学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)

2021-01-31 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月31日(日)12時12分21秒

白根靖大氏は1965年生まれで、学部も院も東北大だそうですから、中央大学という現在の職場が佐藤進一氏の最後の勤務先と一緒であっても、たまたま、ということなのでしょうね。
白根氏が佐藤氏の直接の薫陶を受けていたら、いくら何でも建武の新政の三年間、中先代の乱までの平穏な時期に限れば僅か二年ちょっとの中、一年間を存在しないものとしてしまうという荒技は使わないでしょうからね。
ただまあ、佐藤氏の見解も相当変で、佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになります。
『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に即して、佐藤氏が描く濃密スケジュールを確認してみると、出発点は六月十五日ですね。(p17以下)

-------
綸旨万能

 後醍醐は帰京して十一日目の六月十五日、今次の戦乱で奪われた所領を旧主に還付し、今後の土地所有権の変更は一々後醍醐自身の裁断を経なければならないという旧領回復令を発布した。つづいて広い範囲に及ぶ朝敵所領没収令、鎌倉幕府の裁判の誤りを正し、敗訴人を救済することを目的とする誤判再審令、鎌倉幕府の建立した寺院の寺領没収令などをつぎつぎに発布した。
 かれはこれらの法令でしばしば訴訟・申請の裁断は綸旨によるべきことを強調した。綸旨は、天皇の側近に仕える蔵人が天皇の意向を取り次ぐ形式の文書であって、文書の諸形式中、天皇の意志をもっとも直接的に下達するものである。かれが律令制での最高機関である太政官はもちろん、後三条天皇以来、天皇親政の拠点となった記録所の文書すら用いずに、綸旨を絶対・万能の効力をもつ文書としたことは、新政の本質が天皇専制であることを示すものであった。かれの綸旨絶対の主張は異常なまでに強固であって、従来は綸旨を与えられる資格のなかったような下級の武士まで綸旨を交付したり、本来蔵人の書くべき綸旨を、全文(蔵人の署名まで)自分で書いたりするほどであった。
-------

「旧領回復令」発布の六月十五日はなかなか微妙な時期で、『増鏡』や『太平記』の古態本に従えば既に十三日に護良は帰京していますが、佐藤氏が依拠する流布本では二十三日帰京ですから、護良はまだ信貴山で頑張っていたことになります。
「本来蔵人の書くべき綸旨を、全文(蔵人の署名まで)自分で書いたりするほどであった」は有名な話ですが、ちょっと滑稽感も漂いますね。
さて、この後、「だが、後醍醐の熱意にもかかわらず、新政策の結果は惨澹たるものであった」として混乱の具体的様相が語られますが、長いので省略し、混乱の原因についての佐藤説を見てみます。(p20)

-------
旧慣無視の新政

 後醍醐がたいへんな意気込みでスタートさせた新政もみるみる足ぶみし始めた事情は以上のようである。何がこのような停滞をもたらしたか。その原因の一つが司法制度の欠陥であること、しかもそれが、万事天皇の直接裁決という専制的な執務方式から生まれたものであることは以上述べたところから明らかであろう。
 しかし新政停滞の原因はそれだけではない。むしろ、より重大な原因として、わたくしは新政に対する積極的な抵抗を挙げるべきだと思う。それは、(1)武士の社会で定着していた法的慣習を新政政府が無視したことから引きおこされる武士一般の不満と抵抗、(2)大はばな所領没収方針にたいする旧幕府系武士の抵抗、以上の二点である。
-------

ということで、(1)は御成敗式目の第八条「当知行(所領の事実的支配)二十ヵ年を経過すれば理非を論ぜず沙汰に及ばず」という、「現行の民法一六二条」の「所有権の取得時効の規定の源をなす」法慣習が建武政権に無視された、という話です。
ついで(2)は、

-------
高氏勢力の抵抗

 新政を停滞させるもう一つの原因は旧幕府系武士の抵抗である。前に挙げた新政初期の法令がどのような勢力なり集団なりの要望によって発布されたか。それを一々はっきりと説明した史料はもちろんないけれども、おおよそのことは推定することができる。いまいちばん影響の大きい旧領回復令と、朝敵所領没収令を取り上げてみよう。
-------

ということで(p21)、佐藤氏は「それを一々はっきりと説明した史料はもちろんないけれども」と認めた上で、次のような「推定」を述べます。

-------
 まず旧領回復令は前記のように大はばに拡大適用されて数々の悲喜劇を生んだが、もともとは元弘元年(一三三一)以来足かけ三年の戦乱で所領を失った人々、つまり反幕軍に加わったかどで幕府に所領を没収されたものや、幕府方の武士に所領を奪われたものの救済を目的とした法令である。しかし三年の戦乱といっても、それが全国的な規模に展開したのはせいぜい末期の数ヵ月であって、それ以前は主として畿内周辺、とくに大和・紀伊・河内・和泉の地方がおもな戦乱地であった。そしてこれら畿南の地域で反幕軍を組織して、優勢な幕府軍にたいして執拗なゲリラ戦をつづけたのがほかならぬ護良であった。つまり旧領回復令の直接の対象は、護良に組織された畿南の反幕兵士だったといってよい。
-------

ここまでは素直に理解できるのですが、この後に「それでは、この法令は護良の要求にこたえたものかというと、かならずしもそうではない」と続く部分は少し難しいですね。
長くなったので、その部分は次の投稿で紹介します。

>筆綾丸さん
歴史学界で佐藤進一説が本格的に見直されるひとつのきっかけとなったのは2002年の吉原弘道氏の論文だと思いますが、吉原氏を含む複数の研究者の佐藤説批判も、専門研究者の間ではともかく、一般に知られるようになったのはおそらく亀田俊和氏の『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)以降で、本当につい最近ですね。
佐藤説の影響が半世紀も続いたということは、決して皮肉な意味ではなく、それなりにたいしたものですね。
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「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)

2021-01-30 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月30日(土)10時49分3秒

中央大学教授の白根靖大氏(1965生)は中世前期が専門で、南北朝期はいささか苦手のようですが、それにしても「建武の新政と陸奥将軍府」はあまり感心できないですね。

https://researchmap.jp/read0180328

この論考は、

-------
1 鎌倉幕府の滅亡
2 建武の新政と東北
3 建武政権の崩壊と陸奥将軍府
4 南北朝の内乱へ
-------

と構成されていますが、第一節の冒頭の一行が既に間違っています。
即ち、

-------
 元弘三年(一三三三)鎌倉幕府より派遣された足利高(尊)氏勢は、畿内の反幕府勢力を追討しに行ったはずだったが、攻撃の矛先を六波羅探題に転じ、探題だった北条氏一族を滅ぼした。同じ年、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉を攻め、ついに北条氏嫡流の得宗一族やその家臣である御内人が自刃した。
-------

とのことですが(p11)、足利尊氏は伯耆・船上山の後醍醐を攻めるために派遣されたのであって、「畿内の反幕府勢力を追討しに行った」のではありません。
『太平記』第九巻第一節「足利殿上洛の事」の冒頭に、

-------
 先朝船上に御座あつて、討手を差し上せられ、京都を攻めらるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、事難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、大きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人催さる。
-------

とあり(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p35)、この「宗徒」(主だった軍勢)のうち、「名越尾張守」高家が「大手の大将」となって山陽道から、尊氏が「搦手の大将」となって山陰道からそれぞれ船上山を目指した訳ですね。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae

『梅松論』にも、

-------
両大将同時に上洛ありて、四月廿七日同時にまた都を出給ふ。将軍は山陰・丹波・丹後を経て伯耆へ御発向あるべきなり。高家は山陽道・播磨・備前を経て同じく伯耆へ発向せしむ。船上山を攻めらるべき議定有りて下向の所、久我縄手において手合の合戦に大将名越尾張守高家討たるゝ間、当主の軍勢戦に及ばずして悉く都に帰る。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou13.html

とあります。
ついで、二行目の「北条氏嫡流の得宗一族やその家臣である御内人が自刃」も、自刃したのは得宗家関係者だけではないので、あまり良い書き方ではないですね。
この後も、何だか古臭い書き方だなあ、と思って第二節に進むと、

-------
2 建武の新政と東北

 元弘三年(一三三三)、流されていた隠岐を脱出した後醍醐天皇は、六波羅探題の滅亡を聞いて帰京の途につき、幕府も滅んだことを知り京都に入った。そして、「自分が行なう新しいやり方は未来の先例になる」(『梅松論』)という意気込みを持ちながら、強いリーダーシップの下で新たな政治を始めた。当時の中国、宋では皇帝中心の専制政治が行われており、武官よりも重んじられた文官が支配体制を支えていた。後醍醐はこれを理想とし、自らに権力を集中させる体制の構築を目指していたとされている。
 鎌倉幕府が行なっていた武士の所領安堵についても、後醍醐は自らの綸旨(天皇の命令書)で決定しようとした。だが、広範囲にわたる合戦を経た状況で、京都の天皇がすべてを裁くことは非現実的であり、綸旨を求める武士たちが京都に殺到したり、一つの所領に複数の者が安堵の綸旨を得るなど、かえって混乱を招いてしまった。そのため、中央や地方の統治機関を整備し、現実に即した対応をとるようになっていった。
-------

といった具合で(p14)、2015年の書物にしては佐藤進一氏の影響が強い、というか半世紀前の佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)との違いを見つけるのが難しいほどの古色蒼然ぶりですね。
そして、雑訴決断所の説明などの後、先に「南北朝クラスター向けクイズ 」で紹介した部分となるのですが(p15以下)、ここは白根氏個人だけの単純な勘違いというより、佐藤氏の影響を強く受けた多くの人が導かれるであろう錯覚といえそうです。
「『梅松論』史観」に素直に追従して、元弘三年(1333)が既に「公武水火の世」だとする佐藤説の枠組みだと、「すでに義良─顕家の赴任前(九月?)に征夷大将軍を解任され、また同じころ、かれの発給した令旨を破棄する旨の布告まで出され」(『南北朝の動乱』、p45)ていた護良が同年十月に逮捕されてくれれば、非常にすっきりした流れとなります。
ところが、実際には護良が逮捕されるまでに一年以上の空白の期間があり、その間の護良の動向で確実な史料に裏付けられるのは元弘三年十二月十一日、南禅寺で中国から来た明極楚俊の法話を聴いたことだけです。
ということで、佐藤説は何だかちょっと間の抜けた感じは否めないですね。
佐藤氏は『梅松論』を極めて高く評価していて、「公武水火の世」に関しても、

-------
 けっきょく、御家人たちは父祖代々の特権身分を失って非御家人と同列となる。そして貴族出身の国司またはその代官(目代)に駆使される。かれらが鎌倉幕府の昔を慕って新政に反発し、他方貴族たちが尊氏勢力の強大を見て、幕府の復活を恐れたありさまを目のあたりに見た一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる(『梅松論』)
-------

などと言われるのですが(p35)、実際に『梅松論』を読んでみれば明らかなように、『梅松論』の著者は後嵯峨院が寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去したとするなど、公家社会には全く無知な人で、およそ「歴史家」といえるようなレベルの知識人ではありません。
現代であれば、せいぜいルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
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南北朝クラスター向けクイズ【解答編】

2021-01-29 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月29日(金)21時01分45秒

>筆綾丸さん
いえいえ、もっと大きな話なんですね。
白根氏は「ところが、その護良は十月に謀叛の疑いで失脚してしまい、尊氏の存在感はさらに増していった。そうした中、顕家は、後醍醐の皇子義良親王を奉じ、奥州の統治を委任するという後醍醐の仰せを受け、同じ十月に陸奥へ下向した」と書かれているので、護良が「謀叛の疑いで失脚」したのが元弘三年(1333)十月だと誤解されているんですね。
時系列で整理すると、

元弘三年(1333)五月 鎌倉幕府滅亡
同年八月末or九月初 護良、征夷大将軍を免ぜられる
同年十月 北畠親房・顕家、義良親王を奉じて陸奥へ下向
同年十二月十一日 護良、南禅寺にて明極楚俊の法話を聴く
同年十二月 足利直義、成良親王を奉じて鎌倉へ下向
元弘四年(建武元、1334)正月 恒良親王、立太子
同年十月 護良逮捕され、翌月鎌倉へ流される

ということで、実際には護良は一年後の建武元年(1334)十月に「謀叛の疑いで失脚」している訳です。
まあ、うっかりミスなのですが、ちょっと痛いですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

social distancing 2021/01/29(金) 18:43:04
小太郎さん
--------
彼(尊氏)は武蔵守兼武蔵守護として、新田義貞と東国における主導権争いを繰り広げていたが、護良は、「東国の武士の多くは東北にも所領を持って力があったので、彼らを足利方から引き離そうとして」(保暦間記)、岳父の親房と謀り陸奥守顕家を実現したのだという。
--------
となりますか。
尊氏は護良たちとは social distancing を取っていたのに、引用文は主語と述語が対応していないため、同じクラスターの仲間に入れられてしまった、と。
なお、東国は坂東、謀は図、のほうがいいのかな、という気もしますが、よくわかりません。 
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南北朝クラスター向けクイズ

2021-01-29 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月29日(金)12時31分18秒

【設問】
 下記文章は白根靖大編『東北の中世史3 室町幕府と東北の国人』(吉川弘文館、2015)所収の白根靖大「建武の新政と陸奥将軍府」から引用した。
この中に明らかな誤りがあるが、その箇所を指摘した上で、どのように誤っているかを説明せよ。

-------
陸奥守北畠顕家
 元弘三年(一三三三)八月五日、陸奥守に北畠顕家が任命された。顕家は『神皇正統記』の著者北畠親房の子息で、当時一六歳、参議・近衛中将・弾正大弼の官職を帯びる公卿だった。公卿で若年の顕家が陸奥守に任じられたのは、東北へ足利尊氏が勢力拡大を進めるのに対抗するため、護良親王と親房が講じた策だという。
 これより先、後醍醐は、六月五日に尊氏を鎮守府将軍に、ついで十三日に護良を征夷大将軍に任命していた。尊氏は、鎮守府将軍の地位を梃子として、陸奥国外ヶ浜・糖部(青森県)の旧北条氏領を手に入れるなど、奥州に勢力を拡大しようとした。彼は武蔵守兼武蔵守護として、新田義貞と東国における主導権争いを繰り広げるとともに、「東国の武士の多くは東北にも所領を持って力があったので、彼らを足利方から引き離そうとして」(『保暦間記』)、岳父の親房と謀り陸奥守顕家を実現したのだという。ところが、その護良は十月に謀叛の疑いで失脚してしまい、尊氏の存在感はさらに増していった。そうした中、顕家は、後醍醐の皇子義良親王を奉じ、奥州の統治を委任するという後醍醐の仰せを受け、同じ十月に陸奥へ下向した。
-------


-------
『東北の中世史3 室町幕府と東北の国人』

南北朝の争いから室町幕府と鎌倉府の対立へと至る政情不安。東北でも、北畠顕家(あきいえ)や奥州管領、篠川公方などの諸勢力が相争った。そうした不安定な時代を生き抜いた地元の国人たちと、東北社会の実態を多面的に描き出す。

白根靖大(中央大学文学部教授、1965生)
https://researchmap.jp/read0180328
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森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)

2021-01-29 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月29日(金)11時29分15秒

後醍醐と護良の関係についてはなかなか難しい議論が多くて、私も今のところ多少の意見を言えるのは征夷大将軍に関することだけです。
そして、それも前回投稿で殆ど言い尽くしているのですが、森氏のこの論文には興味深い指摘が多いので、もう少しだけ紹介しておきます。
ということで、「いわば形式的なセレモニーであったと思われる」の続きです。(p202以下)

-------
 いっぽう、寺社や将士に対する所領の給付・安堵についての令旨が六波羅探題陥落後目立って多くなっている事実も見落とすことはできない。一覧表に見るように、対象となった所領は和泉・紀伊といった畿内近国にほぼ所在し、護良の勢力範囲と重なっている。ここで注目すべきは、元弘三年五月十日、摂津国三ケ庄(美河原・外院・高山)の領有を護良令旨(本文既出)によって認められた摂津・勝尾寺のように、のち建武新政府の裁判所における訴訟で逆転敗訴したケースの存在である。護良が安堵令旨を下すとき、相伝の理非より軍事的必要性を優先させたことによる当然ともいえる結果であった。このような不首尾は当事者に不信感をいだかせるのみならず、広く社会的混乱を巻き起こす一因となったであろう。護良の令旨発給が新政府の主催者たる後醍醐天皇の施政によって障害となるというようなことがままあったものと思われる。
-------

「護良が安堵令旨を下すとき、相伝の理非より軍事的必要性を優先させたことによる当然ともいえる結果であった」とありますが、戦争の最中に落ち着いて「相伝の理非」を検討する暇があるはずもなく、「軍事的必要性を優先」することがむしろ「当然」ですね。
森氏の見方は、ちょっと護良に酷のような感じがします。
護良は決して征夷大将軍を「自称」していたのではなく、きちんと後醍醐の了解を得ていたと考える私の立場からすれば、護良は意外にもけっこう律儀な人間であって、少なくとも主観的には後醍醐が与えてくれた権限の範囲内で動いていたのに、後になって後醍醐に梯子をはずされてしまったようにも見えます。
この点は、中先代の乱後の後醍醐と尊氏の関係と併せて、後で論じたいと思います。
さて、続きです。(p203)

-------
 護良が将軍のポストを剥奪されたのがいつか明証はない。しかし、管見の範囲では、その令旨における「依 将軍家仰、……」の表現が元弘三年八月二二日付(「歓喜寺文書」、一覧表の57)を最後に消滅し、同年九月二日付(「久米田寺文書、一覧表の58)では単に「依令旨、……」となっている。将軍の解任はこの間にあったものと思われる。しかも、将軍となる以前の令旨には「二品親王令旨」と記されていたことを想起すれば、将軍職解任と同時に二品の位階をも奪われた可能性も否定できない。
 管見の限りでは、最後の令旨は次のものである(「久米田寺文書、一覧表の59)。

  和泉国上下包近名事、為往古寺領、各別進止、無相違之条、寺家所進證文等分明也、而混三ケ里地頭職、乱妨当
  名<云々>、事実者、太以不可然、早任先度令旨、可被全所務者、依令旨執達如件、
      元弘三年十月三日     左少将〔四条隆貞〕(花押)奉
     久米田寺明智上人御房

 護良の最末期の令旨が彼の最後のとりでともいうべき和泉国関係、しかも討幕の旗揚以来むすびつきの深かった久米田寺あてである事実は、護良の置かれた立場をこのうえもなく雄弁に物語っている。
 護良の失脚はこうして始まった。これ以降のことについては、注(1)所引拙著の該当箇所に譲り、ここでは再説を控えたい。
-------

うーむ。
仮に「護良の最末期の令旨」の直後に護良が逮捕され、鎌倉に流されたのなら、私もこの元弘三年十月三日付の久米田寺宛の文書が「護良の置かれた立場をこのうえもなく雄弁に物語っている」と考えるのですが、実際にはこの後、一年以上の空白があります。
その空白期間において護良が何をしていたかというと、確実な史料に基づいて分かっているのは元弘三年十二月十一日に南禅寺で明極楚俊の法話を聴いたことくらいであり、後は『太平記』や『梅松論』の、どこまで信頼できるのか分からない話だけですね。
ところで、森氏は「将軍のポストを剥奪」「解任」という表現を使われていますが、私は後醍醐と護良の合意による「辞職」ではなかろうかと思っています。
もちろん私も後醍醐と護良がずっと良好な関係にあった、などと想定している訳ではなく、建武元年(1334)十月に両者の関係が破綻している以上、その暫く前から相当の緊張関係があったであろうことは明らかです。
しかし、『太平記』の影響で、佐藤進一氏を中心とし、森氏を含む従来の通説が、後醍醐・護良の関係は最初から緊張をはらんでおり、尊氏を交えて三つ巴の「公武水火の世」が建武新政発足直後から始まっていたのだ、としている点には多大な疑問を抱いています。
佐藤氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)など、その構成が、

「はじめに」→「公武水火の世」→「建武の新政」→「新政の挫折」(以下略)

となっていて、タイトルだけを見れば「建武の新政」の説明を始める前に「公武水火の世」を論ずるという極めて倒錯的な展開です。
この「公武水火」という表現自体は『太平記』ではなく『梅松論』が典拠であり、『梅松論』は、

-------
「一統の御本意、今においては更にその益無し」と思し召しければ、武家よりまた公家に恨みを含み奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむ事をいそがしく思へり。故に公家武家水火の諍ひにて元弘三年も暮れにけり。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html

という具合いに、元弘三年(1333)の時点で既に「公武水火」の世だという書き方をしているのですが、私は「『太平記』史観」と並んで「『梅松論』史観」も相当に問題だと考えています。
大雑把な傾向としては、『太平記』も『梅松論』も建武元年(1334)以降に顕在化する諸事件や対立関係を元弘三年(1333)に前倒しして配置することにより、「公武一統」など所詮「あだ花」で、公武は最初から対立する宿命にあったのだ、というイメージを創り出しているように感じるのですが、この点も後で検討したいと思います。
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森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その3)

2021-01-28 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月28日(木)12時28分26秒

続きです。(p202)

-------
 さて、問題としてきたのは、『増鏡』などが護良の将軍宣下を元弘三年六月一三日としていることと、その令旨に即してみればすでに同年五月一〇日付のものに「依 将軍宮仰」と見えている事実との関係をどう理解するかである。
 筆者は以下のように考える。まず前提となるのは、護良自身が強く征夷大将軍のポストを望んだであろうこと、そしてそれは第二の武家政権樹立をもくろむ足利高氏(尊氏)の動向を制御する意味を持ったと考えられること、である。武門の統括をめざしていた護良は六波羅探題の陥落を契機に、その後まもないころから将軍を自任した。しかもそれは父帝の暗黙の了解を得たうえでのことと考えて少しもおかしくない。父帝の隠岐配流中、京都の周辺で討幕勢力の最高指導者として獅子奮迅の活躍を遂げ、討幕に大功のあった護良にしてみれば、それは至極当然のはからいとみなされたであろう。六月十三日の将軍宣下は、いわば形式的なセレモニーであったと思われる。
-------

「『増鏡』などが護良の将軍宣下を元弘三年六月一三日としていること」とありますが、『増鏡』には六月十三日の入京後、「すみやかに将軍の宣旨をかうぶり給ぬ」とあるだけで、十三日当日とは言っておらず、これはあくまで田中義成などの学者の推測ですね。
それはともかく、森氏が「まず前提となるのは」とされる二つのうち、「護良自身が強く征夷大将軍のポストを望んだであろうこと」は、護良が望みもしない地位を後醍醐が一方的に押し付ける理由も考えにくいので、「強く」かどうかは別として、まあ、そうなのだろうなと思います。
しかし、「それは第二の武家政権樹立をもくろむ足利高氏(尊氏)の動向を制御する意味を持ったと考えられること」の方は、いくら何でもあまりに早すぎる話ではないかと思います。
五月七日に六波羅が陥落したといえ、五月十日の時点では鎌倉幕府は健在であり、後醍醐側も、まさか鎌倉幕府が五月二十二日に滅亡するなどとは全然予想していなかったはずです。
『太平記』第十一巻第四節「新田殿の注進到来の事」にも、

-------
 二十八日、法花山へ行幸なつて、御巡礼あり。【中略】
 ここに一日御逗留あつて、供奉の行列、還幸の儀式を調へらるる処に、その日の午刻に、過書を頸に懸けたる早馬二騎、門前まで乗り打ちして、庭上に羽書を捧げたり。諸卿驚いて、急ぎ披きこれを見給ふに、新田小太郎義貞がもとより、相模入道以下一族従類等、不日に追討して、東国すでに静謐の由を注進せり。「西国、洛中の戦ひに、官軍聊か勝に乗つて、両六波羅を攻め落とすと云へども、関東を攻められん事は、ゆゆしき大事なるべし」と、叡慮を廻らされける処に、この注進到来してければ、主上を始め奉つて、諸卿一同に、猶預〔ゆうよ〕の宸襟を休め、欣悦〔きんえつ〕の称歎を尽くさる。即ち、「恩賞は宜しく請ふに依るべし」と宣下せられて、先づ使者二人に、おのおの勲功の賞をぞ行はれける。
-------

とあって(兵藤校注『太平記(二)』、p177)、この部分は特に誇張もないと思われます。
このように、「西国、洛中の戦ひに、官軍聊か勝に乗つて、両六波羅を攻め落とすと云へども」、まだ「第一の武家政権」である鎌倉幕府が厳然と存在していて、倒幕にはなお数ヵ月、あるいは数年の戦いを覚悟するのが当たり前の状況で、「第二の武家政権樹立をもくろむ足利高氏(尊氏)の動向を制御する」といった発想が出てくるはずもありません。
これが鎌倉幕府があまりにもあっけなく倒壊した五月二十二日以降ならば、そのような懸念も一応は理解できますが、五月十日の時点ではいくら何でも早すぎますね。
さて、森氏は護良帰京をめぐる『太平記』の「二者択一パターン」エピソードに縛られているので、「武門の統括をめざしていた護良は六波羅探題の陥落を契機に、その後まもないころから将軍を自任した。しかもそれは父帝の暗黙の了解を得たうえでのことと考えて少しもおかしくない」といった、妙に力の入った推論をされています。
しかし、私はこんなものは『太平記』の創作だと考える立場です。
そして、『太平記』を全く無視して、森氏が綺麗に整理された護良親王令旨の一覧表をごく素直に眺めれば、護良は「父帝の暗黙の了解」ではなく、正式の了解を得て征夷大将軍に任官したと考える方が自然ではないか、と思われます。
後に征夷大将軍を解任された護良は、スパッと「将軍家」・「将軍宮」の使用を止めているので、少なくともこの種の肩書に関してはけっこう律儀な性格です。
使用を止めろと言われれば素直に使用を止めた護良は、任官に際しても勝手に「自任」したのではなく、正式な承認を得たと考えるのが自然です。
もともと後醍醐と護良の間では直接、あるいは後醍醐が畿内に派遣した千種忠顕あたりを通じて相当の情報交換が行われていたはずですし、四月二十七日の名越高家戦死・尊氏離反以降は両者の情報交換を妨げる障害も殆どなくなりますから、護良が「征夷大将軍になりたい」と後醍醐に手紙を書いて、後醍醐から「いいよ」という返事をもらうのにもたいした時間はかかりません。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その8)

そして、名越高家戦死・尊氏離反により鎌倉幕府が大きく動揺したものの、未だその滅亡までには相当の時間があるであろうと予想されていたこの時期、征夷大将軍の称号はそれなりに重要な政治的・軍事的意味を持ったのではないかと思われます。
後に尊氏が後醍醐の一存で全ての地位、位階と鎮守府将軍を含む官職を奪われたように、後醍醐が鎌倉幕府第九代将軍守邦親王の地位を剥奪し、別の誰かに与えようと思えば、少なくとも観念的にはいつでも可能だったはずです。
しかし、鎌倉幕府が厳然として存在している段階でそんなことをしても、隠岐に流された「廃帝」が訳の分からないことをしている、という笑い話で終わってしまいます。
ところが、幕府が相当危なくなっているぞ、と多くの人が不安に思っている時期に、後醍醐が守邦親王から征夷大将軍の地位を奪って護良親王に与えたとなると、鎌倉幕府はもはや支配の正統性を失った存在なのだ、というけっこう強力な政治的・軍事的なアピールになって、親幕府側の武士に一層の心理的圧力を加えることが可能になりますね。
逆に言うと、征夷大将軍という存在は、六波羅滅亡から幕府倒壊までの極めて微妙な期間には絶大な政治的・軍事的意味を持ったものの、実際に幕府があっけなく倒壊してしまうと、それほどのアピール力もなくなってしまったのではないかと思います。
時代が安定してくれば、征夷大将軍など、鎌倉時代後半と同様に、再び小学生くらいの親王が名目的にやっておれば良い程度の地位になってしまったのかもしれません。
私は護良親王が僅か数か月間で征夷大将軍を解任された後も後醍醐との関係が決裂しなかった理由について、二人にとって征夷大将軍など名誉職的な地位であったからと考えていました。
しかし、より正確には、征夷大将軍は一時的には極めて重要な政治的・軍事的な意味を持ったけれども、「公武一統」の世となって天下「静謐」が達成された以上、既に重要性が低下しており、むしろ波瀾の時代の名残のようにも感じられるので、もうやめようではないか、と二人が合意した可能性もあるのでは、と考えています。

護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)
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森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その2)

2021-01-27 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月27日(水)22時03分41秒

第二節から第四節までにも興味深い指摘が多いのですが、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたか否か、に関係する部分に焦点を絞りたいと思います。
ということで、第五節を引用します。(p200以下)

-------
   五 征夷大将軍就任と失脚

 『増鏡』第一七(月草の花)に次のような記述がある。

(元弘三年六月)(尊雲=護良)
 十三日、大塔の法親王宮こに入給。この月比に、御髪おほして、えもいはずきよらかなる男になり給へり。唐の
 赤地の錦の御鎧直垂といふ物奉りて、御馬にてわたり給へば、御供にゆゝしげなる武士どもうち囲みて、御門の
 御供なりしにも、程々劣るまじかめり。すみやかに将軍の宣旨をかうぶり給ぬ。

 護良親王の意気揚々たる入京のさまをあますところなく伝えているが、ここでは護良が将軍、つまり征夷大将軍になったとしるされていることを確認さえすればよい。問題は将軍になった時期である。『大日本史料』第六編之一は、右にあげた『増鏡』や『太平記』などの記事によって、護良の入京と将軍任命を元弘三年六月一三日としている。
-------

いったん、ここで切ります。
護良が帰京したのは『増鏡』や古本系の『太平記』が記す六月十三日か、それとも流布本系の『太平記』が記す六月二十三日かについては、既に『大日本史料』第六編之一で詳細な検討がなされていて、田中義成は六月十三日が正しいと判断していますね。
しかし、佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)や永原慶二『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)は、そのような議論があることすら示さずに六月二十三日としています。

護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ca2ccc6f85cfed88d01dc069dfe90bd

さて、続きです。

-------
 しかしながら、護良の令旨を編年に並べてみれば、この日を待つまでもなく、すでに五月一〇日付の令旨で自ら「将軍宮」と称していることがわかる。ここで、一覧表にあげた39および40の連続する二通の令旨を示そう。

  度々合戦捨身命致軍忠之刻、去四月三日・同八日・廿七日等合戦之時、子息已下郎従討死之条、尤以不便次第、
  所有御感也、早可有恩賞者、大塔二品親王令旨如此、悉之、以状、
      元弘三年五月八日 左少将〔定恒〕(花押)
     備後国因嶋本主治部法橋幸賀館

  摂津国三ケ庄事、任貞観之宣旨、被管領可全所務、宜奉祈当今皇帝御願、且度々合戦軍忠之条、奉公異于他、云
  彼云惟、忠功異于他、向後弥可奉祈国家者、依 将軍宮仰、御下知如件、
      元弘三年五月十日 左少将<在判>
     勝尾寺住侶等中

 前者では「大塔二品親王令旨如此、悉之、以状」と、そして後者では「依 将軍宮仰、御下知如件」と書き止められている。両者の日付の間に、護良の地位に大きな変化があったことはほぼ疑いあるまい。また、その変化が五月七日の六波羅陥落と深く関係しているであろうことも推測にかたくない。
 この元弘三年五月一〇日令旨の次にくる同五月十二日令旨(「久遠寺文書」、一覧表の41)の書き止めは五月一〇日のそれと同様であるが、その次の同年五月一四日令旨(『師守記』紙背文書、一覧表の42)では従来の「二品親王令旨如此、仍執達如件」の形が顔の出しており、当初、書き止め文言は必ずしも一定してはいない(43も同様)。
 しかし、筆者の収集によれば、おそくとも元弘三年五月二一日令旨(『金剛寺文書』、一覧表の44)より以降は「依将軍家仰(令旨)、……」(50は「依 宮将軍令旨」)という表現に変わり、同年八月下旬まで続いている。
-------

ということで、元弘三年(1333)五月八日と五月十日の間にくっきりと線が引かれていて、「両者の日付の間に、護良の地位に大きな変化があったことはほぼ疑いあるまい」という結論になる訳ですね。
この後、森氏は「上の句に続く書き止め文言」、即ち「(仍)執達如件」「(御)下知如件」「(如此)、悉之、以状」という表現について若干の考察をされますが、省略します。
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森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)

2021-01-27 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月27日(水)18時18分26秒

ということで、小川信編『中世古文書の世界』(吉川弘文館、1991)所収の森茂暁氏の論文、「大塔宮護良親王令旨について」を少し検討してみます。
小川信氏の「序」によれば、

-------
 本書は中世史研究の大家から中堅にいたる十五氏による、中世古文書を主な対象とした最新の研究成果を収録した論集である。この論集は、私の古稀を記念して寄稿してくださった四十四編の論稿の中から、古文書に関わりの深い十五編を私の編集に委ねて『中世古文書の世界』として刊行し、他の二十九編は『日本中世政治社会の研究』と題して別に一書とするという、発起人諸氏の意向に添って実現したものである。
-------

とのことで、1949年生まれの森茂暁氏は1991年時点では四十二歳ですから、「大家」ではなく「中堅」の方に分類されるのでしょうね。

小川信(1920-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E4%BF%A1

ウィキペディアで小川信氏の記事を見たら、暁星中学卒業後に国学院予科、次いで国学院大学史学科とのことで、ちょっと珍しいご経歴ですね。
カトリック系の暁星中学はフランス語教育で有名で、戦前に暁星中学卒といったら外交官などに多い相当お洒落な学歴ですが、それにしては何故に国学院のような、失礼ながら戦前でもかなり野暮ったい大学の予科に転じたのか。
ちょっと調べてみたくなりますね。
ま、それはともかく、森論文の構成は、

-------
一 はじめに
二 「綸旨ノ文章」の令旨
三 護良親王令旨の登場
四 六波羅探題の陥落まで
五 征夷大将軍就任と失脚
六 護良親王令旨の奉者
七 後醍醐天皇綸旨との関係
八 おわりに
-------

となっていますが、まずは「はじめに」で論文の趣旨を確認します。(p192以下)

-------
 護良親王はいうまでもなく後醍醐天皇の皇子であり、その皇子としての順について『太平記』巻一は「第三宮」とする。生年は延慶元年(一三〇八)と推定される。
 筆者はすでに、後醍醐天皇の皇子たちの動向を南北朝史に位置づける作業を行ったが、護良についてもそこであらかたの整理を済ませている。しかしながら、護良の動向を調べるための基本史料となる同親王の令旨については、そこでは書物の性格上これを詳述することができず、論証ぬきの結論のみを示すにとどまった。本稿はこの点を補うために執筆するものである。
 従って、本稿の主眼は護良親王令旨の古文書学的検討を通じて、同親王の動向の一端を概観し、もって、『太平記』巻一二が建武新政樹立について「抑〔そもそも〕今兵革一時ニ定〔しづまつ〕テ、廃帝(後醍醐天皇のこと)重祚ヲ践〔ふま〕セ給フ御事、偏〔ひとへ〕ニ此宮(護良親王のこと)ノ依武功事ナ」りと評する理由を考察することにある。
 そもそも、後醍醐天皇の皇子たちに関する研究文献は決して少なくないが、令旨の分析をとおしての考察は、ほんのわずかしかない。懐良親王に即してのものがその一つであるが、懐良の残した令旨は現在四五年間にわたる一五〇通あまりが確認されており、諸皇子のなかで懐良の令旨についての研究がなされる理由はある。
 一方、護良の令旨についてみれば、令旨発給の事実は六〇例ほどが知られ、令旨自体も四〇通あまりが正文や案文・写の形で現存している。しかもそれらは、元弘二年半ばから翌三年一〇月までの一年数ヵ月の間に出されたものであるから、発給の密度の点からみれば、懐良の場合を優にしのいでいる。つまり、護良の動向をその令旨を通じて考えることは充分可能なわけである。
 護良親王令旨の発給一覧表を本文末尾に付した。適宜参照頂きたい。
-------

「護良についてもそこであらかたの整理を済ませている」に付された注(1)を見ると、

-------
(1) 拙著『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』(中公新書、昭和六三年七月刊)。なお、拙稿「護良親王─「不吉」の還俗将軍─」(『歴史読本』三四巻七号、平成元年四月刊)参照。
-------

とあります。
後者は未読ですが、『皇子たちの南北朝』は当掲示板でも二度ほど言及しています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
帰京後の成良親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9263c48e615c99949952173370ff559
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「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)

2021-01-27 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月27日(水)11時57分55秒

『中世歌壇史の研究 南北朝期』の検討の途中ですが、護良親王について少し補足しておきます。
1月23日の投稿で、私は細川重男氏の「むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう」という見解に対し、これは細川氏自身が提示した「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」という「歴史研究の基本」と整合性がないのではないか、と批判しました。

「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8af9d296e77523b21f345d6f27ab22c

建武新政期の護良親王については信頼できる一次史料が皆無に近く、亀田俊和氏のように『太平記』に慎重な姿勢を取られている歴史研究者であっても、この時期の叙述は結局のところ『太平記』に依拠されています。
新井孝重氏の見解などは本当に『太平記』べったりで、「論文」ではなく『太平記』に学問的粉飾を凝らした「小説」のように思われます。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/679ad9e52ebe90324ce3fb8e11eef575
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606

そのような状況なので、細川氏も史料的根拠なく「むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう」と主張されているのかなと思ったのですが、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018)を見たところ、呉座氏も細川氏と同様の主張をされていますね。
そして、その根拠として、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたことを挙げられています。(p149以下)

-------
後醍醐天皇と護良親王の対立の核心

 護良親王は鎌倉幕府滅亡直後から「将軍家」を自称して令旨を発給していた。この令旨の書式は鎌倉幕府が発給していた関東御教書という命令書に酷似している。護良は征夷大将軍となって幕府を開き、武士たちを統率しようと志向していたのだろう。
 武士ではなく皇族・親王が武家の棟梁になるというと違和感があるかもしれないが、建長四年(一二五二)に宗尊親王が征夷大将軍に任官して以来、鎌倉幕府では八一年間、親王将軍が続いた。したがって建武政権成立時点では、源氏将軍より親王将軍の方が人々になじみ深かったのである。
 しかも護良親王は自ら武士を率いて鎌倉幕府軍と戦った戦歴があり、血筋・実績からいって、足利尊氏以上に征夷大将軍にふさわしい存在だった。護良が征夷大将軍を望んだのは決して無茶な要求ではなく、彼にしてみれば当然のことだったのである。
 だが鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は天皇親政を志向し、摂関政治・院政・幕府政治を否定した。そんな後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった。また倒幕戦闘中、護良が勝手に令旨をばらまいたことも後醍醐は問題視した。この点でも後醍醐から綸旨を獲得し、綸旨に基づいて軍事行動を起こした尊氏の方が後醍醐の眼鏡にかなっていた。そこで後醍醐は尊氏を鎮守府将軍に任命し、建武政権の軍事警察部門の最高責任者にした。
 建武政権において鎮守府将軍となった尊氏は「後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者」(清水克行氏)だった。後醍醐から見れば、護良より尊氏の方が自分に忠実で信頼できる存在だったのである。
-------

「建武政権成立時点では、源氏将軍より親王将軍の方が人々になじみ深かった」点については、岡野友彦氏も強調されるところです。

「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52

私自身は、信貴山に立て籠もった護良が後醍醐に征夷大将軍任官を要求したとの「二者択一パターン」エピソードは『太平記』の創作であろう、と考えています。
しかし、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたか否かについては論じていなかったので、森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」(小川信編『中世古文書の世界』、吉川弘文館、1991所収)という論文に即して、少し検討してみたいと思います。

護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9fec18d6e38102c64a29557b42765002
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04cda2bd6423c12bba2963c1f71960e1
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

>キラーカーンさん
>今度の『少年ジャンプ』の新連載の主人公は北条時行らしい
ツイッターでは結構な話題になっていて、実は私も既に購入済みです。
感想は後程。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その5)

2021-01-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月26日(火)21時31分22秒

続きです。(p368以下)

-------
 新設の武者所には武家歌人が多かった。建武年間記の「武者所結番事」は延元元年四月のものではあるが、ここにみえる武士にも、長沼秀行(続千載以下)、小串秀信(風雅)・長井広秀(風雅以下)・二階堂成藤(同)及び知行らがいる。東氏村はこの武者所結番事に名はみえないが、やはり武者所に参候しており、天皇下賜の題で詠を進めた事があった(新千載二九八)。
 原中最秘抄の奥書によっても、この頃多くの家で会が行われていたらしいが、草庵集<巻十>にも「建武のころ等持院左大臣〔尊氏〕家に寄花神祇といふ事をよまれしに」とある。尊氏と頓阿とは後に深い関係を持つようになるが、これがその結びつきを示す最も古い資料である。
 右によって尊氏が建武の頃、家で会を催している事が知られ、かつ元弘立后の屏風にも歌を詠じており、彼が歌を好む事は人々によく知られていたと思われる。
 尊氏の祖義氏は続拾遺の作者であったが、その後足利氏から勅撰歌人を出していない。しかし尊氏・直義兄弟の母清子の実家上杉氏は、元来勧修寺支流の下級貴族といわれ、関東に下って武士になるが、やはりその文化性は失わなかったようで、清子の兄重顕(伏見院蔵人)は玉葉・続千載作者、同じく兄弟の頼成(永嘉門院蔵人)も風雅作者。清子も歌をたしなんで、風雅作者である。かつ尊氏室登子も赤橋家の出であった。
-------

いったん、ここで切ります。
『原中最秘抄』は「デジタル大辞泉」によれば、

-------
源氏物語の注釈書。2巻。源光行・親行の共著「水原抄」に、親行の子の義行、孫の行阿が代々加筆し、貞治3年(1364)に成立。題は「水原抄」の中の最も秘たる部分の抄録に解説を加えた秘伝の書の意。光行に始まる河内方(かわちがた)の学説を知る上で貴重な資料。

という書物ですね。
また、『草庵集』は為世門下の「和歌四天王」の筆頭、頓阿(二階堂貞宗、1289-1372)の私歌集です。
頓阿は尊氏より十六歳の年長ですね。

頓阿(コトバンク)

上杉氏については、四条家との関係を中心に、昨年四月から五月にかけて少し検討してみました。
私は決して山田敏恭氏の「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できる」という結論に否定的ではないのですが、ただ、鎌倉期の四条家は相当に巨大な存在であって、複数の家に分かれていたこと、山田氏が言及される四条隆蔭は四条隆親の系統ではなく、母が家女房であるために隆親に嫡子の地位を奪われた兄・隆綱の系統であって、油小路家という分家の人である点が気になります。
また、上杉重房が本当に宗尊親王の東下に同行していたのかについては、史料面で若干の問題はありますが、仮に同行していなくても、例えば人材の補強として少し後に呼ばれたような可能性だってありますから、宗尊親王期に重房が鎌倉に移ったことまで疑う必要もないと思います。

上杉一族は四条家の家司なのか?
「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できるのではないだろうか」(by 山田敏恭氏)
「重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した」のか?
久保田順一氏「第二章 上杉氏の成立」(その1)~(その3)

さて、この後、井上氏は赤橋登子の兄、守時の生年が不明であることを前提に、登子の父について縷々検討されるのですが、現在では守時の生年は永仁三年(1295)であることが明確になっています。
ただ、それほどの分量でもないので、そのまま紹介しておきます。

-------
 登子は公卿補任<観応元年義詮の尻付・尊卑分脈等系図類>によると赤橋久時女とあるが、師守記貞治四年五月四日の条には(登子)「入夜子剋入滅<年六十云々、名字平登子、相模守守時朝臣女>自去年虚労云々」とあり、同記には頻りに「大方殿」(登子)の親父守時の如くに記している。守時は久時の男である。登子は貞治四年六十歳で没したのだから、徳治元年の生まれとなる。而して久時は徳治二年に三十六歳で没している(北条九代記)。即ち久時の子ならその三十五歳の時の子である。守時の生年は不明であるが、仮に久時が十六、七歳で守時をもうけたとしたら、守時は徳治元年には既に十八、九歳になっており、登子をもうける年齢に達していた事になる。即ち登子は守時女であるかもしれず、また久時女であったとしても生まれた翌年久時が没しているので、恐らく守時に養育され、その養女となり、形式的には守時女となっていたのかもしれぬ。なお守時の弟は記述の鎮西探題英時で、その妹も歌人であった。
 かくして尊氏も直義も、関東で育ったとは言い条、頗る文化的な雰囲気に包まれていたと思われる。既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事は前章に述べた。続後拾遺に尊氏は一首入集、臨永の作者にもなった。建武新政下に公卿となり、京に滞在して多忙ではあったが、暇をぬすんで歌会を行なったのも当然である。武士の中で最も実力・声望ある尊氏の会に、歌道家の人々や法体歌人を含めた文化人が参集したであろう事は想像に難くない。
-------

「既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事」と臨永集については次の投稿で説明します。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)

2021-01-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月26日(火)12時01分37秒

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』の紹介を三回ほど続けてきましたが、タイトルがバラバラだと後で検索・参照するときに不便なので、今回から書名を入れることにします。
ということで、建武元年(1334)の話の続きです。(p367以下)

-------
 七夕内裏七首には天皇・雅朝・為定が詠じた(藤葉<七夕月>・新続古今三七七・三七八)。因みに明題和歌全集や類題和歌集に、ただ「御会」「内裏御会」とあって、七夕月・七夕霧・七夕河・七夕草・七夕鳥の題によって人々が詠じた会があった。作者は天皇・明釈・為定・実忠・季雄・公脩・惟継・為明・為忠・経有・為冬・為親・公明・隆教・隆朝・光吉・公泰・寂阿<丹波忠守>・公宗・雅朝・実教。明釈とあるので一応元徳二、三年か、建武元、二年かと思われるが、公宗(建武二誅)が作者になっており、建武二年ではないようである。年次は未詳だが一応掲げておく。十五夜会(<雅朝・行房・永能他。藤葉・新続古>)。
 以上を通じてこの頃の歌壇は二条家の人々によってリードされていたらしい事が如実に知られるし、またそれは当然なことであった。なお他に注意されるのは次の如き点である。
-------

言うまでもありませんが、この二条家は摂関家の二条家とは別の歌道の家で、この時期は二条為世を中心としています。
藤原定家(1162-1241)の子孫が為家(1198-1275)→為氏(1222-86)→為世(1250-1338)と続いていて、「為」が通字ですね。
ただ、二条家が「為」を独占している訳ではなく、為家の同母弟・為教の京極家、為家の異母弟・為相(母は阿仏尼)の冷泉家にも「為」が多く、非常に紛らわしいです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96

なお、三条公明(1281-1336)と寂阿(丹波忠守、?-1344)の名前が出ていますが、この二人は『徒然草』第一〇三段の、

-------
 大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれけるところへ、医師〔くすし〕忠守参りたりけるに、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐瓶子〔からへいじ〕」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちてまかり出でにけり。
-------

というエピソードで有名な仲良しコンビですね。
上記引用は小川剛生訳注『新版 徒然草』(角川文庫、2015)から行いましたが(p103以下)、小川氏は『二条良基研究』(笠間書院、2005)において、自ら設定した「そもそも<作者>とは何であろうか」という「なぞなぞ」を検討し、丹波忠守が『増鏡』の著者で二条良基が監修者であった、と解かれました。
まあ、『増鏡』の著者としては忠守程度の身分の人では無理が多いことが明らかなので、私はあまり感心しなかったのですが、その後、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)では、小川氏もご自身の説を撤回されて、古くからの通説である二条良基説に戻っておられますね。
かつてのご自身の迷答(?)に「腹立ちてまかり出でにけり」という訳でもないでしょうが。

「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/16665e8f7d97eaf7bdb417181c2f1cb2
『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25e3325c1d57ad163fd6338cf9f68df4
小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dd111d27c6978b428f696122434f45c
二条良基を離れて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ecab544e96e7299adab407b4b94ca6

『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻ると、井上氏は「なお他に注意されるのは次の如き点である」として、最初に飛鳥井家の動向について語りますが、これは歴史学の観点からはあまり重要ではないので省略します。
そして「永能」についての話となりますが、こちらは細かい話ではあるものの、武家歌人に関係してくるので紹介します。(p368)

-------
 次に、十五夜の会に出ている永能は、星野三河守保能(続千載作者)の子。従五位左近将監と尊卑分脈にみえる者らしい。この星野氏は熱田大宮司族で、代々昇殿を聴されていたから、宮廷の会にも出席できたのであろうが、建武新政期には地下の武士までも武者所において天皇から題を賜わって詠歌する事があった。新千載七八〇に「後醍醐院の御時、武者所にさぶらひけるに、原霞といへる題を賜はりてつかうまつりける」と詞書して河内(源)知行(親行孫、法名行阿)の詠がみえる。行阿は後年「原中最秘抄」の奥書に

  (後醍醐)              (恒良)
  吉野先皇御治天之時、摂度々公宴畢、加之、龍楼・竹園・執柄・大家等、所々会席之候末座者也

とみえ、この頃さかんに行われた各所の会に知行は出席した。天皇に河内本源氏物語を書写進上した事もある(同奥書)。(知行については山脇毅『源氏物語の文献学的研究』に記述がある)
-------

ということで、「建武新政期には地下の武士までも武者所において天皇から題を賜わって詠歌する事があった」という点は興味深いですね。
さて、この後、尊氏の名前が出てきます。
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「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)

2021-01-25 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月25日(月)11時26分54秒

『中世歌壇史の研究 南北朝期』の続きです。(p367)

-------
 あけて元弘四年正月二十三日恒良親王を東宮とし、道平が傅となった。これを、先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置に比較すると、甚だ釈然としないものを感ずる。それはとにかくとして、二十八日三席御会が行なわれた。敦有卿記<御遊部類記所引>に

  元弘四年正月廿八日禁裏御遊始<天下一統ノ後初度>有之、以仁壽伝西面<議定所>為其所、先被講詩歌之後、有御遊、奉行範國

とある。詩歌会の詳細は不明である。翌二十九日建武と改元した。
 三月二十一日北条氏の降将阿曽霜台時治・大仏陸奥介高直・長崎四郎左衛門尉高貞らを阿弥陀峯で誅した由が梅松論・蓮華寺過去帳にみえる。後者によると佐介(佐助)一族も何人か殺されている。蓮華寺過去帳には殺された四人の詠歌がみえている。
 因みに太平記巻十一に佐介左京亮貞俊(歌人、既述)も次いで捕えられて殺され、その辞世の歌を聖が故郷の妻にもたらし、妻の嘆きの歌などみえているが、西源院本その他「宣俊」としている本が多く、貞俊は誤りらしい。
-------

「これを、先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置に比較すると、甚だ釈然としないものを感ずる」という井上氏の発想はちょっと面白いですね。
元弘元年(1331)八月二十四日、後醍醐が三種の神器を持って密かに京都を脱出し南都に向かいますが、翌九月に関東から安達高景・二階堂道蘊が来て東宮践祚を奏上します。
これを受けて九月二十日、三種の神器のないまま光厳天皇践祚、ついで十一月八日、康仁親王立太子となります。
大覚寺統は亀山・後宇多・後二条と続いて、後宇多は後二条の子の邦良親王を花園天皇の皇太子としたかったのですが、諸事情から後醍醐が、あくまで中継ぎとして皇太子となります。
康仁親王は邦良親王の子であって、本来はこちらが大覚寺統の本流、後醍醐は傍流ですね。
康仁が光厳天皇の皇太子となったのは、もちろん鎌倉幕府の意向であり、持明院統の主体的決定ではありません。

木寺宮康仁親王(1220-55)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E5%AE%AE%E5%BA%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

また、建武三年(1336)八月十五日、尊氏の奏上で光明天皇践祚、ついで十一月十四日、阿野廉子所生の後醍醐皇子・成良親王の立太子となりますが、もちろんこれも尊氏の意向ですね。
僅か十一歳の成良が、このとき既に征夷大将軍の経歴を有していたこと、そしてその任官の時期について従来の通説、即ち建武二年八月一日説に問題があることは既に述べました。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
帰京後の成良親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9263c48e615c99949952173370ff559
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32d6571d5c77d753fb36d0dbff8c15a9

ま、康仁・成良の事例はいずれも武家の意向による決定であり、「公平な措置」かどうかはともかく、恒良親王の立太子とは事情が異なりますね。
さて、改元後の建武元年(1334)三月二十一日に「北条氏の降将阿曽霜台時治・大仏陸奥介高直・長崎四郎左衛門尉高貞らを阿弥陀峯で誅した由が梅松論・蓮華寺過去帳にみえる」とありますが、『太平記』ではこれを前年の七月九日の出来事としています。
西源院本では第十一巻第十一節「金剛山の寄手ども誅せらるる事」に次のように記されています。(兵藤校注『太平記(二)』、p203以下)

-------
 同じき七月九日、阿曾弾正少弼、大仏右馬助、江馬遠江守、佐介安芸守、并びに長崎四郎左衛門、かれら十五人、阿弥陀峯にて誅せらる。この君、重祚〔ちょうそ〕の後〔のち〕、諸事の政〔まつりごと〕未だ行はれざる先に、刑罰を専らにせられん事は仁政にあらずとて、ひそかにこれを切りしかば、首を渡さるるまでの事にも及ばず、便宜〔びんぎ〕の寺々に送られて、かの後世菩提〔ごせぼだい〕をぞ弔はれける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4dbdce2e2857d750af5d75bfdecb668c

『太平記』の時間の流れは例によって極めていい加減ですが、全体的に殺伐とした出来事を元弘三年(1333)に移動させて、建武新政はその発足当初から不安定であり、公武は最初から対立する宿命にあったのだ、という印象を与えているように感じます。
この阿弥陀峯の一件も、タイムラグは八か月程度ですが、建武の新政は僅か三年間、中先代の乱までの平穏な時期だと二年と少しですから、八か月は決して短い期間ではないですね。
また、「佐介左京亮貞俊」(西源院本では「宣俊」)のエピソードは兵藤校注の岩波文庫版で五ページ分というけっこうな分量ですが、『太平記』の「降参」という表現を検討するに際して、非常に興味深い事例でした。
もともと自らの待遇に不満を持っていた佐介宣俊は「千種頭中将殿より綸旨を申し与へて、御方に参ずべき由を仰せらければ、去んぬる五月の初めに、千剣破より降参」します。
宣俊はいったんは自由の身になったようですが、「平氏の一族皆出家して召人になりし後は」「宣俊も阿波国へ流されて」、更に「一旦命を助からんために降人に」なった「関東奉公の者ども」は「悉く誅せらるべし」という方針変更があって、結局、宣俊も処刑されてしまいます。
元弘三年四月二十七日の名越高家討死と五月七日の六波羅陥落の間に幕府を裏切った者の扱いは微妙で、佐介宣俊の処分に関する長大な記事は後醍醐側にとってもその処遇が難しかったであろうことを示唆しているように思われます。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13d2c7d1d9e4c7c5733b2666510a0273
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「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)

2021-01-24 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月24日(日)22時46分45秒

『中世歌壇史の研究 南北朝期』の続きです。(p366以下)

-------
 この間、新政府の為すべき事は頗る多く、雑訴決断所、次いで記録所・侍所・武者所などが次々に設けられた。十二月十七日には珣子内親王を中宮とした。西園寺公宗が中宮大夫となった。公宗は持明院統の有力な廷臣で、六月いったん権大納言を辞せしめられ、八月還任はしていたが、その沈淪は蔽うべくもなかった。珣子は後伏見院を父とし、公宗の叔母にあたる西園寺寧子(広義門院)を母とする。この立后の措置が持明院統の不満を緩和する為のものであった事は明らかである。この立后の屏風に歌人がそれぞれ詠を進めた。新千載及び新拾遺に多く採られ、なお新葉五〇〇・五九三、新後拾遺一六七、慈道親王集、或は明題和歌全集・類題和歌集にみえる。作者は天皇・慈道・邦省・尊良・道平・冬教・公宗・実教・公明・公脩・実忠・経宣・惟継・尊氏・為世・為定・為明・為冬・為親・隆教・雅朝・覚円・雲雅・後宇多院宰相典侍ら。二条派の人々が中心であるのはいうまでもない。
-------

西園寺家は公衡─実衡─公宗(1310-35)と続いて、西園寺寧子(広義門院、1292-1357)は公衡の娘ですから珣子内親王(1311-37)は公衡の孫、従って公宗とは従兄妹の関係ですね。
井上氏は「この立后の措置が持明院統の不満を緩和する為のものであった事は明らかである」とされますが、この点は歴史学の方で少し進展があります。
亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、西園寺公宗の陰謀に関連して次のように書かれています。(p54以下)

-------
【前略】つまり、西園寺家はかつての勢威を失い、どんどん衰えていたのである。じり貧となった公宗が、鎌倉幕府体制の復活を目指して政権転覆の陰謀を企てたとしても不思議ではない。
 ところが最近、このような西園寺事件に関する定説的見解を修正、もしくは否定する新説が発表されている。せっかくなので紹介したい。
 まずは新室町院珣子内親王に関する三浦龍昭氏の研究である。【中略】
 この珣子が、建武の新政開始直後に後醍醐天皇の中宮として立后されたのである。これは、後醍醐天皇による持明院統への懐柔策と三浦氏に評価されている。
 しかも珣子はすぐに懐妊した。後醍醐は珣子が無事に出産することを願い、祈祷を熱心に行った。その数は何と六六回。同時期、他の皇族の出産に関する祈祷回数と比較しても断トツに多いそうである。これらの祈祷には、光厳上皇や西園寺公宗も積極的に参加している。
 もし珣子が皇子を出産し、その皇子が皇位に就くことになれば、親族の西園寺家が復権し、かつての栄光を取り戻す可能性は高い。前節でも述べたように、当時、皇太子は阿野廉子が産んだ恒良親王とされていた。しかし、中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある。それはそれでまた紆余曲折が予想され、新たな「両統迭立」を生み出す展開となったかもしれないが、無理をして天皇暗殺を企てるよりは成算があったであろう。
 ともかく、珣子は西園寺家の希望の星だったのである。つまり、西園寺公宗は、後醍醐の持明院統懐柔政策もあって、少なくとも当初は政権転覆など企てておらず、新政をむしろ積極的に支持していたことになる。
 しかし、珣子が出産したのは皇女であった(幸子内親王)。ここに西園寺家復権の望みは断たれた。公宗の陰謀計画が発覚するのは、皇女出産からわずか三ヶ月後のことである。
-------

井上著でも、すぐ後に恒良親王の立太子のことが出てきますが、これは元弘四年(1334)正月二十三日なので、珣子の立后の一か月後ですね。
「立后の屏風に歌人がそれぞれ詠を進めた」行事は、参加した歌人の数だけ見ても相当大規模なもので、珣子の出産に関する祈祷の尋常ならざる頻度と併せ、後醍醐の西園寺家との関係強化に寄せる熱意の大きさが伺われます。
ところで『太平記』では阿野廉子の存在感が極めて大きいため、研究者にも廉子を重視する人がかなり多く、最近では岡野友彦氏がその代表格ですが(『北畠親房』、ミネルヴァ書房、2009、p67など)、珣子内親王の一件は廉子の過大評価が「『太平記』史観」の一環であることを示しているように思われます。
なお、亀田氏が「西園寺事件に関する定説的見解」を「否定する新説」として紹介されている橋本芳和氏の「公宗無罪説」は無理が多く、引用は省略します。
また、亀田氏が叙述のベースとされた三浦龍昭氏の「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)は、私も亀田氏とは別の観点から少し検討したことがあります。
ただ、三浦氏は珣子内親王の立后の検討に際して、遊義門院に関する伴瀬明美氏と三好千春氏の先行研究に全面的に依拠されていたので、率直に言って三浦氏に賛同できる点はあまりありませんでした。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その1) ~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f733ba40d8e3f29a3e37d779a2304137
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ec36c7d3bfda33efdc10b81911eb255
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61c79f96b44457894268ac8aab823d10
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/451545f9a06ffcb47decb7852eff1cfc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b07826c5e0793f9459319d63f3099f45
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cdc2c396262ac0da5481ec383fdb6ec5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba29eebcfe587bb836dfc166c642603
再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18af00a5ef28c16a1d00e19454e7975a
珣子内親王ふたたび
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/483c599c2e02190951746258d81671cc
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「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)

2021-01-24 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月24日(日)13時28分20秒

それでは歌人としての足利尊氏について、国文学の研究を少しずつ紹介して行きます。
この問題の先行研究で一番重要なのは立教大学名誉教授・井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)ですね。

井上宗雄(1926-2011)

同書は978頁の大著で、その構成は次のようになっています。

-------
序章
  第一編 鎌倉末期の歌壇
第一章 正応・永仁期の歌壇
第二章 嘉元・徳治期の歌壇
第三章 延慶・正和期の歌壇
第四章 文保~元弘期(鎌倉最末期)の歌壇
  第二編 南北朝初期の歌壇
第五章 建武新政期の歌壇
第六章 暦応・康永・貞和期の歌壇
  第三編 南北朝中期の歌壇
第七章 文和・延文期の歌壇
第八章 貞治・応安期の歌壇
  第四編 南北朝末期の歌壇
第九章 建徳以後の南朝歌壇
第十章 永和~明徳期の歌壇
終章
-------

「第五章 建武新政期の歌壇」の冒頭から少し引用します。(p364以下)

-------
 村田正志氏『南北朝論』によれば、建武新政は、元弘三年(一三三三)五月二十日鎌倉幕府滅亡を起点として、延元元年(一三三六)六月十五日光厳上皇が政務を開始し、建武の年号に復した日に終わる、という。妥当な見解である。而してこの間は、大覚寺統・二条派の復活期、持明院統・京極派の沈淪期であるという点で、前後の歌壇と明確に区別され、また歌壇的事跡もかなり豊富であるので、期間は短いが一章をたてて叙述する。

  1 宮廷歌壇

 五月十七日船上山で後醍醐天皇は、光厳天皇を廃し、その叙任した廷臣の官位を認めず、元弘元年八月に復し、かつ光厳天皇によって辞任せしめられた廷臣の官位を旧に復する詔を発した。歌人でいえば正三位権中納言正親町忠兼は非参議三位に、正二位為実・雅孝・隆教は従二位に、また為定は権中納言(前官より現官)に復したのであった。
 五月二十三日天皇は船上山を発し、六月四日帰京、東寺に泊した。頼意の詠がある(新葉一一五四)。五日二条富小路殿に入り、東宮康仁を廃した。五月二十六日後伏見は出家し、持明院統は忽ちに逼塞したが、しかしその廷臣に対する処分は、元弘元年八月以後の叙位任官を一切認めないという事以外には為されなかったようである。
 後醍醐宮廷は六月以後頻りに除目を行ない、廟堂は左大臣道平、右大臣長通(翌建武元年二月辞、経忠に代わる)、内大臣公賢(翌年九月病により辞、定房に代わる)で構成され、宣房・藤房・為定・良基・隆資・実世・光顕・清忠・忠顕等々、配地・閉門の人々が、大・中納言、参議に復せられ、足利高氏・直義兄弟も上階し、六月二十二日尊澄は座主に還任された。二条為明も帰洛したのであろうが、しかし彼は上階していない(公卿補任貞和三年の条<尻付>)。
-------

「建武新政は、元弘三年(一三三三)五月二十日鎌倉幕府滅亡を起点として」とありますが、細かいことを言うと、鎌倉幕府の滅亡は五月二十二日なので、二日ずれますね。
多くの登場人物には家名がなく、歴史学研究者にはなじみのない名前も多いかもしれませんが、いちいち紹介しているとキリがないので省略します。
この後、井上氏は「七月二日従二位前参議為実が六十八歳で没した」云々と二条為世の弟である二条為実について、その事蹟を紹介されます。
まあ、事蹟といっても為実は「偽書」の創作などを行ったちょっと変わった人で、面白い話ではあるものの、歴史学の観点からはそれほど重要でもないので省略します。
さて、続きです。(p366以下)

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 八月五日の叙位除目で高氏は従三位となって公卿に列し、後醍醐の諱尊治の一字を与えられて尊氏と改名した。
 その月十五夜、新拾遺一六四八には殿上人が探題で詠歌したという詞があって、為冬の月前霧の詠がある。この日は除目であり、恐らく九月十三夜会の誤りであろう。九月十三夜には内裏三首会が行なわれ、題は月前擣衣・月前菊花・月前待恋。作者は天皇・尊良・為定・隆朝(新拾遺五〇八・五一〇・一六五七、新葉三七五・三八五・八二五・八二六、藤葉)。探題も行なわれた(新拾遺一三二五、為世<恨恋>)。九条隆朝もまじっているが、老為世をはじめ為定ら、二条派の人々がリードしたであろう事はいうまでもない。天皇の代表作「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」はこの時のものである。得意の絶頂にありながらその調べは何か沈痛である。
-------

歴史学の研究者、特に「科学運動」や「民衆史研究」が大好きなインテリ左翼タイプの人たちは、たとえ大学教授クラスであっても二条派・京極派の違いなどよく分かっていない人が多いと思いますが、さすがにそこまでは説明できないので、岩佐美代子氏や小川剛生氏などの著作で勉強していただきたいと思います。
小川氏の『武士はなぜ歌を詠むか』(角川学芸出版、2008)は尊氏への言及も多く、歴史研究者には読みやすい本だと思います。

>筆綾丸さん
『南朝研究の最前線』所収の谷口雄太氏の論考「新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源家嫡流」だったのか?」には、

-------
義貞論は時代によって揺れはあるものの、総じて『太平記』(十四世紀後半に成立したとされる軍記物)を、どう解釈するかの問題にすぎないこと、換言すれば、義貞論は『太平記』の掌〔てのひら〕の上で遊ばされていることを指摘する。
-------

との一節がありますが(p130)、護良親王論もまだまだ「『太平記』の掌の上で遊ばされている」感が強いですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「太平記のレジリエンス」 2021/01/23(土) 18:52:49
小太郎さん
バイデン大統領は就任演説で、議事堂占拠事件を踏まえながら、
You know the resilience of our Constitution・・・
と言いましたが、
「殆どの研究者が『太平記』史観の影響から脱して」いない状況をみると、 the resilience of the Taiheiki と揶揄したくなりますね。
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「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)

2021-01-23 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月23日(土)15時26分19秒

歌人としての尊氏を紹介する前に、何だか色々ともったいを付けているような投稿が続きましたが、今回で終わりにします。
さて、細川重男氏の論考で私が一番気になったのは護良親王に関する記述です。
これは分量的には僅かなものですが、細川氏は、

-------
 建長四年(一二五二)の宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子。一二四二~七四)任官以来、鎌倉将軍(征夷大将軍)は四代八十一年間(宗尊の王子惟康<一二六四~一三二六>が源氏を称した時期はあるものの)、皇子・皇孫の親王であった。鎌倉幕府滅亡時点(一三三三)では、源氏将軍よりも親王将軍のほうが人々になじみ深い存在だったのである。
 建武政権で征夷大将軍となったのも、後醍醐の皇子護良親王であった。
 護良の任官は八十余年続く先例に適い、しかも護良は討幕を目指した元弘の乱(一三三一~三三年)に際し軍勢を率いて戦っている。建武政権下でも護良は、尊氏と同じく、軍事力を権力基盤としていた。
 むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう。ゆえに護良は後醍醐に警戒され、失脚の憂き目に遭ったのである。
-------

と書かれています。(p104)
「むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう」という主張に私は賛成はできませんが、一つの見方ではあると思います。
しかし、この主張は少し前に出てくる細川氏の「歴史研究の基本」に関する主張と整合性があるのか。
細川氏は「足利氏源氏嫡流説」と「"源氏将軍観"高揚説」に関連して、田中大喜氏の見解を批判し、鈴木由美氏の見解を支持する立場を明らかにされていますが、その際に次のように言われています。(p99)

-------
 この論述は歴史研究の基本に忠実であり、説得力がある。「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手である。"No document, no history"(史料が無ければ、歴史は無い)という言葉を思い出すべきである。
-------

私は最初に細川論考を読んだとき、この記述には特に注意せず、読み流していたのですが、先日、たまたまツイッターで、この記述にひどく感心している人のツイートを見かけ、実は私はそもそも「"No document, no history"(史料が無ければ、歴史は無い)という言葉」を聞いたことがなかったので、けっこう焦りました。
私は大学で歴史学を基礎から勉強した訳ではないので、あるいは普通の歴史研究者は『史学概論』みたいな講義で、常識としてこの表現を耳にしているのかなと思って、まずは日本語、ついで英語で必死に検索してみたのですが、フィリピンの歴史学者が"No document, no history"は間違いだと言っている、みたいな周辺的な情報は出てくるものの、誰がこれを言い始めたのかが分かりません。
結局、ある方から、これはセニョボスというフランスの歴史学者の主張ではないか、とのヒントをもらって、某大学図書館で、C. セニョボス、C.V. ラングロア著、八本木浄訳の『歴史学研究入門』(校倉書房、1989)という本を確認したところ、確かにそれらしき表現がありました。
ただ、ラングロアとの共著である原書(『Introduction aux études historiques』)は1897年刊行ですから、ずいぶん古い本ですね。
そして現在、様々な具体的問題を抱えている私としては、方法論的な話はちょっと遠慮したい気分だったので、コピーも取りませんでした。
下記リンク先はどのような方が書かれているブログなのかも知りませんが、「セニョボスは、フランス実証主義歴史学の礎を築いた代表的人物」ではあるものの、「『アナール』の開祖、リュシアン・フェーヴルとマルク・ブロックから、歴史学を瑣末実証に堕させた元凶扱いされる人物としても知られています」などとあります。

「フェイクニュースやメディアの囚人にならないために~歴史教育の意義:セニョボスの別の顔」
https://noelazami.hatenablog.jp/entry/20061030/1162147950

ところで、「"No document, no history"(史料が無ければ、歴史は無い)」は、史料に基づかない主張をするな、という警句としては理解できても、この原則を文字通りに適用するのはちょっと無理じゃないですかね。
「全然史料は無いが、可能性はある」という主張は単なる妄想で駄目ですが、「直接の裏付け史料はないけれども、関連する史料や周辺の史料をいろいろ総合的に勘案すると、これこれの可能性はある」という主張はオッケーで、それを禁じられたら歴史研究者は論文を書けなくなってしまうと思います。
そして、建武新政期の護良親王に関する信頼できる史料は本当にごく僅かで、元弘三年(1333)十二月に南禅寺で明極楚俊の法話を聞いたことくらいですから、「むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう」という細川氏の主張は、「"No document, no history"(史料が無ければ、歴史は無い)」をそのまま適用すると、相当に問題がありそうです。

なお、ウィキペディアによれば、セニョボスの略歴は次のようなものです。

Charles Seignobos(1854-1942)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Charles_Seignobos

そして「"No document, no history"(史料が無ければ、歴史は無い)」は凡そ次のような主張ですね。
ま、私もフランス語は苦手なので、翻訳ソフトで、だいたいこんなもんだろ、程度の理解しかできていませんが。

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Pas de traces, donc, pas d’histoire. C’est le sens de ces propos définitifs de Charles Victor Langlois et de Charles Seignobos : " L’Histoire se fait avec des documents. Le documents sont les traces qu’ont laissées les pensées et les actes des hommes d’autrefois. Parmi les pensées et les actes des hommes, il en est très peu qui laissent des traces visibles, et ces traces, lorsqu’il s’en produit, sont rarement durables : il suffit d’un accident pour les effacer. Or, toute pensée et tout acte qui n’a pas laissé de traces, directes ou indirectes, ou dont les traces visibles ont disparu, est perdu pour l’histoire : c’est comme s’il n’avait jamais existé. Faute de documents, l’histoire d’immenses périodes du passé de l’humanité est à jamais inconnaissable. Car rien ne supplée aux documents : pas de document, pas d’histoire. " (Charles Victor Langlois et Charles Seignobos, Introduction aux études historiques, Paris, 1898, rééd., Paris, Kymé, 1992, Liv.I, chap I, cité dans Charles-Olivier Carbonnell et Jean Walch, Les sciences historiques de l’Antiquité à nos jours, Paris, Larousse, 1994, p.171).

http://histoireenprimaire.free.fr/ressources/simonis1.htm
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