江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図が「東海道分間延絵図」です。
東海道も含め、「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれています。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれています。縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示しています。
この絵図には清水のつまり当時の呼び名でいえば「江尻」の宿場のものも描かれています。なにかのきっかけでこの絵図があることを知り、ネットで探したらちょっとその画像がありました。その画像をよーく見るとウチの前の道路も描かれているのがわかります。約250年前にはもうこの道はあったってことなんですね。東海道からちょっと外れて巴川に突き当たる道でもっと歴史は新しいと思ってました。そして、その突き当たった川の対岸から細い道が今の上町などの当時の港辺りへ繋がってます。(当時は現在の巴川へ海から入って港橋辺りがその通り港だった) 川を挟んで道が繋がっているというのは「渡し」でもあったのでしょうか?現在の橋は大正時代にできたものですから。
この絵図、現物を(写しもいいので)見てみたいですねぇ。
ところで、歩いて東海道を行く旅を記している某サイトを見つけましたが、その中で・・
「JR清水駅からの大きい通り(国道1号)と交差、進んで郵便局先を右折、清水銀座商店街が宿場の中心。ほぼ中央に宿の説明板がある。本陣は二軒あったとあるが、それらしい史跡は見つからない」
・・とありました。そりゃ確かに史跡は見つからないかもです。でも、本陣の一つは今でも旅館として営業してますよ(後継ぎが無く今の代でたたんでしまうのだそうですが・・)。それを見逃したんじゃダメだよぅ。江戸時代から今まで同じ場所で同じ宿場として商売してるのなんてそうそうないはず。もったいない!
東海道も含め、「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれています。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれています。縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示しています。
この絵図には清水のつまり当時の呼び名でいえば「江尻」の宿場のものも描かれています。なにかのきっかけでこの絵図があることを知り、ネットで探したらちょっとその画像がありました。その画像をよーく見るとウチの前の道路も描かれているのがわかります。約250年前にはもうこの道はあったってことなんですね。東海道からちょっと外れて巴川に突き当たる道でもっと歴史は新しいと思ってました。そして、その突き当たった川の対岸から細い道が今の上町などの当時の港辺りへ繋がってます。(当時は現在の巴川へ海から入って港橋辺りがその通り港だった) 川を挟んで道が繋がっているというのは「渡し」でもあったのでしょうか?現在の橋は大正時代にできたものですから。
この絵図、現物を(写しもいいので)見てみたいですねぇ。
ところで、歩いて東海道を行く旅を記している某サイトを見つけましたが、その中で・・
「JR清水駅からの大きい通り(国道1号)と交差、進んで郵便局先を右折、清水銀座商店街が宿場の中心。ほぼ中央に宿の説明板がある。本陣は二軒あったとあるが、それらしい史跡は見つからない」
・・とありました。そりゃ確かに史跡は見つからないかもです。でも、本陣の一つは今でも旅館として営業してますよ(後継ぎが無く今の代でたたんでしまうのだそうですが・・)。それを見逃したんじゃダメだよぅ。江戸時代から今まで同じ場所で同じ宿場として商売してるのなんてそうそうないはず。もったいない!