学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「先住民」

2011-10-18 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月18日(火)20時10分16秒

横手の中心部から北に約9k、国道13号線を秋田市方面さ向かうと、3重の塔のよんた、緑色の屋根をした建物が後三年の役金沢資料館だんす。
後三年の合戦(役)は今から920年前、ここ横手市どご中心にした、古代から中世に変わる歴史上、重要な戦いだったんす。
その戦いの様子どご描いた絵巻どが考古資料どがが展示されていて、特に絵巻については当時の合戦の様子がえぐわかり必見だんす。

後三年の役金沢資料館


わだすも金沢八幡宮さ寄った後、後三年の役金沢資料館さ行ってみただんす。
係の人がまんずはずめにビデオさ見せてくれるつーで、そんなら見せてもらおかと思って見とったら、ちょっぴり疲れとったもんで、ついウトウトしてしまっただんす。
すると突然、センジューミン、としゃべる声が聞こえてきたがら、あれれー、と思って目さ覚ましただんす。
先住民つーと、アメリカのインディアンさ思い出してしまうだども、なんが変な感じがしただんす。
関東や関西あたりの学者連中が先住民つーなら、まだ分がっけど、地元の人が蝦夷どが先住民さ言うのはどうなんだべか。

横手弁、めちゃくちゃだんす。

※写真
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調停者

2011-10-18 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月18日(火)13時03分8秒

>筆綾丸さん
確かに表現がちょっと変なところはありますね。
一番分からないのは康治2年(1143)の相馬御厨、翌天養元年の大庭御厨での義朝の行動を概観した後で、「二つの御厨における義朝の行動から、武士団対立の調停者としての役割を看守できるであろう。彼が調停者として東国武士に受容された背景には、むろん名門河内源氏の武力もあったが、同時に院・摂関家の権威も存した。義朝が中央の政治権力と結ぶがゆえに、東国武士は彼の調停に従ったのである」としている点です。
一方当事者側の先頭に立って暴れまくっているだけの義朝が何で「調停者」なのか。

名前の読み方では、私は「千任」が「せんとう」となっていたのが気になりました。
男の名で音読みとなっているのは、これだけみたいですね。
普通は「ちとう」と読んでいると思いますが、確かに「訓+音」は変と言えば変です。
しかし、「せんとう」だと何となく銭湯が連想され、千任を吊るす例の残虐な場面ものんびりした雰囲気になってしまいそうで、妙な感じですね。

写真は今月5日に訪問した景正功名塚と金沢八幡宮です。
金沢八幡宮の案内板には「新羅三郎義光の末裔である佐竹藩主の尊崇特に篤く」云々とありますね。
また、「弥陀八幡」との表現がありますが、これはどういうことなのか。
神仏分離前は本地仏として阿弥陀の仏像が祀ってあったのでしょうか。

(27日追記)
何か変なことを書いたような感じがしていたのですが、やっと気づきました。
「任」を「とう」と読むのは訓読みですね。
「ちとう」だったら「訓+訓」で他の男性名表記と合うのに、なぜ「せんとう」なのか。

「平安の風わたる公園」

※写真

 ※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

墓穴 2011/10/16(日) 17:35:14
小太郎さん
職人太郎さん
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4047021148.html
数年前、『平清盛の闘い』を読み、おかしな概念操作と変な日本語について、他の掲示板に書いたことがあるのですが、以来、元木氏の著書を読むたびに、あら捜しみたいな感じになり、自分でも、つまらねえことをしてるな、という思いはあることはあるのです。
ダメだ思われる箇所について、縷々、書き連ねてみましたが、今回、無知のため墓穴を掘ったようなところがありますね。枝葉末節にこだわりすぎたかもしれません。
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勿来の関

2011-10-18 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月18日(火)12時25分27秒

土日月と久しぶりに群馬に帰っていました。
16日(日)は日光に行きましたが、紅葉狩りにはベストのタイミングでしたね。
昨日は北関東自動車道・常磐自動車道経由でいわき市に寄り、勿来の関や小名浜の水族館「アクアマリンふくしま」などを訪問してみましたが、勿来の関は源義家だらけでした。

勿来関文学歴史館

※写真
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『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』

2011-10-15 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月15日(土)08時25分48秒

>筆綾丸さん
『河内源氏』を読んでみました。
私は参考文献に出ている川端新氏の『荘園制成立史の研究』(2000年)と高橋一樹氏の『中世荘園制と鎌倉幕府』(2004年)までは一応見ているのですが、荘園制についての研究の進展と、高橋昌明氏らによる武士論研究の成果がどのように結びつくのかが分からなくて、11~12世紀は難しいなあと感じていたことがあります。
そんなときに元木氏の前著をいくつか読んで視野が開けたように感じましたが、本書も全体として内容的には良い本だなと思います。
用語についてはご指摘のように少し変だなと思うところがありますが、筆綾丸さんにも若干の誤解があるようで、例えば「私君」はそれなりに多くの研究者が用いていると思いますし、「京上」は荘園制に関する論文では当たり前に用いられている用語ですね。
それと、「徳子」は訓読みであれば「のりこ」でしょうし、そのように振り仮名をつけている本もけっこうありますね。
近藤成一氏が「頼朝が知らなかった『政子』という名前」というエッセイを雑誌(アエラ?)に書かれていましたが、諱(いみな)は特殊な場合以外には使われないものだから、あまり読み方に拘っても仕方ないように思います。
また、「暴力装置」はマックス・ウェーバーの用語ですので、私は全く違和感を感じません。
去年、仙谷由人官房長官(当時)が「自衛隊は暴力装置」と発言して大問題になりましたが、ずいぶん変な議論をしているなあと不思議に思いました。
リンク先の「おおやにき」氏の意見、表現は個性的ですが、私も同じように考えていました。


「おおやにき」

84頁の「影響力のある学者」ですが、前頁には「ちなみに近年、後三年合戦で恩賞がなかった原因を、白河の弟輔仁親王との婚姻が原因で白河院から睨まれたためだとする説が提起された」とありますので、1996年に亡くなられた安田元久氏ではないでしょうね。
批判するのだったら、はっきり名指ししてほしいですね。

安田元久


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

河内源氏について 2011/10/11(火) 19:49:27
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/09/102127.html
元木泰雄氏『河内源氏』を読みました。元木氏の言葉使いで、違和感を覚えたことについて、以下、いくつか書いてみます。言葉を大事にすることは、学問の初歩だと思いますが、元木氏の場合、他の著書同様、甚だ僭越ながら、日本語の表記におかしいところが多々あります。本来なら、元木氏周辺の誰かがソッと注意してあげるべきですが、不利益なことはしないという政治的判断からか、たいへん賢明なことに、何も言わないのでしょうね。
「あとがき」にある中央公論社編集部の高橋真理子氏は、もしプロの編集者を目指すのなら、「武威」や「学威」など恐れず、是々非々で行かなければなりません。大学の研究紀要などと違い、身銭を切って本を買っている者がいることを、くれぐれも忘れないでほしいですね。

①「享年は八十一歳」(40頁)、「八十八歳という享年」(41頁)、「享年は八十八歳」(63頁)、「享年六十八歳」(103頁)、「享年三十八歳」(198頁)
漢数字の後の「歳」は不要で、これはたとえば、年を享くること八十八、というふうに読むのだから、明らかに間違いですね。日本中世の(和製)漢文を相当読んでいるはずなのに、こんな初歩的な間違いをするとは、ちょっと信じ難いものがありますね。最近の学生は、どころではなく、最近の教師は、と学生に慨嘆されてしまいますね。

②「私君」(32頁)と「(官物の)京上」(82頁)
中世の文献には頻出するのかもしれませんが、はじめて見る「漢語」です。前者は吾が君の意で、後者は京都に官物を納める意のようです。

③「義家は娘を輔仁親王の室とし、僧行快をもうけている」(76頁)
(八幡太郎)義家程度の娘が親王の「室」になりうるものでしょうか。中世と現代では、「妾」の意味は違いますが、「妾」くらいがいいところではないか。

④「この「義親」は首実検の結果、偽者とされ、挙句の果てに殺害されてしまう」(118頁)
首実検と言えば、普通、斬首されたものの実検を意味するので、首実検の後で殺害されることなど、ありえない。ここでは、「面通し(面割り)」というような表現でなければいけない。「(処刑された)為義については、実否確認のため検非違使源季実が後白河の命で実検に派遣されている」(162頁)とあり、これは本来の「首実検」のようです。

⑤「常昌の子孫が上総介・千葉両氏となって」(36頁)、「上総介氏」(137頁)、「上総介氏」(145頁)
少弐氏や大掾氏や内記氏などとは違い、上総氏と記憶していましたが、「上総介氏」というのですか。直接の関係はないものの、坂額御前で有名な一族は、城介氏ではなく城氏ですね。なぜ「上総介氏」というのか、なにか説明があればありがたい。

⑥「為義の幼い子供たちが数を尽くして殺害された保元の乱」(199頁)
数を尽くして殺害する、という表現は、出典があるのでしょうが、なにか変な感じがしませんか。

⑦「嫡男は有綱の娘に決定権が存した」(105頁)
嫡男の決定権は有綱の娘に存した、の単純な誤記ですね。

⑧「北条政子(まさこ)」(199頁)、「平滋子(しげこ)」(204頁)、「徳子(とくこ)」(204頁)
以上は、訓読みのフリガナがつけてあるのですが、他の女性名の大半は音読みのフリガナになっています。女性の名の読み方が、なぜ違うのか、何の説明もないので、基準がわからない。朝子、寛子、賢子、幸子、多子、定子、呈子、倫子、麗子・・・などは音読みで、薬子の変で名高い悪女は、なぜか、くすこ、となっています。藤原安子は、フリガナがないので、あんし、なのか、やすこ、なのか、不明。男の名は、几帳面に訓読みで統一されているから、女の名など、要するに、ただの記号であって、どうでもいいのかもしれない。nominalisme といえば、すこし意味がずれますが、これはこれで大事なことではないかな。

⑨「天皇と父院・母后・外戚・皇親といった天皇のミウチたちによる共同政治」(9頁)
この表現からすると、「ミウチ」は集合概念で、父院以下はこの集合の元(要素)らしいので、カタカナ表記には特殊な意味が込められているようにみえます。ところが、同じ頁に、「彼女のイトコは高明の室、叔母は高明の母という関係」(9頁)とあり、カタカナ表記の「イトコ」も集合概念かな、と思ったものの、ただ単に従姉妹の意味のようです。「意地悪な兄は死去に際して関白を従兄弟の頼忠に譲渡した」(12頁)では、従兄弟に「いとこ」とフリガナがついている。伯(叔)父や伯(叔)母は、なぜオジやオバではないのか。
「(相模は)頼清とは義理のイトコ」(43頁)、「宗通は義親の母のイトコ」(98頁)、「美福門院とイトコで鳥羽院最大の近臣藤原家成」(142頁)、「美福門院のイトコで鳥羽院第一の近臣藤原家成」(143頁)などの例をみると、イトコと従兄弟と従姉妹にさほどの相違があるわけではないようなので、表記は統一してほしい。なお、「鳥羽院最大の」は、おかしいですね。

⑩「武的」と「武士的」という表記が数箇所あって、意味が違うのかと思いましたが、厳密に峻別しているわけではなく、なんとなく使っているようですね。

⑪学説を紹介するとき、石母田正、大石直正、角田文衛、野口実、保立道久の各氏は氏名が明記されていますが、以下の二氏は名無しの批判で、公平性に欠けるように思われます。
甲「このような形であげつらうのは天に唾する行為であるが、影響力のある学者の説だけに、実証を軽視した姿勢は厳しく批判されるべいである」(84頁)
乙「・・・とする信じがたい暴論が有名な学者から提起され、仰天させられた。・・・こんなリポートを学生が提出すれば躊躇なく不可にする。・・・天皇制こそが諸悪の根源という結論が先にある見解らしいが、そうであれば学問をねじ曲げ政治に従属させようとする暴挙である。絶対に許されるものではない」(185頁)
巻末の参考文献から推測すると、甲は安田元久氏、乙は河内祥輔氏らしい。河内祥輔氏への批判はほとんど常軌を逸していて、何か遺恨があって江戸の仇を京都で討っているのか、と疑われます。新書版に書くようなことではない。・・・しかし、学生のレポート以下の学説とは、ずいぶん思い切った罵倒ですね。

⑫「国家権力と摂関家の私的兵力の衝突が、保元の乱の実態であった」(151頁)
後白河天皇側が「国家権力」で、崇徳院側が「私的兵力」としていますが、こういう表現は、全く理解できない。保元の乱の時の政治形態が、親政なのか院政なのか、よくわからぬような状況下で、また、摂関家と源平等の「軍事貴族」が入り乱れている中で、「国家権力」と「私的兵力」が明確に分けられる訳があるまい。「摂関家の警察力」(128頁)とありますが、「警察力」は「国家権力」の一部のような気がするのですが。つまり、論理が破綻している。

⑬56頁前後で、『陸奥話記』の内、頼義が大軍を動員したという記述はおかしいとしていますが、頼義が惨敗して最後はわずか数騎になった記述については、何の疑義も呈していない。実証主義を言うなら、両方疑わなければ、公平性に欠けるでしょうね。

⑭「保元の乱で荘園支配の暴力装置である為義以下河内源氏を失った」(173頁)、「院近臣たちは任国支配に用いる暴力装置を確保するため」(179頁)
「暴力装置」とは嫌な表現ですが、武士が「暴力装置」ならば、次のような記述と矛盾する。「天皇の政務の空間である京(とくに左京)は、血や死、暴力といったケガレを排除した清浄な地域でなければならないのである。その点で、ケガレを防ぐ存在である武士相互が合戦を企てたことは、貴族たちを恐慌に陥れた」(85頁~)
論理上、「暴力装置」が京に居ること自体、矛盾しますね。「暴力装置」などという奇怪な表現は使わない方がいいのでしょうね。

⑮「為義の武士団の武士的発展」(129頁)
「武士的」は不要ですね。

⑯「(平治の乱で)再浮上しつつあった河内源氏嫡流は壊滅したのである」(200頁)
「義朝の嫡男は三男頼朝」(189頁)は、乱後も生きているから、「壊滅」などしていない。「壊滅に近い状態になった」とかなんとか書かなければならない。

⑰「平安時代初め、平城上皇が政治に介入して薬子の変が勃発して以来、院は政治に介入しないという原則が生まれていた。師通はこの原則を貫いたのである」(92頁)、「死通の死去が、白河院政確立の大きな一歩となったのである」(94頁)
院政という政治形態が、なぜ、あの時期に生まれたのか、昔からの疑問ですが、あまりに単純な説明に拍子抜けしました。薬子の変(810年)以来、約三百年、朝廷を支配していたであろう原則にしては、ずいぶんあっさり崩れてしまうものなんですね。

⑱「康治二年、義朝は上総介常澄と結んで千葉常重から「圧状之文」を奪っている」(138頁)
このあたりの事情がわからなかったのですが、こういうことですね。
「・・・押書相馬立花両郷之新券恣責取署判、妄企牢籠之刻、源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文、恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文之上・・・」
義朝は常重に強いて譲り状を書かせ奪取したものの、神威を恐れ・・・。「圧状」には「あつじょう」とフリガナがつけてありますが、これは、往生に通じ、「おうじょう」の方が普通でしょうか。
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霊山で見つけた変なもの

2011-10-13 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月13日(木)08時58分30秒

そういえば霊山城址には変な字体の石碑がありました。
これで「金華山」と読むのだそうです。
私は『霊山町史』を見ていたので石碑の存在は知っていたのですが、知っていても読めないですね。
まあ、「山」は分かりますけど。

※写真

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霊山

2011-10-13 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月13日(木)07時47分43秒

>筆綾丸さん
このところ連日、宮城・福島県内を廻って写真を撮っていたので、レスが遅くなってしまいました。
今日は久しぶりに自宅で過ごす予定なので、『河内源氏』も読んでみます。
写真は10日に登った霊山です。
時節柄、誰もいないのかなと思っていましたが、「霊山こどもの村」の登山口から霊山城址までの往復約2時間半ほどのハイキング中に8人に出会いました。
紅葉は始まったばかりでしたね。
なお、一番上の写真はロック・クライミングの経験がありそうな二人組が岩場で遊んでいたもので、いくら霊山といえども、さすがにこんな登山コースはありません。


※写真


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

河内源氏について 2011/10/11(火) 19:49:27
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/09/102127.html
元木泰雄氏『河内源氏』を読みました。元木氏の言葉使いで、違和感を覚えたことについて、以下、いくつか書いてみます。言葉を大事にすることは、学問の初歩だと思いますが、元木氏の場合、他の著書同様、甚だ僭越ながら、日本語の表記におかしいところが多々あります。本来なら、元木氏周辺の誰かがソッと注意してあげるべきですが、不利益なことはしないという政治的判断からか、たいへん賢明なことに、何も言わないのでしょうね。
「あとがき」にある中央公論社編集部の高橋真理子氏は、もしプロの編集者を目指すのなら、「武威」や「学威」など恐れず、是々非々で行かなければなりません。大学の研究紀要などと違い、身銭を切って本を買っている者がいることを、くれぐれも忘れないでほしいですね。

①「享年は八十一歳」(40頁)、「八十八歳という享年」(41頁)、「享年は八十八歳」(63頁)、「享年六十八歳」(103頁)、「享年三十八歳」(198頁)
漢数字の後の「歳」は不要で、これはたとえば、年を享くること八十八、というふうに読むのだから、明らかに間違いですね。日本中世の(和製)漢文を相当読んでいるはずなのに、こんな初歩的な間違いをするとは、ちょっと信じ難いものがありますね。最近の学生は、どころではなく、最近の教師は、と学生に慨嘆されてしまいますね。

②「私君」(32頁)と「(官物の)京上」(82頁)
中世の文献には頻出するのかもしれませんが、はじめて見る「漢語」です。前者は吾が君の意で、後者は京都に官物を納める意のようです。

③「義家は娘を輔仁親王の室とし、僧行快をもうけている」(76頁)
(八幡太郎)義家程度の娘が親王の「室」になりうるものでしょうか。中世と現代では、「妾」の意味は違いますが、「妾」くらいがいいところではないか。

④「この「義親」は首実検の結果、偽者とされ、挙句の果てに殺害されてしまう」(118頁)
首実検と言えば、普通、斬首されたものの実検を意味するので、首実検の後で殺害されることなど、ありえない。ここでは、「面通し(面割り)」というような表現でなければいけない。「(処刑された)為義については、実否確認のため検非違使源季実が後白河の命で実検に派遣されている」(162頁)とあり、これは本来の「首実検」のようです。

⑤「常昌の子孫が上総介・千葉両氏となって」(36頁)、「上総介氏」(137頁)、「上総介氏」(145頁)
少弐氏や大掾氏や内記氏などとは違い、上総氏と記憶していましたが、「上総介氏」というのですか。直接の関係はないものの、坂額御前で有名な一族は、城介氏ではなく城氏ですね。なぜ「上総介氏」というのか、なにか説明があればありがたい。

⑥「為義の幼い子供たちが数を尽くして殺害された保元の乱」(199頁)
数を尽くして殺害する、という表現は、出典があるのでしょうが、なにか変な感じがしませんか。

⑦「嫡男は有綱の娘に決定権が存した」(105頁)
嫡男の決定権は有綱の娘に存した、の単純な誤記ですね。

⑧「北条政子(まさこ)」(199頁)、「平滋子(しげこ)」(204頁)、「徳子(とくこ)」(204頁)
以上は、訓読みのフリガナがつけてあるのですが、他の女性名の大半は音読みのフリガナになっています。女性の名の読み方が、なぜ違うのか、何の説明もないので、基準がわからない。朝子、寛子、賢子、幸子、多子、定子、呈子、倫子、麗子・・・などは音読みで、薬子の変で名高い悪女は、なぜか、くすこ、となっています。藤原安子は、フリガナがないので、あんし、なのか、やすこ、なのか、不明。男の名は、几帳面に訓読みで統一されているから、女の名など、要するに、ただの記号であって、どうでもいいのかもしれない。nominalisme といえば、すこし意味がずれますが、これはこれで大事なことではないかな。

⑨「天皇と父院・母后・外戚・皇親といった天皇のミウチたちによる共同政治」(9頁)
この表現からすると、「ミウチ」は集合概念で、父院以下はこの集合の元(要素)らしいので、カタカナ表記には特殊な意味が込められているようにみえます。ところが、同じ頁に、「彼女のイトコは高明の室、叔母は高明の母という関係」(9頁)とあり、カタカナ表記の「イトコ」も集合概念かな、と思ったものの、ただ単に従姉妹の意味のようです。「意地悪な兄は死去に際して関白を従兄弟の頼忠に譲渡した」(12頁)では、従兄弟に「いとこ」とフリガナがついている。伯(叔)父や伯(叔)母は、なぜオジやオバではないのか。
「(相模は)頼清とは義理のイトコ」(43頁)、「宗通は義親の母のイトコ」(98頁)、「美福門院とイトコで鳥羽院最大の近臣藤原家成」(142頁)、「美福門院のイトコで鳥羽院第一の近臣藤原家成」(143頁)などの例をみると、イトコと従兄弟と従姉妹にさほどの相違があるわけではないようなので、表記は統一してほしい。なお、「鳥羽院最大の」は、おかしいですね。

⑩「武的」と「武士的」という表記が数箇所あって、意味が違うのかと思いましたが、厳密に峻別しているわけではなく、なんとなく使っているようですね。

⑪学説を紹介するとき、石母田正、大石直正、角田文衛、野口実、保立道久の各氏は氏名が明記されていますが、以下の二氏は名無しの批判で、公平性に欠けるように思われます。
甲「このような形であげつらうのは天に唾する行為であるが、影響力のある学者の説だけに、実証を軽視した姿勢は厳しく批判されるべいである」(84頁)
乙「・・・とする信じがたい暴論が有名な学者から提起され、仰天させられた。・・・こんなリポートを学生が提出すれば躊躇なく不可にする。・・・天皇制こそが諸悪の根源という結論が先にある見解らしいが、そうであれば学問をねじ曲げ政治に従属させようとする暴挙である。絶対に許されるものではない」(185頁)
巻末の参考文献から推測すると、甲は安田元久氏、乙は河内祥輔氏らしい。河内祥輔氏への批判はほとんど常軌を逸していて、何か遺恨があって江戸の仇を京都で討っているのか、と疑われます。新書版に書くようなことではない。・・・しかし、学生のレポート以下の学説とは、ずいぶん思い切った罵倒ですね。

⑫「国家権力と摂関家の私的兵力の衝突が、保元の乱の実態であった」(151頁)
後白河天皇側が「国家権力」で、崇徳院側が「私的兵力」としていますが、こういう表現は、全く理解できない。保元の乱の時の政治形態が、親政なのか院政なのか、よくわからぬような状況下で、また、摂関家と源平等の「軍事貴族」が入り乱れている中で、「国家権力」と「私的兵力」が明確に分けられる訳があるまい。「摂関家の警察力」(128頁)とありますが、「警察力」は「国家権力」の一部のような気がするのですが。つまり、論理が破綻している。

⑬56頁前後で、『陸奥話記』の内、頼義が大軍を動員したという記述はおかしいとしていますが、頼義が惨敗して最後はわずか数騎になった記述については、何の疑義も呈していない。実証主義を言うなら、両方疑わなければ、公平性に欠けるでしょうね。

⑭「保元の乱で荘園支配の暴力装置である為義以下河内源氏を失った」(173頁)、「院近臣たちは任国支配に用いる暴力装置を確保するため」(179頁)
「暴力装置」とは嫌な表現ですが、武士が「暴力装置」ならば、次のような記述と矛盾する。「天皇の政務の空間である京(とくに左京)は、血や死、暴力といったケガレを排除した清浄な地域でなければならないのである。その点で、ケガレを防ぐ存在である武士相互が合戦を企てたことは、貴族たちを恐慌に陥れた」(85頁~)
論理上、「暴力装置」が京に居ること自体、矛盾しますね。「暴力装置」などという奇怪な表現は使わない方がいいのでしょうね。

⑮「為義の武士団の武士的発展」(129頁)
「武士的」は不要ですね。

⑯「(平治の乱で)再浮上しつつあった河内源氏嫡流は壊滅したのである」(200頁)
「義朝の嫡男は三男頼朝」(189頁)は、乱後も生きているから、「壊滅」などしていない。「壊滅に近い状態になった」とかなんとか書かなければならない。

⑰「平安時代初め、平城上皇が政治に介入して薬子の変が勃発して以来、院は政治に介入しないという原則が生まれていた。師通はこの原則を貫いたのである」(92頁)、「死通の死去が、白河院政確立の大きな一歩となったのである」(94頁)
院政という政治形態が、なぜ、あの時期に生まれたのか、昔からの疑問ですが、あまりに単純な説明に拍子抜けしました。薬子の変(810年)以来、約三百年、朝廷を支配していたであろう原則にしては、ずいぶんあっさり崩れてしまうものなんですね。

⑱「康治二年、義朝は上総介常澄と結んで千葉常重から「圧状之文」を奪っている」(138頁)
このあたりの事情がわからなかったのですが、こういうことですね。
「・・・押書相馬立花両郷之新券恣責取署判、妄企牢籠之刻、源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文、恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文之上・・・」
義朝は常重に強いて譲り状を書かせ奪取したものの、神威を恐れ・・・。「圧状」には「あつじょう」とフリガナがつけてありますが、これは、往生に通じ、「おうじょう」の方が普通でしょうか。
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キティちゃんの存在理由

2011-10-09 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 9日(日)07時37分40秒

昨日載せた写真では分かりにくいのですが、殉教記念クルス館のキリスト像の下にはバラの花瓶二つの他に、かなりの枚数の貨幣と千羽鶴、そしてキティちゃんのぬいぐるみが置かれていました。
いくつかの疑問が浮かんできます。

Q1.キリスト像の前に貨幣を供えるという習慣は、そもそもキリスト教の国にはあるのか。
Q2.日本のキリスト教の教会に行って、キリスト像の前に貨幣を置いたら、その貨幣はどのような扱いを受けるのか。
Q3.貨幣を供えた人はキリスト教徒なのか。
Q4.仮に貨幣を供えた人がキリスト教徒ではない場合、どのような意図で行ったのか。神社・仏閣の参詣時と同様、「お賽銭」として供えたのか。
Q5.キティちゃんは何のために供えられたのか。また、その存在が施設管理者に許容されている理由は何か。

私にとって最大の疑問はQ5ですが、なかなかの難問ですね。
私は厳粛な宗教的空間にキティちゃんを置くなどけしからん、と思っている訳ではなくて、むしろ逆です。
舟越保武が作った空間とキリスト像は本当に素晴らしいもので、この前に立つとキリスト教徒でない私も厳粛な気持ちになりますが、しかし余りにも緊張感がありすぎて、暫くするといささか息苦しいような感じもしてきます。
そんな空間の中でキティちゃんを見ると、ホッとしますね。

※写真
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大籠キリシタン殉教公園

2011-10-08 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 8日(土)08時35分40秒

>Akiさん
私も法律英語というジャーゴンの世界を多少知っているだけで、英語力は全然たいしたことはありませんから、ご指摘の点はちょっと耳が痛いですね。
歴史学の研究者にとって、ネットで個人的な研究に関する情報を公開することには基本的に何のメリットもない状況において、保立氏のブログは貴重な存在ではあると思います。
ただ、原発事故に関しては、風評被害の原因にもなりますから、保立氏のように社会的地位の高い人がいい加減なことを書くのは控えてもらいたいですね。

>筆綾丸さん
合併により一関市に編入されたばかりの岩手県の藤沢町に大籠キリシタン殉教公園という施設があって、私は先月23日に訪問してみました。
園内にはキリシタン資料館と殉教記念クルス館という二つの立派な建物が存在しており、このうち資料館は歴史資料の展示という範囲に一応収まっているものの、クルス館はクリスチャンの舟越保武が設計した建物に、舟越保武作の十字架上のイエス・キリスト像、聖マリア・マグダレナ像、聖クララ像が展示されており、どうみても教会そのものですね。
これに藤沢町は多額の公費を支出しているので、仮に津地鎮祭訴訟のような形で裁判になった場合には、憲法違反と判断される可能性が極めて高いと思います。
私はこの種の公費支出が許されないと考える立場ではありませんが、こういう事例をみると、神社関係者が不公平感を抱くのはもっともな感じがしますね。


※写真


※筆綾丸さんとAkiさんの下記投稿へのレスです。

God 2011/10/06(木) 22:08:16(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://iipdigital.usembassy.gov/st/english/texttrans/2011/08/20110810205129tegdirb0.6651575.html#axzz1URhGgNtS
米国ではクリントンが始めた行事で、日本のは唯の物真似のようですが、オバマの今年の演説をざっと眺めてみました。末文に「God bless you and God bless the United States of America.」とありますが、色々と考えさせる一文ですね。
オバマの言う God は、おそらく一神教の神で、and の前後の God は同一のはずだから、この God がアッラーの神を戴く you(イスラム世界)を bless し、返す刀で、アメリカを bless することは、論理的に不可能ではあるまいか、と思いました。いや、これは非常に高度な文法で、and の前後の God は似而非なるもの、全く別物だ、と読まなければならないということであれば、問題にならないのですが。

大衆化社会 2011/10/07(金) 02:41:07(Akiさん)
保立氏は、英語が苦手みたいですね。9月15日に書かれたものだけ見ても、レベルをレヴェルと書いて、自分がBとVの発音の違いを知っていることは強調されているようですが、その一方で、リヴァイズをリヴァイスと書いているのはいただけない。英語で、revise の最後のエスを濁らずに発音することはありません。アーカイヴスと書いているのも、アーカイヴズと書かないといけません。ジャルゴンって、何?と思いましたが、ジャーゴンのことですかね。アーキヴィヴィストというのは、ヴィヴィッドなアーキヴィストのことでしょうか。

と、いうようなことを、10月5日の「ビッグ・イッシュウ」というのを見て思いました。イッシュウって何でしょう? Issue の発音を片仮名で書いたらイシューになるはずですが、エスが2つ重なっているのをローマ字読みして撥ねてしまったのでしょうか。
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田沢湖の誤字

2011-10-06 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 6日(木)15時05分52秒

昨日、岩手県の田沢湖に行ってきたのですが、有名な「たつこ像」の解説板に「作者 船越保武」とありました。
正しくは「舟越」ですが、ちょっと信じられないミスですね。

舟越保武

田沢湖

※写真
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イフタール

2011-10-06 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 6日(木)14時41分16秒

>筆綾丸さん
『文藝春秋』8月号の斉藤吉久氏による該当記事を見たところ、「小泉内閣以降には首相官邸で「イフタール」というイスラムの断食明けの食事会が行われました」とあるだけですね。
「イフタール」で検索すると、首相官邸で今年の8月2日に行われたイフタールの様子が出ていました。


アメリカ大使館でもルース大使の主催で行われているそうで、こちらのページの方が具体的なイメージをつかみやすいですね。

米国大使館首席公使James P. Zumwalt氏のブログ

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
大日本帝国の贋札 2011/10/05(水) 07:38:08
小太郎さん
御引用のサイトにある、『文藝春秋』2011年8月号所載「20キロ圏の神社が消える?」は、未読なのですが、「首相官邸でイスラム教の断食明けの食事会が行われている」とは、初耳ながら、どういうことなのでしょうね。

「日本史の授業は、日清・日露戦争時の産業の発展を主題にした授業でした。主として八幡製鉄所と富岡製紙工場の話といえましょう。」
『文教日本史』の管理者の御専門は、よもや「日本史」ではあるまいと思いますが、日清・日露戦争との関連で、「富岡製紙工場」となると、時の政府は戦費調達のために大量の贋札を必要としたのだな、なんと涙ぐましいことであったろうか、とでも考えるのがいいのでしょうね(?)。
言語表現ということについて、この人は、なぜ、かくも出鱈目なのか・・・こういう病いは、もう治らないものなのだろうか?

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復興と政教分離

2011-10-04 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 4日(火)12時08分43秒

産経新聞に載っている赤坂憲雄氏の「【新章 東北学】(7) 神仏の再建、隠れたテーマ」から、少し長めに引用してみます。

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 ダム建設で移転した村などを訪ねると、村の入り口に墓地があって寺が建てられている。ずっと奥の高台に神社があって、神様を元の村から勧請してお祀(まつ)りしている。あるいは分村して入植する開拓村でも、人々が真っ先に考えるのは、以前の村から鎮守の神様を移して祀ることです。
 つまり、家が建てられ、道路ができて、インフラが整うから新しい村が始まるのではない。土地を守っている神様とのつきあいとか、あるいは祖先とのつながりをどのように維持していくかということが、地域のコミュニティにとって重要なことなんです。新しい村づくりが、さまざまな場所で始まっていますけれど、精神のよりどころとしての神や仏の座をどのようにデザインするのかということが隠れたテーマになるはずです。
 ところが、そう簡単な話ではない。政府の復興構想会議でも、僧侶の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんが「壊滅した寺や神社の再建を支援できないか」と提案されたんですね。でも、行政は宗教に関わってはいけないという建前があって、予算をつけるなんてとんでもない、と退けられる。おそらく国だけではなくて、地方行政のレベルでもそうでしょう。
 復興のために、神と仏の再建というテーマは、重要であるにもかかわらず、長期にわたって手をさしのべられない状況が続くかもしれない。避難している地域の人々も、精神的なよりどころを失ったまま地域の再建に取り組まざるを得ない。
(後略)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110919/dst11091907250001-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110919/dst11091907250001-n4.htm

赤坂憲雄氏は私にとって謎の思想家であって、私が関心を持っている分野で多くの著作を書かれているのですが、とにかく文章にスピード感が全然ないので、私は読んでいるうちにイライラしてしまい、耕運機に前方を塞がれた暴走族のような心境になって途中で放り投げるのが常でした。
しかし、最近、先方のスピードが上がったのか、私のスピードが落ちたのか、我慢すればある程度読めるようになってきました。
さて、赤坂氏や玄侑宗久氏は法律の素養がないので、役人から「行政は宗教に関わってはいけないという建前があって、予算をつけるなんてとんでもない」と言われれば何の反論もできないようですが、憲法の政教分離原則についての現行の解釈はいろいろ問題があって、今回の大震災を契機に憲法学者が本格的に議論しなければならない点が多いですね。
今までは、とにかく神道や靖国神社が嫌いな人々が、神道憎し、靖国憎しの一念でいろんな裁判を繰り返した結果、国家と宗教の厳格な分離を基調とする判例が積み重ねられ、結果として行政は宗教に近づくことに極端に慎重・臆病になってしまった訳ですが、今回の震災で政教分離原則の解釈が本当に今まで通りでよいのかを根本的に再検討する必要が明白になったように思います。
もっとも、解釈の変更が実現するかもしれない時期は遠い未来であって、そんなものを待っていては地域のコミュニティが崩壊してしまいますから、ちゃんとした自覚を持った人が、できることから少しずつ始めなければならないですね。
私はそうした仕事に関わるつもりで東北に来まして、今は地味に準備をしている段階です。

少し検索してみたところ、震災と政教分離原則については下のリンク先が良くまとめていますね。
真如苑が資金援助をしているサイトだそうですが、執筆者はしっかりした研究者みたいですね。

「宗教界の震災復旧を阻む政教分離の壁」
http://www.circam.jp/page.jsp?id=1953


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誤字その2

2011-10-04 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 4日(火)08時08分43秒

保立道久氏のブログで、<平田光司「満八反計画の現在」>とあったので、一瞬、中国共産党あたりでそんな表記をするのだろうかと思ったのですが、まあ、これは「マンハッタン計画」の単純なワープロミスですね。
9月28日以降修正がなされていないので、いつになったら直るのか気になって仕方ありません。
大きなお世話ですが。

http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-ba6f.html
http://rekiken.jp/journal/index.html

また、「文教日本史」氏のブログには「富岡製紙工場」とありましたが、正しくは「富岡製糸工場」ですね。

http://blog.goo.ne.jp/shuya1128/e/b40ddb76df08d93d136768397aeedce3

「文教日本史」氏のブログで誤字・脱字、不正確な知識、論理矛盾のない投稿は珍しいのですが、せめて教育実習生の指導の誤りを指摘している投稿では、もう少し慎重に書いていただきたいですね。


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鳥海山

2011-10-04 | 東日本大震災と研究者
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年10月 4日(火)00時34分58秒

先週末は金華山の代りに秋田・山形県境の鳥海山に行ってきました。
津波被災地の主要な神社・仏閣は大体見たので、今後は比較のために内陸部や日本海側の神社・仏閣も時々訪問しようと思っています。
特に修験の勉強はある程度しっかりやっておきたいと考えていて、今回は由利本荘市に一泊し、秋田県側の鳥海山麓にある旧由利町の森子大物忌神社や旧矢島町の福王寺など、往時は鳥海山修験の拠点として栄えた場所をいくつか訪問してみました。
たまたま本荘郷土資料館で「鳥海山展 山をめぐる信仰と文化」をやっていたのですが、なかなか充実していました。
写真はその展示の一部ですが、変な三面大黒像がありましたね。


>筆綾丸さん
>決闘死を目前にしたガロワが肉声で私に叫びかけてきたかのような電撃的霊感

まるで恐山のイタコにでも相談したかのような名文句ですね。
怖いものみたさで読んでみようかなとも思いますが、他に読まなければいけない本が山積しているので、当分先になりそうです。

※写真


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
正伝と外伝 2011/09/30(金) 00:27:57
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4480093915.html
佐々木力氏『ガロワ正伝ー革命家にして数学者』を読んで、期待を裏切られました。

「白土三平には、劇画の傑作『カムイ伝』なる大作があり、その伝記から漏れた逸話として『カムイ外伝』も存在する。夭折のガロワには「外伝」はほとんど不可能であろう。本書は「正伝」として、真っ正面からガロワの実像に迫ってみたいのである」(27頁)
という緒言をみて、イヤな予感がしましたが、予感通りでした。ガロワの決闘死について、文学的な(?)思い込みを縷々述べたあと、こんな風に書きます。

「アルキメデスが数学的発見の際に発したという「ヘウレーカ」(われ見いだせり)を叫びたい気分に襲われた。(中略)私の感触では、これまでガロワのい遺言の封印を全面的に満足すべきほどに解いた人はいなかったーその役廻りは、他の伝記作家や歴史家のあらゆる人を超えて、まっすぐ私に向けられたのではないか、とすら思った」(164頁)
「私は、決闘死を目前にしたガロワが肉声で私に叫びかけてきたかのような電撃的霊感のようなものに襲われたのだった」(230頁)

老人の、こんな臆面もない自己陶酔の告白には、ただただ苦笑するばかりです。一体、どこが「正伝」なのであろうか。こういう文を読むと、私は、大谷崎の『瘋癲老人日記』を思い出します。

著者は、フランス語に精通しているような書きっぷりですが、色々と変な記述がありますね。
「un certain ordre de considerations Metaphysiques qui planent sur tous les calculs」(132頁)を、あらゆる計算を上空飛翔するような形而上学的考察の一定の秩序、と訳していますが、これでは日本語にならない。「上空飛翔する」ではなく、「俯瞰する」とか何とか、しなければなるまい(なお、フランス語のアクサン記号は二箇所略)。「このコケットにだまされた2人」(deux dupes de cette coquette)とありますが(158頁)、dupes の e にアクサンがなければ、意味をなすまい。「Sauter a pieds joints sur ces calculs」(a のアクサン記号略)の訳として「足を束ねて計算の上を跳ぶこと」とありますが(142~143頁)、「足を束ね」てしまったら、自由を奪われて上手に跳ぶことができまい。これは複数形からもわかるように、片足でピョンピョン跳ねるのではなく、「両足で跳ぶ」と訳さなければならない。蛇足ながら、ガロワが削除している「embrasser」という単語は、多くは、抱擁する、という意で使われるが、ここでは、「planer」と同じく、俯瞰する(見渡す)、という意で使われている。著者の訳語で言えば、「上空飛翔する」ということになる。

「逆説的に、ガロワは自らの死によって、天才的数学者ですら、人間の生は数学的には計算し尽くすことはできないことを示した。どこか、彼の代数方程式論と似ている。人は、その真実を、人生についての「ガロワの定理」、あるいは「ガロワの教訓」と、はたして呼ぶだろうか?」(220頁)
「あらゆる計算を上空飛翔する」ことが、ガロワ理論の精髄なのだから、ここで「計算」という言葉を使うのは比喩としても間違いであり、著者の訳語で言えば、「人生を上空飛翔する(planer sur sa vie)」ことはできない、と書かなければならないだろう。ガロワにとって、チマチマした「計算」など眼中にないのだから、「人間の生は数学的には計算し尽くすことはでいない」ことを、ガロワの定理(教訓)などと呼ぶとしたら、君は僕のことが何もわかっていないね、僕は「計算」などという形而下的なことはしないぜ、とあの世のガロワが怒るだろう。

後記の日付は2011年4月3日で、東日本大震災に言及した中に、次のような文章があります。
「広州の広東外語外資大学での二つの講演は、今回の東日本大震災と、私が長年主張してきた反原子力を中核とする環境社会主義の理論についてであった。ちなみに、一般に現代中国では、現代資本主義を規定する私の概念「自然に敵対する帝国主義」(Imperialism Against Nature)は大きな支持を集めている。それに対応する政治的プログラムが「環境社会主義」(Ecological socialism)なのである。多くの聴衆が集まり、講演は大好評であった。20世紀アメリカ資本主義文明に追随しようとする現代中国の経済成長中心主義への私の批判は意外な共感を呼んだ。私が大震災が襲った東北の産であることを知ると、日本の事情に通じた聴衆は、東北地方の日本史における地位について質問を集中させた。今回、英国から発信された”Don't give up Japan、don't give up Tohoku!”の叫びを私たちは講演会の最後に復唱したー声を上げて、あるいは心の中で」(233頁)

著者の高邁な(?)政治思想には全く興味を惹かれませんが、このあとに以下の文章がきます。
「統御不可能な放射能は、人間が原子力を使用してはならないという警告のサインにほかならない。使用不可能性を告げ知らせる冷厳な自然科学的真理の証なのである。どこか、ガロワ理論と類比的である」(233頁)
どこがガロワ理論と類比的なのであろうか。ガロワ理論と類比的なのは、「統御不可能な放射能」なのか、「原子力の使用不可能性」なのか、「自然科学的真理」なのか・・・さっぱりわかりませんね。

佐々木氏の記述には不必要な自慢話が多すぎ、そして、文体にスピード感がないため、流星のように人生を駆け抜けたガロワにはとても追いつけまい、と感じました。

補遺
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110923-OYT1T00374.htm
スピードと言えば、光よりニュートリノの方が速いとすると、大変なことになるのでしょうね。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110920/trd11092018350010-n1.htm
これは凄いことですね。
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