学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0182 「後嵯峨院の御遺勅」に関する『梅松論』と『増鏡』の比較(その4)

2024-09-30 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第182回配信です。


一、前回配信の補足

後嵯峨院皇子の円助法親王(1236‐1282)の役割は後嵯峨院の同母兄・仁助法親王と似ている。

仁助法親王(1214‐1262)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%8A%A9%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B

佐伯智広氏「中世前期の王家と法親王」(『立命館文學』624号、2012)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/saeki.pdf

p351以下
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第三節 土御門皇統と法親王

 仁治三年(一二四二)に四条天皇が死去して後高倉皇統が断絶すると、後嵯峨天皇が即位し土御門皇統の時代に入る。後嵯峨親政期の従来との大きな違いは、後嵯峨天皇の践祚後に真っ先に親王宣下を受けた仁助法親王が園城寺の僧であったことである。後嵯峨天皇が仁治三年正月二○日に践祚すると、仁助は四月一五日に親王宣下を受け、七月一七日には園城寺長吏に任じられた。
 それまでは御室こそが王権にとって仏教界で最重要の地位であり、皇統の変動が起こると、新たな院や天皇は、自身の家の構成員を御室の後継者とするために手を尽くしてきた。【中略】
 ところが、後嵯峨天皇の場合、関係者が御室となるのは、後嵯峨天皇の子の性助がわずか一二歳で御室となった弘長二年(一二六二)のことである。このときすでに践祚から一六年が経過し、後嵯峨天皇は退位して後深草天皇が在位しており、しかも翌年には後深草天皇から亀山天皇への譲位が行われている。
【中略】
 後嵯峨親政期から後嵯峨院政期の前半にかけて、仁助は、後嵯峨院家内部の問題にとどまらず、政治的にも非常に重要な役割を果たした。まず指摘できるのが、父土御門院の追善仏事における活動である。
【中略】
 寛元四年の九条通家失脚に関連して、鎌倉幕府から後嵯峨院に徳政の実施と関東申次の人事について通告が行われるが、その内容が六波羅探題北条重時より後嵯峨院にもたらされた際、 院の下に伺候していたのは、仁助・太政大臣西園寺実氏・前内大臣土御門定通であった。また、翌宝治元年(一二四七)に鎌倉幕府から徳政などのことについて二階堂行泰・大曾禰長泰が使者として派遣された際にも、使者は前太政大臣西園寺実氏の下に向かった後、後嵯峨院の御所で太政大臣久我通光・摂政近衛兼経・仁助と対面している。翌宝治二年(一二四八)に政道の事について幕府から後嵯峨院に使者が遣わされた際にも、後嵯峨院の御所に仁助が参入し、使者は仁助の房に参向している。
 仁助は単に鎌倉からの連絡を受けるだけでなく、それを受けて公家政権側の対応の決定にも関わっており、宝治元年には摂政近衛兼経・前太政大臣西園寺実氏とともに、宝治二年には摂政近衛兼経とともに、後嵯峨院の下で対応を協議している。これらの政務関与者のうち、近衛兼経は摂政として廟堂の首座にあり、西園寺実氏は関東申次となった親幕派の中心であり、土御門定通・久我通光は後嵯峨院の外戚であって、いずれも後嵯峨院政を支える重要人物である。仁助は彼らと並んで、重大な政務決定の際には欠かせない存在であった。
 他にも、仁助は宝治元年に後嵯峨院・近衛兼経とともに除目の沙汰を行っている。また、宝治二年の無動寺門跡相続や久我通光領相続をめぐる相論が生じた際には、裁定を行う院評定に先立って、後嵯峨院は仁助と事前の相談を行っている。これは、仁助が院評定への出席権を持たないために取られた処置であろう。
【中略】
 これらの事例に対し、仁助の活動は、格段に重大な問題に関与しており、その関わり方の深さも他と比較にならない。これも、先に述べたような政治的事情によって生み出された特殊な状況であるが故であろう。とはいえ、のちに後嵯峨院が遺領の処分を行った際に、後深草院・亀山天皇と並んで、円助法親王の名前が挙がっていることや、幕府が後嵯峨院の死後に次の治天について問い合わせ、後家である大宮院が後嵯峨院の遺志は亀山天皇を後継者とすることにあったと回答した際、西園寺実氏とともに円助法親王が関与しているように、後嵯峨院は自身の家の構成要素に法親王を組み込んでいた。円助は仁助の次の円満院門跡となった後嵯峨院の皇子であり、その立場は弘長二年(一二六二)に死去した仁助を引き継いだものと言えよう。
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龍粛「後嵯峨院の素意と関東申次」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957、p201以下)
http://web.archive.org/web/20070118121637/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-01.htm
帝国学士院編纂『宸翰英華』-伏見天皇-(紀元二千六百年奉祝会、1944)
http://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm


二、『増鏡』が「後嵯峨院御素意」を歪めて記述したのは故意か過失か。

資料:『増鏡』に頻出する「後嵯峨院御素意」〔2024-09-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82d65e42f300462470b5c968567645ed

「巻二 新島守」(その6)─北条泰時〔2018-01-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード〔2018-01-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9

後深草天皇と西園寺公子の年齢差(その1)(その2)〔2018-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7b792ff5ee6cb2bd99999017f9bf2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e743a41596fcdc67e5caffe467aa917d
もしも西園寺公子(東二条院)が『五代帝王物語』を読んだなら。〔2018-01-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac87402194e0c5348b6a84138974ace4
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0181 「後嵯峨院の御遺勅」に関する『梅松論』と『増鏡』の比較(その3)

2024-09-29 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第181回配信です。


一、前回配信の補足

円助法親王(1236‐1282)
http://web.archive.org/web/20061006212457/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-enjohosshinno.htm
円満院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E6%BA%80%E9%99%A2

佐伯智広氏「中世前期の王家と法親王」(『立命館文學』624号、2012)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/saeki.pdf


二、龍粛「後嵯峨院の素意と関東申次」の続き

http://web.archive.org/web/20070118121654/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-04.htm
http://web.archive.org/web/20070118121717/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-05.htm

帝国学士院編纂『宸翰英華』-伏見天皇-(紀元二千六百年奉祝会、1944)
http://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm

両統迭立期に関する最近の研究成果を知るためには『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)が良い。

https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b604393.html

坂口太郎氏「京極為兼の失脚」(『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』)〔2022-07-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/811ea1c8e6a9c206a0beabe2e98701ee
坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問(その1)〔2022-07-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7d295ec22dffdd32c01dbd66fc7f53e2
坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その2)〔2022-07-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd7067087d8851371b5f7e6fa963f23a
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0180 「後嵯峨院の御遺勅」に関する『梅松論』と『増鏡』の比較(その2)

2024-09-28 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第180回配信です。


一、前回配信の補足

『梅松論』の特徴
(1)承久の乱の戦後処理(今上退位、三上皇配流)については非難せず
(2)「後嵯峨院の御遺勅」について、極端なまでに大覚寺統の主張に追随
(3)足利家による倒幕の正統性について独自の主張なし
  (足利家時の置文、足利尊氏が頼朝の再来、といった主張なし)

これは倒幕時には、史実として、足利家に独自の正統性主張が存在しなかったことの反映ではないか。

→『梅松論』は建武四年(1337)三月六日の越前金崎城の落城で終わっていて、翌建武五年(1338)五月二十二日の北畠顕家の死、同年閏七月二日の新田義貞の死、更には同年八月十一日の足利尊氏征夷大将軍就任も記さない。

→『梅松論』の成立は通説・有力説よりかなり早く、最終記事の後、間もなくなのではないか。

『梅松論』


二、史実としての「後嵯峨院御素意」と両統問題

龍粛「後嵯峨院の素意と関東申次」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957、p201以下)
http://web.archive.org/web/20070118121637/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-01.htm
http://web.archive.org/web/20070118053823/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-02.htm
http://web.archive.org/web/20070118121650/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-03.htm
http://web.archive.org/web/20070118121654/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-04.htm
http://web.archive.org/web/20070118121717/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-05.htm

龍粛(1890‐1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%B2%9B

三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究』、岩波書店、1922、p64)
http://web.archive.org/web/20061006195115/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm
http://web.archive.org/web/20061006212841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-02.htm
http://web.archive.org/web/20061006212846/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-03.htm

三浦周行「両統問題の一波瀾」(『日本史の研究』、岩波書店、1930、p17以下)
http://web.archive.org/web/20061006194534/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondaino-ichiharan.htm

森茂暁「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって-」(『鎌倉時代の朝幕関係』、思文閣、1991、p235以下)
http://web.archive.org/web/20061006194956/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm
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0179 「後嵯峨院の御遺勅」に関する『梅松論』と『増鏡』の比較(その1)

2024-09-27 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第179回配信です。


一、従来の私見の修正

『梅松論』の偏見について〔2021-09-06〕
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しかし、実際に『梅松論』を読んでみれば明らかなように、『梅松論』の著者は後嵯峨院が寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去したとするなど、公家社会には全く無知な人で、大覚寺統寄りの公家のプロパガンダに弱く、およそ「歴史家」といえるようなレベルの知識人ではありません。
現代であれば、せいぜい暴力団抗争のルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52d22a554cdc98920ab706b7607fb568

改めて『梅松論』を読んでみたところ、上記の評価は行き過ぎだった。
後嵯峨院の没年についての誤解を除き、細かな間違いは多々あるが、朝廷の歴史については概ねオーソドックスな理解。
慈光寺本『承久記』のような奇妙な軍記物語とは異なる。

(その7)─「国王兵乱」〔2023-02-16 〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ceb221e963f9e49a0409bcecaf871ebf
(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎〔2023-02-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16
(その9)─序文が置かれた理由〔2023-02-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0495e94d944a417e9c8bbe56fd12b047

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その1)─作成にあたっての私の下心〔2023-10-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/994483d961bd3251f16e425a5658df7d
【中略】
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その72)─「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」(by 芝田兼義)〔2023-12-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d5b9a4cd83c1d55800ea0b677b8a7b6


二、「後嵯峨院の御遺勅」に関する『梅松論』と『増鏡』の比較

資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」〔2024-09-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680
資料:『増鏡』に頻出する「後嵯峨院御素意」〔2024-09-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82d65e42f300462470b5c968567645ed
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資料:『増鏡』に頻出する「後嵯峨院御素意」

2024-09-27 | 鈴木小太郎チャンネル2024
「巻八 あすか川」(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p174以下)
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 あはれに悲しといひつつも、止まらぬ月日なれば、故院の御日数〔ひかず〕も程ならず過ぎ給ひぬ。世の中は新院かくておはしませば、法皇の御かはりにひきうつしてさぞあらん、と世の人も思ひ聞えけるに、当代の御一つ筋にぞあるべきさまの御おきてなりけり。長講堂領、また播磨国、尾張の熱田の社などをぞ御処分ありける。
 いづれの年なりしにか、新院、六条殿に渡らせ給ひし此、祇園の神輿たがひの行幸ありし時、御対面のやうを、故院へたずね申されたりしにも、「われとひとしかるべき御事なれば、朝覲になぞらへらるべし」と申されける。一つ御腹の御このかみにてもおはします。かたがたことわりなるべき世を、思ひの外にもと思ふ人々も多かるべし。「いでや位におはしますにつきて、さしあたりの御政事などはことわりなり。新院にも若宮おはしませば、行く末の一ふしはなどか」など、いひしろふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9987f4c5e8c030e45a36f6e5321ba012

「巻九 草枕」(p192)
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 本院は、故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらめ、といよいよ御心を致してねんごろに孝じ申させ給ふさま、いと哀れなり。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9efdd135944be1585591ae9c0b27084c

同(p203以下)
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 それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しき業なり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a215e2fdd16eebd3030158d91937ae8

「巻十一 さしぐし」(p359)
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 中宮の御せうと権大夫公衡、一の院の御まへにて、「この事はなほ禅林寺殿(ぜんりんじどの)の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分(そうぶん)を引きたがへ、東(あづま)かく当代(たうだい)をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思(おぼ)すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出(い)でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」など、かの承久の例(ためし)も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまではあらん。実ならぬ事をも人はよくいひなす物なり。故院のなき御影(かげ)にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて、なほ内(うち)よりの仰せなど、きびしき事ども聞ゆれば、中院も新院も思(おぼ)し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、しろしめさぬよし誓ひたる 御消息(せうそこ)など東(あづま)へ遣されて後(のち)ぞ、ことしづまりにけり。

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

「巻十四 春の別れ」(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p134以下)
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 そのころ長月ばかり、まだしののめの程に、世の中いみじく騒ぎののしる。何事にか、と聞けば、美濃の国の兵〔つはもの〕にて、土岐の十郎とかや、また多治見の蔵人などいふ者ども、忍びて上りて、四条わたりに、たち宿りたる事ありて、人に隠れてをりけるを、はやうまた告げ知らする者ありければ、にはかにその所へ六波羅より押し寄せて、からめとるなりけり。あらはれぬとや思ひけん、かの者どもはやがて腹きりつ。また別当資朝、蔵人の内記俊基、同じやうに武家へ捕られて厳しくたづねとひ、まもり騒ぐ。
 事の起りは、御門世を乱り給はんとて、かの武士〔もののふ〕どもを召したるなり、とぞいひあつかふめる。さてその宣旨なしたる人々とて、この二人をも東〔あづま〕へ下していましむべし、とぞ聞ゆる。いかさまなることの出で来べきにか、といと恐ろしくむつかし。
 「故院おはしましし程は、世ものどかに、めでたかりしを、いつしかかやうのことも出で来ぬるよ」と人の口安からざるべし。正応にも、浅原といひし騒ぎは、後嵯峨院の御処分を、東よりひき違へし御恨みとこそは聞えしかば、今もその御いきどほりの名残なるべし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39918d9939154b3a1b066e8073be4474


新年のご挨拶(その4)〔2021-01-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その4)(その5)〔2022-04-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85a4a80b63d87592000052ea5b5af7b8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2900dbc81bf05385276500560ba1da53
0122 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その2)〔2024-07-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1857cd4d90184337acd656eef84cfda8
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資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」

2024-09-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』(現代思潮社、1975)
http://www.gendaishicho.co.jp/book/b527.html

底本は彰考館文庫蔵「梅松論」(延宝六年書写本)

p42以下
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 次に治承四年より元弘三年に至るまで百九十四年の間、関東将軍家ならびに執権の次第は頼朝・頼家・実朝已上三代武家也。又、頼経・頼嗣已上二代は摂政家也。又、宗尊・惟康・久明、宗邦已上四代は親王なり。惣〔そうじ〕て九代なり。

 次に執権の次第は遠江守時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時已上九代、皆以将軍家の御後見として政務を申行ひ天下を治め、武蔵・相摸両国の守をもて職として、一族の中の器用を撰び署して御下文下知等を将軍の仰下さるゝに依て申沙汰しけり。元三垸飯〔ぐわんざんのわうばん〕・弓場始・遅の座・貢馬・随兵已下の処役の輩、諸侍どもに対しては、傍輩の義を存す。昇進におゐては家督を徳宗と号す。従四品下を以て先途として、遂に過分の振舞なくして政道に専にして仏神を尊敬し、万民をあはれみ育みしかば、吹風の草木をなびかすがごとくに、したがひ付しほどに、天下悉く治りて代々目出度〔めでたく〕とありける。

 しかるに高時の執権は正和五年より正中二年にいたるまで十ヶ年なり。同正中二年の夏、病によりて落髪せられしかば、嘉暦元年より守時・維貞を以て連署たり。自是、関東の政道漸く非義のきこえ多かりけり。中にも殊更御在位の事を申たがへしかば、争〔いかで〕か天命背かざらむ。其故はむかしより受禅と申は代々の御門禅を受給て、御在位のときは儲君を以て東宮に立給しかば、宝祚乱るゝ事なかりき。

 粗、往事を聞に、天智天皇の御子大伴皇子をさし置、御弟天武をもて御位を譲奉給しかば、御即位の望なきよしをあらはさんが為に、吉野山に入給ふところに、大伴皇子天武を襲給ける間、伊賀・伊勢に御出ありて太神宮を拝したまひて官軍を駈催し、美濃・近江のさかひにおゐて合戦を致して遂に大伴の乱をたいらげて位につき給ふ。清見原天皇是也。次に光仁天皇禅を受給ふ刻、子細あるによりて、宰相藤原百川卿を誅して即位し給ふ。次に嵯峨天皇の御在位の時、尚侍督の勧に依て平城の先帝合戦に及ぶといへども、桓武天皇の叡慮に任せて嵯峨天皇御在位を全し給ふ。次に文徳天皇の御子惟高・惟仁、御気色何れもわきがたきに依て、御即位の事、天気更に御計ひ難き間、相撲・競馬、雌雄決して其勝に任て清和御門御禅を受給ひけり。保元に鳥羽院崩御有て十ヶ日の内に上皇と崇徳院御兄弟、御位諍〔あらそひ〕有しかども、勅命にまかせて洛中に陣をとり戦ひに及ぶといへども、天の与るにまかせて終に主上御位を全くし給て、崇徳院は讃岐国に遷奉り、院宣を受し源平の軍士悉く誅せらる。次に高倉院は賢王にてましましければ、御在位の程は天下安全にて宝祚可久処に、安徳天皇三歳にして御即位し給ける。是は、外祖父清盛禅門の計らひなり。剰〔あまつさ〕へ天下の政務を恣にせし程に、則、天に背し也。次に承久に後鳥羽院、世を乱給ひしに依て隠岐国に移し奉る。御孫後堀川天皇を関東より御位に付奉る。皆一旦御譲の渉外たりといへども遂に正義に帰するなり。

 爰に後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻、遺勅に宣く、一の御子後深草院御即位あるべし。おりゐの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として御子孫永く在位の望をやめらるべし。次に二の御子亀山院御即位ありて、御治世は累代〔るいだい〕敢不可有断絶。子細有に依てなりと御遺命あり。是に依りて後深草院御治世、宝治元年より正元元年に至るまで也。次に亀山院の御子後宇多院御在位、建治元年より弘安十年に至る迄なり。後嵯峨院崩御以後、此三代は御譲にまかせて御治世相違なきところに、後深草院の御子伏見院は一の御子の御子孫なるに御即位ありて正応元年より永仁六年に至る。次に伏見院の御子持明院、正安元年より同三年に至〔いたる〕。此二代は関東のはからひよこしまなる沙汰あり

 然間、二の御子亀山院の御子孫、御鬱憤有に依て、又、其理にまかせて後宇多院の御子後二条院、御在位あり。乾元々年より徳治二年にいたる。又、此君非義有に依て立帰、一の御子の御子後伏見院の御子、萩原新院御在位あり、延慶元年より文保二年にいたる。又、御理運に返て、後宇多院の二の御子後醍醐、御在位あり。元応元年より元弘元年に到る。如此、後嵯峨院の御遺勅相違して御即位転変せし事、併〔しかしながら〕、関東の無道なる沙汰により、いかでか天命に背かざるべきと、遠慮有人々の耳目を驚かさぬはなかりけり

抑〔そもそも〕、一の御子の御子の御子、後伏見院御在位のころ関東へ潜に連々仰せられていわく、「亀山院の御子孫御在位連続あらば、御治世の威勢を以ての故に、諸国の武家君を擁護し奉らば関東遂にあやうからんもの也。其故は承久に後鳥羽院隠岐国へ移し奉りし事、やすからぬ叡慮なりしを、彼院深思召れて、やゝもすれば天気関東をうちほろぼし治平ならしめん趣なれども、時節、未到来せざるに依て、今に到るまで安全ならず、一の御子後深草院の御子孫におひては、天下の為によて元より関東の安寧をおぼしめし候処也と、仰下されける程に、是に依て関東より君をうらみ奉る間、御在位の事におゐては、一の御子後深草院、二の御子亀山院の両御子孫、十年を限に打替/\御治世あるべきよしはからひ申間、後醍醐院の御時、当今の勅使には吉田大納言定房卿、持明院の御使には日野中納言の次男の卿、京都・鎌倉の往復再三に及ぶ。勅使と院の御使と両人関東におゐて問答事多しといへども、定房卿申されけるは、既に後嵯峨院の御遺勅にまかせて一の御子後深草院の御子孫、長講堂領を以て今に御管領有上は、二の御子亀山院の御子孫は累代相違有べからざる処に、関東の沙汰として度々に及て転変更に其期を得ず。当御子孫御在位の煩、常篇に絶えず。篇を尽し申さるゝといへども、以同篇たる上は是非にあたはざるよし、再三仰をくださるゝによて、二の御子の御子孫、後醍醐御禅を受たまひて、元応元年より元弘元年に至る御在位の間、今におゐては後嵯峨院の御遺勅治定の処に、元徳二年に持明院の御子立坊の儀あり、以外の次第なり。 

凡、後醍醐院我神武の以往を聞に、未〔いまだ〕下として天下の位を定奉る事を不知〔しらず〕。且は後嵯峨院の明鏡なる遺勅をやぶり奉る事天命いかんぞや。輒〔たやすく〕、御在位十年をかぎりりに打替/\有べき規矩をさだめ申さんや。しかれば持明院統十年御在位の時は御治世と云、長講堂領と云、御満足あるべし。当子孫空位の時はいづれの所領をもてあるべきや。所詮、持明院の御子孫すでに立坊の上は、彼の御在位十年のあいだは長講堂領をもて十年亀山院の御子孫に可被進よし、数ヶ度道理を立て問答に及ぶといへども、是非なく持明院の御子の光厳院立坊の間、後醍醐院逆鱗にたへずして、元弘元年の秋八月廿四日、ひそかに禁裏を御出有て山城国笠置山へ臨幸あり。卿相雲客少々供奉す。畿内の軍兵等をめされ催さるゝの間、天下騒ぎ申もをろかなり。

【中略】(後醍醐天皇等の配流)

 保元には、崇徳院を讃岐国へ移し奉る。是は今度の事には不可准、其故は御兄弟御位諍給ひしかば、御弟後白川院の御計ひとして其沙汰に及びしなり。承久には後鳥羽院を隠岐国に遷〔うつし〕奉り、是又、今度に比すべからず。其故は忠有て科〔とが〕なき関東三代将軍家の遺跡を可被亡天気有に依て、下を責給しかば天道のあたへざる理に帰して、遂に仙洞を隠岐国へ移し奉る。然といへども猶〔なほ〕武家は天命を恐て御孫の後堀川天皇を御位に付奉る。神妙の沙汰なりとぞ皆人申ける。今度は後嵯峨院の御遺勅を破て、如此の儀に及〔およぶ〕条、天命も計りがたし。いかゞあるべからんとおぼえし。此君御科なくして遠島に移され給ふ、叡慮のほど図り奉りて、御警固の武士ども皆涙をながさぬはなかりけり。
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0178 『梅松論』の作者は『増鏡』(の原型)を読んでいるのではないか。(その4)

2024-09-24 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第178回配信です。


一、前回配信の補足

「世良」の読み方
https://x.com/uizhackiinmuufb/status/1838284635694075969

北畠親房と後深草院二条との関係については、後日、岡野友彦氏の『北畠親房 大日本は神国なり』(ミネルヴァ書房、2009)などを参照しつつ、検討予定。

「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)〔2020-12-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52

なお、久しぶりに同書を読んでみたところ、「(土御門)定通に嫁いだ北条義時の娘が、乱前の承久二年に定通の次男顕親を産んでいることからも、定通が乱前から鎌倉方であったことは明白である」(p9)とあったが、これは誤り。
定通は官軍として参戦している(『吾妻鏡』承久三年六月八日条)。

「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情〔2020-05-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)〔2020-05-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e091c3125d7f725ea770c2505e7b8c6
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)〔2022-01-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18728f3064e7515456553a7fc5fadf51


二、「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」の問題

『増鏡』の作者は後深草院二条、その成立は1330年代。
『とはずがたり』と『増鏡』(の原型)の主たる読者は東国武家社会のエリートではないか。
『とはずがたり』は社交の道具であるが、その付随的な効果として、ここで描かれた後深草院像により持明院統のイメージは悪化する。
他方、『増鏡』では「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」が大覚寺統(亀山院子孫)であったことが繰り返し語られる。
これは『増鏡』(の原型)の東国社会に向けられたプロパガンダなのではないか。
『とはずがたり』も『増鏡』(の原型)も、鎌倉末期に大覚寺統の戦略的な書物として東国社会で機能したのではないか。

新年のご挨拶(その4)〔2021-01-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その4)(その5)〔2022-04-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85a4a80b63d87592000052ea5b5af7b8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2900dbc81bf05385276500560ba1da53
0122 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その2)〔2024-07-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1857cd4d90184337acd656eef84cfda8

「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」に関しては、『梅松論』は『増鏡』のプロパガンダの引き写し。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)〔2020-11-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
『梅松論』の偏見について〔2021-09-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52d22a554cdc98920ab706b7607fb568
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0177 『梅松論』の作者は『増鏡』(の原型)を読んでいるのではないか。(その3)

2024-09-23 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第177回配信です。


一、前回配信の補足

『増鏡』巻十一「さしぐし」で、二条が三条と名付けられて嘆いたという場面を紹介するに際し、「二条が「三条」として登場することについての私の解釈はこちら」としてリンク先を示していたが、これは旧サイトでも少し古い記事だった。
2002年の時点での私見はこちら。

第二章 『増鏡』の作者
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/2002-zantei02.htm

後深草院二条が『増鏡』の作者であることは、『増鏡』を最初に読んだ時点で既に私の確信となっており、現在の私にとっては自明の前提。
そして、旧サイトの時点で、武家社会で流行した早歌の作者「白拍子三条」の問題に気づいていたが、2018年に改めて「白拍子三条」について整理した。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)〔2018-03-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」〔2018-03-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」〔2018-03-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕〔2018-03-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d

その後、2022年に「昭慶門院二条」の問題に気づき、これも二条の隠名であろうと考えている。

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が催された時点では、昭慶門院は女院号を得ておらず。
にもかかわらず、『拾遺現藻和歌集』(元亨二年、1322)では「昭慶門院二条」が参加したとされている。

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その1)〔2022-09-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba239fca9ea719a85c4aa76e98c8ccb0
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その1)〔2022-09-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7233f3ad4f365e54f0280694dc7248cd
2022年10月の中間整理(その1)~(その5) 〔2022-10-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a51ac87b2f3a875e870d8c9f1d1663e6
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f8d739b09248d618852064d57b27c8d

昭慶門院(1270‐1324)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%99%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

亀山院皇女。後醍醐天皇皇子の世良親王(?‐1330)を養育。
昭慶門院を通じて北畠親房との接点が出て来る。
『増鏡』と『神皇正統記』の思想が近いことは従前から指摘されている。


二、『梅松論』の承久の乱の記述

矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』(現代思潮社、1975)
http://www.gendaishicho.co.jp/book/b527.html

p39以下
-------
 去程に武蔵守泰時、相摸守時房連署として政務をとり行〔おこなふ〕の処に、同承久三年の夏、後鳥羽院御気色として関東を亡さんために、先〔まづ〕、三浦平九郎判官胤義・佐々木弥太郎判官高重・同子息経高等を以て、六波羅伊賀太郎判官光季等を誅し、則、官軍関東へ発向すべき由五月十九日其聞へある間、二位の禅尼は舎弟右京亮并びに諸侍等をめして宣ひしは、我なまじゐひに老の命残て、三代将軍の墓所を西国の輩の馬のひづめにかけん事と、甚〔はなはだ〕、口おしき次第なり。我存命してもよしなし。先、尼を害し君の御方へ参ずべしと、泣々仰られければ、侍共申けるは、我等皆右幕下の重恩に浴しながらいかでか御遺跡を惜み奉らざるべき。西を枕とし命を捨べきよし、各〔おのおの〕、申しければ、同廿一日十死一生の日なりけるに、泰時并に時房、両大将として鎌倉を立給ふ。
-------

「三代将軍の墓所を西国の輩の馬のひづめにかけん事」は『承久記』慈光寺本の、

-------
大将殿・大臣殿二所ノ御墓所ヲ馬ノ蹄ニケサセ玉フ者ナラバ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a35b665e1e27bd981fc169c4fa7ffb

を連想させる。
ただ、慈光寺本にも「先、尼を害し君の御方へ参ずべし」といった表現はなく、『梅松論』が慈光寺本の影響を直接に受けているとも言い難い。

流布本も読んでみる。(その12)─「尼程物思たる者、世に非じ」〔2023-04-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9854a9a3a206b7a5b3ad99fd91c09cf
(その13)─「一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」〔2023-04-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266
(その14)─慈光寺本の政子の演説との比較〔2023-04-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00bd3e649b0356c54796c755db41a69e
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その10)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続々)〔2023-10-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31f9298885a988a2bbbabf1631511f8b


p40以下
-------
 然るに、泰時は父の義時に向て曰〔いはく〕、国は皆、王土にあらずといふ事なし。されば和漢ともに勅命を背者〔そむくもの〕、古今誰か安全する事なし。其元、平相国禅門は後白川院をなやまし奉たりしかば、依是、故将軍頼朝卿、潜に勅命を蒙て平家一類を誅罰ありしかば、忠賞官録残処なかりき。就中〔なかんづく〕、祖父時政を始として其賞に預る随一なり。然ば身にあたつて今勅勘を蒙る事、なげきても猶あまりあり。たゞ天命のがれがたき事なれば、所詮、合戦をやめ降参すべきよしをしきりにいさめける処に、よし時良〔やや〕暫くありていはく、此儀、尤〔もつとも〕神妙なり。但それは君主の御政道正しき時の事也。近年天下のをこなひをみるに、公家の御政古にかへて実をうしなへり。其子細は朝に勅裁有て夕に改まるに、一処に数輩の主を付らる間、国土穏なる処なし。わざわひ未及処はおそらく関東計也。治乱は水火の戦に同じきなり。如此の儀に及間〔およぶあひだ〕、所詮、天下静謐の為たるうへは、天道に任て合戦を可致、若〔もし〕、東士利を得ば、申勧たる逆臣を給て重科に行べし。又、御位におひて彼院の御子孫を位に付奉るべし。御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし。是又〔これまた〕、一儀なきにあらずと宣〔のたまひ〕ければ、泰時を始として東士各〔おのおの〕、鞭を上て三の道より同時に責〔せめ〕のぼる。
 東海道の大将軍は武蔵守泰時、相摸守時房、東山道は武田、小笠原、北陸道は式部丞朝時、都合其勢十九万騎にて発向し三の道より同時に洛中に乱入しかば、都門忽に破れて逆臣悉く討取〔うちとられ〕し間、院をば隠岐国に遷し奉り、則、貞応元年に院の御孫後堀川天皇を御位に付奉る。御治世貞応元年より貞永元年に至て十一ヶ年也。
-------

先に「泰時并に時房、両大将として鎌倉を立給ふ」としながら、「然るに、泰時は父の義時に向て曰〔いはく〕」とあって、『増鏡』のように、泰時がいったん出発した後にただ一人戻ってきて義時に質問したのかははっきりしない。
天理本では「鎌倉ヲ立時、泰時父義時ニ向テ曰ク」、京大本では「鎌倉ヲ立ケル時、泰時父義時ニ向テ曰ク」とあって、発つ前の出来事としている。
しかし、「御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし」は『増鏡』の「まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし」とそっくりではないか。
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0176 『梅松論』の作者は『増鏡』(の原型)を読んでいるのではないか。(その2)

2024-09-22 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第176回配信です。



歴史的重要性がない出来事をことさらに念入りに書いている記事は作者を推定する有力な材料となるのではないか。

『増鏡』巻十一「さしぐし」.女御入内(一)
-------
久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。

http://web.archive.org/web/20150918011114/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-nyogojudai-1.htm


二、『増鏡』と『梅松論』の関係

(1)「かしこくも問へるをのこかな」エピソードとの類似性

『梅松論』p41
-------
【前略】若、東士利を得ば、申勧たる逆臣を給て重科に行べし。又、御位におひて彼院の御子孫を位に付奉べし。御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし。【後略】
-------

「巻二 新島守」(その6)─北条泰時〔2018-01-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード〔2018-01-07〕

(2) 「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」の問題

『増鏡』の作者が後深草院二条、その成立は1330年代だとすると、『とはずがたり』と『増鏡』(の原型)の主たる読者は東国武家社会のエリートではないか。
『とはずがたり』は社交の道具であるが、その付随的な効果として、ここで描かれた後深草院像により持明院統のイメージは悪化する。
他方、『増鏡』では「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」が大覚寺統(亀山院子孫)であったことが繰り返し語られる。
これは『増鏡』(の原型)の東国社会に向けられたプロパガンダなのではないか。

新年のご挨拶(その4)〔2021-01-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その4)(その5)〔2022-04-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85a4a80b63d87592000052ea5b5af7b8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2900dbc81bf05385276500560ba1da53
0122 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その2)〔2024-07-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1857cd4d90184337acd656eef84cfda8

「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」に関しては、『梅松論』は『増鏡』のプロパガンダの引き写し。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)〔2020-11-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
『梅松論』の偏見について〔2021-09-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52d22a554cdc98920ab706b7607fb568
コメント (2)
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0175 『梅松論』の作者は『増鏡』(の原型)を読んでいるのではないか。(その1)

2024-09-20 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第175回配信です。


一、序文の類似性

増鏡
梅松論

通説では『梅松論』の成立は『増鏡』に先行。
しかし、『増鏡』を1330年代の成立と考えると、『梅松論』作者が『増鏡』を読んでいる可能性が出て来る。

p36以下
-------
 何〔いづ〕れの年の春にや有けん。二月〔きさらぎ〕廿五日を参籠の結願に定て北野の神宮寺毘沙門堂に道俗男女群集し侍りて、或は経陀羅尼を読誦し、或は坐禅観法を凝し、あるひは詩歌を吟じけるに、更闌夜寂にて松の風梅の匂何れもいと神さびて心すみわたり侍りけり。
 角〔かく〕て暫く念珠の隙有けるに、有人の云、かゝる折節申せば憚あれども御存知ある方もやあるとおもひ侍て、多年心中の不審を申也。知召かたもあらば御物語あれかし、抑〔そもそも〕、先代を亡して当代御運を開かれて、栄曜代に越たる次第、委く承度候。誰にても御語り候へかしと申し侍りければ、良〔やや〕静返りてありけるに、なにがしの法印とかや申て、多智多芸の聞えありける老僧出て申けるは、とし老ぬるしるしに古よりの事ども聞をき侍しをあら/\かたり申べき也。失念定て多かるべし、其をも御存知あらん人々、助言も候へと申されければ、本人は申に不及、満座是こそ神の御託宣よと悦の思をなして聞侍けるに、法印いはく、爰に先代と云は元弘年中に滅亡せし相模守高時入道の事なり。承久元年より武家の遺跡絶えてより以来、故頼朝卿後室二位禅尼のはからひとして、公家より将軍を申下りて、北条遠江守時政が子孫等を執権として、於関東天下を沙汰せしなり。
-------

p141
-------
 去程に春宮、光厳院の御子御即位あるべしとて、大嘗会の御沙汰ありて、公家は実〔まこと〕に花の都にてとありし。いまは諸国の怨敵、或は降参し、或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪を平げ、干戈と云事もきこえず。されば天道は慈悲と賢聖を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にもこえ、ありその海のはまの砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数には、いかでかおよぶべきとぞ法印かたり給ひける。
 或人是を書とめて、ところは北野なれば、将軍の栄花、梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳をひとしくすべし。飛梅老松年旧〔ふり〕て、まつ風吹けば梅花薫ずるを、問と答とに准〔なぞ〕らへて、梅松論とぞ申ける。
-------

『増鏡』序
-------
 二月(きさらぎ)の中の五日は、鶴の林に薪(たきぎ)尽きにし日なれば、かの如来二伝(によらいにでん)の御かたみのむつましさに、嵯峨の清涼寺(しやうりやうじ)にまうでて、「常在霊鷲山(じやうざいりやうじゆせん)」など、心の中(うち)にとなへて拝み奉る。かたはらに、八十(やそぢ)にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖(つゑ)にかかりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひ立ちつれど、いと腰いたくて堪へ難し。こよひはこの局(つぼね)にうちやすみなん。坊(ばう)へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり。
 「釈迦牟尼仏(むにぶつ)」とたびたび申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端(は)近くかたぶきぬめる日影かな。我が身の上の心地(ここち)こそすれ」とて寄りゐたる気色(けしき)、何(なに)となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、
「いづくより詣(まう)で給へるぞ。ありつる人の帰り来(こ)ん程、御伽(おとぎ)せんはいかが」などいへば、「このあたり近く侍(はべ)れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る。あはれになん」といふ。「さてもいくつにか成り給ふらん」と問へば、「いさ、よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百年(ももとせ)にもこよなく余り侍りぬらん。来(こ)し方行く先、ためしもありがたかりし世のさわぎにも、この御(み)寺ばかりつつがなくおはします。猶(なほ)やんごととなき如来の御(み)光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。【後略】

http://web.archive.org/web/20150916221050/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu0-jobun.htm

(1)時期
 『増鏡』…「二月の中の五日」(二月十五日)
 『梅松論』…「二月廿五日」
(2)場所
 『増鏡』…「嵯峨の清涼寺」
 『梅松論』…「北野の神宮寺毘沙門堂」
(3)語り手
 『増鏡』…「八十にもや余りぬらんと見ゆる尼」
 『梅松論』…「なにがしの法印とかや申て、多智多芸の聞えありける老僧」
(4)謙遜の言葉
 『増鏡』…「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事の続きを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事(ひがごと)ぞ多からんかし。そはさし直し給へ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かの古ごとどもには、なぞらへ給ふまじうなん」
 『梅松論』…「とし老ぬるしるしに古よりの事ども聞をき侍しをあら/\かたり申べき也。失念定て多かるべし、其をも御存知あらん人々、助言も候へ」


二、「かしこくも問へるをのこかな」エピソードとの類似性

『梅松論』p41
-------
【前略】若、東士利を得ば、申勧たる逆臣を給て重科に行べし。又、御位におひて彼院の御子孫を位に付奉べし。御向あらば冑をぬぎ弓をはづし頭をのべて参るべし。【後略】
-------

「巻二 新島守」(その6)─北条泰時〔2018-01-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード〔2018-01-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
コメント (2)
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0174 『梅松論』に描かれなかった護良の還京

2024-09-19 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第174回配信です。


一、前回配信の補足

ISHIDA BUNICHIさんから、「還京」は「かんけい」と読むとの指摘あり。
https://x.com/uizhackiinmuufb/status/1836678468974825944

入京・帰京・離京などは全て「きょう」。
何故に還京だけが「けい」なのか。

明治東京異聞~トウケイかトウキョウか~東京の読み方
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0715tokei.htm
送人還京(岑参)
https://kanbun.info/syubu/toushisen361.html


中村直勝『増鏡の史実性について』(「国語と国文学」昭和36年6月号、有精堂『日本文学研究資料叢書 歴史物語Ⅱ』所収)
http://web.archive.org/web/20150918011505/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/nakamura-naokatu.htm

『増鏡』-従来の学説とその批判-
http://web.archive.org/web/20150916220408/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/jurai2.htm

『増鏡』の作者について、小川剛生氏は「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)から『二条良基研究』(笠間書院、2005)を経て、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)へと改説を重ね、結局、旧来の通説(二条良基説)に戻ってしまった。

小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)〔2020-01-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dd111d27c6978b428f696122434f45c
小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その1)〔2020-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52cc631d465c4aad8fc74b4c0f0adfde
「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」の検討は中止します。〔2020-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/011a4c892afe58215f480c70fb4a9358

私見では『増鏡』の成立時期は1330年代。
『太平記』や『梅松論』に先行。
『梅松論』の作者は『増鏡』を読んでいるのではないか。


二、『梅松論』に描かれなかった護良の還京

矢代和夫・加美宏校注『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』(現代思潮社、1975)
http://www.gendaishicho.co.jp/book/b527.html

底本は流布本系の彰考館文庫蔵延宝六年書写本(延宝本)

p64以下
-------
 去程に、京都には君伯耆より還幸なりしかば御迎に参られける卿相雲客かうさう花をなせり。今度忠功をいたしける正成・長年以下供奉の武士其数を知らず。宝祚は二条内裏なり。保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年の今は天下一統に成しこそめづらしけれ。君の御聖断は延喜天暦のむかしに立帰て武家安寧に民屋謳歌し、いつしか諸国に国司・守護をさだめ、卿相雲客各其階位に登りし躰、実に目出〔めでた〕かりし善政なり。武家楠・伯耆守・赤松以下山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいつつべし。御聖断の趣、五幾七道八番に分られ卿相をもて頭人として新決所〔しんけつしよ〕と号て新たにつくらる。是は先代引付の沙汰のたつ所なり。大儀におひては記録所におひて裁許あるも、又窪所と号して土佐守兼光・大田大夫判官親光・冨部大舎人頭〔とみべおほとねりのかみ〕・三河守師直等を衆中として御出有て聞食〔きこしめ〕す。むかしのごとく武者所をおかる。新田の人々をもて頭人として諸家の輩を結番〔けちばん〕せらる。古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべしとて、新なる勅裁漸々きこえけり。
 大将軍の叡慮無双〔ぶさう〕にして御昇進は申に不及、武蔵・相摸、其外数ヶ国の守をもて、頼朝卿の例に任て御受領あり。次に関東へは同年の冬、成良親王征夷将軍として御下向なり。下〔しも〕の御所左馬頭殿供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩、大略属し奉て下向す。鎌倉は去夏の乱に地を払ひしかども、大守御座ありければ庶民安堵の思ひをなしけり。
-------

『梅松論』には『太平記』の信貴山エピソードに相当する、倒幕直後の尊氏・護良親王間のトラブルは全く存在しない。
そもそも護良親王還京の場面がない。
なお、『梅松論』では「関東へは同年の冬、成良親王征夷将軍として御下向」とあって、成良親王は鎌倉下向の時点で既に征夷大将軍に任ぜられている。
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0173 『増鏡』に描かれた後醍醐と護良の還京

2024-09-18 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第173回配信です。


一、前回配信の補足

小川剛生『「和歌所」の鎌倉時代 勅撰集はいかに編纂され、なぜ続いたか』(NHK出版、2024)
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912852024.html
https://nhkbook-hiraku.com/n/n05f51b966716?sub_rt=share_h

0123 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その3)〔2024-07-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/988512e0089671bef32d3464278f5402

小川氏は鎌倉期、特に鎌倉後期の歌壇を描くに際して『増鏡』の記事を頻繁に活用。
→『増鏡』の記述の正確さを改めて認識。


二、『増鏡』に描かれた後醍醐と護良の還京

-------
 さて都には伯耆〔ははき〕よりの還御とて世の中ひしめく。まづ東寺へ入らせ給ひて、事ども定めらる。二条の前の大臣〔おとど〕道平召しありて参り給へり。こたみ内裏へ入らせ給ふべき儀、重祚などにてあるべけれども、璽〔しるし〕の箱を御身に添へられたれば、ただ遠き行幸の還御の式にてあるべきよし定めらる。関白を置かるまじければ、二条の大臣、氏の長者を宣下せられて、都の事、管領あるべきよし承る。天〔あめ〕の下ただこの御はからひなるべしとて、この一つ御あたり喜びあへり。
 六月六日東寺より常の行幸の様にて内裏へぞ入らせ給ひける。めでたしとも言の葉もなし。「去年の春いみじかりしはや」と思ひ出づるもたとしへなし。今も御供の武士ども、ありしよりは猶いくへともなくうち囲み奉れるは、いとむくつけき様なれど、こたみはうとましくも見えず。頼もしくめでたき御まもりかな、と覚ゆるも、うちつけ目なるべし。世の習ひ、時につけて移る心なれば、みなさぞあるかし。

 先陣は二条富の小路の内裏に着かせ給ひぬれど、後陣〔ごぢん〕の兵〔つはもの〕はなほ東寺の門まで続きひかへたるとぞ聞えしは、まことにやありけん。正成も仕〔つか〕うまつれり。彼の那波〔なは〕の又太郎は伯耆の守になりて、それも衛府の者どもにうちまぜたり。さま変はりてゆすりみちたる世の気色〔けしき〕、「かくもありけるを、などあさましく嘆かせ奉りけるにか」と、めでたきにつけても、なほ前〔さき〕の世のみゆかし。車などたち続きたるさま、ありし御下りにはこよなくまされり。物見ける人の中に、

  昔だに沈むうらみをおきの海になみたち返る今ぞかしこき

昔の事など思ひあはするにやありけん。金剛山なりし東〔あづま〕武士どもも、さながら頭〔かうべ〕を垂れて参り競〔きほ〕ふさま、漢の初めもかくやと見えたり。

http://web.archive.org/web/20150907014019/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-godaigo-kankyo.htm

 礼成門院もまた中宮と聞えさす。六日の夜、やがて内裏へ入らせ給ふ。いにし年御髪〔ぐし〕おろしにき。御悩みなほおこたらねば、いつしか五壇の御修法始めらる。八日より議定〔ぎじやう〕行はせ給ふ。昔の人々残りなく参り集ふ。

 十三日大塔〔たふ〕の法親王、都に入り給ふ。この月ごろに御髪おほして、えもいはず清らなる男〔をとこ〕になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂〔よろひひたたれ〕といふもの奉りて、御馬〔むま〕にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士〔もののふ〕うち囲みて、御門〔みかど〕の御供なりしにも、ほとほと劣るまじかめなり。速やかに将軍の宣旨をかうぶり給ひぬ。
 流されし人々、程なく競ひ上る様、枯れにし木草の春にあへる心地す。その中に、季房の宰相入道のみぞ、預かりなりける者の、情けなき心ばへやありけん、東〔あづま〕のひしめきのまぎれに失ひてければ、兄の中納言藤房は帰り上れるにつけても、父の大納言、母の尼上など歎き尽せず。胸あかぬ心地しけり。
 四条の中納言隆資といふも頭〔かしら〕おろしたりし、また髪おほしぬ。もとより塵を出づるにはあらず、敵〔かたき〕のために身を隠さんとてかりそめに剃りしばかりなれば、いまはた更に眉をひらく時になりて、男になれらん、何の憚りかあらん、とぞ同じ心なるどちいひあはせける。天台座主にていませし法親王だにかくおはしませば、まいてとぞ。誰〔たれ〕にかありけん、そのころ聞きし。

  すみぞめの色をもかへつ月草の移れば変はる花のころもに

http://web.archive.org/web/20150918011331/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-ketumatu.htm

中村直勝『増鏡の史実性について』(「国語と国文学」昭和36年6月号、有精堂『日本文学研究資料叢書 歴史物語Ⅱ』所収)
http://web.archive.org/web/20150918011505/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/nakamura-naokatu.htm
平田俊春「四條隆資父子と南朝」(『南朝史論考』、錦正社、1994)
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0172 後醍醐と護良の還京場面の比較(その2)

2024-09-17 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第172回配信です。


兵藤裕己校注『太平記(二)』p179以下
-------
6 還幸の御事

 東寺に一日御逗留あつて、六月六日、二条内裏へ還幸なる。その日、臨時の宣下あつて、足利治部大輔〔じぶのたいふ〕をば治部卿に叙す。舎弟直義左馬頭に任ず。
 千種頭中将忠顕朝臣は、帯剣の役にて、鳳輦の前に供奉せられたりけるが、なほ非常を慎む最中なればとて、刀帯〔たちはき〕の兵五百人、二行に歩ませられたり。高氏、直義二人は、後乗に順〔したが〕つて、百官の後〔しり〕へに打たれけるが、衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して打たせらる。
 その次に、宇都宮五百騎にて打つ。佐々木判官七百余騎、土居、得能二千余騎にて打つ。この外、正成、長年、円心、結城、塩冶以下〔いげ〕、国々の大名は、五百騎、三百騎、旗の次々に一勢一勢引き分けて、輦輅〔れんろ〕を中にして、閑〔しず〕かに小路を打つ。
 凡〔およ〕そ路次〔ろし〕の行粧、行列の儀式、前々〔さきさき〕の臨幸に事替はつて、百司〔はくし〕の守衛〔しゅえ〕厳重なりしかば、見物の貴賎岐〔ちまた〕に満ちて、ただ帝徳を称する音〔こえ〕、洋々として耳に満てり。
-------

(1)五月二十三日、船上山出発時(p173)

  塩冶判官高貞 千余騎(前陣)
  朝山太郎   五百騎(後陣)
  金持大和守・伯耆守長年 不明

(2)六月二日、兵庫出発時(p178)

  楠木正成   七千余騎(前陣)

(3)六月六日 二条内裏還幸時(p179)

  千種忠顕    五百余騎
  足利高氏・直義 五千余騎
  宇都宮     五百騎
  佐々木判官   七百余騎
  土井・得能   二千余騎
  「正成、長年、円心、結城、塩冶以下、国々の大名」 「五百騎、三百騎、旗の次々に一勢一勢」

  合計は不明(九千五百騎以上)

これに対し、六月十三日に入京した護良を中心とする軍勢の行列は、

兵藤校注『太平記(二)』、p217以下
-------
 その行列の行装、天下の壮観を尽くせり。先づ一番には赤松入道円心千余騎にて前陣を仕る。二番には、殿法印良忠七百余騎にて打たる。三番には、四条少将隆資五百余騎、四番には、中院中将定平八百余騎にて打たる。その次に、花やかに冑〔よろ〕うたる兵五百人を勝〔すぐ〕つて、帯刀〔たてわき〕にて二行に歩ませらる。
 その次に、宮は、赤地の金襴の鎧直垂に、火威〔ひおどし〕の鎧の裾金物に、獅子の牡丹の陰に戯れて前後左右に追ひ合ひたるを、草摺長〔くさずりなが〕に召され、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘懸けたるを、(太刀懸かけの)半ばに結うて下げ、白篦〔しらの〕に節陰ばかり少し染めて、鵠〔くぐい〕の羽を以て矧〔は〕ぎたる征矢〔そや〕の二十六差したるを、筈高〔はずだか〕に負ひなし、二所藤〔ふたところどう〕の弓の銀のつく打つたるを十文字に拳〔にぎ〕つて、白瓦毛〔しろかわらげ〕なる馬の尾頭〔おがしら〕あくまで太くして逞しきに、沃懸地〔いかけじ〕の鞍を置いて、厚総〔あつぶさ〕の鞦〔しりがい〕のただ今染め出だしたるを芝打長〔しばうちなが〕に懸けなし、侍十二人に諸口〔もろぐち〕を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭〔せば〕しと歩ませける。
 後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて供奉せらる。なほも御用心の最中なれば、御心安き兵を以て非常を誡めらるべしとて、国々の兵をば、ひた物具にて三千余騎、閑かに小路を打たせらる。その後陣には湯浅、山本、伊達三郎、加藤太、畿内、近国の勢、打ちこみに二十万七千余騎にて、一日支へてぞ打つたりける。
 時移り事去つて、万〔よろ〕づ昔に替はる世なれども、天台座主、忽ちに将軍の宣旨を給はつて、甲冑を帯し、随兵を召し具して御入洛ありし有様は、珍らしかりし壮観なり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04cda2bd6423c12bba2963c1f71960e1

整理すると、

-------
 赤松円心 千余騎
 殿法印良忠 七百余騎
 四条少将隆資 五百余騎
 中院中将定平 八百余騎
 「花やかに冑うたる兵」 五百人
 護良親王 侍十二人
 千種頭中将忠顕朝臣 千余騎
 「国々の兵をば、ひた物具にて」 三千余騎
 「湯浅、山本、伊達三郎、加藤太、畿内、近国の勢」 二十万七千余騎
-------

となる。
あくまで「六月六日、信貴を御立ちあつて、八幡に七日御逗留あつて、同じき十三日、御入洛」あったときの人数なので、赤松円心、千種忠顕の軍勢も実際にいたのかもしれない。
しかし、この中で、本当に護良の配下といえるのはどれだけなのか。
確実なのは殿法印良忠七百余騎くらいではないか。
「なほも御用心の最中なれば、御心安き兵を以て非常を誡めらるべしとて、国々の兵をば、ひた物具にて三千余騎」を加えて三千七百余騎か。
(数字にはもちろん全体的に大幅な誇張がある)

森茂暁『皇子たちの南北朝』(中公新書、1988)p58以下
-------
 良忠の手の者が、六波羅攻めの際、京中の土蔵を破ったという話については、『光明寺残篇』に収める勅制軍法中の「仁政を先んずべき事」で、入洛する後醍醐軍の軽挙妄動を防ぐため、ことさら「衆人を煩〔わずらわ〕さず、偏〔ひとえ〕に仁慈を先にし、更に人を侵し奪ふこと無かれ」などと諭していることからみて、良忠の手兵のような者たちが、京中の土蔵を襲うことなど、充分ありえたであろう。右の『太平記』の話は、六波羅攻めの混乱中に起きた一事件をもとにして、護良と尊氏の対立の発端を説明しているのである。
 ちなみに、良忠については『尊卑分脈』に関白二条良実の孫としてみえ、明確に「大塔宮参候の仁なり」と注記されている。また横川長吏公尋僧正が良忠に付法したこと、良忠が「大力勇健の猛将」であったこと、元弘の変のとき「謀叛の宿意を企て」たことが後日露顕し、六波羅に監禁されたが、牢を破って脱走したこと、などもしるされている。尊貴の出で、かつ勇猛な点では護良とすこぶる共通している。良忠も山門入りの経験があるから、護良と良忠のつながりは護良の天台座主時代に形成されたと考えられる。良忠が護良の有力な近侍者の一人だったことはいうまでもない。
-------

護良の勢力は過大評価されているのではないか。
征夷大将軍になることと武家政権としての幕府を開くことは全く別問題。
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0171 後醍醐と護良の還京場面の比較(その1)

2024-09-17 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第171回配信です。


一、前回配信の補足

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その4)(その5)〔2020-12-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/679ad9e52ebe90324ce3fb8e11eef575
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606
「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)〔2021-01-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8af9d296e77523b21f345d6f27ab22c
「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)〔2021-01-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158

護良親王が幕府を開こうとしていた、との印象は、結局のところ『太平記』の信貴山エピソードに由来するのではないか。
西源院本のように六月十三日入京だとすれば、時間の流れが逆転している。
また、護良の随行者のように描かれている人々には後醍醐天皇の還京に同行した者も複数存在。


二、後醍醐と護良の還京場面の比較

第十一巻
 1 五大院右衛門并びに相模太郎の事(6p)
☆2 千種頭中将殿早馬を船上に進らせらるる事(3p)
☆3 書写山行幸の事(2.5p)
☆4 新田殿の注進到来の事(1.5p)
☆5 正成兵庫に参る事(1.5p)
☆6 還幸の御事(1.5p)
 7 筑紫合戦九州探題の事(7.5p)
 8 長門探題の事(3p)
 9 越前牛原地頭自害の事(3.5p)
 10 越中守護自害の事(5.5p)
 11 金剛山の寄手ども誅せらるる事(8.5p)

第十二巻
☆1 公家一統政道の事(15p)
 2 菅丞相の事(18p)
 3 安鎮法の事(2p)
☆4 千種頭中将の事(3p)
☆5 文観僧正の事(2p)
 6 解脱上人の事(5.5p)
 7 広有怪鳥を射る事(4.5p)
 8 神泉苑の事(6.5p)
☆9 兵部卿親王流刑の事(8p)
 10 驪姫の事(5.5p)

兵藤裕己校注『太平記(二)』p171以下
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2 千種頭中将殿早馬を船上に進らせらるる事

 都には、五月十二日、千種頭中将忠顕朝臣、足利治部大輔高氏、赤松入道円心がもとより、追ひ追ひに早馬を打たせ、両六波羅すでに没落せしむの由、船上へ奏聞す。
 これについて諸卿僉議あつて、則ち還幸なるべきや否やの意見を献ぜらるる時、勘解由次官光守、諫言を以て申されけるは、「両六波羅すでに没落すと云へども、千剣破発向の朝敵等、なお畿内に満ちて、勢ひ京洛を呑めり。また、賤しき諺に、「東八ヶ国の勢を以て、日本国の勢に対す」と云へり。されば、承久の合戦に、伊賀判官光季追ひ落とされし事はたやすかりしかども、坂東勢重ねて上洛せし時、官軍戦ひ負けて、天下久しく武家の権威に随ひぬ。今、一戦の雌雄を計るに、御方は、わづかに十にしてその二、三を得たり。「君子は刑人〔けいじん〕に近づかず」と申す事の候へば、暫くただ皇居を移され候はで、諸国へ綸旨を成し下され、東国の変違〔へんい〕を御覧ぜらるべくや候ふらん」と申したりければ、当座の諸卿、悉くこの議に同ぜられける。
 主上、なほ時宜定め難く思し召されければ、自ら周易を開かせ給ひて、還幸の吉凶を、蓍筮〔しぜい〕に付けてぞ御覧ぜられける。御占〔みうら〕、師卦〔しのけ〕に出でて云はく、「師は貞なり。丈夫〔じょうふ〕は吉なり。咎〔とが〕無し」と。象〔しょう〕に曰は、「上六〔しょうろく〕は、大君〔たいくん〕命を有〔たも〕つて国を開き、家を承〔つ〕がしむ。小人〔しょうじん〕をば用ゐること勿かれ」と。王弼〔おうひつ〕が注に云はく、「師の極に処〔お〕つて師の終りなり。大君の命を有つとは、功を失はざることなり。国を開き、家を承ぐとは、以て邦を寧〔やす〕んずるなり。小人をば用ゐること勿かれと云ふは、その道に非ざればなり」と注せり。「この上は、何をか御疑ひあるべき」とて、同じき二十三日、伯耆の船上〔ふなのうえ〕を御立ちあつて、腰輿〔ようよ〕を山陰〔せんおん〕の東にぞ促されける。
 路次〔ろし〕の行粧〔ぎょうそう〕例に替はりて、頭大夫〔とうのだいぶ〕行房、勘解由次官〔かげゆのじかん〕光守二人ばかりこそ、衣冠にて供奉せられたりけれ。その外の月卿雲客、衛府諸司の助〔すけ〕は、皆戎衣〔じゅうい〕にて前騎後乗す。六軍〔りくぐん〕悉く甲冑を鎧〔よろ〕ひ、弓箭〔きゅうせん〕を帯して、前後三十余里に支へたり。塩冶判官高貞は、千余騎にて、一日先立つて前陣を仕〔つかまつ〕る。朝山太郎は、一日路〔ひとひじ〕引き殿〔おく〕れて、五百余騎にて後陣〔ごじん〕を打つ。金持〔かなじ〕大和守は、錦の御旗をさして左に候〔こう〕し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副〔そ〕ふ。雨師〔うし〕道を清め、風伯〔ふうはく〕塵を払ふ。紫微北辰〔しびほくしん〕の結陣〔けつじん〕も、かくやと覚えて厳重なり。
 されば、去年の春の末に、隠岐国へ移されさせ給ひし時、宸襟〔しんきん〕を悩まされて、御涙の故〔もと〕となりし山雲海月の色、今は皆龍顔〔りょうがん〕を悦ばしむる端〔はし〕となつて、松吹く風も自づから、万歳〔ばんぜい〕を呼〔さけ〕ぶかと怪しまれ、塩焼く浦の煙まで、にぎはう民の竈〔かまど〕となる。
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p176以下
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4 新田殿の注進到来の事

 二十八日、法花山へ行幸なつて、御巡礼あり。これより龍駕〔りょうが〕急がれて、晦日は、兵庫の福厳寺に餉所〔かれいどころ〕を点じて、御坐〔ぎょざ〕ありける。その日、赤松入道父子四人、五百騎にて参迎〔さんごう〕す。龍顔〔りょうがん〕殊に麗しくして、「天下草創の功、ひとへに汝等〔なんじら〕贔屓の中戦によれり。恩賞はおのおの望みに任すべし」と叡感あつて、禁門の警固に奉侍〔ぶじ〕せらる。
 ここに一日御逗留あつて、供奉の行列、還幸の儀式を調へらるる処に、その日の午刻〔うまのこく〕に、過書〔かしょ〕を頚に懸けたる早馬〔はやうま〕二騎、門前まで乗り打ちして、庭上〔ていしょう〕に羽書〔うしょ〕を捧げたり。諸卿驚いて、急ぎ披きこれを見給ふに、新田小太郎義貞がもとより、相摸入道以下一族従類等、不日〔ふじつ〕に追討して、東国すでに静謐の由を注進せり。「西国、洛中の戦ひに、官軍聊か勝〔かつ〕に乗つて、両六波羅を攻め落とすと云へども、関東を攻められん事は、ゆゆしき大事なるべし」と、叡慮を廻らされける処に、この注進到来してければ、主上を始め奉つて、諸卿一同に、猶預〔ゆうよ〕の宸襟を休め、欣悦の称嘆を尽くさる。則ち、「恩賞は宜しく請ふに依るべし」と宣下せられて、先づ使者二人に、おのおの勲功の賞をぞ行はれける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5b71084d1cef3bc93d1516d1b3c1fd2

p178以下
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5 正成兵庫に参る事

 兵庫に三日御逗留あつて、六月二日、腰輿を廻〔めぐ〕らさるる処に、楠多門兵衛正成、三千余騎を卒〔そっ〕して参向す。その形勢ゆゆしくぞ見えたりける。主上は、御簾を高く巻かせ、正成を近く召されて、「大儀早速の功、ひとへに汝が忠戦にあり」と、感じ仰せられければ、正成畏〔かしこ〕まつて、「これ、君の聖文神武〔せいぶんしんぶ〕の徳に依らずは、微臣いかでか尺寸〔せきすん〕の謀〔はかりごと〕を以て、強敵〔ごうてき〕の囲みを出づべき」と、功を辞して謙下〔けんか〕す。
 兵庫を御立ちありける日よりは、正成、前陣を承て、畿内の勢を随へ、七千余騎にて前騎す。その道十八里が間に、干戈戚揚〔かんかせきよう〕相挟〔たばさ〕み、左輔右弼〔さほゆうひつ〕列を引く。六軍序〔ついで〕を守り、五雲〔ごうん〕静かに幸〔みゆき〕せしかば、六月五日の暮れ程に、東寺まで臨幸なりたりける。
 武士たる者は申すに及ばず、摂政、関白、太政大臣、左右の大将、大中納言、八座七弁、五位六位、内外〔ないげ〕の諸卿、諸司、医陰〔いおん〕両道に至るまで、われ劣らじと参り集まりければ、車馬〔しゃば〕門前に群集〔くんじゅ〕して、地府に雲を布〔し〕き、青紫〔せいし〕堂上に隠映〔いんえい〕して、天極に星を列〔つら〕ねたり。
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0170 元弘三年(1333)の後醍醐天皇と護良親王の関係

2024-09-15 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第170回配信です。


森茂暁『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』(中公新書、1988)
https://shinshomap.info/book/9784121008862.html

p53以下
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綸旨と令旨の対揚
 親王の身でありながら、武門の棟梁の地位を目指す護良の政治構想は、おそらく元弘の討幕戦における、実質的な最高指導者としての実績から生まれたものであろうが、父後醍醐のそれとは真っ向から対立する性格のものであった。やがて護良の令旨は、後醍醐の綸旨と競合するに至り、まず綸旨によって制限が加えられ、ついには無効とされるところまで追いつめられるのである。いかに綸旨の文章で書かれようと、所詮、令旨は令旨であり、綸旨を凌駕することは到底できなかった。
 前にも述べたように、筆者が集めた元弘二年六月から同三年十月にいたる総数約六十通の護良の令旨は、数のうえでは、後醍醐天皇の内裏帰還(元弘三年六月五日)より以前に出されたものが全体の約三分の二を占める。この期の令旨には、時代状況を反映して、軍勢催促や祈禱命令、そして軍功に対する褒賞など、軍事関係のものが圧倒的に多いけれども、紀伊粉河寺や摂津勝尾寺などの畿内近国の寺に対し、所領を安堵したり給与したりする、所領にかかわるものも若干みいだせる。
 残り三分の一はそれより以降、元弘三年十月までの間に出された令旨であり、内容のうえからは、ほとんど所領関係のものである。
 後醍醐の隠岐配流中、父とは没交渉のまま独自の方針で討幕運動を推し進めてきた護良の政治路線が、後醍醐の帰還後、父との間に摩擦や齟齬を生ずるのは当然のことであった。すでに護良の令旨で不利な立場に追い込まれた者が、一転、後醍醐にたよって挽回をはかろうとすることなど、当時の状勢下では充分起こりえたのである。
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すぐ後に出て来る「『高野山文書』に収める年月日欠高野山丹生社神主竈門恒信申状」は「護良の令旨で不利な立場に追い込まれた者が、一転、後醍醐にたよって挽回をはかろうとする」の一例。
ただし、森説では、このケースでの「護良の令旨」は「元弘二年三月ころ」出されたものとなり、「筆者が集めた元弘二年六月から同三年十月にいたる総数約六十通」より早い時期のものとなる。

p54以下
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 おそらく綸旨万能を標榜する後醍醐は、護良との間で綸旨と令旨の機能と効力についての調整を試みたであろう。しかし護良としてはみずからの政治構想からも、またゆきがかりからも、これまでの施策を放擲するわけにはゆかず、調整工作は決裂したものと思われる。
 護良はこうして父後醍醐にとっては、いわば「目の上のたんこぶ」のような存在となっていった。調整のための話し合いが失敗したうえは、後醍醐としては実力行使に出るほかない。後醍醐による護良令旨の無効化は、段階的になされたものと考えられる。
 まず元弘三年六月十六日、後醍醐天皇は宣旨を下し、「綸旨を帯びず、自由の妨げを致す輩の事」についての処置を公布した(『結城文書』)。この史料は本文の後半が欠けていて、肝心の処置の内容が具体的に知られないが、この宣旨が「雅意に任せて」濫妨を働く者に対する処罰についてのものであることは明らかで、その濫妨人の筆頭に「宮の令旨」、つまり護良の令旨を帯びて「自由の妨」をいたす者があげられているのである。
 この宣旨が、護良親王の令旨の効力を制限し、綸旨による既得権の再確認を企図していることは明らかである。六月十六日とは、護良入京のわずか三日後であり、早くも綸旨と令旨との間に大きな摩擦が生じている。
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森氏は六月十三日入京説。
『太平記』の信貴山エピソードを信じるならば、やっと護良親王を説得した後醍醐が、その三日後に煮え湯を浴びせるようなことがするのか。
佐藤進一のように六月二十三日入京説を取った場合、矛盾は更に甚だしくなる。

護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その2)〔2020-12-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード〔2020-12-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

p55以下
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 さらにこれより数ヵ月後、護良令旨が後醍醐によって破棄処分をこうむったことについては、『高野山文書』に収める年月日欠高野山丹生〔にぶ〕社神主竈門恒信〔かまとつねのぶ〕申状が語ってくれる。内部徴証からみて、元弘三年の文書と推定されるこの申状は、同社領の和泉国麻生郷を安堵する綸旨の下付を申請したものであるが、そのなかで神主恒信は、次のように述べている。

当郷(麻生郷)は……社領として知行相違なきの処、去年(元弘二年)三月比〔ころ〕、竹院慶性房〔けいしょうぼう〕、宮令旨を給ふと号し、乱妨狼藉を致すの間、神用たちまち以て欠如に及ぶの条、神慮測りがたき者哉、なかんずく宮令旨においては、棄破〔きは〕されるべきの由定め仰せ出ださるる上は、何ぞ当郷に限り乱妨に及ぶべけんや……

 恒信は、竹院慶性房という者が、元弘二年三月ころ護良の令旨をふりかざして社領麻生郷を乱妨するので、護良令旨はこれを棄破するという後醍醐の布告に依拠して、乱妨狼藉をとどめてほしいと申請しているのである。
 この申状の裏には、後醍醐側近の一人高倉光守の花押がすえられ、「奏聞し了んぬ」と書きつけられている。申請内容は、後醍醐に奏上されたことがわかる。
 ここで注目すべきは、元弘三年のある時点で、護良令旨の無効宣告が後醍醐によって断行されたことである。問題はそれがいつかということになってくるが、確実なところはわからない。
 しかし令旨の無効宣告が後醍醐の護良に対するただならぬ制裁の一つのあらわれだとすれば、その制裁とは元弘三年八月末と考えられる征夷大将軍職の剥奪とみるのが、もっとも自然であるから、令旨の無効宣告もそのころなされたものとみるべきであろう。
【中略】
 護良の活動範囲は、確実に後醍醐によって合法的に狭められていった。しかし、将軍職の解任が、ただちに護良派勢力を瓦解させたわけではない。そのことは、たとえば護良側近の四条隆貞が、元弘三年十二月末の時点でも、依然として和泉国司であったことに明らかである。護良の和泉国の知行国主としての立場は、まだ保たれていた。
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そもそも「護良派勢力」とは何なのか。
『太平記』によれば、護良が信貴山から京都に入ったときのパレードは次のように構成されている。

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 赤松円心 千余騎
 殿法印良忠 七百余騎
 四条少将隆資 五百余騎
 中院中将定平 八百余騎
 「花やかに冑うたる兵」 五百人
 護良親王 侍十二人
 千種頭中将忠顕朝臣 千余騎
 「国々の兵をば、ひた物具にて」 三千余騎
 「湯浅、山本、伊達三郎、加藤太、畿内、近国の勢」 二十万七千余騎

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04cda2bd6423c12bba2963c1f71960e1

赤松円心は息子の則祐を通して護良と連携はしていても、従属している訳ではない。
四条隆資も、息子の隆貞は護良の令旨の奉者(最多)であるが、隆資自身が従属している訳ではない。

平田俊春「四條隆資父子と南朝」(『南朝史論考』、錦正社、1994)
http://web.archive.org/web/20130212213433/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hirata-toshiharu-sijotakasuke.htm
殿法印良忠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%BF%A0_(%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%AE%B6)
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