投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月30日(金)13時56分10秒
11月27日の投稿、「設問:一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」について」においては、
中村の「カラクリ」の内容と、中村がこのような「カラクリ」を「考案」した理由について考察せよ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8ee2cf121a12cc91b07e4be9bb165e
と書きましたが、そこに引用した文章だけでは、後者はちょっと分からないですね。
そこで、改めて前回投稿で紹介した部分の続きを引用してみます。(p99以下)
p99には「女工の賃金用途」というタイトルの一覧表があって、「平均額は受給者の平均額。笠原組「工女試験勘定帳」より作成」との説明があります。
この表を全て紹介するのは煩瑣に過ぎるので省略しますが、明治24(1891)、明治41(1908)、明治42(1909)、大正5(1916)、大正8(1919)の各年次と出身地別に「手付金」「前貸金」「内渡」「年内内渡」「盆」「その他」「残額」「賃金総額」が計上されていて、「賃金総額」から「1人平均額」(円)だけを抜き出すと、
明治24(1891) 各県 17.70
明治41(1908) 山梨 50.28
明治42(1909) 各県 43.59
大正5(1916) 岡谷 61.66
山梨 81.19
大正8(1919) 岡谷 156.65
山梨 129.44
となっています。
本文でも言及されているように、1919年の数字は突出していますね。
では、本文を紹介します。
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賃金と小作料
では、このような苛酷な賃金制度のもとで、女工は一年間にどの程度の賃金を得、そのうち、女工自身が使える金額はどれほどであっただろうか。笠原製糸場を例にとった上の表では、用途をこまかく七項目にわけてあるが、大別すれば、
(1)手付金・前貸金・内渡〔うちわたし〕・年内内渡─ほとんどは親の手にわたる。
(2)盆・その他─女工の小づかい。
(3)残額─翌年度に支払われるもの。
の三グループに、まとめることができる。(1)の「内渡」は、年の途中で自宅に送金したり、父兄などが出向いたときに支払われるものであり、そのほとんどが、父兄に直接手わたされるものと考えてよい。「手付金」は女工との契約時に手わたすものであり、また「前貸金」あるいは「別貸金」は、貸金というかたちをとっているが、女工獲得の手段に利用された。両方とも賃金の前払いともいうべきもので、これも直接に父兄の手へわたるものである。また、(2)に「盆」とあるのは、女工がお盆のときに使った小づかいであり、「その他」には、牛乳代・薬代・日用品代・観劇料などがふくまれている。いずれにせよ、これも小づかいである。そして、(3)の「残額」は、工場主が製糸賃金の一部をわざと未払いとして翌年度にのこしておく分である。これは俗に「足どめ金」といわれたもので、女工が他工場に移ることを防ぐ手段として利用された。したがって、女工がもし翌年度に就業を継続しないばあいには、その残額を支払わない工場もあった。
さて、以上(1)・(2)・(3)の比率を計算してみると(1)が圧倒的比重をしめていて、明治二四年の七五・二パーセントを最低に、大正八年の岡谷出身女工分の九一・七パーセントを最高にして、ほぼ八〇~九〇パーセントをしめる。いうまでもなく、これが家計補充分にあたる。(2)の女工の小づかいは、大正五年の岡谷の二パーセントを最低とし、明治二四年の一四・六パーセントを最高としているが、これからみて、女工が自分のためには金銭をほとんど使っていないことがわかる。(3)の「残額」は、明治二四年の一〇・二パーセントを最高に以後しだいに低下し、大正八年の山梨県出身女工分はわずか〇・七パーセントにまで低下している。大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった。これらの検討から問題にしたいのは、つぎの点である。
いまでは古典的地位にある『日本資本主義分析』を著わした山田盛太郎は、戦前日本資本主義の構造的特質は資本主義と半封建的地主制との強固なむすびつきにあるとし、その両者の関係はとりわけ低賃金と高率小作料との相互規定関係としてあらわれると指摘した。「賃銀の補充によって高き小作料が可能とせられ、又逆に補充の意味で賃銀が低められるような関係の成立」という山田の有名な文章は、そのことを簡潔にしめしたものである。この意味するところは、女工の得る賃金によって、はじめて小作農家は地主にたいして高い小作料を払うことができ、また、逆に女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ、ということである。そして、このような内容をもつ高率小作料と低賃金の相互規定=相互制約の関係が、まさに戦前日本資本主義の基礎をささえ、かつ、それの急速な発展を可能にしたと主張されたのである。
この山田説は、その後、学界の通説となっている。それでは同氏はそのことを具体的に論証したかというと、かならずしもそうとはいえない。というのは、女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)、それが家計補充的であったことについては、なんの論証もしていないからである。ところが、これまで考察したことからもあきらかなように、製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であり、しかも、その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していることが判明した。高率小作料と低賃金の関係は、まぎれもなく存在しており、その意味からしても、製糸女工は戦前日本資本主義の特質を一身に体現する象徴的存在であったのである。
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私には中村が、自身の言うような「証明」「論証」をできたとはとうてい思えないのですが、その評価は次の投稿で行ないます。
11月27日の投稿、「設問:一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」について」においては、
中村の「カラクリ」の内容と、中村がこのような「カラクリ」を「考案」した理由について考察せよ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8ee2cf121a12cc91b07e4be9bb165e
と書きましたが、そこに引用した文章だけでは、後者はちょっと分からないですね。
そこで、改めて前回投稿で紹介した部分の続きを引用してみます。(p99以下)
p99には「女工の賃金用途」というタイトルの一覧表があって、「平均額は受給者の平均額。笠原組「工女試験勘定帳」より作成」との説明があります。
この表を全て紹介するのは煩瑣に過ぎるので省略しますが、明治24(1891)、明治41(1908)、明治42(1909)、大正5(1916)、大正8(1919)の各年次と出身地別に「手付金」「前貸金」「内渡」「年内内渡」「盆」「その他」「残額」「賃金総額」が計上されていて、「賃金総額」から「1人平均額」(円)だけを抜き出すと、
明治24(1891) 各県 17.70
明治41(1908) 山梨 50.28
明治42(1909) 各県 43.59
大正5(1916) 岡谷 61.66
山梨 81.19
大正8(1919) 岡谷 156.65
山梨 129.44
となっています。
本文でも言及されているように、1919年の数字は突出していますね。
では、本文を紹介します。
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賃金と小作料
では、このような苛酷な賃金制度のもとで、女工は一年間にどの程度の賃金を得、そのうち、女工自身が使える金額はどれほどであっただろうか。笠原製糸場を例にとった上の表では、用途をこまかく七項目にわけてあるが、大別すれば、
(1)手付金・前貸金・内渡〔うちわたし〕・年内内渡─ほとんどは親の手にわたる。
(2)盆・その他─女工の小づかい。
(3)残額─翌年度に支払われるもの。
の三グループに、まとめることができる。(1)の「内渡」は、年の途中で自宅に送金したり、父兄などが出向いたときに支払われるものであり、そのほとんどが、父兄に直接手わたされるものと考えてよい。「手付金」は女工との契約時に手わたすものであり、また「前貸金」あるいは「別貸金」は、貸金というかたちをとっているが、女工獲得の手段に利用された。両方とも賃金の前払いともいうべきもので、これも直接に父兄の手へわたるものである。また、(2)に「盆」とあるのは、女工がお盆のときに使った小づかいであり、「その他」には、牛乳代・薬代・日用品代・観劇料などがふくまれている。いずれにせよ、これも小づかいである。そして、(3)の「残額」は、工場主が製糸賃金の一部をわざと未払いとして翌年度にのこしておく分である。これは俗に「足どめ金」といわれたもので、女工が他工場に移ることを防ぐ手段として利用された。したがって、女工がもし翌年度に就業を継続しないばあいには、その残額を支払わない工場もあった。
さて、以上(1)・(2)・(3)の比率を計算してみると(1)が圧倒的比重をしめていて、明治二四年の七五・二パーセントを最低に、大正八年の岡谷出身女工分の九一・七パーセントを最高にして、ほぼ八〇~九〇パーセントをしめる。いうまでもなく、これが家計補充分にあたる。(2)の女工の小づかいは、大正五年の岡谷の二パーセントを最低とし、明治二四年の一四・六パーセントを最高としているが、これからみて、女工が自分のためには金銭をほとんど使っていないことがわかる。(3)の「残額」は、明治二四年の一〇・二パーセントを最高に以後しだいに低下し、大正八年の山梨県出身女工分はわずか〇・七パーセントにまで低下している。大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった。これらの検討から問題にしたいのは、つぎの点である。
いまでは古典的地位にある『日本資本主義分析』を著わした山田盛太郎は、戦前日本資本主義の構造的特質は資本主義と半封建的地主制との強固なむすびつきにあるとし、その両者の関係はとりわけ低賃金と高率小作料との相互規定関係としてあらわれると指摘した。「賃銀の補充によって高き小作料が可能とせられ、又逆に補充の意味で賃銀が低められるような関係の成立」という山田の有名な文章は、そのことを簡潔にしめしたものである。この意味するところは、女工の得る賃金によって、はじめて小作農家は地主にたいして高い小作料を払うことができ、また、逆に女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ、ということである。そして、このような内容をもつ高率小作料と低賃金の相互規定=相互制約の関係が、まさに戦前日本資本主義の基礎をささえ、かつ、それの急速な発展を可能にしたと主張されたのである。
この山田説は、その後、学界の通説となっている。それでは同氏はそのことを具体的に論証したかというと、かならずしもそうとはいえない。というのは、女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)、それが家計補充的であったことについては、なんの論証もしていないからである。ところが、これまで考察したことからもあきらかなように、製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であり、しかも、その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していることが判明した。高率小作料と低賃金の関係は、まぎれもなく存在しており、その意味からしても、製糸女工は戦前日本資本主義の特質を一身に体現する象徴的存在であったのである。
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私には中村が、自身の言うような「証明」「論証」をできたとはとうてい思えないのですが、その評価は次の投稿で行ないます。