない。

日本語か英語の手紙に、挨拶のところだけをウルドゥ語で書こうというのだろうか。
それなら始めだけでなく、さようならも書きたいだろう。

アラビア文字に特殊な音を表す文字が加わっているというウルドゥ文字のこと、書いて送るには相当な練習がいるだろう。
簡単なメールでも、フォントが使えなければ仕方がない。

知ってみれば気が済む人もいるから、気に病むこともないのだが、何となく気合の入らないお尋ねに出逢った。


今日も30度を超えるだろう。

朝熱い それは昨日の お釣りです

ウルドゥという響きだけでも暑い。

 

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出すのは

2011年08月11日 | つぶやきの壺焼

野球の放送で、「ランナーを出したが、よく押えました」というのを聞いて、おや、と思う。

押さえたのは守っているほうのことなのに、そっちがランナーを出したのか。ランナーを出すのは攻めるほうの仕事ではないのか。


言葉は、使う場所と場合によって意味が変わるから、「出す」とはどういうことですかなどという亜呆Qには愛想をつかし気味だったが、ここにきて自分が亜呆Qを抱える羽目になってしまった。


飲み終わり食べ終わって、会計カウンターのところで内ポケットに手を入れるふりをしながら「出す」とひとこと。
ここでも、語尾のしゃくり具合で意味が変わっている。
青山のNARISAWAあたりだったら、その意味の変化は相当な価値になるだろう。

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塔の眺め

2011年08月10日 | つぶやきの壺焼

(画像は TOKYO MX NEWS から拝借)    http://www.mxtv.co.jp/mxnews/

塔は目印、そしてあこがれを抱かせるもの。

高いものを見ると登ってみたくなる人と、嫌だという人がいる。
登りたがるのはサル系で、嫌うのはイヌ系などと言っちゃぁ、お仕舞でもないがまずかろう。

名古屋城の真横からの映像を見て思った。
城は下から見るものだと。
真横から見ると、目立たなくてよいところの印象が強くなり過ぎ、そこだけが重そうに見えてしまうのである。
むかし城を建てた人は、やはり仰ぎ見て重厚さを感じるように造ったのだと思う。


東京スカイツリーの隣に、スカイツリータウンという名の、31階建て最上階は地上140メートルの建物を造っているそうだが、東京スカイツリーをなぜ横から見せたいのだろうか。
タカイタカイを続けて二度味あわせ、レストランや水族館に呼び込んで、訪れた人の印象をもっと濃密にしようという戦略らしい。

登ってしまえば自分がいる塔の姿は見えなくなる。見えないはずの塔の姿が目の前にあると、隣の塔にいるのを忘れて、鏡を見ているような錯覚を起こすかもしれない。
下から眺めたのとは全く違う塔の姿に、何だこんなものかと思わせなければよいのだが、出来上がってのお楽しみである。

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捕球音

2011年08月09日 | つぶやきの壺焼

よい捕球音を出せる人は、名捕手であるという。

ポソッ、バシッ、ヅシン。

よい捕球音とは、打者に脅威を与える音、一瞬迷った球審が右手の拳を上に挙げてしまう音だろうか。

ボールを捕ってからミットを動かすのはヘボ捕手らしい。

なんでもありの Youtube でも、捕球音など聞かせようという人はいないかと思えばそうでなく、捕球方法を見せる画像もある。ついでのように入っている音も、プロのものはやはり違う。
http://www.youtube.com/watch?v=rL_uAA_R3DA

バッティングセンターはあちこちにあるが、キャッチングセンターは聞かなかった。
http://www.youtube.com/watch?v=qoSvU9s1538

捕手は野球の司令塔、出る音はそれとわかるように聴かせる。ウロチョロしない。

N町の司令塔役も、キャッチングセンターに通って稽古するとよいのではないか。

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行き交う

2011年08月08日 | つぶやきの壺焼

知恵袋の日本語カテゴリーを覗くと、言葉の意味を尋ねる人が多い。
日本語カテゴリーだから日本語の質問があって当たり前なのだが、熟語あるいは文字の意味を、むやみに尋ねるだけなのである。
辞書代わりに使うつもりでいるらしいのだが、それなら辞書を引いたほうがよほど早い。辞書を持っていなければネット辞書というのもあり、それも面倒なら熟語で直接検索する方法もあるのに、わざわざ質問して回答を待つ。

すぐわかることになぜ遠回りをするのか不思議に思っていたが、何度か見ているうちに想像がついてきた。
質問者は、それを聞くことが言葉の学習であると思っているらしいのである。

学校の授業で、質問を数多くする生徒は、学習熱心と見られやすい。いくらかでもヤル気の表明にはなる。いわゆるアピールという、サッカー選手の看板文句のような行為である。
プロのスポーツ選手の場合は、観客に見てもらって、人気を集めることも仕事のうちだから、競技と併行してアピールに努めるのもだいじだろう。
しかし、言葉を学ぶ上では、読み書きお話がしっかりできればよいので、質問競争など全く意味はない。

質問者の身分は明かされないから、どういう人たちなのかはっきりはわからないが、他国の人たちが日本語を勉強する副次課業として質問箱を使っているのではないかと思われる節もある。
そういう意図でこのサイトが使われるのならば、もっと効果を高める方法もあるだろう。

教育に当たる側の案内があってのことか、教育を受ける側の口コミの効果なのか、あるいはWeb利用者の偶然の出会いによるものか、これは確かめようもなく確かめても仕方のないことだが、なにか行き違いがあるように思えるのだ。

さて、その行き違いは何だろう、日本語学習初期の「言葉の意味をよく調べなさい。それが理解への近道です」という罪な刷り込みではないのか。

ある文章を読む。それには、言葉の意味を徹底理解しなければならない。徹底理解には、文章に組み込まれた言葉一つひとつを取り出して、よく調べなければならない。

そこで、熟語や文字をぽつんと出し、この意味は何ですかと問う。これが日本語の学習にはおよそ効果の薄そうな質問群になっているのである。
素直に答える親切な人もいる。しかし、そういう人が、いろいろな意味を並べ立てたところで、質問者が読もうとしている文章には、数ある意味のうちどれを当てはめてよいのやら見当もつかない。

これでは、質問ごっこ、回答ごっこが繰り返されるだけで、この知恵袋は、数寄屋橋屋ハチ公前のスクランブル交差点のように、ただ大勢の人が行き交うだけのものでしかない。

ミンミン蝉の声と一緒に、空虚感が、夏の朝を右往左往するのである。

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真似

2011年08月07日 | つぶやきの壺焼

終末を、小さい「ゎ」で結ぶ文が、ネットに多いのが気になるという人がいる。
なぜでしょう、という問いには、真似でしょう、という答えしかみつからない。

まめに真似する真似好きの人がいる。

誰が始めたのかわからないことが真似のタネになる。
お互いに関係の薄い人の真似をしてみたがる。
すぐお隣や、ごく親しい人の真似はしたくない。真似と気づかれるのが嫌だから。

真似を好ましく思わない人もいて、同じものが増えてくると、いつからなのか、その意味はなどと、聞いてもわかっても仕方のないようなことを知りたがる。
真似が嫌いだと自分に言い聞かせながら、何でも聞いてみるという真似ごとに懸命になる。
ものごとは、これが好きだと言ってするよりは、嫌いのふりをしてするほうが滑稽に見えるのだが、だいたいそれには気付かない。

真似が増えてくると、真似ごと同士の存在間隔が狭まり、鼻についてくる。
ひと通り行きわたれば、そこで真似ごとは必ず止まる。たとえ同じことをしても、そのときは真似ごとではなくなっているから。

流行とは真似の急増現象である。急に増えたものは、厭きられるのも早く、そのうちにすたれる。

小さい「ゎ」など、小さいことを気に病む必要はないのだ。

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看板

2011年08月06日 | つぶやきの壺焼

看板の多い街並みは、ときには風情を誘い、ときには目障りになる。

言葉は、それ自体が看板のようなソフトウエア要素を持っている。それがハードウエアの看板に書かれると、感覚が重なって目障りの因になるのだろうか。

静かに聞き流せばどこかに有難みもありそうなお経も、経本を渡されて合唱を強要されると当惑感のほうが勝ってしまう。
経本と看板が、どこか似ているなどと言えば、喝!とやられるかもしれないが、そんなことで怒らないのが仏様、どうぞご勘弁を。

看板の一種である言葉の世界に、さらにまた看板を並べて掲げる人がいる。
文法を教えようという人である。

何々詞、何々語、何々相などと、いくつもの看板のカタログを、パラパラとめくって見せては言葉を覚えようとする人を惑わす。
言葉を学問研究する人は別として、文法は、言葉の理解への案内標識程度にしておけばよいのに、大先生が書いた規定集の解読こそが、言葉を覚えるための関門であるかのように、教育課程で強要される。
そうなれば、難解看板を読みこなすために、いちいち立ち止まらなければならなくなる。

文法は、未知の言葉の国に行くガイドブックの記事と思えばよい。必ずそれに乗って走らなければならないレールのように考えたのでは、走り出したとたんにくたびれてしまう。

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御の字

2011年08月05日 | つぶやきの壺焼

丁寧に話す言葉には慣用句があって、自分のことではないかと思うようなところにも「お」や「ご」をつけることがある。

相手が目上の場合、「相談があるんですが…」と切り出すよりも、「ご相談があるんですが…」と言うほうが丁寧に聞こえる。「相談があるんですが…」では、乗ってくれて当りまえのように聞こえそうなのである。

こういう「お」や「ご」のつけ方は、よほど珍妙でない限り問題にせず、暗黙の了解で済まされている。

敬語、尊敬語、謙譲語、丁寧語や挨拶言葉は、理屈を考えだすときりがない。
なぜこれほどまでに多分類が必要なのかもわからない。

「これぐらいでオンの字だろう」というあいまい表現がある。「一定の」というあの意味の分からない言葉の親戚だろう。
そんなにしてやることはない、という限界と、これほどまでにという恩着せの意味が「御」の一字に含まれる。
恩を売る方には、多少の未練とともにであるにせよ、いくばくかの充実感が得られるが、受ける方には何の感慨も与えない。
授受の過程で、御の一字がことの有難みを消し去り、無形にしてしまうのだ。

ご、御は、無形にする力もあれば、変容させる力もある。

利益/御利益、これは「ごりやく」という実体のないことがらを表す無形化の一例である。ついでに本体の読み方も変わり、「ごりやく」という熟語になる。この御は不思議なことにかなで書かないらしい。

立派/ご立派、自慢/ご自慢、この「ご」では皮肉の意が付加される。

友人/ご友人様、前後に文字が加わると、用語としての適用範囲が、サービス業界用語に縮小される。

ご、御の一字の力は、一生忘れさせないほどに強力なのである。

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姿勢

2011年08月04日 | つぶやきの壺焼

 

http://www.youtube.com/watch?v=GHWw0g9zwv0

ピアノはだいたい腰かけて弾くものだが、弾いている途中で立ち上がる人もいる。
ジョージア オン マイ マインドを弾いているキース・ジャレットがそれだった。
満員のトイレの前で地団太を踏んでいるような、姿勢というより姿態なのだが、それには立って弾かなければならない突き詰めたものが感じられる。

会議や集会でものを言うとき、立ち上がるか、座ったままか、それは場の空気と気合の入れ方による。

発言の場所が決めてあって、そこに入れ代わり立ち代わり発言者が現れて何かを言う。
大昔の拡声装置のない時代の方式を、いまだにそのまま変えないのが議会の様式になっている。あのやり方は、施行規則か何かで決めてあって、そのとおりにしなければ議会として認められないのだろうか。
それにしては、ときどき行儀の悪いのも出てきて、運動会の棒倒しに似た光景になるのがまた奇妙なのだが。
決まった場所で立ってものを言う、そのほうがしっかりしたもの言いができることは確かだが、いま先生方がやっていることには、もの言いなどと言えたものでないのもある。
ふたことみこと、ぼそぼそ言っては行ったり来たり、時間を稼いでいるつもりか知れないが、税金の空費に間違いない。背を丸めて原稿を早口で読み飛ばすかと思えば、うつろな目をちろちろ動かしながらあらぬことを口走る。
立って話すのではなく、立たされて口ごもるような、姿勢以前の格好の悪さをわざわざTVで放送し、世界中にばらまく。

姿勢が、すがた、いきおいを表さなくなっている。これは弛背という字に入れ替えないと、文字が実態の象徴であることから遠ざかってしまうのではないか。

借りものの姿勢で机をたたいただけでは、人の心を打つことはできないのだ。

 

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河川敷

2011年08月03日 | つぶやきの壺焼

 

一つの漢字の読み方、それも点が2個違うだけ、つまり濁るか濁らないかだけで腹を立てることがある。
人間というのはおかしなものである。

河川敷をどう読むか、「かせんしき」か「かせんじき」か、どちらが本当の読み方なのかと、Yahoo知恵袋に質問が出ていた。
この知恵袋、これまで気づかなかったことが質問に出て、おおそうだったのかということも1割ぐらいはあるので、ときどきは覗いて見るようにしている。

常用の国語辞書には、「カセン」の複合語として「かせんしき」が載っている。そこには、河川法によって規定された河川の敷地と書かれている。
河川法まで持ち出すなら、当然その読み方も確かめて載せるから、濁らないのが正規の読み方なのだろう。

回答に、Wikipedia にあるぞというのがあって、開いてみると、「河川敷(かせんしき)とは、治水工事が施された河川の中で、普段水が流れていない平坦な土地(高水域)をいう。「かせんじき」と読まれることがしばしばあるが、正式には「かせんしき」である」とされていた。
一方、新しい国語辞典には、「かせんじき」で見出しをたてたものや、語義解説のあとに「かせんじき」と書き加えたものもあるという回答もあった。

質問者としては、それはどう読んでもよいのではないかと、一斉に答えてほしかったのだと思うが、濁りは正式でないと言う答えが頭にきたらしく、Wikipedia に振った回答に当たり散らしている。


こんなどうでもよさそうなことを、なぜ知恵袋などに質問するのか、そちらのほうをおかしく思ったのだが、質問者の直裁性挌に興味がわき、プロファイルを想像してみる。
手前勝手な想像だから外れている部分が多いとは思うが、これも暑気払いの一興。

質問者は、若い人ではなく、男性、国交省系の官庁勤務。仮にA氏と呼ぶ。
問題の発端は、ある会議で河川敷の話が出たところにあった。
話に加わったA氏が「かせんじき」と発音。言葉にうるさい人がいて、「かせんしき」という正規の名称があるのに、この役所にいながら「かせんじき」と言うのか、あの呼び方はや断食などを連想してよくないのだなどと、よせばよいのに冗談を交えながらなじる。
A氏はぐっと我慢してその場はおさまったが、濁り読みは間違いなのか、確かめておかないと気が済まない。
そこで知恵袋に質問を出しておいたら、普段からあまり好きでない Wikipedia の記事が引き合いに出され、濁りはだめと最初の回答でやられる。やがてそうでないという答も出てきて、また腹の虫がうずき出した。と、こんな具合ではなかったのか。

たった二つのインクのしみ、濁点のうっ憤、小さな話ではある。

 

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大空

2011年08月02日 | つぶやきの壺焼

画面の外へ向かって飛ぶ鳥。
大空には外も内もないのに、切り取った画面では、なぜか外に向かうように見える。

外だ内だと騒がしくすれば、お役目ご苦労とされる仕事がある。
人間が考えてつくってしまった仕切りを、しきりに気にしていなければ役目怠慢とされる。

人びとは、仕切りや限界値などという、実際にはそれ自体何の役にもたたないもので、とかく決まりをつけようとしたがる。

安心と心配のさかい目がだいじとされても、計測値の限界を飛び出した値からは、心配の程度を想定することはできない。想定できない心配は、さしあたり「ない」と報道される。

安心領域の宣言には、仕切り線がついて回る。
その引き方が間違っていて影響が明きらかになり、実は心配領域とされていなければならなかったと気付くのは、不安がうすれ忘れ去られた20年後30年後という困ったものもある。

そのころには、宣言者は一人もいなくなっている。

大空の目に見える部分は、ごくごく一部でしかないのだ。

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