CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

いわやのパスタ屋さん Yamamotoでのランチ on 2015-11-20

2015年11月22日 05時37分00秒 | 神戸情報
2015年11月20日(金)、兵庫県立美術館での銅版画(エッチング)の帰りに寄った
阪神岩屋駅前のいわやのパスタ屋さん Yamamoto(旧店名 REPAS) 
でのランチを写真紹介します。

Yamamotoの基本情報

住所:神戸市灘区岩屋中町4-3-18  TEL:078-801-0819
料理ジャンル:イタリア料理
営業時間:11:00~15:00(L.O.14:30)、17:00~23:00(L.O.22:00)
定休日:日曜日
公式HP:http://www.hotpepper.jp/strJ000485726/

goo地図はこちら
 


上の写真はランチのメニュー表の看板です。


当日はパスタランチ900円(税込)をいただきました。
上の写真のメインのパスタの他にスープとサラダさらに食後のデザートが
つきます。

REPAS時代の訪問記にリンクしておきます。
前はビュフェスタイルの店でした。

 いわやのパスタ屋さん REPAS でのランチビュッフェ on 2012-4-27

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創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2015-11-17 

2015年11月22日 05時09分31秒 | 神戸情報
2015年11月17日(火)にいただきました創作 京ダイニング 季づ菜でのランチを
写真紹介します。

季づ菜(KIZUNA)の基本情報
住所:神戸市垂水区名谷町3428−1  TEL:078-792-5544‎
コーナン名谷店の近くにあります。 ジャンルは日本料理
定休日:水曜日及び第3火曜日  料理長は田中克明 氏

公式HP:http://washoku-kiduna.com/

地図は下記のブログに添付
 遊楽料理 季づ菜でのランチ on 2014-11-11



上の写真は私が注文したお気に入りの餡かけ石焼き海鮮丼1,000円(税別)
これからの寒い季節にピッタリです。体が暖まります。
汗だくで食べました。




上の写真は奥様が注文の茶そば御膳。お値段は1,050円(税抜き)とデザート


上の写真はトイレの中にあった小物の置物。

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カフェ オリーブ(Cafe Olive)でのランチ on 2015-11-11

2015年11月22日 04時46分57秒 | 神戸情報
YS-11以来の国産機のMRJが初飛行した記念すべき2015年11月11日に垂水区下畑
にあるカフェ オリーブ(Cafe Olive)でランチをいただきましたので写真紹介します

カフェ オリーブ(Cafe Olive)の基本情報

住所:神戸市垂水区下畑町淵ヶ上588番地 TEL:078-751-7853
営業時間:8:30~18:00
定休日:木曜日



当日のランチメニューはすき焼きでした。(上の写真)

ボリュームが多すぎて奥様は全部食べ切れない状態でした。
コーヒーがついて900円です。




上の写真はCafe Olive の外観です。


最初にMRJの話をしたのでNHKニュースよりMRJの写真を添付しておきます。

 
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三木市 「竹とんぼ」でのランチ on 2015-11-19

2015年11月21日 05時14分17秒 | 神戸市以外の兵庫県
2015年11月19日、三木市口吉川町殿畑の「竹とんぼ」でランチを
いただきましたので写真紹介します。

竹とんぼの基本情報

住所:三木市口吉川町殿畑20-5 TEL:0794-89-5151
営業時間 : 11:30~21:00
料理ジャンル:創作料理
定休日:水曜日

公式HP:http://www.eonet.ne.jp/~taketonbo/

殿畑交差点(篠原神社参道入り口)のすぐ前で解り易いが、念のため
Goo地図を添付しておきます。



薩摩黒豚を使用した「六白黒豚」がメインのお店


上の写真はメニュー表に書かれていた薩摩黒豚の説明書き


当日いただいたのはハンバーグ定食1,000円(税込)です。
上の写真がそのハンバーグ定食です。とっても肉が柔らかくてお薦めです。


上の写真はランチのメニュー表です。

「おまかせ」ランチ 1,580円、六白黒豚とんかつ定食 1,200円
カツカレー 1,260円などがお手頃価格のお薦めのようです。

女性客で満員の繁昌ぶりでした。









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三木市の紅葉めぐり on 2015-11-19

2015年11月20日 05時25分56秒 | 神戸市以外の兵庫県
2015年11月19日に三木市の紅葉めぐりを楽しんで来ました。


三木商工会議所の観光委員会が発行した上の「もみじの名所12選」を片手に
見てまわりました。番号はすべてこの地図によるものです。
行った順番に写真を紹介していきます。12か所のうち9か所まわれました。

⑥伽耶院


上の写真が当日の写真です。
同じアングルで2010年11月23日に写真を撮っていますので下に添付します


2010-11-23の訪問記の詳細は下記サイト
 伽耶院(がやいん) in 三木市 on 2010-11-23

⑦法輪寺








⑨善祥寺






⑩吉祥寺






⑪法光寺






⑧蓮花寺




④慈眼寺






③金剛寺







⑤大宮八幡宮




2015年11月18日の神戸新聞 北播磨版には伽耶院と慈眼寺の紅葉が紹介
されていました。


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川西家邸宅の残影と6代目川西清兵衛、川西龍三の業績

2015年11月19日 05時05分40秒 | 神戸情報
神戸市須磨区は関西の財界で活躍した事業家が多数住んでいる場所である。

今回ごく簡単に調べ本日紹介する6代目川西清兵衛とその次男川西龍三も須磨に
居を構えた一人である。

まず、表題に書いた川西家邸宅の残影について写真ともに説明紹介します。





上の2枚の写真は神戸市須磨区の某所に残る旧川西家邸宅の門の遠近景です。
6代目の川西清兵衛は兵庫津の川崎町に明治43年頃まで住んでいたが、
明治44年(1911)頃、須磨のこの地に移住した。
清兵衛はこの地でお茶や謡曲を楽しんだと言われています。

6代目の川西清兵衛は慶応元年(1865)大阪高麗橋で蝋商を営む士族・筑紫三郎助
の4男として生まれ名を音松と称していた。

明治23年(1890)11月24日 筑紫音松、神戸市兵庫川崎町114番地で石油石炭商や
貸倉庫、屋根瓦・砂利・石灰など左官材料販売などを営んでいた「座古清」
川西清兵衛の婿養子(長女ヌイと結婚)として入籍した

当時、兵庫津では一の小曾根、二に座古清と呼ばれるほどの資産家であった。

6代目の川西清兵衛(旧姓:筑紫音松)は養子先の家業に安住せず時代に即した
新規事業開拓を行い川西財閥の祖となった。


以下6代目川西清兵衛の業績と賞罰について時代年譜とともに記す。
 特に会社名が記載されず社長、会長 川西清兵衛とあるのはすべて日本毛織

赤字は2019-2-5に訂正
以前、昭和7年(1932)2月2日の事象としていた部分を削除


明治28年(1895) 日本商業銀行(後に富士銀行と合併)を開業

明治29年(1896)
12月3日 榎本農商務大臣より日本毛織株式会社設立認可、川西清兵衛社長に就任

明治40年(1907)兵庫電気軌道(山陽電気鉄道の前身)を創業し、
              神戸と明石、姫路を結ぶ電気鉄道を開業。

明治44年(1911)
10月15日 社長川西清兵衛、山陽皮革株式会社(資本金100万円)を創立し、
        取締役社長に就任

大正元年(1912)
12月10日 社長川西清兵衛、緑綬褒章を受く

大正2年(1913)
2月 日本毛糸紡績株式会社(資本金250万円)創立、川西清兵衛社長に就任

大正4年(1915)
11月10日 社長川西清兵衛、産業功労者として正6位に叙せらる

大正6年(1917)姫路に日本フェルトを創立(現 アビック)

大正7年(1918)
7月 社長川西清兵衛、川西商事株式会社(資本金200万円・社長川西龍三、
        現在の川西倉庫株式会社)を創立
  神戸生糸などの多数の企業を設立し川西財閥に
  日本飛行機製作所を群馬県太田に設立 社長川西清兵衛
大正9年(1920)
   社長川西清兵衛、株式会社川西機械製作所(所長川西竜三)
       を創立し、相談役に就任
   飛行機、繊維機械の生産を開始(神戸市兵庫区の川西倉庫の1棟を改造利用)


大正10年(1921)
4月 社長川西清兵衛、日本羊毛工業会の理事長に就任
12月15日 社長川西清兵衛、紺綬褒賞を受く

大正11年(1922)
6月 社長川西清兵衛、株式会社伊丹製絨所の相談役に就任
7月1日 川西商事株式会社を川西倉庫株式会社と改称、
      社長川西清兵衛、同社相談役に就任

大正12年(1923)
11月25日 社長川西清兵衛、株式会社安田銀行監査役に就任
    日本航空株式会社を設立。水上機で大阪-別府間就航

大正13年(1924)
4月 わが社羊毛工業会を脱退、社長川西清兵衛理事長を辞任
11月 社長川西清兵衛、神戸生糸株式会社(資本金300万円、代表取締役有馬唯一)
      の取締役に就任

大正14年(1925)
5月20日 社長川西清兵衛、安田信託株式会社取締役に就任
- 社長川西清兵衛、神戸瓦斯株式会社取締役に就任

昭和元年(1926)
2月15日 社長川西清兵衛、オリエンタルホテル株式会社取締役に就任
10月10日 社長川西清兵衛、フランス政府よりカンボデーオフィセー勲記授与さる

昭和3年(1928)
3月10日 社長川西清兵衛、日伯拓植株式会社(資本金150万円)を創立し、
         取締役社長に就任
    川西航空機(株)を設立 資本金500万円 社長川西龍三

昭和3年(1928)
6月10日 資本金2,000万円で昭和毛糸紡績株式会社を創立し、
     川西清兵衛取締役社長に就任
8月 社長川西清兵衛、日本羊毛工業会会長(個人の資格にて)に就任
11月5日 社長川西清兵衛、川西航空機株式会社(資本金500万円、社長川西竜三)
      を創立し、相談役に就任
12月15日 社長川西清兵衛、神戸生糸会長に就任

昭和4年(1929)
5月 社長川西清兵衛、日本羊毛工業会会長辞任

昭和7年(1932)
5月 社長川西清兵衛、還暦祝
12月28日 社長川西清兵衛、オリエンタルホテル株式会社取締役社長に就任

昭和8年(1933)
1月12日 社長川西清兵衛、神戸実業協会会頭に就任 日本毛織
9月 社長川西清兵衛、羊毛国策論を公表 日本毛織

昭和9年(1934)
2月 社長川西清兵衛主唱のもとに、「南阿羊毛輸入促進に関する正会員および
      輸入商協議会」を開催
- 社長川西清兵衛の提唱により日満緬羊協会設立さる

昭和11年(1936)
12月24日 川西清兵衛、取締役会長に、川西清司、専務取締役に就任、
      塚脇敬二郎、常務取締役辞任、東洋パルプ株式会社社長に就任

昭和13年(1938)
1月18日 会長川西清兵衛、神戸商工会議所顧問に就任
2月16日 会長川西清兵衛、日伯拓植株式会社取締役会長に就任
2月 会長川西清兵衛、実業教育振興委員会に対する答申「時局に対処すべき
     実業教育方策」において所信開陳
10月 会長川西清兵衛、兵庫県商工経済会顧問に就任

昭和14年(1939)
2月10日 会長川西清兵衛、財団法人神戸村野工業学校理事に就任
4月 会長川西清兵衛、日本羊毛工業会理事長を辞任、名誉会長に推薦さる
5月3日 会長川西清兵衛、東洋パルプ株式会社取締役会長に就任


昭和15年(1940)
4月11日 会長川西清兵衛、山陽皮革株式会社相談役就任
6月 日本鉱産業株式会社(資本金19万円)創立、会長川西清兵衛、相談役に就任
9月 会長川西清兵衛、神戸生糸の相談役に就任

昭和16年(1941)
3月20日 会長川西清兵衛、大政翼賛会神戸支部顧問に就任

昭和17年(1942)
3月1日 会長川西清兵衛、翼賛政治体制確立協議会兵庫県支部支部長に就任
6月10日 会長川西清兵衛、大政翼賛会兵庫県支部顧問に就任
7月16日 会長川西清兵衛、神戸実業協会名誉会頭に就任

昭和18年(1943)
11月 会長川西清兵衛、東洋パルプ相談役に就任

昭和20年(1945)
1月20日 会長川西清兵衛、神戸市顧問就任
    川西機械製作所の製衡部を独立させ、大和製衡株式會社として発足

昭和22年(1947)
7月4日 会長川西清兵衛、公職追放令により追放さる
11月19日 川西清兵衛没す、83才

昭和25年(1950)
12月21日 故川西清兵衛、公職追放令解除


ニッケの関係ということで昭和8年(1933)5月に運転を始めた日本毛織
加古川工場の遺物とも言え、現在も残るニッケの社宅の写真を添付しておきます
(撮影:2014-5-12)










6代目 川西清兵衛は日本毛織の創業者として羊毛工業の開発した人物として
超有名であるが航空機産業を中島飛行機(現在の富士重工業)の創業者の
中島知久平とともに興したことも特記事項として忘れてはならない。
中島知久平の略歴を下記に記す。


中島知久平の略歴
1884年(明17)1月1日:中島粂吉・いつの長男に生れる (現群馬県太田市尾島)
1898年(明31):尾島尋常高等小学校卒業
1902年(明35):専門学校検定試験合格
1903年(明36):海軍機関学校入学(第15期生)
1907年(明40):海軍機関学校卒業 翌年少尉任官
1911年(明44):日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行(日本で2番目の操縦員)
          海軍大尉に昇進
1912年(明45):海軍大学卒業
1912年(明45):アメリカに出張、飛行士免状取得(日本人で3人目)
1916年(大 5):海軍士官としてヨーロッパへ航空事情の視察  
1917年(大 6):海軍を退官、群馬県太田に「飛行機研究所」を設立
1930年(昭 5):第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で立候補して初当選
1937年(昭12):鳩山一郎、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会の総裁代行委員に就任
1938年(昭13):鉄道大臣
1939年(昭14):政友会の分裂に伴い、政友会革新同盟(革新派)総裁就任
1945年(昭20):終戦直後、東久邇宮内閣で軍需相、商工相。
         その後GHQによりA級戦犯に指定される
1947年(昭22):A級戦犯指定解除
1949年(昭24):10月29日:東京都三鷹の泰山荘にて急死 、享年65歳


航空機の話題に移ったことで川西機械製作所の飛行機部門の日本航空株式会社で
事業を担当した川西清兵衛の次男川西龍三について述べていきます。

川西龍三氏についてはWikipediaより引用させていただきます。

川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2月20日 - 1955年
(昭和30年)1月24日)は、阪神財閥系譜・川西財閥2代目総帥。
 帝国海軍用航空機開発者、川西航空機・川西機械製作所社長、
 新明和工業創業者。従五位、旭日単光章。戦後、公職追放指定。

 兵庫県神戸市須磨生まれ。川西清兵衛の次男で、川西清司の弟。

旧制姫路中学校(姫中)を経て上京し、慶應義塾大学理財科を卒業。
合資会社日本飛行機製作所(後の中島飛行機)で勤務し、飛行機の設計・製作を学ぶ。
慶應義塾大学時代の学友に、坂東舜一が居る。大正9年(1920年)に父が神戸に
創業した川西倉庫に川西機械製造所を設立すると、29歳の若さで所長に就任。
父の川西清兵衛は相談投に退いた。

1928年(昭和3年)には川西機械製造所から飛行機部門を分離して川西航空機を設立。
三国同盟が成立すると、日独伊親善協会顧問に就任。
帝国飛行協会、大日本産業報国会嘱託。
川西航空機は、三菱重工業や川崎航空機といった当時の航空機製造メーカーよりも
規模が小さく、水上機及び飛行艇を専門にして制作していたが、採算を無視した
川西龍三の飽くなき国産航空機製造への情熱が、後の局地戦闘機紫電の開発に
繋がったとされる[1]。

真珠湾攻撃が実行され太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると、元海軍航空技術廠長
・前原謙治(海軍中将)を副社長に招聘。
菊原静男、関口義男を幹部に据え、研究を重ねて最新鋭の陸上機を作ることを海軍に
提案し了解を得る。
昭和15年(1940年)に大型飛行艇・「二式大艇」を167機製造し、更に昭和18年
(1943年)には迎撃戦闘機「紫電改」を完成させる。
九七式大艇、二式大艇、戦闘機「紫電改」を世に送り出し、米軍から恐れられた[2]。

しかし、次第に戦局が悪化するに従って、川西航空機の全国各地の工場は空襲にあい、
ほぼ全焼。
国営軍需工場として接収された後、第二次世界大戦が終了すると、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より即座に解散を命じられ、全ての財産を失った。
更に川西の高い戦闘機の技術は全てアメリカに奪われてしまうことになった。
川西龍三社長は公職追放指定を受けた(後に解除)。

戦後は八東町議会議員として町政の進展に尽力。昭和24年(1949年)には
新明和興業(現在の新明和工業)を創立。死去に際して叙勲「旭日単光章」を受章。
享年62歳。


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阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その8 常地山 本行寺

2015年11月18日 06時43分19秒 | 大阪情報
阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 シリーズの第8回目です。
今回は常地山 本行寺をお送りします。

これまでの散策記

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その1 円成寺と京口町の道標

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その2 八幡大神宮

 阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その3 高槻城跡公園

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その4 高槻城の残影と高山右近像

阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その5 藤井竹外邸跡

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その6 野見神社 

  阪急高槻駅南地区散策記 on 2015-10-25 その7 カトリック高槻教会

常地山 本行寺の基本情報

住所:高槻市大手町2-43 TEL:072-675-0006
宗派:日蓮宗 山号:常地山
御本尊:題目宝塔、釈迦多宝の二仏
公式HP:http://hongyouji.net/a05/



上の写真は常地山 本行寺です。
本行寺のある地域は高槻城の鬼門にあたるそうで、寺が多く立地しています。


上の写真は本行寺の説明版です。

慶安4年(1651年)に、高槻城主の永井直清が平癒祈願をし、見事かなったこと
から本堂を建立し、それ以来高槻城主の祈願所となり、「病を除く寺」として
有名になったとされる。(Wikipediaより)


上の写真は高麗門(左)と法華経守護神の塔(右手)
法華堂守護神の塔は昭和61年(1986)6月に再建されたものです。


上の写真は高麗門の説明版。


高麗門をくぐると正面に妙見堂が見えてきます。


上の写真は本堂です。


上の写真は本堂に架けられている扁額。



上の写真は境内庫裡前の庭です。良く手入れされています。

上の写真は外から観た庫裡。


上の写真は日清戦争、西南の役、日露戦争で殉職死された方を祀る石碑。


上の写真は高槻三面大黒天神


上の写真は鐘楼。



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パティシエ ニシカワケンジが関西テレビで放映 on 2015-11-16

2015年11月17日 05時15分01秒 | 神戸情報
昨日(2015-11-16)月曜日の関西テレビ「よ〜いドン!」朝9時50分〜放送で
関西のスイーツを紹介するサイト「KANSAI Sweets」を運営されている三坂美代子
さんがお薦めする関西の3つのSweetの名店を紹介するコーナーで神戸を代表して
パティシエ ニシカワケンジが紹介されましたのでその内容を紹介すると共に
2015年10月11日にパティシエ ニシカワケンジを訪問していますので
その時の様子も併せて紹介します。

パティシエ ニシカワケンジの基本情報

住所:神戸市須磨区多井畑字若林9-7 TEL&FAX:078-743-0015
定休日:火曜 

公式HP:http://www.patissier-nishikawa.com/
Facebookサイト:https://www.facebook.com/PatissierNishikawa
2015年7月にリニューアルオープン

神戸セレクションの関係で各地に出かける場合はお店は休業となるので
事前に出かける日が営業日であるかどうか確認してお出かけ下さい。


Goo地図はこちら
 


関西テレビ「よ〜いドン!」でのパティシエ ニシカワケンジ紹介内容をまず
ご覧ください。

上の写真はお店の外観



ショウーケース内のスイーツ(上の2枚の写真)


オーナーパティシエの西川健司さん。以前フランス料理店であったのを今年
7月にリニューアルオープンしたことが紹介されていました。








お薦めのフルーツタルトとその作っている作業行程が紹介されていました。


最後にお店の所在地、連絡先などが紹介されていました。

番組では紹介されていませんが神戸セレっクションの6&7に選定されている
ショコラダムール、ショコラダムール抹茶もお薦めです。

これらは2万円のふるさと納税(神戸市)で特典として商品216を選択すれば
送付されてきます。

関西テレビ「よ〜いドン!」で紹介された残りの2つのスイ-ツについて
簡単に紹介しておきます。



上の写真はエクレア専門店で10月に開業したばかりの レクレール・ドゥ・ジェニ
高島屋 大阪店 地下1階の紹介です。
モンブランのエクレアがお薦めの商品



上の写真はプレスキル ブティック PRESQU'ILE BOUTIQUEの紹介

さて、これから2015年10月11日のパティシエ ニシカワケンジ訪問記を
書いていきます。



上の2枚の写真はパティシエ ニシカワケンジの表の看板です。


上の写真は掲示板の掲示







上の写真は当日いただいた軽食とスイーツです。



フランス料理 フォレ ド リキゥ 時代のブログ記事にリンク
 
 須磨のフレンチの星 フォレ ド リキゥ でのランチ on 2013-11-2

 フォレ ド リキゥ でのランチ on 2014-9-17

 フォレ ド リキゥ でのランチ on 2014-10-26












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「ぼくとわたしの阪神電車」絵画コンクールの受賞作品展示 in 阪神神戸三宮駅 on 2015-11-13

2015年11月16日 05時30分37秒 | 神戸情報
2015年11月13日、「ぼくとわたしの阪神電車」絵画コンクールの受賞作品
展示が阪神神戸三宮駅の構内で行われていました。


上の写真が受賞作品15点です。

1,826点の応募から選ばれた作品だけにどれも素晴らしい出来栄えだと思います。
見入ってしまいました。

ぼくとわたしの阪神電車」絵画コンクールは2005年から毎年募集され2015年の
今回は11回目だそうです。

受賞作品の詳細は阪神電鉄のHPに掲載されています。
 http://www.hanshin.co.jp/kaiga/


上の写真は主催者からのコメント文です。

展示は11月19日(木)までです。

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椎名麟三の文学碑 in 山陽電鉄本社前 on 2015-11-9

2015年11月15日 05時18分40秒 | 神戸情報
本日は山陽電気鉄道(山陽電鉄)本社前にある椎名麟三の文学碑を写真紹介
します。 撮影:2015年11月9日

上の写真は椎名麟三文学碑の遠景です。バックは山陽電気鉄道の本社建物。
山陽電気鉄道は通称山陽電車とも言っています。

椎名麟三は昭和4年(1929)頃より、宇治川鉄道(現山陽電鉄)に車掌として
2年余り勤めていたこと、またその経験を生かし「美しい女」を執筆したこと
により昭和60年(1985)3月この地に文学碑が建てられた。

文学碑の正面には「考えてみれば人間の自由が僕の一生の課題であるらしい」
この文章は椎名麟三が1954年に書いた『自由の彼方で』のあとがきに書いた
ものと碑文に刻まれています。
『自由の彼方で』は1954年大日本雄弁会講談社より出版 のち
 新潮文庫、講談社文芸文庫より出版

碑文の側面には上の写真のような椎名麟三(本名:大坪昇)の略歴が書かれて
います。

読みずらいと思いますのでそのまま引用記載します。


椎名 麟三   本名 大坪 昇

1911年10月1日 姫路市生まれ少年期を大阪、姫路で過ごす

1929年     宇治川電気(株)電鉄部(現山陽電気鉄道(株))に
        入社、2か年余り車掌として勤務。のち上京
        して作家を志す。

1947年     「深夜の酒宴」を発表し戦後派第一の新人として世に出る。

1953年     自伝小説「自由の彼方で」を発表

1956年     「美しい女」で芸術選奨文部大臣賞を受賞・
        代表作であるこれらの作品は当社に勤務して
        いたころの生活を背景に書かれたもので、この頃より
        西代、須磨、姫路に想いをよせた多くの秀作を世に問う。

1973年3月26日  没 享年61歳

          1985年3月
             山陽電気鉄道株式会社


Wikipediaで紹介解説された椎名麟三像について引用させていただきます。

「父・大坪熊次(おおつぼ くまじ)と母・みすの、の長男として、兵庫県飾磨郡曾左村之内書写村(現・姫路市書写東坂(ひがしさか))に出生。両親ともに愛人を持ち、のちに父母ともに自殺した事から困窮し、14歳で家出。旧制姫路中学を中退し、果物屋での20時間労働、飲食店の出前持ち、燐寸工場の鉄具ひろい、コック見習いなどの職を転々とした。宇治川電気(現・山陽電鉄)の車掌時代にカール・マルクスを読みはじめるとともに日本共産党に入党。

 1931年(昭和6年)に特高に検挙された。獄中で読んだニーチェ『この人を見よ』をきっかけに転向。その後ニーチェの『大いなる正午』をきっかけに哲学にのめり込む。エッセイ「蜘蛛の精神」によれば、キルケゴール、ジンメルなどを師とあおぎ、後に入信することとなるキリスト教に関する知識を得た。小説に関してはドストエフスキーとの出会いを通して「小説なるものの真の意味」を知ったと述べている。戦後『深夜の酒宴』(1947年(昭和22年))で登場。1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。55年『美しい女』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1973年(昭和48年)3月28日に61歳で死去。」

平成27年(2015年)2月14日(土)から3月29日(日)まで姫路文学館で
寄贈記念「椎名麟三新資料展」が開催されました。

このイベントは椎名麟三の文学資料がご遺族の大坪家から寄贈されたことを記念
して開催されたものです。今回展示される資料のほとんどが未公開資料で、
椎名が手もとに保管していた原稿、創作ノート、草稿、書斎の本棚に置かれていた
愛蔵書、おもに家族にあてた手紙、演劇やテレビ、ラジオ関係の台本などがあります。

詳細の情報は下記サイトに記載されています。

姫路市書写山円教寺女人堂に向かう石段際の生家前にも岡本太郎による文学碑が
あるようです。
 詳細の情報は下記サイトに記載されています。






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