学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

にこらない

2010-02-27 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月27日(土)09時21分23秒

とうせいとうめいとかいてしまいましたか、せいしょうたいかくかくちょうのたんせいけんきゅうしゃてある清水真澄氏の「澄」はにこるのにたいし、しょせいけんきゅうしゃの清水真澄氏の「澄」はにこらないのてすね。
おやのめいめいにはそれそれこたわりかあるのてしょうね。

成城大学文芸学部
http://www.seijo.ac.jp/falit/orig/personality/original_art/teachers/shimizu-m.html

「綾鷹」の車内広告
http://ameblo.jp/emscom-yu/archive1-200906.html
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『音声表現思想史の基礎的研究』

2010-02-26 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月26日(金)01時12分51秒

今日は清水真澄氏『音声表現思想史の基礎的研究-信仰・学問・支配構造の連関-』(三弥井書店、平成19年)のうち、西園寺家に関係する部分を読んでみました。
発想は斬新で、非常に丁寧に調べられているなとは思うのですが、結論には違和感がありますね。
それは追々書くとして、とりあえず冒頭部分のみ紹介しておきます。

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第四章 音と権力─河海と琵琶─
  はじめに

 妙音天信仰は、妙音院師長によって打ち出されて以降、西園寺家に継承され、琵琶の相承に大きな意味を持った。音楽理論は密教と重ねられ、琵琶の秘曲伝授は「灌頂」とされた。『金光明最勝王経』の説く弁才天と、『大日経』に由来する妙音天が習合し、広く妙音弁才天が信仰された。その結果、鎌倉時代の琵琶は、宗教的、政治的に極めて象徴的な意味合いを持つに至った。そこで、妙音弁才天信仰の意味を究明するために、『渓嵐拾葉集』に注目した。『渓嵐拾葉集』(一三一一~四八 光宗編著。『大正新修大蔵経』第七十六巻)は、比叡山延暦寺及び関連する故事や口伝を収めた書である。巻第三七に、竹生島弁才天のまつわる安居院流唱導の由緒を記し、一流の祖、藤原通憲を賞揚する記事が収められている。なぜ安居院流唱導にとって、竹生島が重要だったのか。中世から近世にかけて、竹生島は六弁才天の一つに位置づけられていた。六弁才天とは、江の島から厳島に至る六ヶ所の霊験所である。それぞれの信仰の場について弁才天信仰の意味を検証し、弁才天信仰が地域的意義を追求した。その結果、弁才天は根源としては水神であり、護国信仰の中で軍神と結び付いていった。院政期以降の弁才天信仰は、個別の信仰から広域的な信仰へと展開し、人々の交流を生み出した。霊験所を廻る人々の流れから、琵琶湖を始点として宇治川水系、さらに西海を制した西園寺家の姿が見えて来る。西園寺家の覇権の中で、音はどのような意味を持ったのだろうか。西園寺家が到達した音の力とは何であったのかを考察したい。
-----------

『音声表現思想史の基礎的研究-信仰・学問・支配構造の連関-』
http://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/onseisisousi.htm

清水真澄というお名前の仏像研究者がいますが、『音声表現思想史の基礎的研究』の著者は同姓同名の女性研究者なのですね。

http://donkun.ath.cx/~sion/bbs/yyregi.cgi?mode=past&pastlog=12&page=80
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国会図書館周辺の歴史散歩

2010-02-26 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月26日(金)00時07分46秒

>筆綾丸さん
国会図書館の立っている場所には、戦前、ドイツ大使館があったんですね。

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このドイツ大使館の敷地は、梨木坂を挟んで陸軍省の通用門に面しており、また、南の大通りの向こうには昭和11年(1936)に完成した国会議事堂があるなど、日本の立法府や軍と隣り合わせの、きわめて重要な場所に位置していたことは言うまでもない。そればかりではなく、この立地は首相官邸や霞ヶ関にも近いため、ドイツ大使館が戦前の日本で情報活動を行うにも好都合であったらしく、いわゆるゾルゲ事件もこのドイツ大使館を舞台に発生した。

http://www.ndl.go.jp/scenery/column/german-embassy.html

都立中央図書館の近くに立つ有栖川宮熾仁親王像は、昔は三宅坂の参謀本部前にあったそうですが、さすがに往時は絵になる光景だったようですね。

http://jin3.jp/annai/arisugawa.htm
http://homepage3.nifty.com/kindaikenchiku-yuuho/sakusaku/1_9.htm

参謀本部は映画『剣岳 点の記』にも登場しましたね。

http://www.jsurvey.jp/tsurugidake/topics200807-1.pdf
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「副島種臣の借金問題について」

2010-02-23 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月23日(火)00時41分1秒

国会図書館の雑誌検索で「副島種臣」を調べると、硬軟取り混ぜて相当な数の文献がヒットしますね。
その中に「副島種臣の借金問題について」(斎藤洋子、『ソシオサイエンス』Vol.13、2007)というタイトルの論文があったので、取り寄せてみたところ、冒頭に頭山満の回想からの引用がありました。
頭山満の語り口はカラッとしていて、妙な味わいがありますね。

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 頭山満は、往年の回顧録の中で副島種臣との交流に触れ、幾つかのエピソードを紹介している。その中の一つに次のような述懐がある。

金玉均が来て「副島さんが、大変お困りの様子ですが、何んとかなりませんか」といふ。借金で苦しんでゐるといふのぢや。正直な男じやから、方々借金がかさんで気を腐らしてゐる様子ぢや。そこで、私は「私にも金は直ぐ出来んが、借金位のことはどうでもよい。一ツ行つて副島の膽伸ばしをする位造作ない。今からでも行かう」といつて、副島の家へ行つた。そして、「国家の柱石たるあなたが、その位の事に心配するのは宜しくありません。人には能不能があり、そんな金の事などは、あなたが、心配なさらんでも、あなたの知られる人間で其方の能ある者が何んとか致しませう。私共は、拍手一ツ打つてもそんな金位は出来ますが、そんな事は、土台、あなたの御心配なさる問題ではないのですから」といつてやつた。副島は大層喜んで、「いや、金のお世話をして下さらんでも、その御一言は難有い。仲間になつても此の御親切に報ひます」と大いに愁眉を開いてをつた。副島の借金といつても、私の高利貸共から借りてゐたのに比べたら問題にもならんものであつたらう。伊藤(博文)や大木(喬任)などが、その借金を支払つたといふことぢや[薄田1932.82-83]。
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なお、斎藤洋子氏の論文は非常に手堅く真面目なものなので、念のため書いておくのぢや。

頭山満
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0896.html
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妙音天と弁才天

2010-02-23 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月23日(火)00時00分15秒

では、出発点として荻野三七彦氏(1904~1992)の「西園寺の妙音天像─「西園寺家と琵琶」の一節─」(初出1981年)の冒頭部分を紹介してみます。
独特のクセはありますが、滋味豊かな文章ですね。

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 西園寺(家ではなく寺院としての)の妙音天像は史上に著名であるが、一向に未だその像の真相は究明されていない。こうした疑問に誘い出されて、些か真の姿を考察して見たい。
 『とはずがたり』弘安八年(一二八五)の北山准后貞子九十賀で北山西園寺第に行幸(後宇多)、御幸(後深草・亀山・伏見・大宮院・東二条院・新陽明門院)のあった盛儀に、「二条」も愛人の「雪の曙」と称された西園寺実兼からの内密の招きを受けて参第したとしてその記事に、「堂々御順礼ありて妙音堂に御参りあり」と記したが、その他に「妙音堂の御声名残悲しきまゝに」とか、「妙音堂の昼の調子にうつされて」 などとあるのを初め、この他に『増鏡』には同じ貞子九十賀の記述の中に、「妙音堂に御参りあるに」とあり、同書「内野の雪」に「池のほとりに妙音堂」とあって、その池は「池の心ゆたかにわたつうみをたゝへ、峯よりおつる瀧のひびきもげに涙もよほしぬべく」という背後の景観を述べて景勝の地にあったことは明らかであるが、一向にその本尊である妙音天そのもののことの記述は散見せず模糊として不明である。
 ところが一般の知識として、妙音天は弁才天の異称であるとそう解されているが、史上の文献に散見する妙音天は極めて稀有に属し、弁才天に比しては一向に著名な天部であるとは称し得ない。格別の専門研究者である美術史家達は別として私の如き素人には皆目不審の多い天部である。試みに『仏像図典』(佐和隆研編、吉川弘文館刊、昭和三十七年)であるとか、仏教大辞典の類を繙いても「妙音天」という独立した項目はなく、ましてその図様を明示したものは殆ど見当たらない。
 先にも述べたように西園寺の妙音天については建築物である妙音堂は文献に散見するが、その本尊のことは一向に文献には記述されていない。ところが西園寺家関係の資料には妙音天とはあるが、弁才天と称した例は皆無である。斯く観てくると妙音天が如何なる図様の姿のものであったかということには疑問がある。
 私は西園寺家の琵琶(中世前期の)に就いて些か新しく検討を試みようとしたが、その一環として西園寺家が北山西園寺妙音堂内に安置した妙音天はどんな仏像であったものか、それを考えて見ることを思い付くようになった。中世史の中にあっても西園寺の妙音天像そのものは著名ながら、さてとなるとそれを明確に説明したものは一つもない。

『とはずがたり』巻3.「第三日の儀、妙音堂の御遊」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-30-daisannichi.htm

荻野三七彦
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ga_jhistory/p_ogino.html
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角田岬と佐潟

2010-02-22 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月22日(月)00時58分3秒 編集済

仕事が一段落したので、今日は午後から出雲崎と新潟の間をドライブして来ました。
日差しはすっかり春めいて、釣り人も家族連れも皆のんびりした感じでしたね。

角田岬
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2008-08-01

ラムサール条約湿地の佐潟で太陽が沈むところを見ましたが、ここは夕日の名所らしく、十数人のカメラマンが高価そうな機材をセットして撮影していましたね。

http://www.city.niigata.jp/info/kantai/sakata/index.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/kt071636/folder/1254393.html

>Akiさん
私も『鹿苑寺と金閣寺』を入手し、関連する論文もかなり集めました。
妙音天は一度きちんと勉強しておきたいと思っていたので、ちょうどよい機会ですから、他の話題と並行して少しずつ時間をかけて検討してみたいと思います。
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師長の妙音堂

2010-02-18 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月18日(木)08時02分26秒

>Akiさん
櫻井利佳氏の「妙音堂について--妙音院師長研究余滴」(『東洋大学大学院紀要. 43 』、2006年)を見ると、この論文の目的が次のように整理されています。

----------
西園寺家は、天皇家の師範を務める累代の琵琶の家であった。この西園寺家の妙音堂は、秘曲伝授作法と結びついた、琵琶の家の当主に受け継がれる象徴的な存在であった。この西園寺家における家と琵琶道、妙音堂との結びつきについてはすでに諸先学の研究があるため、本論では西園寺家が継承する以前の、師長の妙音堂について述べ、その音楽史上の意味解明の端緒としたい。
----------

ということで、ここで「諸先学の研究」とは、注によると以下の通りです。

荻野三七彦「西園寺の妙音天像─「西園寺家と琵琶」の一節─」(『古文書研究』17,18 1981年)→『日本古文書学と中世文化史』(吉川弘文館、1995年)
高橋秀樹「家と芸能─「琵琶の家」西園寺家をめぐって─」(『芸能の中世』、五味文彦編、吉川弘文館、2000年)
磯水絵『説話と音楽伝承』(和泉書院,2000年)
相馬万里子「琵琶における西園寺実兼」(『中世音楽史論叢』、和泉書院,2001年)

師長の妙音堂と西園寺家の妙音堂の結びつきはなかなか微妙ですね。
櫻井氏の見解を後で紹介したいと思います。

>筆綾丸さん
板碑の量は残存しているものだけでもあまりにたくさんあって、板碑バブルの様相ですね。
宗教的というより政治的・経済的な分析が必要のように思います。
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鹿苑寺石室

2010-02-16 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月16日(火)00時44分25秒

>東さん
ありがとうございます。
確か以前にもこの掲示板で妙音堂のことが話題になって、文献を教えていただきましたね。
今回はきちんと調べてみます。

>鈴木久男氏
この方ですね。

http://www.kyoto-su.ac.jp/liaison/kenkyu/message34.html

>筆綾丸さん
『近代書史』、ようやく入手しました。
副島種臣の世界は広く深く、かつ楽しいですね。
石川氏の解説、最初の方は1990年の『書の終焉』(同朋舎)とほぼ同内容だなあと思って読み進めたのですが、副島の人生と書の関連の分析は緻密になっていますね。
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副島種臣の後半生

2010-02-15 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月15日(月)00時50分15秒

週末は群馬で過ごし、日曜の夜8時過ぎに新潟に戻ってきました。
関越自動車道から見るスキー場の夜景はなかなか綺麗でしたね。
今週は出張が多く、レスが若干遅れそうです。
悪しからず。

>筆綾丸さん
石川九楊氏の書きぶりだと副島種臣が40代半ばで政界を引退したように読めますが、実際には、宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院副議長、第1次松方内閣の内務大臣という具合に、それなりの地位を維持していますね。
書家としての副島は決して虚弱な世捨て人ではないですね。

http://www.kyushu01.com/01/0606/0606-125.html
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/115.html

ドナルド・キーン氏も副島種臣にはかなり興味を抱いているようですので、これも読んでみたいと思います。

http://www.shutsumondou.jp/ijin/ijin06.html
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妙音院師長

2010-02-12 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月12日(金)08時00分47秒

>Akiさん
妙音弁財天についてネットで得られる情報は西園寺までですが、確かこれは妙音院師長まで遡れるはずですね。
以前、櫻井利佳氏の

『文机談』にみる妙音堂と堂供養 / 中世文学. (52) [2007]
妙音堂について--妙音院師長研究余滴 / 東洋大学大学院紀要. 43 (文学(国文学)) [2006]

という論文を入手したのですが、引越し荷物が未整理なので内容を確認できません。
後で調べてみます。

師長については下記サイトが充実していますね。

http://www.kogagaku.org/
http://www2.ocn.ne.jp/~heiryu/myouoninryu.htm

>筆綾丸さん
小亀レスですが、副島種臣の書はちょっとすごいですね。
石川九楊氏『近代書史』は値段が高いので迷っていたのですが、これは購入せざるをえないですねー。
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白雲神社

2010-02-09 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月 9日(火)22時36分16秒

今は形を変えて庶民の神社、などと書いてしまいましたが、リンク先には思いっきり

------------
正解は「お寺」です。
現在、妙音弁財天は相国寺の飛び地になっていて、入口にこそ鳥居がありますが、中は仏教式になっています(鈴でなく鉦を鳴らして拝みます。線香台があります)。
------------

と書いてありますね。
何を勘違いしたのか。
なお、西園寺家が近世に再興した妙音堂は、現在は白雲神社となっていますね。

京都御所 京都御苑散策記
http://52473232.blog97.fc2.com/blog-entry-70.html

::: 悲しき石庭 :::
http://blog.livedoor.jp/rock_garden/archives/51448719.html
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冬の京都

2010-02-09 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月 9日(火)08時11分29秒

>Akiさん
ご紹介、ありがとうございます。
金閣寺雪化粧のニュースを見て、久しぶりに京都に行ってみたいと思っていたところです。
西園寺にあった妙音堂は、今は形を変えて庶民の神社となっているのですね。

http://www.demachi.jp/archives/benten02.html

増鏡・西園寺の建立
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu5-saionjino-konryu.htm

>職人太郎さん
お店の宣伝にもなると思うので、リンクしておきましょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/sozo9daime/
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意外に快適、雪国生活

2010-02-06 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月 6日(土)12時33分53秒

>筆綾丸さん
同じ新潟県内でも海沿いか山沿いかで積雪量は全く違うのですが、雪が少ないはずの新潟市近辺は記録的な大雪みたいですね。
私の住んでいるところもそれなりに降っていますが、ダラダラ降り続くのではなく、天気が晴れからいきなり吹雪といった具合に目まぐるしく変わるのが面白いです。
雪国生活は意外と快適で、楽しいですね。
リンク先は私が最近良く見ているブログですが、私の身近にもこういう風景が存在します。

「JーFam.越後便り」
http://j-fam-3.blog.so-net.ne.jp/2009-01-30

>職人太郎さん
昨日は職人太郎さんご紹介の新潟市内のお店に行こうと思ったのですが、途中で吹雪になってしまい、引き返しました。
また機会を見て伺うつもりです。
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門前とどろ&鳩山幸

2010-02-06 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月 6日(土)11時56分51秒

総持寺で検索していたら、「門前とどろ」という輪島市役所作成のサイトを見つけました。

--------
「門前とどろ」は、かつて輪番制であった曹洞宗大本山総持寺(現在
は横浜・鶴見に移転)の住職が任期を勤め終え、郷里の寺に帰る時に
歓送会の席上で唄い、踊り続けられてきたもので、700年もの長い
歴史を現在まで伝えています。

http://www.monzentodoro.net/todoro_rekishi.html

ということだそうですが、

「能登の門前 一度はおいで
       ここにゃあ名所も 唄もある
          ここにゃあ名所も 唄もある
             (囃子) ぜんざい ぜんざい」

という歌詞を見ると、700年遡るのはちょっと苦しいかな、という気がしますね。
ちなみに「門前どとろの歴史」との表現も見られますが、これは「とどろ」が正しいんでしょうね。

↓の写真には鳩山幸さんが写っていますが、何故?

http://www.monzentodoro.net/todoro_hozonkai.html

峨山道は一度歩いてみたいものです。

http://fukujuin.que.jp/gasanndou.htm
http://www.kanazawa-runners.com/hiroba2/200406sugimoto-gazandou.htm
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峨山道

2010-02-06 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月 6日(土)11時30分7秒

>筆綾丸さん
「通勤托鉢」は少し意地の悪い書き方をしてしまいましたが、たぶん相当広い範囲に分担して出かけるので車の利用が必要なんでしょうね。
伝説の長距離ランナー・峨山紹碩が生きていたら、最近の若いものはなっとらん、と怒るかもしれませんが。

---------------
峨山道ここより始まる

 峨山道とは当本山より羽咋永光寺五老峰に至る約五〇キロの能登半島の中央を貫く難路の古称である。
 当本山二祖峨山紹碩禅師は本山の二代と永光寺四代の御住職を兼ねられ、毎朝早く永光寺の朝の勤行をお勤めになって、この峨山道の難路を越えて、ここ総持寺に馳せつけ、総持寺の朝の勤行をされたと伝えられております。
 それ故総持寺の朝のお勤めを粥了読経と云って、朝食後にお勤めになられたとのことであります。人々はこの様な長距離の険路をお通いになったとは信じられぬかも知りませんが大勇猛精進佛の峨山禅師なればこそ耐え難きを耐え行じ難きを行ぜられたので吾等凡人の思い至る所ではないと固く信じて疑いません。
   大本山総持寺祖院

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5317
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