笠木は錦帯橋の高蘭親柱の頂上部に取り付けられた部材で、
木の型の上に銅製の板が貼ってある。
当初(1737)からこのスタイルが踏襲され現在もこのスタイルに
なっている。
しかし、大正8年(1919)から昭和25年(1950)キジヤ
台風で橋が流出すまでの間は擬宝珠(ぎぼし)が付けられた。
この擬宝珠は現在徴古館に保管されている。(写真)
昭和28年(1953)の昭和の再建では古式にのっとり元の
兜板(かぶといた)に変更された。
当時の文化財保護委員会(現在文化庁)によってこの問題は
徹底的に議論され結論が出された。
錦帯橋を管理している岩国町が大正7年(1918)に橋の
橋板を張替えることになりました。
その時、町議会で橋の親柱に擬宝珠をつけるか否かで
大論争がありました。
結局、大正8年(1919)春に古代式擬宝珠をつけることに
なった。設計は名古屋高等工業学校長の武田五一氏で
製作は岩国の彫金家正兼長雲氏である。
現在も徴古館に大正8年完成の擬宝珠が保存されている。
木の型の上に銅製の板が貼ってある。
当初(1737)からこのスタイルが踏襲され現在もこのスタイルに
なっている。
しかし、大正8年(1919)から昭和25年(1950)キジヤ
台風で橋が流出すまでの間は擬宝珠(ぎぼし)が付けられた。
この擬宝珠は現在徴古館に保管されている。(写真)
昭和28年(1953)の昭和の再建では古式にのっとり元の
兜板(かぶといた)に変更された。
当時の文化財保護委員会(現在文化庁)によってこの問題は
徹底的に議論され結論が出された。
錦帯橋を管理している岩国町が大正7年(1918)に橋の
橋板を張替えることになりました。
その時、町議会で橋の親柱に擬宝珠をつけるか否かで
大論争がありました。
結局、大正8年(1919)春に古代式擬宝珠をつけることに
なった。設計は名古屋高等工業学校長の武田五一氏で
製作は岩国の彫金家正兼長雲氏である。
現在も徴古館に大正8年完成の擬宝珠が保存されている。