第182回配信です。
一、前回配信の補足
後嵯峨院皇子の円助法親王(1236‐1282)の役割は後嵯峨院の同母兄・仁助法親王と似ている。
仁助法親王(1214‐1262)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%8A%A9%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
後嵯峨院皇子の円助法親王(1236‐1282)の役割は後嵯峨院の同母兄・仁助法親王と似ている。
仁助法親王(1214‐1262)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%8A%A9%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
佐伯智広氏「中世前期の王家と法親王」(『立命館文學』624号、2012)
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/saeki.pdf
p351以下
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第三節 土御門皇統と法親王
仁治三年(一二四二)に四条天皇が死去して後高倉皇統が断絶すると、後嵯峨天皇が即位し土御門皇統の時代に入る。後嵯峨親政期の従来との大きな違いは、後嵯峨天皇の践祚後に真っ先に親王宣下を受けた仁助法親王が園城寺の僧であったことである。後嵯峨天皇が仁治三年正月二○日に践祚すると、仁助は四月一五日に親王宣下を受け、七月一七日には園城寺長吏に任じられた。
それまでは御室こそが王権にとって仏教界で最重要の地位であり、皇統の変動が起こると、新たな院や天皇は、自身の家の構成員を御室の後継者とするために手を尽くしてきた。【中略】
ところが、後嵯峨天皇の場合、関係者が御室となるのは、後嵯峨天皇の子の性助がわずか一二歳で御室となった弘長二年(一二六二)のことである。このときすでに践祚から一六年が経過し、後嵯峨天皇は退位して後深草天皇が在位しており、しかも翌年には後深草天皇から亀山天皇への譲位が行われている。
【中略】
後嵯峨親政期から後嵯峨院政期の前半にかけて、仁助は、後嵯峨院家内部の問題にとどまらず、政治的にも非常に重要な役割を果たした。まず指摘できるのが、父土御門院の追善仏事における活動である。
【中略】
寛元四年の九条通家失脚に関連して、鎌倉幕府から後嵯峨院に徳政の実施と関東申次の人事について通告が行われるが、その内容が六波羅探題北条重時より後嵯峨院にもたらされた際、 院の下に伺候していたのは、仁助・太政大臣西園寺実氏・前内大臣土御門定通であった。また、翌宝治元年(一二四七)に鎌倉幕府から徳政などのことについて二階堂行泰・大曾禰長泰が使者として派遣された際にも、使者は前太政大臣西園寺実氏の下に向かった後、後嵯峨院の御所で太政大臣久我通光・摂政近衛兼経・仁助と対面している。翌宝治二年(一二四八)に政道の事について幕府から後嵯峨院に使者が遣わされた際にも、後嵯峨院の御所に仁助が参入し、使者は仁助の房に参向している。
仁助は単に鎌倉からの連絡を受けるだけでなく、それを受けて公家政権側の対応の決定にも関わっており、宝治元年には摂政近衛兼経・前太政大臣西園寺実氏とともに、宝治二年には摂政近衛兼経とともに、後嵯峨院の下で対応を協議している。これらの政務関与者のうち、近衛兼経は摂政として廟堂の首座にあり、西園寺実氏は関東申次となった親幕派の中心であり、土御門定通・久我通光は後嵯峨院の外戚であって、いずれも後嵯峨院政を支える重要人物である。仁助は彼らと並んで、重大な政務決定の際には欠かせない存在であった。
他にも、仁助は宝治元年に後嵯峨院・近衛兼経とともに除目の沙汰を行っている。また、宝治二年の無動寺門跡相続や久我通光領相続をめぐる相論が生じた際には、裁定を行う院評定に先立って、後嵯峨院は仁助と事前の相談を行っている。これは、仁助が院評定への出席権を持たないために取られた処置であろう。
【中略】
これらの事例に対し、仁助の活動は、格段に重大な問題に関与しており、その関わり方の深さも他と比較にならない。これも、先に述べたような政治的事情によって生み出された特殊な状況であるが故であろう。とはいえ、のちに後嵯峨院が遺領の処分を行った際に、後深草院・亀山天皇と並んで、円助法親王の名前が挙がっていることや、幕府が後嵯峨院の死後に次の治天について問い合わせ、後家である大宮院が後嵯峨院の遺志は亀山天皇を後継者とすることにあったと回答した際、西園寺実氏とともに円助法親王が関与しているように、後嵯峨院は自身の家の構成要素に法親王を組み込んでいた。円助は仁助の次の円満院門跡となった後嵯峨院の皇子であり、その立場は弘長二年(一二六二)に死去した仁助を引き継いだものと言えよう。
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龍粛「後嵯峨院の素意と関東申次」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957、p201以下)
http://web.archive.org/web/20070118121637/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-01.htm
帝国学士院編纂『宸翰英華』-伏見天皇-(紀元二千六百年奉祝会、1944)
http://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
二、『増鏡』が「後嵯峨院御素意」を歪めて記述したのは故意か過失か。
資料:『増鏡』に頻出する「後嵯峨院御素意」〔2024-09-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82d65e42f300462470b5c968567645ed
「巻二 新島守」(その6)─北条泰時〔2018-01-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード〔2018-01-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
後深草天皇と西園寺公子の年齢差(その1)(その2)〔2018-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7b792ff5ee6cb2bd99999017f9bf2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e743a41596fcdc67e5caffe467aa917d
もしも西園寺公子(東二条院)が『五代帝王物語』を読んだなら。〔2018-01-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac87402194e0c5348b6a84138974ace4
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/saeki.pdf
p351以下
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第三節 土御門皇統と法親王
仁治三年(一二四二)に四条天皇が死去して後高倉皇統が断絶すると、後嵯峨天皇が即位し土御門皇統の時代に入る。後嵯峨親政期の従来との大きな違いは、後嵯峨天皇の践祚後に真っ先に親王宣下を受けた仁助法親王が園城寺の僧であったことである。後嵯峨天皇が仁治三年正月二○日に践祚すると、仁助は四月一五日に親王宣下を受け、七月一七日には園城寺長吏に任じられた。
それまでは御室こそが王権にとって仏教界で最重要の地位であり、皇統の変動が起こると、新たな院や天皇は、自身の家の構成員を御室の後継者とするために手を尽くしてきた。【中略】
ところが、後嵯峨天皇の場合、関係者が御室となるのは、後嵯峨天皇の子の性助がわずか一二歳で御室となった弘長二年(一二六二)のことである。このときすでに践祚から一六年が経過し、後嵯峨天皇は退位して後深草天皇が在位しており、しかも翌年には後深草天皇から亀山天皇への譲位が行われている。
【中略】
後嵯峨親政期から後嵯峨院政期の前半にかけて、仁助は、後嵯峨院家内部の問題にとどまらず、政治的にも非常に重要な役割を果たした。まず指摘できるのが、父土御門院の追善仏事における活動である。
【中略】
寛元四年の九条通家失脚に関連して、鎌倉幕府から後嵯峨院に徳政の実施と関東申次の人事について通告が行われるが、その内容が六波羅探題北条重時より後嵯峨院にもたらされた際、 院の下に伺候していたのは、仁助・太政大臣西園寺実氏・前内大臣土御門定通であった。また、翌宝治元年(一二四七)に鎌倉幕府から徳政などのことについて二階堂行泰・大曾禰長泰が使者として派遣された際にも、使者は前太政大臣西園寺実氏の下に向かった後、後嵯峨院の御所で太政大臣久我通光・摂政近衛兼経・仁助と対面している。翌宝治二年(一二四八)に政道の事について幕府から後嵯峨院に使者が遣わされた際にも、後嵯峨院の御所に仁助が参入し、使者は仁助の房に参向している。
仁助は単に鎌倉からの連絡を受けるだけでなく、それを受けて公家政権側の対応の決定にも関わっており、宝治元年には摂政近衛兼経・前太政大臣西園寺実氏とともに、宝治二年には摂政近衛兼経とともに、後嵯峨院の下で対応を協議している。これらの政務関与者のうち、近衛兼経は摂政として廟堂の首座にあり、西園寺実氏は関東申次となった親幕派の中心であり、土御門定通・久我通光は後嵯峨院の外戚であって、いずれも後嵯峨院政を支える重要人物である。仁助は彼らと並んで、重大な政務決定の際には欠かせない存在であった。
他にも、仁助は宝治元年に後嵯峨院・近衛兼経とともに除目の沙汰を行っている。また、宝治二年の無動寺門跡相続や久我通光領相続をめぐる相論が生じた際には、裁定を行う院評定に先立って、後嵯峨院は仁助と事前の相談を行っている。これは、仁助が院評定への出席権を持たないために取られた処置であろう。
【中略】
これらの事例に対し、仁助の活動は、格段に重大な問題に関与しており、その関わり方の深さも他と比較にならない。これも、先に述べたような政治的事情によって生み出された特殊な状況であるが故であろう。とはいえ、のちに後嵯峨院が遺領の処分を行った際に、後深草院・亀山天皇と並んで、円助法親王の名前が挙がっていることや、幕府が後嵯峨院の死後に次の治天について問い合わせ、後家である大宮院が後嵯峨院の遺志は亀山天皇を後継者とすることにあったと回答した際、西園寺実氏とともに円助法親王が関与しているように、後嵯峨院は自身の家の構成要素に法親王を組み込んでいた。円助は仁助の次の円満院門跡となった後嵯峨院の皇子であり、その立場は弘長二年(一二六二)に死去した仁助を引き継いだものと言えよう。
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龍粛「後嵯峨院の素意と関東申次」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957、p201以下)
http://web.archive.org/web/20070118121637/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-01.htm
帝国学士院編纂『宸翰英華』-伏見天皇-(紀元二千六百年奉祝会、1944)
http://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
二、『増鏡』が「後嵯峨院御素意」を歪めて記述したのは故意か過失か。
資料:『増鏡』に頻出する「後嵯峨院御素意」〔2024-09-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82d65e42f300462470b5c968567645ed
「巻二 新島守」(その6)─北条泰時〔2018-01-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード〔2018-01-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
後深草天皇と西園寺公子の年齢差(その1)(その2)〔2018-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7b792ff5ee6cb2bd99999017f9bf2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e743a41596fcdc67e5caffe467aa917d
もしも西園寺公子(東二条院)が『五代帝王物語』を読んだなら。〔2018-01-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac87402194e0c5348b6a84138974ace4