6月28日は「邦字新聞発行の日」。1864(元治元)年6月28日、横浜・居留地141番(現・横浜市中区山下町141)で、ジョセフ・ヒコ(ジョセフ彦=浜田彦蔵)が、外国新聞を翻訳編集し、日本初の邦字新聞『海外新聞』を発刊した。現在は道沿いに「日本における新聞誕生の地」碑が立っている。ちなみに日本初の日刊新聞は、1871年(明治3)年12月8日、「横浜毎日新聞」が創刊された。
新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日
ジョセフ・ヒコは岸田吟香、本間清雄らの協力を受けて英字新聞を日本語訳して発刊されました。
1号から4号は手写しの新聞誌として創刊されたが2-3か月で廃刊となった。
翌年の1865年5月の通算5号からは海外新聞(海外新聞第1号)と名称を変更して発刊された。
上の写真は1864年に発刊された日本で最初の新聞「新聞誌」 第1号
出典:播磨町郷土資料館編 「ヒコの新聞と錦絵新聞」平成25年(2013)Page5
上の写真は日本における新聞誕生の地のモニュメントです。
撮影:2014年3月14日 説明板の文章は下記のとおり。
日本における新聞誕生の地
ここ, 横浜の元居留地141番は, 1864(元治元)年6月28日,
ジョセフ彦が, 「海外新聞」を発刊した居館の跡である。
彦は, リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。
リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ
大なるを体得し, 開国したばかりの祖国のため, 日本最初の新聞を創刊し,
「童子にも読める」新聞精神を提唱した。
読みやすく, 判りやすい新聞を, 創世記の日本の新聞界に植えつけた
新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允, 伊藤博文, 坂本龍馬など多くの人びとに 民主政治を
伝えた彦は, 民主主義の先駆者として, およそ新聞を読む ほどの人々の
心の奥に残る文化の恩人であった。
1994(平成6)年6月28日
「海外新聞」発刊130年記念日に
ジョセフ彦記念会
詳細は下記ブログで書いています。
海外新聞発行は26号まで続いたが赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。
海外新聞の定期購読者は4名でしかもすべて九州の人であった。
1部が500文 1年間の購読料にして1両はあまりにも高価すぎた。
拡販のため大半は寄贈された。
それでもジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の新聞は一部の知識人の間で筆写され回覧され
読まれたとのこと。慶応元年(1865)7月発行の第5号にはリンカーンの暗殺をいち早く
報じています。ジョセフ彦は1862年3月2日にリンカーン大統領と会見しています。