毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「花と言葉」 2013年5月1日(水) No.636

2013-05-01 19:18:53 | 中国事情
昨日のパーティーで印象に残ったこと二つ。
一つ目は花のことだ。
ある人がお花を持ってきてくださった。
「何か持っていきましょうか」
と電話で心遣いをいただいたので、
「では、お花を買ってきてください」
と厚かましくお願いしたのだが、
そのときに大いに驚いたのは、電話相手が
「生花ですか、造花ですか」
と聞かはったことで、これは中国ならではの会話だと思った。
くれぐれも生花でヨロシク、とお願いした。
昨日、バラ、百合、かすみ草っぽい名前の分からない花の
可愛い花束をプレゼントされ、私はたいへん喜んだ。
が、その中に一本の藍色スプレーでコーティングされたバラ
(さらに銀粉がべっとりトッピングされている)一輪を発見し、
(どうして花屋さんはこういうことをするのだろう)と胸が塞がる気持ちだった。
しかも、葉っぱがついているのはバラでは1本のみで、あとは花だけが茎についている。
ノー葉っぱのスッポンポンだ。
百合は、かろうじて葉っぱ付きで本当にヨカッタ。ヽ(;▽;)ノ
要するに、この辺では、
生花というのは、その日だけを彩る飾り道具なのだな。
葉がついていたら、花はどれほど長生きできるか分からないのに。

以前、樹木についても非常なる違和感を感じたことがある。
財大キャンパス正門入ったとこですくすく育っていた左右対称の樹木たち二列が
ある日ある時、一気に全部引っこ抜かれ、
それに変わって、南国のヤシの木みたいなのが
ズラッと植えられたときがあった。
あの引き抜かれた木々はどうされたのだろう。
一度植えたら、最後まで(その木が生き続ける限り)世話をするのが
人間の務めと信じていた私は、ヒジョーにショックを受けた。
木をなんだと思ってんだ!ええ!木は生きてるんだよ!

それに似た感じが、花の葉っぱむしりにもある。
植物の命に対する中国と日本の感覚の違いはどこから来るのか。
やっぱ、日本は国土の7割が森林だという森林大国なのが、
日本の人々の自然観に影響しているのだろうか、とふと思う。

お客様が帰ったあと、楼さんとお花。


4歳のお嬢ちゃんと若いお祖母ちゃん。
中国のお祖母ちゃんは、若い。

もう一つ、印象に残ったのは言葉。
昨日、2度目にお会いした財大の大学院の先生が
「アメリカ人に会ったら、普通の人間だった。
日本人も普通の人間だ。会って話したら、それが分かった」
と中国語で言わはった(楼さんの通訳)。
これは、昨年、樟樹の農村で聞いた言葉、
「テレビで見る日本人(つまり軍人)と全然違う」
を想起させた。
大学院の先生にしても、こうなんだ。
ナロードニキじゃないけど、人民の中へ分けいるなんて、
どれほどもできていない。
日本のみんな~!中国に来てちょうだいよ~!!
私一人じゃ、人手不足ですがな。
コメント (2)
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