那覇・新都心のすぐ東の真嘉比に、こんもりとした大道森(だいどうむい)」がある。米軍は、ここをハーフムーンと称していた。すぐ西のシュガーローフとともに、この一帯の攻防戦は、沖縄戦における日米最大の激戦だったといわれている。
(この付近の戦闘の経過については、http://www.okinawa-senshi.com/sugarloaf-n.htm を参照)
1945年5月12日、軍司令部のある首里城に迫る米軍と、日本軍の独立混成第44旅団のあいだですさまじい戦闘が始まった。
10日間の戦闘は熾烈をきわめた。米軍は、2622人が死傷、1289人が「戦闘疲労」病(精神障害)を出した。特に、5月16日の攻防は、米軍にとっても、「沖縄作戦最悪の日」と呼ばれているという。(ここで死んだコートニー少佐の名前は、今もうるま市の「キャンプ・コートニー」として残っている。)
米軍がこの一帯をおさえたため、首里への米軍の攻勢が強まり、5月27日、首里の第32軍司令部は南部撤退の止む無きに至った。
現在では、シュガーローフ付近はすでに新都心として開発され、市の水道タンクの横に小さな説明板があるだけだ。
ハーフムーンは、おもろまち駅の東に、当時の姿のまま残っていたが、ここも区画整理の工事ために丘は削られ、道路や宅地に姿を変えつつある。しかし、今でも、辺りを少し掘れば、遺骨や砲弾片、遺品などが出てくるという。
具志堅隆松さんらの「ガマフヤー」という遺骨収集のボランティアグループが、戦跡の保存を訴え、調査を続けていたが、昨秋には、失業者やホームレスを作業員とする緊急雇用創出事業として遺骨収集作業が行なわれた。戦後処理を失業対策事業で行なうという画期的な事業だ。55人が作業に従事し、2ケ月間で、110人分の遺骨が見つかったという。
この2月中旬には、工事が進み、もう遺骨収集もできなくなってしまう。それまでに、ボランティアを集めて遺骨収集作業を急ごうというので、私も、10日に参加させてもたった。
(シュガーローフから見たハーフムーンの丘。手前半分は道路工事のため削られてしまった。)
(工事がすすむハーフムーンの丘。この2月中旬には、全て切り崩され、道路になってしまう。)
(この日、ボランティアを集めて遺骨収集作業が行なわれた。)
(遺骨収集作業をする具志堅隆松さん。後ろのお墓のコンクリート壁には、一面に砲弾跡が残っている。)
(作業を始めると、すぐに遺骨が出てきた。)
(銃弾や薬莢、砲弾の破片などは簡単に見つかる。他にも、防毒マスクの部品や、黄燐弾の一部、飯ごうの蓋などが出てきた。)
(日本軍が掘った壕跡。長さ20mほど。丘の向こうまで繋がっている。昨秋、ここで2体のほぼ完全な遺骨が見つかった。)
(この壕で見つかった頭蓋骨。銃弾が貫通した跡が残っている。)
一日中、しゃがみこんでシャベルを使うのはかなりの重労働だったが、それでも
、やはり、いろんなことを考えさせられる。
10年ほど前、サマールで元日本兵のほぼ完全な遺骨を見たことがあるが、それ以来の日本兵の遺骨だった。
あまりに無造作に出てくる遺骨。泥を落とさないと、なかなか、木の根っこや石ころとも見分けがつかない。まさに、あわれ、むなしいとしか言いようがない。
シャベルを使いながら、竹内浩三の「骨のうたう」の一節、「骨は骨 骨を愛する人もなし」を思い出していた。
ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
それにしても、戦後64年もたつというのに、こんなに多くの遺骨が放置されたままだということには驚くほかない。何故、ボランティアの作業ではなく、国の責任で行なわれないのかと思う。