学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その8)

2020-11-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 2日(月)18時29分9秒

クレージーキャッツのメンバーは植木等が1926年生まれ、ハナ肇が1930年、谷啓が1932年ですから、私もその全盛時代をリアルタイムで見ていた訳ではありません。
ずっと後になって、結構面白いことをやっていた人たちなんだなあ、と思って少し調べてみて、子供の頃の自分が実際にテレビで見た映像と後で調べた結果が、ごちゃ混ぜの記憶になっているような感じですね。
まあ、昭和を遠く離れた世代の人たちにとっては、そんなことはどうでもいい話でしょうが。

ハナ肇とクレージーキャッツ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E8%82%87%E3%81%A8%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%84

さて、島津四郎のコミカルな場面に続き、第十巻で二回(兵藤校注『太平記(二)』、p145・147)、第十一巻で二回(p165・166)「降人」が登場した後、第十一巻第八節「長門探題の事」に「降人」と「降参」が出てきます。(p188以下)

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 長門探題遠江守時直は、京都の合戦を聞いて、六波羅に力を合はせんと、大船百余艘に取り乗つて海上を上られけるが、周防の鳴渡〔なると〕にて、京も鎌倉も早や皆源氏のために滅ぼされて、天下悉く王化〔おうか〕に順ひぬと聞こえければ、鳴渡より船を漕ぎもどして、九州探題と一つにならんとて、心つくしにぞ趣きける。
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「心尽くし(心労)」に「筑紫」が掛けられていて、こんな深刻な場面なのにダジャレが入っていますね。
この後、北条時直は赤間関に向いますが、そこで「筑紫探題も、昨日、早や少弐、大友がために滅ぼされて、九国二島〔くこくにとう〕悉く公家の計らひとなりぬ」(p189)と聞き、付き従ってきた配下もいなくなって、「時直、わづかに五十余人となつて、柳浦〔やなぎがうら〕の浪に漂泊す」という有様になります。
そして、

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跡に止〔とど〕めし妻子どもも、いかがなりぬらん。せめてその行末〔ゆくえ〕を聞いて、心安く討死をせばやと思ひければ、暫くの命を延べんがために、郎従を一人船より上げて、少弐、大友がもとへ降人になるべき由を伝へらる。少弐も島津も、年来〔としごろ〕の好みに、今の有様聞くもあはれにや思ひけん、急ぎ迎ひに来たり、己〔おの〕が宿所へ入れ奉る。
 その比〔ころ〕、峯僧正と申ししは、先帝の御外戚にておはしけるを、笠置の刻〔きざみ〕、筑前国へ流されておはしけるが、今一時〔いっし〕に運を開く。国人皆その左右〔そう〕に慎しみ順ふ。九州の成敗、勅許以前はこの僧正の計らひに在りしかば、少弐、島津、かの時直を同道して、降参の由をぞ申しける。僧正、「子細あらじ」と仰せられて、即ち御前〔おんまえ〕へ召さる。
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ということで、北条時直は年来親しくしていた少弐・島津に「降人」となることを申し出ます。
そして、少弐・島津に同道してもらって、後醍醐の生母・談天門院の縁者であり、笠置落城後に長門探題・北条時直に預けられていた峯僧正・春雅に「降参」を申し出て、今や立場が逆転した峯僧正から念入りに嫌味を言われます。(p190以下)

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時直、膝行頓首〔しっこうとんしゅ〕して、あへて平視せず。遥かの末座に畏まつて、誠に平伏したる体〔てい〕を見給ひて、僧正、涙を流して仰せられけるは、「去んぬる元弘の始め、われ罪なくしてこの所に遠流〔おんる〕せられし時、遠州〔えんしゅう〕、われを以て讎〔あた〕とせしかば、或いは過分の言〔ことば〕の下に面〔おもて〕を低〔た〕れて、涙を拭〔のご〕ひ、或いは無礼の驕りの前に手を束〔つか〕ね、恥を忍びき。しかるに今、天道謙〔けん〕に祐して、図らざるに世の変化を見、吉凶相犯〔あいおか〕し、栄枯地を易〔か〕へたる夢の現〔うつつ〕、昨日は身の上のあはれ、今日は人の上の悲しみなり。「怨〔あた〕を報ゆるに恩を以てす」と云ふ事あれば、いかにもして、命ばかりをば助け申すべし」と仰せられければ、時直、頭〔こうべ〕を地に付けて、両眼に涙を浮かべけり。
 不日〔ふじつ〕に飛脚を以て、この由を御奏聞ありければ、即ち勅免あつて、懸命の地に安堵せさせらる。時直、甲斐なき命を助かつて、嘲りを万人の指頭〔しとう〕に受くと云へども、時を一家の再興に待たれけるが、後幾程もあらざるに、病の霧に侵されて、夕〔ゆうべ〕の露と消えにけり。
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こうして時直は峯僧正に命を助けてもらいますが、周囲から嘲りを受けて、結局は病死してしまう訳ですね。
「降伏」した「降人」の運命は過酷です。
この後、第九節「越前牛原地頭自害の事」、第十節「越中守護自害の事」と、かつて権力を欲しいままにした北条一族の悲劇が描かれた後で、第十一節「金剛山の寄手ども誅せらるる事」において、再び「降参」と「降人」の用例が出てきます。


※追記
ウィキペディアの北条時直の記事、嘉禎三年(1237)に式部大輔に叙された人が元弘三年(1333)に戦っていて、極めて奇妙であり、明らかに複数の人物の履歴が混同されている。
「参考文献」には安田元久編『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、1990)と北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001)が挙げられていて、前者の北条時直の記事は奥富敬之氏が書かれており、そこには、
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ほうじょうときなお 北条時直 ?~一三三三(?~正慶二・元弘三)
鎌倉中・末期の武将。金沢流北条実村の子。相模五郎と称す。嘉禎三年(一二三七)ごろ式部大輔。寛元四年(一二四六)ごろ遠江守。建長三年(一二五一)ごろ遠江守を辞す。永仁三年(一二九五)ごろから文保元年(一三一七)ごろまで上野介で大隅守護。元亨三年(一三二三)、周防・長門の守護で長門探題となる。正慶二・元弘三年(一三三三)閏二月十一日と三月十二日には、反幕軍の土居通増・祝安親および忽那重清らと伊予石井浜および星岡で戦い、ともに破られる。五月、厚東・由利・高津などの反幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れ、海上で鎌倉幕府の滅亡を知り、二十六日、少弐貞経に降伏。許されて本領を安堵されたが、しばらくして死んだ。なお、大仏流北条氏に同名の異人がある。
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とある。
ウィキペディアでは、この記述をベースに「永仁5年(1297年)、鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐する」といった若干の情報が付加されており、あるいはこれが『北条氏系譜人名辞典』に基づくものかもしれない(未確認)。
しかし、いずれにせよ複数の人物の履歴が混同されていることは明らか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E7%9B%B4
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その7)

2020-11-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 2日(月)12時34分26秒

今川了俊は『難太平記』に、

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六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり。


と記していますが、了俊が見た『太平記』の六波羅合戦記事に本当に「降参」の二文字が書かれていたのか、それとも「降参」自体は存在せず、これは当該記事を読んだ了俊の解釈に過ぎないのかを考えるために、『太平記』における「降参」の用例を検討したいと思います。
元弘三年(1333)四月二十七日に足利尊氏が篠村に移動して以降、『太平記』に最初に「降参」が登場するのは五月七日、尊氏が「篠村の新八幡宮」に願文を捧げてから京へ向かう場面です。(兵藤校注『太平記(二)』、p59)

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 明けければ、前陣進んで後陣を待つ。大将大江山〔おいのやま〕の手向〔とうげ〕を打ち越え給ひける時に、山鳩一番〔ひとつが〕ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻〔へんぽん〕す。「これは八幡大菩薩の立ち翔〔かけ〕つて守らせ給ふ験〔しるし〕なり。この鳩の飛び去らんずるまま向かふべし」と、下知〔げじ〕せられければ、旗差〔はたさし〕馬を早めて鳩の跡に付いて行く程に、この鳩閑〔しず〕かに飛んで、大内〔おおうち〕の旧跡、神祇官の前なる樗〔おうち〕の木にぞ留まりける。官軍この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向かひける道すがら、敵五騎、十騎、旗を巻いて甲〔かぶと〕を脱いで降参す。足利殿、篠村を立ち給ひし時までは、わづかに二万余騎なりしかども、右近の馬場を過ぎ給ひし時は、その勢五万余騎に及べり。
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四月二十七日、搦手の大将として京から篠村に向かったときには五千余騎だった尊氏の軍勢は、五月七日、篠村を出発した際には二万余騎、それが更に当日中に五万余騎に膨れ上がった訳ですね。
そして、その勢いに圧倒された敵が五騎、十騎と「旗を巻いて甲を脱いで降参」したということで、ここは敗北を認めて服従するという「降参」の通常の用法です。
この場面の後、暫く「降参」は登場しませんが、類義語として「降人」が五回(p130・145・147・165・166)出てきます。
その最初は第十巻第八節、「鎌倉中合戦の事」の島津四郎の場面ですね。(p130以下)

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 島津四郎は、大力〔だいじから〕の聞こえあつて、実〔まこと〕に器量骨柄人に優れたりければ、御大事に逢ひぬべき者なりとて、長崎入道烏帽子子〔えぼしご〕にして、一人当千と憑〔たの〕まれたりければ、口々の戦場へは向けられず、相模入道の屋形の辺にぞ置かれたりける。浜の手破れて、源氏すでに若宮小路まで攻め入りたりと騒ぎければ、相模入道、島津四郎を呼んで、自ら酌を取つて酒を進められて、すでに三度傾けける時、厩〔うまや〕に立てられたりける坂東一の無双の名馬のありけるを、白鞍置いて引かれける。人これを見て、羨まずと云ふ事なし。門前より、この馬に打ち乗つて、由井の浜の浦風に大笠符〔おおかさじるし〕吹き流させ、あたりを払つて向かひければ、数万の軍勢、これを見て、実に一人当千と覚えたり、この間、長崎入道重恩を与へて、傍若無人に振る舞はせられつるも理〔ことわ〕りなりと、思はぬ人はなかりけり。
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ということで、長崎入道円喜の烏帽子子で、一人で千人の敵に当たる勇士と期待された島津四郎が、この後どのような大活躍をしたかというと、

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 源氏の兵、これを見て、よき敵なりと思ひければ、栗生、篠塚、秦以下の若者ども、われ前〔さき〕に組まんと、馬を進めて近づきけり。両方名誉の大力どもが、人交〔ひとま〕ぜもせず、勝負を決せんとするを見て、敵御方〔みかた〕の軍兵、固唾を呑んでこれをみる処に、相近〔あいぢか〕になりたりけれ、島津、馬より下り、甲を脱いで降人になり、源氏の勢にぞ加はりける。貴賤上下これを見て、悪〔にく〕まぬものはなかりけり。
 これを降人の始めとして、或いは年頃重恩の郎従、或いは累代奉公の家人ども、親を離れ、主を捨てて、降人になり、敵方に加はりければ、源平天下の諍〔あらそ〕ひ、今日を限りとぞ見えたりける。
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という、何じゃそれ、としか思えないコミカルな展開となります。
昭和のコミックバンド、クレージーキャッツのコントで、谷啓が「ガチョーン」というと、残りのメンバーが「ハラホロヒレハレ」と崩れ落ちる場面のようですね。
ま、それはともかく、ここでの「降人」は「降伏」、すなわち敗北を認めて服従する人であり、ごく普通の用法です。
この後の「降人」が登場する場面は一々紹介しませんが、いずれも「降人」の意味は同様です。
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