CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

北海道の名付け親「松浦武四郎」の生涯

2023年09月21日 06時09分44秒 | Weblog
2023年9月17日(日)の日経新聞に「北海道の名付け親の旅人生、松浦武四郎の日記をたどる、
歩き続けた生涯3つの分岐点、アイヌ圧政を告発 込めた思い」という見出しで
松浦武四郎の生涯について紹介されていました。
Wikipediaによれば松浦武四郎(1818-1888)は次のように概説されています。
松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日〈1818年3月12日〉 - 明治21年〈1888年〉2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数。蝦夷地を探査し、北加伊道(のちの北海道)という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた。
松浦武四郎については過去にブログを作成していますが、上記の日経新聞記事の内容を
加味して松浦武四郎の生涯について纏めてみました。
くしくも、明治2年(1869)8月15日(新暦換算9月20日)は 明治政府が
蝦夷地を「北海道」と改称すると布告した日で2023年9月20日で154年経過しています。

まず、概要を理解するために松阪市が動画で松浦武四郎の功績を紹介 、Gooで共有

松阪歴史探訪 松浦武四郎編「松浦武四郎の生涯と功績」

松阪歴史探訪 松浦武四郎編 後編「松浦武四郎が残したもの」

また、松浦武四郎(1818-1888)の経歴を年譜形式で記載しておきます。
松浦武四郎は6回の蝦夷地調査を実施。蝦夷地詳細な地図を作成さらに北海道の
名付け親としても知られています。
年齢表記は満年齢
文化15年(1818)0歳 2月6日、伊勢国志部須川村(現在の松阪市小野江町)に生まれる
           松浦時春(桂助)の四男
文政7年(1824)6歳 近くの寺で読み書きを習い、「名所図会」を愛読
天保元年(1830)  津藩平松楽斎の私塾に学ぶ(12歳~15歳)
天保4年(1833)15歳 2月手紙を残して突然家出→江戸で見つかり連れ戻される

天保5年(1834)  全国を巡る旅に出る。(16歳~19歳)
           松浦武四郎の旅の資金は篆刻で稼いでいたと言われています
           篆刻の技は15歳の時江戸での居候先、漢学者の山口遇所より習得
天保9年(1838)20歳 長崎で大病、「禅林寺」で出家し僧侶「文桂」となる
天保10年(1839)21歳 平戸の「千光寺」で住職を務める(21歳~23歳)

天保14年(1843)25歳 長崎でロシア南下の危機を知り、蝦夷地を目指す。
          郷里へ戻り参宮と父母の墓に参る、「西海雑誌」を著す
   イカ釣り船に乗せてもらい対馬に渡り、朝鮮国への渡航を目指すが警戒が厳しく断念
弘化2年(1845)27歳 第1回蝦夷地探査。商人和賀屋孫兵衛の手代に身を変え、
          函館→森→有珠→室蘭→襟裳→釧路→厚岸→知床→根室→函館を巡る
         旅に出る前に父親の7回忌、母親の3回忌を済ませる
弘化3年(1846)28歳 第2回蝦夷地探査。松前藩医西川春庵の下僕「雲平」として調査
           江差→宗谷→樺太→宗谷→紋別→知床→宗谷→石狩→千歳→江差嘉永2年(1849)31歳 第3回 蝦夷地探査。函館から船で国後島、択捉島へ渡る
           ここまでは松浦武四郎の私的な探査

嘉永3年(1850)32歳 これまでの3回の調査を「初航蝦夷日誌」全12冊、「再航蝦夷日誌」
        全14冊、「三航蝦夷日誌」全8冊という題でまとめ幕府に献上
            以降は幕府の公認、援助のもとに探査が進められています。

安政3年(1856)38歳  第4回蝦夷地探査。函館→宗谷→樺太→宗谷→函館
安政4年(1857)39歳  第5回蝦夷地探査。函館→石狩→上川→天塩→函館
安政5年(1858)40歳  第6回蝦夷地探査。北海道全ての海岸→十勝→阿寒→日高

安政6年(1859)41歳 福田とうと結婚。幕府の役人を辞める 
           6回の探査結果を東西蝦夷山川地理取調図として纏める
           26冊の折り畳み式縦が2m40cm、横が3m60cm
文久元年(1861)43歳 石狩日誌などを出版
明治2年(1869)51歳 開拓判官に任命される。道名・国名・郡名撰定に尽力、叙従五位
     11国86郡の命名に貢献
     蝦夷地にかわる名称として、「日高見道」、「北加伊道」、「海北道」、
     「海東道」、「東北道」、「千島道」の6つの案を上申

     この中から 「北加伊道」が採用された。加伊はアイヌ民族を指す古い言葉
     「北加伊道」は「北海道」と改名
明治3年(1870)52歳 開拓判官辞職(従五位返上)(新政府のアイヌ政策に不満) 
明治8年(1875)57歳 北野天満宮へ大神鏡を奉納 上野東照宮に大神鏡を奉納
明治9年(1876)58歳 上野東照宮へ大神鏡を奉納
明治12年(1879)61歳 大阪天満宮へ大神鏡を奉納
明治13年(1880)62歳 吉野の金峯山神社へ大神鏡を奉納
明治15年(1882)64歳 太宰府天満宮へ大神鏡を奉納
明治18年(1885)67歳 1月までに25霊社へ小神鏡と石標奉納
           第1回大台ケ原探査
明治19年(1886)68歳 第2回大台ケ原探査、「聖跡二十五霊社順拝双六」
           各地の社寺の古材で1畳の書斎「一畳敷」をつくる
明治20年(1887)69歳 第3回大台ケ原探査 
          富士山に日帰りで登山「丁亥(ていがい)後記」を出版
明治21年(1888)70歳 2月10日、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去
    遺骨は東京都豊島区駒込の染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されているほか、
    武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に
    建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる

松浦武四郎の碑
北海道には50カ所以上、松浦武四郎の碑があるそうです。
これらの碑を紹介したYoutube動画があったのでGooで共有させていただきました。
【朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース】松浦武四郎の碑、北海道にいくつあるか、ご存知ですか?

アイヌについて
アイヌは狩猟、漁労、採集を生活の基盤として周辺諸民族との接触や交易を
行いながら、古くから樺太(サハリン)、千島(クリル)列島及び日本列島北辺に及ぶ
広大な地域に独自の築き上げてきた。
蝦夷地(現在の北海道)では18世紀後半頃より、交易などを求めて蝦夷地や千島に
しばしば来航するロシアの登場という対外緊張の中で鎖国政策をとる「徳川幕府」は
強烈に国境、領土を意識する場所へと変貌していく。
上の写真はアイヌの人々の生活を描いたもの
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14
上の写真は近藤重蔵著の「辺要分界図考」の一部
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14
上の写真はアイヌの人々の生活を表した絵
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14

上の写真でアイヌモシリという言葉があります。
Wikipediaではアイヌモシリを次のように概説しています。
アイヌモシリ(アイヌ語仮名表記: アィヌモシリ、アイヌ語ラテン文字表記: aynu mosir)は、アイヌ語で「人間の大地」を意味する言葉。また16世紀以降で、北海道を指すアイヌ語の地名


徳川幕府のアイヌ政策
松前藩の場所請負制度によりアイヌの人達から運上金(税金)を集めた。
蝦夷地は寒冷な気候のため米の作付けは出来ず年貢米を藩の収入にできない。
そこで海岸線沿いの土地を区画して商場を設け、そこで採れる水産物などと
米との交換取引の権利を藩士に与えた。この商場を商人が請け負い、運上金(税金)を
藩に納めることにした制度である。
アイヌの人々が商場に出す鮭や毛皮と米との交換比率はアイヌの人々にとり年々不利に
設定される。さらに労働力の確保のためアイヌの人々の自由な行動を禁じたり
交易を制限したりする圧政によりアイヌ人の人口が減少していった。

上の写真は場所運上金納付書 (根室、択捉、根泉場所の運上金(税金)支払証
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14
上の写真は幕府の北方探検と蝦夷地開拓
高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示より 撮影:2023-6-14

はなはだ纏まりのない内容となってしまいましたが時間の関係でこの辺でアップします。

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お夏清十郎の物語で有名なお夏の生家跡 on 2023-9-8

2023年09月20日 06時33分39秒 | 姫路市
2028年9月8日、姫路市の西二階商店街で食事をするために食事処を探していた時に
標題の「お夏の生家跡」を見つけましたので写真紹介します。

生家跡と言っても説明板があるだけです。


上の写真がお夏清十郎物語 お夏の生家跡の説明板です。
説明板の説明文をそのまま転記しておきます。
お夏清十郎物語 お夏の生家跡
井原西鶴 の描いた「お夏清十郎物語」。この物語の主人公お夏は、この向かいはなや酒店のある場所にあった米問屋但馬屋で生まれました。
万治二年(1659)将軍徳川家綱 の頃。姫路本町に店を構える但馬屋で暇を出された奉公人の男が主人を恨んで斬りつけるという事件が起こりました。男の名は清十郎。凶行の裏には主家娘お夏との恋沙汰があったといいます。
お城の北西にある慶雲寺にはお夏と清十郎を祀った「比翼塚」があります。二人は駆け落ちたといいます。
姫路城うちまちミュージアム
「まち全体が博物館」
姫路城下町街づくり協議会



上の写真は説明板のある位置(お夏の生家跡)を示したものです。
お夏の生家、但馬屋は西国街道と江戸時代の大手前通(中之門筋)の交差点
江戸時代に高札場付近にあった
現在の住所表示では姫路市本町231番地 城南病院(藤森耳鼻咽喉科跡)

上の写真は説明板に添付の錦絵でお夏の姿が描かれています。

上記の説明版の近くに「お夏清十郎のものがたり」と題した説明版も掲示されて
いましたので添付しておきます。(下の写真)

お夏清十郎について簡単に概観します。
「お夏清十郎」(おなつ せいじゅうろう)は、寛文2年 (1662) に播州姫路で
実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品の通称・総称。
『お夏狂乱』(おなつ きょうらん)ともいう。
以上はWikipediaによります。  

播磨室津の造り酒屋・和泉屋清左衛門の息子・清十郎は放蕩の末に勘当され、姫路城下町の米問屋・但馬屋の手代として奉公、但馬屋の一人娘お夏と深い仲となるが、嫉妬した番頭が但馬屋の金を盗み、その罪を清十郎になすりつける。清十郎は激怒のあまり逆上し番頭を殺してしまう。お夏と清十郎は手に手を取って但馬屋を後にした。
お夏と清十郎は飾磨港までやって来て、船で大阪へ出立しようとしたとき、追っ手によって清十郎は捕らえられ、お夏は連れ戻された。お夏は自宅謹慎処分となり、清十郎は船場川の河原で討ち首となってしまった。
清十郎の処刑のことは、自宅謹慎中のお夏には知らされなかった。お夏は、ただただ愛しい清十郎のことばかり
「今頃、清十郎さま、牢で淋しい想いをしていることやら…一目会いたい」
そんな想いを馳せるお夏の毎日だった。
ところがある日のこと、塀の外で近所の子供たちの歌声が聞こえた。
清十郎殺さば お夏も殺せ
同じ刃で もろともに…
お夏は、ただならぬ歌の文句に動転したのである。
「清十郎さまは死んでしまったの?…」
お夏は、悲しみのあまり発狂したのだ。それからというものは、清十郎の姿を求めて、町をさまよい歩く。「恋しい清十郎さま…」
恋人を呼ぶお夏の悲惨な姿は、町の人々の涙を誘った。
狂乱したお夏が、その後、どうなったのか。
身を隠し七十歳まで生きた、とか、自殺して果てた、とも伝われている。
一説には、お夏は清十郎の室津の実家までゆき、そこで清十郎が討ち首になって既に死に果てたことを知り、清十郎の後を追って、室津の海に身を投げた…とも伝えられているが、定かでない。
お夏・清十郎の悲恋を哀れんだ但馬屋の主人、九左衛門は、天国で二人が永久に結ばれるように…との願いを込め、野里の慶雲寺に“比翼塚”を建立し供養をしたのである。“比翼塚”には今も、二つの小さな石塔が仲良く並んでいる。毎年8月9日、同寺において、その供養が執り行われています(「お夏清十郎慰霊祭」 )。

井原西鶴が著した浮世草子『好色五人女』の第一章『姿姫路清十郎物語』(すがたひめじ せいじゅうろう ものがたり)と、それを宝永4年 (1707年) に近松門左衛門が脚色して世話物の人形浄瑠璃に仕立てあげた『五十年忌歌念仏』が
ベースとなり歌舞伎での公演は様々な脚色がされています。

上の写真はたつの市室津、清十郎の生家跡への案内図
現在は生家と思われるようなものは全く残っていない。


関連事項として2013年3月31日に姫路播磨国総社で開催されている三ツ山大祭の
見ものの一つ10箇所の造り物巡りの中のNo.3「お夏・清十郎の恋」の展示を
写真紹介します。
No.3お夏・清十郎の恋 設置場所:JR姫路駅中央コンコースみどりの窓口の前
                製作者:姫路工業高等学校
 


さらに詳細は下記ブログで書いています。




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ガスト姫路駅前店でのモーニング on 2023-9-1&2023-6-16

2023年09月19日 06時21分33秒 | 姫路市
毎週、金曜日に姫路市の考古学園大学校(史学科)に通っています。
朝はよくガスト姫路駅前店でモーニングを頂いています。
9月1日(金)と6月16日のモーニングについて写真紹介します。

モーニング(ガスト)

ガスト姫路駅前店の基本情報
住所:姫路市駅前町363−1 フェスタビル南館 3F  TEL:079-287-1511
料理ジャンル:ファミレス 営業時間:7:00~23:30  定休日:無休

公式サイト:ガスト | すかいらーくグループ (skylark.co.jp)

2023年9月1日

上の写真はいつも注文しているスクランブルエッグとソフトフランスパン550円(税込)
上の写真はドリンクバーの飲み物とスープ
当日のランチは姫路市田寺東の花車 で食べています。(下の写真)
訪問記は下記ブログで書いています。

2023年6月16日

上の写真は目玉焼きとソフトフランパンのモーニング550円(税込)

上の写真はドリンクバーの飲み物とスープ

当日のランチはWith carryで日替わりランチを食べています。(下の写真)

訪問記は下記Gooブログ記事


また、姫路駅周辺のモーニングについて下記Gooブログで纏めています。


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カフェ サンタマリア三宮店でのモーニング on 2023-9-12

2023年09月19日 05時25分56秒 | 神戸情報
2023年9月12日、カフェ サンタマリア三宮店でモーニングを頂きましたので
写真紹介します。今まで何回も利用していますがブログ作成は初めてです。
新聞が何紙か置いてありゆっくりとしたい場合に利用しています。

カフェサンタマリア三宮店の基本情報
英文表記:Cafe Saintmaria
住所:神戸市中央区琴ノ緒町5丁目1番301号  TEL:078-221-0504
営業時間:7:30~20:00
定休日:なし  運営会社:神姫フードサービス株式会社

当日注文したのは奥様も私もシンプルなトーストセット(ドリンク付き)。
ドリンクはホットコーヒー。
あと、ミニサラダとゆでたまごが付いてきます。  価格は470円(税込)
新聞を置いてあるのが魅力のお店です。


上の2枚の写真は当日注文したトーストセット470円(税込)
上の写真はモーニングのメニュー表



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今週の予定 2023年9月18日(月)~2023年9月24日(日)

2023年09月18日 03時54分31秒 | 有用な情報
2023年9月18日(月)~2023年9月24日(日)今週の予定をお送りします。

朝晩は暑さが和らぎ、秋の虫が鳴いています。


9月17日から9月21日は日本の七十二候の第45候、「玄鳥去る(つばめさる)
秋の風情が深まる季節(実際には厳しい暑さが残っていますが・・・)
つばめが去ってちょっと寂しくなります。

秋彼岸
9月20日~26日までの7日間。悟りの世界が近くなる期間。
お墓参りなどに出かける。家ではお線香やお香をたき身を清めます。

9月22日から9月271日は日本の七十二候の第46候、「雷乃声収む(かみなりすなわちこえをおさむ)
秋雨前線が活発になり、一雨ごとに季節が進みます。
とどろき響いて私達を時折、怖がらせていた雷もいつの間にか音を立てなくなります。

9月23日頃は二十四節気の第16節気 秋分
春分と同じく昼と夜の長さが同じになる頃です。

先週の写真

 まず、先週(’23年9/11~’23年9/17)に撮った写真を何枚か紹介します。

今回も写真は無いが話題のニュースも若干リストアップしてみました。
・原発処理水放出 初回が完了(9月11日)
・長期金利の指標、新発の10年物国債利回り一時年0.705%、2014年1月以来の高水準(9月11日)
・狛江強盗殺人容疑4人、再逮捕(9月12日)
・憲法53条に基づく国会召集の要求、最高裁が「召集決定の義務を負う」との判断(9月12日)
・第2次岸田再改造内閣が発足(9月13日)
・露プーチン大統領と北朝鮮金正恩総書記がロシア極東の宇宙基地で会談(9月13日)
・コロナ薬、来月から負担3,000~9,000円(9月15日)
・歌舞伎の革命児と呼ばれた市川猿翁さんが13日死去したことが明らかに(9月15日)



上の2枚の写真は2023年9月12日に撮影した京町筋と昭和初期の京町筋と説明板
(神戸市中央区旧居留地)


上の2枚の写真は「戦術核攻撃潜水艦」の進水式が9月6日に行われた進水式の様子
出典:2023年9月12日、10ch ミヤネ屋
北朝鮮メディアは初となる「戦術核攻撃潜水艦」が建造され、金正恩総書記の出席のもと、進水式が行われたと伝えました。 9月8日付の朝鮮労働党の機関紙は新しく建造された「戦術核攻撃潜水艦」の進水式が6日に行われたと伝えました。
日テレニュースの報道内容もGooで共有させていただきました。
【北朝鮮】金正恩氏の“肉声”半年ぶりに放送 “戦術核を搭載”新型潜水艦の進水式で演説

上の写真は9月13日、神戸港ポートターミナルに入港した「MSCベリッシマ」
ブログ記事を作成していますのでリンクしておきます。

上の写真は9月14日阪神タイガース18年ぶり、6度目のV、神戸新聞号外
神戸駅前で配布されていたみたいですが9月17日(日)の朝刊に入っていました。
リーグ優勝は1962,64,85,2003,2005,2013
日本一は1985年の1回
球団史上最速9月14日での優勝決定、オールスター以降34勝9敗1引き分け
9月1日から優勝まで11戦全勝。

今週の予定

9月18日(月)
 ・敬老の日(祝日)
 ・ラグビーW杯 日本vsイングランド(仏・ニース) 現地時間では9月17日
 ・国連のSDGsに関する首脳級会合(~19日、米ニューヨーク)
 ・サッカー アジア・チャンピオンリーグ(ACL)1次リーグ(~12月13日)
 ・ASEAN初の合同軍事演習(~25日、南シナ海)

9月19日(火)
 ・神奈川県寒川町 寒川神社例祭
 ・岸田首相が国連総会出席のため訪米(~22日)
 ・ウクライナのゼレンスキー大統領が国連総会で演説(米ニューヨーク)
   (国連の一般討論演説の開始、バイデン大統領も演説)
 ・金融庁が中古車販売大手ビッグモーターと損保ジャパンへ立ち入り検査開始
 ・ガーシー(本名・東谷義和)前参議院議員の初公判(東京地裁)
 ・米 連邦公開市場委員会(FOMC)(~20日、現地時間)
 ・十倉経団連会長会見
 ・2023年7月1日現在の基準地価を発表(国交省)
 ・8月の米住宅着工件数

9月20日(水) 
 ・彼岸入り
 ・空の日
 ・動物愛護週間
 ・奈良・元興寺 軸装智光曼荼羅公開(~26日)
 ・新型コロナウイルスワクチンの秋接種開始(冬向け対策)
 ・中国BYD、小型電気自動車(EV)を日本で販売
 ・小林日商会頭会見
 ・ハロウィンジャンボ・同ミニ宝くじ発売(~10月20日)抽選は10月27日
 ・米 連邦公開市場委員会(FOMC)が声明発表後、パウエル議長が記者会見
 ・秋篠宮ご夫妻がベトナムを訪問(~25日)
 ・中国ファーウェイコネクト2023開催(~22日、上海)
 ・8月の貿易統計(財務省)
 ・8月の訪日外国人客数(日本政府観光局)

9月21日(木)
 ・西宮まつり(~23日、西宮神社)
 ・金融政策決定会合(~22日、日銀)
 ・東京ゲームショー2023(~24日、千葉・幕張メッセ)
 ・米国-ウクライナ首脳会談(ワシントン)
 ・ゴルフ パナソニック・オープン(~24日、兵庫県小野市東洋CC)
 ・日本-ベトナム外交関係樹立(1973)から50周年

9月22日(金)
 ・川内大綱引 
 ・植田日銀総裁会見
 ・米国アップルがiPhone15シリーズなど発売
 ・8月の消費者物価指数(総務省)
 ・8月のスーパー売上高(日本チェーンストア協会)

9月23日(土)
 ・秋分の日
 ・萩まつり(~24日)
 ・アジア競技大会が開幕(~10月8日、中国・杭州)

9月24日(日)
 ・第22回 銀谷祭り(兵庫県・生野)
 ・市長選:岡谷市、東大阪市
 ・自動車F1シリーズ第16戦、日本グランプリ決勝(三重県・鈴鹿サーキット)
 ・陸上 ベルリンマラソン(ドイツ)

最後に全国の週間天気予報を添付して筆を置きます。
最高気温のデータも添付します。
出典は9月17日(日)NHK総合テレビ 夜 ニュース7




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朝ドラ らんまん 第24週「ツチトリモチ」に登場した歴史上の人物(池長孟も登場)

2023年09月17日 05時12分05秒 | Weblog
NHK朝ドラ「らんまん」は9月29日で終了するとの知らせを聞きました。
今週の「らんまん」第24週「ツチトリモチ」には歴史上の人物が多く登場しました。

本ブログではドラマで登場する歴史上の人物の実像に焦点を当てます。

まず、第24週「ツチトリモチ」の概要について紹介したYoutube動画にリンクしておきます。

【らんまん】9月11日からの物語はどうなる?【朝ドラ】神木隆之介 浜辺美波 志尊淳 佐久間由衣

第116話(9月11日放送)
 日本中の植物を紹介できる図鑑の製作 が進み、完成間近。しかし万太郎
 (神木隆之介)は自信を無くしていた。
 虎鉄(濱田龍臣)は図鑑はきった何百年も残り続けて愛されるものだと励まします。
 一方、寿恵子(浜辺美波)の店には相島圭一(森岡龍)と 小林一三(海宝直人)がやってきて・・・
相島と小林は鉄道事業についての談義を始める。
その頃の渋谷は鉄道が通っていない寂れた場所であった。

 小林一三(海宝直人)・・実在人物(モデル)も小林一三
  阪急電鉄の創始者で経営と事業の神さま と言われた。
上の写真は宝塚「花の道」に設置の小林一三翁の銅像  撮影:2019-2-14 
小林一三氏については下記ブログで書いています。
 相島圭一(森岡龍)・・・実在人物(モデル)は五島慶太
以下の文章はWikipediaよりの引用。
五島 慶太(ごとう けいた 旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の実業家、政治家、官僚。東京急行電鉄の事実上の創業者。正三位勲一等。長野県青木村名誉村民

関連事項として東急の歴史についてYoutube動画をGoode共有させていただきます。
東急グループのあゆみ

第117話(9月12日放送)
酵母菌の研究をしている藤丸(前原瑞樹)は、その成果を竹雄(志尊淳)と綾
(佐久間由衣)に説明する。
農科大学の教授となっていた波多野(前原滉) も同席している。
万太郎の元には南方熊楠から手紙が届く。寿恵子(浜辺美波)が待合茶屋を、
竹雄と綾が屋台を始めて5年が過ぎての出来事である。
波多野
南方熊楠の手紙には新種かどうかを検定して欲しい標本が同封されていた。
虎鉄(濱田龍臣)は苦手意識を持つが万太郎(神木隆之介)は会ってみたいと喜ぶ。
徳永教授(田中哲司)からは南方熊楠に深入りするなと命じられる。

南方熊楠・・・実在人物(モデル)も南方熊楠
  南方熊楠(1867〜1941年)は実在した熊野在住の生物学者・民俗学者です。
 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダ
等の研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。
そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。
 牧野富太郎博士とは手紙のやりとりはあったのですが、実際に2人が会うことはありませんでした。 
 大正13年(1924)、2人が出会うチャンスがあった。牧野が熊楠の住んでいる
 和歌山県田辺市を植物採集のため訪れた折、同行者は、熊楠の家へ案内する
 と言ったが牧野は断った。  
高知新聞の記者、高知新聞にゅーすけ さんが面白い動画を作成されていますのでGooで共有。
南方熊楠と牧野富太郎の本当の関係は? 今週の朝ドラ「らんまん」を高知新聞記者が語る「ちっくと言わせて!」第27回

藤丸(前原瑞樹)・・・実在人物(モデル)は田中延次郎
以下の文章はWikipediaよりの引用。
田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4月21日(元治元年3月16日) -
1905年(明治38年)6月21日)は、日本の菌類学者である。
日本における最初の近代菌類学書、『日本菌類図説』を執筆した。
植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献した
【らんまん】田中延次郎の生涯 菌類研究で活躍するも悲劇の最期を迎える

波多野(前原滉)・・・実在人物(モデル)は池野成一郎
以下の文章はWikipediaよりの引用。
池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶応2年5月13日) - 1943年(昭和18年)10月4日)は日本の植物学者。日本の植物形態学の先駆者で平瀬作五郎のイチョウの精子の発見に続いてソテツの精子を発見した。
【らんまん】3人の植物学者たち 壮絶な人生をドラマでは描くのか?史実から検証&考察 【朝ドラ】神木隆之介 前原瑞樹 前原滉 亀田佳明

徳永教授(田中哲司)・・・実在人物(モデル)は松村任三
以下の文章はWikipediaよりの引用。
松村 任三(まつむら じんぞう、1856年2月14日〔安政3年1月9日〕- 
1928年5月4日)は、日本の植物学者。
【らんまん】松村任三の生涯 矢田部の後を受け植物学教室二代目トップに

第118話(9月13日放送)
南方熊楠から万太郎(神木隆之介)に送られてきた標本の中には、120年に
一度しか咲かないハチクの花もあった。
翌年、日露戦争がが勃発。渋谷は電車の開通で交通の要所として発展を遂げ
寿恵子(浜辺美波)の店は、益々賑わうようになります。
番組の中で渋谷から代々木にかけての建設された代々木練兵場と玉川電気鉄道
の開通と東京鉄道が渋谷に乗り入れた話が絵図で挿入されていました(下の写真)
代々木練兵場は明治42年(1909)7月、陸軍練兵場と衛戍監獄(陸軍刑務所)
が設置された。この陸軍省用地の範囲は現在の代々木公園よりも広く、南側は
現在の渋谷区神南にあるNHK放送センターから、同・宇田川町の渋谷区役所・
渋谷公会堂周辺一帯までに及んでいた。
玉川電気鉄道の渋谷駅は明治40年(1907)に開業


相島圭一(森岡龍)から神戸の資産家永守を接待するという話があった。
その日は永守自身は都合が悪く代理人を寄こすという・・・・
ある日、植物学教室にも南方熊楠から手紙が届く。
万太郎は徳永(田中哲司)から熊楠に深入りするなと釘を刺される。
しかし、野宮朔太郎(亀田佳明)から神社の森の悲惨な現状を伝える手紙が届き、
居てもたっても居られなくなる。

野宮朔太郎(亀田佳明)・・・実在人物(モデル)は田中長嶺 
以下の文章はコトバンクよりの引用。
田中長嶺 (ながね)生年:嘉永2(1849)  没年:大正11.6.30(1922)
明治大正時代の椎茸栽培,製炭事業の指導者。越後国三島郡才津村(長岡市)生まれ。
幼名重次郎。絵画を学ぶべく江戸に出たが途中で帰農。
農業のかたわら植物採集,写生,菌学を研究し,明治23(1890)年,わが国初の
菌類学書『日本菌類図説』(共著)を,その後さらに人工接種による椎茸栽培法に
ついて研究,『香蕈培養図説』(1892)などを著した。
また製炭法の改善を考究し,25年『十余三産業絵詞』を著した。


第119話(9月14日放送)

寿恵子(浜辺美波)の店には逸馬(宮野真守)と永守徹(中川大志)がやってくる。
資産家の青年・永守徹が万太郎を支援 モデルは京大法学部学生の池長孟。 牧野富太郎の標本を買い取り借金を解消する。当時、池長は京都大学の学生だった。
永守徹(中川大志)・・・実在人物(モデル)池長孟
上の写真は大正5年(1916)12月18日大阪朝日新聞の記事
大正5年(1916)牧野富太郎54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。
当時、東京大学の講師であった牧野富太郎の月給が35円で高額の書籍などの購入で
借金がかさみ収集した植物標本約10万点を海外に売却することを計画。これを知った
東京朝日新聞が記事を掲載、その翌日に大阪朝日新聞が同様の記事を掲載した。
神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る。
池長孟は当時25歳であった。
  池長孟(1891-1955)は牧野博士の10万点の植物標本を3万円で買い取り
  植物研究所を会下山「正元館」に設立することが決まった。
  津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊


神戸市兵庫区の植物研究所は大正7年(1918)に完成。牧野富太郎は56歳、
池長孟は27歳、開所式が会下山で行われた。牧野が所長、池長が正元館主に就任


上の2枚の写真は植物研究所及び開所式の記念写真。
開所式は大正7年(1918)10月31日から11月3日に行われています。
植物研究所は昭和16年(1941)まで続いています。
上述の植物研究所跡については下記ブログで書いています。

上の写真は植物研究所の2階の植物標本(大正10年(1921)撮影)
これらの標本は蔵書と共に昭和16年(1941)に牧野富太郎のもとに返却されています。
現在、標本は首都大学東京牧野標本館に、研究所の図書等は高知県立牧野植物園に保管されています。
出典:白岩卓巳「牧野富太郎と神戸」(2008)口絵

大正15年(1926)牧野富太郎64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てて
います。
この自宅はスエコが渋谷の待合茶屋で稼いだお金をつぎ込んで建てられました
自宅は昭和33年(1958)東京都練馬区立牧野記念庭園として開園しています。
最近のニュースで富太郎の書斎が復元されました。詳しくは下記ブログ。

上の写真は牧野富太郎と池長孟(昭和16年に撮影 牧野79歳、池長50歳)
出典:白岩卓巳「牧野富太郎と神戸」(2008)口絵


池長孟と牧野富太郎との関係について面白いYoutube動画がありましたのでGooで共有。
【らんまん】牧野富太郎の救世主池長孟!なぜ莫大な資金援助をしたのかその人物像に迫る!


第120話(9月15日放送)


上の写真は寿恵子(浜辺美波)の待合茶屋で永守徹(中川大志)が万太郎に対して
植物図鑑の刊行、植物サンプルの買い取りなど全面的に支援すると表明する場面。
立ち合い者として永守の代理人・早川逸馬(宮野真守)も同席。

早川逸馬(宮野真守)・・・実在人物(モデル)は植木枝盛 
以下の文章はWikipediaよりの引用。
植木 枝盛(1857年2月14日〈安政4年1月20日〉 - 1892年〈明治25年〉1月23日)は、日本の思想家、政治家。自由民権運動家。
牧野富太郎との関係は土佐の人という共通点はあるもののドラマであったように
万太郎が自由民権運動の集会に参加し警察に捕らわれるような史実は無く
脚本家の長田育恵 さんによる創作か? 

牧野富太郎の妻•壽衛の実像

【らんまん】牧野富太郎の妻•壽衛 ドラマと史実の違い 知られざるエピソード【朝ドラ】神木隆之介 浜辺美波



朝ドラ大好きchによる歴史上の人物

朝ドラ大好きchが纏めた朝ドラに登場する歴史上の人物
【らんまん】牧野富太郎と南方熊楠ら偉人たちの秘密の交流【朝ドラ】神木隆之介 浜辺美波



第25週 「ムラサキカタバミ」
【らんまん】9月18日からの物語はどうなる?【朝ドラ】神木隆之介 浜辺美波 中川大志
9月18日(月)からの「らんまん」第25週「ムラサキカタバミ」がどんな
展開になるのか楽しみです。

最後に「ツチトリモチ」の写真を添付して筆を置きます。
2023年9月15日(金)のNHK朝ドラ「らんまん」放送より

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吉原遊郭と蔦屋重三郎について

2023年09月16日 05時21分12秒 | Weblog
2025年の大河ドラマ(第64作)は『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』に決まっています。
主演は俳優の横浜流星さん(26)が務める。
江戸時代の版元で浮世絵師の喜多川歌麿や葛飾北斎を世に出したことで
知られる蔦屋重三郎(1750-1797)の生涯が描かれます。
脚本は森下佳子さんが担当されます。制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典 演出:大原拓

今から約11ヶ月先の2024年8月からクランクインするそうです。

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)(1750-1797)の基本情報
 
 生まれ:寛延3年1月7日(1750年2月13日)
 死去: 寛政9年5月6日(1797年5月31日)
 父:丸山重助 吉原で遊郭の勤め人であった 
 母:津与 
 出生地:江戸吉原 略称:蔦重
 のちに喜多川氏の養子になった。名前は喜多川柯理(からまる)
 「蔦屋」は喜多川氏の屋号。
 吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。
 蔦屋の商標は富士山形に蔦の葉

蔦屋重三郎は吉原に関係することが多いことから
吉原について調べてみた

吉原は江戸で唯一幕府から公認された遊郭である。
人口の7割を男性が占める江戸の町で風紀の乱れを予防するための必要悪
として存在が許された。
当初、吉原は繁華街として栄えていた日本橋にあった。この地には葭 (よし)が
生い茂っていたいたため「葭原」と呼ばれたが、葭は「悪し(あし)」とも読め
縁起を担いで「吉原」と称するよになった。営業は昼間のみで客の中心は武士だった。
元々は大御所徳川家康終焉の地である駿府城下町にあった二丁町遊廓から
一部が移されたのが始まりである。
しかし、江戸市域の拡大で吉原が江戸の中心地に隣接する状況になると
これを好ましくないと思った幕府のメスが入ることとなった。
上の写真は寛永期(1624-1644)も吉原遊郭周辺の地図
明暦3年(1657)、幕府は深夜営業を認める代わりに日本橋から浅草の千束に
広がる田園地帯への遊郭街の移転を命じました。
元の吉原に対して「新吉原」と呼ばれた。
市街地から隔離されたことで客層の中心は武士から町人へと移行した。
時代をリードする知識人層が集うようになった吉原は一流の社交場としての
格式をもち、江戸文化の最先端を担う場所となった。
新吉原は昭和32年(1957)の売春防止法が施行されるまで歴史が続いた。

上の写真は新吉原遊郭の内部の案内図 
出典は安政2年(1855)に発刊された「花廓新宅細見図(はなくるわしんたくさいけんず)」
東北大学附属図書館蔵

 安永2年(1773年)、蔦屋重三郎は23歳で吉原大門の前に書店を開き、
 はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見
 (店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から
 出版業に関わっていった。

上の写真は新吉原大門口時代の蔦屋店頭 
出典:松木寛「蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者」(1988) Page34

新吉原遊郭の周囲は堀で囲まれ、高い塀が巡らされた。入り口は大門一つのみ。
門の両サイドには番所があり、一方には町奉行が派遣した同心と岡っ引きが詰め、
往来に厳しい監視の目を光らせていた。

十返舎一九 編著、喜多川歌麿 画「青楼絵本年中行事」 享和4年(1804)で、
新吉原遊郭の様子を垣間見ることができるのでその一部を写真添付しました。
青楼とは吉原のことを指しています。





上の写真は室津の浄運寺の本堂に掲示されていた「諸国遊所競」の番付表で
著名な場所に混じって、たつの市室津は西前頭の上位8番目に出ています。
撮影:2017-11-5
 
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クルーズ船 MSCベリッシマの神戸港への入港風景 on 2023-9-13

2023年09月15日 04時24分30秒 | 神戸情報
2023年9月13日(水曜)、神戸港ポートターミナルに「MSCベリッシマ」が⼊港しました。
久しぶりのクルーズ船の入港風景の撮影です。
神戸港からの出港予定は9月14日(木)の20:00です。
MSCベリッシマは2019年3月に就航したばかりの最新鋭船で日本発着クルーズの
多くのプランが有り、庶民でも手の届くお手頃価格のプランが組まれています。
このクルーズ船は2020年の6月までは北アメリカで就航していたが
新型コロナウイルス感染症の影響で運行が中止されていました。
神戸港への初入港は2023年6月13日でした。

MSC ベリッシマの基本情報
英文名: MSC Bellissima イタリア語でとても美しいという意味 
 2019年2月27日にソフィア・ローレンによって命名されました
 MSCはMediterranean Shipping Company の略
船籍:Valletta,マルタ 所有会社:MSC クルーズ(本社 スイス・ジュネーブ)
クラス:メラビリア クラス Meraviglia class 
建造:シャンティエ・ド・ラトランティック(仏、サン・ナゼール)
総トン数:171,598トン 全長:315.83m 幅:43m スピード:21.8ノット
乗客定員:4,500人 出力:38,400KW 船室数:2,217 バルコニー:1,418
コールサイン:9HA4902 IMO:9760524 MMSI:248992000
最上階には3種類のウォータースライダーや、海上80メートルの高さで船を
横断するアクティビティ、ご家族、お子様向けの施設などを備えています。

前置きが長くなりました早速写真紹介に移ります。

上の2枚の写真は9月13日、15:30頃姿を見せたMSC Bellissima 





上の3枚の写真はポートターミナルの岸壁に向けてゆっくりと進むMSCベリッシマ
2023年9月13日、15:30~15:40頃



上の3枚の写真はポートターミナル岸壁への着岸間近の様子。
9月13日の15:55~16:05

Youtube動画でもご覧ください
クルーズ船 MSCベリッシマの神戸港への入港風景 on 2023-9-13

クルーズ船 MSCベリッシマの神戸港への入港風景  その2 on 2023-9-13  

クルーズ船 MSCベリッシマの神戸港への入港風景 その3 on 2023-9-13

今回入港したMSCベリッシマの旅程
DAY 1(9月12日) 20:00横浜出港

DAY 2(9月13日) 16:00 神戸着(泊)

DAY 3(9月14日) 20:00 神戸港出港

DAY 4(9月15日) 広島15:00着 22:00広島出港

DAY 5(9月16日) 全日 洋上

DAY 6(9月17日) 済州島(韓国) 7:00着

DAY 7(9月18日) 鹿児島 9:00着 19:00鹿児島出港

DAY 8(9月19日) 終日洋上

DAY 9(9月20日) 7:00横浜着

神戸港に初入港(2023-6-13)時の動画

神戸新聞が作成したYoutubeをGooで共有
「まるでビル」過去最大級の豪華クルーズ客船「MSCベリッシマ」神戸港に初入港 5千人以上が乗船可能

 サンテレビが作成したYoutubeをGooで共有
MSCベリッシマが神戸港に初入港 日本寄港最大級のクルーズ客船 総トン数は17万トン超

クルーズ船での生活紹介Youtube動画(Gooで共有)
【クルーズ乗船記】日本発着最大&最新の豪華客船!バトラー付きスイートルームで8泊9日の船旅完全レビュー【MSCベリッシマ・ヨットクラブ/MSC Bellissima JAPAN】
 
MSCクルーズの日本発着プラン
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姫路の銘菓 伊勢屋本店の玉椿 on 2023-9-8

2023年09月14日 04時17分14秒 | 姫路市
2023年9月8日、西二階町商店街にある和菓子屋「伊勢屋本店」で姫路の銘菓
玉椿(たまつばき)を購入していただきましたので写真紹介します。

伊勢屋本店の基本情報
住所:姫路市西二階町84  TEL:079-288-5155
営業時間:9:00~18:00

元禄15年(1702)に開業した「伊勢屋本店」の「玉椿」は姫路藩家老の
河合寸翁が名付けたと伝承されています。
黄味餡を椿の蕊(しべ)に見たてています。
1個140円(税別)、税込み(8%)で151円です。
上の写真は家で開封した玉椿 2個購入し奥様と私で1個づついただきました。


上の写真はお店に掲示されていた玉椿のポスター
このお店に寄ったきっかけは訪問前日の9月7日、NHK総合テレビ「ええトコ」
で伊勢屋本店の玉椿が紹介されていたからです。
上の写真は上述番組で紹介されていた玉椿と姫路城

11代将軍徳川家斉(いえなり)の二十五女・喜代姫(きよひめ)(1818~68年) 
を天保3年(1831)5代姫路藩主・酒井忠学の正室 として迎えるに当たり玉椿を献上。
制作にあたっては和菓子職人をわざわざ江戸に修行に行かせたと上記番組で
紹介されていました。(下の写真)

伊勢屋本店社長の山野芳昭さんはツバキには長寿とか繁栄といった思いが
込められていると上述番組で説明されていました。

上の写真は店内のショーケースの中の和菓子

上の写真は伊勢屋本店の外観

最後に上述番組の出演者(浅野ゆう子さんと室井滋さん及び伊勢屋本店社長の
山野芳昭さん)と店内の室井さん&浅野さん及び竹下景子さんのサインを添付して筆を置きます。



浅野さんと室井さんは2023年8月8日に伊勢屋本店を訪問したことが判ります

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姫路市西二階町 和の食 奏(かなで)でのランチ on 2023-9-8

2023年09月13日 04時54分53秒 | 姫路市
2023年9月8日、姫路市西二階町 和の食 奏(かなで)で頂いたランチを
写真紹介します。初訪問のお店でした。

和の食 奏の基本情報
住所:姫路市西二階町103  TEL:079-280-4448
ジャンル:和食
営業時間:昼 11:00~14:00、夜 17:30~22:00
定休日:月曜日、第3日曜日午後の部
オーナー兼料理人:中川直樹氏
Facebook(中川直樹):中川 直樹 | Facebook 

所在地のGoo地図を添付しておきます。

当日、頂いたのは「とろける蒸し穴子御膳」2,200円(税込)です。
 
上の写真が当日いただいた「とろける蒸し穴子御膳」2,200円(税込)
蒸し穴子の箱寿司・蒸し穴子にぎり・茶碗蒸し・天ぷら盛りあわせ・ゴマ豆腐・赤だし

上の写真は蒸し穴子の箱寿司4個と蒸し穴子にぎり2貫
上の写真は天ぷら盛り合わせ
上の写真はゴマ豆腐
上の写真は茶碗蒸し 中に餅が入っており美味しかった
上の写真は赤だし
上の写真は最後に出てきたデザート

当日いただいた「とろける蒸し穴子御膳」以外のメニューを紹介します。
上の写真は上にぎり午前 2,530円(税込)
上の写真は奏のお遊び御膳 2,200円(税込)
上の写真はランチのメニュー表

上の写真はお店の外観  写真左手中央に「脇本陣 三木家跡」の説明板が写っています。
西二階商店街のこのあたりは江戸時代には西国街道が通っていました。

 
上の写真はお店の横に掲示してあった「脇本陣 三木家跡」の説明板
「三木家は屋号を椀箱屋と称し姫路の有力商人で、江戸時代を通じて大名や
旗本・幕府の役人が泊まる脇本陣に指定されており、本陣とされた時期もあった。
伊能忠敬の測量日記によれば1805年(文化2年)10月16日、本陣三木与惣五郎
との記録があり、忠敬がここに泊まったことがわかる。
その敷地はオクノ時計宝石店から東は馳走ぜんまでの間であったと思われる。」

西二階町商店街、奏の対面の那波結納店横に説明板には椀箱屋三木氏本陣跡 
の説明版があります。そこには下記の内容が書かれています。
18世紀初めに本陣となり、江戸時代後期の文化2年(1805年)には伊能忠敬も泊まったとあります。

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