ブログを開設して種々のことを書き連ねて公開する人たちは
何らかの意味でアミエルに近いのかな、と思う。
もっともアミエルは公開することを意図したかは不明だが。
現在の情報通信が発達し、自らの思いを自由に公開できる
時代は過去においてなかった。
私のように、どうでも良い事を書き散らして雑音みたいな
ものもいるが、それだけにノイズの中から聴き取りたい思いを
掬いたいものである。
かといって、言葉を選べとは言わない。誰だって表出したい
思いを、どのような方法にせよとどめる事はできまい。
それを前提にして選ぶことを要求されているのが現在なのだ。
文書として残す事が限られた人の特権であれば、厳しく時の
選択に任されようが、今は選択も思うままにならないのが実情
である。
主体的能動的であることが問われている。ありがたく書かれた物を
押し戴く時代ではない。
先達先哲は今の世にあれば、どのように処したであろうか。
より饒舌に?それとも沈黙を良しとするか?
興味のあるところである。
ネットワーク時代の光と影を論述して止まる所を知らないかも・・・
筒井康隆の「賑やかな未来」にその先見性が表現されているのかも
知れない。
話を戻して、私も「アミエルの日記」を若い頃に読んで、自分も
と、思った時期があった。内容は別にしてページ数だけは、と。
結婚と同時期に書き散らすのは止めてしまったが。
大阪で小学校に侵入し殺傷沙汰を起こした少年もその直前まで
日記を書いていたらしい。
紙面に向かいながらそのような行動を犯すのは、そこにどのような
こころの営みがあったのだろうか。
まぁ、ネットを通じて邪悪なこころも清新なこころも「いっしょくた」
なのが現代そのもの、ということなのだろう。
情報社会文化論あるいは精神に及ぼす情報化社会の功罪も、きっと
ネットのどこかで熱く論じられているのではと思う。
何らかの意味でアミエルに近いのかな、と思う。
もっともアミエルは公開することを意図したかは不明だが。
現在の情報通信が発達し、自らの思いを自由に公開できる
時代は過去においてなかった。
私のように、どうでも良い事を書き散らして雑音みたいな
ものもいるが、それだけにノイズの中から聴き取りたい思いを
掬いたいものである。
かといって、言葉を選べとは言わない。誰だって表出したい
思いを、どのような方法にせよとどめる事はできまい。
それを前提にして選ぶことを要求されているのが現在なのだ。
文書として残す事が限られた人の特権であれば、厳しく時の
選択に任されようが、今は選択も思うままにならないのが実情
である。
主体的能動的であることが問われている。ありがたく書かれた物を
押し戴く時代ではない。
先達先哲は今の世にあれば、どのように処したであろうか。
より饒舌に?それとも沈黙を良しとするか?
興味のあるところである。
ネットワーク時代の光と影を論述して止まる所を知らないかも・・・
筒井康隆の「賑やかな未来」にその先見性が表現されているのかも
知れない。
話を戻して、私も「アミエルの日記」を若い頃に読んで、自分も
と、思った時期があった。内容は別にしてページ数だけは、と。
結婚と同時期に書き散らすのは止めてしまったが。
大阪で小学校に侵入し殺傷沙汰を起こした少年もその直前まで
日記を書いていたらしい。
紙面に向かいながらそのような行動を犯すのは、そこにどのような
こころの営みがあったのだろうか。
まぁ、ネットを通じて邪悪なこころも清新なこころも「いっしょくた」
なのが現代そのもの、ということなのだろう。
情報社会文化論あるいは精神に及ぼす情報化社会の功罪も、きっと
ネットのどこかで熱く論じられているのではと思う。
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