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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

2016年の主な天文現象

2016年02月14日 05時07分26秒 | Weblog
2016年の主な天文現象をピックアップしました。

3月9日
 部分日食
  大阪では10時5分~11時52分 最大は10時58分

5月31日
 火星が最接近
  2年2ケ月ぶりの地球接近

8月12日-13日
 ペルセウス座流星群極大

8月24日
 火星・土星・アンタレスが接近

9月15日
 中秋の名月

11月16日
 アルデバランの食

12月13日-14日
 ふたご座流星群極大

天文関係で過去に書いたブログ記事
 
 2012年6月6日(水)は金星が太陽を横切る「金星の太陽面通過」 の日です。

 2009年7月22日の皆既日食の情報 

 2012年6月6日(水)は金星が太陽を横切る「金星の太陽面通過」

 金環日食の写真 in 神戸市垂水区(2012-5-21)



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重力波(Gravitational waves )に関するお勉強

2016年02月13日 05時09分25秒 | Weblog
2015年9月14日に時空の歪みが伝搬する波動現象がツインレーザー光を利用した
観測装置(LIGOが一辺4kmのレーザー干渉計をワシントン州とルイジアナ州に
2台設置)で世界で初めて捉えた成果の記者会見が2016年2月11日にワシントンで
報道陣を前に発表され話題になっています。
LIGO(Laser Interferometer Gravitational Wave Observatory、
直訳:レーザー干渉計重力波観測所)は2015年秋に感度を高めるアップグレード
を遂げておりこの成果に寄与していると思われます。


2015年のアップグレードで従来(2010年以前)の感度が3倍になり、検知できる
範囲は従来の最大6500万光年から最大2億2500万光年先までと広がりました。
最終的には10倍の6.5億光年の感度にまで上げる目標で進められる。

2月11日の発表に対してニューヨークタイムスが解り易い報道をしていますので
リンクさせていただきます(下記サイト)
 http://www.nytimes.com/2016/02/12/science/ligo-gravitational-waves-black-holes-einstein.html

そこで重力波に関するお勉強をしましたので紹介します。
素人のお勉強ですので誤記もあるかと思いますがご容赦を。

1.重力波とは

重力波とは宇宙を構成する物質の振動です。たとえば超新星爆発とか
ブラックホールの合体といった巨大な事象によって起こる、時空の波です。
空の上の星も、地球の上の人間を構成する原子も、宇宙の遠くで起きる星の
大きさレベルの衝撃によって、いつもほんのちょっとだけ揺れています。

Wikipediaでは次のように解説しています。
「重力波(じゅうりょくは、英語: gravitational wave)は、一般相対性理論に
おいて予言され、後に観測された波動であり、時空(重力場)の曲率(ゆがみ)
の時間変動が波動として光速で伝播する現象である。」


2.重力波の観測装置

1)干渉計型検出器(地上)
装置の原理は以下のとおり(Wikipediaより)
強力なレーザー光の干渉計を用いるもので、1つの発振装置から出たレーザー光を
直交する二方向に分け、一辺が300mから4kmのアームを往復させる。レーザーの
反射には、時空の歪みを自由に反映する鏡を用いることにより、重力波が通過
した時の四重極の歪みによる二方向の距離差(理想的には片方は伸び、
もう片方は縮む)が干渉縞の変化から検出される、という原理である。


この装置を持つ観測網は下の写真のとおりです。

 出典:https://www.ligo.caltech.edu/detection

2)干渉計型検出器(宇宙空間)

宇宙空間に衛星を打ち上げてレーザー干渉計を形成し、重力波を検出しようと
いうLISA(Laser Interferometer Space Antenna)計画がNASAとESAによって
進められている。これは3台の衛星で、一辺が500万kmのレーザー干渉計を形成
するもので、ターゲットとする周波数帯は、地上の重力波よりも低い。
合体の数年前の連星系からの重力波・白色矮星の振動による背景重力波・
初期宇宙起源の重力波を捉えるであろうと期待されている。

 以上Wikipediaより引用
2015年12月に衛星は打ち上げられました。

3)間接的な方法

1974年、ジョゼフ・テイラーとラッセル・ハルスは、連星パルサーのPSR B1913+16
を発見し、その自転周期とパルスの放射周期を精密に観測することによって、
その軌道周期が徐々に短くなっていることを突き止めた。
この現象は、重力波によってエネルギーが外に持ち出されたことで起きるとされ、
その周期減少率は一般相対論の予言値に誤差の範囲内で一致した。
この業績により、2人は「重力研究の新しい可能性を開いた新型連星パルサーの発見」
としてノーベル物理学賞を1993年に受賞した。

 以上Wikipediaより引用

3.重力波測定の意義

重力波によって観測できる宇宙の現象には次のようなものがあります。

ブラックホールや中性子星、光を出さない物体の観測
超新星爆発、ビッグバーンなどの宇宙の歴史の解明


上の写真は昨日(2016-2-12)の朝NHKテレビ 解説員のここに注目のパネルで
今後、重力波観測の意義について説明されていました。


関連サイト:
 国立天文台による解説

 ヒッグス粒子の発見のニュース  

  宇宙や物質の成り立ち、解明に前進 ヒッグス粒子の発見

 サイエンスZERO ノーベル物理学賞 ダークエネルギーが宇宙を加速するを視聴して

 LIGOの解説サイト

 NASAのサイト(LIGOが重力波を検出)

 赤方偏移 Red shift

 国立天文台の重力波観測プロジェクトのサイト

 京都大学作成の重力波関連の解説サイト

 安東正樹先生が作製の重力波に関する説明

中途半端な記事となりましたがタイムアウトとなりましたのでこのへんで
アップします。


2016年2月22日(月)、13:50から14:00 NHKテレビ Eテレで東京大学・
国立天文台の准教授の安東正樹氏が「重力波が切りひらく新たな天文学」という      
題目で重力波について解説されていましたので追記しました。

1.一般相対性理論では重力の正体は時空の歪

 

2.レーザー干渉計を用いた重力波の観測原理
 

3.LIGOが捉えた重力波
 
 アインシュタインの相対性理論の曲線と波形は見事に一致している

 米国内の2カ所の検出装置で得た信号を解析した結果、地球から13億光年
 離れた場所で、それぞれ太陽の29倍と36倍の質量を持つ二つの
 ブラックホールが合体した際に生じた重力波と判断し公表された。

4.KAGRA(LCGT)は岐阜県神岡の地下サイトに一辺3km、全長6kmのL字型
 巨大レーザー干渉計を建設し、宇宙からの重力波を検出しようとする
 プロジェクトです。KAGRAは1辺が3KmでLIGOの4Kmと比較して短いが
 極低温で観測するので感度としてはLIGOの装置と同程度であると
 言われていました。


上の写真は2016年3月から試験観測、さらに2017年から本格稼働する
KAGRAの装置です。

イタリアのVIRGOの装置での観測も含めて多点で観測することで
ブラックホールの位置の特定など今後の成果が期待される。













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兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2015年度後期 第3作

2016年02月12日 05時09分14秒 | Weblog
現在、製作中の銅版画作品のドラフト原画を写真紹介します。
2015年度後期の第3作になります。


法隆寺の金堂の第6号壁画 阿弥陀浄土図の一部で勢至菩薩です。

どんな作品に仕上がるか楽しみです。


上の写真は本日(2016-2-12)に刷ったものです。

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兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2015年度後期 第2作 その3

2016年02月12日 04時47分44秒 | Weblog
現在、製作中の作品で最近印刷した作品を写真紹介します。
2015年度後期の第2作になります。

作品は喜多川歌麿の作品「深川の雪」の一部で題名は 江戸美人 深川の雪より


アクアチントをかけて作品のタッチを変化をつけたものです。
銅版画も奥が深く難しい。中々思ったイメージどうりに仕上がりません
芸術センスが全くないのが一番の問題ですが。落ちこぼれが続いています。


第2作の製作過程が判るのでその1とその2にリンクを貼ります

兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2015年度後期 第2作 その1

兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2015年度後期 第2作 その2
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松尾芭蕉と神戸&明石

2016年02月11日 05時49分43秒 | 神戸情報
日本人ならほとんどの人が知っている俳諧の巨匠の松尾芭蕉:正保元年(1644)
伊賀上野に生まれ、元禄7年(1694)大阪で死去(50歳)。

松尾芭蕉は全国を旅しており神戸にも寄った記録が残っています。
その残照を求めて今に残る石碑を中心に写真紹介します。

松尾芭蕉が神戸の地に足を踏み入れたのは貞享5年(同年の9月30日に元禄と改元)
3月19日(新暦換算:1688年4月19日)尼崎を船出し兵庫に夜泊しています。

時に芭蕉45歳、奥の細道の旅に出る前年のことでした。少なくとも3月21日までは
滞在していた。23日に京に帰るとの記述あり(猿雖宛て手紙)

松尾芭蕉が窪田猿雖(えんすい)に宛てた手紙(下に添付)が神戸&明石訪問
の証となっています。窪田猿雖の別名で惣七と呼ばれることもある。

十九日あまが崎出舩。兵庫に夜泊。相国入道の心を尽されたる経の嶋・わだの御崎・
わだの笠松・だいり屋敷・本間が遠矢を射て名をほこりたる跡などききて、

行平の松風・村雨の旧跡・さつまの守の六弥太と勝負し玉ふ旧跡かなしげに過て、
西須磨に入て、幾夜寝覚ぬとかや関屋のあとも心とまり、一ノ谷逆落し・鐘掛松
・義経の武功おどろかれて、てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、
あはぢ嶋。丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、
天皇の皇居はすまの上野と云り、其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて
舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、宝剣・内侍所
あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、
指櫛・根巻を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがに
みるここ地して、あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。
磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして
戦場に望み、熊谷に組ていかめしき名を残しはべる。その哀、其時のかなしさ、
生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ。此一言梅軒子へも伝度候。
すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗に候。蝉折・こま笛・料足十疋、見る迄もなし。
この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る。
廿一日布引の瀧にのぼる。以下略


3月20日に芭蕉らは現光寺境内の風月庵に宿を取ったといわれている

現在(2008-2-6撮影)、現光寺には、風月庵跡の石碑が残っています(上の写真)

芭蕉が訪れた神戸&明石の古い塚
乙女塚 忠度塚 清盛塚 敦盛塚 人丸塚 松風村雨塚 通盛塚 越中前司盛俊塚
 河原太郎兄弟塚 良将楠が塚


芭蕉が訪れた神戸の山
 てつかいが峯 勝尾寺ノ山


宝永6年 (1709)に刊行された「笈の小文(おいのこぶみ)」に神戸及び明石で
松尾芭蕉が詠んだ俳句が収納されています。

以下は石碑に残る句を中心に話を進めていきます。

「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
俳句の意味は「夏の月が、こうこうと夜の海面を照らす海の底で、蛸壺の蛸は
捕らわれの身とも知らず、なんとはかない夢をむさぼっていることだろう」


また、「はかなき夢」には、平家一門の運命の哀れさを重ね合わせている
という解釈もある。


上の写真は明石市の柿本神社の南側にある松尾芭蕉の句碑です。
句碑は芭蕉75回忌にあたる明和5年(1768)に江戸生れの俳人松岡青蘿が
創建、崩壊のため玉屑が復興、更に魯十が再建した。


上の写真は神戸市須磨区の現光寺の芭蕉の句碑です。
「見渡せばながむれば見れば須磨の秋」
天和2年(1682)、松尾芭蕉39才の作です。当時より松尾芭蕉は秋の時期に
須磨を訪問したいと思っていたのですが実際に訪問したのは上述のように
現代暦の4月中旬で須磨の秋の月を見れずに残念がり次の句を詠んでいます。

「月はあれど留守のやう也須磨の夏」

「月見ても物たらはずや須磨の夏」


上の写真は上の写真は、松尾芭蕉が敦盛を偲んで詠んだ句碑です。
須磨寺本坊の前の庭にあります。
  
「 須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下闇 」と詠まれています。
 この俳句の意味は下記のとおりです。
 「須磨寺の背山の緑は深い。日差し強ければ、強いだけ
  木陰も濃い。目くらみするほどの木下闇。その深き翳に
  入ると、いずこからか、哀しい「笛の音」が聞こえてくる。
  敦盛が吹く笛の音だろうか? いや、木の葉が風に揺れて
  いるだけかもしれない…。」


その他同時期に須磨関連で詠んだ句には
 「海士(あま)の顔先(まず)見らるゝやけしの花」

 「須磨のあまの矢先に鳴くか郭公(ほととぎす)」

 「ほとゝぎす消行方や嶋一つ」
があります。



上の写真は須磨浦公園にある芭蕉の句碑で「蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石」   
芭蕉が1688年45歳のときに詠んだ有名な句で昔の摂津と播磨の国境の境川の畔で
詠まれたものである。境川は秀吉の天正検地のときから摂津と播磨の境界となった。
句碑は昭和11年(1936)4月に羅月吟社により建立されました。

句碑の字は寺崎方堂先生によるものです。
寺崎方堂先生は明治23年(1890)神戸市に生まれました。
浜崎通で家業を営みながら俳句を学び大津市の義仲寺の第18世無名庵主と
なり、芭蕉以来の蕉風俳諧の伝統を伝えるべく、昭和22年俳諧詩「正風」
を創刊し、これを主宰しました。昭和38年(1963)12月24日没。

松尾芭蕉は「笈の小文」の中で鉄拐山&鉢伏山から内裏そして敦盛塚、
須磨海岸の情景を下記のように綴っています。

「鉢伏のぞき・逆落などおそろしき名のみ残て、鐘懸松より見下に、
一の谷内裏やしきめの下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさはぎ、さながら
心にうかび俤につどひて、二位のあま君、皇子を抱奉り、女院の御裳に
御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有 ??ま、内侍・局・女嬬・
曹子のたぐひ、さまゞの御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんどしとね・ふとん
にくるみて船中に投入、供御はこぼれてうろくづの餌となり、
櫛笥はみだれてあまの捨草となりつゝ、千歳のかなしび此浦にとゞまり、
素波の音にさへ愁多く侍るぞや。」


神戸市須磨区の禅昌寺にも芭蕉の句碑あり。
手元に写真がないので句碑の句のみ掲載しておきます。
「友まつと 見えず紅葉に ひとりかな」
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伴氏社と伴氏廟 on 2016-2-7

2016年02月10日 05時09分40秒 | 京都情報
2016年2月7日、北野天満宮の三の鳥居手前にある伴氏社(ともうじしゃ)と
東向観音寺の境内にある伴氏廟の五輪塔の写真を撮りましたので紹介します。

伴氏(ともうじ)は菅原道真の母で、父菅原是善との間にできた子(菅原道真)
を承和12年(845)に出産した。



上の写真は伴氏社と現地説明板です。
伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出しています。

「大伴氏(おおともうじ)は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に
淳和天皇の諱を避けて伴氏に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、
平安時代中期以降は朝臣。

天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは
 同族関係とされる。」
以上Wikipediaより引用

この伴氏社の鳥居は京都三珍鳥居の一つだそうです。
他の2か所は蚕の社・三柱鳥居と厳島神社・唐破風鳥居。
京都三珍鳥居を紹介したサイトにリンクさせていただきます。

上の写真は北野天満宮の三の鳥居。

上の写真は東向観音寺の境内にある伴氏廟の五輪塔。
かっては伴氏社の付近にあったようです。



上の写真は受験シーズンとも重なって多くの参拝客で賑わう北野天満宮の拝殿と
梅と一緒に写した拝殿・本殿の遠景。



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ブリスベン市から神戸市に贈られた銘板 in 東遊園地 on 2016-2-5

2016年02月09日 06時12分28秒 | 神戸情報
1995年1月17日の阪神・淡路大震災から20年が経過したことを機に、神戸と
1985年7月16日に姉妹都市契約を締結した豪のブリスベン市神戸市
相互支援の証として銘板を贈呈した。
銘板はキャサリン・テイラー駐大阪オーストラリア総領事が2015年1月13日、
神戸市役所で久元喜造市長に手渡された。
銘板は横45センチ、縦30センチで、犠牲者の追悼記念碑がある神戸市内の
東遊園地内(シム像の背後のトレリス)に設置された。

関連サイト
 http://www.jlgc.org.au/sister-city-honoured-on-anniversary-the-relationship-between-brisbane-and-kobe/

以下銘板関係の写真を紹介します(撮影:2016年2月5日)




上の写真は贈呈された銘板です。設置は2015年1月15日
銘板に書かれている文章。
「Presented by Brisbane City Council to the City of Kobe in remembrance
of the 20th anniversary of the Great Hanshin-Awaji Earthquake

As Sister Cities,we continue to support each other in good times and
in times of need. January 2015


 ブリスベン市から神戸市へ、阪神・淡路大震災から20年を迎えたことを記念して
 この銘板を贈ります。姉妹都市として、穏やかなときも、困難なときも
 ブリスベン市と神戸市はお互いを支えあい続けます。 2015年1月」





上の2枚の写真は銘板の設置場所です。


神戸市の情報サイト
  http://www.city.kobe.lg.jp/foreign/english/index.html

  http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2015/01/20150107012001.html

  

2015年7月16日は神戸市とブリスベン市の姉妹都市締結30周年にあたります。
久元喜造市長は2015年7月4日から9日まで守屋隆司議長及び企業関係者ら総勢
12名でブリスベン市を訪問されています。
 
またブリスベン市からは2015年11月19日から20日にアンジェラ・オウエン・
テイラー議長をはじめとする訪問団が神戸に訪問視察されています。
 詳細は下記サイト
  http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2015/11/20151116012001.html

また神戸大学とクイーズランド大学との間で交換留学制度があり交流されて
います。


上の写真は西神中央公園のブリスベン市の紋章です。
2012-10-3撮影


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向日丘陵の古墳をめぐる -史跡めぐり大発見向日市- on 2016-2-7

2016年02月08日 14時46分08秒 | 京都情報
京都府向日市内の史跡を巡るスタンプラリー「史跡めぐり大発見向日市〜
向日丘陵の古墳をめぐる〜」が2016年2月7日、開催され参加してきました。

向日丘陵にある5基の代表的なを含め、乙訓(おとくに)地域の古墳11基が
昨年11月、「乙訓古墳群」として国の史跡に指定されたことを受け、
古墳をより身近に感じてもらえるコース設定をされたそうです。

まず向日市文化資料館で参加受けを済ました後、五塚原古墳、桓武天皇皇后陵、
寺戸大塚古墳、物集女車塚古墳、元稲荷古墳の順番で5つの古墳を巡り
ゴールの朝堂院公園に到着しました。

巡った古墳について写真と概要を説明します。
巡った古墳すべてが初めて訪れた場所なので新鮮な印象を持ちました。

1.五塚原古墳

上の写真は現地の説明板。

内容の要約を下記に示します。
古墳時代前期(4世紀)の全長91mの前方後円墳です。後円部は直径54m・
高さ9m、前方部は幅36m・高さ4mでくびれ部の幅14mの典型的な古墳時代前期
の形をしています。
注記)全長は説明板の数値と異なっています。
古墳の主体部は帝塚山大学の電気を利用した調査により後円部に東西15m
南北11mの墓穴、前方部には東西5m、南北7mの墓穴があることが判明。


上の写真は後円部の写真です。
五塚原古墳は、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓説のある奈良県桜井市の
箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ~後半)と類似形であることでも有名。
前方部の形状は、箸墓古墳と同時期の築造と推定される東田大塚古墳と一致
墳丘は後円部が3段築成、前方部が2段築成で盛り土されている。

昨年からの第7次調査で後円部が真円である事が判明しました。
 詳細はhttp://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/2015.pdf

2015年11月20日、それまでに国の史跡に指定の天皇の杜古墳・寺戸大塚古墳・
恵解山古墳の3基に加えて五塚原古墳、元稲荷古墳
南条古墳、物集女車塚古墳・・・以上向日市 長岡京市の井ノ内車塚古墳、
井ノ内稲荷塚古墳、今里大塚古墳、大山崎町の鳥居前古墳の8基が新たに
国史跡に追加されました。


上の写真はスタンプラリーのテントが設置された公園
ここから登っていきます。

2.桓武天皇皇后陵


上の写真は桓武天皇皇后陵の遠景です。

長岡京を築いた桓武天皇の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)のお墓で宮内庁陵。
直径約65m、高さ約7mの円墳です。
この円墳の北約120mのところから出土した埴輪棺の年代から4世紀末にこの地方
をしていた豪族の墓を利用して8世紀末に桓武天皇皇后陵として再利用した
のではと伝えられている。(伝高畠陵古墳)

 第50代 桓武天皇皇后(藤原乙牟漏)に関する略年表

延暦2(783)年4月18日、立后。
延暦9(790)年閏3月10日、崩御。
延暦9(790)年閏3月28日、山背国乙訓郡長岡山陵(高畠陵)に埋葬。
大同元(806)年5月19日、皇太后を追贈される。
弘仁元(809)年7月18日、嵯峨天皇に祟りがあったとして勅使が派遣される。
弘仁14(823)年4月23日、太皇太后を追贈される。
天安2(858)年12月9日、
清和天皇、高畠陵を十陵四墓に選定し荷前の幣を献上する。
天慶8(884)年12月20日、
光孝天皇、高畠陵を十陵五墓に選定し荷前の幣を献上する。
延長8(930)年、朱雀天皇、高畠陵を十陵に選定し荷前の幣を献上する。
康保元(964)年、遠陵とされる。
明治12(1879)年10月、現在の御陵を高畠陵に治定。




(第50代) 桓武天皇 皇后陵
天之高藤廣照姫之尊 高畠陵 と書かれた看板


上の写真は当日配布された資料の桓武天皇皇后陵の説明。
円墳の周囲は大正時代に造成された竹林で覆われています


宮内庁の看板より(上の写真)




次の目的地寺戸王塚古墳に行く途中には上の写真のような美しい竹林になって
おり西の岡トリムコースとしてまた竹の径として整備されています。
竹穂垣と呼ばれる垣根が美しい。

3.寺戸大塚古墳




上の写真は竹で作製された古墳垣と呼ばれる垣根と寺戸大塚古墳です






上の3枚の写真は寺戸王塚古墳の説明板です。


寺戸大塚古墳は、半分は京都市西京区大枝南福西、半分は向日市寺戸町芝山に
またがっています。全長98mの前方後円墳です。同じ丘陵上に立地する
五塚原古墳〔全長91m・前方後円墳〕、元稲荷古墳〔全長92m・前方後方墳〕、
妙見山古墳〔全長114m・前方後円墳〕と同様古墳時代前期(3c中頃〜4c中頃)
に築造された乙訓地域の首長墳として位置づけられています。
寺戸大塚古墳はこれまでに計10回にわたる調査が実施され、後円部3段、
前方部2段の前方後円墳であることが明らかにされています。

京都市の埋蔵文化財研究所みより第11次の調査が2012年に実施され
平成24年(2012)9月22日に現地説明会があり詳しい資料が下記の
サイトで確認できます。
 http://www.gensetsu.com/20120922terado/doc1.htm

4.物集女車塚古墳


上の写真は物集女(もずめ)車塚古墳の遠景です。
10時からの受付に対して8時30分頃に物集女車塚古墳に到着した為
スタンプラリーを準備されているスタッフの方以外誰もいない状態で
無理をお願いして特別公開の石室内の写真も撮らせていただきました。





上の4枚の写真は物集女車塚古墳石室内部です。


上の写真は石室関連説明板。



上の写真は物集女車塚古墳の航空写真、墳丘平面図です。

全長約45m、高さ8mの古墳時代後期(6世紀中葉)の前方後円墳。「車塚」という
名は、付近で火葬された淳和天皇の柩を運んだ車を埋めた塚だということから
この名前になったとのこと。



上の写真は石室と石棺の現地説明板。





上の4枚の写真は「現在も機能する石室の排水溝」と題した説明板です。

5.元稲荷古墳


上の写真は元稲荷古墳の遠景です。



上の写真は元稲荷古墳の現地説明板。

古墳時代前期(4世紀初頭)の全長約94mの前方後方墳
神戸市の西求女塚古墳とは双子のように形状が類似している。また、
卑弥呼の墓という説のある箸墓古墳と相似形であることは以前から言われており
大王墓とされる西殿塚古墳と1/2.5の相似形で築造されたことでも有名


上の写真は石室の天井石です。




上の写真は文化資料館の玄関前に展示の元稲荷古墳の石室天井石の展示と説明


上の写真はスタンプラリーのスタンプです。

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明治維新開港当時関門跡(居留地西関門跡) on 2015-10-2

2016年02月06日 05時41分14秒 | 神戸情報
本日は神戸駅側から元町通り(旧西国街道)のアーケードに入ってすぐ右手に
ある明治維新開港当時関門跡の石碑と関連の写真を紹介をします。
撮影:2015-10-2

住所は下記のとおりです。
神戸市中央区元町6丁目-2-17(旧神戸三越北側壁)
 ホテル「シェレナ」時代を経て現在はグランドールプラザ神戸レジデンス
 という名前のマンションになっています。
 低層部分は第一グランドホテル西元町

念のためにGoo地図を挿入しておきます。
 



上の写真は明治維新開港当時関門跡の石碑です。
原文は「明治維新開港當時関門趾」と昔字で書かれています。


上の写真は「居留地西関門跡」という題の説明書き。

説明文には次のように書かれています。
この碑は、明治維新時の兵庫開港に先立って、慶応3年(1867)に外国人居留地を
設けた時、密貿易を防ぐ目的で置いた14の番所の一つで、西国街道(現在元町通)
にあった関門跡に建てられたものです。ここの関門は西関門と呼ばれ、
明治4年(1871)に撤去されるまで、東関門とともに居留地をまもる上で
最も重視されていました。


明治時代の西関門の姿を掲載したかったのであるが手元に写真がない為元町商店街
のHPに掲載されている写真にリンクさせていただきます。
 http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont06/cont06-931.htm

東関門は生田筋と西国街道の交差する地点(現朝日ホール付近)に置かれて
いましたがこれも明治4年に廃止されました。



当日、遠景写真を撮り忘れてしまったので2008年2月29日に撮影した遠景写真
を添付しました。(上の写真)

当初、幕府は居留地の範囲を東西は生田川・鯉川の間、南北は西国街道・海岸と
考えていましたが居留地の建設工事が間に合わず居留地住民は住宅難に陥って
いました。この事態を打開するため慶応4年(1868)3月、英国、仏国、オランダ
三国代表が天皇に謁見し神戸居留地の窮状を訴えた。これに応じて明治政府の
外国事務局判事の伊藤俊輔(博文)は外国人の居留範囲を東西を生田川・宇治川
南北を海岸と山麓に定めた。「雑居地」の誕生である。

これにより走水、二つ茶屋、神戸の3村に加えて宇治野、花隈、中宮、生田宮
北野の各村にも外国人が住むことが可能になった。


上の写真は神戸三越付近を描いた市電の絵です。
さんちか古書大即売会のポスターより







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乙仲通のモニュメント on 2010-10-3

2016年02月05日 06時55分05秒 | 神戸情報


上の写真は平成20年(2008)12月1日にみなと元町協議会によって建てられた
乙仲通の銘板です。 撮影:2010-10-3
「OTSUNAKA」とローマ字表記も神戸らしくいいデザインだと思います。

平成20年(2008)当時、栄町や海岸通が女性誌に多く掲載され元町協議会は
内海岸通と呼ばれていた通りを一般投票で「乙仲通」と決まりました。
それを受けモニュメントの設置を検討し制作を宮崎みよし氏に依頼して
モニュメントが完成しました。
日本競馬会の協力で4か所に設置されました。
平成20年(2008)12月1日、奈良山会長と藤本区長の手で除幕されました。


上の写真は銘板の説明書き

銘板の説明書きより引用させていただきます。
「栄町通と海岸通の間に位置するこの通りは、かって内海岸通と呼ばれるほど
海に近く海運貨物取扱業者が古くから軒をを並べてにぎわっていました。
昭和14年、政府は戦時体制に備えこれらの業者を乙種海運仲立業にまとめました。
以来乙仲さんと親しまれその活況から乙仲通と呼ばれるようになったのです。
平成20年4月市民の声も乙仲通にまとまり、神戸市から道路の愛称に認定
されました。」


この乙仲通りは東西1Kmあり現在ではファション、小物などしゃれた店があり
街の活性化に寄与しているようです。



上の写真は銘板の中にある明治41年当時の地図の写真です。
当時の様子を想像できる面白い地図です。
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