2015年12月1日、阪神尼崎の南側の寺町及び尼崎城跡を奥様と2人で
散策してきました。
本日は散策記の第5回で法園寺を写真紹介します。
過去4回の記事については下記を参照してください。
第1回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その1専念寺
第2回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その2 如来院
第3回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その3 長遠寺
第4回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その4 大覚寺
法園寺の基本情報
住所:尼崎市寺町5 TEL:06-6411-6108
宗派:浄土宗 山院号:恵光山謝徳院 御本尊:阿弥陀如来
創建:永禄4年(1561)に没した玉蓮社勝誉恵光法園が創建
当初は別所地にあったが元和年間(1615年 - 1624年)尼崎城築城の為
現在地に移住した。
上の写真は山門。山門の内側に桐、外には菊の紋があり由緒ある寺院であることを
示している。
上の写真は法園寺の縁起が書かれた説明板
上の写真は本堂。
上の写真は佐々成政の墓(五輪塔複製品)。実物は本堂内にあるそうです。
戒名は成政寺殿真州大守四品庭月道閑居士
肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政は天正16年(1588)閏5月14日
(新暦換算7月7日)に法園寺で切腹した終焉の地である。
佐々成政(1536-1588)公の生涯をWikipediaと現地説明板より要約紹介します。
佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪。
宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。
佐々成政の兄に政次・孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560)
24歳で家督を継ぎ、比良城主となる。
天文5年(1536)2月6日生まれ
永禄4年(1561)森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を
池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。
永禄10年(1567)黒母衣衆の一員に抜擢
元亀元年(1570)6月 姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・
中条家忠らと少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加、鉄砲隊を率いて活躍
天正2年(1574)長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う
天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは前田利家らと共に鉄砲隊を率いて活躍
天正3年(1575)9月 織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の
軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人
(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城
とした。
石山合戦(元亀元年(1570))や播磨国平定(1577-1580)、
荒木村重征伐(1578-1579)に従軍
天正5年(1578)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に
加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退。
天正8年(1580年)神保長住の助勢として一向一揆および上杉氏に対する最前線
であった越中国平定に関わった
天正9年(1581)2月 正式に越中半国を知行
富山城を居城として大規模な改修
天正10年(1582) 本能寺の変 上杉の魚津城を攻略
清州会議では柴田勝家方につく
天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦いで叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を
出すにとどまった。合戦中における前田利家の寝返りや
上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏
越中一国を安堵
天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いでは秀吉側につかず
織田信雄方につき秀吉方に立った利家の末森城を攻撃
徳川家康に再度挙兵を要請するが失敗
(さらさら越えとして有名)
天正13年(1585) 秀吉自ら越中に出陣、富山城を10万の大軍で包囲、佐々成政は
織田信雄の仲介により降伏
越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に
大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた
天正15年(1587) 九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を知行
秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる
成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、
これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。
このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、
摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。
天正16年(1588)閏5月14日(新暦で7月7日)に切腹
上の写真は左側大覚寺、右側が法園寺
散策してきました。
本日は散策記の第5回で法園寺を写真紹介します。
過去4回の記事については下記を参照してください。
第1回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その1専念寺
第2回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その2 如来院
第3回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その3 長遠寺
第4回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その4 大覚寺
法園寺の基本情報
住所:尼崎市寺町5 TEL:06-6411-6108
宗派:浄土宗 山院号:恵光山謝徳院 御本尊:阿弥陀如来
創建:永禄4年(1561)に没した玉蓮社勝誉恵光法園が創建
当初は別所地にあったが元和年間(1615年 - 1624年)尼崎城築城の為
現在地に移住した。
上の写真は山門。山門の内側に桐、外には菊の紋があり由緒ある寺院であることを
示している。
上の写真は法園寺の縁起が書かれた説明板
上の写真は本堂。
上の写真は佐々成政の墓(五輪塔複製品)。実物は本堂内にあるそうです。
戒名は成政寺殿真州大守四品庭月道閑居士
肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政は天正16年(1588)閏5月14日
(新暦換算7月7日)に法園寺で切腹した終焉の地である。
佐々成政(1536-1588)公の生涯をWikipediaと現地説明板より要約紹介します。
佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪。
宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。
佐々成政の兄に政次・孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560)
24歳で家督を継ぎ、比良城主となる。
天文5年(1536)2月6日生まれ
永禄4年(1561)森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を
池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。
永禄10年(1567)黒母衣衆の一員に抜擢
元亀元年(1570)6月 姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・
中条家忠らと少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加、鉄砲隊を率いて活躍
天正2年(1574)長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う
天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは前田利家らと共に鉄砲隊を率いて活躍
天正3年(1575)9月 織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の
軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人
(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城
とした。
石山合戦(元亀元年(1570))や播磨国平定(1577-1580)、
荒木村重征伐(1578-1579)に従軍
天正5年(1578)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に
加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退。
天正8年(1580年)神保長住の助勢として一向一揆および上杉氏に対する最前線
であった越中国平定に関わった
天正9年(1581)2月 正式に越中半国を知行
富山城を居城として大規模な改修
天正10年(1582) 本能寺の変 上杉の魚津城を攻略
清州会議では柴田勝家方につく
天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦いで叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を
出すにとどまった。合戦中における前田利家の寝返りや
上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏
越中一国を安堵
天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いでは秀吉側につかず
織田信雄方につき秀吉方に立った利家の末森城を攻撃
徳川家康に再度挙兵を要請するが失敗
(さらさら越えとして有名)
天正13年(1585) 秀吉自ら越中に出陣、富山城を10万の大軍で包囲、佐々成政は
織田信雄の仲介により降伏
越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に
大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた
天正15年(1587) 九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を知行
秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる
成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、
これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。
このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、
摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。
天正16年(1588)閏5月14日(新暦で7月7日)に切腹
上の写真は左側大覚寺、右側が法園寺