NHKは2023年4月27日、2025年に放送予定の大河ドラマ(第64作)が
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』に決定したと発表した。
主演は俳優の横浜流星さん(26)が務める。
江戸時代の版元で浮世絵師の喜多川歌麿や葛飾北斎を世に出したことで
江戸時代の版元で浮世絵師の喜多川歌麿や葛飾北斎を世に出したことで
知られる蔦屋重三郎の生涯が描かれます。
脚本は森下佳子さんが担当されます。制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典 演出:大原拓
2024年8月からクランクインするそうです。森下佳子さんがどの様に描かれるか
脚本は森下佳子さんが担当されます。制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典 演出:大原拓
2024年8月からクランクインするそうです。森下佳子さんがどの様に描かれるか
今から楽しみです。
NHKからの案内にリンクしておきます。
最近のNHKの大河ドラマと主演者は下記のとおりです。
2012年『平清盛』松山ケンイチ
2013年『八重の桜』綾瀬はるか
2014年『軍師官兵衛』岡田准一
2015年『花燃ゆ』井上真央
2016年『真田丸』堺雅人
2017年『おんな城主直虎』柴咲コウ
2018年『西郷どん』鈴木亮平
2019年『いだてん~東京オリムピック噺~』中村勘九郎&阿部サダヲ
2020年『麒麟がくる』長谷川博己
2021年『青天を衝け』吉沢亮
2022年『鎌倉殿の13人』小栗旬
2023年『どうする家康』松本潤 現在放送中
2024年『光る君へ』吉高由里子 2024年放送予定
2012年『平清盛』松山ケンイチ
2013年『八重の桜』綾瀬はるか
2014年『軍師官兵衛』岡田准一
2015年『花燃ゆ』井上真央
2016年『真田丸』堺雅人
2017年『おんな城主直虎』柴咲コウ
2018年『西郷どん』鈴木亮平
2019年『いだてん~東京オリムピック噺~』中村勘九郎&阿部サダヲ
2020年『麒麟がくる』長谷川博己
2021年『青天を衝け』吉沢亮
2022年『鎌倉殿の13人』小栗旬
2023年『どうする家康』松本潤 現在放送中
2024年『光る君へ』吉高由里子 2024年放送予定
そこで、蔦屋重三郎(1750-1797)について調べるため兵庫県立図書館から下記の
4冊の本を借りてきました。
1)別冊太陽 「蔦屋重三郎の仕事」平凡社(1995.4)
2)倉本初夫「探訪 蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人」(1997.6)
3)松木寛「蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者」(1988)
4)鈴木俊幸「新版 蔦屋重三郎」平凡社(2012)
これらの中から気になる事項について記述していきます。
本題に入る前にWikipediaより蔦屋重三郎の基本情報と年譜を記載しておきます。
蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)(1750-1797)
基本情報:
生まれ:寛延3年1月7日(1750年2月13日)
死去: 寛政9年5月6日(1797年5月31日)
父:丸山重助 吉原で遊郭の勤め人であった
母:津与
出生地:江戸吉原 略称:蔦重
のちに喜多川氏の養子になった。名前は喜多川柯理(からまる)
「蔦屋」は喜多川氏の屋号。
吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。
死去: 寛政9年5月6日(1797年5月31日)
父:丸山重助 吉原で遊郭の勤め人であった
母:津与
出生地:江戸吉原 略称:蔦重
のちに喜多川氏の養子になった。名前は喜多川柯理(からまる)
「蔦屋」は喜多川氏の屋号。
吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。
蔦屋の商標は富士山形に蔦の葉
年譜:
安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、
はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見
(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から
出版業に関わっていった。
年譜:
安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、
はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見
(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から
出版業に関わっていった。
安永3年(1774年)、遊女評判記『一目千本』を出版
安永4年(1775年)、吉原細見『籬の花』を出版
安永9年(1780年)、売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙
を出版したのを手始めに本格的に出版業を拡大。
かねてから付き合いのあった狂歌師たちや絵師たちを集め、
それまでにない斬新な企画を統括し(プロデューサー業)
洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行した。
天明1年(1781年)、喜多川歌麿 『身貌大通神略縁起』
黄表紙 志水燕十作を出版
天明3年(1783年)、丸屋小兵衛の株を買取り一流版元の
並ぶ日本橋通油町に進出、洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、
錦絵を出版するようになる。浮世絵では喜多川歌麿の名作を
世に送ったほか、栄松斎長喜、東洲斎写楽などを育てている。
鳥居清長、渓斎英泉、歌川広重らの錦絵を出版している。
天明7年(1787)-寛政5年(1793)
松平定信による寛政の改革により、娯楽を含む風紀取締りが厳しくなる。
天明8年(1788年)、喜多川歌麿 『画本虫撰』 絵入狂歌本
寛政3年(1791年)、山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』
『錦の裏』、『娼妓絹?(しょうぎきぬぶるい)』が摘発され
蔦屋重三郎は過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖50日
という処罰を受けた。
寛政3年(1791年)‐寛政4年(1792年)頃、
喜多川歌麿 「婦女人相十品」 大判 錦絵揃物
寛政5年(1793年)頃、
喜多川歌麿 「歌撰恋之部」 大判 錦絵揃物
寛政6年(1794年)5月 - 寛政7年(1795年)1月、
東洲斎写楽の版画全作品役者絵を出版する
寛政9年5月6日(1797年5月31日)、48歳で没。
脚気であったという。
寛政10年(1798年)、
北尾重政、葛飾北斎、鳥文斎栄之ほか 『男踏歌』 絵入狂歌本
蔦屋重三郎の人間像
石川雅望は墓碑に蔦重のことを次のように書いています
「志気英遇にして、細節を修めず、人に接するに信を以てす」
「志気英遇にして、細節を修めず、人に接するに信を以てす」
(人に抜きんでた優れた気性をもち、度量が大きく細かいことにこだわらず、人に対しては
信義を尊重する)
狂歌師「蔦鳥丸」=蔦屋重三郎の画
山東京伝『箱入娘面屋人魚』寛政3(1791)年
出典:国立国会図書館デジタルコレクション。
蔦屋重三郎が口上を述べる姿が描かれている。左端の「蔦唐丸」は蔦重の狂歌師名。
吉原細見-創業
吉原の大門そばに小さな本屋を出し、吉原お遊びガイドブック「吉原細見(よしわらさいけん)」
の小売を始めた。
店の名前は耕書堂 とした。
当時吉原細見を出版していたのは老舗の版元鱗形屋孫兵衛であったが、
蔦重はその支援を受け、吉原細見の小売から編集制作、出版に手を広げていきます。
上の写真は新吉原大門口時代の蔦屋店頭 出典:3)Page34
江戸時代、享保年間(1716-1736)の版元は取り扱う本の種類によって
書物問屋と地本問屋の2つに分けられた。
書物問屋:堅い内容の本(例:儒学書、仏教関係書、歴史書、医学書など)
地本問屋:草双紙や絵双紙などえどの地で出版された書籍を扱う
例として黄表紙(青本)、洒落本、読本、錦絵、浮世絵、一枚摺、吉原細見、長唄本、道中すごろく
蔦屋重三郎は小売り本屋から出発し地本問屋として商売を発展させていきます。
日本橋通油町へ
上の写真は日本橋通油町の蔦屋店頭 出典:3)Page8
安永9年(1780)、老舗の版元鱗形屋孫兵衛が破産したことにより売れっ子作家の朋誠堂喜三二や
恋川春町がフリーになった。蔦重は彼らと手を組み、この年に突如15種もの書籍を刊行。
従来から付き合いのある朋誠堂喜三二、北尾重政、勝川春章なども出版に貢献しています。
それからも人気作家と組みヒット作を世に送り、地本問屋の中でも隆盛を誇る存在になっていきます。
黄表紙の出版
安永9年(1780)、蔦重は朋誠堂喜三二を起用して黄表紙(大人向け小説)の出版をスタート。
当初は恋川春町、市場通笑、芝全交、伊庭可笑などが代表的な作家であった。
その後、山東京伝(1761-1816)をはじめ下記の作家が活躍します。
下の写真は山東京伝の寛政3年(1791)作の黄表紙作品「仕懸文庫」の一部
出典:3)Page101
南杣笑楚満人、唐来参和、岸田杜芳、志水燕十、森羅亭万象、太田南畝、恋川好町など。
蔦重、狂歌に傾注する
安永10年(1781)蔦重31歳の頃、狂歌ブームが起こります。天明3年(1783)頃がピーク。
時代の趨勢に敏感な蔦重は狂歌の世界に身を投じる(狂歌名:蔦唐丸 )
蔦屋重三郎と浮世絵
蔦重が役者絵の浮世絵の出版を始めたのは寛政3年(1791)頃からである。
喜多川歌麿の美人画などの名作を世に送ったほか、栄松斎長喜、東洲斎写楽などを育てている。
上の写真は東洲斎写楽の役者絵 寛政6年(1794)の作 出典:1)Page106
写楽作品は全て蔦重の店から出版されています。
その他、蔦重が世に送った浮世絵師として北尾重政、勝川春章、山東京伝(北尾 政演 )、
北尾政美などがいます。
上の写真は喜多川歌麿の代表作の1つ「寛政三美人」1793年作 出典:1)Page93
上の写真は栄松斎長喜の作品「日の出美人」 出典:1)Page99
「TSUTAYA」と蔦重
レンタルビデオ・書店大手企業の1つである「TSUTAYA」は、創業者の祖父が営んでいた屋号が
「蔦屋」だったことに加え、写楽など有名絵師を世に送り出した蔦屋重三郎にあやかって
名付けられたともいいます。
菩提寺 日蓮宗「正法寺」
正法寺の住所:東京都台東区東浅草1-1-15
蔦屋重三郎(喜多川柯理)の法号「幽玄院義山日盛信士」
寛政9年5月6日(1797年5月31日)没
正法寺の墓碣銘(いしぶみ)
喜多川柯理墓碣銘の起草者石川雅望(1753-1830)は宿屋飯盛という名の狂歌師で
天明狂歌四天王の1人である。
上の写真が石川雅望が書いた正法寺の喜多川柯理墓碣銘 出典:3)のPage39
正法寺の実母顕彰碑の碑文
上の写真は大田南畝(なんぽ)(蜀山人) が書いた実母顕彰の碑文
上述の喜多川柯理墓碣銘と実母顕彰の碑は正法寺で再建されています。
多くの方が現地を訪問して写真撮影されていますのでリンクさせていただきました。
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