2007年9月8日の土曜日に標題の説明会があり行って来ました。
当日配布資料より簡略して太閤堤について説明いたします。
1.発掘調査のきっかけ
今回の発掘調査は京阪宇治駅西側一帯に計画された
土地区画整理事業に伴うもので弥生時代から
古墳時代にかけての集落遺跡を中心とする乙方遺跡
保護のため文化財保護法に基づき実施されました
この中で宇治川寄りの調査区で今まで存在の
判らなかった宇治川旧護岸遺跡(太閤堤の一部)が
見つかった。
2.発掘された護岸遺跡の内容
幅5.5m、高さ2.2mの堤が南北に75mの
宇治川右岸護岸施設で江戸時代後期の洪水で
埋没して陸化していたため今まで存在が判らなかった。
護岸の構造は傾斜30度の法面の下端に径20cm
の松杭を打ち、割り石を数段積み上げて水流に備え、
上半分から天端(馬踏:ばふみ)にかけて割石を
きれいに貼り付け化粧しています。
石出は基部の幅9m、長さ8.5mの平面台形形状の
石垣積みです。
この護岸工事に使用された石は粘板岩で3kmほど
上流の天ヶ瀬ダム付近の川岸から切り出され船で
運搬されたものと考えられます。
昭和54年に見つかった填島堤遺跡でも同様の石が
使用されています。
3.太閤堤について
「太閤堤」とは、豊臣秀吉が伏見築城に伴い、
宇治川の川筋付け替えに関係して築いた堤防
のことで宇治から向島までの「填島堤」、
宇治から小倉までの「薗場堤」、小倉から向島までの
「小倉堤」の計12Kmの総称として一般に用いられています。
太閤堤の築堤開始は「村井重頼覚書」などによれば
文禄3年(1594)のことで、宇治川を
小椋池から切り離し、向島まで延長する填島堤から
工事が始まったとされています。
今回見つかった右岸の護岸に関する記録は
今のところ見つかっていません。
京洛主義へのリンク詳細記事あり
現地説明会公式サイト