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日本で最初にロケットを開発した糸川英夫博士の生涯

2024年01月27日 05時58分32秒 | Weblog
2024年1月22日19:30からNHKEテレで放送された偉人の年収How much?ロケット開発者
「糸川英夫」を視聴しました。この番組で紹介された内容を中心に糸川英夫博士の生涯を纏めた。
特記していない写真は全て上記番組によります。

糸川秀夫博士(1912年7月20日~1999年2月21日 86歳で死没)の生涯を年譜形式で
記載していきます。

1912年(大正元年)0歳    7月20日、東京都西麻布で生まれる。
1923年(大正12年)?11歳 麻布の南山小学校に学び飛び級で卒業
1935年(昭和10年)23歳 第一東京市立中、東京高校を経て、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。
         中島飛行機に入社し、戦闘機の設計に関わった。
         独力でジェットエンジンを研究
   帝国陸軍の九七式戦闘機、一式戦闘機 隼、二式単座戦闘機 鍾馗を開発
    
1941年(昭和16年) 28歳 東京帝国大学第二工学部(千葉市)助教授に就任。
1945年(昭和20年) 32歳 敗戦により航空機の研究禁止
  それまでの振動に関する知見を活かし脳波の研究などを進める
1948年(昭和23年) 36歳 東京大学教授に就任。
1949年(昭和24年) 37歳 音響工学で博士号取得。
1951年(昭和26年)38歳 ペンレコーダー式の脳波測定器を日本で初めて作る

1953年(昭和28年)41歳 東京大学でロケットの開発をスタート
     当初は輸送手段として考えていた。
1954年(昭和29年) 42歳 東京大学生産技術研究所内にAVSA(航空及び超音速空気力学)研究班を組織。



IGY(国際地球観測年)準備会議で日本は上空60Kmの観測を分担
期限は3年と定められていた。

1955年(昭和30年)
   正月 「東京からサンフランシスコまで20分で飛ぼう」 新聞記事が掲載
     新聞に大きく掲載された事で民間から資金が集まった。

    4月 東京都国分寺市の新中央工業跡においてペンシルロケットの水平発射実験を行う。
   ペンシルロケットの制作費は約5,000円であった
上の写真は長さ23cm 重さ200gのペンシルロケット

上の2枚の写真はペンシルロケットを手に持つ糸川英夫博士とロケットの構成要素
出典:日本図書センター「日本人」はじめて百科④産業・技術をうみだした人(2008)Page28
上の写真はペンシルロケットの水平発射実験で基礎データ(ルート、速度、時間)を取得

   同年8月 43歳 秋田県の道川海岸にて、ベビーロケットの飛翔実験を実施。
出典:日本図書センター「日本人」はじめて百科④産業・技術をうみだした人(2008)Page29
最初は音速に近いスピードで高度約600mまで打ち上げることができました。
ベビーロケットの寸法は直径8cm、全長8cm、重さ約10kg(下の写真)
高度60Kmに達するためにはさらに大型化が必要であった。
出典:日本図書センター「日本人」はじめて百科④産業・技術をうみだした人(2008)Page29

1958年(昭和33年)46歳 2段式K-6型ロケットが高度60kmに到達し、IGY(国際地球観測年)に参加。
K(カッパ)6型の写真は上の写真の右下。説明文で高度6kmと記載されていますが60kmが正しい。

1960年(昭和35年)48歳 K-8-1 高度190km到達、世界初のイオン密度測定
1961年(昭和36年)49歳 日本海側での打上げに限界を感じ、射場候補地を求めて全国を調査。内之浦長坪地区に白羽の矢を立てる。
上の写真は内之浦にロケット発射場を建設するため住民への説明会で説明する糸川博士
工事で地元住民に協力を依頼した。実際に住民たちが工事に参加した。
      4月 K-9L-1 高度310km到達
1962年(昭和37年) 2月 50歳 東京大学鹿児島宇宙空間観測所起工式
     5月 K-8-10ロケット事故(秋田ロケット実験場での最後の実験)
     10月 能代ロケット実験場開設
1963年(昭和38年)51歳  M(ミュー)ロケットの開発研究に着手。
     鹿児島宇宙空間観測所が完成

1964年(昭和39年)52歳 東京大学宇宙航空研究所発足
7月 L(ラムダ)-3-1打上げ、高度1,000kmに到達。
1965年(昭和40年)53歳 Mロケット1段目モータ燃焼試験(能代ロケット実験場)。
     6月 科学衛星計画発表(日本学術会議宇宙空間研究特別委員会)
1966年(昭和41年) 9月54歳 L(ラムダ)-4S-1打上げ失敗
         12月 L-4S-2打上げ失敗
1967年(昭和42年) 3月 55歳 東京大学を退官。組織工学研究所を設立し、    これを機に宇宙開発から引退する。
1967年の3月11日朝日新聞で糸川博士への批判記事が掲載
糸川博士は宇宙開発は後進に譲り自分は身をひいた。
      4月 L-4S-3打上げ失敗
       漁業者との交渉のため、翌年9月までロケットの打上げを中断。
1969年(昭和44年)57歳  9月 L-4S-4打上げ失敗
1970年(昭和45年)58歳 2月11日 L-4S-5号機で、日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げに成功
 1957年にソ連、1958年に米国、1965年のフランスに続き世界で4番目の打ち上げ国となった。
 
上の写真は内之浦から打ち上げられた人工衛星「おおすみ」を搭載したラムダ4Sロケット
出典:日本図書センター「日本人」はじめて百科④産業・技術をうみだした人(2008)Page29

1972年(昭和47年) 60歳日本シンクタンク協議会代表幹事として、コンファレンス「日本の限界と可能性」を開催。このころ、イノベーション国際会議(東京)での組織工学のアプローチ手法発表、「海洋開発産業技術協会」の立ち上げ、組織工学研究会の全国展開、「逆転の発想」の出版などを行う。
1975年(昭和50年)63歳  62歳から始めた“バレエ研究”の成果として貝谷バレエ団の公演「ロミオとジュリエット」のモンタギュー伯爵役で帝劇デビュー。
上の写真はバレエのレッスンの様子
上の写真は糸川博士63歳の時の年収1億700万円
上の写真は研究者の年収(参考)

1992年(平成4年)80歳 長年手塩にかけたヴァイオリン「ヒデオ・イトカワ号」を完成させ、80歳の誕生日を期して、サントリーホールでコンサートを開催。
1994年(平成6年)82歳 純国産技術だけで作られたH-Ⅱロケット打ち上げに成功
 以降、現在までに48機打ち上げられています。
1995年(平成7年)83歳 長野県丸子町の山荘に移り住む。国際音楽村の設計に携わり、これを完成させる。
1999年(平成11年) 人類の未来・日本の将来に深い憂慮を抱く一方、若い世代の活躍に大きな期待を寄せながら、2月21日療養中であった長野県丸子町の病院で逝去。享年86歳。
2003年(平成15年) 5月9日 M-V-5号機で打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」がサンプルリターンを行った小惑星25143は、糸川英夫博士にちなんで同年8月「イトカワ」と命名された。


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