2022年5月27日、百耕資料館の春季企画展を観覧した折に第1回神戸歴史遺産認定記念
企画展の資料「武井家文書」を入手した。
その中に天保14年(1843)に描かれた「板宿村絵図」がある。
この絵図を利用して当時の板宿村周辺の光景を想像してみたいと思います。
板宿村は現在の行政区域では神戸市須磨区となります。
百耕資料館の春季企画展の観覧記は下記ブログで書いています。
百耕資料館 春季企画展の観覧記 on 2022-5-27 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の写真が武井家文書「板宿村絵図」天保14年(1843)です
上の写真は上記地図をコピーして主要箇所の名前を記したものです。
絵図には灌漑用「ため池」と妙法寺川からの導水路が描かれています。
ため池には夫々、名前がつけられています。
妙寺川の東側(右手)「亀ケ池」、西側には「前池」「靍ケ池」「坂千代池」「大手池」
西代村への街道(現在の三木街道)の東に「虹ケ池」、その上流には「菱ケ池」があります。
前池は前池町として現在も残っています。
黄色部分が田地で当時大部分が水田であったことが解かります。
また赤の部分は畑地です。畑地には薪を採るための「林畑」もあった。
妙寺川の両側には「荒」と書かれた氾濫による荒地もある。
絵図には多くの寺社も描かれています。
延文年間(1356~1361年)月庵禅師宗光により創建された禅昌寺が絵図の北東に大きく
描かれています。
西側には北から板宿八幡神社、地蔵堂、阿弥陀堂が描かれています。
また、中央部、妙法寺川の西側に明神の建物が描かれています。
明神は池之宮明神、鳴滝明神とも呼ばれ、「明神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森があったが
明治40年(1907)板宿八幡神社に合祀された。明神町という地名が残っています。
古墳時代の遺構、得能山古墳があった付近でもあります。
以下は得能山古墳に関する説明で書きブログからの再掲です。
得能山古墳と念仏山古墳 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
横尾山から東に延びた標高約50mの台地を得能山と言っています。
この台地の突端で大正12年(1923)10月に宅地造成工事中4世紀前後の
古墳が発見されました。この古墳は得能山古墳と命名されています。
所在地の住所は神戸市須磨区板宿町3です。
板宿八幡神社(神戸市須磨区板宿町3-15-25)の北東に立地しています。
得能山古墳は妙法寺川の右岸に位置しています。
遺跡からは竪穴式石室と割竹形木棺(頭部は北側)が発見された。
被葬者は分析の結果、50代の女性と推察されています。
出土の主な遺物は銅鏡2面(半円方形形帯絵模様敷神獣鏡と四葉座内行花文鏡)、
鉄刀・鉄剣・鉄鏃が出土した。現在は国立東京博物館に保存されている。
明神町1丁目に鎮座されていた池ノ宮神社(現在は板宿八幡神社に合祀)付近でも
古鏡四面が掘り出された記録がありますが、残念ながら現在古鏡の行方は不明です。
得能山の名前の由来は建武3年(1336)新田義貞軍に属し、湊川の戦いで
足利尊氏を迎え討つためこの山に陣を張った四国伊予の豪族、得能通俊がその合戦で
自害しましたが、同氏を山上の葬ったとする説があります。
さらに亀ケ池の北側に東光寺、春日森、かや堂、薬師堂。南側に蔵王権現が記されています。
「らん塔」が中央部の妙寺川東側に記されているが、普段村人が参って死者の霊を慰める
「詣り墓」です。
中央部、妙法寺川西側には村の行政を担う「村番」が記されています。
田地に字名(小地名)が記されています。現在も地名として残っているものは平田、新ケ内、
笹子、大黒、太田、角戸、南所、黒土、飛松など
上記の文章は下記の2冊の本を参照しました。
1)大国正美 「古地図で見る神戸」(2013)Page262-266
2)大国正美 「古地図で楽しむ神戸」(2019)Page82-85
最後に明治43年(1910)の須磨の地図を添付して筆を置きます
この地点では宅地開発は進んでおらず田地と多くのため池は残っています。
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