CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

3月14日(日)のNHK大河ドラマ龍馬伝 第11話 土佐沸騰

2010年03月16日 05時42分51秒 | Weblog
2010年3月14日の朝日新聞のきょうのテレビでは次のように解説されていました。
「龍馬は結婚を約束した平尾加尾が京都に送られてしまうことを知り、
落胆する。そんな中、岩崎弥太郎が長崎で藩の金を使い込み(100両)
解任されて土佐に戻ってきた。一方、江戸では朝廷を無視して開国した
井伊直弼(井伊大老)が水戸浪士たちによって殺される。
武市半平太は土佐藩を攘夷一色に染め、薩摩藩や長州藩と協力して
朝廷を動かし、幕府の開国政策を改めさせようと考える。」

NHKの龍馬伝の公式HP

京都霊山護国神社のHP

長崎龍馬会のHP

龍馬写真館のHP

坂本龍馬の辿った道を巡る旅

坂本龍馬ゆかりの地

高知新聞坂本龍馬の部屋

東京の坂本龍馬ゆかりの地

龍馬の道

実際に、観た結果では、文久元年(1861年)3月4日に土佐藩で起きた
井口村刃傷事件(いぐちむらにんじょうじけん)と、これによる上士と下士(郷士)
の対立と土佐勤皇党の成立までの過程が描かれていました。

フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)による事件の発端と事件後の
出来事について引用させていただきます。
「文久元年3月4日の夜、小姓組・山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、
節句祝いの宴会の帰りに永福寺という寺の門前で郷士・中平忠次郎と肩がぶつかる。
当初、忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうしたが、相手を郷士と見た山田は
酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論に到る。
口論の末に逆上した山田は抜刀し、これに応戦する形で忠次郎も抜刀。
しかし、土佐で小野派一刀流の師範代をつとめるほどの実力の持ち主で、
鬼山田と恐れられる山田に敵わず忠次郎は殺害されてしまう。
忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、
2人は急いで現場へ駆けつけるが、時既に遅く、忠次郎は殺害された後だった。
近くの小川で刀を洗い、喉の乾きを潤している山田を発見した寅之進は背後から
袈裟懸けに斬り掛かり山田を殺害、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害した。
寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとするが、現場に駆けつけた上士・諏訪助左衛門と
上士・長屋孫四郎の2人が「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めた。
その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、
忠次郎の遺体は池田家へと引き取られる。
翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。
両者、互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていた。
この時の郷士側のリーダーが当時25歳の坂本龍馬であった。
上士側のリーダーであった吉田東洋は、藩お取り潰しの事態を避ける為にも、
事を穏便に解決する必要があるとして、山田を斬り殺した事件当事者の命一つで
解決するように命じる。しかし、これを聞き入れない一部の上士達が池田宅に乗り込んでいった。
池田宅に押しかけた上士達は、当事者である寅之進と喜久馬の身柄の引渡しを要求。
これに龍馬は応じず、逆に2人の助命を主張。穏便に解決する為にも2人を引き渡せと
譲らない上士に対し「どうしても2人を引き渡せと言うなら、我々郷士は命がけで守る。
戦になって、藩お取り潰しになるまでだ」と龍馬は徹底抗戦の構えを見せ、
両者の緊張は高まっていた。」

大河ドラマでは坂本龍馬が丸腰で吉田東洋のかけあい、武市半平太が仲裁として
やってきた後藤象二郎に池田寅之進の切腹を容認するものであった。

半年後の9月、下士は武市半平太(瑞山)をリーダーに土佐勤王党を結成する。
龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)

最後に紹介される史跡紹介では土佐藩の参政として活躍した吉田東洋の私塾
鶴田塾跡(現在の文武館)が紹介されていた。
ここから、大政奉還で活躍した後藤象二郎、三菱財閥創始者で海運王として
知られる岩崎弥太郎などが輩出しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂本龍馬の生涯 NHK大河ドラマ龍馬伝 3月7日までの放映まで

2010年03月16日 05時38分04秒 | Weblog
坂本龍馬の生涯史実(歴史年表) 
  龍馬伝が平成22年1月3日NHK大河ドラマでスタートした。
  3月13日現在までの放映内容の時期に照合させるべく年表を作成しました。

  今回の大河ドラマは非常に面白く観るのを楽しみにしています。

-天保6年(1836)、1月3日、現在の高知県高知市上町(高知城下)に生まれる。

-天保8年(1838)、2月大塩平八郎の乱

-弘化3年(1846) 龍馬12歳
 母の幸が急死 永眠する。
 小高坂の楠山塾で学ぶが6ヶ月で退塾。

-嘉永元年(1848) 龍馬14歳
 高知城下の日根野弁治の道場へ入門し下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。

-嘉永6年(1853)  龍馬19歳
  1月 日根野弁治から小栗流和兵法(柔術)の目録を伝授される
  3月17日 江戸遊学のため土佐を出立
4月、剣術修行のため江戸(東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖
千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(小千葉道場)に入門する。
6月3日にアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー ペリーが率いる4隻の軍艦が
浦賀に来航、龍馬も土佐藩の一員として浜川台場から黒船を遠望する。
12月には佐久間象山の私塾(西洋砲術)にも通っている。
-嘉永7年(1854)  龍馬20歳
   日米和親条約が締結される
-安政元年(1854)に土佐に帰郷。
幼なじみの近藤長次郎の紹介で画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。
    (ジョン万次郎からの情報を絵に描く)
   日米和親条約 
  
-安政2年(1855)、父・八平が永眠する。
-安政3年(1856)、再び江戸・小千葉道場に遊学。
-安政4年(1857)、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
   この事件については小生のBlogを参照してください。
-安政5年(1858)、剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝(長刀目録)。
   日米修好通商条約 6月19日(現在暦では1858年7月29日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする