2014年6月21日、湊川隧道でミニコンサートがあり出かけました。
湊川隧道の中に下記の写真のようなパネル展示(古湊川はどこを流れていたのか)があり、非常に
上手く纏められており感心しました。
上沢、下沢、水木、三川口など現在も残る名前がほぼ古湊川の流域にあることがよく判ります。
また、岡方歴史倶楽部のパネル展示で古湊川、旧湊川、新湊川の水路の地図が紹介されていたので
引用紹介します。
上の写真は旧湊川と新湊川の流路の地図と明治時代の海岸線が書かれています。
旧湊川は天井川で氾濫するたびに堤を積み上げていって交通機関の妨げとなり町の発展を阻害していた
ことさらに神戸港に土砂を流すため港の水深が浅くなり機能低下を招くことから明治の初期から兵庫の
3恩人と言われる北風正造、神田兵右衛門、藤田積中らは旧湊川を埋立し川の流路を変更することを
提唱してきました。
新湊川への付け替えの動機や工事の経過などについて説明書き他より紹介します。
湊川隧道(みなとがわずいどう)=会下山トンネルから新湊川トンネルへ
湊川は明治29年(1896)8月30日に決壊し荒田町、福原一帯に大きな被害をもたらした。
この洪水がきっかけで湊川の付け替え工事の話が浮上し実際に工事が進められることと
なった。
湊川隧道は湊川の付け替えに伴い明治30年(1897)11月より4年の歳月の工事を経て
明治34年(1901)7月に当時の土木技術の粋(the best)を結集して建設されました。
付け替えられた湊川は新湊川として今日に引き継がれています。
現在の新湊川は六甲山系からの天王谷川と石井川が合流して新湊川となり、
さらに苅藻川と合流し大阪湾に注いでいます。
平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災により湊川隧道の下流側の坑口の崩壊や
煉瓦積みに剥離や亀裂が生じた為県の河川災害復旧助成事業により従来の幅7.3mに
対して幅12.8m断面積にして2倍以上の新湊川トンネルが建設され平成14年(2002)
3月に完成しました。
新湊川改修事業に伴い、湊川隧道(会下山トンネル)は河川トンネルとしての役目を
終えました。
しかし、構築後100年以上になる湊川隧道は当時の高度な土木技術で造られた貴重な
土木遺産として、保存する運動が起こり今でも築造当時のまま残されています。
以上は小生のブログ(下記サイト)より再掲。
湊川隧道(会下山トンネル)から新湊川トンネル
上の写真パネルには古湊川、旧湊川の流路が描かれています。
上の写真も岡方歴史倶楽部の展示で摂陽山海古覧(せつようさんかいこらん)から旧湊川が描かれています。
摂陽山海古覧に関する基本情報は下記のとおりです
年代: 明治時代
景観年代: 江戸時代後期
作者 :若林秀岳
解説:六甲山から開港前の神戸を眺めた図です。
全容は神戸市立中央図書館のアーカイブを参照してください。(下記サイト)
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/046.html
1796年(寛政8年)~1798年(寛政10年)年に刊行された摂津名所図会には次のように記述されています。
湊川(みなとがわ) 兵庫の北口にあり。
水源、丹生山田・東小部・西小部・藍那小河等の渓川、三流会して石井村に至り、千鳥滝といひ、
下流、兵庫拝に至って海に入る。
常は流水少なく、水碓に取る事多し。古は、石井より壊下山(えげやま)の麓を西へ流れ、兵庫の町の西より大和田浜にて海に入る。
平相国、兵庫築島せらるるの時、洪水の難を避けん為に、今のごとく川違ひありしなり。
平清盛(平相国)が古湊川を旧湊川の流路に替えたことが記載されているが真偽は不明。
この説は承安3年(1173)平清盛が大輪田泊の大規模な修築工事(経ケ島という人口島を築いた)の際、
会下山の南の塩槌山の土砂で経ケ島を造成したという伝説に基づくものです。
上の写真は摂津名所図会の中の旧湊川の画です。
真ん中に西国街道が湊川を横切っているのが判ります。
湊川隧道の中に下記の写真のようなパネル展示(古湊川はどこを流れていたのか)があり、非常に
上手く纏められており感心しました。
上沢、下沢、水木、三川口など現在も残る名前がほぼ古湊川の流域にあることがよく判ります。
また、岡方歴史倶楽部のパネル展示で古湊川、旧湊川、新湊川の水路の地図が紹介されていたので
引用紹介します。
上の写真は旧湊川と新湊川の流路の地図と明治時代の海岸線が書かれています。
旧湊川は天井川で氾濫するたびに堤を積み上げていって交通機関の妨げとなり町の発展を阻害していた
ことさらに神戸港に土砂を流すため港の水深が浅くなり機能低下を招くことから明治の初期から兵庫の
3恩人と言われる北風正造、神田兵右衛門、藤田積中らは旧湊川を埋立し川の流路を変更することを
提唱してきました。
新湊川への付け替えの動機や工事の経過などについて説明書き他より紹介します。
湊川隧道(みなとがわずいどう)=会下山トンネルから新湊川トンネルへ
湊川は明治29年(1896)8月30日に決壊し荒田町、福原一帯に大きな被害をもたらした。
この洪水がきっかけで湊川の付け替え工事の話が浮上し実際に工事が進められることと
なった。
湊川隧道は湊川の付け替えに伴い明治30年(1897)11月より4年の歳月の工事を経て
明治34年(1901)7月に当時の土木技術の粋(the best)を結集して建設されました。
付け替えられた湊川は新湊川として今日に引き継がれています。
現在の新湊川は六甲山系からの天王谷川と石井川が合流して新湊川となり、
さらに苅藻川と合流し大阪湾に注いでいます。
平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災により湊川隧道の下流側の坑口の崩壊や
煉瓦積みに剥離や亀裂が生じた為県の河川災害復旧助成事業により従来の幅7.3mに
対して幅12.8m断面積にして2倍以上の新湊川トンネルが建設され平成14年(2002)
3月に完成しました。
新湊川改修事業に伴い、湊川隧道(会下山トンネル)は河川トンネルとしての役目を
終えました。
しかし、構築後100年以上になる湊川隧道は当時の高度な土木技術で造られた貴重な
土木遺産として、保存する運動が起こり今でも築造当時のまま残されています。
以上は小生のブログ(下記サイト)より再掲。
湊川隧道(会下山トンネル)から新湊川トンネル
上の写真パネルには古湊川、旧湊川の流路が描かれています。
上の写真も岡方歴史倶楽部の展示で摂陽山海古覧(せつようさんかいこらん)から旧湊川が描かれています。
摂陽山海古覧に関する基本情報は下記のとおりです
年代: 明治時代
景観年代: 江戸時代後期
作者 :若林秀岳
解説:六甲山から開港前の神戸を眺めた図です。
全容は神戸市立中央図書館のアーカイブを参照してください。(下記サイト)
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/046.html
1796年(寛政8年)~1798年(寛政10年)年に刊行された摂津名所図会には次のように記述されています。
湊川(みなとがわ) 兵庫の北口にあり。
水源、丹生山田・東小部・西小部・藍那小河等の渓川、三流会して石井村に至り、千鳥滝といひ、
下流、兵庫拝に至って海に入る。
常は流水少なく、水碓に取る事多し。古は、石井より壊下山(えげやま)の麓を西へ流れ、兵庫の町の西より大和田浜にて海に入る。
平相国、兵庫築島せらるるの時、洪水の難を避けん為に、今のごとく川違ひありしなり。
平清盛(平相国)が古湊川を旧湊川の流路に替えたことが記載されているが真偽は不明。
この説は承安3年(1173)平清盛が大輪田泊の大規模な修築工事(経ケ島という人口島を築いた)の際、
会下山の南の塩槌山の土砂で経ケ島を造成したという伝説に基づくものです。
上の写真は摂津名所図会の中の旧湊川の画です。
真ん中に西国街道が湊川を横切っているのが判ります。
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