CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

高砂市旧鐘淵紡績(現カネカ)の出汐館 on 2018-6-3

2018年06月12日 04時57分52秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年6月3日、工楽松右衛門旧宅開館の記念シンポジウムに参加するため
山陽電車の高砂駅で下車、早くに到着した為、周辺を散策しました。

その中から本日は「旧鐘淵紡績(現カネカ)の出汐館」 と題して記事を書いていきます。

出汐館は明治41年に操業を開始した鐘淵紡績高砂工場の迎賓施設として建てられたものです。
昭和11年(1936)の建築です。
「出汐館」の名称は謡曲「高砂」の一部から引用されているそうです。

出汐館の基本情報

住所:高砂市西畑1 問い合わせ先:(株)カネカ高砂工業所 079-445-2500

非公開で内部を観れない?





上の2枚の写真は北側から撮った出汐館(左側)と鐘華クラブ(右側)




上の2枚の写真は出汐館の近景

毎年秋(2017年は11/3と11/4)に開催のたかさご万灯祭では歴史的建造物が
ライトアップされ出汐館もライトアップされるようです。


上の写真は南側から観た鐘華クラブ(左側)と出汐館(右側)




上の2枚の写真はKANEKAサステナブルニュータウンの案内掲示板で
その中に歴史的建造物「出汐館」の位置と説明が記載されています。



上の写真は株式会社カネカの高砂社宅の案内板 右上に出汐館も記載されています。


最後に関連サイトとして近代建築Watchさんのサイトにリンクさせていただきました。
 https://hardcandy.exblog.jp/10631348/
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CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)

2018年06月11日 06時24分30秒 | 時の言葉
最近、CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)という言葉をよく耳にします。

CVIDが何の略でどういう意味なのかを記載していきます。

Complete,verifiable and irreversible denuclearization


CVIDは上記の略です。verifiableは「実証できる」という意味


irreversibleは「変更できない」という意味もあります。

denuclearization(非核化)はDismanthement=防備の解除で置き換えられる
場合もあります。

写真が無いと寂しいので神戸市営地下鉄の学園都市駅前の風景を添付しておきます。
撮影は2018年6月2日





関連サイト:

'Complete, Verifiable, Irreversible' A Tough Goal For North Korea Summit

https://www.king5.com/article/news/nation-now/donald-trump-kim-jong-un-arrive-in-singapore-for-nuclear-summit/465-0efec3fb-0e79-4db2-9b94-654a906e2e09

トランプ米大統領と金委員長、それぞれシンガポール到着

米朝首脳がシンガポール入り=12日会談、非核化焦点-トランプ氏「またとない機会」

TBSニュース:トランプ氏がシンガポールへ出発、金正恩氏の「チャンスは1回だけ」


上の写真は6月12日、7時代のNHKテレビから本日の米朝会談の予定です。
珍しく手書きのフリップパネルです。




上の2枚の写真は同じく上記のNHKテレビの番組よりトランプ大統領のTwitterからの
引用です。 
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播磨町  であいの道の花々を中心とする風景 on 2018-6-10

2018年06月11日 04時36分12秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年6月10日(日)、特別展 兵庫 山城探訪が播磨町の
県立考古博物館であり出かけました。

JR土山駅から県立考古博物館は行き帰りともに表題のであいの道を歩きました。
であいの道とその周辺で見つけた花々を中心とする風景を写真で紹介します。


であいの道:大正12年(1923)別府鉄道土山線という軽便鉄道があったが
昭和59年(1984)廃線となりその後であいの道として整備され今日に到っています

であいの道の整備事業の概要
 着手:昭和60年=1985年
 完成:平成元年=1989年
 延長:1,300m
 事業費:4億2千万円










上の4枚の写真はヒペリクム・ヒドコート(Hypericum Hidcote)の近景、中景、遠景
であいの道には多くの場所で咲き誇っています。

ヒペリクム・ヒドコート(Hypericum Hidcote)は、オトギリソウの仲間の交雑園芸品種。
横張性の半常緑低木。花は黄色で、多数の長い雄しべが目立ちます。開花時期は5~7月。
キンシバイ(金糸梅)の園芸品種です。キンシバイは中国が原産で、日本へは宝暦10年(1760)
に渡来したとされています。ヨーロッパへは1862年に日本から移入されました。
ヒペルカム・ヒドコートと呼ばれる場合もあるようです。


上の写真はであいの道の沿線マップ






上の3枚の写真はクチナシの近景、中景、遠景

クチナシは漢字で書くと梔子。学名は Gardenia jasminoides var.jasminoides
白色で芳香の強い花が咲く常緑樹。アカネ科クチナシ属。
果実は黄紅色染料の原料となるそうです。葉は対生します。






上の3枚の写真はアジサイの遠景と近景

アジサイは漢字では紫陽花。学名は Hydrangea macrophylla。アジサイ科アジサイ属。
花(萼=がく)は土のPHにより色が変化する。開花時期は6月から7月。
「額咲き」と呼ばれるガクアジサイと「手まり咲き」の装飾花ホンアジサイ、西洋アジサイ
などがある。


上の写真は野添であい公園入口の芝桜?




上の2枚の写真は兵庫県立考古博物館の「山城探訪」の看板と展望台の遠景




上の2枚の写真は播磨町郷土資料館の廃線「別府鉄道」の車輛展示といる入口の
踏車(人力で回し揚水する器具で灌漑用又は排水用として使用された)の展示




上の2枚の写真は大中遺跡の現況(復原 竪穴住居)と昭和41年(1866)の大中遺跡周辺




上の2枚の写真は圓満寺の山門と遠景
圓満寺では当日、庚申大祭で大般若六百巻転読祈祷が行われていました。



上の写真は野添北北公園の花しょうぶと茶室
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高砂公園とチェリーセージ on 2018-6-3

2018年06月10日 04時38分48秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年6月3日、工楽松右衛門旧宅開館の記念シンポジウムに参加するため
山陽電車の高砂駅で下車、早くに到着した為、周辺を散策しました。

その中から本日は高砂公園とチェリーセージと題して記事を書いていきます。


上の写真は門柱に「高砂公園」と書かれた高砂公園正面の遠景です。



上の写真は高砂市発行:「高砂堀川再発見地図」のDとして紹介されている高砂公園の説明板
読みずらいので文章をそのまま転載します。

旧鐘淵紡績の正門通りをそのまま残した公園である。 明治 40 年(1907)に設立された
鐘淵紡績高砂工場は、高砂の発展を支えてきたが、戦後の繊維業の構造変化に伴って、
昭和50年代に入り工場閉鎖を余儀なくされた。
おの工場跡地は、現在、高砂南高校、西畑住宅地そして高砂公園になっている。
高砂公園の東入口は工場の正門跡で、現在でもここから大木の並木路が続き、
当時の面影をとどめている。当時、工場内には、松、ユーカリなどの大木が多数
植樹され、木陰にはベンチが据えられており、当時の高砂町長が「この工場は
インダストリアル・パークだ」と賞賛したことが容易に想像できる。



上の写真は上記説明版に記載されている松とユーカリの並木

ここで、高砂公園の中にある西畑一丁目自治会館の住所:高砂市西畑2丁目1-15で
Goo地図を添付しておきます。



上の写真は高砂公園の門柱の前の植栽の中で一番目をひいたチェリーセージ
(別名:イチゴミルク、イチゴセージ)です。

「チェリーセイジ・イチゴミルク」は、紅いイチゴに白いミルクのかかった花姿がとても可憐
チェリーセージは、環境改善効果が高い植物として注目されているそうです。

その他の植栽も写真添付しておきます。(下の2枚)






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大楠公一代記 in 湊川神社

2018年06月09日 06時03分28秒 | 神戸情報
2018年5月31日、NHK BSプレミアムで英雄たちの選択「楠木正成は悲劇の忠臣か」を
視聴しました。これに刺激され湊川神社の掲示板に掲示の大楠公一代記を上記番組と
これまでに撮った写真で補強してまとめました。

尚、大楠公一代記の掲示の撮影日は2015-5-24です。


上の写真は湊川神社に掲示の大楠公の絵(横山大観の作)


上の写真は上述の番組での楠木正成像


上の写真は上述の番組で紹介の年譜

一 少年時代

大楠公(楠木正成公)は、永仁二年(1294年)河内国赤坂の里(現在の大阪府南河内郡
千早赤阪村)でお生まれになり、幼名を多聞と申されました。正しく素直な心の持ち主で、
学問を観心寺の滝覚坊に、兵学を大江時親に学ばれ、文武両道に優れた若武者に
成長されました。

二 後醍醐天皇との出会い

元弘元年(1331年)鎌倉幕府の大軍が京都へ攻めて来たので、後醍醐天皇は、
笠置山に移られました。この時「御夢」の知らせにより後醍醐天皇は、大楠公を
召し出され、国を救うため、力をつくすよう命じられました。
大楠公は「私が生きている限り、天皇さまの御運はかならず開けます」と、自信ある
言葉で答えられ、命にかけてお守りし、またお助けすることをお誓いになりました。

三 赤坂城の戦い

大楠公は笠置より河内に帰ると、すぐに赤坂に城を築き、兵を挙げられました。
これに驚いた鎌倉幕府(北条方)は、大軍をもって攻めて来ましたが、
大楠公のすぐれた作戦にさんざんに痛めつけられました。
しかし赤坂城は急きょ作った小さな城だったので、やがて落城し、大楠公は、
敵に油断させるよう山奥に身を隠しました。

四 千早城の攻防 五 諸国に天皇を守る軍が

四 千早城の攻防
元弘二年(1332年)、金剛山の千早城に、再び菊水の旗がひるがえりました。
攻めて来た幕府軍は、またまた大楠公の奇襲作戦に出会い、いくら大軍を注ぎ
込んでしても、どうしても攻め落とすことが出来ませんでした。 
そしてこのことが天下に知れわたり、諸国の天皇を守ろうとする武士が立ち上がり、
幕府を打ち倒す動きが大きく広がってきました。




上の2枚の写真は上述の番組で杉浦友紀アナウンサーが実際に登った千早城跡


上の写真も同じく上述の番組で千早城での楠木正成の戦いぶりを描いたもの。
丸太や石さらに熱湯や糞尿を攻め入る幕府軍に浴びせ100日を超える籠城戦
に持ち込んでいます。
兵站(へいたん=兵糧の補給)を重視した戦いであった。


上の写真も上述の番組からで楠木正成が天野山金剛寺(千早赤阪村)に送った自筆の
書状で金剛寺へ鎌倉幕府軍が攻めてきた事をうわさに聞き、金剛寺の総力をもって
防戦することを願い送ったものだそうです。




上の写真も上述の番組からで千早赤阪村の森屋地区にある墓地の中の寄手塚・身方塚
見方塚の五輪塔(供養塔)より寄手塚の方が明らかに大きく楠木正成の寛容な人間性
を推し量る材料になるとの解説がありました。


五 諸国に天皇を守る軍が
大楠公の千早城での勇気ある戦いに力を得て、関東では新田義貞、中国では赤松則村、
九州では菊池武時が、それぞれ幕府討伐の兵を挙げました。
幕府により隠岐の島へ移されておられた後醍醐天皇は、伯耆の国(現在の鳥取県)の
名和長年がお助けして、天皇を無事船上山へお迎え申しあげました。

上の写真も上述の番組からで鎌倉幕府が元弘三年(1333年)5月22日に
鎌倉幕府が滅亡した。

六 兵庫に天皇をお迎えする

幕府は、元弘三年(1333年)五月、新田義貞の鎌倉攻めによって北条氏がうたれて、
滅びました。これより少し前、後醍醐天皇は、船上山から京都へお帰りになることと
なりました。大楠公はその途中、兵庫(神戸市)において天皇をお迎えされます。 
その時、後醍醐天皇より「このたび幕府を倒すことができたのは、みな汝の働きである」
との、おほめの言葉を賜わり京都へ先導されるのでしたが、まことに晴れ晴れとした
勇ましいお姿であったことが、しのばれます。


上の写真は後醍醐天皇が元弘3年(1333)6月、隠岐から京都に帰られる途中、
福厳寺(神戸市兵庫区)に駐留されたことを示す石碑です。
「史跡後醍醐天皇駐蹕之處」と書かれています。後醍醐天皇は元弘2年(1332)3月に
隠岐に流されていたのですが翌年(元弘3年)、2月24日六條忠顕を従えて伯耆の
船上山行在所に落ち着かれていました。
鎌倉幕府の京都の役所六波羅探題が足利尊氏、赤松則村の軍に滅ぼされたことを
船上山で伝えられた後醍醐天皇は5月23日に船上山を出発、姫路の書写山を経て
福厳寺に着かれたのは6月1日のことである。
赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎を率いて福厳寺で天皇を迎え、
6月5日に京都に到着された。


七 足利尊氏のうらぎり

後醍醐天皇は、自らその政治を行わせられました(建武の中興)。しかしそれには、
不満を持つ者もあり特に足利尊氏は、天皇の政治を奪わんとし、諸国の不平武士等を集めて
延元元年(1336年)九州から攻め上がってきました。大楠公はこの大軍を打ち破る策として、
「一時京都に敵を招き入れ、期を見て反撃すれば勝てる」と進言されましたが、浅はかな
公卿らの反対により、取り上げられませんでした。

八 桜井の別れ

大楠公は天皇の命令に従い、決死の覚悟で兵庫へ向けて出陣されました。
途中、桜井の駅(現在の大阪府三島郡島本町)で、御子の小楠公(楠木正行公)を
呼び寄せられ、「自分は死ぬが、その後は、父に代わって天皇さまを助け最後まで
守りつくすように」と、よく分るように悟され、小楠公を故郷の河内へ返されました。
多くの人々に親しまれている、有名な「青葉茂れる桜井の・・・」の唱歌は、
この場面を歌ったものです。

青葉茂れる櫻井の~で始まる「楠公の歌」について記載しておきます。
『楠公の歌』 落合直文 作詞、奥山朝恭 作曲
奥山朝恭(ともやす)の作曲で歌人で国文学者の落合直文が書いた詩に曲をつけた
バラードで明治24年(1891)奥山朝恭が兵庫県尋常師範(現神戸大学発達科学部)に
奉職中に作曲された。

奥山朝恭(おくやまともやす)(1858-1943)の略歴
安政5年(1858)江戸本所生まれ

音楽教育者、作曲家、後に岡山の西洋料理店(元浩養軒)を経営。
大阪清水谷高女、兵庫県尋常師範、岡山師範学校(明治26年より9年間)で
音楽を教える。昭和18年(1943)死去

下記の三部構成になっています。

―桜井の訣別―
1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
  木(こ)の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か

2.正成(まさしげ)涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん 彼方(かなた)の浦にて討ち死にせん
  汝(いまし)はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
  未だ若けれ諸(もろ)ともに 御供(おんとも)仕えん死出の旅

4.汝をここより帰さんは 我が私の為ならず
  おのれ討死為さんには 世は尊氏の儘(まま)ならん
  早く生い立ち大君(おおきみに) 仕えまつれよ国の為

5.この一刀(ひとふり)は住(い)にし年 君の賜いしものなるぞ
  この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん

6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨の 大空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
  誰か哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を


―敵軍襲来―
7.遠く沖べを見渡せば 浮かべる舟のその数は
  幾千万とも白波の 此方(こなた)をさして寄せて来ぬ
  陸(くが)はいかにと眺むれば 味方は早くも破られて

8.須磨と明石の浦づたい 敵の旗のみ打ちなびく
  吹く松風か白波か よせくる波か松風か
  響き響きて聞ゆなり つづみの音に閧(とき)の声


―湊川の奮戦―
9.いかに正季(まさすえ)われわれの 命捨つべき時は来ぬ
  死す時死なでながらえば 死するに勝る恥あらん
  太刀の折れなんそれまでは 敵のことごと一方(かたえ)より

10.斬りすてなん屠(ほう)りてん 進めすすめと言い言いて
   駆け入るさまの勇ましや 右より敵の寄せくるは
   左の方(かた)へと薙(な)ぎ払い 左の方より寄せくるは

11.右の方へと薙ぎ払う 前よりよするその敵は
   後ろよりするその敵も 見ては遁(のが)さじ遁さじと
   奮いたたかう右ひだり とびくる矢数は雨あられ

12.君の御為(みため)と昨日今日 数多の敵に当りしが
   時いたらぬをいかにせん 心ばかりははやれども
   刃(やいば)は折れぬ矢はつきぬ 馬もたおれぬ兵士(つわもの)も

13.かしこの家にたどりゆき 共に腹をば切りなんと
   刀を杖に立ちあがる 身には数多の痛矢串(いたやぐし)
   戸をおしあけて内に入り 共に鎧の紐とけば

14.緋おどしならぬくれないの 血潮したたる小手の上
   心残りはあらずやと 兄のことばに弟は
   これみなかねての覚悟なり 何か嘆かん今さらに

15.さはいえ悔し願わくは 七度(ななたび)この世に生まれ来て
   憎き敵をば滅ぼさん さなりさなりとうなづきて
   水泡(みなわ)ときえし兄弟(はらかた)の 心も清き湊川




九 湊川の合戦 十 大楠公御殉節

九 湊川の合戦
延元元年五月二十五日の朝、足利尊氏の夜・直義兄弟の率いる大軍が海陸両方から
攻め上がって来ました。絵下山に菊水の旗をひるがえして陣を張った楠木軍は、
わずか七百騎あまりの手勢でもって奮戦し、一時は敵将直義を討ちとるかに見えた時も
有りましたが、多勢に無勢、兵力の差はあまりにも大きく、楠木軍は次第に
追い詰められてゆきました。


上の写真は湊川の戦い 楠正成の陣の遺蹟の石碑 撮影:2011-3-14

十 大楠公御殉節
湊川での激しい戦いは、朝から夕方まで続き、流石の楠木軍も、わずか七十余騎に
までとなりました。最早これまでと大楠公以下は、湊川の北方(現在の湊川神社の御殉節地)
まで落ちのび、弟正李卿と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」(七生報国)と互いに
誓いあい、兄妹刺しちがえて、その偉大な生涯を閉じられたのでした。




上の2枚の写真は湊川神社拝殿西側奥の楠木正成公戦没地と現地説明板

大楠公の戦没地は諸説あり確定されていないがその1部を紹介します。
(1)橋本家文書では広厳寺子坊の無為庵に火を放って 一族13人 兵士73人と
   ともに自刃したと伝わっています。


(2)太平記には、「湊河の北にあたりて在家の一村あるけるなかに走り入りて腹を切らん」
   とあります。

(3)明治44年(1911) 仲彦三郎「西摂大観」では、その場所を奥平野字楠に比定。

 関連サイト楠正成終焉伝承の地 楠谷勝負が池跡

十一 小楠公の忠節

正平二年(1347年)二十二歳の立派な若武者に成長された小楠公は、父大楠公の教えに従い
朝敵足利軍と戦い、大いに痛めつけました。翌三年一月、足利軍を討つため、如意輪堂の
扉に「かえらじと かねて思えば梓弓・・・」との和歌を書き残し、四条畷へ出陣されました。
そして激戦のすえ、父大楠公と同様、勇ましい戦いを展開されたのでしたが、
力尽きて短い一生を終えられたのでした。


十二 徳川光圀公が墓碑を建立 十三 明治維新の志士たちの参拝

十二 徳川光圀公が墓碑を建立
大楠公のお墓は、長い間ひっそりとまつられて居たのですが、豊臣秀吉の時代に
発見されました。 その後、尼崎藩主青山吉利により守られていましたが、
元禄五年(1692年)地元の人々の熱意を受けられた徳川光圀公が、約半年をかけて、
立派なお墓を建立されました。「嗚呼忠臣楠子の墓」の碑文は、大楠公を大変尊敬
されました光圀公が、自らお書きになったものです。


上の写真は湊川神社の大楠公の墓 撮影:2018-5-26




上の2枚の写真は湊川神社の掲示の「嗚呼忠臣楠子の墓」の碑文の拓本 表面と裏面

1862年に墓に参った20歳の安中藩藩士の若き新島襄も楠正成の生きかたに共鳴し
自宅にその拓本が保管されていました。
吉田松陰、伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作などの幕末の尊王派の志士達こぞって
楠公の墓に参っていたことは有名な話で今も語り継がれています。



十三 明治維新の志士たちの参拝

お墓が建てられてから大楠公のご精神は大いに世に広まり、特に幕末における勤王思想に
大きな影響を与えました。 吉田松陰・真木保臣・坂本竜馬など多くの志士たちが、
このお墓にお参りし、明治の新しい国づくりに大きく貢献しました。
明治五年(1872年)明治天皇のお思し召しにより、湊川神社が創建され、
いよいよ大楠公のご精神は、国中に輝きわたりました。


江戸期の大楠公の墓所と廣厳寺(楠寺)


上の写真は若林秀岳著の神戸覧古(明治34年(1901)作)で開港前の様子を
作者が書きとめたもので江戸時代後期の廣厳寺(楠寺)の姿が想像できる。


上の写真は浮世絵師の長谷川小信によって描かれた錦絵の神戸古版画集で描かれた
楠正成公の墓碑の図です。江戸の後期には名所となっていた様子が判ります。
上記のように整備される前の姿は延宝8年(1680) 衣斐蓋子によって描かれた
海瀕舟行図がありこの中に楠公の塚があり横に梅の大木も描かれています。


上の写真はNHK Eテレ高校講座 日本史で解説されていたもので楠正成が
建武3年(1336)5月25日の湊川の戦いより以前に後醍醐天皇に対して
新田義貞を討って、足利尊氏とは和議を結ぶべきと献策していたが却下
されてしまったことを梅松論の文章から拾ったものです。
建武3年(1336)1月29日に楠、新田、北畠の連合軍が足利尊氏軍を京から
駆逐したものの足利尊氏が必ずや盛り返してくると楠正成は読んでいたので
このような言葉となったのである。

楠公武者行列について
湊川神社で5年に1回に頻度で開催される楠公武者行列は楠木正成が、元弘3年(1333)6月
幽閉されていた隠岐から京に戻る途中、後醍醐天皇を神戸で迎え、都まで先導した行列
を再現したものである。


2018年と2013年の楠公武者行列の様子を紹介します。

2018年

楠公武者行列 on 2018-5-26 (その1) 前陣武者列

楠公武者行列 on 2018-5-26 (その2) 神幸列本社(じんこうれつほんしゃ)

楠公武者行列 on 2018-5-26 (その3)完 神幸列甘南備神社(じんこうれつかんなびじんじゃ)


2013年

楠公武者行列 on 2013-5-26 (その1)

楠公武者行列 on 2013-5-26 (その2)

楠公武者行列 on 2013-5-26 (その3)完 神幸列甘南備神社
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兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2018年度前半期の作品

2018年06月08日 04時47分33秒 | Weblog

2018年度前期の兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室が4月20日から
新しい講師の河崎ひろみ先生を迎え始まっています。

今期は多くの新規生徒さんが加わり本日(2018-6-8)で7回目の教室となります。
過去どのようなことをやったかをメモとして残すために本ブログで纏めました。

1回目(4月20日)
新しい生徒さんにとって初めてでエッチングがどのような技法なのかあるアクションを
どのようになるのかどのような道具を準備するのか等・・・私がエッチング教室に入った
2010年10月頃のことを思い浮かべ同じような思いを持っておられると想像しながらも
自分は前期の3作目の銅版を使用して刷る作業をしました。


上の写真が刷ったものです。
大倉集古館所蔵の「普賢菩薩騎象像」を題材としたものです。


第1作
2回目(4/27)から3回目(5/11)の期間、前期に試し刷りをしていたものを刷りました。






上の3枚の写真がその作品です。
テーマは「BIG MAN in 神戸新開地」




現物はこんな感じです(上の2枚の写真) 撮影:2015-5-24


第4回(5/18)~第6回(6/1)

2015年12月から2016年1月に作成した銅板に若干、手を加えたものを
刷っています。新しい作品の構想が中々思い浮かばないのでこのような事と
なってしまいました。







上の4枚の写真は今回刷ったものです。
作品は喜多川歌麿の作品「深川の雪」の一部で題名は 江戸美人 深川の雪より



上の写真は2015年後期の第2作で刷ったものです。
今回はこれを超える作品にはなりませんでした、

第2作 試し刷り
第6回で下の写真を刷っています。
神戸市中央区、相楽園の船屋形を題材としています。




日は上の作品を2枚刷る予定です。

 

関連ブログ:

 兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2019年度前半期の作品まとめ

 兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2018年度後半期の作品まとめ

 兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2018年度前半期の作品

 兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2017年度後半期の作品

 2017年度前期兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室  銅版画作品講評会 on 2017-9-1

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pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2018-6-5

2018年06月07日 04時47分56秒 | 神戸情報
2015年10月26日に開店のパスタ、ピザ、リゾットのチェーン店
pisola(ピソラ)垂水学園南町店でランチをいただきましたので写真紹介します。
ピソラは大阪を中心として9店舗を展開するチェーン店です。
訪問日:2018-6-5(火)

PISOLA(ピソラ)垂水学園南町店の基本情報

住所:神戸市垂水区多聞町868-790  TEL:078-647-8582
営業時間:11:00〜24:00
料理ジャンル:パスタ、ピザ、リゾット
定休日:なし

公式HP:http://pisola.jp/
公式FB:https://www.facebook.com/pisola2010

当日は平日のランチ(税別 1,190円)を注文



上の写真は私が注文したランチのメイン 鶏と椎茸と野菜トマト


上の写真は奥様が選んだウニ海老、茸の和風リゾット
奥様のお気に入りメニューです。




まず、サラダ又はキッシュが出てきます(上の2枚の写真)




上の2枚の写真は夏のスペシャルメニュー
メインを+100円か+200円でこのメニューを選択できます。



上の写真はDolceメニュー


過去の訪問記:

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2018-2-21

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on  2017-7-19

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on  2017-4-19

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on  2017-1-16


pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2016-11-28


pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2016-7-25

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2016-6-13

リッチフィールド ブランチ神戸学園都市店のケーキ on 2016-3-28

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2016-3-14

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2016-2-22

pisola(ピソラ)垂水学園南町店でのランチ on 2015-12-13







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創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2018-6-4

2018年06月06日 05時11分31秒 | 神戸情報
2018年6月4日(月)にいただきました創作 京ダイニング 季づ菜での
ランチを写真紹介します。

店内の掲示がだいぶ変わりました。

季づ菜(KIZUNA)の基本情報
住所:神戸市垂水区名谷町3428−1  TEL:078-792-5544‎
コーナン名谷店の近くにあります。 ジャンルは日本料理
定休日:水曜日及び第3火曜日  料理長は田中克明 氏

公式HP:http://washoku-kiduna.com/

地図は下記のブログに添付
   遊楽料理 季づ菜でのランチ on 2014-11-11

当日は奥様は茶そば 1,050円(税別)を頂きました。(下の写真)




私は五島うどんのランチ 1,100円(税別)を頂きました。(下の写真)


途中でだし巻き玉子が出てきました。(下の写真)
できたてです。



下の写真はお楽しみのデザートです。


新メニューが提示されていました。(下の写真)
10種の蒸し野菜と豆腐のあんかけ石焼さぬきうどん 990円(税別)


下の写真は季節メニューの鰻御膳の紹介です。 2,700円(税別)


過去の訪問記:

 創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2017-12-11

 創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2017-8-28

 創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2016-11-7

 季づ菜でのランチ on 2016-9-6


 創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2016-7-14

 創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2015-11-17

  創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2015-7-13

  創作 京ダイニング 季づ菜 でのランチ on 2015-5-25

  
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工楽松右衛門旧宅開館記念シンポジウム「工楽松右衛門旧宅と高砂みなとまち」 on 2018-6-3

2018年06月05日 16時28分50秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年6月3日(日)の11時~12時30分まで表題のシンポジウムが
高砂地区コミュニティセンター1階 集会室でありました。
その内容についてメモとして残しておきます。

パネラーは今井修平氏(神戸女子大学教授)、曲田浩和氏(日本福祉大学教授)、
村上裕道氏(京都橘大学教授・市立図書館名誉館長)です。

まず、上記の御3方から報告がありました。当日配布の資料を中心に記述します。


報告1 「工楽松右衛門の人物像」 
今井修平氏(神戸女子大学教授、高砂市史編さん専門委員会委員長)

工楽松右衛門は「松右衛門帆」の発明と港湾の建設・修築事業で大きな功績をあげた。
港町高砂が生んだ近世海運発展の最大の功労者。

年別に纏めた方が判り易いので年譜としました。Wikipediaの情報に修正加筆

1743年(寛保3年) - 播州高砂(現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の
           長男として生まれる。姓は宮本 
1758年(宝暦8年) - この頃兵庫に出て、佐比江町にある「御影屋」という船主のもとで
          船乗りになる。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、
          その斡旋で佐比江町に店を構え、船持ち船頭として独立。
          持ち船を所有する廻船問屋として全国的に活躍
1785年(天明5年) - 木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功。
          「松右衛門帆」として全国に普及。
          のちに帆の開発で得た収益で「御影屋」を買収、当主となる。 
           
1790年(寛政2年) - 江戸幕府より択捉島有萌に船着場を建設することを命じられ着手する。
1791年(寛政3年) - この年の夏、択捉島の埠頭が竣工。2つの人工島を造成
1795年(寛政7年) -このころエトロフ島のシャナの港が完成。
1799年(寛政11年)- 高田屋嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く
1802年(享和2年) - 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられる。
1804年(文化元年) - 箱館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った
           函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る。
1808年(文化5年) -故郷高砂の港の船の往来を容易にするため、私費で浚渫工事実施
1810年(文化7年) -高砂に居を構える、高砂港の築港完成
 高砂湊の改築工事について「ひろかずのブログ」が詳しく記述されています。

1811年(文化8年) -鞆ノ津(広島県福山市)において大波止、明神波止の修増築を行う
1812年(文化9年) - 8月21日(新暦換算1812年9月26日)死去。墓所は高砂の十輪寺、
           供養墓は神戸市兵庫区八王寺(福昌寺)にある。


 年譜などのさらに詳細は工楽松右衛門の公式サイト

姫路藩の依頼を受け高砂の新田開発や港湾の修築事業を工楽松右衛門の2代目、3代目が
請負いその職責を全うした。

松右衛門帆」とは木綿布を縫い合わせた刺帆とは異なり
特製の太い木綿糸を撚り経糸・横糸を2本ずつで織られた、丈夫でしなやかで風受けの
良い帆布である。松右衛門は帆布の製造法を秘密とせず多くの職人に伝えたため、
播州内の二見、明石、加古、阿閇を皮切りに、倉敷や尾道など広くに工場が立地し、多く
生産されるに至った。地元の兵庫津佐比江にも工房が建てられた。

文政5年(1822)刊 「農具便利論」の中で著者の大蔵永常は初代松右衛門の言葉として
「人として天下の益ならん事を計らず碌々として一生を過ごさんハ禽獣にも劣るべし、
およそ其の利を窮すむるに、などか発明せざらん事のあるべきやハ」「其の志すところ
無欲にして皆後人のためになる事をのみ生涯心をもちいたりき」と引用し称賛した。

「私」を殺して「公」に尽くす事が松右衛門の信条であった。

その他、兵庫津の兵庫城と高砂の高砂城との類似性も指摘されました。
小林一茶(1763-1828)との交流の記録が残っている。
シーボルトが工楽家に立ち寄った記録がある。
宮本家(工楽家)は商人としても成功をおさめ地元でも有力な家系であった。
姫路から江戸に五本の丸太を運搬した時、筏の工夫について。
司馬 遼太郎の「菜の花の沖」には高田屋嘉兵衛の記述として書かれている部分が
実際は工楽松右衛門のことである部分が多数ある。

報告2 「文書からみた工楽家の歴史と、近世の高砂みなと」
 曲田浩和氏(日本福祉大学教授、工楽家文書調査指導)


工楽家の文書史料は約1万点を超える。
工楽文書は廻船による荷物輸送などの幕府・藩御用、各地の港湾修築、工楽商店の
経営、高砂町の公務、文化人との交流など多岐にわたる史料群である。
高砂から兵庫に出た初代松右衛門は廻船業に従事し、のちに八幡丸、仲吉丸、貞宝丸
住吉丸などの船を差配した。
酒田、新潟、松前などから米、材木、海産物などを持ち帰った。
酒田では木綿販売を行っており、播州の産物との関係が考えられる。
初代松右衛門の事蹟が注目されるが、その晩年に行った鞆の津の修築は実質的には
二代(天明4年(1784)-嘉永3年(1850))が担い、二代が初代から土木技術者・
御用請負の立場を引き継いだ。高砂湊の整備に関わる宮本新田の開発は二代の事蹟である。

さらに二代目以降は高砂を拠点とした。幕末期にはすでに砂糖問屋を営んでおり、
のちの工楽商店の基礎を築いた。また、工楽家では姫路藩から高砂の川方掛り役を
任じられ、明治以降は高砂町の収入役を勤めるなど町政を担った。
昭和の初期(6代目長三郎の頃)には「白泥会」言うサロンを結成し、版画家棟方志功
や俳人永田耕衣ら多くの文化人が訪れた。

工楽家の歴代当主は高砂にこだわり、経済・政治・文化など様々な分野で高砂のために
貢献した。



北海道や島根(太田市大浦)にも工楽松右衛門の土木技術が生かされたとの史料が残る

その他、遠州牧の原川崎、宇和島奥浦などでも工楽松右衛門の土木技術が活用


工楽松右衛門のはどの教科書にも登場する三重県出身の河村瑞賢に匹敵する業績を
残したにも拘わらず一般的には知名度が低い。

報告3「工楽松右衛門旧宅の建築と、高砂の歴史文化遺産」
   村上裕道氏(京都橘大学教授・市立図書館名誉館長)


通常の文化遺産は3~4年かけて復元されるが今回の工楽松右衛門旧宅の復原は
1年4か月の短期間で完成された。
外壁が白となっているが、建築当初は黒であったのでは?

工楽家明治20年絵図が活用された。

「文化財は残すだけでなく、生きている人が意味づけをして生かさなければ」
「旧邸に研究者らが集まる拠点を整備し、まち全体の発展を考える場所にしてはどうか」



上の写真はシンポジウム会場(高砂地区コミュニティセンター1階 集会室)の様子です。


上の写真は6月3日の13時に開館した工楽松右衛門旧宅



上の写真はテープカットの様子


テープカットの動画
工楽松右衛門旧宅の開館のテープカット on 2018-6-3


テープカットをされた方々は右から高砂市マスコットキャラクターの「ぼっくりん」、
兵庫県東播磨県民局長の四海達也様、高砂市議会議長の入江正人様、高砂市長の登幸人様、
工楽家第8代当主の工楽誠之介様、兵庫県会議員の山本敏信様です。



参照資料:工楽松右衛門物語 高砂市教育委員会 - 松右衛門帆



関連報道:神戸新聞 東播(2018-5-25)

     神戸新聞 東播(2018-6-1)

     KAKOGAWA FUN CLUB

     兵庫県東播磨県民局PDF 

     山陽電車高砂駅周辺の散策(増補版) on 2018-2-17&2018-2-25 その4 工楽松右衛門旧宅(工事中)

    
 
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鶏三和 さんちか店でのランチ on 2018-6-1

2018年06月04日 05時31分36秒 | 神戸情報
2018年6月1日にいただいた鶏三和 さんちか店でのランチを写真紹介します。


鶏三和 さんちか店の基本情報

住所:神戸市中央区三宮町1丁目10-1 さんちか 味ののれん街
TEL:078-599-5655  創業:明治33年(1900) By 伊藤和四五郎
開店日:2016年3月3日
営業時間:11:00~21:00(L.O.20:30) 定休日:第3水曜日


公式サイト:http://www.sanwa-grp.co.jp/



上の写真は私が注文した香草美水親子丼 780円(税別)


上の写真は奥様の名古屋コーチンの親子丼980円(税抜)と
もも唐揚げセット 280円(税抜)

香草美水親子丼と名古屋コーチンの親子丼を食べ比べて個人的には軟らかい感触の
香草美水親子丼が好きです(値段の面でもメリット)

過去の訪問記:

鶏三和 さんちか店でのランチ on 2017-7-21

鶏三和 さんちか店でのランチ on 2017-1-20

鶏三和 さんちか店でのランチ on 2016-8-19

鶏三和 さんちか店でのランチ on 2016-6-17

鶏三和 さんちか店でのランチ on 2016-4-22







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