CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

新薬師寺の鎮守 南都鏡神社 on 2017-6-6

2017年06月16日 04時40分58秒 | 奈良情報
2017年6月6日、新薬師寺の鎮守 南都鏡神社を訪問しましたので写真紹介します。
南都鏡神社は怨霊となった藤原広嗣公が祀られています。
社伝では藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝えられています。

現在の松浦廟宮(佐賀県唐津市鏡)が上記の鏡神社に相当

南都鏡神社の基本情報

住所:奈良県奈良市高畑町468番地 TEL:0742-22-3900
御祭神:天照皇大神、藤原広嗣公、地主神
創建:大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として境内南側にて創建


公式サイト:http://www1.kcn.ne.jp/~fujishrs/


上の写真は本殿
現在の本殿は、延享3年(1746)に春日大社の第三殿を譲り受け、移築されたものである。
一間社春日造建築で、奈良市指定文化財となっている




上の2枚の写真は南都鏡神社本殿の現地説明板


上の写真は新薬師寺側からの入口遠景


上の写真は拝殿


上の写真は末社の祖霊社 昭和36年(1961)創祀 歴代の氏子功労者が祀られています

藤原広嗣
Wikipedia「藤原広嗣」よりまとめて記しました(一部加筆)

藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ、生年? - 天平12年11月1日(740年11月24日))は奈良時代の貴族
藤原式家の祖である参議・藤原宇合の長男。母は石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の娘。
官位は従五位下・大宰少弐。
聖武天皇の時代に朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなった
(不比等の四子は737年に相次いで天然痘で亡くなっている)
天平9年(737)の9月28日に従六位上から従五位下に昇叙される。天平10年(738年)4月22日、
大養徳(大和)守を兼任する。なお、叙爵以降に式部少輔に任官されている。
朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に同年12月4日に大宰少弐に左遷される。
広嗣は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に
起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。
(橘諸兄は敏達天皇の子孫で元の名前は葛城王)
真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、
その内実は諸兄その人への批判であることは明白であった。聖武天皇はこれに対して藤原広嗣の召喚
の詔勅を出す。
広嗣は勅に従わず、天平12年(740年)弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の
兵力を率いて反乱を起こした。→藤原広嗣の乱
しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、
同国唐津にて処刑された(藤原広嗣の乱)。
藤原広嗣の乱について経過を記載すると(740年9月3日~11月1日)
9月3日には都に上奏文が到着し,朝廷は謀反と判断.
    大野東人を大将軍に任じ東海道,東山道,山陰道,山陽道,南海道の五道の軍
    1万7,000人を動員するよう命じた.
9月21日,関門海峡に達した大野東人は,9月22日,勅使佐伯常人らに兵4,000人を率いて渡海させ、
     板櫃鎭(豊前国企救郡)を攻略.
9月29日,全九州の官人・百姓にあてて勅が発せられる.
10月9日,広嗣軍1万騎が板櫃川に到り,大規模な戦闘が起こる.
     敗走した広嗣は船に乗って五島列島を経て新羅へ逃れようとした.
     ところが船が進まなくなり,風で吹き戻されてしまう.
10月23日,松浦郡値嘉嶋(五島列島の古い名称)で広嗣捕縛.
11月1日,広嗣,肥前国松浦で斬刑される.

これによって多くの式家関係者が処分を受け、
奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く
要因の一つになった。


 参照サイト:藤原広嗣の怨霊と鏡神社

鏡神社の由緒(英文)を添付しておきます。





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奈良高畑町 式内 赤穂神社 訪問記 on 2017-6-6

2017年06月15日 06時45分48秒 | 奈良情報
2017年6月6日、頭塔から薬師寺に向かう途中、表題の「赤穂神社」を見つけました
扉があったが「ご自由に、御参拝下さい。」という表札があったので境内に入り写真を撮りました。

式内 赤穂神社の基本情報

住所:奈良市高畑町1320  TEL:0742-22-3900(南都鏡神社)
御祭神:天児屋命(あめのこやねのみこと)
    天満宮(自在辻子天満宮)
    弁財天社
格式:延喜式 式内社(「赤穂神社(大和国・添上郡)」に比定) 近代社格は村社
創設:不詳だが平城遷都(710年)に際してこの地に遷座なので710年以前


赤穂神社の名前の由来
熟稲を神籬に懸け「赤丹穂に聞食し給へ」と申したことより赤穂の社と呼ばれるようになったという
(鏡神社小誌に記載)


上の写真は拝殿を臨む遠景


上の写真は右が赤穂神社本殿 左が天満宮(自在辻子天満宮)と弁財天社を祀った祠

拝殿には木彫りがありここから祠の写真を撮りました(下の2枚の写真)





上の写真は境内にあった説明板

式内 赤穂神社の由来
 古来、高畑町の春日社神官邸町の西端の地に鎮座して 久しく里人の尊崇を受け給ふ。
 平安時代「延喜式」所載の古社にしてかの二月堂お水取りに読み上ぐる神名帳にも赤穂明神とあり、
 連綿今日に 至るまで読誦せらるゝ古例なり。
 上古、天武天皇紀六年に十市皇女を同十年に氷上ノ夫人を 「赤穂ニ葬ル」とあるは蓋しこの地辺ならむ。
 もと社 広大にして数百余坪 桜樹多く幕末頃まで 桜田の 地名ありき。近世の記録には天児屋根命
 を祀るとせるも加ふるに「高貴の姫君を葬る」と口碑伝承あるはいと久しく女人守護の霊験久しかりし証なり。
 明治御一新の後、この里荒廃し二百戸近き社家・祢宜の 大半は離散して築地塀のみ虚しく残り、
 秋艸道人、堀辰雄 らの文人哀惜の詩文あり。されど、より深く嘆きまさりし里人有志、滅びゆく
 天満宮址・弁才天を合祀して赤穂社の左に配し、今に二社併存す。昭和五年以来、この地の産土神鏡神社の
 別社となり、地元有志再興の至誠を注ぎ つ、今日に至る。神徳の長久を仰ぎ先人の篤信を継承して
  復興の機運を待望する所以なり。
       昭和五十二年九月十八日 例祭の佳日
          赤穂神社 地元奉賛有志
          鏡神社・赤穂神社 宮司 梅木春和


上述の説明書きに記載の「天武天皇6年(678年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682年)に
氷上娘を「赤穂」の地に葬った」ことは『日本書紀』に記載されています。

同じく境内にあった明治5年に神職を免じられた大宮守慶さんが書かれた地図には
大正15年8月上旬 鏡神社の辻本弥彦氏によって再写

ヒメ墓が描かれておりこの頃には氷上娘の墓が赤穂神社境内にあったことが判る

Wikipediaによると
氷上娘(ひかみのいらつめ)=氷上ノ夫人 (生年? - 天武天皇11年1月18日(682年3月2日))は、
飛鳥時代の女性。藤原鎌足の娘。藤原不比等・五百重娘の姉。天武天皇の夫人で、但馬皇女の母。
氷上大刀自、氷上夫人。
天武天皇11年1月18日、宮中で薨去し、赤穂に葬られた。『万葉集』に「藤原夫人歌一首」があり、
「浄御原宮御宇天皇之夫人也 字曰氷上大刀自也」と注がある。

また新薬師寺の拝観受付近くにある鏡神社の摂社の比売神社(ひめかみしゃ)はかって比賣塚が
あった地で荒れていた塚を高校教師をされていた高畑町の寺島富郷さん夫妻の尽力で十市皇女を
御祭神として昭和56年(1981)、比売神社(ひめかみしゃ)が建立された。
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国史跡 頭塔(ずとう) on 2017-6-6

2017年06月13日 12時00分54秒 | 奈良情報
2017年6月6日に訪問した国史跡 頭塔(ずとう)を写真で紹介します。
頭塔は大正11年(1922)3月8日に国史跡に指定されています。

頭塔の基本情報

住所: 奈良県奈良市高畑町921番地 
TEL:0742-26-3171(現地管理人の仲村表具店さん)
   0742-27-9866(奈良県教育委員会 文化財保存課)
拝観時間: 9:00 - 17:00  拝観料: 300円
駐車場: なし(有料の県立高畑観光駐車場から徒歩5分)
アクセス: JR・近鉄奈良駅から市内循環バス「破石町(わりいしちょう)」下車すぐ


公式HP:http://www.pref.nara.jp/6709.htm(奈良県)
公式FB:https://www.facebook.com/shiseki.zutou/


上の写真は頭塔へのアクセス 出所:史跡頭塔保存顕彰会リーフレット


上の写真は頭塔の入口
通常は鍵がかかっています。頭塔の見学を希望する場合、史跡頭塔保存顕彰会事務所でもある
仲村表具店さんに見学の旨を申し出ましょう。お留守でなければ鍵を開けていただけます。


上の写真は上述の仲村表具店の場所が書かれた案内板


上の写真は入口から階段を上って頭塔に入る道です。
左手には日蓮宗の石碑と石仏が置かれています。


少し進むと説明版があります。消えかかった部分がありますのでそのまま転記します。

史跡 頭塔
大正11年3月8日 国指定

頭塔は古くから奈良時代の傑僧玄昉の頭を葬った首塚であるとの伝もあるが 神護景雲元年(767)に
東大寺の僧実忠が造営した土塔であることが明らかになっている。
外見は森であるが、本来方形32mの四角錘台で、七段に築かれた仏塔である。各段の四方には現在
27基の石仏がのこっている。
石塔の高さ61~111cm、それぞれ浮彫、線彫などで如来三尊や侍者等をあらわした一群は変化に
富んでいる。奈良時代の彫刻ちして価値の高いこれらの石仏のうち、当時確認できた13基は
昭和52年(1977)6月11日重要文化財に指定された。

平成12年2月 奈良県教育委員会


航空写真に見る頭塔




上の2枚の写真は史跡頭塔保存顕彰会リーフレットの表紙

石仏の全体図




上の2枚の写真は史跡頭塔保存顕彰会リーフレットからコピーした石仏の全体図です

往時の頭塔は1,3,5,7の奇数壇4面に各11基ずつ総合計44基の石仏が配置されていました。
従前からある石仏(上の図で赤色)は13基あり昭和52年(1977)6月11日重要文化財に指定

従前から1基は大和郡山城の石垣に転用されていることが判っていました。

さらに平成14年(2002)にはその後の発掘調査で見出された石仏14基(上の図で青色)のうち9基が
重要文化財に追加指定されています。

したがって現在28基の石仏が確認されています。
復原にあたって4基の石仏(上の図で黄色)が補充されています。


上の写真は石仏の写真も入れた石仏の全体像


重要文化財の石仏は22基

下記の22体の石仏が重要文化財に指定されています。(*)は2002年追加指定。無印は1977年指定
 Wikipedia(頭塔)より引用

浮彫如来及一侍者像(北面第一段右)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第一段中央)
線彫如来立像(北面第一段左から2番目)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第三段中央)
浮彫如来坐像(北面第五段右)(*)
浮彫三如来坐像(北面第五段左)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第七段中央)
線彫諸尊像(東面第一段右から2番目)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(東面第一段中央)
浮彫諸尊像(東面第三段右)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(東面第五段右)(*)
浮彫二如来及六侍者像(東面第五段左)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(南面第一段中央)
浮彫如来及一侍者像(南面第一段左)
浮彫如来坐像(南面第三段右)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(南面第三段中央)
浮彫如来坐像(南面第五段右)
浮彫如来樹下坐像(西面第一段右端)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(西面第一段中央)
線彫涅槃図(西面第一段左から2番目)
浮彫如来坐像(西面第三段中央)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(西面第七段中央)


頭塔南面

上の写真は頭塔南面の現地説明板


上の写真は浮彫如来及両脇侍二侍者像 説明板では如来三尊と書かれています
上述の全体図の番号⑬




上の2枚の写真は頭塔南面の五輪塔(供養塔)群

頭塔西面


上の写真は頭塔西面の現地説明板


上の写真は頭塔西面の遠景


上の写真は浮彫如来及両脇侍二侍者像 説明板では如来三尊像と書かれています
上述の全体図では番号⑲


上の写真は線彫涅槃図  上述の全体図では番号⑳


上の写真は浮彫如来坐像  上述の全体図では番号21

頭塔北面

上の写真は頭塔北面の現地説明板


上の写真は頭塔北西から観た遠景


上の写真は北面中央から観た北面の遠景


上の写真は北東から観た遠景






上の3枚の写真は北面中央に設置の見学小広場の説明パネル

頭塔東面

上の写真は頭塔東面の現地説明板


上の写真は頭塔東面中央から観た遠景


上の写真は南東から観た遠景
一番上の五輪塔が写っています。

頭塔の復原断面と当初の頭塔断面






現地の説明パネルより頭塔の復原断面と当初の頭塔断面に関連の資料(上の3枚の写真)

ホテルウェルネス飛鳥路側から観た頭塔の遠景


上の写真はホテルウェルネス飛鳥路側から観た頭塔の遠景
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南都七大寺 大安寺訪問記 on 2017-6-6 その2 旧伽藍跡

2017年06月11日 06時49分59秒 | 奈良情報
大安寺の現在の境内については下記ブログで紹介しました。本日は旧伽藍の跡を写真紹介します。

南都七大寺 大安寺訪問記 on 2017-6-6 その1 現境内

伽藍全体図


上の写真は平城京に移築され全盛期の大安寺の模型(大安寺宝物館に所蔵)
最盛期には887名の僧侶が住んでいたそうです。


上の写真大安寺の拝観リーフレットに書かれた伽藍配置の平面図


上の写真は平城京全体図からみた昔の大安寺位置図 出典:拝観リーフレット


上の写真は全盛時の大安寺境内の平面図 出典:東塔跡の説明板(一部加筆)


上の写真は大安寺の拝観リーフレットに記載の江戸時代の大安寺境内図

東塔跡


上の写真は復元された大安寺東塔跡の基壇
基壇の中央には石碑があり大正13年(1924)3月建設と刻まれています。

下記サイトに西塔跡も含めた発掘調査の結果が紹介されています。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_daianji.htm


上の写真は大安寺本堂に奉納された天平伽藍(八木 春樹氏の作品)
建設当時は七重塔であったと考えられています。








上の4枚の写真は現地説明板

西塔跡


上の写真は大安寺西塔跡の基壇を撮ったものです。
柱の礎石も写っています。


上の写真は西塔跡基壇周辺でトレンチを埋め戻した跡が写っています。

経楼跡


上の写真は経楼跡の遠景




上の2枚の写真は大安寺旧境内の石碑と説明板

南大門跡

上の写真は大安寺南大門跡





上の写真は大安寺南大門跡の現地説明板

北面中坊跡




上の2枚の写真は北面中坊跡の礎石などの復元




上の写真は北面中坊跡の現地説明板

大安寺北面中房跡
(北東中房・北西中房)

 天平19年(749)頃の大安寺の縁起と財産を記した目録によれば、当時大安寺には887人もの
僧がいました。その僧たちが寺の中で起居した建物が僧房(僧坊)です。
 大安寺の僧房は金堂・講堂を囲うように東・西・北の三面に二重に建てられていました
(内側の僧房は太房、外側の僧房は中房と呼ばれます)。発掘調査の結果、北東、北西中房とも
当初は凝灰岩の切石を積んだ基壇(壇正積基壇)でしたが、後の時代に造りかえられていることが
わかりました。大安寺は平安時代に幾度か火災にあい、再建されたことが記録に残っています。
調査でも火災の跡が確認されていて、その記事を裏づけていますが、北面中房が平安時代末期以降、
再建されることはなかったようです。

ここでは、発掘調査の成果をもとに凝灰岩で当初の基壇と礎石の復原整備を行っています。



このあたりには大安寺の役場があったらしく役場跡の石碑が建っていました。

南都大乗院門跡




上の2枚の写真は南都大乗院門跡大安寺墓肧と書かれた石碑と墓石
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南都七大寺 大安寺訪問記 on 2017-6-6 その1 現境内

2017年06月10日 04時39分32秒 | 奈良情報
前から訪問したいと思っていた大安寺、ようやく2017年6月6日に訪問できました。
写真にて簡単に紹介していきます。

大安寺の基本情報

住所:奈良市大安寺2-18-1  TEL:0742-61-6312  FAX:0742-61-0473
宗派:高野山真言宗 御本尊:十一面観音 山号:三論学山
創建:舒明天皇11年(639) 百済大寺として建立

公式サイト:http://www.daianji.or.jp/index.html
公式FB:https://www.facebook.com/%E5%8D%97%E9%83%BD%E4%B8%83%E5%A4%A7%E5%AF%BA-%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA-874318499276752/?fref=ts

本堂








本堂の写真を色々な角度から撮りました(上の4枚の写真)

大安寺は熊凝精舎(聖徳太子)現在の額安寺 → 639年百済大寺(舒明天皇/吉備池廃寺) 
→673年 高市大寺(天武朝大官大寺) →701年文武朝大官大寺(天武天皇→文武天皇/大官大寺跡)
 → 716年平城京大安寺という変遷を経て現在地の周辺(平城京左京六条四坊ほか)に移築

その規模は平城京の15区画(約530m四方)という広大な寺域を有していました。

天平19年(747)に進上された『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には大安寺の創設について
詳細に記述されています。その一部を紹介します。

推古22年(622)推古天皇は田村皇子を遣わして聖徳太子の病気を見舞う。太子、熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)
(「熊凝道場」とも)を大寺と成すことを欲すとの遺言があり舒明天皇の時代に初めての天皇家の為の
百済大寺が639年に百済川の側に創建された。
百済大寺はその後、、高市(たけち)大寺(天武朝大官大寺)、文武朝大官大寺、大安寺と名前を
変え現在の大安寺に繋がっています。

百済大寺は桜井市の吉備池廃寺跡にあったことが発掘調査(1997.1.8~2001.7.24)等により
ほぼ確実視されています。


上の写真は飛鳥京と藤原京周辺で百済大寺、高市大寺、大官大寺に関連する場所です
出典:奈良文化財研究所 吉備池廃寺発掘調査報告(2003-3-28) Page156

聖徳太子の遺言で大安寺が創建されたということで聖徳太子像(元興寺蔵)を添付
撮影:2012-6-7



上の写真は境内の説明板に書かれた大安寺の由緒記

嘶堂(いななきどう)


上の写真は嘶堂(いななきどう)です。堂内には天平の秘仏馬頭観音(重文)が安置
馬頭観音立像の特別公開日は今年(2017)は 3月1日~31日


上の写真は馬頭観音像(重文) 
出典:サライ 2010年5月号 Page42

小子坊


上の写真が小子坊 写経と阿字観の道場です。

護摩堂

上の写真が護摩堂です

宝物殿(講仰堂)


上の写真は宝物殿

中には不空羂索観音立像、楊柳観音立像、聖観音立像、持国天王像、増長天王像、広目天王像
多聞天王像の合計7体の天平仏像が安置(いずれも重文)

御竹地蔵尊


上の写真は御竹地蔵尊

稚児大師像


上の写真が稚児大師像  弘法大師の七歳像だそうです。

供養塔


上の写真が供養塔 歴代先師の供養塔です


上の写真は供養塔の説明石碑


上の写真は大安寺中興の清晃大和上の功績を記した石碑


いのちの小径





上の3枚の写真はいのちの小径の看板及び中の様子

宗務所

上の写真は宗務所

手水舎

上の写真は手水舎

主な年中行事


上の写真は主な年中行事

山門




上の写真は山門
 南大門跡に建てられました

南大門跡


上の写真は山門の内側で南大門跡の基壇の位置が石で示されています。


上の写真は南大門跡の石碑


上の写真は南大門跡の説明板


上の写真はかっての大安寺の様子を描いた平面図

中門跡

上の写真は中門跡の石碑



上の写真は平城京に移築され全盛期の大安寺の模型(大安寺宝物館に所蔵)
最盛期には887名の僧侶が住んでいたそうです。

書き出してからだいぶ時間が経過(3時間)し疲れてきました。
以上で現境内の訪問記を終了します。

続編でかっての境内について書く予定です。
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推古天皇社 on 2017-6-6

2017年06月09日 04時14分49秒 | 奈良情報
2017年6月6日、南都七大寺の大安寺を訪問しました。その折表題の「推古天皇社」を
訪問することもできましたので写真紹介します。

推古天皇社の基本情報

住所:奈良市大安寺町1丁目1285
御祭神:豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(=推古天皇)




上の2枚の写真は社殿の現況 撮影:2017-6-6
現在の社殿は明治9年の再建を原型としているようです。



上の写真は現地説明板

一部加筆していますが書かれている内容を下記に記載
推古天皇社は「大安寺」参道の東側に鎮座しています。祭神は日本初の女帝、第33代推古天皇で、
名を額田部、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめノみこと)と云い、彼女は554年第29代欽明天皇の
第2皇女として生まれ、母は蘇我堅塩媛(そがノきたしひめ)、18歳で第30代敏達天皇の皇后になって、
皇后は眉目秀麗な美人だったと伝えられ、異母兄第32代崇峻天皇崩御の後、皇位を巡ってさまざまな
動きがあったが、592年12月8日豊浦(とゆら)宮において即位し日本における最初の女帝となった。
第33代天皇(崇峻天皇5年(592)12月8日~推古天皇36年(628)3月7日在位36年)で、
593年4月10日聖徳太子に皇太子・摂政を委ねて政治を行い、628年小墾田宮にて75歳で崩御されました。
「外交の刷新・仏教に依て日本民族の思想と生活を改める事等」、従って日本の歴史の中でも輝かしい時代であった。


推古天皇の陵は、大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に
治定されている。公式形式は方丘。考古学名は山田高塚古墳。
『古事記』によると、亡くなった年(628年)の9月20日に喪礼が執り行われ、遺令によって
女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された(所在は奈良県橿原市五条野の植山古墳とされる)
後年、時期は不明ながら、河内国磯長山田陵に改葬されたという。

以上はWikipedia(推古天皇)より引用


『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間で東側に推古天皇の社殿の絵が描かれています。(上の写真)
大安寺の拝観リーフレットより部分コピー




上の2枚の写真は推古天皇社の境内社の金毘羅社と説明書き?




上の2枚の写真は大日如来石像





境内には多くの紫陽花が咲き誇っています。(上の2枚の写真)

天平19年(747)に進上された『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には大安寺の創設について
詳細に記述されています。その一部で推古天皇に関係する部分を紹介します。

推古22年(622)推古天皇は田村皇子を遣わして聖徳太子の病気を見舞う。太子、熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)
(「熊凝道場」とも)を大寺と成すことを欲すとの遺言があり舒明天皇の時代に初めての天皇家の為の
百済大寺が639年に百済川の側に創建された。
百済大寺はその後、、高市(たけち)大寺(天武朝大官大寺)、文武朝大官大寺、大安寺と名前を
変え現在の大安寺に繋がっています。

百済大寺は桜井市の吉備池廃寺跡にあったことが発掘調査(1997.1.8~2001.7.24)より
ほぼ確実視されています。


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NHKテレビ  けさのクローズアップ 「薬師寺「食堂(じきどう」再建 5年の日々」を視聴して

2017年06月08日 10時22分08秒 | 奈良情報
昨日(2017-6-7)、表題の番組を観ました。(7:20~7:30に放送)

まず、薬師寺の基本情報


住所:奈良市西ノ京町457  TEL:0742-33-6001
宗派:法相宗大本山 
御本尊:薬師如来  開基:天武天皇9年(680)天武天皇勅願
公式HP
http://www.nara-yakushiji.com/

薬師寺は1998年ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
南都七大寺の一つです。

南都七大寺は下記のとおりで天平勝宝元年(749)に定められた墾田の
地限の数値も併記しました。

興福寺(奈良市)  1,000町歩
東大寺(奈良市)  4,000町歩
西大寺(奈良市)  
薬師寺(奈良市)  1,000町歩
元興寺(奈良市)  2,000町歩
大安寺(奈良市)   1,000町歩
法隆寺(生駒郡斑鳩町) 500町歩

天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願い天武天皇9年(680)に建立。
藤原京に建てられ本薬師寺と呼ばれ現在も橿原市城殿町に東西両塔と金堂の基壇(土壇)が
残っています。持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、
飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。
平城遷都(710)に伴い現在地(平城京右京六条&七条六坊)に移されました。
薬師寺縁起に養老2年(718)に伽藍を移すとの記載があります。


薬師寺食堂は大講堂の北側に文献に記載されていたような食堂(じきどう)の建物跡が見つかり
発掘調査がされ、建物の規模は東西40・7メートル、南北15・4メートルと判明。
食堂は僧侶の食事や修行に使われ、主要な建物の一つだった。
文献や絵図によると、南都寺院では東大寺が飛び抜けて大きく、ついで大安寺
その次に元興寺とともに薬師寺と続く。詳細は下の表(奈良文化財研究所の資料)




上の写真は薬師寺大講堂 撮影:2012-6-7
大講堂の北側に食堂があり発掘調査された。
その詳細は下記ブログに記載
 奈良薬師寺の食堂跡の発掘調査 By奈良文化財センター


上の写真は薬師寺の境内図 食堂跡の位置を記載 撮影:2012-6-7
食堂では約300人の修行僧が食事をしました。


上の写真は近鉄 西の京付近の地図 撮影:2012-6-7

これで前置きは終わり本題のNHKけさのクローズアップ 「薬師寺「食堂(じきどう」再建 5年の日々」
の番組から興味のあったことについて記していきます。

2017年5月26日、およそ1000年前に失われた食堂(じきどう)と呼ばれる建物が再建され、
完成を祝う落慶法要が行われました。(5月26日~28日)

堂内には日本画家、田渕俊夫さんが描いた本尊「阿弥陀三尊浄土図」と仏教伝来を伝える大壁画が奉納され
落慶法要で訪れた人々にお披露目されました。


上の写真は日本画家、田渕俊夫さんと依頼者の薬師寺管主(当時)の山田法胤さんの会話風景
(薬師寺金堂にて)


上の写真は5年前? 薬師寺食堂の発掘調査を観察される田渕さん


上の写真は「阿弥陀三尊浄土図」の下絵段階のもの






上の3枚の写真は「阿弥陀三尊浄土図」を製作中の田渕さん


上の写真は薬師寺食堂の再建設計と本尊「阿弥陀三尊浄土図」と仏教伝来を伝える大壁画などを
総合企画produceした建築家の伊東豊雄さん


上の写真は薬師寺食堂の落慶法要 2017年5月26日


上の写真は薬師寺食堂内部のデザイン画




上の写真は薬師寺食堂に完成した御本尊「阿弥陀三尊浄土図」


番組の中で作者の田渕俊夫さんは三千院の阿弥陀三尊のスケッチをされている場面が
ありましたので三千院の阿弥陀三尊の写真を添付しました。(上の写真)
出典:田中ひろみ著「国宝仏像 なぞり描き」(2016.7.23発行)


上の写真は薬師寺食堂の公開日程のお知らせ
 2017年7月1日~11月30日まで

2017年6月7日(水)  薬師寺「食堂(じきどう」再建 5年の日々を紹介した
NHKのサイトへリンクさせていただきました。
 https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2017/06/0607.html




上の2枚の写真は平成29年(2017)5月に再建された食堂を南側より撮影
撮影:2019-5-6


2019年5月6日に食堂内に展示の田渕俊夫さんの作品を鑑賞しました。
写真は禁止のためありません。

動画で紹介されていましたのでリンクさせていただきました。
 田渕俊夫 平山郁夫弟子 薬師寺食堂再建 巨大仏画 阿弥陀浄土図 Toshio Tabuchi E特


 https://www.sankei.com/west/news/170509/wst1705090073-n1.html

 




上の2枚の写真は食堂の北側の発掘調査の行われた場所で基壇跡の位置が 撮影:2019-5-6
記されています。
説明版はまだ未完の状態のようです。


上の写真は2019-5-6撮影の薬師寺境内案内図
 2012年の境内図に無かった食堂が追加されています。
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元石清水八幡宮・八幡神社 訪問記 on 2017-6-6

2017年06月07日 06時40分16秒 | 奈良情報
2017年6月6日、南都七大寺の大安寺を訪問しました。その折表記の「元石清水八幡宮」を
訪問することもできましたので写真紹介します。

石清水八幡宮は奈良の春日大社の春日祭、京都の賀茂祭(葵祭)(北祭)、と共に
三大勅祭が行われる超有名な神社で、京都八幡市の男山に鎮座しています。

神社境内の説明より元石清水八幡宮の由緒を紹介します。

「当社は人皇第五十一代平城天皇大同二年丁亥年(807)、南都七大寺の一大安寺の僧
 行教和尚入唐し帰朝の際豊前の国宇佐の宮に参籠し神託により供奉し同年八月十七日
 同寺本坊に鎮座同寺の鎮守とせしも其後清和天皇の御宇貞観元己卯年(859)八月八日
 再和尚宣託を受け山城国山崎陵男山の新殿に奉遷座今の官幣大社男山八幡宮是なり
 当社は俗に大安寺石清水八幡宮又子安八幡宮とも謂ふ。」


上記のように元石清水八幡宮・八幡神社の創建は大同2年(807)男山の石清水八幡宮が遷座
したのが859年ですのでこの八幡神社は、石清水八幡宮の元宮という位置付けになる。

元石清水八幡宮・八幡神社の基本情報

住所:奈良市東九条町1316  TEL:074-262-3240
御祭神:仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
創建:大同2年(807)大安寺の僧・行教(ぎょうきょう)が、宇佐八幡宮より遷座
氏子:大安町、東九条町、八条町



上の写真は元石清水八幡神社の本殿の側面と拝殿


上の写真は元石清水八幡神社の拝殿正面より本殿を臨む




上の写真は本殿の下にある狛犬と鳩
神の使いである鳩の人形がずらりと並んでいます。
「八幡鳩」の置物は小さいものの数がおびただしい




上の2枚の写真は男山の石清水八幡宮の拝殿と蟇股に描かれた鳩
撮影:2010-12-29


上の写真は元石清水八幡宮境内の配置図


上の写真は総門


上の写真は八幡神社の案内板






上の3枚の写真は2017年1月12日より中間解体修理工事が行われている中門の関係資料


上の写真は八幡神社の中門の説明板


上の写真は手水舎


上の写真は摂社の祓殿社  御祭神は瀬織津姫命 (せおりつひめのみこと)


上の写真は奥正面の摂社の稲荷社  御祭神は保食神 (うけもちのかみ)


上の写真は北側の摂社:菅原社(祭神:菅原道真公 (すがわらみちざねこう)
           厳島神社(祭神:市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと))


上の写真は摂社の金毘羅社  御祭神:金刀比羅大神 (ことひらおおかみ)


上の写真は摂社の宮玉社


上の写真は摂社の春日社  御祭神は大物主命 (おおものぬしのみこと)、
                 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)


上の写真は摂社の命婦社  御祭神は玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
                 豊玉姫命 (とよたまひめのみこと)


上の写真は摂社の若宮社 御祭神は仁徳天皇


上の写真は摂社の武内者  御祭神は天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
                 武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)


上の写真は一の鳥居 厳島神社などと同じ明神鳥居系 三輪鳥居です。



上の写真は大安寺の拝観リーフレットの江戸時代の境内図で八幡宮の建物が確認できます。

Wikipediaによれば
辰市(たつのいち)4箇郷の氏神とされたことから、郷社石清水八幡神社や辰市八幡宮等とも称された
大安寺の鎮守であるが、安産に効ありとの信仰も集めており、そのために子安八幡宮とも称される。
本殿下に土製の鳩が無数に並ぶが、それらは安産祈願に参詣した者が奉納したものという。
由緒:応和2年(962年)5月11日の年紀をもつ『大安寺八幡宮御鎮座記』は、入唐した大安寺の
僧侶行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠してその神影を奉戴、大同2年(807年)に大安寺東室
第7院の石清水房に鎮座したのが起源で、後に神殿を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して
大安寺の鎮守神としたが、貞観元年(859年)に神託によって山城男山へ遷座したために改めて
その跡に祀ったのが創祀であるとする。また異説として、保延6年(1140年)に著された
『七大寺巡礼私記』はそれ以前の斉衡2年(855年)に行教が勧請して創祀したものとしている。
鎮座地は『七大寺巡礼私記』に「東塔の北に在り」とあるように、かつては大安寺の寺域に属して
南には同寺の東塔が建っていた。また『御鎮座記』にある石清水房も「大安寺伽藍絵図」によると
現社地と大安寺の間にあった事が確認できる。なお、建長7年(1255年)以前の成立とされる
『七大寺日記』には大安寺の金堂の東に南北1町ほど(およそ120メートル)に連なった僧坊の跡が
ある事を記し、その北から4番目の坊が行教の坊であったとの古老の伝えを紹介、次いでその傍らに
石清水という井戸がある事を述べるが、現社地北方の御霊神社境内にある「石清水の井」がその井の
遺称であるという。
中世には「辰市八幡宮」と称され、辰市4箇郷の鎮守神として尊崇され、春日大社の正預に就任した
者は必ず一度は頭役として勤仕する定めであった。永正元年(1504年)に焼失した記録があり、
その後再興されたようであるが、元亀2年(1571年)の松永久秀の辰市攻略等の戦乱で大安寺と
ともに衰微の道を辿り、慶長元年(1596年)閏7月12日には大地震によって同寺とともに罹災、
その影響で大安寺が一時廃寺の状態となったために独立し、在地の氏神として村民の手によって
復興された。社伝によれば、文久3年(1863年)に大修理を、大正2年(1913年)に本殿と
全末社の彩色を施している。



上の写真は大安寺の創建時から最盛期にかけての伽藍の模型
Wikipediaの解説とともに読むと理解が深まる

上記Wikipediaの解説文にあった御霊神社の「石清水の井」の写真も添付しておきます。


上の写真は御霊神社の「石清水の井」






上の3枚の写真は御霊神社の境内と案内板

案内板には下記(原文のまま)の内容が記載されています。
御霊神社由緒記
本神社は元石清水八幡宮と称す(八幡神社)
大同二年八月十七日、大安寺の僧、行教和尚が、大安寺の鎮守社として
築紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請(かんじょう)せしとき、お供えする
御手水閼伽井(あかい)の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の託宣
により獨鈷(どっこ)を用いて掘らしめたところ、清湛(せいたん)な法水湧き出る。
而して遥かに男山八幡石清水に通じて、この水の保護を受けんがため、御井戸の守神として、
高龗命(たかおおかみのみこと)、善女龍王命(ぜんみょうりゅうおうみこと)二柱の
神を祀られた。
現在農耕神、商い神、御霊神社と崇め奉る宮なり。
其井戸は往時の原形は留めないが今も存在せり。


高龗命(たかおおかみのみこと)、 水の神
善女龍王命(ぜんみょうりゅうおうみこと) 雨乞、水乞、止雨乞の神

平成12年12月吉日
大安寺町評議員会




上の写真は大安寺の拝観リーフレットの江戸時代の境内図(部分)で東金堂の北側に
龍王と石清水の文字を確認できます。
竜王を祀る社と共に石清水が描かれており、これが御霊神社と名を変え残っている。

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nana's green tea (ナナズグリーンティー) 神戸ハーバーランド店でのランチ on 2017-6-5

2017年06月06日 04時18分37秒 | 神戸情報
2017年6月5日(月)、nana's green tea (ナナズグリーンティー) 神戸ハーバーランド店
でランチを頂きましたので写真紹介します。

nana's green tea (ナナズグリーンティー) 神戸ハーバーランド店の基本情報

住所:神戸市中央区東川崎町1-7-3 キャナルガーデン 1F  TEL:078-335-5377
営業時間:10:00~20:00  定休日:無休


公式ホームページ:http://www.nanaha.com/



上の写真は私がチョイスしたランチセット 1,020円(税別)
 釜揚げシラスと明太子のどんぶり  飲み物はアイスコーヒー  白玉ぜんざい


上の写真は奥様が選択したランチセット 1,120円(税別)
 三色海の幸どんぶり  飲み物はホットコーヒー  白玉ぜんざい


上の写真はランチセットのメニュー表


上の写真はどんぶり類の単品メニュー


上の写真はお薦めのメニューをPRしたショーケース


上の写真はお店(nana's green tea)の外観

nana's green teaはチェーン店で姫路駅前の店にも入ったことがあります。
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ねじりまんぽと田辺朔郎氏の銅像 in 京都・蹴上 on 2017-4-13

2017年06月05日 04時34分51秒 | 京都情報
2013年11月3日BS朝日の百年名家の録画を観ていたら琵琶湖疎水と「ねじりまんぽ」の
映像があったのでそれに刺激されて2017年4月13日に訪問した写真を基に表題のテーマ
で記載していきます。

「ねじりまんぽ」とは地下鉄東西線蹴上駅を地上に上がってすぐのところにある歩行者用トンネル
の愛称で上からの大きな負荷に耐えられるよう、ねじったように斜めにレンガを
積んで作られたトンネルを意味します。英語ではNejirimanpo twisted tunnelとか
Spiral Brick Tunnelと訳されます。

英文での説明は下記サイトにあります。(京都 岡崎コンシェルジュのサイト)
 http://www.kyoto-okazaki.jp/spot/spnjmp

 Googleマップ(所在地の地図)へのリンク
 https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B000'31.1%22N+135%C2%B047'24.5%22E/@35.0086483,135.7879625,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.0086483!4d135.7901512


上の写真は国道143号線側の入口
篆書(てんしょ)体で「雄観奇想」(ゆうかんきそう)と書かれた扁額が目立ちます。
扁額は粟田焼きで、揮毫は第三代京都府知事・北垣国道だそうです。

「雄観奇想」という意味は、辞書などでみると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味。
北垣国道は琵琶湖疎水が完成した姿を雄観と表現さらに若きエンジニアの田辺朔郎氏の突出した
アイデアを讃えさらに電力、水運、上水道に利用する水の多目的な利用を奇想と表現したと推定
されます。


上の写真は上述の百年名家の番組の映像です。


上の写真はトンネル入り口付近に掲示の京都一周トレイルの案内板です。






上の3枚の写真はトンネルの内部。
(下の2枚は上述の百年名家の映像より)


上の写真は反対側の入口部分です。
扁額には「陽気発処」と書かれているようですが字が消えてしまっていて判読できません。

『陽気発処 金石亦透 精神一倒 何事不成』
(ようきはっするところ きんせきまたとおる せいしんいっとう なにごとかならざん)
という言葉の一部で『集中して物事に挑めば何事でも成し遂げられる』という意味だそうです。
上述のサイトでは次のように英訳されています。
we can do anything with our concentration


上の写真は琵琶湖疎水記念館の展示で「雄観奇想」の扁額が展示されていました。

琵琶湖疎水事業は、第3代京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者
として、明治18年(1885)起工され、同23年(1990)に竣工した。

ねじりまんぽを設計・製作した田辺朔郎工学博士に焦点を当てて写真紹介していきます。


上の写真は田辺朔郎工学博士の業績を讃え建てられた銅像、顕彰碑と説明石碑の遠景です。


上の写真は田辺朔郎工学博士の銅像


上の写真は田辺朔郎氏の顕彰碑


上の写真は田辺朔郎工学博士の説明石碑

田辺朔郎は文久元年(1861)江戸に生まれる。明治15年(1882)に工部大学校(現在の東大工学部)
の学生であった田辺は京都の衰微を回復するため琵琶湖疎水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に
会い請われて翌年京都府に着任し 財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け明治18年(1885)
起工後は設計 施工の総責任者となる当時はほとんど機械 資材とてなく いわば人力のみに頼る
長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが 卓抜な技術と強い信念不屈の精神力により
これを克服した。 また優れた先見性により世界で2番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し産業動力源
とするとともにわが国初の路面電車を京都に走らせた明治23年(1890)4月晴れの通水式を迎えた
田辺朔郎は28才であった。わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に近代都市京都
の基礎をつくった恩人田辺朔郎の像を建てここに顕彰する
                        京都市


銅像は京都華頂ライオンズクラブが1982年11月に建て、京都市に寄贈した。(下の写真)









上の3枚の写真は琵琶湖疎水記念館の説明パネル(北垣国道知事と田辺朔郎工学博士)

疏水建設は当初、運河や水車動力が目的だったが、後に水力発電や上水道へと役割を変えた。
第二疏水も着工され、東京遷都によって沈滞していた京都の産業界は活力を取り戻した。
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