投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 2月23日(火)00時00分15秒
では、出発点として荻野三七彦氏(1904~1992)の「西園寺の妙音天像─「西園寺家と琵琶」の一節─」(初出1981年)の冒頭部分を紹介してみます。
独特のクセはありますが、滋味豊かな文章ですね。
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西園寺(家ではなく寺院としての)の妙音天像は史上に著名であるが、一向に未だその像の真相は究明されていない。こうした疑問に誘い出されて、些か真の姿を考察して見たい。
『とはずがたり』弘安八年(一二八五)の北山准后貞子九十賀で北山西園寺第に行幸(後宇多)、御幸(後深草・亀山・伏見・大宮院・東二条院・新陽明門院)のあった盛儀に、「二条」も愛人の「雪の曙」と称された西園寺実兼からの内密の招きを受けて参第したとしてその記事に、「堂々御順礼ありて妙音堂に御参りあり」と記したが、その他に「妙音堂の御声名残悲しきまゝに」とか、「妙音堂の昼の調子にうつされて」 などとあるのを初め、この他に『増鏡』には同じ貞子九十賀の記述の中に、「妙音堂に御参りあるに」とあり、同書「内野の雪」に「池のほとりに妙音堂」とあって、その池は「池の心ゆたかにわたつうみをたゝへ、峯よりおつる瀧のひびきもげに涙もよほしぬべく」という背後の景観を述べて景勝の地にあったことは明らかであるが、一向にその本尊である妙音天そのもののことの記述は散見せず模糊として不明である。
ところが一般の知識として、妙音天は弁才天の異称であるとそう解されているが、史上の文献に散見する妙音天は極めて稀有に属し、弁才天に比しては一向に著名な天部であるとは称し得ない。格別の専門研究者である美術史家達は別として私の如き素人には皆目不審の多い天部である。試みに『仏像図典』(佐和隆研編、吉川弘文館刊、昭和三十七年)であるとか、仏教大辞典の類を繙いても「妙音天」という独立した項目はなく、ましてその図様を明示したものは殆ど見当たらない。
先にも述べたように西園寺の妙音天については建築物である妙音堂は文献に散見するが、その本尊のことは一向に文献には記述されていない。ところが西園寺家関係の資料には妙音天とはあるが、弁才天と称した例は皆無である。斯く観てくると妙音天が如何なる図様の姿のものであったかということには疑問がある。
私は西園寺家の琵琶(中世前期の)に就いて些か新しく検討を試みようとしたが、その一環として西園寺家が北山西園寺妙音堂内に安置した妙音天はどんな仏像であったものか、それを考えて見ることを思い付くようになった。中世史の中にあっても西園寺の妙音天像そのものは著名ながら、さてとなるとそれを明確に説明したものは一つもない。
『とはずがたり』巻3.「第三日の儀、妙音堂の御遊」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-30-daisannichi.htm
荻野三七彦
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ga_jhistory/p_ogino.html