学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

大晦日のご挨拶

2014-12-31 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月31日(水)19時42分35秒

ここ暫く投稿を休んだ分、元旦早々にも連続投稿を行うつもりなので年末のご挨拶というのも若干変な気分ですが、今年の投稿はこれで最後とします。
筆綾丸さん、また、このようなマニアックな掲示板に訪問してくださった皆様、どうぞよいお年をお迎えください。

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「変節」「転向」「偽装」ではないけれど・・・

2014-12-30 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月30日(火)21時27分4秒

昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』は大変な労作であり、また名著であると思いますが、第三部第三章「三井甲之の戦後」だけはちょっと納得が行かないですね。
昆野氏は同章の最後を、

------
 その後の三井は、戦後初期における現在の状況への反発を乗り越えて、積極的に適応していった。天皇の「人間宣言」、衆・参両院における教育勅語排除・失効決議などを通して、伝統的国体論は上から解体せしめられていった。このような動きに対応するかのように、彼の認識においては、天皇は神から人間へと変貌を遂げ、普遍宗教との関わりで捉えられるとともに、「デモクラシイ」の観念が偽装を超えて血肉化していった。
(中略)
 確かに占領下における一連の上からの改革によって、伝統的国体論の思想的主柱はことごとく倒され、その権威は失墜した。それでは三井における戦後の思想的帰結は、上からの改革に対する現状追認に過ぎないのであろうか。そうとも言い切れない。三井の悪戦苦闘に示されるように、個々の思想家のレベルにおける営為には、単なる現状追認ではなく、まがりなりにも戦後という時代の中で積極的に自己革新をなそうとした一面があるのではないか。少なくとも彼らの戦後における変説を「変節」「転向」「偽装」とのみ判断するだけでは、国体論の思想性を正確に把握することはいつまでたってもできないだろう。
-------

と締めくくられるのですが、少なくとも三井甲之の場合、変説は「変節」「転向」「偽装」ではなく、老化現象なのだと思います。
三井甲之は1883年生まれなので終戦時には満年齢で62歳であり、山梨県の大地主という地位と名誉と財産は農地解放で消失し、更に子供の死去といった個人的不幸が重なって体力・気力が失われ、要するにボケてしまったと考えるのが一番自然です。
何より昆野氏が紹介する文章の数々には戦前の三井甲之の文章に見られた異様な覇気が全く存在せず、弱々しい老人の繰り言が続くだけですね。

戦前の三井甲之の思想については片山杜秀氏の「写生・随順・拝誦─三井甲之の思想圏」(『日本主義的教養の時代─大学批判の古層』)がよく整理されていて、三井甲之に流れ込んで行った様々な思想の全体像が綺麗に把握できます。
ただ、三井甲之は主観的には独創的な深い思想を構築したつもりだったのでしょうが、客観的には各種思想をバラバラに寄せ集めただけとしか言いようがないですね。
例えばベルクソンの「生の哲学」にしても、ある種の神秘主義的な面は確かにありますが、人を他者への攻撃に駆り立てるような危険思想でも何でもありません。
ま、昆野伸幸氏には深く思想を分析する能力がありますが、もともと対象たる三井甲之に独自の深い思想がある訳ではなく、更に戦後はボケが重なっていますから、あまり熱心に分析しても仕方ないような感じがします。
ということで、ちょうど大田俊寛氏の『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、2011)を読んだときと同じようなミもフタもない感想になってしまいました。

カルトの臭い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a51d2ae1fbd0dd1bdfc233c25718bc9c

>筆綾丸さん
ここ数日、『現代思想二月臨時増刊号 総特集網野善彦』を読んでいたので、『日本史の森をゆく』は購入済みですが、まだ目を通していません。
感想は後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7626

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平泉澄は「皇国史観」の理論的リーダーか?

2014-12-24 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月24日(水)10時54分56秒

昆野伸幸氏『近代日本の国体論』の「序論 国体論研究の視角」には次の指摘があります。(p9以下)

---------
 ここで本書が視座とする皇国史観という用語、概念の孕む問題性について検討しておきたい。これまでこの用語、概念は、近代日本、特に昭和戦前・戦時期における国家と歴史認識との密接な関係を批判的に説明するものとして使用されてきた。そのことは当該期を扱った一般的な書物から専門的研究書まで共通している。そしてこの用語は、単に過去の出来事を説明する場合だけでなく、最近の歴史教科書問題をめぐる報道にも示されるように、現代における国家主義的な歴史認識を呼ぶ場合にも適用されている。様々なメディアを通して、皇国史観という用語には今日既に一定のイメージが付与され、その像がかなりの層において共有されているといってもいいだろう。
(中略)
 しかし、資料用語としての「皇国史観」に対する分析自体が十分なされていない以上、歴史的文脈を無視して「皇国史観」をそのまま分析概念として一般化するのは極めて危険である。既に指摘されているように、「皇国史観」は早くても昭和一七(一九四二)年六月頃から、大体は昭和一八(一九四三)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたものである。確かにこの前後の時期には他にも「国体史観」「皇道史観」「天壌無窮史観」「万世一系史観」「中今史観」等々の類似語が氾濫したが、「皇国史観」の場合、第三部第一章で確認するように、当時発表された六国史を継ぐ「正史」編集事業との関連で使われたものであり、他の語とは事情が異なっていた。その意味で「皇国史観」は、他の語以上に本来極めて時事的な、歴史的刻印を帯びた用語なのである。
 このような事情を踏まえ、本書では資料用語としての「皇国史観」と分析概念としての<皇国史観>を明確に区別する。文部官僚によって語られた「皇国史観」という用語は、戦後流布した<皇国史観>のイメージを遡及させ、単純に同一視するべきものではなく、まず「皇国史観」それ自体が考察されるべき対象なのである。かかる区別をしておくことこそが、<皇国史観>を具体的に理解する前提としてまず必要なことであろう。
--------

皇国史観といえば、まず第一に平泉澄の名前が浮かびますが、「文部当局において、極めて早くかつ頻繁に「皇国史観」の語を使用した点で公認イデオローグといえる人物」(p217)である小沼洋夫(1907-66)は東大文学部倫理学科で吉田静致に師事し、後に和辻哲郎にも学んだ人だそうで、平泉澄の弟子でもなんでもないですね。
小沼は平泉に対してはむしろ批判的であり、平泉もまた文部当局が進める「正史」編集事業には乗り気でなく、「皇国史観」という用語は全く使わなかったそうです。(p236)
また、文部省と一体的な存在と思われがちな「国民精神文化研究所」には、「皇国史観」という用語は用いながらも小沼洋夫らの文部省主流派とは一線を画するグループがあって、こちらも平泉には批判的だったそうですね。
ということで、「皇国史観」を資料用語に即して捉えると、平泉は「皇国史観」のリーダーではなくなってしまいますね。
ちなみに後者のグループの中心である吉田三郎(1908-45)は京大文学部史学科国史学専攻卒で、在学中は西田直二郎に師事し、「昭和十年前後は、主に『歴史学研究』や文部省管轄下の国民精神文化研究所の紀要である『国民精神文化』に論文を発表」(p226)していたそうです。
『歴史学研究』と『国民精神文化』に同時期に投稿しているというのはちょっとびっくりですね。
『歴史学研究』に載った論文のタイトルは「外国貿易と大名」(『歴史学研究』2巻3号、1934年7月)といったものだそうですが、気になるので後で内容を確認してみるつもりです。
ちなみに文部省主流派とは異質な吉田三郎を中心とするグループは結局「掃蕩」されて、吉田自身も昭和18年、「興南練成院練成官」としてマニラに赴任し、二年後にアメリカ軍のフィリピン侵攻で死去したそうです。

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嵐山町の安岡正篤記念館

2014-12-24 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月24日(水)09時57分41秒

>筆綾丸さん
>安岡正篤
実像と伝説が渾然一体となってしまっている点では頭山満とも似た存在ですね。
「安岡正篤記念館」サイトを見ると<元号「平成」の考案者>としていますが、これも本当にそうなのか。

http://kyogaku.or.jp/yasuokapage.html

十年以上前、埼玉県嵐山町の埼玉県立歴史資料館(現・埼玉県立嵐山史跡の博物館)を訪問したついでに、近くに安岡正篤ゆかりの施設があるというので寄ってみたことがありますが、何となく入りづらい雰囲気で、建物外観を見ただけで引き返してしまいました
今は「安岡正篤記念館」という名前に代わり、見学しやすそうなので、機会があれば行ってみようと思います。

>『日本史の森をゆく』
これは買わねばなりませんね。
タイトルでは伴瀬明美氏の「未婚の皇后がいた時代」に惹かれます。

http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/9a7b2f94ff47e8ae29be0f121179b881

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7623

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「日本の国士」もわが仲間

2014-12-23 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月23日(火)09時48分53秒

前回投稿で少し否定的な書き方をしてしまいましたが、昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』は優れた著作だと思います。
特に「平泉史学と人類学」「平泉澄の中世史研究」には、なるほどな、と思うことがたくさんありました。

15日の投稿、「宴のまえ」で書いた安岡正篤のエピソードはずいぶん前に『林達夫著作集』で読みましたが、平凡社ライブラリー『林達夫セレクション2』にも入っていますね。
少し引用してみます。(p454以下)

--------
「日本の国士」もわが仲間

 わたくしが一高一年のとき暮らした東寮一番に、独法の同じクラスに名をつらねている安岡正篤という男があった。同名異人ではない、あの安岡なのだ。わたくしのようなバタ臭いキザな洋学者流が、そのとき既に大人の風格のあった東洋精神の権化みたいなかかる青年と日夜顔をつき合わす因縁になるというところに、一高の寮生活の面白さがあったのだが、正直にいってその頃のわたくしのみならず、友人の誰もが、彼がのちにあのような「日本の国士」になるだろうとはゆめにも思っていなかった。
(中略)ところでその安岡には、彼の「国士」という重い地位が欲せずしてその昔の同窓との間にかもした面白い悲喜劇の幾コマかがある。これもクラスメートの辻山治平がまだ愛知県の事務官をしていた時分、ある日知事によばれてきょう東京からその高風を慕っている偉い大先生が見えるから名古屋を方々御案内しろという命令があった。いよいよ当の先生の御光来というのでキクキュージョとして彼が知事室へ這入ってゆくと、「何だ、安岡か」というわけであったが、そこは知事にバツを合わせなければならぬ下僚の悲しさ、うやうやしく敬礼して改まった言葉でアイサツしたが、さて自動車にのって二人だけになってから、「こいつめ、ひどい恥をかかせやがったな」と油をしぼったというはなし。予言者故郷に容れられずのたとえにもれず、天下の安岡の真価をいちばん知らないのが、(しかしある意味でいちばん知っているのが、)われわれその同窓であったかもしれないのである。
 それと逆な話になるほほえましき一コマ。東寮一番のときの同室者で、医学を修め、のちアフガニスタンとかヨーロッパを飄々乎として漂泊して歩いた風変わりな友、今川平次が、ある夕、パリの日本料理店に這入ってゆくと壁に急告のビラがはってある。みると、今夕、大使館で来仏中の安岡正篤先生の講演の集まりがあるから、ふるってみな参会せられよ、と書いてある。今川はとるものもとりあえずすぐにそこをとび出し、つかまえたタクシーにフルスピードを命じて大使館へとんで行くと、既に講演ははじまっていた。会場後方のドアを拝して中へ這入ると、かしこまった聴衆を前に紋付羽織に威儀を正した安岡が威風堂々あたりを払って真正面の講壇で熱弁をふるっている真最中であったが、思いがけぬ今川の出現を認めると、思わず手を差しのべて「ヨオ」と言ってしまったものである。それは国士安岡のポーズでは断然なくして、まだティーンエイジャーだったそのかみの一高生安岡のテンシンランマンたるしぐさそのものであった。「魂のふるさと」一高自治寮とは、さしもの安岡にさえ国士たる心構えを一瞬忘れさすほどそんなにもなつかしい、そしてまたおそるべき場所なのである。─そして安岡もいまではもうよく知っていることだろう─おびただしい各層の人々からあんなにも畏敬され崇拝されてきたが、いつに変わらず心やすらかに愛され親しまれたのはそのむかし一高時代を一緒に送った、安岡を国士扱いできないわれわれからだけだったかもしれないと。
-------

林達夫が「一高一年のとき」とは1916年(大正5)ですが、この二つのエピソードは何時頃の出来事なのか。
辻山治平の方は官歴をきちんと追えば明確に特定できるでしょうが、ウィキペディアの略歴から推定すると、1930年前後ですかね。

安岡正篤(1898-1983)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4
辻山治平(1897-1974)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E5%B1%B1%E6%B2%BB%E5%B9%B3

今川平次のエピソードはいつのことなのか、ちょっと見当もつきませんが、リンク先サイトによると、今川がアフガニスタンに入ったのは1934年だそうですね。
公使館設置に伴い、医官として着任。

-------
(15)豊原幸夫、飯田(正英)、今川平次、浅葉夫妻
斉藤積平氏と一緒に1934年の公使館設置にともないアフガンに館員として着任。豊原書記官、飯田書記生、今川医官、浅葉はコックとして。
http://homepage3.nifty.com/afghan/topics/japanese2.html
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三井甲之の戦後

2014-12-21 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月21日(日)18時52分35秒

私が三井甲之の思想を真面目に検討しても仕方ないんじゃないかな、と思った理由のひとつは、三井甲之が戦後、「デモクラシイ」を肯定する立場になったことを知ったからです。
昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』(ぺりかん社、2008)から少し引用してみます。(p275以下)

--------
第三章 三井甲之の戦後
 はじめに

 原理日本社の中心人物三井甲之(明治一六~昭和二八<一八八三~一九五三>)は、敗戦後、農地改革によって土地のほとんどを失い、公職・言論追放処分に付され、さらに脳梗塞で左半身不随となり、そのうえ戦地から引き揚げてきた次男時人を病気で失った。「タタカヒテヤブレシクニノウンメイヲミニゾオボユルタダチニソノママニ」と詠んだ通りに、失意の底にあった三井は、昭和天皇御製に救いを求めた。その姿は、国民宗教儀礼として明治天皇御製拝誦を説いた戦前のあり方を彷彿とさせる。
 しかし、戦後の三井は他方において、「天皇親政」を説いた戦前とは異なり、「デモクラシイ」を容認し、キリスト教・仏教・儒教などの有する普遍的価値を称揚した人物であった。原理日本社を立ち上げ、蓑田胸喜とともに、自由主義的知識人を次々と弾劾した狂信的日本主義者という今日一般的な三井像からすると、意外極まりない一面であろう。
 御製という日本独自の価値にすがりつく姿勢と、民主主義を認め、普遍的価値を求める志向─この一見相反する二つの要素は、戦後における三井の思想においてどのような関係があったのか。
 従来、先行研究において唯一戦後の三井を検討した米田利昭氏は、彼の「デモクラシイ」や「世界主義」に関する議論を「民主主義的偽装=看板ぬりかえ」とし、戦前と戦後における三井の天皇観、ナショナリズムの一貫性を強調した。実際、三井に親しく接した彼の弟子ともいえる人たちも、口を揃えて三井の思想が戦前・戦後を通じて連続していることを証言している。(後略)
--------

昆野伸幸氏は偽装転向ではないという立場から種々論じられていますが、昆野説が正しいのであれば三井甲之の思想はずいぶん華奢なものと言わざるを得ず、その全体像や一貫性を追求する努力は空しい感じがしますね。

『近代日本の国体論』
http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001469
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ベルグソンorベルクソン

2014-12-21 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月21日(日)09時39分43秒

些細なことですが、ベルグソンとベルクソン、どちらが正しいのかな、と思っていたところ、『世界の名著53 ベルクソン』(中央公論社、1969)の月報に同巻責任編集者・澤瀉久敬氏と前田陽一氏の「ベルクソン哲学の性格」という対談が載っていて、そこに次のやりとりがありました。(p4)

-------
前田 Bergsonという表記のことなんですが、この本ではベルクソンと正しく改められていますね。フーシェの『音声学概論』には、スカンディナヴィア系の外来語は、g の次に無声子音がきた場合、g はクと発音するとして、Bergsonの例をあげているんです。

澤瀉 前からベルクソンの表記が気になっていたんですが、この機会に思い切って改めたんです。
-------

林達夫訳の岩波文庫の『笑い』も昭和13年の初版では「ベルグソン」ですが、増補改訂版では「ベルクソン」になっていました。

久しぶりに林達夫の文章をいくつか読んでみましたが、実に気持ちが良いですね。
林達夫とか、あるいは南原繁のような本当に頭脳が明晰な人の文章の場合、分からないところがあっても、それは自分が未熟だから分からないのだろうと思いますが、原理日本社あたりの人の文章は相当微妙ですね。
片山杜秀氏が「写生・随順・拝誦 三井甲之の思想圏」(『日本主義的教養の時代』)で明らかにされたように、原理日本社の思想的中心であった三井甲之には親鸞、ヴィルヘルム・ヴント、岩野泡鳴、正岡子規などの思想が流れ込んでおり、三井は三井なりに独自の思想を作り上げたのでしょうが、ま、所詮は二流の知識人であって、ちぐはぐな寄せ集め感は否めません。
原理日本社関係も簡単にまとめた上で、そろそろ打ち切りにしようと思います。

>筆綾丸さん
佐藤優氏も変な人生論みたいな本を書くようになってしまいましたね。
基本的にはもう終りの人のように感じています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7617
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7618
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「知識人は二つに分ける必要がある」(by中里成章氏)

2014-12-18 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月18日(木)15時06分27秒

中里成章氏の『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』への書評、なかなか厳しいですね。

http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAJ/ZAJ200808_005.pdf

「『パル判事』を上梓するまで」では中島岳志氏の名前すら登場せず、「若い研究者」「院生などに批判されている若い研究者」「『パール判事』を書いた大学の准教授」「『パール判事』という本を書いた人」扱いですから、学問の世界の恐ろしさを教えてくれます。
ま、中島氏のことはともかく、私は以下の記述に一番興味を惹かれました。

-------
(前略)状況は変わっているわけですから、新しい状況に沿って社会的責任論を組み立て、社会的責任を果す新しいスタイルを編み出すべきでしょう。六〇を過ぎた人間を連れてきて話をさせても仕方がないわけです。歴史は繰り返しませんから、昔話は役に立たない。
 しかし、ご要望ですので考えてみますと、私は、知識人は二つに分ける必要があるような気がします。レイモンド・ウィリアムズという人が書いていることなのですが、イギリスの大学では研究者は二つに分けて考えられてるそうです。まず、スペシャリストあるいはプロフェッショナルと呼ばれるグループがある。皆さんや私みたいな人間ですね。大学の一般教員で地道に個別研究をやっている人間、あるいは研究所で毎日資料を見てレポートを書いている人たちです。それに対してインテレクチュアルと呼ばれる人たちがいる。専門を越えて一般的なことについても発言する人々です。同じようなことをフーコーも言っていて、彼は、スペシフィック・インテレクチュアルとユニヴァーサル・インテレクチュアルの二つに分かれるとしています。
 言い換えれば、知識人一般の議論というのはもはや成立しない。フーコーは、スペシフィック・インテレクチュアルの人々が様々な矛盾を抱えて苦しんでいると指摘しています。現代社会は情報化が進み、第三次産業がどんどん肥大化してゆく。スペシフィックなことをやる知識人の人口もどんどん増えてゆく。そういう社会変化が、新しい問題を生んでいるという認識があるわけです。社会的責任論に引きつけてこれを言い換えれば、戦後しばらくの間まで、インテレクチュアル、あるいはユニヴァーサル・インテレクチュアルに当たる人たちが、知識人を代表して、社会的責任の重要なところを引き受けていたわけですが、世の中は変わり、知識人は分解してしまいました。それにつれて、情報化に翻弄され悩んでいる、スペシャリスト、プロフェッショナル、あるいはスペシフィック・インテレクチュアルと呼ばれる人たちの、社会的責任の問題が浮上してきているようです。
------

レイモンド・ウィリアムズは1988年に亡くなっているので、最新の議論という訳でもなさそうであり、また、中里氏の書き方もスペシャリストとインテレクチュアルの分類はレイモンド・ウィリアムズの独自の見解ではなく、一般的に言われていることみたいですが、ちょっと気になります。
読んでみたいのですが、何を見ればよいのか。

レイモンド・ウィリアムズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BA
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中里成章氏「『パル判事』を上梓するまで」

2014-12-18 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
>筆綾丸さん
ベルグソンという補助線を引いたとしても、江戸時代から続く文人の家系に生まれ、一高・東大仏文を出て慶応義塾仏文科教授だった人が原理日本社のメンバーというのは些か奇妙な感じがします。
広瀬哲士は1883年生まれで三井甲之と同年ですから、短歌に親しんでいたことも考慮すると、一高・東大時代に既に三井と交流があったと考えるのが自然なんでしょうね。
鈴木信太郎(1895-1970)のウィキペディアの記事に「教育者として、7歳上の辰野隆、2歳上で東京高師附属中の先輩でもある山田珠樹と力を合わせ、29年間の卒業生が22人という状態だった東大仏文科を活性化し」とありますが、広瀬は辰野隆(1888-1964)よりも更に五歳上で、本当に仏文科草創期の人なんですね。
興味は惹かれるのですが、暫くは手をつける余裕がありません。

鈴木信太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E4%BF%A1%E5%A4%AA%E9%83%8E_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85)
辰野隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%9A%86

なお、16日の投稿で「漫画家の小林よしのり氏に論争で負ける程度の知識人である中島氏」と書きましたが、『パル判事』(岩波新書、2011)の著者・中里成章氏も「『パル判事』を上梓するまで」(アジ研ワールドトレンドNo193、2011)で次のように述べておられるので、まあ、特に言い過ぎでもないように思います。

-------
 ご存知かと思いますが、この本は漫画家の小林よしのりという人が取り上げ、著者との間に派手なやりあいがありました。私は、これは共存共栄だなと思っていました。ただ、小林さんの本を読んでみて、これはばかにできないなとも思いました。どう考えてみても、『パール判事』を書いた大学の准教授よりも、「私は漫画家です」と言っている小林さんのほうが冴えた議論をしているのです。それはなぜかということになりますが、強力なブレーンがついているという話を伝え聞いたことがあります。いずれにせよ、いわゆる保守論壇というのはなかなか手強いものだと、そのとき理解するようになりました。
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZWT/ZWT201110_013.pdf

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7614
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広瀬哲士

2014-12-16 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月16日(火)16時07分39秒

蓑田胸喜を慶應に招いた広瀬哲士は人名辞典の類を見てもあまり出ていないのですが、「レファレンス協同データベース」に「広瀬哲士(ひろせてつし)について知りたい」という質問があって、『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社、1994)に基づく回答を見ることが出来ますね。

----------
勝南郡瓜生原村(現津山市瓜生原)出身の仏文学者。1883(明治16)年9月9日~1952(昭和27)年7月26日。津山藩絵師広瀬台山の家系に生まれる。津山中学校の第1回生で、第一高等学校を経て東京帝国大学文科大学仏文科を卒業する。慶応義塾大学仏文科の教授となり、永井荷風らと「三田文学」を創刊。1912(大正元)年、フランスの哲学者ベルグソンの研究評論『生の進化』で文壇に登場した。1928(昭和3)年には、雑誌『仏蘭西文学其他』を創刊し、フランス近代・現代文学を紹介した。若いときから短歌にも親しみ、与謝野鉄幹、晶子とも親交があった。『イタリア全史』(相模書房 1938年)、『概観フランス史』(白水社 1938年)、『笑の観察』(三省堂 1930年)、『ルソー人生哲学』(東京堂 1943年)などの評論のほか、『耶蘇』(ルナン著 東京堂出版 1924年)などの翻訳がある。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041509

この経歴を眺めてみても原理日本社との接点を見出すのは困難だと思いますが、予備知識があれば「フランスの哲学者ベルグソンの研究評論『生の進化』で文壇に登場」に注目することになりますね。
そして、「若いときから短歌にも親しみ、与謝野鉄幹、晶子とも親交があった」で、なるほどおそらくここで三井甲之との接点があるのか、と想像できます。

ついで国会図書館で広瀬哲士の名前で検索すると49件ヒットしますが、ブールジュ『真昼の悪魔』、テエヌ『芸術哲学』、ルナン『耶蘇』、ルソー『新生の書』、『トルストイ恋愛聖書』等の翻訳が大半で、この種の本の翻訳と原理日本社に関係があるとは思えず、結局のところやはりベルグソンの翻訳だけが唯一の接点、という感じですね。
ベルグソンの『笑い』は岩波文庫の林達夫訳しか知りませんでしたが、広瀬哲士も大正3年(1914)に『笑の研究』として慶応義塾出版局から出していますね。
林達夫訳は昭和13年(1938)なので、広瀬哲士の方が24年も先行しています。
まあ、原理日本社くらい「笑い」と縁がなさそうな集団は考えにくいのですが、広瀬哲士にとっては『笑いの研究』と原理日本社の活動は密接な関係を持っていたのでしょうね。

https://ndlopac.ndl.go.jp/F/X5DTAI32K1DI6D1BV1JGAF917JVLPDPP27NKI2XG76P88J4U5P-02891?func=find-b&request=%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%93%B2%E5%A3%AB&find_code=WRD&adjacent=N&filter_code_4=WSL&filter_request_4=&x=58&y=10

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原理日本社と慶応大学を繋ぐもの

2014-12-16 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月16日(火)11時30分31秒

昨日、坂本多加雄氏の『知識人─大正・昭和精神史断章』(読売新聞社、1996)を書棚から見つけ出して15年振りくらいに読み直してみたのですが、現在の自分の関心に役立つ記述がけっこう多いですね。

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ベルグソンの「生の哲学」の移入

 この時期の「民衆」という現象を把握する際の諸々の観念をめぐる状況は、いささか複雑であり、単にいま見たような「自然」対「文化」という対比図式のなかには収まり切らないものがあった。(中略)
 もともと、「気」とは、生物と無生物との区別を相対化したところに成立する観念であり、この両者に通底して作用するようなエネルギーを意味するものであった。従って、「自然の気運」という言葉も、一方で、先の片上〔天弦〕の言うような「物質の盲目の力」という無機的なイメージに繋がる面を持ちながら、同時に、内的な自発性を有したエネルギーの運動として理解される可能性を持っていた。そして、そこから「民衆」の台頭も、単なる自然現象に類比されるのではなく、より積極的な意義を付与されて理解される可能性もあったのである。
 大正期において、このような傾向を、さらに推し進めることになったのが、同時代の西欧のベルグソンなどの「生の哲学」の移入であった。「生の哲学」は、「生命」のエネルギーの運動が、様々な文化や制度を作り上げながら、やがて、それが化石化して「生命」そのものの発展を妨げる桎梏となり、そこにおいて、「生命」は再び、そうした桎梏を打破して、新たな創造を行うという考え方に立ち、創造と破壊の過程として、社会事象の展開を把握するものであった。このように理解された「生命」の運動には、「気」の循環的運動のイメージと通い合うものがあったと言える。また、ベルグソンが人間の行動について述べた「なされてしまえば先行因子から説明されるものの、あらかじめ予見されることはできまい」(『創造的進化』)という言葉が示すように、「生命」の運動はあらかじめ理性的な予測や計画を超えた非合理的な働きをなすものとされており、その分、物質的な世界を支配する因果の必然的な連鎖を打破するものと捉えられ、人間の「自由」を根拠づけるものとして理解されていた。(p105-106)
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原理日本社は、「右翼」という言葉からついつい連想してしまいがちな、語学のできない無教養で土俗的な人々の集団ではなく、それなりにインテリが集まっていて、しかも慶応大学関係者がかなり重要な位置を占めていますが、私にはこの慶応との繋がりがよく理解できませんでした。
しかし、「生の哲学」を媒介とすると、結構きれいに繋がる感じがします。
そもそも蓑田胸喜を慶応に呼んだのはベルグソン研究者の広瀬哲士だそうですね。
竹内洋氏「第一章 帝大粛清運動の誕生・猛攻・蹉跌」(『日本主義的教養の時代』)には、

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 文学部卒業から数えて二年目の一九二二年四月、蓑田は慶應義塾大学予科教授となる。慶應への就職は、『人生と表現』の同人だった広瀬哲士の推挙による。★39 しかし、広瀬自身の慶應招聘が、ヴント研究家の慶應義塾大学教授・文学部長で、『人生と表現』に寄稿(「オイケンとベルグソン」など)していた川合貞一の引きによるものだったから★40、蓑田の慶應義塾大学招聘は、広瀬や川合という『人生と表現』同人人脈だったといえる。

39 「編輯消息」『原理日本』一九三二年五月号(前掲『蓑田胸喜全集』第七巻所収)。
40 「三井甲之年譜」『現代短歌全集』九、改造社、一九三一年、一六七ページ。
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とあります。(p26、48)
「生の哲学」を熱心に紹介した人はもちろん慶応関係者に限られませんが、このような慶応の土壌は原理日本社の土壌(のひとつ)になったと考えてよさそうですね。
ちなみに、原理日本社の支援者の一人であった堀米康太郎氏の蔵書にもベルグソンが含まれていますね。

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父は何事にも徹底せずにおれない性質だったので、哲学・文学・宗教のいずれの方面においても、驚くべき多量の読書をした。生涯外国語を修得しなかったが、読書は東西両面にわたって広く、私の中学時代の記憶では、いわゆる名著として今日も刊行されている古典で、父の蔵書に欠けていたものは少なかったように思う。中でも仏典は国訳大蔵経をはじめとして数多く、哲学関係もニーチェやベルグソン関係にいたるまで広く網羅されていた。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7295
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『言論抑圧-矢内原事件の構図』は「必読の書だ」(by中島岳志)

2014-12-16 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月16日(火)10時04分49秒

毎日新聞12月14日の書評欄で中島岳志氏が『言論抑圧』を絶賛されていますね。
中島氏は冒頭で「慰安婦報道に携わった元朝日新聞記者・植村隆氏へのバッシング」に触れ、

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植村氏は、赴任予定だった神戸松蔭女子学院大学から教授ポストの辞退に追い込まれ、現在は非常勤講師を務める北星学園大学で雇い止めの瀬戸際に立たされている。現政権は脅迫への積極的な批判や対策に乗り出さず、一方で朝日新聞叩きに加勢する。
 右派からの苛烈な攻撃と過剰反応する大学。そして、権力からのプレッシャー。歴史を想起すれば、1930年代に相次いだ言論抑圧事件が脳裏をよぎる。37年の矢内原事件はよく知られるが、詳細を把握する者はなかなかいない。本書は事件に関与した人物・機関を徹底的に洗い出し、複雑な構図を明快に読み解く。
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と将基面氏を褒め称えた上で、最後は

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 本書は約80年前の事件を取り上げながら、現代日本を突き刺している。我々は歴史を振り返ることで「いま」を客体化し、立っている場所を確認しなければならない。必読の書だ。
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と締めています。
ま、私には同書が「事件に関与した人物・機関を徹底的に洗い出し、複雑な構図を明快に読み解」いたとは到底思えないのですが、漫画家の小林よしのり氏に論争で負ける程度の知識人である中島氏にとっては、同書程度の記述でも高く評価できるのでしょうね。
また、矢内原事件を植村隆氏の一件と同レベルにおくのも、何だかなあ、という感じがします。
矢内原事件は「学問の自由」「大学の自治」の問題ですが、植村隆氏の一件は同氏が新聞記者として行った過去の活動に関する問題であって、たまたま退職後に職を得た大学とは全く関係がありません。
まだまだ事実関係が不明瞭ですが、同氏に新聞記者と市民運動家としての活動を混同したのではないかと疑われる不可解な行為があったことは確かで、きちんと自己に批判的なマスメディアの取材に応じるなり討論番組等に出るなりして、事実関係を明確にしてほしいですね。
植村氏を講師とした大学に脅迫電話や手紙を送りつけるような輩は論外ですが、まあ、朝日新聞は高給で有名で、退職金や年金もたっぷりもらえるでしょうから、講師を「雇い止め」されても生活に困る訳でもないでしょうし、あまり同情する気にはなれません。

『言論抑圧-矢内原事件の構図』への疑問(その1) ~(その3)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7561
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7562
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7568
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宴のまえ

2014-12-15 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月15日(月)20時27分49秒

>筆綾丸さん
>有田八郎
第一線の外交官として、また外務大臣としてそれなりに立派な業績を挙げた人なのに、多くの人の記憶に残っているのは「宴のあと」で、ちょっと気の毒ではありますね。

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有田の外交は軍部の圧力に押し流されるところもあったが、日独伊三国同盟を終始反対し、日米関係の悪化に懸念の立場を貫き、「有田外交」と言われた。その後、外相が有田から松岡洋右に代わってからは日独伊枢軸外交へとなっていった。松岡が「有田は七十数回も石橋を叩いて遂にこれを渡らなかった」と批判したのに対し、有田が「七十回叩いてみても石橋ではなかったんだ」と切り替えしたのは有名で、慎重な信念型であった。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/arita_h.html

>安岡正篤
林達夫がエッセイで一高同窓生の安岡に触れているのを読んだことがあります。
安岡が偉大な東洋思想家として雲の上に祭り上げられ、その講演会も極めて厳粛な雰囲気で行われていた頃、たまたま某講演会場に一高の同窓生がいて、安岡がついつい若い頃のように気楽な調子でその人に挨拶してしまい、聴衆がその軽さに驚いた、てな出来事があったそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7609
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山本悌二郎のコピー&ペースト

2014-12-14 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月14日(日)20時05分9秒

1935年(昭和10)3月12日の衆議院本会議における山本悌二郎の演説は憲政史上最高の傑作コントではないかと思われるので、少し引用しておきます。
宮沢俊義『天皇機関説事件:史料は語る』の該当部分はコピーし忘れたので、『天皇と東大』下、p136以下から引用しますが、立花隆氏も宮沢編著を引用しているだけです。

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「事は天皇機関説と云ふ学説に関するのでありまするが、是は二三十年来、(略)学者間の論議だけで、余り今迄は一般天下の問題とならなかつたが為に、実は斯く申す私初め世間の多数は、此問題に関しまして全く多くを知らず、又之を知るも、多くの注意を払わなかつたのでありまする。今更此問題の重大性に想致しますれば、公人としての自分等の不注意、不用意を痛感致す次第でありまする。此問題は今にして考へますれば、極めて重大な問題でありまする。(略)不注意や不用意の間に、天皇機関説が其儘看過されたる過去は兎も角として、既に今日一般公然の問題となり、焦点となりました以上は、之を此儘放任すべきものでは断じてないと信ずる者であります。(拍手)」

「美濃部君は貴族院に於て斯様に申されて居る。(略)『即ち法律学上の言葉を以て申せば、国家を一つの法人と観念いたしまして、天皇は此法人たる国家の元首の地位に在まし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ、天皇が憲法に従つて行はせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずる。』
 試に此一節の文章を其儘にして、唯天皇と云ふ文字の代りに社長と云ふ文字を使ひ、国家と云ふ文字の代りに会社と云ふ文字を当嵌め、憲法と云ふ文字の代りに定款と云ふ名詞を置いて見たならば、斯うなるのです。『社長は此法人たる会社の元首たる地位にあり、会社を代表して会社の一切の権利を総攬し社長が定款に従ふて行う所の行為が、即ち会社の行為たる効力を生ずる』、即ち名詞を置換えて見ますると云ふと、天皇機関説の説明が、ぴつたりと会社の社長の地位の説明になるのではないか、即ち天皇の御地位も、会社の社長の地位も、共機関たるに於ては全然同一のものとなるではありませぬか。さあ是で天皇の尊厳が傷けられず、是で国民の伝統的観念が撹乱せられずして止みませうか」
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実にこの説明は天皇機関説の理解としては全く正しいのですが、山本悌二郎は「天皇機関説の説明が、ぴつたりと会社の社長の地位の説明になる」と気づいた瞬間、怒り出します。
山本悌二郎(1870-1937)は新潟佐渡生まれで、外交官有田八郎の兄。官費でドイツに留学後、宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授を経て実業界に転じ、台湾精糖株式会社社長になった人ですが、ドイツ留学で西欧の最先端の学問を学び、官界・実業界・政界で幅広く活躍した最高レベルのインテリの山本悌二郎ですら「天皇の御地位も、会社の社長の地位も、共機関たるに於ては全然同一のもの」との認識を絶対に拒否する訳ですね。

山本悌二郎
https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/yamamototeijirou.php
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%82%8C%E4%BA%8C%E9%83%8E
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天皇機関説と「ベクレル」

2014-12-13 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月13日(土)22時11分46秒

>筆綾丸さん
>重頴
上野・寛永寺の穂積家墓碑に、穂積重頴は明治天皇崩御の前年、明治44年11月25日に66歳で死去した旨が書かれているそうです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/6700/@geoboard/177.html

穂積八束説は明治憲法制定直後から学界での支持を全く受けず、シュタインに国法学を学んだ有賀長雄(1860-1921)、帝大法科大学の同僚で国法学の末岡精一(1855-94)、帝大初代総長の渡辺洪基(1848-1901)等から猛烈に批判され、穂積は明治43年刊行の主著『憲法提要』で「孤城落日ノ歎アルナリ」と自嘲しているそうですね。(滝井一博「天皇機関説をわかりやすく教えてください」、『日本歴史』764号)
穂積八束の唯一の後継者である上杉慎吉もまた学界で孤立し、昭和4年、失意のうちに亡くなる訳ですが、その僅か6年後の昭和10年、明治憲法制定以来、一貫して学界の裏街道を細々と歩んで来た「天皇即国家」論が突如として主役として躍り出て天皇機関説を放逐するのは本当に不思議な現象です。
何でこんなことが起きたのだろうと思って『天皇機関説事件:史料は語る』を通読してみると、またまた驚くのは「論争」の低レベルさですね。
この「論争」に参加した人々の多くが天皇機関説を理解しておらず、徳富蘇峰など美濃部の著作は読んでいないと堂々表明しながら天皇機関説を批判する訳の分からなさです。
一番興味深いのは山本悌二郎で、一生懸命に天皇機関説を勉強し、やっと正確な理解に達したのに、その瞬間、これでは天皇の尊厳が傷つけられるではないか、国民の伝統的観念が撹乱されるではないか、と怒り出す。
結局のところ理論などどうでもよくて、「機関」という言葉がケシカラン、不敬である、反「国体」的であるとなってしまい、極めて短期間に社会が沸騰し、政府は天皇機関説など認めないことを明らかにせよとの国民の声が満ち溢れ、政府は二度にわたって国体明徴声明を出す事態となる。
本当に不思議だなあと思いつつ、実はつい最近も同じようなことがあったのではないか、という感じもしないでもありません。
ということで、最近の私は「機関」を「ベクレル」に置き換えると、けっこういろんなことがうまく説明できるのではないかなと思っています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7605
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