学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

亀甲萬の城下町

2008-02-29 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月29日(金)00時58分6秒

>如月さん
お久しぶりです。
如月さんが来られると、何だか格調が高くなったような感じがして、嬉しいですね。

>NAO4@吟遊詩人さん
いえいえ。
私はちゃんと理解してませんので。
愛宕の話も、何がなんだかわかりませんでした。
この掲示板のすべての投稿を理解するのは、まず無理だと思いますね。
早めにあきらめて、自分の得意な話題だけ参加するのが長続きのコツだと思います。
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間違いさがし・解答編

2008-02-29 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月29日(金)00時39分30秒    

明白な誤りがいくつかありますと書きましたが、よく考えたら「明白」といえるのは筆綾丸さんが指摘された一箇所だけみたいですね。
出題者が間違っていたようです。

>筆綾丸さん
そうですね。
宗尊親王は文永三年(1266)に鎌倉を追放されて、文永十一年(1274)には没しているので、約三十年後の嘉元年間に謀反を起こすのは無理ですね。
訳が分からない話です。

>むらじさん
>延文年間(1256~61)で六十余才というのはちょっと計算が合いませんね。
伝承では、多武峯に隠棲後、60年以上年を重ねて90代まで長生きしたのだそうです。

>「良助親王御自筆記」
うーむ。
これは下で紹介する「良助私記」と同じものなんですかね。
後で調べてみます。


思わせぶりな書き方をしておいて恐縮ですが、良助法親王の話には特に結論めいたものはなくて、いろいろ紹介した後で、なんだかよく分かりませんでした、で終わる予定です。
今日は首藤善樹氏「勝軍地蔵信仰の成立と展開」(『龍谷大学大学院紀要』一、1979)から、また少し長めに引用してみます。

※「乙」というのは、『蓮華三昧経』に甲系統・乙系統の写本があるうちの「乙」本ということです。また、「良助私記」については、首藤氏は原文に返り点をつけて引用されていますが、掲示板での読みやすさを考えて、私が適宜読み下してみました。

--------------------------
 そもそも『与願金剛地蔵菩薩秘記』は『蓮華三昧経』(乙)を主材料として著されたものであり、『蓮華三昧経』(乙)の伝来を次のように記している。[中略・・・・弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師も授けられることがなかった云々・・・]それが日本に渡ったのは、前太政大臣西園寺入道(公経)が孫の竹園院禅師のために、三千五百両の金をもって、清涼山大聖竹林寺より求めたものだとする。そして竹園院禅師が「予」に譲ったのである。この「予」は、「予が養父西園寺入道」あるいは「予五十余年之昔、■(なまじひに)居天台座主職」とも記されており、西園寺公経の猶子天台座主某が『蓮華三昧経』(乙)の付属を受け、すなわち『与願金剛地蔵菩薩秘記』を撰したことになる。おそらくは仮託であろうが、本文中に記されるところである。
 また、『与願金剛地蔵菩薩秘記』には、巻尾に奇怪な「良助私記」が添えられている。

良助座主の私記に云く、吾昔天台座主位に居し、富士山清見が関遊覧の為に、遠州江内本領たるを以て発向の処、関東より武官来て云く、余を養父宗尊親王謀叛の跡と称し、愚老を執て妄に外浜に遷さんと欲す、青蓮院の宮、天台の座主流さるること其の例無きことを悲歎して、座主遠州に於て頓死するの旨を以て、山門に披露し玉へり、愚老入滅せること今既に六十年に及へりと、華洛皆焉を思へり、然りと雖も百年の余命猶存するに及て、深く其の名を隠して、左遷の昔の還俗の姿を改めずして、世間に流落す、談峰(たふのみね)の衆徒我を憐て、終焉の雲を待つのみ、茲に於て困誠に地蔵薩埵信ずるの人あり。蓮華三昧経の秘密を願ふ、凡そ秘法伝授の時、印信血脈を伝ふれば、其の名を載するに憚り有りと雖も、本名を載て今之を録す、正安の古、天台座主三品親王良助<亀山院第三皇子成就院>宗尊親王猶子、記録して以て地蔵尊擁護禅門安富道行に伝ふ、愚老齢九旬に及び、老朦尤も甚し、筆の誤り多かるべし、ゆめゆめ外見に及ぶこと莫れ。
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間違い探し

2008-02-27 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月27日(水)00時11分58秒

愛宕山の勝軍地蔵とむらじさんに導かれて、黒田智氏の『中世肖像の文化史』p356に戻り、少し多めに引用してみます。

------------------
二、勝軍地蔵の化身としての鎌足
1.甲冑の異人─良助法親王
 「日輪御影」は、多武峯冬野とのきわめて密接な関係を推測させる絵図である。冬野についてさらに詳しく調べてみると、『多武峯略記』静胤本の注記に行き当たる。すなわち、「冬野寺」に付された「亀山天皇皇子良助法親王、破戒の後、冬野に居し、自ら憂婆塞と称す」なる割り注である。
 良助法親王。その生涯は謎に包まれている。
 『皇胤紹運録』や『諸門跡譜』によれば、良助法親王は、亀山天皇皇子で天台座主、青蓮院門跡の地位にあった。後年、多武峯清浄院に移り住み、還俗して冬野の四軒茶屋に隠棲して、もっぱら著述にふけった。文保元年(一三一七)八月一八日に多武峯で死去したという。
 ところが、『華頂要略』門主伝や『与願金剛地蔵菩薩秘記』所収の『良助座主私記』なる記録では、まったく異なる事実が収載されている。
 奇妙なことに、良助法親王は亀山天皇皇子でありながら、鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の猶子であり、太政大臣西園寺実兼の養子であったという。後年、良助法親王の述作に使用された典籍類の多くは、西園寺実兼が孫の竹園院禅師のために購入し、禅師早世後に養子であった良助法親王に譲与したものといわれる。
 そして良助法親王は、天台座主の地位にあった嘉元元年(一三〇三年)、富士山清見関遊覧中の遠江国江内を発する際に、義父であった宗尊親王謀反連座の嫌疑によって鎌倉幕府に捕らえられた。叡山へは遠江での頓死をよそおって人知れず還俗し、世をはばかり大和多武峯に隠棲したという。良助法親王は、そののち六十年余の余命をたもち、その間多武峯冬野の地にあって多くの著述を書き残した。延文年間(一三五六~六一)に死去したといわれ、遺骸は冬野に埋葬されたという。
----------------------

さて、ここで問題です。
以上の記述には、歴史的事実としては明白な誤りがいくつかあります。
いったいどの部分でしょうか。また、何箇所あるでしょうか。
なお、黒田氏ももちろん気づいています。念のため。

参考:勝軍地蔵
http://www15.plala.or.jp/timebox/top/07sinsi/fukuda/inosisi/inosisi-3.html


>亜季多さん
サンキュです。
宝篋印塔も中国ではやってから日本で流行するまで、タイムラグがありますね。
猫ひぢりさんの研究も、上川通夫氏の問題意識に関連づけて考えてみると、また面白そうですね。

>筆綾丸さん
>珍宮
いいですね~。

>NAO4@吟遊詩人さん
春近についての私が書いたことは不正確でしたので、まず井原今朝男氏が書かれた『日本史大事典』(平凡社)の「春近領」を見て、その参考文献を当たってください。
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春雨サラダ記念日

2008-02-24 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月24日(日)00時10分27秒

レバニラの あつき血汐に 触れも見で
 さびしからずや 春雨サラダ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013823065

>kariさん
いや~。
本を買っただけで誉められると、妙な感じですね。
上川氏は日本史研究会大会など、いろんなところで発表されているのに、私はまだ一度も直接お話を伺ったことがありません。
何か機会があれば参加してみたいですね。

>むらじさん
>沙汰やみ
すんまへん。
浮気性なので。

>筆綾丸さん
>源融の宝筺印塔
これは私のあやふやな記憶では、鎌倉時代の、それも割と初期の作品と評価されているのではないかと思います。
詳しい方に補足していただけるとありがたいです。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/hokyo-into.htm

>矢開の鹿さん
こんにちは。
ニュースを聞いて、私が疑問に思ったのは、所有者の同意がないから国宝指定ができないとされている点です。
文化財保護法をざっと見ましたが、特にそんなことを定めている条文はないようですね。
法律で定められていなくて、指定手続きを定める省令か何かに規定があるのだとしたら、文部科学大臣の政治的決断で、さっさと変えればよいのでは、と思います。
指定さえすれば、輸出禁止はできるし、国による買い上げも可能になるようですね。
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/pro/hogoho31.htm
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春雨サラダ記念日

2008-02-24 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月24日(日)00時10分27秒    

レバニラの あつき血汐に 触れも見で
 さびしからずや 春雨サラダ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013823065

>kariさん
いや~。
本を買っただけで誉められると、妙な感じですね。
上川氏は日本史研究会大会など、いろんなところで発表されているのに、私はまだ一度も直接お話を伺ったことがありません。
何か機会があれば参加してみたいですね。

>むらじさん
>沙汰やみ
すんまへん。
浮気性なので。

>筆綾丸さん
>源融の宝筺印塔
これは私のあやふやな記憶では、鎌倉時代の、それも割と初期の作品と評価されているのではないかと思います。
詳しい方に補足していただけるとありがたいです。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/hokyo-into.htm

>矢開の鹿さん
こんにちは。
ニュースを聞いて、私が疑問に思ったのは、所有者の同意がないから国宝指定ができないとされている点です。
文化財保護法をざっと見ましたが、特にそんなことを定めている条文はないようですね。
法律で定められていなくて、指定手続きを定める省令か何かに規定があるのだとしたら、文部科学大臣の政治的決断で、さっさと変えればよいのでは、と思います。
指定さえすれば、輸出禁止はできるし、国による買い上げも可能になるようですね。
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/pro/hogoho31.htm
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タイムラグ

2008-02-22 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月22日(金)02時45分8秒

日本中世仏教史料論』p141より。(■「大」の下に「周」、▲「日」+「方」)
---------------
■然は「大蔵経四百八十一函五千四十八巻、新翻訳経四十一巻」や、帰途台州で工匠を召募して彫刻させた「釈迦瑞像」などをもって、寛和二年(九八六)に帰国し、翌年二月に入京した。中国皇帝欽定の一切経を得たのは、日本史上これが最初なのである。道昭や玄▲をはじめ、これまで国家的な任務を負った入唐僧はいずれも請来していない。宋では、国情漏曳を防ぐための書物輸出禁止策が、国史・実録・地理書・兵書などについて維持されていたが、儒教の経書や仏教の経典は、搬出が許可されていたという。宋版一切経は、高麗(九八九年など)や西夏(一〇三四年など)にも伝えられ、諸国間の外交に利用されている。「職員令」「王年代記」などを献じた日本は、念願の、しかも装い新たな版本として、一切経を得た。後述するように、宋版一切経の獲得は、一切経の歴史のみならず、仏教史をも前後に分かつ意義をもつことになる。直接的には呉越国との交渉を進めた摂関家の政策を前史とし、■然帰国後を古代と区別される新動向への胎動期と捉えたい。東アジアの政治構造の再編を契機に、次段階が進展する。
 ■然が持ち帰った「摺本一切経」は仏舎利を籠めた「七宝合成塔」や「白檀五尺釈迦像」などとともに、京へ運び入れられた。高麗楽や大唐楽を奏する雅楽寮官人らを加え、官料を下された「雇進夫三百」によって、朱雀大路を北上した。(以下、略)
---------------

『増鏡』の冒頭に嵯峨の釈迦堂が出てくるので、■然(ちょうねん)には以前から少し興味を持っていました。
■然は10世紀後半に画期的な行動をしているのに、その後あまりパッとしない印象があり、清涼寺式釈迦像が流行するのも2・3百年も経った鎌倉時代になってからですね。
このタイムラグはいったい何だったのだろうか、との問いに『日本中世仏教史料論』は少し答えてくれそうなのですが、より詳しくは『日本中世仏教形成史論』(校倉書房)所収の「■然入宋の歴史的意義」という論文を見なければいけないようです。
こちらは1万円を軽くオーバーするので、少し考えてしまいますね。
ま、こうなったら買うしかないか。

参考:釈迦堂
http://www.aba-pon.net/syakadou.html

>NAO4@吟遊詩人さん、筆綾丸さん、阿哈馬江さん、むらじさん
レス、ありがとうございます。
理系俳句シリーズは全2作で、

 春の深山 猟師力学 底雪崩

というのも考えたのですが、やはりのんびりした春の海の方が良いですね。

>うえんつさん
すみませぬ。
私も芸風が固定していて、付句はちょっと苦手ですね。
良いのがなかなか思い浮かびません。
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理系俳句

2008-02-21 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月21日(木)01時42分48秒

税込み9975円の元を取ろうと、今日も通勤電車の中で「一切経と中世の仏教」を読んでいました。
我ながら浮世離れしているな、と思いつつ。
また少し紹介したいのですが、眠いので、後で書くことにします。
最後に、NAO4@吟遊詩人さんと筆綾丸さんに褒められて調子に乗って作った句をば。

 春の海 漁師力学 地曳き網
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海潮音

2008-02-20 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月20日(水)01時54分18秒

山のアナスタシアの空遠く、幸ひ住むと人のいふ、という詩がありましたね。

kariさんに紹介していただいた上川通夫氏の『日本中世仏教史料論』を少しずつ読んでいるのですが、上川氏は雄大な構想の下、地味な研究を着々と積み上げていて、学者の鑑のような方ですね。
井上光貞・黒田俊雄氏らを「島国的な一国史の範囲内で、仏教信仰の自生発展を必然視する。そういう日本中世仏教史研究の思想は、現時点でも維持されるのだろうか」と厳しく批判した上で、自己の仮説の概略を次のように書かれています。(序章)
------------------
 十世紀後半に成立した北宋の皇帝は、一方では呉越国が江南で進めていた、天台を核に据えた仏教復興策を吸収した。同時に、北地の都開封では、あらたにインド方面の仏教を組織的に導入した。中でも、ヒンドゥー教の発展に対抗して形成された、今日後期密教と呼ばれる極端なほど呪術色の濃い新傾向仏教が重視された。権力確立過程にある藤原摂関家を政策推進主体とする日本国家は、入宋巡礼僧等を介して北宋の仏教事情を知ったが、皇帝への政治的従属を避ける国家外交方針をとって、江南の天台勢力との個別的通交を選び、最澄以来の天台宗を国際的に認知させる努力の一方、天台浄土教の重視策に乗り出した。同時に日本朝廷は、古代国家による中国仏教の敷き写し方針を転回させ、意図的なアレンジを加えはじめた。経塚などの結縁方式の「修善」や、意匠を凝らした写経などが、その萌芽であろう。
 この時代、北方から北宋を圧迫した契丹族の遼でも仏教政策は進められた。特に十一世紀後半の道宗時代にいたり、華厳と密教が重視され、顕教と密教を一対のものとして養成する権力事業が進められた。日本では、摂関政治に対抗する初期院政権力が密教重視の意向を持ち始めた。それは、北宋を挟撃する遼と西夏を含む、動乱の世界政治情勢を念頭に置いた政治判断でもあった。高麗などを含め、権力中枢の仏教事業によって正統性を主張し合う諸国家が、東アジア世界を構成した。
(以下、略)
-----------------
私には東アジア史の素養が全くないので、どう評価したらいいのか見当もつきませんが、こういう仮説のもとで研究を進めて行けば、いろんな発見が生まれそうですね。

>筆綾丸さん
>her remains
火葬のことは「増鏡」の中でも何度か出てきますから、通読すれば誤解はないんでしょうけど、この部分だけだと確かに迷いそうですね。
ちなみにクロアチアのCathedral of St. Anastasia にある聖遺物は"the ashes of St. Anastasia of Syrmia"だそうですから、こちらも火葬した遺骨なんですね。
ま、本物かどうかを問うのは野暮だと思いますが。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cathedral_of_St._Anastasia,_Zadar

>NAO4@吟遊詩人さん
あやふやな知識ですが、春近はもともと在庁官人が管理した国衙領の名称で、いろんな国にあったようですね。
以前、稲垣泰彦氏の「春近領について」という論文を読んだことがあるのですが、手元にコピーがないので内容を確認できませぬ。
荘園に詳しい方、補足ないし誤りの修正をお願いいたします。


話題が広がりすぎて、すべての方にレスするのは到底無理ですので、ご容赦を。
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IHSの謎

2008-02-17 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月17日(日)02時40分3秒

>domingo さん
おひさしぶりです。
それほどやさしい文章ではないと思いますが、"never fail "をきちんと訳せないというのは、いくら機械翻訳でも問題ありですね。

>kari さん
ご紹介、ありがとうございます。
早速『日本中世仏教史料論』を購入しましたが、300頁ほどなのに1万円出して25円しか戻ってこない値段というのは、ちょっと厳しいですね。
これから読んでみます。

>筆綾丸さん
>IHSの三文字
すぐには分からなかったのですが、イエスキリストのモノグラムでしょうか。
http://www.newadvent.org/cathen/07649a.htm

出光コレクションにはこんなのもありました。
http://homepage2.nifty.com/papai/kansyo/kansyo2.html

>うえんつさん
いらっしゃいませ。
リンク先、質量ともすごいサイトですね。

>笛田さん
こんにちは。
私もそれをネタにしようと思っていました。

>むらじさん
>後深草の娘をどうして盗んでまで
後宇多は頭は良いけど、変な人ですからね。
まあ、一方的ではなく、遊義門院と示し合わせての行動であることに間違いはないと思うんですが。
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今林のLotus Hall

2008-02-15 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月15日(金)00時10分52秒

>筆綾丸さん
それでは続きをば。
-----------------------
The former sovereign seldom made use of ladies-in-waiting after becoming a monk: male attendants, whichever ones happened to be on duty, brought his meals and saw to all his other needs. He never failed to observe the rule of abstinence. The late imperial lady had performed a splendid service by inspiring him to lead such a life. He never neglected to hold daily services in her memory at the Imabayashi Mansion in Saga. (The mansion was the place where the Kitayama Honorary Empress had lived.) He used to strands of her hair to sew Sanskrit letteres; also, for dedication at the Sesshu-in, he copied passages from the Lotus Sutra onto the backs of sheets of paper containing her handwriting, performing a triple obeisance after inscribing each character. Archbishop Kakushu acted as his spiritual guide. In further demonstration of his deep affection, he built a Lotus Hall in the Imabayashi grounds to house her remains, and went there faithfully on the 24th day of each month.

御髪(ぐし)おろして後は、大方(おほかた)女房は仕うまつらず、男、番(ばん)にをりて御台なども参らせ、よろづに仕うまつる。いつも御持斎(ぢさい)にておはします。いとありがたき善知識にてぞ、故女院はおはしける。嵯峨の今林殿(いまばやしどの)にて御法事ども日々に怠らずせさせ給ふ。この今林殿は北山の准后のおはせし跡なり。遊義門院の御髪(ぐし)にて梵字ぬはせ給へり。かの御手のうらに、法華経一字三礼(らい)に書かせ給ひて、摂取院にて供養せらる。覚守僧正御導師。故女院の御骨も、今林に法華堂たてられて、置き奉らせ給へれば、月ごとに廿四日には必ず御幸あり。思(おぼ)し入(い)りたる程、いみじかりき。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-kanjo.htm
-----------------------

今林陵には私も一度だけ行ったことがありますが、かなり広くて立派なつくりですね。
http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/kyoto/ukyo/021.htm

>NAO4@吟遊詩人さん
瀬田勝哉氏は独特の存在感のある方ですね。
「「伏見古図」の呪縛」はネットで読めます。
http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/Elib/H31-3/007/001.html

>はぎつきさん
>毎日歴史のこと考えてるの?
とーぜんですね。

>むらじさん
こちらではおひさしぶりです。
ま、先週会ってますけど。
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院殿大居士の鯨様

2008-02-14 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月14日(木)01時02分20秒

>筆綾丸さん
愛媛県明浜町の寄鯨は天保八年(1837)の大飢饉の際に登場して、我が身をもって住民を救い、報恩として「鱗王院殿法界全果大居士」の戒名をもらったそうですね。
「全果」の二字に、すみずみまでおいしくいただきました、という感謝の気持ちが込められているのかも。
http://www.asahi-net.or.jp/~RN2H-DIMR/ohaka2/10gyogyo/17sikoku/akehama.html


後宇多院の歌はいかにも帝王風ですが、遊義門院の歌は内省的な印象を受けますね。
私は遊義門院を活動的で華やかな女性と想像していたのですが、彼女の歌との間にはかなり隔たりがあるので、少し悩んでおります。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gouda.html
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yuugimon.html

>阿哈馬江さん
詳しい引用、ありがとうございます。
個人的には「即成就院」の四文字にやたら惹かれます。

>kariさん
関東であれば参加したいのですが、さすがに津山市は遠いですね。
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くわんぢやう

2008-02-14 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月14日(木)00時59分37秒

先に紹介した"The Clear Mirror" の後宇多院灌頂の場面、原文はこちらです。
-------------------------
あくる年の春、八幡の御幸の御帰りざまに、東寺(とうじ)に三七日おはしまして、御灌頂(くわんぢやう)の御加行(けぎやう)とぞ聞ゆる。仁和寺(にんわじ)の禅助僧正を御師範にて、かの寛平の昔をや思(おぼ)すらん、密宗をぞ学(がく)せさせ給ひける。六月には亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-kanjo.htm
-------------------------
きびきびした良い文章ですが、英訳すると、正確に説明するためにどうしても冗長になってしまいますね。

>NAO4@吟遊詩人さん
>灌頂
英語でbaptism(洗礼)と訳されているのは若干奇妙な感じがしますが、ま、外形的には似てますよね。
ちなみに後宇多院の灌頂の様子については、側近の吉田隆長(定房の弟)が詳細な記録を残しています。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hayami-tasuku-mikkyokanjo.htm

伏見については瀬田勝哉氏が「看聞日記ゼミ」の参考文献目録を公開されているので、参考になるのでは、と思います。
同氏の「「伏見古図」の呪縛」(『武蔵大学人文学会雑誌』第31巻3号)、「伏見即成院の中世」(『武蔵大学人文学会雑誌』第36巻3号)は特に面白いですね。
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baptism

2008-02-11 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月11日(月)22時32分12秒

皆様
今日は英語の勉強をしていたため、申し訳ありませんが、お返事が少し遅れます。
お許しください。

ところで、今、僕は George W. Perkins 氏の"The Clear Mirror" (Stanford University Press,1998)という本を読んでいます。
その157ページには次のような文章があり、試しに訳してみました。

--------------------
In the spring of the following year(1308), the retired emperor stopped at the Toji Temple on his way back from the Iwashimizu Hachiman Shrine, and there, during a 21-day retreat, he performded pious exercises to prepare himself for baptism. Perhaps in remembrance of the precedent set by Emperor Uda, he also studied esoteric doctrines under the guidance of Archbishop Zenjo of the Ninnaji. And in the sixth month, at the Kameyama Mansion, he copied a sutra in prescribed form.

翌1308年の春、引退した皇帝はアイワシミズ・ハチマン聖堂訪問の帰途、トージ寺院に止まり、そこに21日間籠って、自らの洗礼の準備のために敬虔な儀式を遂行した。多分、ユーダ皇帝の先例を思い出してのことであろうが、彼はニンナジの大司教ゼンジョの指導の下、秘密の理論をも勉強した。そして6月には、カメヤマ屋敷で、所定の形式に従い聖典を複写した。
--------------------

どうも東洋の小さな国の物語のようなのですが、14世紀初頭に皇帝が baptism(洗礼)を受けていたというのが不思議です。
そんなに早くキリスト教が布教されていたのでしょうか。
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鯨の寄る島

2008-02-08 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月 8日(金)01時20分50秒

>筆綾丸さん
すぐには思い浮かばなかったのですが、伊勢の大湊の場面ですね。
------------------
その暁の出潮の舟の乗りに、宵より大湊といふ所へまかりて、いやしき浦人が塩屋のそばに旅寝したるにも、「鵜のゐる岩のはざま、鯨の寄る磯なりと、思ふ人だに契りあらば」とこそ、古き言の葉にもいひおきたるにこは何ごとの身の行方ぞ。待つとてもまた憂き思ひの慰むにもあらず、越えゆく山の末にもあふ坂もなしなど、思ひつづけて、また出でんとする暁、夜深く、外宮の宮人常良がもとより、本宮へつくべき便り文をとり忘れたる、遣はすとて、
  たちかへる浪路と聞けば袖濡れてよそになるみの浦の名ぞ憂き
返し、
  かねてよりよそになるみの契りなれどかへる波には濡るる袖かな
------------------
古い詩歌の一節として引用しているので、特定の海岸について述べたものでもないようですが、非常に興味深い表現ですね。
講談社学術文庫版「とはずがたり」の次田香澄氏の注には、『宴曲集』第三、袖湊(そでのみなと)から、「鵜のゐる岩の狭間にも、葎の宿萱が軒、埴生の小屋のいぶせさも、・・・・・契の末のかはらずは、虎臥す野べ鯨の寄る島にも、留めばとまりなんやな」(『宴曲集』第三、袖湊)と紹介されていて、これも気になります。

>NAO4@吟遊詩人さん
>esoteric
密教も博物館の展示などでは、Esoteric Buddhism と訳されていることが多いですね。
試しにウィキペディアで「真言宗」の英語版を見ると、esoteric が満ち満ちてます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shingon_Buddhism

>はぎつきさん
ギター侍?
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「髪繍」または「繍髪」

2008-02-05 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月 5日(火)23時18分7秒

当麻寺には「中将法如毛髪種字三尊」なるものがあり、毛髪により阿弥陀三尊をあらわす梵字を刺繍とか。
http://www.taimadera.org/list.htm

かたや大原の寂光院には「建礼門院髪繍(はっしゅう)」があり、「南無阿弥陀仏」の名号を髪の毛で刺繍せり。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007110700035&genre=J1&area=K1D

また、「両界種子繍髪曼荼羅図」というのもあるらしい。こちらは残念ながら画像なし。
http://alacarteofchina.at.infoseek.co.jp/butuga-18.htm
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