気ままに自転車ツーリング♪

70代になり60代からの散歩が中心となりました。50代は健康維持のため何かスポーツをと、消去法でサイクリングでした。

働くことが世に貢献していると実感

2015-06-10 20:09:43 | 心象風景・身辺雑記
住民税の通知書が来た。
倍額に!

再び些細ながらの収入で働き始めたのだから当然かも知れぬ。

まぁ、それはいいとして素直に納めることには異論はない。
できれば、有効に世のために「有識者」が使途を決めてほしい、と願う。

国民の三大義務というのを思い起こす。

親として子に教育を受けさせる。
子は長じたら働く。
そして納税する。

これが国民としての義務と憲法で定められているとうろ覚えながら認識しているつもり。

これが国民たるものに遍く周知され果されないと国が維持していけない。

だけど、自己主張を表に出して自分の都合を優先している「国民」も看過できないレベルに達しているように思う。

何を言い募ろうが構わないが、三大義務を果たしているという前提で言っているのと問いたい。

納税する人と、そのお金で扶助される人といるのは人の生い立ち境遇でその時々で変わるのは当たり前だ。
でも、義務を果たさず声高に権利を主張することに違和感を感じるのは些細ながら納税している国民として疑問符が残る。

誰だって社会の支援を受けざるを得ない立場になる可能性があるのだから、今その立場の人に手を差し伸べることへの理解をしないと後で困るよ、という主張もある。

保険屋の勧誘の殺し文句だ。

言いたいことは一つ。
生きることに自分自身で対処できなくなったら納税者の負担をできる限り少なくする仕組みにあれこれ言わずに従うことだ。

若いころから人生に処するための基礎教育は必須だ。
「働いたら負け」とか、「年金を払わずいずれは生活保護」とかの甘い人生観は厳しく裁断されると。
今の働いている人たちには暖かい手を差し伸べるほどの余裕はないのだよ。

そういう意識で生きることを考えてほしいなぁ。
そういう意識を持つ能力がないのは人としての欠格者の烙印を押されても致し方ないように気がする。
だって、憲法がいうところの文化的な生活そのものの理解すらできてない。
それに対して文化的生活レベルの支援を施したところで足るを知るとも思えない。
文化的というのは社会的尺度で推し量るのもではなく人それぞれののものだ。
支援の上下に対する忖度で云々言っているだけに過ぎない。

働いている人は収入の多寡で生活の程度を忖度して何とか凌いでいる。
貰うだけの人は支給水準の上下に、こんなんでは生活できないと。何をか況や・・・

結婚しない自由、子を産まない自由、同性同士の「結婚」・・・
人の生き様は多様化を容認する方向に向かいつつある。
一方、少子化が国の衰退を促進すると危惧される、と。

自由はいいけど、ここらへんで一呼吸おいてそれぞれの立ち位置を見直してもいいのでは。

リタイヤ後に働くのを再開しても余裕はないと思うがゆえに甘ったるい「自由人」の台頭に省察を期待したい。

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