「有明の月」からの起請文には、牛玉宝印の使用が時期的に早すぎるのではないか、という問題もあります。
この点、結論的には賛成できませんが、標宮子氏(聖学院大学教授)がなかなか鋭い指摘をされていますね。
西沢正史・標宮子著『中世日記紀行文学全評釈集成 第四巻 とはずがたり』(勉誠出版、2000)において、標氏は起請文の一般論を述べた後、次のように書かれています。(p156以下)
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ところが有明の月の文言は、肝心の約束を破らないための手立てとしての自己呪詛がまるで体をなしていないのである。彼は約束を守るため、あるいは自分の誓約に偽りのないことを誓うために自己呪詛を成すのではない。そうではなしに、この世における交際を断念すると表明しながら、二条のつれなさを恨み、地獄に墜ちても諦め切れない恋情を訴え、今まで積んだ修業の功績すべてを三悪道に生まれ遭うために回向する、と言うのである。これは自己呪詛ではなく、この責任は二条にあるという恨みであり、来世は地獄であっても添い遂げようという祈求であり、脅迫であった。
しかも彼は神々の名前を知る限り書き尽くし、一度では満足できずに、初めと終わりに二度にわたって仰々しく連綿と書き連ねたと言う。さらにそれを書く料紙、封印の仕方、どれを取ってもすべてが事々しい。例えば料紙であるが、発行所をぼかしているが牛玉宝印を使用している。今日起請文と言えばただちに牛玉宝印を思い浮かべる程に、中世には多くの社寺が発行している。だが現在起請文として残されている最も早い用例は、本作より十年を遡る文永三年(一二六六)東大寺二月堂発行ものである(千々和到氏)。しかもほぼ同じ頃に書かれた一連の起請文の多くが普通の白い料紙を用いているという(相田二郎氏)。このことから牛玉宝印を用いるようになったのは文永年間をあまり遡らない頃であったことが判明する。有明の月は当時必ずしも世間に流布し、一般化されていたとは言い難い牛玉宝印をわざわざ使用していたのである。ここには料紙の選択まで特別な拘りを示した有明の月の執拗さを指摘できよう。
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「自己呪詛」という表現から、標氏が佐藤進一『古文書学入門』を読まれていることが窺われ、千々和到・相田二郎氏への言及から、起請文の研究史も押さえておられることが分かります。
本当に細かいことをいうと、相田二郎は「起請文の料紙牛玉宝印について」(『相田二郎著作集 日本古文書学の諸問題』所収、初出は1940)において、「牛玉宝印を用いた起請文で今遺る最も古いもの」を「東大寺文書第六十八号巻文永三年十二月廿七日付世親講年預等連署起請文」とし(p183)、佐藤進一『古文書学入門』の初版(1971)もこれを踏襲していたところ(p235「この二月堂の牛玉宝印は熊野について古いものであるが」)、千々和到氏が「中世民衆の意識と思想」(青木美智男他編『一揆4 生活・文化・思想』所収、東京大学出版会、1981)で、
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牛玉宝印が起請文の料紙に用いられるようになるのは、一般的には鎌倉時代の後期といわれている。現在知られている牛玉宝印の初見は、一二六六年(文永三)十二月二十日の東大寺世親講衆らの連署起請文の料紙に用いられている「二月堂牛玉宝印」である。
この起請文は、一二六六年冬の十二月十五日から三十日までの間に書かれた七通の起請文のうちの一通で、世親講衆らがこれらの起請文を作成したもととなる事件の経過は、それら一連の起請文から知ることができる。それによれば、これら一連の起請文は、世親講年預賢恵を中心とする世親講衆らが、一味同心し、慶算法橋の僧綱任官の不当を訴えたもので、西小田原西方院に講衆をあげて籠もり、訴えが通らず世親講の先達・講衆を欠いたまま正月の大仏殿修正会を始行した場合、「辺土辺山に退散せしむるの時、この訴訟成就せざる以前、再び奈良中に還住すべからず」という強い姿勢でのぞみ、ついに正月もま近い十二月三十日、政所と衆徒の沙汰として、慶算の出仕停止を獲得したというものである。
一連の文書のうち、十二月廿七日のものは、「那智滝宝印」の牛玉紙を料紙に用いているが(相田二郎氏が「最古の牛玉宝印」としたのはまさにこの文書なのだが)、ほかの五通はいずれも普通の白い料紙を用いており、特に牛玉宝印を翻えして記しているわけではない。したがってこの時期、衆徒らの起請文に必ず牛玉宝印を用いたわけではないことがまず確認できるし、また那智滝と二月堂の二つの牛玉宝印が起請文料紙に用いられている初見が全く同時期であったことも指摘できる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbde12c7888ce07846c6eb2b8e68684
という具合いに、相田二郎は文永三年(1266)十二月二十七日付起請文の「那智滝宝印」を「最古の牛玉宝印」としたけれども、実際にはその七日前、十二月二十日付起請文の「二月堂牛玉宝印」が最古であることを明確にされた訳ですね。
ただ、千々和氏によるこの修正は佐藤進一『新版 古文書学入門』(1991)には反映されておらず、初版と同様に「この二月堂の牛玉宝印は熊野について古いものであるが」(p230)とあります。
ま、それはともかく、『とはずがたり』では「有明の月」が「熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王といふものの裏に」書いた起請文を二条に送ってきたのは建治二年(1276)十二月のこととされており、標氏の言われるように、牛玉宝印の現存初例の僅か十年後です。
「有明の月」ストーリーを事実の記録と固く信じておられる標氏の立場からすれば、「有明の月は当時必ずしも世間に流布し、一般化されていたとは言い難い牛玉宝印をわざわざ使用」していたことから、「料紙の選択まで特別な拘りを示した有明の月の執拗さを指摘でき」ることになりますが、「有明の月」ストーリーを創作と考える私の立場からは、これは『とはずがたり』が作品として纏められた時期を推定させる一資料となります。
即ち、「有明の月」ストーリーの骨格はともかくとして、内容的には起請文でも何でもない「有明の月」の手紙に、いかにも起請文のような外形を整え、不気味な雰囲気を醸し出すように工夫したのは、起請文の料紙に牛玉宝印を用いることが「世間に流布し、一般化されて」以降のことだろうと私は考えます。