私は参考文献に出ている川端新氏の『荘園制成立史の研究』(2000年)と高橋一樹氏の『中世荘園制と鎌倉幕府』(2004年)までは一応見ているのですが、荘園制についての研究の進展と、高橋昌明氏らによる武士論研究の成果がどのように結びつくのかが分からなくて、11~12世紀は難しいなあと感じていたことがあります。
用語についてはご指摘のように少し変だなと思うところがありますが、筆綾丸さんにも若干の誤解があるようで、例えば「私君」はそれなりに多くの研究者が用いていると思いますし、「京上」は荘園制に関する論文では当たり前に用いられている用語ですね。
近藤成一氏が「頼朝が知らなかった『政子』という名前」というエッセイを雑誌(アエラ?)に書かれていましたが、諱(いみな)は特殊な場合以外には使われないものだから、あまり読み方に拘っても仕方ないように思います。
84頁の「影響力のある学者」ですが、前頁には「ちなみに近年、後三年合戦で恩賞がなかった原因を、白河の弟輔仁親王との婚姻が原因で白河院から睨まれたためだとする説が提起された」とありますので、1996年に亡くなられた安田元久氏ではないでしょうね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
河内源氏について 2011/10/11(火) 19:49:27
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/09/102127.html元木泰雄氏『河内源氏』を読みました。元木氏の言葉使いで、違和感を覚えたことについて、以下、いくつか書いてみます。言葉を大事にすることは、学問の初歩だと思いますが、元木氏の場合、他の著書同様、甚だ僭越ながら、日本語の表記におかしいところが多々あります。本来なら、元木氏周辺の誰かがソッと注意してあげるべきですが、不利益なことはしないという政治的判断からか、たいへん賢明なことに、何も言わないのでしょうね。
「あとがき」にある中央公論社編集部の高橋真理子氏は、もしプロの編集者を目指すのなら、「武威」や「学威」など恐れず、是々非々で行かなければなりません。大学の研究紀要などと違い、身銭を切って本を買っている者がいることを、くれぐれも忘れないでほしいですね。
①「享年は八十一歳」(40頁)、「八十八歳という享年」(41頁)、「享年は八十八歳」(63頁)、「享年六十八歳」(103頁)、「享年三十八歳」(198頁)
漢数字の後の「歳」は不要で、これはたとえば、年を享くること八十八、というふうに読むのだから、明らかに間違いですね。日本中世の(和製)漢文を相当読んでいるはずなのに、こんな初歩的な間違いをするとは、ちょっと信じ難いものがありますね。最近の学生は、どころではなく、最近の教師は、と学生に慨嘆されてしまいますね。
②「私君」(32頁)と「(官物の)京上」(82頁)
中世の文献には頻出するのかもしれませんが、はじめて見る「漢語」です。前者は吾が君の意で、後者は京都に官物を納める意のようです。
③「義家は娘を輔仁親王の室とし、僧行快をもうけている」(76頁)
(八幡太郎)義家程度の娘が親王の「室」になりうるものでしょうか。中世と現代では、「妾」の意味は違いますが、「妾」くらいがいいところではないか。
④「この「義親」は首実検の結果、偽者とされ、挙句の果てに殺害されてしまう」(118頁)
首実検と言えば、普通、斬首されたものの実検を意味するので、首実検の後で殺害されることなど、ありえない。ここでは、「面通し(面割り)」というような表現でなければいけない。「(処刑された)為義については、実否確認のため検非違使源季実が後白河の命で実検に派遣されている」(162頁)とあり、これは本来の「首実検」のようです。
⑤「常昌の子孫が上総介・千葉両氏となって」(36頁)、「上総介氏」(137頁)、「上総介氏」(145頁)
少弐氏や大掾氏や内記氏などとは違い、上総氏と記憶していましたが、「上総介氏」というのですか。直接の関係はないものの、坂額御前で有名な一族は、城介氏ではなく城氏ですね。なぜ「上総介氏」というのか、なにか説明があればありがたい。
⑥「為義の幼い子供たちが数を尽くして殺害された保元の乱」(199頁)
数を尽くして殺害する、という表現は、出典があるのでしょうが、なにか変な感じがしませんか。
⑦「嫡男は有綱の娘に決定権が存した」(105頁)
嫡男の決定権は有綱の娘に存した、の単純な誤記ですね。
⑧「北条政子(まさこ)」(199頁)、「平滋子(しげこ)」(204頁)、「徳子(とくこ)」(204頁)
以上は、訓読みのフリガナがつけてあるのですが、他の女性名の大半は音読みのフリガナになっています。女性の名の読み方が、なぜ違うのか、何の説明もないので、基準がわからない。朝子、寛子、賢子、幸子、多子、定子、呈子、倫子、麗子・・・などは音読みで、薬子の変で名高い悪女は、なぜか、くすこ、となっています。藤原安子は、フリガナがないので、あんし、なのか、やすこ、なのか、不明。男の名は、几帳面に訓読みで統一されているから、女の名など、要するに、ただの記号であって、どうでもいいのかもしれない。nominalisme といえば、すこし意味がずれますが、これはこれで大事なことではないかな。
⑨「天皇と父院・母后・外戚・皇親といった天皇のミウチたちによる共同政治」(9頁)
この表現からすると、「ミウチ」は集合概念で、父院以下はこの集合の元(要素)らしいので、カタカナ表記には特殊な意味が込められているようにみえます。ところが、同じ頁に、「彼女のイトコは高明の室、叔母は高明の母という関係」(9頁)とあり、カタカナ表記の「イトコ」も集合概念かな、と思ったものの、ただ単に従姉妹の意味のようです。「意地悪な兄は死去に際して関白を従兄弟の頼忠に譲渡した」(12頁)では、従兄弟に「いとこ」とフリガナがついている。伯(叔)父や伯(叔)母は、なぜオジやオバではないのか。
「(相模は)頼清とは義理のイトコ」(43頁)、「宗通は義親の母のイトコ」(98頁)、「美福門院とイトコで鳥羽院最大の近臣藤原家成」(142頁)、「美福門院のイトコで鳥羽院第一の近臣藤原家成」(143頁)などの例をみると、イトコと従兄弟と従姉妹にさほどの相違があるわけではないようなので、表記は統一してほしい。なお、「鳥羽院最大の」は、おかしいですね。
⑩「武的」と「武士的」という表記が数箇所あって、意味が違うのかと思いましたが、厳密に峻別しているわけではなく、なんとなく使っているようですね。
⑪学説を紹介するとき、石母田正、大石直正、角田文衛、野口実、保立道久の各氏は氏名が明記されていますが、以下の二氏は名無しの批判で、公平性に欠けるように思われます。
甲「このような形であげつらうのは天に唾する行為であるが、影響力のある学者の説だけに、実証を軽視した姿勢は厳しく批判されるべいである」(84頁)
乙「・・・とする信じがたい暴論が有名な学者から提起され、仰天させられた。・・・こんなリポートを学生が提出すれば躊躇なく不可にする。・・・天皇制こそが諸悪の根源という結論が先にある見解らしいが、そうであれば学問をねじ曲げ政治に従属させようとする暴挙である。絶対に許されるものではない」(185頁)
巻末の参考文献から推測すると、甲は安田元久氏、乙は河内祥輔氏らしい。河内祥輔氏への批判はほとんど常軌を逸していて、何か遺恨があって江戸の仇を京都で討っているのか、と疑われます。新書版に書くようなことではない。・・・しかし、学生のレポート以下の学説とは、ずいぶん思い切った罵倒ですね。
⑫「国家権力と摂関家の私的兵力の衝突が、保元の乱の実態であった」(151頁)
後白河天皇側が「国家権力」で、崇徳院側が「私的兵力」としていますが、こういう表現は、全く理解できない。保元の乱の時の政治形態が、親政なのか院政なのか、よくわからぬような状況下で、また、摂関家と源平等の「軍事貴族」が入り乱れている中で、「国家権力」と「私的兵力」が明確に分けられる訳があるまい。「摂関家の警察力」(128頁)とありますが、「警察力」は「国家権力」の一部のような気がするのですが。つまり、論理が破綻している。
⑬56頁前後で、『陸奥話記』の内、頼義が大軍を動員したという記述はおかしいとしていますが、頼義が惨敗して最後はわずか数騎になった記述については、何の疑義も呈していない。実証主義を言うなら、両方疑わなければ、公平性に欠けるでしょうね。
⑭「保元の乱で荘園支配の暴力装置である為義以下河内源氏を失った」(173頁)、「院近臣たちは任国支配に用いる暴力装置を確保するため」(179頁)
「暴力装置」とは嫌な表現ですが、武士が「暴力装置」ならば、次のような記述と矛盾する。「天皇の政務の空間である京(とくに左京)は、血や死、暴力といったケガレを排除した清浄な地域でなければならないのである。その点で、ケガレを防ぐ存在である武士相互が合戦を企てたことは、貴族たちを恐慌に陥れた」(85頁~)
論理上、「暴力装置」が京に居ること自体、矛盾しますね。「暴力装置」などという奇怪な表現は使わない方がいいのでしょうね。
⑮「為義の武士団の武士的発展」(129頁)
「武士的」は不要ですね。
⑯「(平治の乱で)再浮上しつつあった河内源氏嫡流は壊滅したのである」(200頁)
「義朝の嫡男は三男頼朝」(189頁)は、乱後も生きているから、「壊滅」などしていない。「壊滅に近い状態になった」とかなんとか書かなければならない。
⑰「平安時代初め、平城上皇が政治に介入して薬子の変が勃発して以来、院は政治に介入しないという原則が生まれていた。師通はこの原則を貫いたのである」(92頁)、「死通の死去が、白河院政確立の大きな一歩となったのである」(94頁)
院政という政治形態が、なぜ、あの時期に生まれたのか、昔からの疑問ですが、あまりに単純な説明に拍子抜けしました。薬子の変(810年)以来、約三百年、朝廷を支配していたであろう原則にしては、ずいぶんあっさり崩れてしまうものなんですね。
⑱「康治二年、義朝は上総介常澄と結んで千葉常重から「圧状之文」を奪っている」(138頁)
このあたりの事情がわからなかったのですが、こういうことですね。
「・・・押書相馬立花両郷之新券恣責取署判、妄企牢籠之刻、源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文、恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文之上・・・」
義朝は常重に強いて譲り状を書かせ奪取したものの、神威を恐れ・・・。「圧状」には「あつじょう」とフリガナがつけてありますが、これは、往生に通じ、「おうじょう」の方が普通でしょうか。