学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

苅部直『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』

2017-06-29 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月29日(木)10時28分50秒

慶大教授の細谷雄一氏が苅部直氏の『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮社、2017)を絶賛していたので、細谷氏のような優秀な学者がそこまで言うなら読んでみるかな、と思って購入してみました。

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明治維新で文明開化が始まったのではない。すでに江戸後期に日本近代はその萌芽を迎えていたのだ――。荻生徂徠、本居宣長、頼山陽、福澤諭吉ら、徳川時代から明治時代にいたる思想家たちを通観し、十九世紀の日本が自らの「文明」観を成熟させていく過程を描く。日本近代史を「和魂洋才」などの通説から解放する意欲作。

http://www.shinchosha.co.jp/book/603803/

細谷氏は、

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 なんという著作であろうか。本書は、「文明」という言葉を軸として、時間と空間を越えたスケール大きな知的な冒険へとわれわれを誘ってくれる。読者は本書を読むことで、心地よい知的驚きを得ると同時に、目の前に広大な地平が開け、21世紀の世界を生きる上での「諸文明の衝突」を回避するための重要な示唆を得ることであろう。
 苅部直東京大学教授は、現代の日本でもっとも想像力溢れ、もっとも独創的な思考を提示してくれる政治思想史研究者だ。しかもそれを平易な文章と卓越したレトリックやアナロジーを用いることで、ほかにはない魅力溢れる文章に昇華させている。政治思想史という学問領域が持つ内在的な魅力と威力を、雄弁に語ることができる数少ない日本人研究者である。そして私は何を隠そう、長年苅部氏の著作のファンである。
 その苅部氏の著作の中でも、今回の著作はそのスケールの大きさと思索の奥行きの深さにおいて、前例がない。著者は、従来の一般的な明治維新論を解体し、この時代を生きた思想家や知識人、そして市井の人々の言葉を巧みに紡ぎあわせることで、新鮮な日本産の文明論を提唱する。いわば、かつて福沢諭吉が書いた文明論の著作に匹敵する壮大な視野を持つ『新・文明論之概略』を作りあげてしまった。
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という具合に熱烈に賛美されるのですが、決して悪い本ではないものの、まあ、<福沢諭吉が書いた文明論の著作に匹敵する壮大な視野を持つ『新・文明論之概略』>はさすがに言い過ぎではないですかね。
おそらく細谷氏は日本近世史の一般的な研究動向をあまり知らないのでしょうが、苅部氏は近年の近世史研究の成果を非常に巧みに纏めていて、その手際の良さは見事です。
しかし、苅部氏個人の独創的な成果があるかというと、それほどはないように思えます。
冒頭のハンチントン批判にしても、従来からハンチントンに対してなされている批判を分かりやすく整理している点は良いと思いますが、そこから<21世紀の世界を生きる上での「諸文明の衝突」を回避するための重要な示唆を得ること>ができるかというと、具体的な回避策の提案など特にないので、ちょっと無理じゃないですかね。
同書「あとがき」には、

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これまでの論文や著書と同じように、渡辺浩先生をはじめとする─『東アジアの王権と思想』(英語の表題は Confusianism and After)による問いかけを受けながら本書ができあがっていることは一目瞭然だろう─多くの先生方、研究仲間、大学院生・学部学生と交流するなかで、構想ができあがった。
-------

とありますが(p272)、苅部氏は渡辺浩氏の弟子なんですね。
ま、つい最近、『東アジアの王権と思想』を少し検討して、渡辺浩先生もそれほどたいした学者ではないのではないか、という不遜な感想を抱いた私としては、苅部氏が渡辺氏の弟子であろうがなかろうが、別にどうでもいいことではありますが。

苅部直(1965-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%85%E9%83%A8%E7%9B%B4
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「六波羅幕府」再び

2017-06-29 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月29日(木)09時46分21秒

>筆綾丸さん
>メディアでは「完全数」が全く話題にならないですね。

ツイッターではチラホラと話題になっていましたが、マスメディアだと読売の「編集手帳」には出たそうですね。

https://twitter.com/rkmnmnmy78/status/880078231289733121

「幕府」論議、何となく既視感があったのですが、高橋昌明氏と上横手雅敬氏の「六波羅幕府」論争、というか高橋氏の珍妙な「六波羅幕府」論を上横手氏が窘めた一件について、当掲示板でも少し検討したことがありましたね。
ま、こちらは「幕府」概念をどんどん拡張したいという話で、渡辺氏とは方向が逆ですが。

六波羅幕府(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5161
「頼朝の幕府の画期性を信じて疑わない人々」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f62975b26d9c292bd14dfb1f826e1c2b
「幕府」概念の柔軟化
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21f66aaffd818fa5e2f024fd13559d28
平泉幕府?(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5169
幕府の水浸し
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8852f32f1e433c6b823ccb57919193d7
「六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad13c42052d04ddd7db90f8572957fff

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「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)

2017-06-28 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月28日(水)13時33分37秒

6月25日の投稿で「林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました」などと書いてしまいましたが、南原繁他編『矢内原忠雄─信仰・学問・生涯─』(岩波書店、1968)を見たら、当該エッセイの著者は竹山道雄でした。
同書の南原繁による「まえがき」には、

-------
 矢内原忠雄君が世を去ってから五年余、その全集二十九巻が出版完了してから三年に近い歳月が流れた。全集の毎巻附録の月報をはじめ、新聞や諸雑誌に、故人についての思い出や感想などが多く書かれた。この書はそれらを一つにまとめたものである。
-------

とあって、竹山道雄のエッセイ「私が接した面」には出典の明示はありませんが、全集の月報でもなかったですね。
いい加減な記憶に基づいて適当なことを書き散らしてしまった反省も兼ねて、少し紹介してみます。

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【前略】
 戦後に旧一高が東大のジュニア・コースになることになり、先生が一高の校長となられてから、私は近く接するようになった。毎週一回の運営委員会と教授会ではかならず会った。
 何もかもむつかしく、難問山積していた。先生は昼飯をとる暇がないことが多かった。自分があれだけ努力するのだから他人からも期待するのは当然だったが、こちらは実行力皆無で栄養不足というありさまで、先生が主宰する会議はじつに肩がこった。微に入り細を穿って、正確をきわめた。会議がすむと、ほっと息をついて解放感を味わった。
 真面目一徹で、正直で、信念のためにはいかなる妥協もなく献身する。そういう人にはよくあることらしいが、先生は怒りっぽかった。カーッとなって身をふるわせて怒った。それはおおむね先生に正しい根拠があったのだが、ときには病的に思われることもあった。
 青山学院大学の学長だった故峰尾さんが来られて、ドイツ語課の主任をしていた私に、青山ではドイツ語の人手が足りない。それでいま駒場に籍をおいて青山で講師をしているX氏に、もっと時間を受持ってもらいたい。そのためにはその人の駒場の持ち時間を減してもらえないか、という話だった。どこでも人手が足りない頃だった。私はそれでは校長と話しましょうとて、峰尾さんと共に校長室に入った。
 峰尾さんがそれをいい終るか終らぬかのうちに、矢内原先生は顔色蒼白になり、目を尖らせ、頭をふるわせて叫んだ。
 「それならX君にはもう居てもらわなくてもよろしい。竹山君、すぐ行って代りの教授を見つけて来たまえ!」
 これでは相談にはならず、峰尾さんはほうほうの態で帰られた。かつては峰尾さんも相当はげしかったが、こちらはもっとスケールが大きかった。えらい人にはみな激しいところがあるようである。
--------

ということで(p458以下)、時代背景を割り引いても、こういう人が上司だったらたまったものではないですね。
「顔色蒼白になり、目を尖らせ、頭をふるわせて叫んだ」矢内原は、きっとビリケンに似ていたと思います。
ついでにもう少し紹介してみると、

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 旧一高には宿弊もたくさんあり、先生はそれを一掃して、すべての学生を清教徒にしようと考えていられたようだ。そして、旧一高の伝統を意識的に破壊した。(これで、かつての書生とか健児とかいう、歴史的系譜は断たれた。)学生は一年に一度の記念祭がしたくてたまらず、われわれもあの当時(昭和二十四年)の荒涼として沈滞した時期に一日お祭りをして気持を新たにするのがいいと思ったが、先生は頑として許さなかった。非常な歯痛で、頬に氷嚢をあてて顔をしかめながら、原則をまげなかった。私はこういう案なら合理的だし先生も同意されるだろうと思っていたのに、だめだった。理由は「国中がこんなに貧しくて困っているのに、遊ぶとはもっての他だ」というのだった。
 もし人間すべてが先生のような潔癖の清教徒ばかりだったら、どんなにいいことだろう! 先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった。それで、学生との間に次第に溝ができ、それを政治学生たちが利用した。左翼学生のビラに「校長はわれわれを憎んでいるとしか考えられない」という文句もあったし、先生が渡米されたときには「ふたたび日本の土を踏ましむるな」と大書した紙が校門わきの掲示板にはられた。それを剥ぐ人もなく、ひさしくそのままだった。
--------

という具合だったそうです。
私の記憶はいい加減でしたが、矢内原を一高の校長とする竹山道雄の記述にも若干の疑問があります。
「矢内原忠雄略年譜」によれば、矢内原が初代の教養学部長になったのは1949年(昭和24)の5月31日ですね。(p689)
他方、旧制一高同窓会「第一高等学校ホームページ」の「歴史─概要」「第一高等学校略史」を見ると、

------
1948(昭和23)年2月7日一高校長天野貞祐辞任 麻生磯次校長に就任
1949(昭和24)年6月30日一高は「東京大学第一高等学校」となる 矢内原忠雄校長に就任
7月31日麻生磯次、東京大学第一高等学校長に就任
【中略】
1950(昭和25)年3月24日卒業式を行わない永年の慣例を破り倫理講堂で卒業式、夕方「第一高等学校」の門札を外す


となっていて、教養学部長の矢内原忠雄が「東京大学第一高等学校」の校長を兼任していたのは1949年7月の一か月間だけのようです。
とすると、竹山道雄が「私が接した面」で描いている矢内原忠雄像は新制の東京大学教養学部長としてのそれかもしれません。
竹山道雄は旧制一高に非常に愛着を持っていた人ですが、それ故か、竹山自身に若干の記憶の混乱があるような感じもします。

『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
平川祐弘著『竹山道雄と昭和の時代』
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渡辺浩氏について

2017-06-27 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月27日(火)07時44分22秒

>筆綾丸さん
>日本に独特な得体の知れぬ新興宗教のようで
ドイツ風の父権主義の戯画のようにも思えますが、ドロドロした感じは日本風味かもしれないですね。
『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』は 羊頭狗肉の将基面貴巳著『言論抑圧-矢内原事件の構図』とは異なり、手堅くてけっこう良い本だと思いますが、矢内原忠雄自身にそれほど興味を持てなくなってしまった私にとっては、読み続けるのがちょっと重荷になってきました。

>『天皇』の解説は本郷和人氏なんですね
橋爪・大澤氏の本は読む気がしませんが、石井良助『天皇』の本郷氏の解説は未読なので、後で確認してみます。

>渡辺浩氏(『東アジアの王権と思想』)
>「幕府」とは、皇国史観の一象徴にほかならない。(4頁)

「皇国史観」という概念の問題性は昆野伸幸氏(『近代日本の国体論』)が指摘されており、渡辺氏は、少なくともご本人の意識においては「幕府」について非常に緻密な議論をしているつもりなのでしょうが、「皇国史観」の部分は雑ですから、<「幕府」とは、皇国史観の一象徴にほかならない>は全体として雑な議論ですね。

平泉澄は「皇国史観」の理論的リーダーか?

研究者の多くが「幕府」という概念について一応の了解をし、その了解に基づいて膨大な議論が積み重ねられている状況の中で、渡辺氏のような、特定の概念だけに偏執的なこだわりを見せる変人が「幕府」ではなく「公儀」と呼ぶべきだと主張しても、ま、結局は誰からも相手にされずに終わるのではないかと思います。
そんなことに拘る暇があったら、渡辺氏はきちんと史料を読むことにエネルギーを注いでほしいですね。
藤田覚氏は『雲上明覧』という史料の一部だけを見て、別の箇所にそれと矛盾する記載があることに気づかない人で、まあ、その種のミスはどんな研究者にも起こり得るでしょうが、渡辺浩氏は『大日本永代節用無尽蔵』その他の史料において、実際には存在しない「順徳天皇」という記述を幻視できる人ですから、研究者としてはなかなか珍しい存在ではないかと思います。

一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

神ごとは捨ててしまいよろ 2017/06/25(日) 17:02:12
小太郎さん
ご引用の文を読むと、キリスト教というよりも、日本に独特な得体の知れぬ新興宗教のようで(あるいは、狂信的な中東の Daech のようで)、かくも偏執的な制約を受けてまで会員でありたいと望む信者は、たんに倒錯的な異常者にすぎないのではあるまいか、という気がしてきますね。

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/journeys/journey_20170620.html
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Izanagi-ryu harmoniously blends elements of Shintoism, Buddhism and folk religions in a rare style of prayer.
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物部町に滞在して民間信仰(いざなぎ流)のフィールド調査をしているシンガポールの女性(コロンビア大学博士課程)と案内役のイタリアの女性(ダンサー)の二人からインタビューを受けた婆さんが、
「いまの若い者は、みんながね、神ごとは捨てしまいよろ(字幕:Our Young people have abandoned the gods.)。」
と答えていましたが、なんとも国際色豊かなシーンでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B1%B1%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%97
玄関の壁に貼ってある高知県出身の演歌歌手のポスター(三山ひろし「男のうそ」)は、まるで絶妙な合いの手のようで、矢内原の如きインテリはこんな日本的風土を唾棄したかったのだろうけれども、と云って、キリスト教はそんなに優れた宗教なのかね、とも思いますね。

幕府について 2017/06/26(月) 18:11:23
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883917
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橋爪 石井良助さんという法制史の学者が、『天皇』という啓蒙的な本を書いていて、名著なのですが、そこに幕府の説明が書いてある。幕府とは、「右近衛大将の執務所」のことだと。征夷大将軍とは直接、関係ないんです。
大澤 普通、将軍と幕府はセットだと思われていますが、法的には無関係なのですね。
橋爪 征夷大将軍は、政府のコントロールが及ばない化外の地を支配するから、政府の機能を持たなきゃいけないわけだが、それを幕府といったのです。頼朝も家康も、朝廷からいろんな官職に任命されているわけだが、肩書のリストをみると、必ず右大将にも任じられている。だから幕府を開ける。
 でもこのことは、日本史の時間にはすっ飛ばされている。征夷大将軍が政治を勝手に始めると幕府、みたいに言っているけど、そういうものではないんですね。(『げんきな日本論』219頁~)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062920599
橋爪・大澤両氏は日本史の専門家ではないから、話半分くらいに読み流せばいいのですが、足利尊氏は右大将には任じられていなかったのではないか、と思いました。また、石井良助『天皇』(講談社学術文庫)をざっと眺めてみたのですが、「幕府とは、「右近衛大将の執務所」のことだ」という記述が見つからず、全部読んで確認するのは面倒だな、と思っています(『天皇』の解説は本郷和人氏なんですね)。
なお、渡辺浩氏(『東アジアの王権と思想』)は、
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現在のように「幕府」という語が一般化したきっかけは、明らかに、後期水戸学にある。(3頁)
・・・「幕府」とは、皇国史観の一象徴にほかならない。(4頁)
・・・原則として「公儀」と呼ぶのが、少なくとも「幕府」よりは、適当であろう。(5頁)
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として、「幕府」という用語を批判していますね。
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「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」

2017-06-25 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月25日(日)10時37分52秒

結婚つながりで、ちょっと気になったエピソードを『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』から引用してみます。(p139以下)

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 雑誌『嘉信』とならぶ、もうひとつの軸が「自由ヶ丘集会」である。矢内原のもっとも身近にいたのが、その会員たちである。会員数は三七年には二〇人あまりで、その後もすこしずつ増加している。
 矢内原によれば、自由ヶ丘集会は「家庭集会」であり、「誠実を誓つた同志の集り」である。矢内原はその会員を「養子、養女」、みずからを「父」とみなしている。そのため、会員はたがいに「兄弟姉妹の家庭的関係」にあるとされる。会員の結婚についても矢内原の許可が必要であり、矢内原がしばしば仲介し、世話をしている。
 会員の資格としては、かなりきびしい条件が設けられていた。まず、矢内原が「思ふ存分叱り得る」よう、基本的には矢内原よりも一〇歳以上年下の者に限る、とされる。そして、矢内原と生死をともにする覚悟があること、本人の意思だけでなく両親の許諾があることなどが求められた。
 警察による監視がつづいていたため、矢内原の発言などが漏れる危険を防ぐために、出席者は外部に対しては秘密を守ることとされた。また、同じ理由から傍聴などは許されなかった。三七年秋には矢内原が講師を務めた聖書講習会の出席者が警察に取り調べを受けていた。そのため、矢内原の集会の会員であることは警察の監視対象になる可能性が高かった。
 集会は厳格な秩序のもとでおこなわれた。定刻になると玄関は閉ざされ、一分でも遅れたら入ることができなかった。無届欠席は認められず、やむなく欠席するときには事前に届けを出すこととされた。
 集会のプログラムは讃美歌、聖書朗読、祈祷、聖句暗唱、聖書講義といったものであった。司会は矢内原が次週の担当者を指名した。矢内原は聖書講義について次のように書いている。「私の聖書講義は、預言者イザヤが教(おしえ)を弟子の中に「閉ぢこめる」と言つた気概を以て行はれた。私は若い人々の胸を切り開いて、その中に聖言を押しこんで、私亡き後において私の志を受けつがせようと期待したのであつた」。
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矢内原忠雄が筆禍により東京帝国大学を辞職したのは1937年(昭和12)ですから、そういう時代背景を考えると秘密結社並みの厳しい運営が必要だったのも理解できない訳ではありませんが、「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」みたいな統制の仕方は、正直、ちょっと気味が悪いですね。
矢内原は若い頃はそれなりにユーモアを解する人だったそうで、長男の伊作が生まれたときには、伊作を抱いて「おはつにおめにかかります。不肖ながら私があなたの父親です。どうかよろしく」と挨拶して周囲の人を笑わせるようなこともあったそうです。(p37)
しかし、

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 矢内原は、満洲事変以後の状況に危機感を抱くなかで、みずからの使命を強く意識するようになっている。同時に、次第に矢内原の性格として、その厳格さが目立つようになる。それ以前の矢内原は、生真面目ではあるが、おだやかでユーモラスな人物であった。しかしこのころから、矢内原は信仰上の弟子や家族に対して厳格な態度で接するようになり、家庭の食卓でも私語を許さなくなる。
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そうですね。(p109)
林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました。
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黒木為楨と黒木三次

2017-06-25 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月25日(日)09時57分32秒

>筆綾丸さん
>昨今の岩波新書には抵抗がありますが、

私も岩波の『科学』が「幸福の科学」並みのオカルト雑誌と化して以降、一円たりとも岩波の利益に貢献しないように心掛けているのですが、『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』は、矢内原忠雄について自分が見落としていた側面があったかな、と思ってついつい購入してしまいました。
岩波も社会不安を煽ってセコく儲けていますが、火事場泥棒的な出版物を見て、泉下の岩波茂雄が泣いているのではないかと思います。

『科学』2017年7月号「特集 被曝影響と甲状腺がん」

>柏会の黒木三次が日比谷大神宮で神前結婚式を挙げて内村鑑三の逆鱗に触れた

ウィキペディアを見たら、黒木伯爵家の御曹司・黒木三次の結婚相手は松方公爵家の令嬢なんですね。
内村鑑三の逆鱗は大変だったでしょうが、それに配慮して結婚式を中止したら父親の猛将・黒木為楨が激怒したはずで、日露戦争の英雄に怒られるよりは内村鑑三の逆鱗を我慢する方がマシだったでしょうね。
黒木為楨の長男が三次のような内省的人物であることはちょっと不思議な感じもしますが、年齢は40歳離れていますね。

黒木為楨(1844-1923)
黒木三次(1884-1944)

『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』には、矢内原の神戸中学校時代のエピソードとして、「忠雄は、修身科の教師・島地雷夢の授業に魅了されている。雷夢は浄土真宗本願寺派の僧侶・島地黙雷の息子であったが、クリスチャンとして知られていた」(p8)とありますが、黒木為楨と三次の父子関係は、西本願寺の猛将ともいうべき島地黙雷とその三男・島地雷夢(1879-1914)の宗教対立を連想させます。
こちらも年齢差が41歳と、かなり離れていますね。

島地黙雷(1838-1911)
掲示板「日本人の宗教と宗教心」内、「地黙雷上人と子息の雷夢の往復書簡(現代語訳)」

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

マンガ「ゴルゴ13×外務省」 2017/06/23(金) 13:00:35
小太郎さん
昨今の岩波新書には抵抗がありますが、タレ目の神童に倣い、「なるべく」読むようにします。

http://www.anzen.mofa.go.jp/anzen_info/golgo13xgaimusho.html
---------------
【あらすじ】
この数年,テロが中東や北アフリカのみならず,欧米やアジアに拡散し,今や在外邦人もテロの標的になっている。 このような状況下,外務大臣は在外邦人の安全対策のためにデューク東郷(ゴルゴ13)に協力を要請。 ゴルゴは大臣の命を受け,世界各国の在外邦人に対して,「最低限必要な安全対策」を指南するための任務を開始した・・・。
※このマニュアルの劇画部分はフィクションであり,実在する人物,地名,団体とは一切関係ありません。
※一話ごとに、能化領事局長が5分間の動画で解説します。安全対策講座としても利用してください。
---------------
北朝鮮のミサイル発射が続き、緊張が高まった頃(現在も同じですが)、中国東北地方の在留邦人から次のような話を聞きました。瀋陽総領事館から、デューク東郷に邦人保護をお願いしました、という正式メールが届いたので、たちの悪いジョークだと思いました、と。(吉田茂は戦前の奉天総領事でした)
魂消たことに、ホームページによれば、外務省は本気なんですね。戦前の奉天総領事の孫でゴルゴ13愛好家の某副総理肝煎りの広報なのかどうか、ほんとにおバカな連中ですね。日本は大丈夫なんだろうか。思想や善悪を問わず、金銭的な折り合いがつけば殺人を請け負うスナイパーに対して、外務省は独裁者の暗殺を依頼したのだろうな、きっと。朗報を待ちたいと思います。デューク東郷の顔であの国に潜入するのは相当難しい、と思うとともに、あの独裁者も案外ゴルゴ13のファンかもしれない、という気もします。
こんなマニュアルがあろうがなかろうが、テロに遭遇して死ぬ確率は変わらない、たぶん。標題「ゴルゴ13×外務省」の「×」は、ふつう「vs.(versus=against)」を意味するはずで、外務省はゴルゴ13の知恵を借りてマニュアルを作成したのだから、「×」はないだろう、と思いますけどね。もしかすると、たんに小学生並の頭にすぎず、「×」は掛け算だから両者を掛け合わせれば鬼に金棒だ、とでも考えているのだろうか。
能化領事局長はなんとも貧相な顔で、こんな人では、かえって不安に駆られます。英語版はさすがに恥ずかしくて作れないだろうな(対象は日本人だから不要ですが)。
最初の注意書き(※)に、「なお、日本国外務省はちゃんと実在します、念のため。」という尚書きを加えたほうがいいですね。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/269407.html
NHKはNHKで、おバカな解説までしていますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%AD%90
サウジアラビアの「皇太子」と報道されていますが、国王は皇帝ではないから、「王太子」のほうがいいのかな、という気はしますね。どうでもいいことですが。

ゴルゴ13と金色のトビ 2017/06/23(金) 14:49:02
http://www.bbc.com/news/world-us-canada-40372403
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%B5%84%E5%8B%B2%E7%AB%A0
デューク東郷顔負けの新記録樹立。
従来の記録は L115A3 long range rifle 使用の2,475m(2009年)、今回は McMillan TAC-50 rifle 使用の 3,540mで、ターゲット到達までの所要時間は約10秒、つまり弾丸の平均スピードはほぼ音速と同じということですね。このスナイパーがカナダの特殊部隊所属のカナダ人だ、というのは意外です。
--------------
The source described the difficultly of the shot, which required the shooter to account for wind, ballistics, and even the Earth's curvature.
--------------
風向き、弾道(放物線)、地球の曲率などを計算する必要があるので、コンピュータ制御でないとすれば(The sniper worked in tandem with an observer という表現から、二人一組の純粋な人力のようですが)、ほとんど神業の領域ですね。神に誇れる仕事かどうかは難しい問題ですが、金鵄勲章くらいには値しますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E6%92%83%E6%B3%A2
物理学だけでなく、イラクの温湿度もわかりませんが、弾丸の初速が音速を超えているとすれば、ささやかながらも(蚊の鳴くような?)ソニックブームが発生した、ということになるのだろうか。

https://en.wikipedia.org/wiki/McMillan_Tac-50
性能は Muzzle velocity 805 m/s とあるから、初速は超音速ですね。当然ですが。

追記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE
『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』を、ちょっと立ち読みしました。
「国体論的ナショナリズム 神の国 vs.キリスト教ナショナリズム 神の国」という帯文は面白いのですが、柏会の黒木三次が日比谷大神宮で神前結婚式を挙げて内村鑑三の逆鱗に触れたのに、矢内原忠雄はなぜ金沢で神道式の神前結婚式を挙げたのか、思想的には結構重い問題のはずで、赤江達也氏にはもっと掘り下げてほしかったと思い、買うのはやめて酒代に充てました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/95%E3%83%B6%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%AB%96%E9%A1%8C
矢内原が結婚した1917年は、ルターが「95 Thesen」を発表してから、ちょうど400年目にあたる年なんですね。
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赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』

2017-06-23 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月23日(金)08時30分32秒

岩波新書の新刊、赤江達也氏の『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』を購入して少し読んでみました。

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非戦のキリスト教知識人の最大のミッションとは何だったか? 内村鑑三門下の無教会キリスト教知識人、植民政策学者、東大総長、戦後啓蒙・戦後民主主義の象徴といった多面的な相貌と生涯を、預言者意識、「キリスト教ナショナリズム」、「キリスト教全体主義」、天皇観など、従来の矢内原像を刷新する新しい視点から描く。

https://www.iwanami.co.jp/book/b287526.html

矢内原忠雄は面長で鼻梁が高く、いかにも頭の良さそうな美男子ですが、若い頃はビリケンに似ていると言われていたそうですね。
1910(明治43)年、第一神戸中学校を卒業し、旧制一高へ入学した頃の話として、

-------
 この時期、忠雄は次第に世の中への関心をもちはじめている。この年の夏、話題の中心は韓国併合であった。八月に大日本帝国は大韓帝国を併合し、台湾につづいて朝鮮半島を領有するのである。ただ、忠雄やそれ以前から朝鮮に漠然とした関心を抱いていた。
 きっかけは忠雄の尖った頭のかたちが、韓国統監(併合後は朝鮮総督)の寺内正毅と似ていたことだった。忠雄はときに「寺内」や「ビリケン」といったあだ名で呼ばれた。ビリケンは尖った頭と吊り目をもつ子供の像で、「幸福の像」として世界中で流行していた。六年後に寺内正毅が総理大臣になると、「非立憲」と「ビリケン」をかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。
 川西の親友の三谷隆正が七月に神戸を訪れたときにも忠雄を「韓国統監」とからかい、増井艶子が「私は統監夫人になりましょうか」と冗談を重ねた。忠雄自身も、韓国統監になったら愉快だろう、といった無邪気な想像をしている。一七歳の矢内原忠雄にとって、韓国統監は、きわめて身近な立身出世のイメージだったのである。
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とあります。(p10)
寺内正毅の写真を見ると、確かに頭の形が変わっていてビリケンにそっくりですが、矢内原は頭の輪郭だけはビリケンっぽいものの、全体の印象はそれほどでもないですね。
ま、十代の頃の容貌は違っていたのかもしれませんが。

Billiken
https://en.wikipedia.org/wiki/Billiken
寺内正毅(1852-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
矢内原忠雄(1893-1961)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84

以前、少し検討した将基面貴巳氏の『言論抑圧-矢内原事件の構図』(中公新書、2014)は「マイクロヒストリー」を標榜する割には特に緻密な実証的分析はなく、いささか拍子抜けの本でしたが、『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』は丁寧な叙述が続き、安心して読めますね。
といっても、まだ第一章しか読んでいませんが。

『言論抑圧-矢内原事件の構図』への疑問(その1) ~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea5b2f468d424f577a3b571c9007a17d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f845d4872f82d1feb488e49909cd7502
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04fc98e86340bf2030df8d6300a98afb
『言論抑圧-矢内原事件の構図』は「必読の書だ」(by中島岳志)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc1c63d45ec51c92faa9073d4cf463aa
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『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」

2017-06-22 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月22日(木)12時44分21秒

私の日本史に関する知識は鎌倉・南北朝あたりが極端に肥大していて、室町から江戸までは薄く、明治に入って多少は増えるという具合にバランスが悪いものなのですが、今回、天皇号再興関連の勉強を少しして、近世についてもある程度見通しがついたような感じを持てたことは収穫でした。
特に、昨年から何度か断続的に話題にしている「宗教的空白」に関しては、武士のみならず上層農民レベルでも相当早い時期に遡れることが分かって、ちょっと嬉しかったですね。
これは主として若尾政希氏の『「太平記読み」の時代』のおかげです。
同書から少し引用してみます。(平凡社ライブラリー版、p309以下)

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  『河内屋可正旧記』

 「民ハ是国のもと也。本立て末なる。しゐておとしむる事なかれ」(巻一二「雪の譜」)と、『河内屋可正旧記』(原題なし、可正自身は「来由記」と呼ぶ)も、この語を載せている。河内屋可正〔かうちやかしよう〕こと、壺井五兵衛(寛永一三<一六三六>~正徳三<一七一三>)は、河内国石川郡大ヶ塚村(現、大阪府南河内郡河南町)の上層農民(大地主)であり、酒造業を営む商人でもあった。この可正が隠居後、元禄初年(一六八八)から宝永年間(~一七一一)にかけて、子孫らへの教訓として書きためたのが『可正旧記』である。ところで可正はいったいどのようにして「民は国の本」の思想を獲得したのであろうか。
 『可正旧記』は、これまでも民衆思想史研究において取り上げられてきた。安丸良夫氏はこれを「石門心学成立の背景をもっともよく理解させる史料」と位置づけ、「「家」の没落についての危機意識がよびおこす思想形成の方向」は石田梅岩(貞享二<一六八五>~延享一<一七四四>)と「おどろくほど類似」しており、可正の立場を「より徹底して一貫性と原理性を獲得すれば、梅岩の立場となるように思われる」と述べる。具体的には、可正が「天狗、ばけ物、生霊、死霊、地獄、極楽など」を「己が心の妄乱」と見なしたことを挙げて、「「心」の哲学をおしすすめてすべての呪術を否定」する姿勢は、梅岩、二宮尊徳(天明七<一七八七>~安政三<一八五六>)、大原幽学(寛政九<一七九七>~安政五)などの重要な主張の一つでもあったとし、梅岩らの唯心論的通俗道徳形成の先駆として可正をとらえる。また高尾一彦氏は、『可正旧記』から「農村における庶民倫理」のありようを見、可正は「意識的には現状肯定の立場をとりながら」、その発言には「庶民意識の発展がもたらす政治批判意識」の「部分的」「萌芽」を見ることができると結論づけている。
 いうまでもなくこういった研究は、通俗道徳の形成なり庶民倫理の展開といった一つの流れの中に可正を位置づけることに主眼がある。よって可正がいかにして思想(体系的なものから日常の意識までを含めていう)を形成したのか、可正にとって既成の思想はどのようなものであり、可正はそれをどのように展開(あるいは克服)したのかという可正の思想形成には関心がはらわれていない。だが、可正に限らず、ある一つの思想を歴史的に位置づけるには、基礎作業として、その思想がその時代においてどのようにして形成されたかを解明する作業が必須である。こここでは、『可正旧記』に何度も登場する楠正成に着目し、可正の正成像を手がかりとして可正の政治意識を探るとともに、その形成過程を明らかにしていきたい。
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ということで、この後、若尾氏は可正が『理尽鈔』や、『理尽鈔』から更に派生した太平記関連書を幅広く享受していたことを丁寧に論証されています。
若尾氏は同様の問題意識と方法論に拠り、安藤昌益の思想形成過程に『理尽鈔』が存在することを主張されており、私も、ホントかな、と思って少しだけ安藤昌益関係の本を読んでみたのですが、そこまで手を広げると収拾がつかなくなりそうなので、今はやめておくことにしました。
なお、『可正旧記』には次のような記述があるそうです。(p320以下)

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後醍醐の天皇、笠置の皇居に楠正成卿を召せられ、東夷征伐の事、正成を頼ミおぼしめさせらるゝ時、正成の云、一天の君にたのまれ奉りて尸(かばね)を戦場にさらさん事、弓矢取身(とるみ)の面目何事か是にしかん(巻一四「処世訓(二)」)
------

ま、『太平記』に「後醍醐天皇」とあるのですから、『太平記』や関連書籍の読者が「後醍醐の天皇」という表現を使うのは当たり前ですね。
近世史の研究者は至る所で「○○天皇」という表現を見ているはずですから、『幕末の天皇』の「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」という記述を見て、藤田氏は変なことを言っているなと思った人も多いと思います。
別に私が特別な発見をした訳ではなく、近世史の初心者である私が気づくようなことは当然に多くの研究者が気づいていて、直接・間接に批判したと思いますが、何で藤田氏は学術文庫版でも特に修正を加えず、未だにこんなことを主張しているのですかね。

藤田覚氏への素朴な疑問
「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」(by 藤田覚氏)

>筆綾丸さん
>日本と違って王位継承者が多すぎる国の悲喜劇

似たような名前が多すぎて、基本的な事実関係を把握するのも大変です。
イスラム国もそろそろ年貢の納め時が近づいてきたようですね。
ま、たとえ領域支配は終っても、様々な形での暴力の噴出は続くのでしょうが。

BBC:イラク・モスルでISがモスクを爆破 「国家樹立」宣言の場所

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

廃太子に伴う悲喜劇 2017/06/21(水) 17:54:09
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-40351578
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%A4%AA%E5%AD%90
対イラン強硬派の王子(31歳)が王太子になりました。廃太子(57歳)は内務大臣の地位も剥奪されてしまったのですね。日本と違って王位継承者が多すぎる国の悲喜劇で、傍系を直系にしたにすぎない、とも言えますが。大きなお世話ながら、廃太子の側近たちは、これからどうするのだろうな。
日本の廃太子では、澁澤龍彦『高丘親王航海記』の影響もあって、高岳親王が馴染み深いのですが、『源氏物語』では、光源氏の愛人六条御息所は廃太子の元妃ですね。

http://www.rfi.fr/moyen-orient/20170621-le-prince-mohammed-ben-salmane-devient-heritier-trone-arabie-saoudite
フランスの国営ラジオ放送では、vice-prince héritier(王位継承順位第2位の副王子)が prince héritier(王太子)になった、という表現をしています。
もしかすると、サウジの法体系は知りませんが、現国王(81歳)は abdication(退位)したいのかもしれませんね(退位の前に禍根は絶っておかなければならない)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3
フランスの王朝時代ならば、prince héritier はドーファン(Dauphin)に相当する地位ですね。
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藤田覚氏について(その2)

2017-06-21 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月21日(水)10時14分23秒

松澤克行氏「近世の公家社会」の続きです。

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 このように、この間の天皇・公家などに関する研究は、国家史的関心と政治史的視点から主にアプローチされてきた。そのため、彼等の生活・活動の場である公家社会そのものに対する関心は必ずしも高くはなかった。そうした雰囲気は、この間にこの分野の研究を牽引した一人である藤田覚の、「あまり天皇や公家に共感を覚えないからかもしれないが、いまでも朝廷の仕組みや公家社会についてはよくわからないし、関心は薄い。それより、近世の政治史にとって天皇と朝廷はどのような意味を持つ存在であったのか、朝幕関係の変化は政治史全体とどのようにかかわるのか、という問題関心を重視して研究してきた」という述懐からも窺うことができよう。【後略】
-------

藤田氏の文章は『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999)の「あとがき」からの引用ですが、この文章の直ぐ後に次のような記述があります。(p315)

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 かつてある編集者から、「あなたは天皇万歳主義者ですか」と聞かれたことがある。心外だったが、江戸時代の天皇や朝廷の研究成果は、使いようによってはどのようにも使える怖い面をもっている。よほどきちんとした問題意識と研究史の位置づけをしないと危ないなと思った経験がある。「寝た子を起こすことはない」とおっしゃった近世史研究者もおられたが、本当に「寝た子」だったのか疑問が残る。【後略】
-------

藤田氏は歴史学研究会委員長も勤めたそうですから(2007~2010)、「ある編集者」や「『寝た子を起こすことはない』とおっしゃった近世史研究者」も、おそらく歴研周辺にいるイデオロギー色の強い、些か古風な人々なのでしょうが、藤田氏自身の文章からも、百姓一揆の研究でもしているのが似合いそうな少々古くさい雰囲気が感じられます。
そういう人が公家社会の研究をするのは、やはり無理がありますね。
藤田氏のような「前代からの名残で存在しているにしか過ぎない『臍の緒』」的研究者ではなく、新しい世代の研究者に期待したいと思います。

なお、「臍の緒」発言の林基氏は1914年生まれで、ウィキペディアによれば「中高生時代既に英・独・仏各語に通暁していたが、通交史研究に当たってはオランダ語やポルトガル語、スペイン語も学んだ」というすごい語学力の持ち主ですが、そういう人が日本近世史の研究をしていたというのは宝の持ち腐れのような感じがしないでもないですね。
さすがに現在の歴研では革命の実現可能性を語る人はいないでしょうが、本気で革命を目ざしていた世代の日本史研究者は、語学力に限れば、今どきの日本史研究者を凌ぐ人がけっこう多いですね。
ま、「大日本帝国の贅沢品」であった旧制高校の世代だから、というだけの理由かもしれませんが。

革命的語学力
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/779badc5bafbcac08b7f6b32c5b29177
林基(はやし・もとい、1914-2010)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%9F%BA
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藤田覚氏について(その1)

2017-06-21 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月21日(水)10時13分23秒

ウィキペディアを見ると藤田覚氏は1946年生まれ、千葉大学文理学部・東北大学大学院博士課程を経て東大史料編纂所に21年勤務して教授となり、次いで東京大学大学院人文社会系研究科教授として14年を過ごした人で、近世の史料を自在に活用することができる本当に恵まれた研究環境にいた人ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E8%A6%9A

『幕末の天皇』の「学術文庫版あとがき」(2013年1月付)によれば、

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 本書は、ある評論家から「日本人の必読書」のひとつとまで評価された。また、従来その名を知られていなかった光格天皇が、歴史上かなり特異で重要な人物であることを認知されるようになった。十八世紀末から十九世紀初頭が、日本近世史の転換点、つまり幕末維新変革の起点となったことは、一般読者向けの書物や概説書などでも承認され、高等学校の日本史教科書にも天皇権威の浮上が取り上げられるようになった。
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のだそうで(p262)、私もずいぶん昔に講談社選書メチエ版(1994)を読んだときは優れた書物のように感じました。
ところで、松澤克行氏(1966年生まれ、史料編纂所准教授)の「近世の公家社会」(『岩波講座日本歴史第12巻 近世3』、岩波書店、2014)の「はじめに」には研究史が簡潔に纏められていますが、戦後暫くの間は近世の天皇など「臍の緒」(by 林基)扱いされていたそうですね。(p37以下)

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 公家社会とは、天皇を頂点とし、それに仕え取り巻く人びとにより構成される集団世界のことである。この公家社会の成員である天皇や公家、また彼等によって運営される朝廷については、戦前の君主制・皇国史観に対する反発や心理的アレルギーの存在、また近世史研究で土地所有の検討を重視する基礎構造論が重視されていたことなどから、戦後しばらくの間ほとんど関心を向けられることがなかった。研究が皆無であったわけではないが、近世の強大な武家政権の下、天皇・公家・朝廷はそれに従属するだけの無為・無力な存在であるという視点からの研究が主流であり、近世の天皇は前代からの名残で存在しているにしか過ぎない「臍の緒」だなどという評価もなされた。
------

変化のきっかけは1965年に始まった家永教科書裁判だそうです。

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近世の天皇は君主としての地位を失ったとする原告家永三郎の主張に対し、国が天皇はなお君主としての地位を失っていないと反論し、裁判における争点の一つとなったのである。近世の君主=主権者は将軍であると考えていた学界はこれに強い衝撃を受けたが、近世の天皇・公家・朝廷に対する関心の低さから、積極的な反論を展開できるだけの学術的蓄積をもっていなかった。そうした現状に対する反省とともに、折しも日本史学界では、上部構造を含めた国家史研究の必要性が唱えられるようになり、近世史の分野でも天皇・公家・朝廷を研究の対象とし得る状況が現出したのである。そして一九七五年に、深谷克己、宮地正人、朝尾直弘により、相次いで近世の天皇・公家・朝廷を俎上に乗せた論考が発表される。いずれも、従来のような無力論的視点や単純な公武対立的朝幕関係の図式から脱し、政治過程や権力構造の中に天皇・公家・朝廷を位置付け、近世に天皇や公家集団が存続した背景やその果たした機能などについて解明を試みたのである。こうした一九七〇年代に提起された問題意識と視点を受け継ぎ、一九八〇年代以降は幕政との関係や法、制度、朝廷運営などについて研究が進められ、近世国家における天皇・公家・朝廷の政治的諸側面が明らかにされていった。また、彼らの政治的位置がどのように変容し、幕末期における天皇権威の浮上につながったのかという問題についても検討が進められている。
-------

注記は煩雑なので省略しますが、最後の一文に付された注5には、高埜利彦氏の「江戸幕府の朝廷支配」(『近世の朝廷と宗教』、吉川弘文館、2014、初出は1989年)と並んで藤田氏の『幕末の天皇』が挙げられています。
長くなったので、ここでいったん切ります。
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藤田覚『近世政治史と天皇』

2017-06-20 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月20日(火)09時42分45秒

6月7日の投稿で藤田覚氏の「天皇号の再興」(『近世政治史と天皇』、吉川弘文館、1999)を検討する予定だと書きましたが、中井竹山や「柳営御追善の連歌」の評価などに関し藤田氏の見解に若干の疑問があるものの、細かい話になるので今はやめておきます。

安徳天皇以来の「諡号+天皇号」
『雲上明覧』を読んでみた。

ま、検討はしませんが、興味を持たれた方の参照の便宜のため、同論文の「天皇号再興の経緯」から、今上帝(仁孝)の「勅問」の内容に関する部分だけ引用しておきます。(p249以下)

------
 一 天皇号再興の経緯

 兼仁上皇は、天保十一年十一月十九日に亡くなった。十二月三日に、兼仁上皇に贈る死後の称号について、「先例可被進 御追号之処、依被為有 叡慮、追可被進候迄奉称 故院候事」(橋本実久の「実久卿記」、野宮定功の「定功卿記」。いずれも東京大学史料編纂所所蔵謄写本による)という、天皇の意向が公家たちに伝えられた。この段階で、追号を贈る慣習の再検討が示唆され、決定までのあいだ故院と称することを伝えている。しかし、幕府へは「旧院御追号被 仰出候迄者 故院と奉称候事」と、追号を決めるまでのあいだ故院と称すると伝えられただけで、追号を再検討しようとする天皇の意向は伏されている(「水野忠邦日記」天保十一年十二月十三日条、東京都立大学付属図書館所蔵水野家文書)。
 十二月二十日に兼仁上皇の葬送が行なわれたが、その翌日の二十一日に、「議奏卿列座、以一紙伝仰曰、有太政天皇御諡号之事勅問、各々明日中可申所存云々」(「定功卿記」)とあるように、兼仁上皇へ贈る諡号の件で勅問の文書が出され、翌日までに意見を提出するように命じられた。勅問の下された範囲は、「実久卿記」によれば、大臣以下参議以上の現任の公卿全員であった。全公卿の意向を問うことにより朝廷の意思を決定しようとしており、諡号の再興は重要かつ重たい問題であったことが理解できる。
 勅問の全文は、次のとおりである。

太上皇、如中古以来雖可被奉 御追号、御登壇以来被興復故典旧儀、公事再興不少、 御在位卅有余年、古代も稀に、加之、被貴質素不被好修飾、専 御仁愛之聖慮、遂及衆庶一同安懐之事、 今上〔仁孝天皇〕深 御感悦、依之被奉御諡号、至万代被竭 御孝道度 叡慮候、雖然 小松帝〔光孝天皇〕以後 寿永帝〔安徳天皇〕之外不被奉 御諡号、今度被奉 御諡号可有如何哉、被尋下所存候事、

 天皇は、兼仁上皇が、在位中に多くの朝儀や公事を復古・再興したこと、在位期間も古来稀な三〇年以上に及んだこと、そして質素を好んだことなどから、諡号を贈り孝道を尽くしたいが、光孝天皇以来、安徳天皇を除いて諡号を贈ったことがない事実に配慮して、兼仁上皇に諡号を贈ることの可否を勅問した。この勅問では、諡号を贈られたのは光孝天皇以降では安徳天皇だけだといっているが、保安四(一一二三)年から永治元(一一四一)年まで在位し、保元の乱で讃岐に流された崇徳院の崇徳、寿永二(一一八三)年から建久九(一一九八)年まで在位し、承久の乱で隠岐に流された顕徳院(後に後鳥羽院)の顕徳、そして、承元四(一二一〇)年から承久三(一二二一)年まで在位し、承久の乱で佐渡に流された順徳院の順徳も諡号であり、安徳だけではない。これらの事実から、勅問にいう諡号とは、諡号と天皇号の組に合わさった【ママ】ものを指しているものと考えられる。
------

ということで、史料に「諡号」「追号」などとあっても、「勅問」ですら、その表現が何を意味するのかは個別に検討する必要がある訳で、このあたりも議論が錯綜する一因ではありますね。
私は安徳が「院」ではなく「天皇」とされた理由が未だに分からなくて、「諡号+天皇号」を復活させるに際し、不吉な先例だと懸念するような意見がなかったのか疑問に思っていたのですが、藤田論文を読む限り、特にそんな意見はなかったようですね。
この勅問自体も、寿永帝〔安徳天皇〕はあくまで例外的存在で、小松帝〔光孝天皇〕の先例に戻すか否かが問題の核心なのだ、みたいな主張を暗黙の前提としているようにも読めなくもないですね。
「<光>格天皇」の次は「仁<孝>天皇」ですから、ふたり併せて「<光><孝>天皇」に回帰しているのではないか、みたいなことをチラッと考えたりもしたのですが、図書頭・森林太郎の「帝諡考」を見ても特に裏付けになりそうな記述はなく、まあ、妄想の類のようです。

>筆綾丸さん
>日本の学者って、あんまりレベルが高くないんだね、

ごく一部の分析から著書全体を否定する訳ではないのはもちろんですが、当初予想していたよりも更に雑な部分が見えてきて、ちょっとびっくりでした。

>ザゲィムプレィアさん
私は全く将棋の世界を知らず、先に書いたことは単なる冗談ですので。

※筆綾丸さんとザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

伝説の人 2017/06/19(月) 20:16:43(筆綾丸さん)
小太郎さん
「東アジアの王権と思想」とか「幕末の天皇」とか大仰に謳いながら、天皇に関する基本的な認識不足を見せつけられると、日本の学者って、あんまりレベルが高くないんだね、という気がしてきますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E7%9B%9B
壇ノ浦は訪れたことはありませんが、「碇知盛」の銅像(?)があるのですね。

詰将棋を解くことのほかに趣味は何ですか、という質問に、詰将棋を作ることです、と笑いながら答えるくらいなので、「飄然と棋界を去る」可能性はないような気がします。テレビは見ないそうですが、飄然としたものですね。14歳の中学生はすでに伝説の領域に入った、と言えるかもしれません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%9C%8B%E5%AF%BF
詰将棋には伊藤看寿の神懸かり的な作品があり、これを超えるものを作れるかどうか、藤井四段にはまだまだ大きな仕事が残されていますね。ただ、将棋に差し障りがあるので、詰将棋作りには深入りしないように、と(あまり強くない)師匠から注意されているようです。

藤井四段の未来 2017/06/20(火) 08:13:09(ザゲィムプレィアさん)
>藤井四段がこのまま連勝を続け、あらゆるタイトルを獲得し、18歳くらいで「見るべき程の事は見つ」とか言って飄然と棋界を去る、という可能性はどうでしょうか。

メディアがその内容を評価せず、単純に藤井四段の連勝数と神谷五段(当時)のそれを同列に扱っているのはあきれるばかりですね。
かつて大宅壮一は「一億総白痴化」と評しましたが、この有様を見たら何と言うでしょう。

佐藤叡王(名人)とPONANZAが対決した電王戦は、人間の完敗と評価され手合い違いだったとの意見すらあります。しかし佐藤名人はプロ棋士として決して
弱いわけではありません。電王戦の後に名人位を防衛し、6/18時点でレート:1883で第1位です。(付け加えれば、藤井聡太四段はレート:1682で第37位です)
http://kishi.a.la9.jp/ranking2.html

現在、将棋ソフトが強くなることについて限界は見つかっていません。またソフトの進歩が無くても、ハードが進歩すればそれだけ強くなります。
「あらゆるタイトルを獲得し」はともかくとして、「見るべき程の事は見つ」は考えられません。なおルールの変更が無い限り名人位獲得は最短で5年後の5月頃になります、藤井さんは19歳です。
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一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について

2017-06-19 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月19日(月)11時29分26秒

ここ一ヵ月ほど、渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』を出発点として諡号・追号、天皇号・院号について検討して来ましたが、もともとこの話の土台には藤田覚氏の「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」という基本的な誤解が存在していますね。

藤田覚氏への素朴な疑問
「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」(by 藤田覚氏)

藤田氏はこの基本的誤解に加え、『雲上明覧』という史料も読み間違えて、自説を誤った方向に補強しています。

『雲上明覧』を読んでみた。

そして藤田氏の『幕末の天皇』に惑わされた渡辺浩氏は、この問題の基本文献である『帝室制度史』を読んではみたものの正確に理解することができず、諡号・追号と天皇号・院号を混同し、史実としては「順徳院」という「諡号+院号」を贈られた人が「諡号+天皇号」を贈られたものと誤解しています。

「従来の日本史用語の思想性も衝き,斬新なパースぺクティブを提示」しているのか?
安徳天皇以来の「諡号+天皇号」

更に渡辺浩氏は『大日本永代節用無尽蔵』という史料について、ちょっと信じられない誤読もしています。

『大日本永代節用無尽蔵』を読んでみた。

ということで、『東アジアの王権と思想』における

-------------
 十三世紀初期から十八世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない。順徳天皇(在位 承元四・一二一〇年ー承久三・一二二一年)以来、天保十一年(一八四〇)に光格天皇(在位 安永八・一七七九年ー文化十四・一八一七年)の諡号が復活するまで、「天皇」の号は、生前にも死後にも正式には用いられなかったからである。彼等は、在位中は「禁裏(様)」「禁中(様)」「天子(様)」「当今」「主上」等と、退位後は「仙洞」「新院」「本院」等と、そして、没後は例えば「後水尾院」「桜町院」「桃園院」と呼ばれた。前掲『大日本永代節用無尽蔵』(嘉永二年再刻)の「本朝年代要覧」も、光格・仁孝以前は(古代とそれ以降の順徳等少数の「天皇」を除き)、「何々院」と忠実に記載している。江戸時代人は、「後水尾天皇」などとは、言わなかったのである。(『東アジアの王権と思想』(1997年 初版 7頁)
----------------

という記述は、東京大学名誉教授・藤田覚氏の複数の勘違いの上に、東京大学名誉教授・渡辺浩氏が独自の複数の勘違いを追加した勘違いの詰め合わせであることはガッテンしていただけたのではないかと思います。

東京大学名誉教授・渡辺浩氏の勘違い

>筆綾丸さん
>15歳の竜王もありえますね。

藤井四段がこのまま連勝を続け、あらゆるタイトルを獲得し、18歳くらいで「見るべき程の事は見つ」とか言って飄然と棋界を去る、という可能性はどうでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

中学生の名言と栗田艦隊の謎の反転 2017/06/18(日) 14:08:56
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
ライフサイエンスの分野では、Cell の方が Nature や Science より既に権威がある、とその筋の知人から聞いたことがあります。山中教授のiPS細胞の論文は、この雑誌に載ったものですね。

http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20170617-japon-collision-destroyer-americain-uss-fitzgerald-cargo-philippin
http://www.bbc.com/news/world-asia-40317341
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E7%94%B0%E5%81%A5%E7%94%B7
フランス語の bâbord(左舷)と tribord(右舷)は、左右がいつもわからなくなりますが、今回の Le destroyer USS Fitzgerald は tribord が大きく破損したのですね。BBC に the ACX Crystal の航跡が出ていますが、まるで栗田艦隊の謎の反転のようで、まことに不可解ですね。イージス艦に真夜中の決戦でも挑んだのかな。衝突の瞬間、北朝鮮のミサイルの着弾かと錯覚したかもしれないですね。

奨励会をやめて勉学に励んできた東大生は、大学入学後、暇になり、また将棋を始めたようですね。
対局数が多く中学校の出席はどうなっているのか、という質問に対して、(学校には)なるべく行くようにしてます、と藤井四段は照れながら答えていました。蓋し名言と云うべきか。連勝記録もさることながら、何歳で初タイトルを取るのか。15歳の竜王もありえますね。
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『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の聞き手について

2017-06-18 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月18日(日)09時18分36秒

>筆綾丸さん
>たかが料理屋(料亭?)に出入りしたくらいで、なんでつるし上げられたのか

私も妙な話だなと思いました。
赤線廃止前の時代ですから、普通の料理屋ではなかったのかもしれないですね。
前回投稿で引用した部分の直前、貝塚啓明氏は、

------
 中学・高校時代の山崎氏については、実をいうと直接話をするという機会はなく、したがって見聞に基づく印象を書きつらねたい。中学・高校時代の山崎氏は、筆者のようなノン・ポリの安全指向型人間にとっては、驚嘆すべき存在であって、内心「すごい奴」がいるものだと思っていた。当時の鴨沂高校というのは、戦後の学制改革で六・三・三制が発足したとき、当時の京都に駐在した米軍の一将校の英断(?)によって完全な小学区制をしいたことの産物であった。われわれは、旧制中学(京都府立第一中学校)の最後の年次であり、有無をいわさずに女学校(京都府立第一高等女学校)と合併させられたのである。
------

と書かれていますが、貝塚茂樹の息子という坊ちゃん育ちで、「ノン・ポリの安全指向型人間」だった啓明氏は些か頼りない証言者ですね。
満州でソ連軍の中でも最も質の悪い兵士たちが行なった暴虐をつぶさに見ていたはずの山崎氏が共産党に入党した事情には不可解な部分が残りますが、『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』では、シュトゥルム・ウント・ドラングの時期だった、みたいな説明で終っていて、聞き手も特に追及はしていません。
だいたい同書の聞き手四人は少しぬるくて、例えば阿川尚之氏は、

------
 機知に富んだ若者が逆境に置かれながら、ふとした出会いから運をつかみ、努力を重ねて大成功を収める。わらしべ長者からベンジャミン・フランクリンに至るまで、サクセス・ストーリーのパターンは変わらない。山崎さんの冒険は、敗戦とともにあらゆる秩序が崩壊した満州で、病身の父に変わって家族を守りつつ生き延びるという、想像を絶する経験から始まる。かちかちに凍り付いた首つり死体が梁からぶら下がる教室で、なにごともなかったかのように小学生たちが勉強を続けるという光景は、凄惨を越えてシュールである。敗戦から3年、父の死後内地へ帰還して高校へ進んだ少年は、飢えてはいたものの目前の死から解放されて知の世界に耽溺する。共産党の細胞になり、京大で美学を学びながら、初めて書いた戯曲が認められ上演される。不思議な出会いに恵まれ、アメリカへ留学してオフブロードウエーで自分の戯曲公演にこぎつけながら、「成功の泥沼」を嫌って帰国。戯曲を書き続け、評論を書きはじめ、大学で教えているうちに、30代半ばで時の総理大臣に直接助言をするようになる。これが成功物語でなくて何であろう。


などと言っているのですが、「細胞」は共産党の末端の組織ですから、個人は「共産党の細胞になり」得ません。

細胞(政党)

まあ、つまらない表現に拘っているように見えるかもしれませんが、共産党の歴史にある程度詳しい人だったらこんな書き方は絶対にしないはずで、アメリカ時代についてはともかく、青年期については阿川氏自身がずいぶん頼りない聞き手ですね。
このあたり、山崎氏と同世代で、同じく共産党経験を持つ伊藤隆氏あたりが聞き手だったら、もっと突っ込んだやり取りがあったはずです。
主たる編者である御厨貴氏についても、私はもともと同氏があまり好きではないこともあって種々疑問を感じるのですが、細かくなるのでやめておきます。
牧原出氏あたりになると発言の数が僅少で、更にその中に鋭い質問は皆無であり、そもそも何のためにいたのかすら疑問ですね。

「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ」(by 矢次一夫)
もうひとつの歴史学研究会

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

浴沂之楽 2017/06/17(土) 13:23:05
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E9%B4%A8%E6%B2%82%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
http://yoji.jitenon.jp/yojim/6233.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%82%E6%B2%B3
沂の出典は論語(浴沂之楽)で、女学校を出発点とする京都府立鴨沂高等学校が共学になったのは、まるで混浴のような按配だね、と云えば怒られそうですね。

山崎氏の晩年の経歴はほとんど政治家のようで、若い頃の学生運動の賜物だね、と云えばまた怒られそうですね。

「T校長が夕方料理屋(料亭?)からいい気分で出て来られるところを写真」にとられて学生につるし上げられたという話ですが、たかが料理屋(料亭?)に出入りしたくらいで、なんでつるし上げられたのか、よくわかりません。その時代の料理屋(料亭?)は、芸者遊びをはじめ、性の提供を必然的に伴うものだったからなのかな。つまらぬ話で恐縮ですが。
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貝塚啓明「高校時代の山崎氏のこと」

2017-06-17 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月17日(土)10時53分34秒

>筆綾丸さん
>いま読むと、なんだか照れ臭いような会話なんですね。贈名とか、用語も変で。

そうですね。
後白河は途中までは権力欲に憑かれた者たちの心理的弱点を巧みに突いて、その運命を弄ぶ不気味な予言者として描かれているので、いかにも「人は絢爛と滅びるために生きるのだ」みたいなことを言いそうな人物なのですが、最後の最後で妙に弱々しい人間になってしまっていますね。
まあ、山崎正和はそうした人間存在の矛盾を描きたかったのだ、みたいな見方もあるでしょうが、単に統一的な人間像を造型することに失敗しただけ、との評価も可能かもしれないですね。
『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』では御厨貴氏らが山崎正和の記憶力の良さを絶賛していますが、「夏草と野望」の第一幕で後白河の追号を詳しく論じながら、第三幕ではその追号を生前の後白河の自称として使ってしまうような物覚えの悪い人だということを知ってしまった後では、作品全体に対する評価も変ってきますね。

>棚橋の論稿も、いまとなっては照れ臭くて読み返せないかもしれません。

後世に残るのは『中世成立期の法と国家』だけかもしれないですね。
ウィキペディアの棚橋光男の略歴には「岸俊男・大山喬平に師事」とありますが、大山氏は山崎正和と高校(京都府立鴨沂高校)で学生運動仲間だったそうですね。
貝塚啓明氏の「高校時代の山崎氏のこと」(『山崎正和著作集1』月報)には大山氏の名前も登場します。(p3以下)

------
 当時は、世の中がいわば一八〇度変った時期であり、先生方にとってもおそらく混迷時期であったと思われる。【中略】
 このような時期に、確か高校二年のときと記憶するが、突然校長つるし上げ事件が起きた。その経緯はそれほどはっきりしていないが、T校長が夕方料理屋(料亭?)からいい気分で出て来られるところを写真にとった学生がいて、これを種としてビラをまいたことがきっかけであった。ある日、「校長がつるし上げられとるぞ!」というクラスの一人の声で授業そっちのけで皆が校長室にかけつけると、すでに校長室はいっぱいで筆者が壁ぎわに押されるように立っておそるおそる眺めていると、数人の学生が校長をつるし上げている最中であった。
 残念ながらこの数人の学生のなかに山崎氏がいたかどうかは確認しえないが、当時、校門でビラを配っていた学生のなかに、ベレー帽をかぶり精悍な顔つきの山崎氏がいたことは間違いがない。これらの騒ぎの主謀者とおぼしき人々には、河合秀和(現在学習院大学教授)、竹内成明(現在同志社大学教授)や大山喬平(現在京都大学助教授)の諸氏が含まれていて、やがて山崎氏を含めてこれらの諸氏は、京都大学や東京大学の一時期の学生運動の立役者へと変貌するのである。筆者の印象では高校時代のこれらの諸氏のなかで、山崎氏がもっとも迫力があり、汚い頭陀袋を肩から下げ、ベレー帽をかぶり、どた靴をはいて道を歩いてくる山崎氏に出会うと圧倒される思いであった。いずれにしても、高校における学生運動のはしりともいえるこれらの事件については、一つの歴史的事実として、時期がくれば当事者に客観的な記録を作っていただくようお願いしたい。
------

『舞台をまわす、舞台がまわる-山崎正和オーラルヒストリー』では、共産党に入って学生運動をやっていたのは高校時代だけで、大学ではやっていなかった、みたいなことを言われていますね。
ま、政治的にはずいぶん早熟だったようで、この種の経験が「地底の鳥」のような暗鬱な作品にも活用されているようです。
山崎正和と同世代で演劇に詳しい人というと、私の場合は山口昌男の名前が最初に出てくるのですが、山崎正和の青春時代には山口昌男のような明るさが全くなく、それが山崎に喜劇を描く才能がない理由でもあるのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

絢爛と、腹を切る 2017/06/16(金) 12:23:25
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9A%E6%A9%8B%E5%85%89%E7%94%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E5%92%8C
ご引用、ありがとうございます。記憶と云うのは、ほんとに好い加減なものですね。
『夏草と野望』は、いつか実際の舞台で見てみたいと思っていますが、いまだに未見です。いま読むと、なんだか照れ臭いような会話なんですね。贈名とか、用語も変で。
年表によれば、三十代後半の作品で、すでに若書きとはいえないものですが、おそらく発表年(1970)が重要なんでしょうね。三島が絢爛と腹を切った年ですね。
山崎氏には、未読ですが、『実朝出帆』(1973)という戯曲もあるのですね。
棚橋光男の『後白河法皇』を連想しましたが、棚橋の論稿も、いまとなっては照れ臭くて読み返せないかもしれません。
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「ただ穏やかな日が蘇へるために、ときどき驕れる者が絢爛と滅びなければなりませぬ」

2017-06-16 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月16日(金)11時43分19秒

>筆綾丸さん
>朧な記憶ながら、後者には、たしか、後白河法皇が清盛を指して、人は絢爛と滅びるために生きるのだ、とかなんとか言う場面があったと思いますが、

『山崎正和著作集2 戯曲(2)』(中央公論社、1982)を見たところ、「野望と夏草 三幕六場とエピローグ」のエピローグは、

------
文治二年(一一八六)夏。
大原の里、寂光院の庵室。
夜。月の光が深い林の葉叢を透してあちこちに落ちてゐる。
貧しい庵室に燭台を灯して、後白河と尼姿の阿波内侍、それに今は建礼門院となった徳子が座ってゐる。
庭のほの暗いところに、頭巾で深く顔を隠した二人の僧が佇む。
-------

という設定になっていて(p91)、次のようなやりとりがあります。(p93以下)

-------
後白河 できることなら答へてくれ。このむなしさに帰るために、ひとはなぜ一度あの栄華を築かねばならぬ。なんのためだ。寄辺ない娘二人を残すために、ひとはなぜ信西や清盛の恐ろしい志を抱かねばならぬ。
僧1 (低くゆっくりと)峰のうへの雲はなんのために湧くのか。獣を驚かす野分はなんのために吹くのか。青い大空をいや増しに青く、嵐のあとをいや増しにうららかにするためでございませう。
僧2 人の世の転変も同じこと、ただ穏やかな日が蘇へるために、ときどき驕れる者が絢爛と滅びなければなりませぬ。
後白河 待て。そなたは誰だ。その声には覚えがある。
建礼門院 あ。(暫時の間)父上……
阿波内侍 (ほぼ同時に)お父上。

女たち二人、縋りあふ。
二人の僧、ゆっくりと逃げて舞台前面に進み出る。
月の光が頭巾のなかに射して、僧1は信西、僧2は清盛の顔をしてゐるのが見える。
-------

ということで、絢爛と滅びる云々は清盛の亡霊(?)が後白河に語るセリフの中の表現ですね。
ところで、第一幕第一場には信西と清盛の次のようなやりとりがあります。(p19以下)

------
藤原信西 うむ清盛。いづれ今上には贈名〔おくりな〕をさしあげねばならぬ。ちょうど今、恰好の名前を思ひついたところだ。後白河天皇。どうだぴったりだとは思はぬか。あの恐るべき英雄、白河上皇。それを戯画に描いたやうな後白河天皇……
【中略】
平清盛 (短い間)だが贈名とは意地悪いしきたりですな。どんな帝王、英雄でも、結局は後の世の人間に名前をあたへられ、凡俗の眼によって計りにかけられるわけですな。
------

ここ暫く諡号・追号、天皇号・院号を検討してきた私としては、諡号ではなく追号だからそれほど「意地悪いしきたり」でもないだろうとか、「白河天皇」「後白河天皇」ではなく、それぞれ「白河院」「後白河院」だよね、とか若干の意見がない訳でもありません。
ま、それはともかくとして、これだけ贈名について丁寧な検討を加えておきながら、第三幕第一場では、

------
後白河 だとすればその清盛が、なぜ今となってこの私を責めようとする。なるほどそなたの調べによれば、後白河は謀叛人をそそのかしたのかもしれぬ。【中略】おのれの血筋と天命にもし本当の自信があれば、手に一兵もない後白河をそなたが恐れるわけがないではないか。
------

という具合に、生前の後白河天皇が「後白河」を自称で使っています(p74)。
「私」で通せば十分なのに、ここはさすがに変ですね。

>速水融氏の弟子筋
速水氏よりずっと若い世代なのに、磯田氏が妙に年寄臭く、おまけに田舎臭くなってしまっているのは困ったものですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

中国の「ひょっこりひょうたん島銀行」 2017/06/13(火) 11:52:39
小太郎さん
若い頃、山崎正和氏の『世阿弥』と『夏草と野望』に感動したことがあります。
朧な記憶ながら、後者には、たしか、後白河法皇が清盛を指して、人は絢爛と滅びるために生きるのだ、とかなんとか言う場面があったと思いますが、どうやら満州国崩壊後の体験が秘められていたのですね(中国人には甚だ迷惑な話ですが)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%BB%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6
遼寧賓館(旧奉天ヤマトホテル)から地下鉄1号線の太原街駅まで行く途中に、中国医科大学附属第一病院(旧満州医科大学)があって、その威圧的な古い建物は旧満州国の日本人の設計によるのだろうな、と思いましたが、山崎氏の父の勤務先だったのですね。大学のロゴにあるMを満鉄のMと錯覚しましたが、当たり前のことながら、MEDICAL のMですね(なんだ、つまらない)。
なお、遼寧賓館は中国共産党の要人達が宿泊したところで、受付脇のプレートに名前が列挙してあり、一階の大餐庁には、毛沢東と周恩来が盃を酌み交わしている写真がありました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AB%E8%8A%A6%E5%B3%B6%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
瀋陽北駅(中国新幹線駅)前の高層ビルに中国の諸銀行の広告があったのですが、葫蘆島銀行というのは笑えました。中野美代子氏の『ひょうたん漫遊録-記憶の中の地誌』は、たしか、瓢箪(葫蘆)の神話的背景を扱ったものでしたね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E7%9A%87%E5%B3%B6%E5%B8%82
葫芦島市の隣の秦皇島市は、今回、中国で知遇を得た女性の出身地ですが、中国共産党幹部の避暑地・北戴河のあるところですね。是非、訪ねてみてください、綺麗なところです、と言われました。

トッドの失望 2017/06/15(木) 23:52:59
小太郎さん
速水融氏の弟子筋なので磯田氏には期待していたと思いますが、なあんだ、とトッドは失望したでしょうね。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170615/k10011019431000.html
際どい終盤戦をドキドキしながら見てました。明後日、東大生が間違って勝てば将棋史上に名が残りますね。

追記
アルファ碁の記事(本日付日経文化欄)の中に、 「人間の勝負よりAI(同士)の対局が面白いとなれば、棋士の存在価値はなくなる」(羽生三冠)とありますが、人間はすでにAI(同士)の対局内容が理解できない、ということがいちばんの問題だから、逆説的なことながら、棋士の存在価値はまだあるんですね。要するに、頭の悪い人は頭の良い人の考えが理解できない、ということと似たようなものですね。
「アルファ碁は中国語で「阿爾法囲棋」。中国のプロ棋士は敬意をもって「阿先生」と呼ぶが、すでに人知の及ばない高みに到達したのか」とありますが、中国語の「先生」は日本語の「先生」とは違い、「君」とか「さん」ほどの意味だから、敬意を表するなら「阿老師」となるはずですね。
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