学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「有明の月」からの起請文(その7)

2022-11-30 | 唯善と後深草院二条

「有明の月」からの起請文には、牛玉宝印の使用が時期的に早すぎるのではないか、という問題もあります。
この点、結論的には賛成できませんが、標宮子氏(聖学院大学教授)がなかなか鋭い指摘をされていますね。
西沢正史・標宮子著『中世日記紀行文学全評釈集成 第四巻 とはずがたり』(勉誠出版、2000)において、標氏は起請文の一般論を述べた後、次のように書かれています。(p156以下)

-------
 ところが有明の月の文言は、肝心の約束を破らないための手立てとしての自己呪詛がまるで体をなしていないのである。彼は約束を守るため、あるいは自分の誓約に偽りのないことを誓うために自己呪詛を成すのではない。そうではなしに、この世における交際を断念すると表明しながら、二条のつれなさを恨み、地獄に墜ちても諦め切れない恋情を訴え、今まで積んだ修業の功績すべてを三悪道に生まれ遭うために回向する、と言うのである。これは自己呪詛ではなく、この責任は二条にあるという恨みであり、来世は地獄であっても添い遂げようという祈求であり、脅迫であった。
 しかも彼は神々の名前を知る限り書き尽くし、一度では満足できずに、初めと終わりに二度にわたって仰々しく連綿と書き連ねたと言う。さらにそれを書く料紙、封印の仕方、どれを取ってもすべてが事々しい。例えば料紙であるが、発行所をぼかしているが牛玉宝印を使用している。今日起請文と言えばただちに牛玉宝印を思い浮かべる程に、中世には多くの社寺が発行している。だが現在起請文として残されている最も早い用例は、本作より十年を遡る文永三年(一二六六)東大寺二月堂発行ものである(千々和到氏)。しかもほぼ同じ頃に書かれた一連の起請文の多くが普通の白い料紙を用いているという(相田二郎氏)。このことから牛玉宝印を用いるようになったのは文永年間をあまり遡らない頃であったことが判明する。有明の月は当時必ずしも世間に流布し、一般化されていたとは言い難い牛玉宝印をわざわざ使用していたのである。ここには料紙の選択まで特別な拘りを示した有明の月の執拗さを指摘できよう。
-------

「自己呪詛」という表現から、標氏が佐藤進一『古文書学入門』を読まれていることが窺われ、千々和到・相田二郎氏への言及から、起請文の研究史も押さえておられることが分かります。
本当に細かいことをいうと、相田二郎は「起請文の料紙牛玉宝印について」(『相田二郎著作集 日本古文書学の諸問題』所収、初出は1940)において、「牛玉宝印を用いた起請文で今遺る最も古いもの」を「東大寺文書第六十八号巻文永三年十二月廿七日付世親講年預等連署起請文」とし(p183)、佐藤進一『古文書学入門』の初版(1971)もこれを踏襲していたところ(p235「この二月堂の牛玉宝印は熊野について古いものであるが」)、千々和到氏が「中世民衆の意識と思想」(青木美智男他編『一揆4 生活・文化・思想』所収、東京大学出版会、1981)で、

-------
 牛玉宝印が起請文の料紙に用いられるようになるのは、一般的には鎌倉時代の後期といわれている。現在知られている牛玉宝印の初見は、一二六六年(文永三)十二月二十日の東大寺世親講衆らの連署起請文の料紙に用いられている「二月堂牛玉宝印」である。
 この起請文は、一二六六年冬の十二月十五日から三十日までの間に書かれた七通の起請文のうちの一通で、世親講衆らがこれらの起請文を作成したもととなる事件の経過は、それら一連の起請文から知ることができる。それによれば、これら一連の起請文は、世親講年預賢恵を中心とする世親講衆らが、一味同心し、慶算法橋の僧綱任官の不当を訴えたもので、西小田原西方院に講衆をあげて籠もり、訴えが通らず世親講の先達・講衆を欠いたまま正月の大仏殿修正会を始行した場合、「辺土辺山に退散せしむるの時、この訴訟成就せざる以前、再び奈良中に還住すべからず」という強い姿勢でのぞみ、ついに正月もま近い十二月三十日、政所と衆徒の沙汰として、慶算の出仕停止を獲得したというものである。
 一連の文書のうち、十二月廿七日のものは、「那智滝宝印」の牛玉紙を料紙に用いているが(相田二郎氏が「最古の牛玉宝印」としたのはまさにこの文書なのだが)、ほかの五通はいずれも普通の白い料紙を用いており、特に牛玉宝印を翻えして記しているわけではない。したがってこの時期、衆徒らの起請文に必ず牛玉宝印を用いたわけではないことがまず確認できるし、また那智滝と二月堂の二つの牛玉宝印が起請文料紙に用いられている初見が全く同時期であったことも指摘できる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbde12c7888ce07846c6eb2b8e68684

という具合いに、相田二郎は文永三年(1266)十二月二十七日付起請文の「那智滝宝印」を「最古の牛玉宝印」としたけれども、実際にはその七日前、十二月二十日付起請文の「二月堂牛玉宝印」が最古であることを明確にされた訳ですね。
ただ、千々和氏によるこの修正は佐藤進一『新版 古文書学入門』(1991)には反映されておらず、初版と同様に「この二月堂の牛玉宝印は熊野について古いものであるが」(p230)とあります。
ま、それはともかく、『とはずがたり』では「有明の月」が「熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王といふものの裏に」書いた起請文を二条に送ってきたのは建治二年(1276)十二月のこととされており、標氏の言われるように、牛玉宝印の現存初例の僅か十年後です。
「有明の月」ストーリーを事実の記録と固く信じておられる標氏の立場からすれば、「有明の月は当時必ずしも世間に流布し、一般化されていたとは言い難い牛玉宝印をわざわざ使用」していたことから、「料紙の選択まで特別な拘りを示した有明の月の執拗さを指摘でき」ることになりますが、「有明の月」ストーリーを創作と考える私の立場からは、これは『とはずがたり』が作品として纏められた時期を推定させる一資料となります。
即ち、「有明の月」ストーリーの骨格はともかくとして、内容的には起請文でも何でもない「有明の月」の手紙に、いかにも起請文のような外形を整え、不気味な雰囲気を醸し出すように工夫したのは、起請文の料紙に牛玉宝印を用いることが「世間に流布し、一般化されて」以降のことだろうと私は考えます。

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「有明の月」からの起請文(その6)

2022-11-30 | 唯善と後深草院二条

『保元物語』については日下力氏による現代語訳が角川ソフィア文庫から出ており、また、ネットでは「ふょーどるの文学の冒険」というサイトにも現代語訳が載せてありますね。

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog.html
「下巻・第十八章…新院お経沈めの事、付・崩御の事」
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog17.html#second

『保元物語』では、讃岐の松山に配流となった崇徳院は「後生菩提の為に、五部大乗経を墨にて形の如く書き集め」た後、「八幡の辺にても候へ、鳥羽かさなくば長谷の辺にても候へ、都の頭〔ほとり〕に送り置き候はばや」という手紙を仁和寺御室(崇徳院同母弟の覚性法親王)に送り、御室を通して、せめて都の近くに移してください、という希望を述べるも、信西に補佐された後白河天皇に拒否されます。
そこで、絶望した崇徳院は自ら写経した「五部大乗経の大善根〔だいぜんこん〕を三悪道〔さんあくだう〕に擲〔なげう〕つて、日本国の大悪魔と成らむ」と決意し、「その後は御ぐしも剃らず、御爪も切らせ給はで、生きながら天狗の御姿に成らせ給」うこととなります。
他方、仁和寺御室らしく描かれている『とはずがたり』の「有明の月」の場合、一目ぼれした二条に会いたいと何度も希望したのに拒否されたので、

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このうへは、文をも遣はし言葉をも交さんと思ふこと、今生にはこの思ひを断つ。さりながら、心の中に忘るることは、生々世々あべからざれば、我さだめて悪道に落つべし。さればこの恨み尽くる世あるべからず。両界の加行よりこの方、灌頂にいたるまで、一々の行法読誦大乗四威儀の行、一期の間修するところ、みな三悪道に囘向す。この力をもちて、今生長く空しくて、後生には悪趣に生まれあはん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a5f7bb9c8779a831ad8f06127835bb9

と決意します。
一方は同母弟・後白河天皇との戦いに敗れて配流された悲劇の上皇、他方は愛欲に溺れた単なるストーカーという違いはありますが、自分の仏道修行の成果を「三悪道」に擲つ、または回向する、という点はそっくりです。
とすると、『とはずがたり』の「有明の月」ストーリーを疑う私としては、後深草院二条は『保元物語』、またはその素材となった何らかの伝承を重要な参考資料として「有明の月」ストーリーを構想したのではなかろうか、と想像したくなります。
その前提として、二条が崇徳院伝承を知っていたことが必須となりますが、二条は『とはずがたり』巻五で「崇徳院の御跡」である「讃岐の白峰・松山など」を訪問しているので、崇徳院については熟知していますね。
巻五は乾元元年(1303)九月の厳島参詣から始まりますが、厳島と土佐足摺岬を訪ねた後、二条は讃岐に向かいます。

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 讃岐の白峰・松山などは、崇徳院の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、訪ふべきゆかりもあれば、漕ぎよせておりぬ。松山の法華堂は、如法行ふ景気みゆれば、しづみ給ふもなどかと頼もしげなり。「かからむ後は」と西行がよみけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそ生れけめ」と、あそばされける古の御ことまで、あはれに思ひ出で参らせしにつけても、

  物思ふ身の憂きことを思ひ出でば苔の下にもあはれとはみよ

 さても、五部の大乗経の宿願残り多く侍るを、この国にてまた少し書き参らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに小さき庵室をたづね出だして、道場にさだめ、懺法・正懺悔などはじむ。九月の末のことなれば、虫の音も弱りはてて、何をともなふべしともおぼえず。三時の懺法を読みて、慙愧懺悔、六根清浄と唱へても、まづ忘られぬ御言の葉は心の底に残りつつ、さても、いまだ幼かりしころ、琵琶の曲を習ひ奉りしに、たまはりたりし御撥を、四つの緒をば思ひ切りにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、

  手になれし昔の影は残らねど形見とみればぬるる袖かな

 このたびは大集経四十巻を、二十巻書き奉りて、松山に奉納し奉る。経のほどのことは、とかくこの国の知る人にいひなどしぬ。供養には、ひととせ御形見ぞとて三つたまはりし御衣、一つは熱田の宮の経のとき、誦経の布施に参らせぬ。このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて布施に奉りしにつけても、

 月出でん暁までの形見ぞとなど同じくは契らざりけん

御肌なりしは、いかならん世までもと思ひて残しおき奉るも、罪深き心ならんかし。
-------

ということで(次田香澄氏『とはずがたり(下)全訳注』、p355以下)、二条は「五部の大乗経の宿願残り多く侍るを、この国にてまた少し書き参らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに小さき庵室をたづね出だして、道場にさだめ」、写経の日々を送ったのだそうです。

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「有明の月」からの起請文(その5)

2022-11-29 | 唯善と後深草院二条

次田香澄氏は「有明の月」が、外形的には起請文のように見える手紙を送ってきた場面の「解説」で、

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 有明は今回も隆顕を利用して起請文を送ってきたが、隆顕は有明の側に立って彼女に翻意を求める。有明の地位や心情を思って彼に同調したのであろうが、近親として、後見として、また親密さからいって、彼女とは特別の間柄にあった隆顕のこの態度は、なんとも無責任といわざるを得ない。
 さて、起請文は、威嚇的なものである。表面上隆顕に対し恨み・つらみを述べたような形をとっているが、結局は彼女への呪いと同然の、すさまじいものであった。彼女は冷静を装っていても、潜在的にはこれによって恐怖感に近い意識をもつに至ったに相違ない。
 一方その内容は、伝統ある教団の責任者にあるまじき、はなはだ破戒的なもの(人間性に覚醒した有明の、人間としての行動とは別の問題である)であり、作者があえてこれを公開した勇気は賞賛に値する。そして宗教界の堕落の実相を抉剔している点は、貴重な資料を提供し、その現代的意義は大きい(熱意が裏切られた恚りから、これを三悪道に回向するという発想は、近くは『保元物語』の崇徳院の伝承にもみられる)。
-------

と書かれています。(『とはずがたり(上)全訳注』、p335以下)
私は「有明の月」ストーリーを全て創作と考えるので、次田氏の見解に賛成できる部分は何一つありませんが、ただ、最後の『保元物語』との類似性の指摘は興味深いですね。
そこで『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)を見たところ、こちらには起請文は登場しませんが、物語の構成は『とはずがたり』の「有明の月」ストーリーとよく似ており、特に崇徳院の「御誓状」は語彙にも共通性があります。
同書では栃木孝惟氏(1935生、千葉大学名誉教授)が『保元物語』の校注を担当されていますが、本文はカタカナ交じりで若干読みづらいところがあります。
そこで、栃木氏による読み方は変更せず、ただ、カタカナを平仮名に、漢字も一部は平仮名にするなどして、若干読みやすくした上で紹介します。(p131以下)

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(新院血を以て御経の奥に御誓状の事 <付けたり> 崩御の事)

 院は讃岐につかせ給ひて、習はぬ鄙の御住まひ、ただ推し量り奉るべし。公家〔くげ〕、私〔わたくし〕、事問ふ人もなかりけり。僅かに候ふ祗候の女房どもも、臥し沈み泣くより外の事ぞなき。秋も夜深く成り行けば、いとど物ぞ悲しき。松に払ふ風の音もはげしくて、叢〔くさむら〕ごとに鳴く虫の音も弱り、折に触れ、時に随ひては、ただうかしり都のみ忍ばるる涙に、おさふる袖は朽ちぬべし。新院思しめしつづけさせ給ひけるは、

「我天照御神〔あまてるおんかみ〕の苗裔を請けて、天子の位をふみ、太上天皇の尊号を蒙つて、枌楡〔ふんゆ〕の居をしめき。先院御在世の間なりしかば、万機の政事〔まつりごと〕を取り行はずといへども、久しく仙洞の楽しみに誇りき。思い出無きにあらず。春は花の遊びを事とし、秋は月の前にして、秋の宴を専らにす。或は金谷の花を玩〔もてあそ〕び、或は南楼の月を詠〔なが〕めて、卅八年を送れり。過ぎにし事を思へば、昨日の夢の如し。何〔いか〕なる罪の報いにて、遠き島に放たれて、かかる住まひをすらむ。馬に角生ひ、鳥の頭〔かしら〕の白くならむ事も難〔かた〕ければ、帰るべきその年月を知らず。外土〔ぐわいど〕の悲しみに堪へず、望郷の鬼とこそ成らんずらむめ。昔、嵯峨天皇御時、平城先帝、内侍尚侍が勧めにて、世を乱り給ひしかども、即ち家を出で給ひしかば、遠くは流され給はず。我また謬〔あやまり〕りなし。兵〔つはもの〕を集めて、責めらるべしと聞えしかば、禦〔ふせ〕ぎしばかりなり。昔の志を忘れ給ひて、辛き罪に当て給ふは心憂し」

とて、御自筆に五部大乗経を三年にあそばして、御室〔おむろ〕に申させ給ひけるは、

「後生菩提の為に、五部大乗経を墨にて形の如く書き集めて候ふが、貝鐘〔かひがね〕の音もせぬ遠国に捨て置かん事の不便〔ふびん〕に候ふ。御免〔おんゆるし〕候はば、八幡の辺にても候へ、鳥羽かさなくば長谷の辺にても候へ、都の頭〔ほとり〕に送り置き候はばや」

と申させ給ひて、御書の奥に御歌を一首あそばす。

  浜千鳥跡は都に通へども身は松山にねをのみぞ鳴く

 御室より関白殿に申させ給ふ。急ぎて、関白殿、よき様に取り申させ給へども、主上御くつろぎなかりけり。その上、例の信西がささへ申しければ、終〔つひ〕に叶はず。この由を新院聞こしめされて、

「口惜しき事ごさんなれ。我が朝にも限らず、天竺震旦にも、新羅百済にも、位を争ひ、国を論じて、伯父甥合戦を成し、兄弟軍〔〕いくさをす。果報の勝劣に随ひて、伯父も負け、兄も負く。その事悔い還〔かへ〕して、膝をかがめて歎く時は、免〔ゆる〕す事ぞかし。今は後生菩提の為に書きたる御経の置き所をだにも免されざらんには、後生迄の敵〔かたき〕ござんなれ。我願はくは五部大乗経の大善根〔だいぜんこん〕を三悪道〔さんあくだう〕に擲〔なげう〕つて、日本国の大悪魔と成らむ」

と誓はせ給ひて、御舌の崎〔さき〕を食ひ切らせましまして、その血を以て、御経の奥にこの御誓状〔ごせいじやう〕をぞあそばしたる。
 その後は御ぐしも剃らず、御爪も切らせ給はで、生きながら天狗の御姿に成らせ給て、【後略】
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少し長くなったので、検討は次の投稿で行います。

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「有明の月」からの起請文(その4)

2022-11-28 | 唯善と後深草院二条

「呪」だけでなく「詛」も「のろい」ですから、「呪詛」というと、やはり特定人を絶対に殺してやろう、傷つけてやろう、という強烈な害意に満ちた禍々しい行為を連想するのが普通だと思います。
刑法総論の教科書には、強烈な主観的意図があったとしても、客観的な「実行行為」が存在しないので刑罰には問えない「不能犯」の例として、夜中に神社の大木に藁人形を括り付け、五寸釘を打ち込む、みたいな行為が挙げられていますが、こういうのが「呪詛」の典型ですね。

呪詛(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%91%AA%E8%A9%9B-77779

こうした「呪詛」の一般的イメージからすると、佐藤進一が言うところの「自己呪詛」は、嘘がバレたらその時は神罰・冥罰を受けても仕方ないです、甘受します、という消極的な態度であって、積極的に自分自身に五寸釘を打ち込むような自殺・自傷行為とは相当に乖離しています。
そして、「第三者呪詛」となると、不特定多数の寺院の構成員(将来の構成員を含む)に対し、これこれの規則を破ったら仏罰が下りますよ、というだけの話で、「自己呪詛」以上に「呪詛」という表現が奇妙に感じられます。
といっても、くどいようですが、もちろん私も佐藤の業績そのものを批判している訳ではありません。
祭文と起請から起請文への流れは決して分かりやすいものではなく、佐藤の説明は本当に見事ですね。
前回投稿では段落の途中で引用を止めてしまいましたが、続く部分は、

-------
このように天判祭文や、先に例示した「解申請天判事」という形式の文書(起請文という文字を用いないが、後世の起請文と実質的に同じもの)と起請とが、仏神を違反の有無の判定者、違反した者に対する呪詛者として奉請して、この仏神を形式上の充所として文書を作成するという共通点をもつようになったことは、神判思想の発達もしくは復活という共通の地盤のうえに、両者の間に深い相互作用の行われたことを考えさせるものである。おそらく天判祭文や「解申請天判事」という形式の文書の影響を受けて、起請は第三者呪詛文書という性格のものに発展変化したものであり、多面このような起請の性格の変化の結果、従来の「解申請天判事」という形式の文書が起請文とよび慣わされるようになり、その形式も「敬白 起請文事」というふうなものに変化したものであろう。この変化の年代は、はっきりとわからないが、永万二年(一一六六)三月二十二日足羽友包起請文は「敬白 申起請文事」という書出しになっており(石山寺所蔵聖教目録裏文書、『平安遺文』七巻三三八七号)、雑筆要集にも起請文の例文としてこの形式が挙げられているところから見て、おそらく平安末期と見てよいであろう。そして、それがほぼ中世における定型となるのである。【後略】
-------

となっていて(p227)、非常に高度な内容を簡潔丁寧に説明しており、説得的ですね。
それだけに「仏神を違反の有無の判定者、違反した者に対する呪詛者として奉請」などという表現がいかにも安っぽく、残念な感じがします。
佐藤の発想に即しても、「仏神」はあくまで「呪詛者」の「奉請」を受けて罰を下す主体であり、「呪詛者」そのものではなく、論理的な矛盾もありますね。
さて、ここで「有明の月」の起請文に戻ると、ここには二条が自分に会ってくれないことへの不平不満、仲介者である善勝寺大納言・四条隆顕の努力不足への恨み言はあり、「呪詛」の一般的イメージに近い要素は存在します。

「有明の月」からの起請文(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a5f7bb9c8779a831ad8f06127835bb9

しかし、それは普通の起請文に見られる、佐藤の用語での「自己呪詛」「第三者呪詛」とはむしろ乖離しており、「起請文の構成要件を確言(もしくは確約)プラス自己呪詛文言の二点に求めるとするならば」(p221)、神仏に対する「確言(もしくは確約)」もなければ「呪詛」もない「有明の月」の手紙は、古文書学で言う「起請文」には該当しません。
神仏に対する「確言(もしくは確約)」がないどころか、ここにあるのは、「両界の加行よりこの方、灌頂にいたるまで、一々の行法読誦大乗四威儀の行、一期の間修するところ、みな三悪道に囘向す。この力をもちて、今生長く空しくて、後生には悪趣に生まれあはん」という堂々たる「我さだめて悪道に落つべし」宣言ですね。
神仏など全く無視・敵視した傲岸不遜な開き直りです。
こんな「起請文」の類例が果たして他に存在するのか私は知りませんが、「三悪道」云々は『保元物語』の崇徳院を連想させるので、次の投稿でこの点を少し検討します。

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「有明の月」からの起請文(その3)

2022-11-27 | 唯善と後深草院二条

1971年刊行の佐藤進一『古文書学入門』の初版を見たところ、起請文についての記述は新版(1997)と異なる箇所は殆どありません。
同書に先行する研究を全て押さえた訳ではありませんが、相田二郎の長大な論文「起請文の料紙牛王宝印について」(『相田二郎著作集 日本古文書学の諸問題』所収、初出は1940)にも「自己呪詛」「第三者呪詛」云々はないので、やはりこれらは佐藤が最初に使い始めた表現のようですね。
まあ、さすがに私も佐藤の古文書学の業績に文句をつける勇気はありませんが、深谷克己氏と同じく、「自己呪詛」「第三者呪詛」という表現には若干の違和感を覚えざるをえません。
まず、「自己呪詛」ですが、「宣誓の内容は絶対に間違いない、もしそれが誤りであったら(すなわち宣誓が破られた場合には)、神仏などの呪術的な力によって自分は罰を受けるであろう」(『新版 古文書学入門』、p220)と述べることは、条件付きで神仏の罰を甘受します、というだけの話で、別に自分自身に呪いをかけ、自分自身の不幸を望んでいる訳ではないですね。
「第三者呪詛」の方は更に変な感じがするのですが、佐藤がどのような文脈で「第三者呪詛」を用いているかというと、実際には寺院の規則に関してです。
起請文の源流である「祭文」と「起請」のうち、「起請とは、もともと事を発起(企画)して、それを実行することの許可を上(支配者)に請うことであり、ひいてはそのために作成する文書」(p222)であって、行政用語・官庁用語であり、宗教色は全然なかったそうですね。
しかし、「起請の実物として今日に伝わる最古のもの」である「天禄元年(九七〇)七月十六日の天台座主良源(慈恵僧正)の起請」(p223)は「寺院内の制規、制誡というべきもの」(p224)であって、「本文中には起請という文字は全く用いていない」(同)ものの、

-------
ただ、ここに注意されるのは、この文書の書出しに「良源敬啓」とあり、終わりの部分に「仍抽小愚之蓄懐謹仰大師之明鑒」とある点である。これによって良源敬啓の対象、すなわち文書の充所は大師(最澄)であるとすべきであり(もちろん内容に即していえば、この文書は制誡・制式というべきものであるから、その対象は「山家之一衆」すなわち全寺院内の衆僧というべきであるが、少なくとも文書の形式上の充所は大師である)、良源は大師に「明鑒」を仰いでいるのである。明鑒は確実な見知の意味に解されるから、良源は大師の見知を請い、これを得ることによって、この制式を大師の認許を経たもの、すなわち大師の証明ずみのもとして、山家の一衆に受けとられるように期待しているわけである。いいかえれば、良源自身の制式に大師の権威を添加しようというわけである。これは前記三代実録の起請の場合と、官の許可・証明を大師の許可・証明におっきかえただけの違いと見ることができる。そう考えれば、この制式は起請とよばれて少しも不思議ではない。起請とよばれる十分な理由があるということができる。
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のだそうです。
そして、良源の起請など、当初の起請には罰への言及はなかったのですが、後に変化します。(p226以下)、

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これをさらに一歩進めて、かかる宗教的権威をもって制式・制誡に遵守の保障、換言すれば自己の強制力を実現化するための保障としようとするものが現われた。すなわち制式・制誡に違背するものは、かかる宗教的権威の怒りを受け、罰を蒙らねばならないとするものである。例えば有名な元暦二年(一一八三)正月十九日の文覚四十五箇条の起請(神護寺文書、『平安遺文』九巻、四八九二号)は「寺僧等各守此旨、永不可違失、若於背此旨之輩者、内鎮守八幡大菩薩幷金剛天等、早令加治罰」云々と述べ、また建久五年(一一九四)七月七日の高野山の鑁阿の起請(高野山文書之一、宝簡集四三四号)は、「如此之一々事、令違背之輩出来者、(中略)然則金剛胎蔵両部諸尊、丹生高野大師御勧請諸神等、伽藍護法十八善神、満山三宝護法天等、梵尺四生諸天善神、天照大神、正八幡宮、王城鎮守諸大明神、乃至日本国中三千一百三十二社、盡空法界一切神等罰ヲ、可蒙一々身ノ毛穴者也、現者忽受白癩之病、感得不交人之果報、当者入阿鼻大城之中、永無有出期」と述べている。ここで仏神は、本文の妥当性の認証者とか、強制力を助長する権威としての立場をはるかに越えて、違反の有無を判定する絶対者としての地位を与えられている。その意味では、さきに説明した天判祭文や起請文と同じである。ただ違うところは、天判祭文や起請文では、違反の有無は文書差出人自身の問題として考えられているから、仏神は自己呪詛のために奉請されているのに対して、起請の場合は、違反の有無は、制式・制誡を遵守せしめようと予定している相手、すなわち例えば寺院の制式ならば、その寺院の僧侶全体(現在および将来にわたる)、文書の形式からいえば第三者の問題として考えられているのであって、仏神は第三者呪詛のために奉請されているという点である。【後略】
-------

ということで、「第三者」とは「制式・制誡を遵守せしめようと予定している相手」、「例えば寺院の制式ならば、その寺院の僧侶全体(現在および将来にわたる)」ですが、規則を守らなかったら罰がありますよと予想することは「呪詛」なのか。
まあ、罰を下す主体は「違反の有無を判定する絶対者」ですから、「予想」や「予報」ではいささか変で、100%確実な「予言」とでも言うべきかもしれませんが、別に「制式・制誡」の制定者も、「制式・制誡を遵守せしめようと予定している相手」、「例えば寺院の制式ならば、その寺院の僧侶全体(現在および将来にわたる)」を呪い、その不幸を願っている訳ではないですから「呪詛」は変だろうと思います。
さて、「有明の月」の起請文には、二条への直接的な呪詛はないものの、善勝寺大納言・四条隆顕への恨み言はあるので、「第三者呪詛」のように見えなくもありません。
しかし、佐藤進一以来、古文書学で言われている「自己呪詛」「第三者呪詛」が上記のような意味であって、一般的な「呪詛」の意味とは相当にずれるものだとすると、「有明の月」の起請文に「第三者呪詛」があるのか、こんなものを起請文と呼んでよいのか、が問題となります。

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「有明の月」からの起請文(その2)

2022-11-26 | 唯善と後深草院二条

古文書学で起請文と分類されている文書は、前半に遵守すべき誓約を述べた「前書」(まえがき)があって、後半に神仏を勧請した「神文」(しんもん)が置かれているのが通例です。
ところが、「有明の月」の起請文を見ると、「まづ日本国六十箇神仏、梵天王・帝釈よりはじめ、書きつくし給ひて後」とあるので、最初に「神文」があります。
そして、「われ七歳よりして、勤求等覚の沙門の形を汚してよりこの方」から「我にもいふ言の葉は、なべて人にもやと思ふらんと思ひ、大納言が心中、かへすがへすくやしきなり」までの文章が続くので、これが普通の起請文の「前書」にあたりそうですが、しかし、その内容を見ると、二条に出会って以来、ひたすら二条を恋い慕っているのに二条からは冷たくあしらわれてしまっているので、もう希望は捨てた、今後は手紙を送ったり言葉を交わそうなどとは思わない、でも二条を忘れることはできないので、自分はきっと悪道に落ちるだろう、二条との仲介役の善勝寺大納言・四条隆顕を恨むぞ、とあるだけで、別に「有明の月」自身が遵守すべき誓約はありません。
そして、「と書きて、天照大神・正八幡宮、いしいしおびたたしく賜はりたるをみれば」と続くので、再び「神文」が記されているようです。
つまり、

「神文」→「前書」(?)→「神文」

という具合いに「前書」が「神文」に挟まれたサンドイッチ状態になっているようで、形式・内容とも通常の起請文とは相当に異質ですね。
念のため、古文書学で起請文がどのように説明されているかを確認しておくと、佐藤進一『新版 古文書学入門』(法政大学出版曲、1997)の「第三章 古文書の様式」には次のようにあります。(p220以下)

-------
  四 起請文(キショウモン)

 起請文とは、手っとり早くいえば宣誓書の一種である。もう少し厳密にいうと、宣誓の内容は絶対に間違いない、もしそれが誤りであったら(すなわち宣誓が破られた場合には)、神仏などの呪術的な力によって自分は罰を受けるであろうという意味の文言を付記した宣誓書である。これは事の正邪・当否の判定を呪術的なものの力に委ねるという意味で、大化以前に行われたいわゆる盟神探湯(熱湯中に手を入れて、手の焼損の有無によって罪を判定する)や、中世に行われた湯起請(大体クカタチと同様の方式)などと同じく神判の一種である。例によって雑筆要集によってその文例を示すと、つぎの通りである。

  敬白 起請文事
  右旨趣者、於某身、彼事全以不過犯、若令申虚言者
  日本大霊験熊野権現、金峰、両国鎮守、日前国懸、王城鎮守諸大明神、六十余州大小神等之御罰、
  某身毛穴蒙者也、仍起請文如件
                    年号月日 姓某 判

 差出人の所属する地域・身分及び作成年代によって、神仏の名はいろいろ変化するが、中世における起請文の大体の形式は右のようなものである。そこで起請文の細かい説明に入るに先立って、かかる様式の文書の発生経路について述べておきたい。
 起請文の発生については、訴訟制度(より厳密にいえば証拠法)上の宣誓の発達と神判思想の問題を考え合わせなければならないが、ここでは、もっぱら古文書学の、とくにその様式論の立場から考察することにする。起請文に先行して現われ、起請文の発生に大きな関係をもった古文書は恐らく祭文と起請の二つであろう。祭文は文字通り神を祭る文書であって、主として禍難災厄を除き、幸福を将来することを目的としたもので、その場合、祭壇を設けて、幣帛・穀物・酒・果物などの供物を供えるのが通例であるが、そうした供物を将来にわたって神に約し、あるいは祈願成就の場合の奉賽を約することがあり、かかる誓約を保障する手段として、もしそれを履行しない場合には、神罰を受けてもいとわないという意味の文言を付記するようになったと考えられる。このように誓約の保障を神罰に求めることは、己れの行為の正邪・当否の判定を神に委ねるものであるから、これを天判といい、天判を付記した祭文を天判祭文とよんだ。これより転じて、一般の宣誓文にも天判を付記するようになったものであろう。図版56に掲げた久安四年(一一四八)の文書はまさにそれであって、書出しに「(三春)是行謹解 申請天判事」とあり、書止めに「仍謹 請天判如右、敬白」とあり、本文の前半では、覚光得業の解状に記された犯行(馬・雑物の召取)の無実なることを確言し、後半では、右の確言もし不実ならば東大寺大仏以下の仏神の罰を我身に蒙るべしと誓言している。この後半は自己呪詛文言ともいうべきものであって、もし最初に述べたように、起請文の構成要件を確言(もしくは確約)プラス自己呪詛文言の二点に求めるとするならば、この文書は、起請文という文字こそ用いていないけれども、実質的には立派な起請文ということができる。この文書が現存最古の起請文といわれる所以である。つぎに解読を示そう。
【中略】
 では、起請文という名称は何に由来するのであろうか。それはつぎに述べる起請である。起請とは、もともと事を発起(企画)して、それを実行することの許可を上(支配者)に請うことであり、ひいてはそのために作成する文書をも起請とよんだのである。【後略】
-------

「雑筆要集」の引用部分は旧字で書かれていますが、面倒なので新字に変更しました。
なお、「雑筆要集」は鎌倉時代初期の成立と推定されている書式集なので、「前書」部分は「右旨趣者、於某身、彼事全以不過犯」と極めて簡略ですが、ここは具体的事情に応じた起請文の趣旨を述べる必要があるため、実際の起請文では相当に詳しく書かれるのが普通です。
【中略】とした久安四年(1148)四月十五日付の三春是行の起請文にも、三行にわたって「前書」があります。

雑筆要集(佛教大学図書館サイト内)
https://bird.bukkyo-u.ac.jp/collections/titles/zappitsuyoshusoshoboshin/

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「有明の月」からの起請文(その1)

2022-11-25 | 唯善と後深草院二条

何はともあれ、最初に「有明の月」の起請文を紹介しておきます。
引用は次田香澄氏『とはずがたり(上)全訳注』(講談社学術文庫、1987)から行います。
『とはずがたり』巻二で、後深草院二条が十八歳となった建治元年(1275)の三月、後白河院御八講の折に二条は高僧「有明の月」(性助法親王説が有力)から唐突に恋心を打ち明けられます。
そして、その年の秋に御所で「有明の月」に強く迫られ、ついに関係を持ちます。
翌年秋、二条は叔父の善勝寺大納言・四条隆顕の計らいで無理に「有明の月」と逢わせられ、「有明の月」との絶縁を決意し、いろいろ言ってきても全て無視し続けた、という状況の下での出来事です。(p328以下)。

--------
 そののちとかく仰せらるれども、御返事も申さず。まして参らんこと、思ひよるべきことならず。とにかくに言ひなして、つひに見参に入らぬに、暮れゆく年に驚きてにや、文あり。善勝寺の文に、「御文参らす。このやうかへすがへす詮なくこそ候へ。あながちに厭ひ申さるることにても候はず、しかるべき御契りにてこそ、かくまでも思し召ししみ候ひけめに、情けなく申され、かやうに苦々しくなりぬること、身一つの歎きに思え候。これへも同じさまには、かへすがへす恐れ覚え候」よしこまごまとあり。
 文を見れば、立文こはごはしげに、続飯にて上下につけ書かれたり。あけたれば、熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王といふものの裏に、まづ日本国六十箇神仏、梵天王・帝釈よりはじめ、書きつくし給ひて後、

「われ七歳よりして、勤求等覚の沙門の形を汚してよりこの方、炉壇に手を結びて、難行苦行の日を重ね、近くは天長地久を祈り奉り、遠くは一切衆生もろともに、滅罪生善を祈誓す。心のうち、定めて護法天童・諸明王、験垂れ給ふらんと思ひしに、いかなる魔縁にか、よしなきことゆゑ、今年二年、夜は夜もすがら面影を恋ひて涙に袖を濡らし、本尊に向かひ持経を開く折々も、まづ言の葉をしのび、護摩の壇の上には文を置きて持経とし、御あかしの光にはまづこれを開きて心を養ふ。
 この思ひ忍びがたきによりて、かの大納言にいひ合せば、見参のたよりも心安くやなど思ふ。またさりとも同じ心なるらんと、思ひつることみな空し。このうへは、文をも遣はし言葉をも交さんと思ふこと、今生にはこの思ひを断つ。さりながら、心の中に忘るることは、生々世々あべからざれば、我さだめて悪道に落つべし。さればこの恨み尽くる世あるべからず。両界の加行よりこの方、灌頂にいたるまで、一々の行法読誦大乗四威儀の行、一期の間修するところ、みな三悪道に囘向す。この力をもちて、今生長く空しくて、後生には悪趣に生まれあはん。
 またもし生をうけてこの方、幼少の昔、襁褓の中にありけんことは、覚えずして過ぎぬ。七歳にて髪を剃り、衣を染めてのち、一つ床にもゐ、もしは愛念の思ひなど、思ひ寄りたることなし。こののち、またあるべからず。我にもいふ言の葉は、なべて人にもやと思ふらんと思ひ、大納言が心中、かへすがへすくやしきなり」

と書きて、天照大神・正八幡宮、いしいしおびたたしく賜はりたるをみれば、身の毛もたち、心もわびしきほどなれど、さればとて何とかはせん。
 これをみな巻き集めて、返し参らする包紙に、

  今よりは絶えぬと見ゆる水茎の跡をみるには袖ぞしほるる

とばかり書きて、同じさまに封じて、返し参らせたりしのちは、かき絶え御おとづれもなし。なにとまた申すべきことならねば、むなしく年も返りぬ。
-------

熊野かどこかの牛玉宝印の裏に「日本国六十箇神仏、梵天王・帝釈よりはじめ、書きつくし給ひて」とあるのですから、間違いなく起請文のように見えますが、しかし、ここに古文書学で言われるところの「自己呪詛文言」があるかというと、若干微妙な感じがします。
ま、それを論ずる前に、全体を正確に理解するため、次田香澄氏の現代語訳も紹介しておきます。(p330以下)

-------
 その後、いろいろとおっしゃるけれども、御返事も申しあげない。ましてこちらから伺うようなことは思いもよることではない。あれやこれやと言いこしらえて、とうとうお目に掛からずにいたところ、年の暮れゆくのに驚いてか手紙があった。みると、善勝寺(隆顕)の手紙に、
「お手紙をさし上げます。この次第はかえすがえす残念なことです。(このことは)あながちにあなたがお厭い申されることでもございませんでした。然るべき御因縁があってこそ、あの方はこれほどまで深く思い込まれたのでしょうに、あなたが無情に申され、このように苦苦しい仕儀になったことは、まったく私自身にも嘆かわしいことと思います。このお手紙に対してもまた同じように返事をされないとしたら、かえすがえす恐ろしいことと思います」といったふうにこまごまとある。
 有明の手紙は、立て文で、がんじょうに糊で上下に厳封して書かれている。開いてみると、熊野権現のであろうか、それともどこのであろうか、本寺のものだとか、牛玉というものの裏に、まず日本国の六十ヵ国の神社と仏の名、梵天王・帝釈天を初めとして、ことごとくお書きになって、その後に、

「自分は、七歳の時から出家して、分不相応ながら勤求等覚の僧侶の姿に連なって以来、炉壇に印を結んで難行苦行の日を重ね、近くは天長地久を祈り奉り、遠くは一切の衆生もろともに、滅罪生善を祈誓してきた。心の中に、きっと護法天童・諸明王が我が身には霊験を示されるであろうと思ったのに、どういう魔縁によるのか、よしない思いのため、今年で二年の間、夜は夜どおし、かの人の面影を慕って涙に袖を濡らし、本尊に向って持経を開く折々にも、まづその人の言葉を思い出し、護摩の壇の上にはその人の文を置いて持経とし、御灯明の光にはまずこれを開いて心を慰める。
 この思いに堪えきれないため、かの大納言に相談すれば、対面の便宜もたやすく得られようかなど思った。またそれにしても大納言は自分と同じ心であろうと思ったが、みなむなしかった。このうえは、かの人に手紙をつかわしたり、言葉を交わそうと思うことは、この世では一切断念する。しかしながら、心の中に忘れることは、来世もまたその来世もあり得ないから、自分はかならず悪道に堕ちるであろう。であるから、この恨みは尽きる時があるはずはない。金剛・胎蔵両界の加行をはじめ灌頂に至るまで一つ一つの行法、また読誦大乗四威儀の行の、一生の間修めた功徳をみな三悪道のために回向する。この力によってこの世では絶えて仏果を得られず、来世には悪道に生まれ合うであろう。
 そもそも自分がこの世に生を受けて以来、幼少の昔、襁褓の中にあったころのことは物心がなくて過ぎたが、七歳で髪を剃り墨染の衣を着けて後は、女性と同じ床にいたり、あるいは愛欲に思いを寄せたことはない。今後もまたあるはずはない。それなのにかの人の自分に対して言った言葉は、すべて他の人にも言おうと思っているのだろうと思うと、(女の心変りが恨めしく、)大納言の心中がかえすがえす悔しいのである」

こう書いて、天照大神・正八幡宮をはじめ、つぎつぎおびただしく列挙して書いてよこされたのを見ると、身の毛もよだち、胸も苦しくなるほどだが、さればといってどうすることができよう。
 仕方なく、これをみな巻き集めて、お返しする包紙に、

  今よりは絶えぬと見ゆる水茎の跡をみるには袖ぞしほるる
  (これを最後に途絶えてしまうとみえるこのお手紙の御筆跡をみますと、私の袖も涙でしおれてしまうことです)

とだけ書いて、初めと同じように封をしてお返し申した後は、絶えておとずれもない。こちらからまた、なんと申しあげるべきことでもないから、そのままでむなしく年も改まった。
-------

検討は次の投稿で行います。

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佐藤雄基氏「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(その4)

2022-11-24 | 唯善と後深草院二条

佐藤論文に戻って、起請文研究の最新動向をもう少し見ることにします。
(その3)で引用した部分、

-------
 これらの近世史の新しい研究動向は、アーカイブズの視点をもって儀礼的な文書を含む史料群を捉える点に特徴をもつ。その意味では史料論の隆盛という研究潮流上にある。ここで明らかにされた誓約儀礼のもつ機能自体は、中世においても見出させるものであろう。深谷氏は「法か神かではなく、「法威と抱き合わせにされた神威」としての政治的効果」を指摘するが、以前拙稿で論じたように、鎌倉幕府の裁判は、評定衆や奉行人たちが「無私」の審理を誓って起請文を立てた「御成敗式目」に象徴的にみられるように、神仏への起請を媒介にして理非判断を根拠づけようとしていた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20a5c43c7272e72985b0a9ca43a7e59c

は段落の途中で切ってしまいましたが、その続きです。(p40以下)

-------
瀬田勝哉氏は中世後期の「鬮取」を素材にして、「神仏の時代といわれながら神仏に主体性を預けきってしまうのではなく、沙汰を尽くす、そこに人間の主体的姿勢があ」ると論じている。また、深谷氏は「誓詞を取って申し付ける事柄と誓詞は取らない事柄の違いがあり、誓詞を出させる事柄のほうが重要度が高いということになり、この使い分けもまた近世政治の特徴であった」とも述べる。だが、中世においても必ずしも起請文を用いるとは限らず、敢えて起請文という形式を用いて上申文書を作成することが重要性をもった。貸借関係など「経済」的な局面には起請文を用いないなど、起請文の利用をめぐっては中世人なりの「政治」感覚があった。宗教史・思想史的観点からいえば、近世における「神威」が中世の神仏に比べてより抽象的な存在であるとしても、その機能について共通性がみえるということは、近年の中近世史の研究を通して初めて明確になった論点であろう。
-------

ここまでが近世との比較で、次に古代との関係でもいくつかの重要な論点が出てきます。
そして、それらを踏まえた上で、今後の課題が提示されます。

-------
 「御成敗式目」から近世までみられる、公平さを要求される役職者の起請文は、神仏への誓いという形式にこだわらなければ、平安期国家の官僚制にまで遡る。古文書学的にいえば、中世の起請文は、上位権力の許可を請う古代の「起請」と神を祭る「祭文」との二つが合わさって発生したものといわれているが、摂関期の古記録からは役職遵守の「起請」が徴収されていたことが確認される。「御成敗式目」のような集団的な誓約という点でも、平安期における殿上起請の存在が知られている。このように近年の研究では機能的な共通面が多く見出されており、相違点を探ろうとすれば、神仏への誓約の有無が決定的となる。
 今後課題となるのは、神仏への誓約という儀式の意味について、神仏への信仰心という説明を一旦留保して、追究することであろう。また、神仏への誓約という形式そのものについても、前述のように律令法においてそれを忌避する発想があったことを踏まえれば、荘園制的支配という観点から先行研究においても注目されてきたように、寺社勢力の関わりが無視しえないであろう。大師勧請起請文の広がりについては、比叡山の山僧の活動との関係が注目されており、荘園と公領における神文にみえる神仏の異同という論点も近年提示されている。文書作成のリテラシーという観点からも、今後の研究では、起請文を作成し、広めたアクターの存在形態を具体的に検討する必要があるのではなかろうか。
 知識体系という観点からいえば、近世には故実の世界が形成されており、同じような儀礼であっても中世とはバックボーンが異なる。このことを正確に理解した上で、政治的な正当性を保証する形式がどのように変化していくのかを追跡する必要があろう。
-------

今後の課題におけるポイントは「神仏への信仰心という説明を一旦留保」ですね。
ところで、「古文書学的にいえば、中世の起請文は、上位権力の許可を請う古代の「起請」と神を祭る「祭文」との二つが合わさって発生したものといわれている」に付された注記を見ると、これは佐藤進一『新版 古文書学入門』(法政大学出版曲、1997)です。
同書には「自己呪詛文言ともいうべきもの」(p221)、「起請文の構成要件を確言(もしくは確約)プラス自己呪詛文言の二点に求めるとするならば」(同)、「おそらく天判祭文や「解申請天判事」という形式の文書の影響を受けて、起請は第三者呪詛文書という性格のものに発展進化したものであり」(p227)といった表現があるので、深谷克己氏が「起請文の基本的概念規定である「自己呪詛」という言葉は、いかにも過激な印象を与える」(『近世起請文の研究』書評、『国史学』217号、p109)と若干の違和感を抱かれた「自己呪詛」という表現は佐藤進一氏が使い始めたようですね。
さて、私が起請文に興味を抱くきっかけとなった『とはずがたり』における「有明の月」の起請文には、「自己呪詛文言」といえるか若干曖昧な表現があり、また明確な「第三者呪詛」の表現はないものの、結果的にはこの起請文が、四条隆親・隆顕父子の対立と後深草院二条の御所からの追放という重大事件の原因となったように描かれています。
そこで、古文書学の素養が全くない私ではありますが、この起請文の特徴について若干の検討をした後、「神仏への信仰心という説明を一旦留保」した上で、『とはずがたり』の中で当該起請文がどのような「機能」を果たしているのかを見ることにしたいと思います。
ま、起請文の研究史に貢献できるような「機能論的」研究ではなく、あくまで私の個人的興味に対応したプチ「機能論的」研究ですが。

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不可逆的な深谷克己氏について

2022-11-23 | 唯善と後深草院二条

深谷氏は「歴史の中の、不可逆的な進み方の一つに、「実力行使」と「法制支配」の対抗、そして後者の優勢化という流れがある。つまり、社会の中の実力行使で決着あるいは解決してきたことが、国家の法制で決着あるいは解決される比重ないしは領域が増すという流れである。「神威」と「法威」との対抗と後者の優勢化がほぼそれに併走すると考えられる」(p110以下)と言われますが、ものすごく「大きな視野に収めれば」、そのような傾向があるとはいえそうです。
しかし、少なくとも中世は戦争が繰り返された時代であり、「実力行使」が「法制支配」より絶対的に優先された時期が相当あります。
即ち、治承寿永の乱、承久の乱、南北朝の内乱、そして応仁の乱以降の戦国時代の経過を見ると、旧来の「法制支配」が戦争により攪乱され、各々の戦争に一応の結末が出た段階で、新しい「法制支配」が創出された、即ち「実力行使」の結果が新しい時代の「法制支配」のあり方を決定した、と考えべきではないかと思います。
深谷氏の極めて単純な「不可逆的な進み方」論では、中世の正確な認識は無理そうですね。
とすると、「「神威」と「法威」との対抗と後者の優勢化がほぼそれに併走する」といえるかも相当に疑問となってきます。
こちらは人々の宗教意識、宗教による呪縛の程度の問題なので、史料に基づいた客観的認識はなかなか困難ですが、やはり単純に「不可逆的な進み方」をするのではなく、戦争の時期と一応の安定期の繰り返しの中で、「神威」が高まる時期と低下する時期、「法威」が高まる時期と低下する時期の循環があったのではないか、と私は考えます。
その程度を把握する方法について、私は一応の見通しを持っていますが、深谷氏の書評とは離れてしまうので、また後で論じたいと思います。
次に、深谷氏は「国家は古代の入り口で確立してそのままの質量で歴史を刻むのではなく、不断に社会と拮抗し、国家の側に取り込みながら、法制や組織を拡張していく。国家は成長していく組織体であり、社会を従える意識調達の触手は伸長し続ける」(p111)とも言われますが、「国家は成長していく組織体」はドイツ的な「国家有機体説」を連想させますね。
また、「不断に社会と拮抗し、国家の側に取り込みながら、法制や組織を拡張していく」、「社会を従える意識調達の触手は伸長し続ける」となると、深谷氏は「国家有機体説」を超越し、新たに「国家無脊椎動物説」「国家軟体動物説」でも構想されているのではなかろうか、という心配もしたくなります。

国家有機体説
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%9C%89%E6%A9%9F%E4%BD%93%E8%AA%AC-65232

ま、おそらく深谷氏はそこまで深くは考えておらず、単に気の利いた比喩程度で用いているのでしょうが、こうした態度は深谷氏が国家を法的概念として捉えていないことの反映のように思われます。
この書評からは深谷氏の国家の定義は不明で、そもそも深谷氏が国家を正確に定義して論じているのかも分かりませんが、国家を法的認識の問題として捉えようとする場合、中世では複数国家論(東国国家論)についても論ずる必要が出てきます。
しかし、深谷氏は「古代の入り口で確立」した国家が、多少の変容を伴いつつも、そのまま「成長」して、ダラダラと中世・近世を通して継続したと考える立場のようなので、「権門体制論」と親和性が高いか否かはともかく、単純な「一つの国家論」であることは間違いなさそうです。

石井紫郎・水林彪氏「国家」の再読(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d670a05f9fff0b93af853f0bf3f50748

かつて歴史科学協議会の大会で「若者集団の雄叫びのような報告」をされたり、「宗教的要求は階級的要求の前近代的表象」などと言われていた深谷克己氏も、年齢を重ねるにつれて、

-------
 私自身がその末端につながっている─と自認している─「戦後歴史学」の中の「戦後近世史研究」は、「グランドセオリー」と呼ばれたりもするような「世界史仮説」に牽引されて、「発展段階の規定」にこだわり、「先進・後進の規定」にこだわってきた。こうしたこだわりからの自由さが、「現代近世史研究」だと私は理解している。刊行され始めた『岩波講座日本歴史』は、執筆者に多少の年齢差はあっても、この自由さを力にして、一つの方向だけを向かない個性的な研究成果を発表してきた世代によって担われていると私は見ている。
 新しい歴史学の担い手層に、私は問題意識が薄いとか「個別分散」的であるというようには思わない。むしろ「現代歴史学」世代の問題意識は、たとえば「国家の死滅」というような見えない目標をあえて見ようとしていた「戦後歴史学」世代よりも、より率直であり、生活性が濃い。生活的な問題意識とは、環境破壊から環境歴史学を構想し、都市問題から都市史を対象にし、高齢化社会から介護やライフスタイルの歴史的研究に進み、地震・津波から災害史に取り組む等々、眼前の状態に対する不満や批判、ないしは強い興味から直接にテーマを立てて取り組んでいくあり方である。「戦後歴史学」も「現代歴史学」も、どちらも「課題」を引き受けるという点では同じだが、前提に強い「進歩の仮説」や概念の網をはりめぐらすかどうか、言いかえればアプリオリな「歴史理論」を前提にする度合いが大きいか小さいかの違いだと私は考えている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fef92f22ab1156f98de542558114b969

という具合いに随分丸くなられたようですが、宗教に関しては、いまだに「一種の発展史観」に留まっておられるような感じがします。

「宗教的要求は階級的要求の前近代的表象」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30b01514fae81f9d6c95a6335157c7d5
早稲田と「在野」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83e5084f4bef4339782e882a5261bc77
「在野」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03eb3d33f58e74733e7ad7ba84ef35dd
早稲田の人よ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/464f7b1e9a8c174d96c17a5e148aad4d
「若者集団の雄叫びのような報告」(by深谷克己氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/379ca67b285840674c124aaf613b31fa

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「中世との断絶ではなく、近似した土台の上での変容」(by 深谷克己氏)

2022-11-22 | 唯善と後深草院二条

深谷氏の書評は全体が三節に分かれていて、第一節は大河内著の要約です。
そして、前回投稿で引用した「近世起請文についての検討に加わった数少ない研究者として本書に紹介」云々は第二節の冒頭に出てきますが、この節は大河内著の批評を超えて、「誓約」という現象を通して深谷氏の立場から見た古代・中世・近世の「政治文化」の比較となっています。
深谷氏独特の用語を交えた「大きな視野」からの議論なので、些か分かりにくい点もありますが、私が理解した範囲で整理すると、

古代   :「誓約」に際して「書式」不要
中世・近世:「書式をともなった誓約」が必要
近代   :(「神威性」が希薄となったので)「誓約」そのものが不要

ということになりそうです。
深谷氏によれば、

-------
 冒頭で著者が前提においた起請文の基本的概念規定である「自己呪詛」という言葉は、いかにも過激な印象を与えるが、ここから少し考えたい。この表現は著者以前の研究史を受け継いだものだが、その意味は、起請文とは約束を破れば厳罰を我が身に受けることを「約束の担保」とすることで自分自身を縛る約束が成り立つ約束の仕方ということである。それが「呪詛」と言われるのは、生きた人間である相手(主君・朋友)からではなく、超常的な存在から超常的な譴責として与えられる身体罰だからである。このような様式で成り立つ誓いだとすれば、そのことは、「起請文」というものの歴史的位置に大きく枠組みを与える一つの条件になろう。
 というのは、そうした誓い方が生きている歴史上の時代は、相互の信頼が十全でないことを知ることになった時代の誓約の仕方だと考えられるからである。長いアニミズム・シャーマニズムの時代から政治社会化(古代化)の姿を整えた、国家シャーマニズムとでも呼ぶことのできる時代に入った古代のどこかで、書式をともなった誓約が必要とされるようになってくると想定してよいだろう。
 文字と筆墨紙の広がりという条件は十分でない。なぜなら国家・寺社の権門勢家の面々は、起請文が現われるよりもはるかに古くから文字も筆紙も手に入れている。だから、こうした手段がなかったことが起請文の初出を遅らせた理由ではない。つまり、古代から中世へ移行する時間の中には、社会関係の変容に影響された口頭の誓約の変化が徐々に進んでいき、やがて書式を必要とする誓約の時代に到達して起請文への飛躍の時期を迎えたものと考えられる。
-------

とのことですが(p109以下)、これでは古代の律令国家が「相互の信頼が十全」だった「国家シャーマニズムとでも呼ぶことのできる時代」となってしまい、何か根本的な誤りがあるように感じます。
律令法は相当に合理的であって、佐藤雄基氏によれば、「律令法に淵源をもつ公家法は、怪力乱神を語らない一種の合理性をもち、《法源》である律令の運用解釈によって判断を根拠づけることを志向していた」(「日本中世前期における起請文の機能論的研究─神仏と理非─」『史学雑誌』120編11号、2011、p111)とのことであり、公家法に起請文が浸透するようになったのは幕府からの影響ですね。

佐藤雄基氏「日本中世前期における起請文の機能論的研究─神仏と理非─」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4098ae9be11cbdecadb8c3b406031d3d

ま、私も古代のことは詳しくないので、とりあえず先に進むと、

-------
 誓約の力の弱さが自覚されれば(神威の弱まりでもある)、今度は逆に誓約の力を弱まらせまいとする意欲と工夫が増進するであろう。これこそが誓詞の様式を生み、次第に拡大させていく要因であろう。大きな視野に収めれば、中世の起請文も、近世の起請文もそういう「中世期的位相」の中にあったと言えよう。中世と近世の区別を考える際には、中世と近世の違いを絶対化するのではなく、誓約の歴史の中での中世と近世の差異性という限定された見方が必要であろう。
 つまり大きな段階差は、書式を必要としない(と考えられていた)時代と国民国家の公法的対人契約時代との間にある中世・近世の誓約方式ということである。国民国家時代でも社会・国家に神威性がゼロになるのではないが、運営上の利便(制約条件でもある)から後景に置かれるか「分離」されると思われる。利便が優位になるのは、新たな国際的競争関係とそこでの勝敗の必要が選択されるからであって、絶対的に非宗教的になるからではない。
-------

とのことですが(p115)、私自身は中世と近世の間に相当大きな違いを感じるものの、ここは「大きな視野」の話なので、こういう立場もあるかと思います。
ただ、これに続く中世との比較はどうなのか。

-------
 本書に取りあげられた私の見解は、近世の起請文が「法神習合」、すなわち神威と法威の習合した状態にあって、実質的には「法的支配の下支え」という役割を果たしたというものであった。そのこと自体は間違っていないと今も思っているが、中世との比較を考える際には、もう一つ、「実力行使」と「国家」(法制)との関係の変化という流れを組み込まなければならない。
 歴史の中の、不可逆的な進み方の一つに、「実力行使」と「法制支配」の対抗、そして後者の優勢化という流れがある。つまり、社会の中の実力行使で決着あるいは解決してきたことが、国家の法制で決着あるいは解決される比重ないしは領域が増すという流れである。「神威」と「法威」との対抗と後者の優勢化がほぼそれに併走すると考えられる。
 国家は古代の入り口で確立してそのままの質量で歴史を刻むのではなく、不断に社会と拮抗し、国家の側に取り込みながら、法制や組織を拡張していく。国家は成長していく組織体であり、社会を従える意識調達の触手は伸長し続ける。日本史の中世と近世の大きな変化は、同じ系列の武家政権史の時間を刻みながら、この法制的支配の前進という方向に変化していくということである。私が、「法神習合」と表現したのは、中世との断絶ではなく、近似した土台の上での変容を言おうとしたのである。本書の論証作業によって、私は多くのことを教えられたが、著者の手堅い論証が示してくれた全体は、ここで述べた分脈で理解することが適切であることを教えてくれる。
-------

うーむ。
あまり賛成できない、というか殆ど賛成できないのですが、少し長くなったので、感想は次の投稿で書きます。

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「近世起請文についての検討に加わった数少ない研究者として本書に紹介…」(by 深谷克己氏)

2022-11-21 | 唯善と後深草院二条

「近世においても、中世とは異なる形で神仏の呪術的機能がはたらいて」いたとされる佐藤弘夫氏(東北大学名誉教授、1953生)は、中世においては近世より遥かに強く「神仏の呪術的機能はたらいていた」と考えておられるはずです。

佐藤弘夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%BC%98%E5%A4%AB

しかし、ずいぶん前に佐藤氏の『起請文の精神史 中世世界の神と仏』(講談社選書メチエ、2006)を読んでみた私の感想は、佐藤氏はあまりに生真面目な人だなあ、というものです。
十二年前の古い投稿の自己引用で恐縮ですが、

-------
佐藤著の序章に出てくる厳成という僧侶は、応保二年(1162)に「今後飲酒の際に、もし一杯を越えて杯を重ねるようなことがあれば、王城鎮守八幡三所・賀茂上下・日吉山王七社・稲荷五所・祇園天神、ことに石山観音三十八所の罰を、三日もしくは七日の内に、厳成の身の毛穴ごとに受けてもかまわないことを誓約する」と書いたそうですが、仮に一度は真剣に誓ったところで、絶対にまた二杯以上飲んでいるに決まっています。
また、正中二年(1325)に「去る一四日に行われた華厳会に出仕するはずのところ、持病が起こって体にお灸を加える必要が生じ、そのため勤務できなくなってしまった。もし私が出仕を逃れるために身の不調をでっちあげたとすれば、日本国主天照大神をはじめ、六〇余州のありとあらゆる大小神祇、なかでも大仏・四天王・八幡三所・垂迹和光の部類眷属、とくに二月堂の生身観音菩薩の神罰・仏罰を、私聖尊の身に蒙っても異存はない」(p24)と誓った東大寺僧聖尊は、まず間違いなく「出仕を逃れるために身の不調をでっちあげた」のであって、虚偽の起請文を書いても平気な人ですね。たぶん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90dbd4d5b3b86a9902c3934f5a587e24

といった具合に、中世の起請文の中には本当に下らないものも多数あって、佐藤氏のように「神仏の呪術的機能」をあまり生真面目に受けとめるのもどんなものかな、と私は思っています。
さて、次に深谷克己氏(早稲田大学名誉教授、1939生)の書評(『国史学』217号、2015)を見ておくことにします。
深谷氏は、

-------
 私は、近世起請文についての検討に加わった数少ない研究者として本書に紹介されているのだが、元より起請文研究者として蓄積のある者ではない。ただ近年の私は、「政治文化」という角度から近世史を考えることに関心を強めている。私の政治文化理解では、その中核あるいは中奥の所に各法文明圏特有の敬虔な感情で意識される「超越観念」を保有していると考えている。起請文の神文に列記される諸神格は、そういう超越観念群であり、日本ではそれらが神階化されている。そういうこととの関連で、日本史における起請・神誓という社会的な行為については、大いに興味を持っている。
-------

という立場の方です。(p109)

深谷克己
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E5%85%8B%E5%B7%B1

深谷氏の書評は最初に大河内著の内容を丁寧に整理されている点がありがたいですね。
目次の紹介の後、

-------
 書題のとおり、本書は「近世起請文」の研究であり、著者の関心は、なぜ起請文制度が江戸時代全期間存続し続けたのかを明らかにすることに向けられている。著者は、近世の起請文についての研究史を検討し、学界に対して影響力の強い研究者がこれまで概括的に、近世の起請文は形式的・儀礼的で衰退したものと説明してきたため、その評価が定着し、歴史研究の素材として顧みられない状況が続いてきたと指摘する。ごく僅かに関心を寄せる研究者もいるが、近世史の中で起請文研究を深化させる流れになっていない。著者は、研究史をこのように見たうえで、それではそのように形式的な起請文が、なぜ近世いおいて大量に書かれ続けてきたのかということに疑問を呈し、その根拠を解明することを目指す。
 そのための方法として、著者は、幕府に提出された起請文(Ⅰ部)と大名家の家中起請文(Ⅱ部)を、書式・制度を中心に比較検討して、それらの政治的役割を引き出そうとする。合わせて、起請文制度を支えた不可欠の要素として、代表的な料紙となった熊野牛玉宝印の配布・流通(Ⅲ部)の様相を検討している。
-------

とあり、ついで各部の要約が続きます。

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「長期間にわたる検証に耐えて起請文研究の方向性を示す確固とした道標」(by 佐藤弘夫氏)

2022-11-20 | 唯善と後深草院二条

大河内千恵氏の『近世起請文の研究』(吉川弘文館、2014)、なかなか評判が良いようですね。

-------
平安時代後期に成立し、誓約の文言と罰文から成る起請文。中世以前に比べて、これまで体系的に論じられることがなかった近世以降の起請文とはいかなるものだったのか。徳川将軍の代替り誓詞や伊達・細川・内藤家などの大名家中起請文、幕府起請文料紙として使用された熊野の牛玉宝印などを検討し、近世社会における起請文の実態を解き明かす。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b165199.html

国会図書館サイトで検索してみたところ、同書には佐藤弘夫(『日本歴史』800号)・西光三(『古文書研究』79号)・深谷克己(『国史学』217号)の三氏による書評が出ています。
このうち、佐藤・深谷氏の書評を読んでみましたが、いずれも評価は高いですね。
佐藤氏の書評では、冒頭に、

-------
 自分の述べることに間違いがないことを誓約し、それが嘘であったりその誓いを破ったりした場合には神仏の罰を受けてもかまわないと記す起請文は、「中世文書」を代表する一様式とされ、その定義そのものについてはだれ一人疑問をもつことがなかった。
 もちろん、古文書についてある程度の知識をもっている者であれば、戦国時代や江戸時代においても大量の起請文が生み出され続けたことを知っている。しかし、中世後期における勧請神の爆発的な増加や近世に顕著となる定式化は、中世的な宗教世界の呪力に支えられた起請文のもつ生々しい生命力の低下を示す現象とみなされ、その歴史的な意義の喪失とう分脈で説明されてきた。 
 本書は、これまでほとんどの研究者が意識的・無意識的に抱いてきたそうした常識に対する根本的な異議申し立ての試みである。
-------

とあります。(p155以下)
そして、目次に沿って若干の内容説明をされた後、

-------
 いま本書の一部だけを紹介したが、どの章をとっても、近世の起請文をめぐる常識や通説を史料のもつ迫力でもって突き崩し、もう一段の深みへと掘り下げていくというスタイルを取っている。豊富な事例に支えられた論証は安定しており、結論についてもほとんど違和感をもつことはなかった。先行研究に対する目配りは行き届いており、読了後、長期間にわたる検証に耐えて起請文研究の方向性を示す確固とした道標が一つ、ここに誕生したとの感懐をもった。
 「あとがき」によれば、本書のもとになったものは、昨年国学院大学に提出された博士論文であるという。指導教官のお一人には、起請文研究の第一人者である千々和到氏のお名前があげられている。千々和氏は、かつてその論考において、近世における「起請文の死」を論じた(「中世民衆の意識と思想」『一揆』四、東京大学出版会、一九八一年)。千々和氏の指導のもとで、その卓越した手法を継承しつつも、近世における起請文の再生を論じて師の成果を乗り越えようとする意欲的な成果が生まれたことは、まさに学問のあるべき姿を示すものである。
-------

とのことで、殆ど絶賛に近い評価ですね。
しかし、最後には次のような文章が加わります。

-------
 ただし、この本が千々和氏の学説を全面的に超克したかというと、まだ課題は残っている。確かに本書によって、近世社会において多数の起請文が著され、実際に一定の社会的・政治的機能を果たしていたことが明らかにされた。しかし、同等の神仏が勧請されたとしても、それらの神仏に対する中世人と近世人のリアリティが同じだったとは考え難いし、人々を取り巻く世界観そのものが大きく変容していた可能性がある。
 とすれば、次に取りかからなければならないのは、近世の起請文の働きを規定していた神仏世界の全体像とその機能を、中世と比較しつつ解明していくという、きわめて骨の折れる作業である。近世においても、中世とは異なる形で神仏の呪術的機能がはたらいていて、それが起請文の有効性を支える固有のプロセスが十全に明らかにされたとき、はじめて大河内氏の研究は師のそれを完全に乗り越えたものになるにちがいない。
 そうした視点からの考察は、起請文を切り口とする近世史への新たなアプローチとなることが予想される。近年、近世国家を考える際に、天皇・宗教・儀礼など、可視・不可視の権威の果たした役割の重要性に改めて光が当てられているが、神仏の威力を光背とする起請文はそうした権威の連関と深い関わりをもつものだからである。
 最後に述べたことは私の個人的願望に過ぎないが、さらにスケールアップした著者の次の仕事を心待ちにしたい。
-------

うーむ。
佐藤氏は「近世においても、中世とは異なる形で神仏の呪術的機能がはたらいて」いたことを自明の前提とした上で、「それが起請文の有効性を支える固有のプロセス」の解明を次の課題とされる訳ですが、個人的には佐藤氏の前提が間違っているように思います。
近世では、少なくとも政治の世界においては「神仏の呪術的機能」は無視できるほど弱体化しており、そこは千々和説のままで良さそうです。
大河内説の可能性は、むしろ中世において、起請文には「呪術的機能」以外の合理的機能が相当に働いていたことを解明するための「方向性を示す確固とした道標」となることにありそうです。

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佐藤雄基氏「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(その3)

2022-11-20 | 唯善と後深草院二条

千々和到氏が『日本歴史』800号(2015)の「日本史のなかの嘘」という特集に「起請文にウソを書いたとき」という文章を寄稿されているのを知って、「起請返し」のことを書かれているのかなと思って読んでみたのですが、『太平記』に描かれた尊氏・直義の起請文破りの話が中心で、「起請返し」への言及はありませんでした。
佐藤雄基氏も「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(『歴史評論』799号、2015)の注(17)で斎木一馬氏の「"起請破り"と"起請返し"」を挙げておられるだけなので、「起請返し」については新たな専論はなさそうですね。
さて、上記佐藤論文の「三 儀礼のもつ機能─古代史・近世史の動向から─」に基づき、近世の起請文研究の動向を少し見ておきます。(p39以下)

-------
 一方、近年の新たな動向として、近世史の側から起請文の研究が進展している。大河内千恵氏は、江戸中期までの幕府・大名家の起請文を具体的に検討し、「江戸幕府起請文が形式的である、という従来の評価は、「書式が定式化している」という意味であったなら、それはまさしく正しかった。しかしそれは、「形骸化している」「意味がない」ということではない。同じ書式で書かせることこそが幕府にとって重要であり、諸大名家にとっては服属の証となったのである」と主張する。起請文のもつ形式性・儀礼性の果たす政治的機能が着目される研究段階に至ったのである。
 もとより「起請文の死」という千々和到氏の議論は、書式の定式化のみならず、中近世移行期における神仏観念の衰退という問題と不可分であり、大河内氏の研究もまた、神仏観念の後退という評価を否定するものではない。だが、起請文という形式が重みをもつがゆえに一揆契状は起請文という形式をとったという呉座勇一氏の議論を念頭におくとき、大河内氏の研究は、神仏観念とは必ずしも関わらず、政治の場において起請文・誓約という儀礼・形式の果たす独自の役割を示唆しているようにも思われる。
 近世の政治と起請文の関係については、岡山藩をフィールドとした深谷克己氏の研究が注目される。深谷氏は「池田家文庫」の調査から、役職就任にあたっての起請文の徴収が近世においても慣習化していたことを明らかにする。それとともに、『池田光政日記』を用いて、「無差別に家臣から誓紙を取っているのではなく、一つには依怙贔屓が出やすい役務についた場合、もう一つには職務に遅疑逡巡が起こるような場合に誓紙を徴している」と論じ、起請文の徴収される具体的な場面を解明している。神仏への信仰という問題についても、「光政は、誓詞をたんなる形式と考えていたのではなく、また本気で神罰冥罰が人に下ると考えていたのでもなく、主従間の約定について責任を持たせる政治方式の一つとして重視し」ており、「いわば法令秩序を私的関係において下支えする装置」として起請文を利用していたと指摘するように、単なる先例主義や形骸化した儀礼とはせず、形式・儀礼が果たす独特の効果・機能を解き明かしている。
-------

注記を見ると、大河内千恵氏の見解は『近世起請文の研究』(吉川弘文館、2014)から、深谷克己氏の見解は「近世政治と誓詞」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊48、2002)からですね。
私はいずれも未読ですが、深谷氏の「依怙贔屓が出やすい役務についた場合」云々は直ちに「御成敗式目」を連想させます。
「御成敗式目」には冒頭に宗教関係の条文が二つあり、末尾に起請文が置かれていますが、通読してみると宗教的色彩は希薄であり、「【北条泰時】は、誓詞をたんなる形式と考えていたのではなく、また本気で神罰冥罰が人に下ると考えていたのでもなく、【評定参加者】の約定について責任を持たせる政治方式の一つとして重視し」ていたように思われます。

「御成敗式目」の宗教的色彩
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/122893b06739d3a4c380131d2aa6b19c

佐藤氏も「御成敗式目」に言及されていますね。(p40)

-------
 これらの近世史の新しい研究動向は、アーカイブズの視点をもって儀礼的な文書を含む史料群を捉える点に特徴をもつ。その意味では史料論の隆盛という研究潮流上にある。ここで明らかにされた誓約儀礼のもつ機能自体は、中世においても見出させるものであろう。深谷氏は「法か神かではなく、「法威と抱き合わせにされた神威」としての政治的効果」を指摘するが、以前拙稿で論じたように、鎌倉幕府の裁判は、評定衆や奉行人たちが「無私」の審理を誓って起請文を立てた「御成敗式目」に象徴的にみられるように、神仏への起請を媒介にして理非判断を根拠づけようとしていた。【後略】
-------

このように「誓約儀礼のもつ機能」に着目すると、起請文は「御成敗式目」の時代以降、一度も死んでおらず、廃藩置県で起請文の徴収が途絶えるまで、ずっと生きていたということになりそうです。

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起請文はいつ死んだのか?(その5)

2022-11-19 | 唯善と後深草院二条

千々和論文の続きです。(p38以下)

-------
 このような起請返しは、一見すれば起請文を決して軽視していないこと、そして、起請をたてた以上、神仏の冥罰を蒙ることが、いまだに信ぜられているように思える。しかし、起請返しというものが生まれてきた本質はそのようなことではあるまい。重要なことは名目のうえでは神仏に対する信仰の表現であり、祈禱が行なわれることが条件であるとはいえ、この起請返しの出現によって、これ以後起請文は、罰を与えられることなく、破ることが可能になったということなのである。
【中略】
 こうして、起請文に牛玉宝印が、それもある一定の霊社牛玉だけが用いられるようになり、また霊社上巻起請文という長々しい神文が書かれるようになるという、起請文の様式のうえでの完成は、まさに起請破りの横行と、それに対する神道家の側からの起請返しという作法の成立と、裏腹の関係にあった。このような事態の推移が、起請文の死へと進んでいくことに、我々は何の疑いももちえないであろう。
 かくして起請文はその生命を失う。江戸時代には、誰一人本当とは思わない、単なる儀式として、幕府・諸藩の役職者が差し出す誓詞の中に、わずかにその形式の名残りを見いだすばかりである。いやそれよりも、冒頭でふれた遊里の男女の間にとりかわされる起請文のほうが、より近世的と言えるのかもしれない。いわばこの世の地獄・苦界に生きる女たちが、あの世の地獄におちることをカタに鼻の下の長い男たちからいくばくかの金をまきあげるタネとして、もし起請文が多少でも役にたったのだとしたら、これを起請文という文書がもった最後の輝かしい働きといって、よいのかもしれない。
-------

ということで、第一節の冒頭で紹介された「三枚起請」と響き合うシニカルな表現で第四節は終わります。
少し気になるのは千々和氏の笑いへの理解が「社会派」風になっている点で、千々和氏は「途端落」の傑作落語をガハハと笑って済ませることはできず、「戦後歴史学」の正統的立場から「この世の地獄・苦界に生きる女たち」の側に立ち、「鼻の下の長い男たち」を糾弾されます。
しかし、少なくとも落語「三枚起請」の世界では、起請文を濫発する遊女自身も「あの世の地獄におちる」などとは全く思っておらず、男女ともに起請文など全く信じていないことは押さえておく必要があると私は考えます。
また、「おわりに」において、千々和氏は、

-------
 すでに私は、前節で起請文を死なせてしまった。そしてそれは、私の論旨にのっとれば、いわば呪縛のおわりであるはずである。とすれば、もうこれ以上、先を述べることは何もなくなったはずである。
 しかし、一方で、本当にそうだろうか、とも思いつづけざるをえない。そうであるのならなぜ、江戸時代にも起請文は書かれつづけたのであろうか、ということである。その答は、もちろん、江戸時代の起請文はなんら実効性のない形式的なものである、ということで足りるであろう。
 だが、ではなぜ宗教は今も生きつづけられるのか、と問い直せば、それほど答はたやすくはない。こうした設問を設定すると、今の私には答えるすべはない。であれば、現代は、本質的に中世とどこが違うのであろうか。
-------

と煩悶された上で若干の議論を追加されるのですが、その部分は既に佐藤雄基氏が「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(『歴史評論』799号、2015)で次のように要約されています。

-------
 もちろん信仰心の有無について、残された史料から「実証的」に問うのは困難である。千々和氏も結局、本当に中世人は神仏の罰を信じていたのかという問いには答えず、「純粋に個人的な問題について罰とか呪縛を考えること、それを信ずること、これは現代にもありうることだろう」とした上で、「歴史学が扱うことのできるのは、社会的集団の行動あるいは集団の一員としての個人が、社会的・政治的行動をするときに、どの程度、罰あるいは呪縛というものが行動の基準となるか、ということ」とし、個人の信仰よりも「場」が中世を特徴づけるのだから「一味神水の場での盟約」の実態の解明が重要であると論ずる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8b4b834c1e390fa1a234b5fe95331386

さて、1981年の千々和氏は「江戸時代の起請文はなんら実効性のない形式的なものである」とされていましたが、近世の起請文研究は相当に進んでいます。
その内容を詳しく検討するのは私の能力を超えますが、佐藤雄基氏の上記論文に簡潔な説明があるので、その部分だけ次の投稿で紹介したいと思います。

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起請文はいつ死んだのか?(その4)

2022-11-18 | 唯善と後深草院二条

私が突如として起請文を論じ始めたきっかけは10月30日に放映された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第41回でした。

起請文破りなど何とも思わない人たち(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f499d617f18376f321811a045398e40c

呉座勇一氏は『一揆の原理』(洋泉社、2012)において、

-------
【前略】参籠起請とは、被疑者の主張の真偽を明らかにするための神判(有罪・無罪の判断を神に仰ぐ裁判)の一種で、まず自らが偽りを述べていないことを神に誓った上で神社の社殿などに籠もり、参籠中に身体の不調(鼻血や発病など)が現われなければ、潔白の証明となった。
【中略】
 私が思うに、起請文を身体の内部に取り込むという行為と、身体に不調が生じるか否かという現象は対応している。嘘をついているのに起請文という誓約書を飲んだら身体に異変が起こる。つまり起請文の灰が体内で悪さをするのだろう。古代インドには毒物を飲んで有罪無罪を決める毒神判というものがあるそうで、危険なものを身中に入れても無事であることが潔白の証明につながるという発想は、日本以外の文明においても見られる普遍的なものと推定される。
 とすると、一揆の誓いに違反した場合に発生するとされる神罰の具体的内容も、起請文の灰を体内に取り込んだ結果として体内に異変が起きる、というものではないだろうか。
-------

と書かれていて(p114)、これはかなり合理的かつ独創的な見解ですね。
起請文破りをしたい場合は飲んでしまった起請文を吐き出せばよいだろう、という大河ドラマの展開は、脚本家の三谷幸喜氏が『一揆の原理』から得た着想ではなかろうかと思われます。
ただ、呉座氏は「失」という表現を使っていませんが、「失」には身体の不調だけでなく家族・親戚の死なども含まれており、これらは毒物のアナロジーでは説明し難いので、私は呉座説には賛成できません。

佐藤雄基氏「日本中世前期における起請文の機能論的研究─神仏と理非─」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4098ae9be11cbdecadb8c3b406031d3d

ま、それはともかく、「起請返し」の具体的方法が史料に出て来るのは相当遅いみたいですね。
千々和論文に戻って、続きです。(p37以下)

-------
起請返し
 斎木一馬氏は吉田の神主兼見の日記「兼見卿記」の中にしばしば見出される起請返し(また、誓紙返しともいう)に注目し、「"起請破り"と"起請返し"」という短いが興味深い論文を書いている。氏が紹介したいくつかの起請返しの実例を見ながら、しばらく天正年間のこの日記に多くみられる起請返しとは何かを考えてみよう。
 まず一五八三年(天正十一)四月廿日の記事である。

  南都に住む者で、伯父と甥とが口論をして今後絶交するという誓言をかわした。その後今にいたっ
  たが、親類の仲立ちで仲を直そうと思うのだが、誓言のうえでの絶交だからといって伯父が容易に
  応じない。そこで、起請返しの裁許をして欲しいというのである。早速、兼見は祓を行って裁許状
  を遣わしたというのである。

 また、翌八四年(天正十二)十二月六日の記事によれば、

  越前の青山氏から、妻の離別に際し、誓紙を書いたのだが、子供や親類が仲立ちをして、よりを戻
  すことになった。しかし、誓紙を書いた以上、その罰があろうから、誓紙返しの祈念をお願いした
  い、というのである。

 また、このほかにも、事情はよくわからないが、誓紙返しを依頼され、祈禱のうえで「調え遣わす」という記事が散在するから、誓言・誓紙を破るについて、吉田神主に依頼して祈禱してもらい、その裁許状と霊符・守りなどをもらうということが当時一般によく行われていたことが理解される。
-------

うーむ。
要するに「お祓い」をすればオッケー、ということのようですが、吉田家は吉田兼倶以降、相当に独創的というか胡散臭いというか、神社界でもかなり変わった家なので、果たして吉田流の「起請返し」をどこまで一般化できるのか。
そして何より、吉田流の「起請返し」が生まれるまでは、起請破りをしたい人たちはどのような方法を取ったのか。

『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f8a40b01d861705b1c8291f30001971
吉田兼倶(1435-1511)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E5%80%B6

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