投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月 1日(日)11時01分2秒
六月後半は京都大学名誉教授・大山喬平氏のインタビュー「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)から始まったラテンアメリカ紀行になってしまいましたが、いろいろ課題はできたものの、一応このあたりで終えようと思います。
発端となった大山氏のインタビューは、その聞き手が、
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大山先生の最初のご本『日本中世農村史の研究』の刊行に協力されるなど先生の研究の身近なところに七〇年代から八〇年代初め頃までおられた久野修義さん、清水三男『日本中世の村落』を岩波文庫に収録する仕事を先生と一緒にされた馬田綾子さん、中世の身分・寺社・社会研究から近年は「ムラの戸籍簿研究会」を大山先生と一緒に進めておられる三枝暁子さんに聞き手をお願いし、近世史からも塚田孝さんにもご参加いただくこととしました。久野さん・馬田さんは、大山先生も中心になって進められた『部落史史料選集』(第一巻「古代・中世篇」、部落問題研究所、一九八八年)の編集にも参加しておられます。なお、この聴き取り会の事務局は、近代史が専門ですが西尾泰広さん(部落問題研究所)と私、竹永が務めます。
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ということで(p3以下)、専門も世代も幅広く、非常に充実していますね。
ちなみに久野修義氏は岡山大学名誉教授、馬田綾子氏は梅花女子大名誉教授、三枝暁子氏は立命館大学准教授を経て東京大学准教授、塚田孝氏は大阪市立大学教授、竹永三男氏は島根大学教授です。
大山氏が早熟な政治青年だった高校生の頃の話は既に少し紹介しましたが、大学に入るとすっかり政治嫌いになり、林屋辰三郎や赤松俊秀の下で勉強に専心したそうですね。
「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1422218c8cfcc2a3e215a63052fd5d0
大山氏が黒田俊雄から「君らは赤松先生の弟子や」と言われていたという話はちょっと面白いですね。
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久野 でも、その黒田さんが、大山先生は赤松さんのお弟子やというふうに感じるというのは、どういうふうに考えればいいのですか。
大山 僕だけではないですよ。黒田さんは「君たちは」と複数で言っていました。赤松先生の演習に出席した、村井康彦さん以下の新制の中世史のことですね。西田直二郎さんの講義とは大違いだって。西田さんの黒板はフランス語、ドイツ語、英語と横文字ばかりだったと言っていました。僕たちは赤松さんの匂いがぷんぷんすると。
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ということで(p25)、黒田俊雄氏は1926年生まれだから大山氏とは7歳違いですが、僅かな年齢差で京大史学科の雰囲気もかなり異なったようですね。
率直に言うと、当時、旧制の人は新制の人を、語学ができない莫迦ども、みたいに軽蔑していたところがあったようです。
赤松俊秀(1907-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E4%BF%8A%E7%A7%80
黒田俊雄(1926-93)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E4%BF%8A%E9%9B%84
さて、大山氏が大山荘の研究を始めたのは姓が大山だから、という伝説もあるようですが、大山氏自身は、
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久野 大山荘(丹波国)との出会いもかなり偶然という感じでしたか。
大山 そういうことです、まったく。あの当時、中世史は個別荘園研究と決まっているというような状態でしたね。村井康彦さんは伊勢国川合大国荘。史料カードに筆写した「川合大国荘関係文書」を年次順にリングで閉じて、いつも繰っていました。戸田さんが伊賀国黒田荘、熱田公さんが紀伊国荒川荘という具合でした。それで村井さんがドクターの一番上、新制のトップでした。それで村井さんのお宅に河音と二人で卒論の相談に行き、「何にしようか」と言いましたら、村井さんが僕には大山荘を薦めました。
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と言われていますね。(p26)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月29日(金)10時26分18秒
マヤからメキシコ壁画運動に移り、増田義郎氏の『メキシコ革命』(中公新書、1968)を経て同氏の『古代アステカ王国』(中公新書、1963)に遡り、更にインカに南下しているところなのですが、ここは網野さんの本拠地ですね。
網野さんといっても善彦氏ではなく御子息の徹哉氏の方ですが、徹哉氏の「講談社創業100周年記念出版 興亡の世界史」シリーズ第12巻『インカとスペイン 帝国の交錯』(2008)は次のように始まります。(p13)
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クスコ大広場〔プラザ・マヨール〕。ケチュア語でハウカイパタ。ここをインカ史探求の旅の出発点としてみよう。空から俯瞰すると、ピューマの形をしているとされるペルー南部の都市クスコだが、広場はちょうどこの動物のおなかのあたりに抱かれている。町は三四〇〇メートルもの高度に位置する。南アメリカ大陸を南北に走るアンデスの山々に囲まれているが、南東方向、ピューマの背に沿うようにして少しずつ降りていくと、そのずっと先には、聖なる谷が広がっている。なんと青い空だろうと思っていると、突然さーっと雨が落ちてきて、気がつくと大きな虹がかかっている。
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徹哉氏の文体は、父・善彦氏のようにところどころでハッタリをかましつつ、キビキビと力強く論証を進めて行くスタイルとは違って、少し甘い香りが漂いますね。
このあたりはもしかすると中沢新一氏の影響を多少受けているのかもしれません。
中沢新一氏にとっては網野善彦氏が『僕の叔父さん』ですが、「徹哉君」にとっては、従兄弟とはいっても10歳も年上の中沢新一氏(1950生)が「僕の叔父さん」ならぬ「変なおじさん」なのかもしれません。
相生山「生駒庵」の謎(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0141ae1bd6e55dc08e9e822e3f56971b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e231c5ca3b2e83a351118759975e9e42
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5db8b93cf3b3c7fab312fdfee1b35bee
『血族』の世界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/09bcdc10aadd78cf2dde13b4772e1802
>筆綾丸さん
>キラーカーンさん
また、新しい観光地の誕生ですね。
市長さんも実は狙っていたりして。
https://twitter.com/koldinni/status/1011258841605005314
https://www.theguardian.com/world/2018/jun/26/second-spanish-church-falls-prey-to-well-intentioned-restorer-st-george-ecce-homo-monkey-christ
https://www.nytimes.com/2018/06/26/world/europe/spain-estella-church-statue.html
※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。
https://www.bbc.com/news/world-europe-44619416
https://edition.cnn.com/style/article/spanish-church-restorer-st-george-intl-trnd/index.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%82%B9
たんに画に関連するだけの話で恐縮ですが、ここまで「修復」すると、もう犯罪ですね。こんな顔では、竜を退治できません。下の方の絵は、Ecce Homo から Monkey Jesus への華麗なる輪廻転生です。??
RE:輪廻転生 2018/06/28(木) 01:22:32(キラーカーンさん)
https://matome.naver.jp/odai/2137644250058123801
この一件以来、スペインはこの手の「魔修復」を
キラーコンテンツにしようとしているのではないか
と邪推したくなります。
加藤薫氏の『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』(岩波書店、2011)は八百ページを超える大著で、なかなか読み応えがありますね。
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これまで断片的紹介にとどまってきたリベラ作品を,現地調査を踏まえて詳細に分析.波乱に富む作家の軌跡とその特異な生き方をエピソードとともに紹介する.時代状況やぶつかりあう最先端の社会思想と関連させながら,ディエゴの芸術思想について考察.政治と芸術の相克を描き出し,オルターナティブ・モダニズムの先駆者の現代的・普遍的意味を浮彫りにする本邦初の本格的研究.
https://www.iwanami.co.jp/book/b265622.html
全体的に非常に真面目な論考なのですが、対象がそれほど真面目でもない部分を持った人たちなので、時々出てくる変なエピソードに惹かれてしまいます。
例えば彫刻家のイサム・ノグチは1935年夏から翌年春にかけて八か月ほどメキシコに滞在していたそうですが、その間にフリーダ・カーロの愛人になっています。(p547)
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メキシコ生活にまた別の楽しみと刺激を与えたのはある女性だった。はっきりした日時までは不明だが、ノグチがメキシコにきてからまだそれほど間のない夏の終わりか初秋のある日の午後、ロドリゲス市場の近くを歩いていたノグチに一台の車が近づき、後部座席の女性が声をかけてきた。現代風にいえば逆ナンパの状況だろう。いずれにしてもこれがノグチとディエゴの妻フリーダ・カーロの最初の出会いであった。二人はたちまち恋仲になった。一九三五年頃に写真家エドワード・ウェストンの撮影したノグチの肖像写真余白にフリーダは「私のダーリン 私の愛する人に」という書き込みを残している。二人の密会にはコヨアカンのフリーダの実家「青い壁の家」が使われたり、それでなければやはりコヨアカンのアグァヨ通りにあった妹クリスティーナの家が使われた。サン・アンヘルにあるファン・オゴルマン設計のアトリエ兼住居の三階にあるフリーダの寝室ではあまりに危険が多かったのだろう。
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そして、フリーダが、より安全な密会用のアパートを準備している時に、家具の誤配からディエゴが二人の関係に気づきます。(p548以下)
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怒り狂ったディエゴはフリーダのいるはずの「青い壁の家」に向かった。ノグチとフリーダはベッドでお楽しみ中だったが、フリーダの使用人のチューチョが機転をきかせてディエゴを引きとめる一方、迅速に二人にディエゴの到来を告げた。いつもと違う空気の流れから、フリーダが誰か他の男と密会しているのを確信したディエゴは拳銃を抜いてフリーダの寝室へと走った。
ノグチはあわてて服を着たが、飼い犬がじゃれつき、靴下の片方を持ち去った。ノグチは銃弾を避けるために、庭には出ず、中庭にあったオレンジの木を伝って屋根の上によじ登り逃げ去ったという。犬のくわえた靴下に気がついたディエゴは音のする屋根に向かって発砲した。間一髪で逃げ切ることができたのはまさに幸運としかいいようがないし、後でフリーダとディエゴの間でどのような修羅場が展開したかはあまり明らかではない。次にディエゴとノグチの二人が出会ったのはフリーダの病状悪化で入院していた病院で、ディエゴが看病しているところに野口が見舞いに現れた。ディエゴは早速銃をとりだし、次に会った時は確実に弾をぶち込むことを告げた。この後ノグチは帰国までフリーダと会うことはなかった。
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ディエゴは身長約185cm、体重は120㎏を超える巨漢で、ヒキガエルに似た怪異な容貌をし、ピストルの扱いにも慣れた人ですから、ノグチもよくもまあフリーダの愛人になったものだと思います。
イサム・ノグチ(1904-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%B0%E3%83%81
フリーダ・カーロ博物館(「エスニック見ーつけた!」サイト内)
http://search-ethnic.com/museo-fridakahlo
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月25日(月)08時24分14秒
現在の日本では、ディエゴ・リベラはメキシコ壁画運動の中心人物というよりはフリーダ・カーロの夫として有名なのかもしれないですね。
フリーダ・カーロ(1907-54)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AD
ディエゴ・リベラを始めとしてメキシコ壁画運動の関係者はアブナイ人だらけで、その多くがPCM(メキシコ共産党)に入党したり除名されたりしていますが、中でも一番ヤバイのはスターリンの命令でトロツキーを暗殺しようとしたシケイロスでしょうね。
加藤薫氏の『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』には、
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一九四〇年早々に、モスクワではついにスターリンがトロツキーの活動を封じるための暗殺指令を下す。これを受けて二つのグループがお互いの連絡なく動きだした。
一つはシケイロス・グループで、ソ連から暗殺指令を受けたPCMが後押しし、武器装備や変装用の軍服と警官衣装を用意した。一九四〇年五月二四日の午前四時ごろに、シケイロスを含む約二〇名の武装集団がビエナ通りの邸宅を襲った。いち早く不穏な気配に気づいたナターリャ夫人が寝室の片隅にトロツキーを追いやり、襲撃をしのいだ。後日談としてシケイロスもまたPCMも、脅しをかけるだけで殺意はなかったと弁明しているが、実弾を使用し、証拠隠滅のために焼夷弾で焼き尽くそうと試みたことからも本気だったことが窺える。そして秘書兼当日の警護役だったロバート・シェンドル・ハートを連れ去り、拷問の上殺害し、デシェルト・デ・レオネスに埋めたことには弁明の余地もなかったが、シケイロスは自分は関知しなかったと責任を回避した。それでも投獄されたがカルデナス大統領の友人であったことを利用して一年後には国外亡命を条件に解放された。美術作家仲間ではアントニオ・プホル、ルイス・アナレル(義兄=シケイロスの妻アンヘリーナ・アレナルの兄)、レオナルド・アレナル(ルイスの弟)などが襲撃メンバーに加わっていた。
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とあります。(p570)
シケイロス・グループの襲撃が失敗して、次に出てくるのがラモン・メルカデルですね。
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この襲撃の失敗からもう一つの暗殺グループの出番となり、ラモン・メルカデルに正式なトロツキー暗殺指令が下される。メルカデルは老いて病気の母親を人質にとられていて、暗殺を拒否できる状況ではなかった。全てが周到に準備されていて、パリ郊外ペリニー村での第四インターナショナル創立会議で通訳を務めたシルヴィアはメキシコ支部設立のために再び採用されたが、すでにシルヴィアと接触済みのメルカデルは再び近づき、深い仲となっていた。そしてトロツキーの家の警備担当者とも少しずつ馴染みになり、ナターリャ夫人に花を贈るなどして親しくなっていった。八月二〇日午後五時二〇分から三〇分の間にメルカデルは一人でトロツキーの書斎に入るチャンスを得、背後からピッケル状の金具で襲った。即死というわけではなく、死亡宣告が出されたのは翌日八月二一日の午後七時二五分だった。八月二二日の葬儀から二七日に火葬される六日間に三〇万人近くの人が別れを告げに訪れた。遺灰はビエナ通りの家(現トロツキー博物館)の中庭に埋められ、墓碑には鎌とハンマーが刻まれた。そしてナターリャ夫人も死後火葬され、同じ墓所に眠っている。
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『シェイクスピアはわれらの同時代人』のヤン・コットの自伝(『ヤン・コット 私の物語』、みすず書房、1994)には、ラモン・メルカデルがジャック・モルナールという偽名でシルヴィア・アゲロフに巧妙に近づく様子が描かれていますね。
Assassination of Trotsky
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c42fdd56f7c8a15aa054440145c788b
そもそもトロツキーをメキシコに迎え、その亡命生活を支えたのはディエゴ・リベラですが、フリーダ・カーロがトロツキーと通じるといった事情もあって、後に二人の間には亀裂が入ります。
そして、トロツキーがフリーダ・カーロの生家「青い壁の家」を出て、結果的に人生の終焉を迎える場所となったビエナ通りの家(現トロツキー博物館)に移ったころにはディエゴ・リベラとトロツキーは険悪な関係となっており、シケイロスのトロツキー暗殺未遂事件ではリベラも警察の容疑者になっていたのだそうです。(p581)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月24日(日)10時26分3秒
大山喬平氏の『日本中世のムラと神々』(岩波書店、2012)を入手してパラパラ眺めているのですが、きちんとした論文はもちろん、エッセイ・講演記録の類までどれも非常に緻密で、さすが京都大学名誉教授だなと感心してしまいます。
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「平成の大合併」によって,「村」という地名が消えようとしている.日本のムラは古代以来続いてきたので,これは歴史の大転換点である.古代の郷里制,中世の荘園制,近世の村落など制度上の仕組みとの関係に留意しながら,中世のムラを中心に,ムラの持続性とムラの生活を支えてきた「神々」について論じた画期的論集.
https://www.iwanami.co.jp/book/b265025.html
ただ、こうした専門領域での緻密さと、メキシコ旅行の回想の粗っぽさとの落差はどう考えればよいのか。
大山氏の記憶は、
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これはね、メキシコ革命の後に壁画運動というのがあって、シケイロスやオロスコやリベラなどという人がいます。たくさん見たので、どの人の壁画か忘れましたが、その中に、土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっているのですね。それで、地上にトウモロコシが稔っている。地中に横たわっているのは亡くなった人で、それが血流でつながって穀物の豊穣をもたらす。こういうモチーフの壁画が現代絵画でも描かれているのです。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3dd2c20fe5a1b96d5bbdad7b5c801c95
という具合にずいぶん曖昧なものなので、私が推定したインスルヘンテス劇場の屋外壁画と違っている可能性は残りますが、まあ、壁画は普通の絵画と異なり一点一点に巨額の費用がかかり作品数も限定されますから、まず間違いないはずです。
そもそも高校生で共産党活動に没頭していた革命青年タイプで、運動に挫折して以降は地味な荘園研究に沈潜していた大山氏のような人に美術を語る語彙がプアーなのは理解できるのですが(わはは。少し莫迦にしています)、それでも壁画運動はメキシコ革命と直接に連動していて、革命青年の心を騒がせる要素に満ち溢れていますから、大山氏が旅行中にそれほど感銘を受けたのなら、帰国後に誰の作品だったのか確認する程度のことを何故しないのか。
「専門バカ」で済ませてよい問題でもないような感じがするのですが、やはり「専門バカ」以外に説明のしようがないですかね。
>筆綾丸さん
亀井勝一郎のことは知らないのですが、本郷氏は昔から海音寺潮五郎く評価されているようで、エッセイなどで何度も言及されていますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
ご引用の文にある「これらを見る観光客の多く・・・」は、20年前の我が身にもピッタリ当てはまります。観光社会学の世界的トップランナーは、世界遺産の伝道師ユネスコでしょうか。
今日の日経から、本郷和人氏の連載「日本史ひと模様」が始まりました。
初回は「亀井勝一郎・海音寺潮五郎」で、分野が違うなあと変な感じがしたのですが、これは、実証、実証と馬鹿の一つ覚えみたいに唱えている同業者を揶揄したものと読むべきなんでしょうね。いわゆる「実証」が三度のメシより好きな歴史学者に対して、僕はもう卒業したよ、と言いたいのかもしれません。
http://www.jca.apc.org/gendai/contents/syohyo/978-4-7738-1002-8.html
Mario Vargas Llosa は、大江健三郎が昔からよく言及しています。スペイン語Llosaの発音は「ジョサ」のような気がするのですが。
『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』第六部「第6章 インスルヘンテス劇場の屋外壁画─一九五三年」の構成は、
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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート
2 カンティスフラスの身体性
3 演劇の象徴
4 カンティスフラスの役割
5 屋外壁画用の新しい素材
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となっていますが、まずは概要ということで、「1」を引用してみます。(p671以下)
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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート
一九五三年二月末に建築家フリオとアレハンドロのプリエト兄弟がディエゴのもとにやってきて、新しく建設する予定のインスルヘンテス大通りに面した映画劇場の壁画を注文した。この場所は音楽の編曲家で政治家としても有能だったホセ・マリア・ダビラと、美貌と話術に長けた社交家として有名だったその妻ケタの所有物だった。夫の死後、ケタ夫人が夫の功績を残すために劇場建設を計画し、彼女の願いでディエゴに壁画を注文することになったものだ。
インスルヘンテス劇場は映画上映をメインに、演劇やミュージカル公演など多様な娯楽を提供する施設である。【中略】
ディエゴはここに<メキシコの大衆文化の歴史>をガラスモザイク技法で描いた。完成は一九五三年である。カトリンは、大壁画というとこれまでシリアスな政治性の強い主題を扱ってきたディエゴが、当時の西欧現代美術の新しい潮流として後に広く認識されるに至った「ポップ・アート」の手法に手を染め、大飛躍を遂げた記念すべき作品だと評価している。ディエゴはこれまでにも大衆文化との接点として、コリドの歌詞を画面に取り込んだり、グロテスクなほどに戯画化した政治家や歴史上の人物を表現し、記号化してきたし、また大衆の抑圧された精神が解放される野性的な祝祭場面などを描いてきた。具象的な表象はしばしば大衆の愛するマンガに似たものですらあった。現代の眼から見ると、ディエゴがメキシコ大衆の想像力や道化役、変身キャラクターなどへの愛を理解し、その心性を反映した作品はそのまま、大量生産・大量消費の画一化された商品記号に侵されてゆく現代社会のグローバリゼーションに対抗するエスニックな文化要素を強調しているように見える。その意味での限定的なものではあるがポップ・アート的表現という評価も受け入れられる。
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そして大山喬平氏が着目したであろう部分に関連して、「3 演劇の象徴」に若干の説明があるので、これを引用します。(p677以下)
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伝統の二元論の表象─まだ終わらない革命
観客からみて画面右端では上から、トラティルコ遺跡から出土した女性土偶を模した音楽に合わせて踊る芸人たちの姿がある。その足元ではアステカ時代のものと記述される二元論的宇宙観に基づいた二つの相反する要素の悠久の闘い(画面の演者の衣装は「生」と「死」の表象となっている)のドラマを演じている(図6-68)。その左側ではメキシコ革命時期の様々な事件をギターの弾き語りで、家庭にしかいられなかった女性に伝えている場面が描かれている。どちらの場面にも歌詞や科白はテカティワカン式の音声記号で書き込まれている(図6-69)。その下段では先-スペイン時代の衣装や仮面をつけたダンサーが太鼓などのリズム楽器に合わせて踊り、ジャガーがおそれおののいている場面となっている。このセクションで一番大きく描かれているのがメキシコ革命の指導者でディエゴも支持したエミリアーノ・サパタの姿で、土地の恵みの大切さを示している(図6-70)。右手で高く掲げるたいまつの火は、まだ革命が終わっていないことをしめし、その炎に鼓舞されて未だ闘う農民たちの姿も描かれている。
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さて、ここで改めて当該部分を見ると、大山喬平氏は「土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっている」と言われていますが、銃を手放して横たわっている農民兵は別に「地中」に埋葬されたのではなく、単に地表に仰向けで倒れているだけのように見えます。
また、その左手は出血している訳でもなく、指の先はエミリアーノ・サパタが左手に持っているトウモロコシから伸びた何かと接してはいますが、これは倒れた農民兵の「血管」ではなくトウモロコシの「ひげ」ではないですかね。
背後に六本のトウモロコシが見え、その中ほどに実がなっていますが、その実の「ひげ」と同じオレンジ色ですね。
http://1.bp.blogspot.com/-6sC_vauEgfc/U0gyd1o1THI/AAAAAAAAGu4/ejW4gb2H8f0/s1600/El+teatro+en+Me%CC%81xico+(4).jpg
http://notasomargonzalez.blogspot.com/2016/03/
うーむ。
どうも大山氏はこの壁画を見た時点で既にトウモロコシの「ひげ」を死んだ農民兵の「血管」と誤解していて、その誤解を四十数年以上大切に胸に秘めてこられたのではないかと思われます。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月23日(土)08時23分30秒
大山喬平氏が、
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これはね、メキシコ革命の後に壁画運動というのがあって、シケイロスやオロスコやリベラなどという人がいます。たくさん見たので、どの人の壁画か忘れましたが、その中に、土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっているのですね。それで、地上にトウモロコシが稔っている。地中に横たわっているのは亡くなった人で、それが血流でつながって穀物の豊穣をもたらす。こういうモチーフの壁画が現代絵画でも描かれているのです。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3dd2c20fe5a1b96d5bbdad7b5c801c95
と言われている壁画は何かなと思ってグーグルの画像検索で探してみたところ、最初にリンク先のブログでディエゴ・リベラの El teatro en México (1953)らしいと見当をつけ、
http://notasomargonzalez.blogspot.com/2016/03/
更にこの作品名で検索してみたところ、この巨大な壁画の右上部分で間違いないようですね。
https://mxcity.mx/2017/11/el-mural-de-diego-rivera-que-adorna-el-teatro-insurgentes/
1953年ですからメキシコ壁画運動の最盛期からは遥かに遅れたディエゴ・リベラ(1886-1957)の最晩年の作品ですね。
加藤薫氏の『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』(岩波書店、2011)に「第六部 晩年のメキシコ生活 一九四一年~一九五七年」の「第6章 インスルヘンテス劇場の屋外壁画─一九五三年」として、かなり詳しい説明があります。
それによると、右上部分で一番大きく描かれている人物はメキシコ革命の指導者のエミリアーノ・サパタで、その下に横たわっているのが大山喬平氏が注目した人物ですが、これは別に特定のモデルがいる訳でもなさそうです。
というか、よくもまあ、巨大な壁画のこんなマイナーな部分に目をつけたなと感心してしまいます。
エミリアーノ・サパタ(1879-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%91%E3%82%BF
小太郎さん
ご紹介の青山和夫氏『マヤ文明』を眺めていますが、マヤ関連の書を読んでいた20年前の記憶が、だんだん蘇ってきました。
http://www.shinchosha.co.jp/book/133301/
高田宏『言葉の海へ』を読み始めたところですが、これは良い本ですね。
『言海』が、後京極(九条良経)の歌に由来することを、はじめて知りました。
敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり
『「世界遺産を旅する」11 メキシコ・中米・カリブ海』(近畿日本ツーリスト出版部、1999)は一応は長谷川悦夫氏という考古学研究者が「監修者」となっていますが、その内容が長谷川氏の学問的見解をそのまま反映したものかというと、そこは微妙な問題があるのでしょうね。
発行者の近畿日本ツーリストとしては、読者の好奇心を掻き立て、旅行に行ってもらうことが目的であって、監修者に余り煩く口出しされるのは迷惑かもしれません。
個別の事情は分かりませんが、世界遺産関係の旅行ガイドの類を見ると、「監修者」がNHK大河ドラマの歴史考証担当者くらいの存在である例も多そうです。
ま、それはともかく、杓谷茂樹氏(中部大学国際関係学部教授)の「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』所収)を少し紹介したいと思います。
同書の「執筆者紹介」では杓谷茂樹氏の専攻は「観光人類学、ラテンアメリカ地域研究」となっていますが、もともとは考古学出身で、中部大学サイト内の記事によれば、専攻を変えたのはチチェン・イッツァ訪問がきっかけだそうですね。
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当時ゴリゴリの考古学者だった私は、ある日、チチェン・イツァという世界遺産になっている遺跡公園に行きました。そこはすべてが観光用に美しく整えられていて、日頃私が発掘作業などで接してきた遺跡とは全く異質な場所に感じたのです。その時、考古学者として私はそこが「つまらない」と感じたのです。しかし、その後ふと「あのつまらなさは何だったのだろう」と自分に問いかけました。そして、この問いを発端に、目の前で現在を生きる遺跡公園を相手にすることにしたのです。
https://www3.chubu.ac.jp/international/news/198/
ということで、以下、「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」の引用です。
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メソアメリカ地域を構成するメキシコおよび中米諸国にとり観光は製造業と並んで国家を支える重要な産業であり、それぞれの国が時に連携しながら観光産業を盛り上げようと努力し、開発が行なわれている。【中略】
この魅力的な資源である古代遺跡を観光利用する形の開発が目的とするべきは、単に観光客が落としてゆく金で地域経済が潤うというだけのことではない。【中略】
しかし、地域振興を観光に頼ろうとすればするほど、経済的な側面が強化されていってしまうことは想像に難くない。この地域でも古代遺跡は、まず観光客を集めて満足させ、お金を落としていってもらうことを第一に、様々な魅力的な意味づけがなされて、「遺跡公園」として地域における観光のメニューに並んでいる。【中略】
この遺跡への意味づけは比較的自由に行われるものだ。【中略】一方で、この意味づけを科学的な手続きを踏んで「正しく」やろうとするのが考古学である。だから「一般的には」私たちは考古学者による説明を正しいこととして考える。しかし、それでも遺跡公園においては、考古学者が解明し、説明してきたものとは若干異なる語りが、観光という現実の中で日々生み出されているのはおもしろい。
メキシコのユカタン州にチチェン・イツァというマヤ遺跡公園がある。現在までに積み上げられてきた国際的な知名度とそのイメージから、この遺跡は「マヤ文明」に関する一般の興味や関心の中で、常にその中心的な存在であり続けてきた。現在の遺跡公園の形は20世紀前半にアメリカのカーネギー研究所によって行われた調査・修復によってほぼ決まったと言っていい。そして、1988年にはユネスコの世界遺産に登録されている。【中略】
チチェン・イツァという遺跡は非常に広大な都市遺跡であるが、遺跡公園として観光客に公開されているのはごく限られた中心部のみにすぎない。【中略】この他にも、神からの神託を得るために若い女性や子どもが生きたまま投げ込まれたといわれるセノーテ・サグラード、生贄から取り出した心臓を置いたチャクモールという石像、あるいは建築様式の類似性から中央高原で語り継がれた伝承と結びつけて語られる戦士の神殿もある。さらにメソアメリカ最大の規模を誇る大球戯場のレリーフ彫刻に描かれている球戯の場面は、勝った方のチームのキャプテンが首をはねられるという西欧的な考え方からは奇異に感じうるガイドの説明が興味をそそる。見所が多いのだ。しかし一方で、観光客がわざわざ足を運ばなかったり、素通りしてしまったりする建造物も少なくない。
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途中ですが、いったんここで切ります。
「神からの神託を得るために若い女性や子どもが生きたまま投げ込まれたといわれるセノーテ・サグラード」とありますが、青山和夫氏によれば、これも「俗説」のようですね。
その点も後で紹介します。
『メソアメリカを知るための58章』(井上幸孝編、明石書店、2014)には杓谷茂樹氏(中部大学国際関係学部教授)の「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」という興味深い記事が載っているのですが、これを紹介する前提として、観光ガイドブックの類でチチェン・イッツァがどのように描かれているかを見ておきます。
素材は何でもよいのですが、私がときどき利用している図書館に『「世界遺産を旅する」11 メキシコ・中米・カリブ海』(近畿日本ツーリスト出版部、1999)という本があったので、これを引用します。
この本は長谷川悦夫氏(当時、東京大学大学院博士課程在学、日本学術振興会特別研究員)が監修者となっています。
長谷川悦夫(1967生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%82%A6%E5%A4%AB
チチェン・イッツァ関係の記事は42~47pまでで、カラー図版がふんだんに用いられていますが、見出しには、
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古代都市チチェン・イツァー
マヤ後古典期ユカタン半島に栄えたトルテカ色濃い祭祀の都
暦の神殿に目を見はり生けにえの神事に驚愕する
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とあって、本文も生贄を強調する記述が目立ちます。
総論的な部分はウィキペディアなどと重複するので省略するとして、大山喬平氏も触れているチャク・モールについては、
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戦士の神殿の急な階段を登りきったところには、一対の、頭を下にして尾を天空に跳ね上げた羽毛のある蛇クルルカンの姿を象った石柱が立ち、その下には膝を折り曲げて仰向けに腰をおろした、チャク・モールが置かれているが、これと瓜ふたつの石像が、中央高原に栄えたトルテカの王都トゥーラにもある。チャク・モールが腹部に支え持つ鉢は、生けにえとして捧げる人間の心臓を入れるための器だったといわれる。トルテカの戦士は、自らの都市を守るためだけでなく、神に捧げる生けにえを捕えるためにも戦をした。捕虜は、生きたまま胸を石の刃で切り裂かれ、心臓をえぐり取られ、その心臓が神に捧げられた。生きた人間の心臓は、夜の旅で疲れた太陽に東の空から再び昇り輝く活力を与えると考えられていたらしい。現代にも通用する戦士の神殿の美しさからは想像もできない、残忍な生けにえの儀式が神事として行なわれていたのだ。
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とあります。
チャクモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB
また、セノーテ(泉)については、
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マヤには珍しいドーム型建物と衝撃的な「生けにえの泉」
【中略】またこの都市遺跡には、地下水の涌く泉・セノーテが2つある。南部のセノーテ(セノーテ・シュトロック)は生活用水用だが、北の外れにあるセノーテは、衝撃的な生けにえの伝承をともなう泉である。水深約20m、直径60mで、周囲を石灰石壁で囲まれた、泉というよりは池という感じのこのセノーテは、雨の神チャクの棲み家と信じられ、聖なるセノーテ Cenote Sagrado、と呼ばれていた。チチェン・イツァーの支配者は、神への生けにえとして、あるいは神の託宣を聞かせるために、男性、女性や子供までも生きたままこの池に投げ込んだ。地方の首長たちも、何人もの処女を連れてこの地を訪れ、聖なるセノーテに彼女たちを投げ込んだといわれている。奇跡的に生き残った女性は、引き上げられて、神の託宣の伝達を求められた。エドワード・H・トンプソンの浚渫・潜水調査により、この池の底から黄金製打ち出し細工の円板、翡翠の耳輪・首飾り、銅の鈴、祈りを神の元まで煙りに包んで運ぶという聖なる樹脂の香ポムなどと共に、多数の男女、子供の骨が見つかり伝承は裏づけられた。
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とあります。
更に「神に心臓を捧げる儀式」と「死の球戯」という二つの囲み記事があって、前者には、
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人間の心臓を捧げる儀式では、まず生けにえの体と石の祭壇が青く塗られる。頭に円錐形の帽子を被せられた生けにえは、祭壇の上に仰向けに寝かされて手足を押さえられる。執行人が石のナイフでその生けにえの脇腹を切り裂き、心臓を掴みだして鉢にのせる。神官はその心臓の血を神像の顔に塗りつける。高い基壇の上でこの心臓の取り出しが行なわれたときには、遺体は階段下に転がし落とされる。そしてその遺体から剥ぎとられた生皮を神官が裸身に纏って人々と踊ることで、儀式は最高潮に達したという。チチェン・イツァーのジャガーの神殿の壁には、その様子が描かれている。
一見残忍そのもののような儀式ではあるが、一木一草も神への償いなしには採れない、採れば災いを招くという神への強い畏怖の念や部族の因習が、宗教と政治が未分化の社会のなかでこうした儀式に発展したものと思われる。
チチェン・イツァーで行われていた、生きた人間の心臓を取りだして神に捧げるという神事は、マヤ、トルテカ、アステカなどメソアメリカ文化圏に興った諸文明で広く行なわれた。現代のマヤの人々も神に生けにえを捧げる習慣を保っているが、対象はニワトリなどの小動物に限られている。
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とあります。
もう一つの囲み記事「死の球戯」には、
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負けたチームの長は、首を切られ生けにえにされたといわれるが、奇妙なことに勝ったチームの長だという見方もある。この見方によれば、勝者が生けにえにされることを甘受したのは、勝って生けにえになる者は必ず神の許に行けると信じられていたからだという。
壁面石板には、競技者が首を切られ、切り口からほとばしり出る血が6匹の蛇(カン)の形で表され、豊饒を表すように中央から1本の植物が伸びて枝を広げ、実をつけている浮彫りがある。蛇(カン)には、神聖な印であることから、今では、生けにえになっている浮彫りの人物は、勝者であるという説が支持されている。死と再生の信仰のようなものがうかがえる話である。
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とあって、勝者説が正しいとされています。
全体的に生け贄を執拗に強調した、血みどろの世界になっていますね。
小太郎さん
たしか、二十年ほど前になりますが、フロリダ半島から空路でユカタン半島に入り、チチェン・イッツァのククルカン神殿の階段を登ったことがあります。写真で見ると、さほどでもないのですが、かなり急傾斜の階段で、転落して死亡した観光客がいたはずです。
球戯場も見ましたが、私の時も、勝者のキャプテンの首を刎ねる、と英語のツアーガイドが説明し、違和感を覚えたことを思い出しました。ご引用の青山氏の記述を読んで、得心しました。
細かいことながら、ウィキの球戯の説明にある「現在もくびきを意味するユーゴ(スペイン語: yugo)と呼ばれることがある」ですが、スペイン語ならば、yugoの発音は「ユーゴ」ではなく「ジューゴ」ですね。
「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『問題研究』218号、2016)の中で、メキシコ体験の部分はちょっと問題がありますね。(p32以下)
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(2)メキシコ体験─穢れ観念の多様な在りようの確認
大山 七六年の夏、「中世の身分制と国家」を書き終えた直後にメキシコに行きました。
久野 そうでしたか。メキシコに行かれたのはその直後でしたか。
大山 執筆直後でまだ活字になっていないときでした。でもあの論文は、言葉は非常に注意して書いています。でも、やはり自分で分かること、書くべきことは、まあ一応書いたというつもりになって、メキシコへ発ったわけです。僕は穢れの問題、何と言うか穢れに対する感覚・感性というものは、自分が生まれ育った文化によって規定されている。つまり自分の感性を疑ってかかれっていうことは、一つのメッセージのつもりだったのです。
日本人学者はメキシコに沢山行っていましたが、私たちは吉田晶さんと朝尾直弘さんと三人で行きました。今日は、チチェン・イッツァのサッカー場の写真を持ってきましたが(大山氏の写真と吉田晶氏の写真を提示)、ここにサッカー場、球技場があるのです。ここにボールを蹴り込んで勝負をするということでした。この辺がサッカー場で、この裏側にこちらのレリーフがありました。このレリーフにぼくはある意味で衝撃を受けると同時に、「ああ俺は『岩波講座』に書いたのは間違ってなかった」と思いましたよ。これね、選手がいて、ひざまずいているのですが、ここの前の所に首から先が飛んで転がっています。その首からは血が六本にわたって吹き出ていて、その中の一本、上から三本目のが、ずーっと伸びて植物文様になっています。多分これはこの先にたわわなトウモロコシだと思いますが、豊作を暗示したレリーフですね。これがサッカー場を取り囲む壁面に描いてありました。その時に案内人が英語で言っているのを、僕はあまり正確に聞き取れないけれど、これはサッカーで勝負に勝った方のキャプテンが首を切られる、つまりサッカーの試合に勝った方のキャプテンが生贄になるということでした。後でほかのものを読むと、首を切られるのは負けた方だと書いているものもあります。でも、僕はそのときは勝った方だと聞きました。確かに、勝った方のキャプテンでないと話は辻褄が合いません。そういうのは、一番元気で活力のある人間の血でないと、負けた者では力がないからあまり役に立たないということでしょう。だから豊饒の源ですね。これにまず、一番ショックを受けました。とにかくメキシコ体験というのは、カルチャーショックでしたよ。小学校のときに京都に来て「田舎者や」と言われて以来のショック。見るもの聞くもの、まったく違ったものでしたね。
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聞き手の方々は大山氏からチチェン・イッツァの写真の提示を受けているからマヤ文明の話だと分かるでしょうが、大山氏は終始「サッカー場」という表現を用いており、このすぐ後にもメキシコ革命後の壁画運動の話が出てくるので、混乱してしまう読者も多いでしょうね。
チチェン・イッツァで行われていた球技は現代のサッカーとは全然違うものです。
チチェン・イッツァ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A1
メソアメリカの球戯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%90%83%E6%88%AF
そして、大山氏が衝撃を受けたレリーフというのは、おそらくこれのことだと思います。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20121210/333459/?P=3
大山氏は「これはサッカーで勝負に勝った方のキャプテンが首を切られる、つまりサッカーの試合に勝った方のキャプテンが生贄になるということ」で、「勝った方のキャプテンでないと話は辻褄が合いません」と言われるのですが、およそ学問的とは言い難い見解ですね。
マヤ文明研究の第一人者である青山和夫氏(茨城大学教授)の『マヤ文明を知る事典』(東京堂出版、2015)には、
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球技場は、国家儀礼や政治活動と密接に関連した重要な施設であった。【中略】
球技者は貴族であり、王が自ら球技に参加することもあった。多彩色土器の図像によれば、球技の前にラッパが鳴らされ、球技が終わると球技具が王宮の部屋に運ばれた。硬く重いゴム球は、中に空気が入っておらず、当たり所が悪いと骨折してしまう。球技者は、手、肘、膝、腰などに球技具や防具を身に着けて、命がけで球技を競った。「勝ったチームのキャプテンが、自らの命を神々に捧げるべく喜んで生け贄になった」という俗信が、テレビ番組などで放映されることがあるが間違いである。重要な祭礼では、負けチームかそのキャプテン、あるいは重要な戦争捕虜が人身供犠にされることが稀にあった。
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とあります(p173)。
青山和夫
https://info.ibaraki.ac.jp/Profiles/5/0000403/profile.html
https://www.jsps.go.jp/jsps-prize/ichiran_4rd/01_aoyama.html
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月17日(日)10時54分30秒
ちょっと間が空いてしまいましたが、ツイッターで京都大学名誉教授・大山喬平氏のインタビュー「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)が面白いと言っている人を見かけたので、私もこれを読んでから大山氏の過去の著書・論文をいくつか眺めていました。
大山喬平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%96%AC%E5%B9%B3
大山氏は政治的な面で非常に早熟な人で、インタビューでは、
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塚田 中学・高校の頃に、歴史をやるんだという感覚は全然なかったのですか。
大山 まずはありませんでした。
塚田 むしろ社会科学とか革命とか、そういう感じでしたか。
大山 そうそう、途中からだけど、革命をやろうと思うようになっていました(笑)。
久野 その頃から毛沢東やスターリンを一所懸命読んだのですか。
大山 読んだ、読みましたよ。
塚田 マルクスはどうでしたか。マルクスを読むより、毛沢東やスターリンでしたか。
大山 そうですね。いやレーニンも。『レーニン二巻選集』(社会書房、一九五一年刊行開始)が一番早く出て、それが流行っていた感じでした。
久野 それは、先進的な高校生にですか。
大山 要するに、一九五〇年六月、朝鮮戦争の勃発が一挙に危機感を募らせましたね。その時、高校二年生で、洛北高校にいました。もう一度戦争に巻き込まれるのかと。その前年の末ごろから、少しずつ変わり始めていたかな。高一は鴨沂高校にいましたが、従来の共産青年同盟にかわって、民青ができたのはちょうどその頃の筈です。同級生のなかに早熟な秀才がいて、その人物に相当な影響を受けました。何人もいますが、その人たちのことを思うと今でも複雑です。
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とありますが(p12)、この「早熟な秀才」のうちの一人は山崎正和でしょうね。
貝塚啓明「高校時代の山崎氏のこと」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/870bf830dc3af322dda5bc681514da65
『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の聞き手について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13662e8ef0176473f8b171a050d97cbc
大山氏は共産党の活動で忙しかったらしい高校生活を終え、京大経済学部の受験に失敗して浪人した後、志望を文学部に変更し、
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五三年の春にようやく拾ってもらって京都大学に入りましたが、受験勉強の間に政治活動への興味はすっかり失せていました。学生はたいてい地方から出てきて、初めての学生運動で調子良くやりますね。宇治の最後の頃でしたが、ついていけなくて、何人かで運動をやめました。その続きで、次の一年間は、あてもなく仲間で京都の町をうろうろと彷徨していました。
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とのことで(p15)、大学に入ったら「運動」をやめてしまったというパターンも山崎正和と一緒です。
大山氏の語り口には乾いたユーモアが漂っていて、漫談風に流れるところもありますが、身分制の研究を始めるきっかけとなったという1969年の大阪市立大学での「糾弾会」あたりは、さすがに口が重いですね。
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竹永 大阪市立大学の経験というのは、関西の中世史研究者の間で共有されていたのですか。
大山 いや、そういうことはありません。解放会館での経験は、別に人に言ってどうということではないから、直接的な議論をしたことはありません。
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ということで(p30)、同時代の人とすら語らなかったのだから、今更若い人に伝えたいと思うような経験ではなかったのでしょうね。
1933年生まれの大山氏が身分制の研究をしようと思ったのは36歳のときで、意外に遅いといえば遅いですね。
有名な岩波講座『日本歴史』の「中世の身分制と国家」は1976年ですが、この論文を読んだ脇田晴子氏から「あんた、勇気あるな」と誉められ、本人も「この論文を出すときは、大げさに言うと、ひょっとしたら、俺も糾弾されるかもなと、そう思いましたよ。もうしようがないなと思って書いたことは事実です」云々と回想している事情は、現時点で当該論文を読んでも全然分かりません。
ま、当時は解放同盟と共産党の政治的対立が厳しく、「落合重信さんも、被差別民について中世に遡らせて歴史的に論じること自体が問題にされたと仰っていました」(竹永氏、p31)という状況があった訳ですね。
この後のメキシコ体験やインド体験の話も面白いのですが、いずれも非常に短い旅行体験であり、長期的に滞在していれば若干見方が違っていたのでは、という漠然とした印象を受けました。
>筆綾丸さん
>『江戸吉原の経営学』の著者
経歴だけ見ると、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』に出てくる明智某氏にちょっと似ていますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://kasamashoin.jp/2018/02/post_4102.html
あまり関係がなくて恐縮ですが、本日の日経読書欄に紹介されてました。
『江戸吉原の経営学』の著者(日比谷孟俊)は、妙な経歴の持ち主ですね。老後のライフワークでしょうか。