投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月30日(火)16時10分13秒
上杉著に戻って、「頼朝が急死したことが事態を一変させた」の続きです。(p97以下)
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朝廷と幕府の緊張関係が持続する中、頼朝が亡くなった直後の二十二日前後に、後藤基清・中原政致・小野義成という三人の武士による通親襲撃事件(三人がいずれも左衛門尉であったことから「三左衛門の変」とよばれた)が起きる。事件の背景は不詳であるが、この頃公家政権内で通親と対立関係にあった一条家の思惑と幕府内にくすぶる反通親感情が引き起こした事件であることは疑いないだろう。だが、通親より事件の報を受けた幕府は、通親を支持する方針を明確にし、事件を起こした三人の武士は処断される。すでに触れたことだが、『愚管抄』には、事件後の幕府の方針決定は、広元が通親の「方人(味方)」であったことによると記されている。
広元と通親の関係の親密さはかなりのものであったといえるだろう。広元が公家政権内の政治勢力分布を認識した上で、公家政権の実力者となった通親との融和をはかる現実的な対応を選択したという面もあるだろうが、かつて頼朝の意に反してなされた任官における通親の助力に対する恩義を、広元が長く心に留めておいたことの表われといえるかもしれない。
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ここで岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系86 愚管抄』(岩波書店、1967)を見ると、建久七年(1196)十一月の九条兼実関白罷免、八年七月の大姫死去、同十月の一条能保死去、九年(1198)一月の土御門践祚、同九月の一条高能保死去などを記した後、
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かかるほどに人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ。同十年正月に関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家して、同十三日にうせにけりと、十五六日よりきこへたちにき。夢かうつつかと人思たりき。「今年必しづかにのぼりて世の事さたせんと思ひたりけり。万の事存の外に候」などぞ、九条殿へは申つかはしける。【中略】
その比不か思議の風聞ありき。能保入道、高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに基清・政経・義成など云三人の左衛門尉ありけり。頼家が世に成て、梶原が太郎左衛門尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云たりけるにか、それを又、「かくこれらが申候なり」と告たりけるほどに、ひしと院の御所に参り籠て、「只今まかり出てはころされ候なんず」とて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又広元は方人にてありけるして、やうやうに云て、この三人を三右衛門とぞ人は申し、これらを院の御前わたして、三人の武士たまはりて流罪してけり。さて頼朝が拝賀のともしたりし公経・保家をひこめられにけり。能保ことにいとをしくして左馬頭になしたりしたかやすと云し者など流(さ)れにけり。二月十四日の事にやとぞ聞へし。又文学上人播磨玉はりて思ふままに高雄寺建立して、東寺いみじくつくりてありしも、使庁検非違使にてまもらせられなどする事にてありけり。三左衛門も通親公うせて後は、皆めし返されてめでたくて候き。
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とあります。(p283以下、カタカナをひらがなに変換)
本文だけだと何が何だか分かりませんが、「補注(巻第六)二七」を見ると、
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二七 【中略】梶原景季とこの騒ぎとの関係は愚管抄以外に所見しないので詳しいことは判明しないが、ことによると頼朝の死を報ずる幕府使節として西上したことがあったかもしれない。いずれにしても通親に基清らを告げ口をしたのは景季であったに相違ない。
明月記によると、通親が右大将に任じられた正月二十日の二日後の二十二日から不安の事態が生じた。
廿二日。巷説云、院中物忩、上辺有兵革之疑。御祈千万、被引神
馬。新大将(通親)籠候御所不出里亭是有事故云々。
広元の出生は諸説があって明確でない。【中略】
広元が通親と親しかったことは、建久二年四月一日の除目で広元が通親の支持によって明法博士と左衛門大尉に任ぜられたことで知られる。
【中略】
一条家の郎等三人は正治元年二月十四日に逮捕された。その事に当ったのは、新中納言頼家の雑色であり、三人を院御所に渡したあと、三月四日に関東に下向させたが、最後の処分は明確でない。
二月十四日。武士等相具左衛門尉中原政経・藤原基清・小野義賢(義成)
参院御所。是件三人可乱世間之由、有其聞之故也。各預賜武士(百錬抄)
三月四日。天晴。三人金吾(政経・基清・義成)昨今下向関東云々。
不同道各武士等預之相具。此輩七人(父子)解官云々。廿ニ日。天晴。
被遣関東金吾三人、不請取自路追上、左右可随勅定由申之。或云、
斬罪云々(明月記)
公経・保家・隆保の閉門は二月十七日に発令された。また文覚を検非違使庁の監視下においたのはその前夜であった。
十七日。今暁宰相中将(公経卿)・保家朝臣・隆保朝臣被止出仕云々。
巷説。公卿七人可滅亡。不知誰人。文学上人(年来依前大将(頼朝)
之帰依其威光充満天下諸人追従僧也)。夜前検非違使可守護之由被宣下
云々。別当(通資)相倶官人参院、夜半許廷尉三人承之云々(明月記)。
隆保の流罪はやや遅れて、五月二十一日に決定実行された。理由は後鳥羽上皇に対する謀反を計画したことにありとされ(皇帝紀抄)、四月二十三日には上皇の前で通親が隆保らを糺明した(明月記、二十六日)。
基清らの処分で判明しているのは、基清が三月五日に讃岐国守護職を罷免されたこと(東鑑)、文覚が三月十九日に佐渡国に流されたこと(百錬抄)がおもであるが、基清は早くゆるされたらしく、東鑑、正治二年二月二十六日の将軍頼家鶴岡八幡宮社参随従の中にその名が見える。文覚には建仁二年十二月二十五日に召返の宣旨が発せられた(東寺長者補任)。隆保も建仁三年六月二十五日に本位に復した(百錬抄)。基清は同年十二月三十日の除目で左衛門尉に復任した(明月記)。
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ということで(p513)、武士のみならず、一時は「公卿七人可滅亡」の噂すら立つなど、朝廷内部で相当の混乱があった訳ですね。
>筆綾丸さん
広元の辞状だけでも論文が書けそうですね。
※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。
広元の所存 2021/11/29(月) 12:15:36
小太郎さん
五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』でも、解釈が難しいところは適当にスルーしていて、苦笑するばかりです。
薫風両日の夢と紫雄三代の塵などは、一体、どこが「現代語訳」なんだ、ボーッと生きてんじゃねえよ、とチコちゃんなら怒りますね。
ザゲィムプレィアさん
検非違使は令外官なので、(左)衛門府の役と同時に任命され、明法博士は刑事を所管するので、文官であれば、三職同時の任官は理に叶っている、ということになりますか。とすると、本来なら辞任も三職同時がよいが、広元は文官なので、一歩譲って、左衛門大尉と検非違使を罷め、しかるのち、最後に明法博士を辞す、という順番が自然な気がするのです。はじめに明法博士だけ罷める、というのが腑に落ちないのです。
つまり、こんなバラバラな辞め方では頼朝が納得しないのは当たり前なのに、なぜ広元はそんなことをあえてしたのか、その理由がわからないのです。
付記
小太郎さんが、ひとつの解を示されています。
蛇足
三職というと、位に雲泥の差がありますが、信長の三職推任問題を思い出します。
妄想 2021/11/30(火) 13:39:03
薫風両日之夢
紫雄三代之塵
薫風は初夏の風の意であるから、これは、去年の初夏、四月一日、文官としての明法博士と武官としての左衛門尉(検非違使)に任じられ、図らずも、両方の夢が叶えられた、ということではないか。
紫雄は、思うに、紫王の誤記で、牡丹の別称である。牡丹は、白楽天「花開花落二十日」のように二十日草とも言われ、絢爛ではあるが儚いことの喩えである。つまり、栄職は二年足らずで塵と化してしまった、と言いたいのではないか。三代は両日と対であるが、むろん、先祖代々の意もこめられている。
そんなふうに考えると、薫風と紫王、両日と三代、夢と塵、見事な対比を成していると思う。
法家の広元が、朝廷に対してのみならず鎌倉に対しても、柄にもなく文藝的な表現を試みたのだ、ということではないか。漢籍の素養がある頼朝は、広元の韜晦的な胸底が理解できるのである。
小太郎さん
五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』でも、解釈が難しいところは適当にスルーしていて、苦笑するばかりです。
薫風両日の夢と紫雄三代の塵などは、一体、どこが「現代語訳」なんだ、ボーッと生きてんじゃねえよ、とチコちゃんなら怒りますね。
ザゲィムプレィアさん
検非違使は令外官なので、(左)衛門府の役と同時に任命され、明法博士は刑事を所管するので、文官であれば、三職同時の任官は理に叶っている、ということになりますか。とすると、本来なら辞任も三職同時がよいが、広元は文官なので、一歩譲って、左衛門大尉と検非違使を罷め、しかるのち、最後に明法博士を辞す、という順番が自然な気がするのです。はじめに明法博士だけ罷める、というのが腑に落ちないのです。
つまり、こんなバラバラな辞め方では頼朝が納得しないのは当たり前なのに、なぜ広元はそんなことをあえてしたのか、その理由がわからないのです。
付記
小太郎さんが、ひとつの解を示されています。
蛇足
三職というと、位に雲泥の差がありますが、信長の三職推任問題を思い出します。
妄想 2021/11/30(火) 13:39:03
薫風両日之夢
紫雄三代之塵
薫風は初夏の風の意であるから、これは、去年の初夏、四月一日、文官としての明法博士と武官としての左衛門尉(検非違使)に任じられ、図らずも、両方の夢が叶えられた、ということではないか。
紫雄は、思うに、紫王の誤記で、牡丹の別称である。牡丹は、白楽天「花開花落二十日」のように二十日草とも言われ、絢爛ではあるが儚いことの喩えである。つまり、栄職は二年足らずで塵と化してしまった、と言いたいのではないか。三代は両日と対であるが、むろん、先祖代々の意もこめられている。
そんなふうに考えると、薫風と紫王、両日と三代、夢と塵、見事な対比を成していると思う。
法家の広元が、朝廷に対してのみならず鎌倉に対しても、柄にもなく文藝的な表現を試みたのだ、ということではないか。漢籍の素養がある頼朝は、広元の韜晦的な胸底が理解できるのである。