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法隆寺 on 2015-12-20 その9 法隆寺大宝蔵院の玉虫厨子と橘夫人厨子

2016年02月02日 11時00分16秒 | 奈良情報
法隆寺訪問記シリーズの第9回です。今回は法隆寺大宝蔵院の玉虫厨子と橘夫人厨子を紹介します。

過去の訪問記
 第1回 法隆寺 on 2015-12-20 その1 西院伽藍

 第2回 法隆寺 on 2015-12-20 その2 西円堂

  第3回 法隆寺 on 2015-12-20 その3 東院伽藍

  第4回 法隆寺 on 2015-12-20 その4 中宮寺

  第5回 法隆寺 on 2015-12-20 その5 若草伽藍跡
  
  第6回 法隆寺 on 2015-12-20 その6 法隆寺の七不思議

  第7回 法隆寺 on 2015-12-20 その7 法隆寺金堂の仏像

  第8回 法隆寺 on 2015-12-20 その8  法隆寺金堂の外陣壁画


上の写真は玉虫厨子(左)と橘夫人厨子(右)の全体像です。
 出典:法隆寺図説 朝日新聞社 (1942)著作権失効

玉虫厨子

上の写真は玉虫厨子須弥座の正面の舎利供養図と裏面の須弥山図
 出典:法隆寺図説 朝日新聞社 (1942)著作権失効






上の写真は2016年1月3日(8:15~10:15)にNHKテレビで「究極ガイドTV 
2時間でまわる法隆寺」を放送されていたもので上より全体図、施身聞偈図
(せしんもんげず)と捨身飼虎図(しゃしんしこず)です。

釈尊の前世の物語のひとつで左側面の施身聞偈図は釈迦が前世に雪山(ヒマラヤ)で
修行する婆羅門であった時、人生の真理「諸行無常、是生滅法」
「 諸行は無常なり   これ消滅の法なれば 」の2句を唱えた羅刹に対して
自分の命と引き換えに続きを教えて欲しいと請います。

釈迦の前世(雪山童子)は山の上から身投げします。しかし羅刹は実は帝釈天の
化身であったので本来の姿に還って童子の身を受け求道の熱意を称賛した。

捨身飼虎図は右側面に描かれています。
この絵では極度の空腹に耐えかねた母虎が今にも自分の子供を食べようとしている
のを2人の兄とともに狩猟に来ていた魔訶薩唾(まかさつた)王子が見て、
自らは衣を脱ぎ、身を高所から投じて、母虎と7匹の子虎に肉を食わせるといった
ストーリーになっています。

同じような絵が敦煌の石窟でも見つかっています。


橘夫人厨子
国宝の橘夫人念持仏が収納されています。

橘夫人厨子に安置された、銅製の阿弥陀三尊像で光明皇后の母・橘夫人のもので
日本最古の念持仏である。
天平19年(747)念持仏が安置されたことが法隆寺流記資財帳に記載。

中央が阿弥陀如来、左側が観音菩薩、右側が勢至菩薩

この阿弥陀像は釈迦像と同じ印相をしている。すなわち右手が施無畏印、左手が
与願印である。両脇の菩薩もそれぞれ蓮華座の上に立ち、観音は化仏、勢至は
水瓶を宝冠に埋め込んである。それぞれ、慈悲と救済の象徴である。

橘夫人というのは橘三千代のことである。美努王との間に設けた子が奈良時代の
左大臣にまで上り詰めた橘諸兄であり、藤原不比等との間に設けた子が安宿姫と
いって、後に聖武天皇の妃となりった光明子である。

橘夫人の正式名は県犬養橘宿禰三千代。出生時期は不明だが出仕時期から天智4年
(665年)出生の可能性が考えられている。養老4年(720年)には夫の不比等が
死去し、『続日本紀』に拠れば翌養老5年には正三位に叙せられ、宮人としての
最高位に叙せられている。同じ年元明天皇の危篤に際し出家。
733年(天平5年)1月11日に薨去。死後の同年12月28日に従一位、760年
(天平宝字4年)8月7日に正一位と大夫人の称号を贈られた。


最初にしめした橘夫人厨子の拡大図を添付しておきます。

阿弥陀三尊が安置された仏龕部の蓋には如来、菩薩、四天王、仁王の絵が
描かれています。
須弥座の4面には彩色の絵が描かれています。金堂の壁画と技法が類似。
コメント
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