学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

大晦日

2013-12-31 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月31日(火)23時06分31秒

今まで戦国時代には全く興味がなかったのですが、ひょんなことから少し調べ始めてみたら、この時期の「国家」論はなかなか面白いテーマですね。
宮地正人氏の「ほとんどの歴史学研究者は実証科学研究者であり、国家論という歴史理論そのものを論ずることに得手でないという以上に、実証から遊離することからくる強い警戒心をいだいている」(『新体系日本史1 国家史』、山川出版社)という指摘、最初はびっくりしたのですが、確かにそんな印象を与える歴史研究者は多いですね。
また、古い論文をいくつか見たところ、永原慶二氏は本当に頭が切れるな、と感じました。
思想の違いは別として、論理と文体の明晰さには圧倒される思いがします。
他方、勝俣鎮夫氏の業績への個人的評価はウナギ下がりで、今のところ議論を変な方向に向けてしまった責任の大半は勝俣鎮夫氏が負うべきなのではないかと思っているのですが、もう少し丁寧に研究史を追ってみるつもりです。
来年に入っても、しばらくこの話題を続けます。
また、権門体制論・東国国家論についても改めて少し考えてみるつもりです。
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情報収集と分析の分断

2013-12-31 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月31日(火)22時35分7秒 編集済

>筆綾丸さん
『知の武装 救国のインテリジェンス』は対談集のような体裁を取っていながら対談の日時や場所についての記載がなく、ちょっと奇妙な作りですね。
あるいは一応の打ち合わせをした後で二人が別々に原稿を書き、それを編集者がうまくつなぎ合わせたような感じもします。
ま、それはともかく、次の部分はロバート・レヴィンソン氏失踪事件の顛末が報道された後に読むと、なかなか興味深いですね。(p189以下)

-------
佐藤 CIAの係官と話していてびっくりしたんですが、中国分析をする人間は中国に渡航することが禁止されている。また、中国語を学ぶことも奨励されていないんです。そういうことがあるとバイアスがかかるからという理由でね。

手嶋 佐藤さんが例にあげたCIAの要員とは、情報分析官なのでしょう。アメリカの巨大な情報機関では、情報をとってくる人と分析する人が明確に分けられている。双方を交わらせないんです。そうすると、小説で最前線のインテリジェンス・オフィサーを描くとしても、全体のストーリー・ラインを承知していないのですから、単なる情報活動の下請け作業員になってしまう。

佐藤 CIAでは、現地語で情報を取ってきて全部英語に訳す。それを見て分析することが正しい判断につながると信じていますね。情報をとってくる人間がいる。取ってきた情報を信憑度に基づいて数値化する。数値化するときのクライテリア(基準)にもマニュアルがある。その数値化したものを分析官のところに持っていって判断がなされる、というやり方です。そんな具合に、厖大な情報を集めてクォーター化しているんです。全体像を掴んでいる人はいなくなっちゃうわけですね。

手嶋 インテリジェンスの方法論そのものが、アメリカの場合は「技法」すなわちテクノロジーによって支えられている。技術的にマネジメントが可能であると考えている。余人をもって代えがたいなどということはあってはならないという発想なんです。戦車は、普通の成人男子なら車と同じように運転できるよう設計されていてしかるべきだと。実にアメリカ的、フォード的発想です。

佐藤 だから、情報収集と分析を一緒にやってはならないと。一方で、たとえばモサド(イスラエル諜報特務庁)であるとか、あるいはSIS(イギリス秘密情報部)やSVR(ロシア対外諜報庁)に関しては、原則としてクォーター化されているけど、状況によっては、その問題に通暁し、かつ突き放した見方が出来る人物になら、情報収集と分析を共に任せても構わないと考える。ケース・バイ・ケースなんです。これって、つまり無原則ということなんですよ。だから、うんと柔軟な対応が可能になるのです。

手嶋 アメリカのインテリジェンスは、一見すると実にシステマティックにして科学的に映ります。でも、その果てに9・11同時多発テロのような奇襲を許してしまった。断片的な情報は山のようにあったけれど、全体像が掴めなかったからです。

佐藤 そうして、今度は振り子が逆に振れてしまう。インテリジェンス・コミュニティで皆が情報をシェアできるようにした。すると今度は、情報の拡散が起きてジュリアン・アサンジらによるウィキリークス事件が現れたんです。
---------

ロバート・レヴィンソン氏の件はアン・ヤブロンスキーという女性分析官が組織のルールに反して情報収集に関与したとの理由で処分された訳ですが、9・11を許してしまったことへの反省の中で、おそらく情報収集と分析の分断についても見直したいという動きがあって、アン・ヤブロンスキーは新しい考え方を実験してみた、と考えることもできそうです。
結果的にその実験が大失敗に終わったので、情報収集と分析の分断を定めるルールはより厳格化されてしまったようですが、再度の揺り戻しもありそうですね。

ロバート・レヴィンソン氏の件
CIA内部の対立とメディア間の確執

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

初詣 2013/12/30(月) 16:00:04
イコモスの判断が逆鱗に触れたやもしれませぬが、平成甲午の初詣は鶴岡八幡宮にしようかと考えています。

小太郎さん
新田一郎氏の『中世に国家はあったか』は、以前読んだはずですが、内容は綺麗に忘れています。書棚を探したものの見つからず、再度、アマゾンで注文しました。「濫喩としての「中世国家」」というのは、面白いですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Catachresis
英語では catachresis と云うようですが、ウィキの例文としてのアレキサンダー・ポープの詩は、はっきり言って、つまらぬ詩です。

http://www.bbc.co.uk/news/business-25519110
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%89
没落したはずの老大国が復活するようですね。UKの人口増加は謎のような現象で、何故なのか、エマニュエル・トッド氏あたりに聞いてみたいところです。フランスは high taxation 等により今後は衰退してゆくようですが、増税する日本は大丈夫なんだろうか、と心配になります。
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「佐藤劇場」のその後

2013-12-30 | 佐藤優『国家の罠』&モロゾフ・野坂参三
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月30日(月)14時49分57秒

>筆綾丸さん
ご紹介の手嶋龍一・佐藤優氏の共著、『知の武装 救国のインテリジェンス』(新潮選書、2013)を読んでみましたが、p90に次のような手嶋氏の発言がありますね。

-------
十七世紀にヨーロッパでウェストファリア条約が結ばれて、ネーション・ステート(国民国家)ができる遥か昔から、中国には祖国を捨てる意を表す「亡命」という言葉がありました。祖国を去ることとは即ち命を亡ぼすことを意味したのです。スノーデンがどこまで自覚しているのかはわかりませんが、彼はいま、亡命の恐ろしさ、その深淵を覗き見ていると言っていい。
-------

これも新田一郎氏の言われる「通俗的」な文脈での話ですが、ウェストファリア条約の締結=主権国家成立=国民国家成立、と簡略化して理解している人は多いですね。

『国家の罠』を素材に佐藤優氏について検討したのは5年前、2008年の暮でしたが、その時に一番ブキミに感じたのは、佐藤氏を取り巻く編集者のうち、最も佐藤氏の信頼が篤かったという岩波書店・馬場公彦氏の「佐藤劇場」発言でした。

カテゴリー「佐藤優『国家の罠』&モロゾフ・野坂参三」
「編集者」
「佐藤劇場」

あれから佐藤氏をめぐる状況もずいぶん変化しましたが、検索してみたら馬場氏は去年6月に「大平正芳記念賞」を受賞し、その時点で「編集局副部長」だそうなので、着々と出世しているようです。

「公益財団法人大平正芳記念財団」

他方、岩波書店でたった一人の反乱を敢行していた金光翔氏は5年後の今も会社と厳しく対立中のようで、人生いろいろですね。

「首都圏労働組合 特設ブログ」

佐藤優氏は埼玉大学名誉教授の鎌倉孝夫氏と『はじめてのマルクス』(金曜日、2013年)という共著も出したそうですね。

--------
マルクスの『資本論』の方法に基づいた社会分析は、われわれが置かれている社会的位置を客観的に認識するために重要だ。しかし、現在、このような視座から作られた経済学の入門書が少ない。それならば自分で作ってみようと思って、この本ができた。鎌倉孝夫先生(埼玉大学名誉教授)は、私が高校生時代に『資本論』の読み解きを手引きしてくれた恩師である。

荘園制の研究者に鎌倉という名字の女性がいて、鎌倉は意外に少ない名字なので、もしかしたら鎌倉孝夫氏の娘さんかな、と思ったことがあるのですが、数年前に出された著書の「あとがき」を見たら、特定はしていなかったものの、やっぱりなという書き方をされていました。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

遅れて来た老人 2013/12/23(月) 12:37:18
小太郎さん
東島氏ほどの俊才になると、一部の東大教授に対しても、なんて寝惚けた奴なんだ、てなことになるのでしょうね。
『中世的世界の形成』は、歴史に何の知識もない二十代の或る冬、お茶を飲みながら炬燵で読み耽りましたが、物凄くよく出来た『小説』のように思われたものです。いま読み返せば違うはずですが、再読することはもうないでしょうね。
あるノーベル賞作家に「遅れて来た青年」という小説がありますが、丸島氏にはそこはかとなくそんな面影が漂っていて、失礼な言い方ながら、どうにも古臭いタイプんですね。べつにモダンである必要はないけれども。

http://www.shinchosha.co.jp/book/610551/
手嶋龍一/佐藤優『知の武装ー救国のインテリジェンス』を読むと、第二次世界大戦時のイギリス国内のファシズム運動に触れた箇所がありますが(186頁)、イギリスもかなり危ない綱渡りをしていたようですね。

佐藤 最近、史料を調べていて驚いたのですが、第二次世界大戦が始まると、祖国イギリスを裏切ってドイツのスパイになる怖れがあるというので、英仏海峡に浮かぶマン島に潜在的なスパイとされる人々を強制移住させたんですね。そうした疑わしい連中は「第五列」と呼ばれたのですが、対象になったファシスト党員は一体どのくらいいたと思いますか。
手嶋 ざっと、数千人くらいでしょうか。
佐藤 なんと九万人ですよ。労働党のかなり上質な部分がファシストになると考え、その社会的影響力を怖れて隔離したというわけです。
手嶋 いやあ、それほどの人々が「第五列」として扱われたんですか。意外だなあ。
佐藤 イギリスの強制移住の話、ほとんど知られていませんね。「第五列」という意味では、アメリカでも、日系アメリカ市民の強制収容キャンプ送りがありましたが、イギリスは、ファシズムにつながる危険性があるとして、ごく一般のイギリス市民を強制移住させた事実があるんです。イギリス人というのは、そんな乱暴な部分も含めて検討に値しますね。(後略)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B3%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%88%97
マン島は独特な歴史を有する島のようですが、「英仏海峡」ではなく「アイリッシュ海」に浮かぶ島ですね。
俄然、マン島に行ってみたくなりました。
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カテゴリー「保立道久と歴史学研究会」

2013-12-29 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月29日(日)23時15分50秒

掲示板投稿の保管庫にしているブログ「学問空間」を整理していたところ、保立道久氏関係の記事がけっこうあったので、同氏がかつて事務局長を務めていた歴史学研究会関係の記事と併せて「保立道久と歴史学研究会」というカテゴリーを新設しました。
東日本大震災後の保立氏の言動は、多くの若手歴史研究者にとって「他山の石」として大変参考になると思います。

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/f90b759ae82bc01a2ad1d5057bc31246

「保立道久の研究雑記 歴史家の発想と反省」
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/
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「後世からの回顧的解釈」

2013-12-29 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月29日(日)22時39分6秒

>筆綾丸さん
社会学者の宮台氏の記述、いささか正確性を欠くような感じがします。
この種の議論はやはり法制史に詳しい人の見解が信頼できますが、新田一郎氏の『中世に国家はあったか』(2004、山川出版社)では次のような説明があります。(p6以下)

--------
 ヨーロッパにおいて、近代の「国家」の原語にあたる(英語でいえば)state の語が、現代において用いられるような意味を獲得したのは、それほど古いことではない。さきにふれたように、現代の国家は、その基本的な要素として主権・国民・領土の三つを要求されることが多いが、これらの相互関係をごく大雑把に括ってしまえば、つぎのようになろう。「主権」とは領土内の国民に対して他から制約されることなく均しくおよぶ至高の権力であり、「領土」とは主権のおよぶ範囲として区切られた均質な空間であり、「国民」とは主権によって捕捉される均質な構成員を意味する。この三者は、「主権」の作用を中核として、いわば循環的に関係づけられている。
 このように主権の作用を中核として構成される国家は、絶対王政の形成と密着して生み出された。主権はそもそも、封建制の分権的な構造を束ねて一体性を付与する至上の君主権として形成され、近代国際社会における主権国家の存立にモデルをあたえたのである。通俗的には、三十年戦争を終結させた一六四八年のウェストファリア条約において、絶対王政のもとで政治的統合を実現しつつあった英仏などのモデルが、神聖ローマ皇帝のもとに散在するドイツ領邦諸侯にも適用され、中世的な「帝国」の解体へと向けたインパクトをあたえるとともに、国際政治のアクターとしての近代主権国家と、主権国家間の相互承認体制とを生み出す端緒となった、と説明される。もっとも、ウェストファリア条約によってただちに「近代主権国家体制」が完成したわけではなく、最終的に神聖ローマ帝国の解体が宣言されるのは、フランス革命期のナショナリズムの勃興をうけた十九世紀初頭のことであった。その後もなお、「主権国家」の対等性は、国際政治の「組織的偽善」によって支えられるフィクションでありつづけたのであり、ウェストファリア条約の位置付け自体、後世からの回顧的解釈にほかならない。「近代国家」についての認識がさかのぼって「国家」一般の存在をはかるモノサシとして濫用されたのであり、国家が「近代的現象」と呼ばれたり、中世国家が「未完成の国家」と呼ばれたりすることがあるのは、そうした事情による。国家のモデルは近代から回顧的に語られ、そのルーツ探しの過程で、モデルの淵源としての「古代国家」や、ひるがえって濫喩としての「中世国家」が生み出されたのであった。
--------

「ウェストファリア条約の位置付け自体、後世からの回顧的解釈にほかならない」という部分、宮台氏の「通俗的」説明と異なるので少し難しい感じがしますが、これには別途、2ページを割いた囲み記事で詳しい解説があります。

黒田基樹氏の『百姓から見た戦国大名』の記述、私も分かりにくいなと思ったのですが、同氏の見解は『中近世移行期の大名権力と村落』(2003年、校倉書房)において、より詳しく展開されていますね。
納得できない部分が多いのですが、後で少し検討したいと思います。

>丸島氏
研究者全てに「氏」をつける点は一貫しているのですが、ごく少数の研究者にだけ、「・・した」ではなく、「・・された」という具合に敬語をつけているんですね。
ただそれだけなのですが、永原慶二氏クラスの研究者ですら敬語をつけないのに、それほど論文・著書も多くない人に敬語をつけるバランスの悪さが気になります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Freudian slip 若しくは parapraxis 2013/12/29(日) 11:01:27
小太郎さん
「西洋事情」とは変だなと思いましたが、岩波の誤植か碩学の勘違いか、いずれかなのでしょうね。

http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784062881821
今頃ですが、橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司『おどろきの中国』を読んでいると、宮台氏の発言に次のような個所があります。
---------------------------------------
雑な考え方をすると、中国が異様なのは、人口の規模が非常に大きいことなんですよね。もちろん、国家が多民族であるあるというのは、橋爪さんがおっしゃったように世界の標準フォーマットなんですけど、多重帰属やある種の他民族性のような多重レイヤーが存在するというのは、ヨーロッパで言えばウェストファリア体制以降のことです。
ヨーロッパでは、十七世紀前半の三十年戦争の結果として、ナショナリズムが出来上がっていきました。この戦争によって、神聖ローマ皇帝の帝国的統一の野望が崩れ去り、各地の諸侯の新教自由と地位平等が認められた。やがて、各地で絶対王政化がすすみ、平等な領域国家として横並び化していった。その後、これら絶対王政への反発を通じて、領域国家内の「われわれ意識」が育ち、国民意識と結びついた国家形成につながってゆく。(158頁)
-------------------------------------
国民国家と云った場合、普通、このように考えると思いますので、黒田基樹氏の「現代の国民国家が持つ、人々が帰属する政治共同体である性質の系譜を考えた場合、その前身にあたるのは、日本国という国家ではなく、戦国大名の国家であった」(『百姓から見た戦国大名』101頁)や、勝俣鎮夫氏の『戦国時代論』第一部における「国民国家」論などは、かなり奇異な印象を受けます。

http://en.wikipedia.org/wiki/Parapraxis
「氏」のバラバラな使用は、フロイト的に分析すれば、同業者に対する丸島氏の「無意識」を見出すことができるかもしれませんね。内容は、おおよそ、予測できますが。
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和洋の雑な人

2013-12-27 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月27日(金)21時35分50秒

>筆綾丸さん
「金沢八景内川暮雪」、いくつかのサイトを眺めてみたのですが、正面の方角や背景の山についての説明はありませんでした。
あまり高くないようなので、あるいは称名寺の裏山かもしれません。
称名寺の裏山だとすると、大規模な宅地開発で相当削り取られてしまっているので、広重の時代と山容が変わっている可能性もありますね。

>広重の雪景色
Jason Farago氏の記事で"Hiroshige’s winter scenes are perhaps his most sensitive"と複数形になっているのが気になったのですが、雑な人の文章についてあれこれ考えても仕方ない、という結論に達しました。

『戦国大名武田氏の権力構造』の「序章 戦国大名研究の現状と本書の視角」で丸島氏が石母田正氏にだけ敬語を使っているのが妙な感じがしましたが、先に引用した部分から暫く敬語が途絶えた後に、「岩澤(愿彦)氏は・・・明らかにされた」(p14)、「末柄豊氏は・・・明らかにされている」「家永遵嗣氏は・・・という理解を提示された」「遠藤ゆり子氏は・・・議論を展開された」「遠藤氏は・・・評価されている」(以上、p15)とあり、敬語を用いる基準が全く理解できなくなりました。
石母田正氏については何か特別な意図があるようにも感じたのですが、これも雑な人の文章についてあれこれ考えても仕方ない、という結論に達しました。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

royal pardon と chemical castration と enigma 2013/12/26(木) 12:27:02
小太郎さん
http://marieantoinette.himegimi.jp/ukiyoe-hiroshige5.html
広重の雪景色と云えば、まず「蒲原」を思い浮かべますが、このサイトで Debussy の Des pas sur la neige を聴くと、ジャポニスムの影響か、ピアノ曲が琴の曲のようですね。
「金沢八景内川暮雪」が関東学院大学のキャンパス付近とすると、背景の丘陵は鎌倉の朝比奈あたりになるでしょうか。

http://www.bbc.co.uk/news/technology-25495315
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The pardon was granted under the Royal Prerogative of Mercy after a request by Justice Minister Chris Grayling.
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天才チューリングへの恩赦は司法相の要請に基づき女王陛下が与えるという形式になるようですが、 chemical castration という物理的な生々しい屈辱ばかりは、どうにもならないですね。

チューリングは自殺したはずですが、
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"While I have no evidence that he was murdered, I do think we need to explore the possibility that he may have been killed by the security services. He was regarded as a high security risk," he said.
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当局に殺されたとする人もいるのですね。
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山本忠士氏「大正期日本の海外特派員報道」

2013-12-27 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月27日(金)19時57分5秒

>筆綾丸さん
>神田正雄
検索してみたら、次のような人物が出てきました。

-------
神田正雄 かんだ-まさお
1879-1961 大正-昭和時代前期の新聞記者,政治家。
明治12年3月18日生まれ。42年大阪朝日新聞社に入社。のち東京朝日新聞社の政治部長,外報部長をつとめる。大正12年同社の編輯(へんしゅう)委員となり,緒方竹虎らと4人の合議制で編集局長職を代行。13年衆議院議員(当選2回,民政党)。昭和36年8月2日死去。82歳。栃木県出身。東京専門学校(現早大)卒。

ただ、この人の経歴と「四川省重慶村達用学堂の教習」という肩書きが結びつかなかったのですが、リンク先の「Traveling LIBRARIAN -旅する図書館屋」というブログによれば、

-----
神田正雄(1879-1961)は、早稲田大学出身の新聞記者・政治家。彼が大阪朝日新聞に入社する明治40(1907)年だが、大学卒業後の三年あまりを、当時日本にその様子が伝わっていなかった四川省で過ごしていた。重慶府達用学堂の教習として招聘されたためである。神田は3年の赴任期間が終わってから半年間四川省を行脚し、帰国してから彼の地の地理・風俗・歴史をまとめた。その成果が本書である。

とのことで、書名は 「西清事情」のようですね。
福沢諭吉の「西洋事情」をもじったものなんでしょうね。

近代デジタルライブラリー 「西清事情」

神田正雄は大正4年(1945)の対華二十一か条要求交渉時に朝日新聞北京特派員だったそうで、山本忠士氏の「大正期日本の海外特派員報道-「21か条要求」交渉と東京朝日新聞を中心に-」という論文には神田特派員が関与した奇妙な一件が紹介されていますね。
当初、日本政府が極秘にしていた要求内容を神田特派員が中国側から入手して送信し、東京・大阪朝日新聞は大スクープとして号外で報じたのに、それを翌日、新たな号外で取り消し、更に翌々日、念入りに取消記事を出したのだそうです。


山本忠士氏によれば「情報戦では、中国側が序盤から日本を圧倒し、完全に主導権を握った形で進行」し、「以後、中国の新聞は、国際都市北京を舞台に外国新聞・通信社を巻き込み、日本包囲網を形成してい」ったのだそうで、現在の国際情勢を髣髴とさせる、なかなか興味深い指摘ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

墳墓の抵当 2013/12/26(木) 18:34:23
久しぶりに、穂積陳重『続法窓夜話』を拾い読みして、「墳墓の抵当」というのに目がとまりました。碩学もお茶目な文を書くのですね。
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祖先崇拝は儒教倫理の根本主義とするところであるから、支那人は最も墳墓を重んじ、少しく資産あるものは墓地に多額の金額を費やしてそれを誇りとする風俗のあることは、人の知るところである。しかるに、四川省重慶村達用学堂の教習神田正雄氏の著「西洋事情」に拠れば、これと同時に、墓地を貸金の抵当とする慣習が少なくとも巴蜀(重慶付近の地)地方には行われているということである。祖先の遺骸を安置する霊場を金銭貸借の担保とし、恬として愧じず、人もまたこれを怪しまざるは、如何にも不可思議千万なようではあるが、翻って考えれば、支那人の祖先を重んずるの厚きと、金銭を重んずるの大なるとが相合して、この奇習を生じたものであろうと思われる。他人の墳墓の地は債権者に取っては一文の値打もないものである。これを譲り受けた者も、まさかこれを畑にして南京豆を植え附ける訳にも行くまい。(岩波文庫版81頁)
-----------------------------------------
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/54983
「文化財」として寄贈し、福岡市にずっと管理してもらうというのは、「軍師」官兵衛の眼に名案と映るかどうか・・・。

追記
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-25515948
このクリスマス・メッセージを聞くかぎり、スノーデン氏は知性的な人ですね。Britain's Channel 4の前で、ロシア政府の検閲(強制)なしに、正直に語っていると考えていいのでしょうね。諜報の専門家がこの映像をどのように分析するのか、わかりませんが。
an ''alternative'' Christmas message の alternative は、ここで sophisticated な使い方をされていて、二者択一的、つまり、アメリカ政府ではなくスノーデン氏の、というような含意になり、辞書を引くとさらに、(社会の基準に拠らない)型破りの、という意もあるので、ネイティヴの人はここで、フフフとなるのでしょうね。
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-25512656
絢爛豪華なローマ法王の凡庸なメッセージよりは、すくなくとも、面白いような気がしますね。法王が抱いている人形の赤ん坊(イエス)は、微笑ましいというか、なんというか・・・。

追記の追記
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-25518166
-----------------------------
US officials said the visit would "exacerbate tensions" in the region.
-----------------------------
アメリカ政府は、あまり見たことのない exacerbate という語を使ってますが、外交上及び修辞上、どんな意味があるのでしょうね。
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「目黒太鼓橋夕日の岡」と「金沢八景内川暮雪」

2013-12-25 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月25日(水)11時08分8秒

BBCに美術評論家のJason Farago氏による「冬景色を描いた10枚の崇高な絵」という記事が出ていました。
この6番目が安藤広重の The Drum Bridge and Yuhi Hill at Meguro by Hiroshige (1857) で、次のような解説が付されています。

------
How great artists depict winter in 10 sublime paintings

The Drum Bridge and Yuhi Hill at Meguro by Hiroshige (1857)

One of the images from One Hundred Views of Edo, his wildly popular series of ukiyo-e prints, this image depicts a rare stone bridge in the city we now call Tokyo. Captured at an oblique angle, the bridge seems dwarfed under the snow-filled sky, and the passersby, shrouded under bamboo hats, get lost in the landscape. Hiroshige’s winter scenes are perhaps his most sensitive; under snow, even the big city feels impermanent.

広く人気のあるウキヨエのシリーズ、「エドの100の景色」のひとつとして、この絵は今日我々がトウキョウと呼ぶところの都市における珍しい石の橋を描いている。斜めの角度から捉えられた橋は、雪に満たされた空の下で小さく見える。そして竹の帽子をかぶった通行人たちは、風景の中で途方にくれている。ヒロシゲが描いた冬景色(複数形)は、たぶん彼の最も繊細な作品であろう。雪の下で、巨大都市さえもが永続的ではないように感じられる。

http://www.bbc.com/culture/story/20131224-the-10-greatest-winter-paintings

わざと直訳風に訳してみましたが、該当の絵を見ると、そもそも橋がありません。
そして「金沢八景内川暮雪」と明瞭に記してあって、目黒とはずいぶん離れていますね。
何じゃこれ、と思って検索してみたら、タイトルを見る限り、Jason Farago氏は「名所江戸百景」の「目黒太鼓橋夕日の岡」について書いたはずなのに、どんな手違いがあったのか、「金沢八景内川暮雪」が掲載されてしまったようです。

「目黒太鼓橋夕日の岡」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312347
http://hiroshige100.blog91.fc2.com/blog-entry-76.html

ただ、「目黒太鼓橋夕日の岡」の石橋は決してdwarfed(小さく見えて-dwarfは童話などに出てくる「こびと」)となってはいませんし、橋の上の通行人は普通に歩いていて、get lost 状態には見えません。
get lost 状態になっているのは、明らかに「金沢八景内川暮雪」の方ですね。
とすると、どうもJason Farago氏自身が二つの絵を混同しているようで、同氏以外の誰かが単純に絵を取り違えた、といったミスではないようですね。

いずれにせよ誤植収集を趣味のひとつとしている私にとって、BBCからもらった夢のようなクリスマスプレゼントなので、感謝とともに記録しておきます。

ちなみに「金沢八景内川暮雪」は関東学院大学のキャンパス付近を描いているそうですね。
大規模な干拓によって過去の風景を思い浮かべるのが困難なほど変化していますが。

http://dorogame008.web.fc2.com/kkanazawasanpo3.html
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思想と学説

2013-12-23 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月23日(月)21時28分46秒

アクセスが一時的に少し増えているので、初めてここを見た人のために念のために書いておくと、私も別に『中世的世界の形成』に感激した人が何か凝り固まった思想の持ち主だと思っている訳ではありません。
むしろ逆で、いかにも慶応出身らしいスマートな発想をする人なのに、たまたま研究者を志したきっかけを聞いたら石母田正の名前が出てきたので、意外だなと妙に記憶に残っているだけです。
ネットで活発に書いている歴史研究者だと、例えば保立道久氏あたりの全共闘世代の人までは思想と学説が密接に結びついている感じがしますが、四十・五十代には多少微妙な人がいるものの、三十代より下の世代だったら、思想と学説は全く切り離して受容しているような感じがします。
以前、外部の人のブログにこの掲示板の投稿が引用されたのをきっかけに、黒田俊雄氏の権門体制論についてほんの少し検討したことがありますが、一貫して強固なマルクス主義的信念を持っていた黒田氏自身にとっては自己の思想と権門体制論は密接に結びついていたでしょうけど、現在、学説として権門体制論を支持している若手研究者の大半は、思想は関係ないと思っているんだろうなと書きました。
石母田氏についても同じような状況だろうと考えています。

「黒田農園のチューリップ」

>筆綾丸さん
ご紹介の本、後で確認してみます。
『国家の罠』を書いていたころの佐藤氏はそれなりにすごいなという雰囲気が漂っていましたが、今は単著はとても読む気がしないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

遅れて来た老人 2013/12/23(月) 12:37:18
小太郎さん
東島氏ほどの俊才になると、一部の東大教授に対しても、なんて寝惚けた奴なんだ、てなことになるのでしょうね。
『中世的世界の形成』は、歴史に何の知識もない二十代の或る冬、お茶を飲みながら炬燵で読み耽りましたが、物凄くよく出来た『小説』のように思われたものです。いま読み返せば違うはずですが、再読することはもうないでしょうね。
あるノーベル賞作家に「遅れて来た青年」という小説がありますが、丸島氏にはそこはかとなくそんな面影が漂っていて、失礼な言い方ながら、どうにも古臭いタイプんですね。べつにモダンである必要はないけれども。

http://www.shinchosha.co.jp/book/610551/
手嶋龍一/佐藤優『知の武装ー救国のインテリジェンス』を読むと、第二次世界大戦時のイギリス国内のファシズム運動に触れた箇所がありますが(186頁)、イギリスもかなり危ない綱渡りをしていたようですね。

佐藤 最近、史料を調べていて驚いたのですが、第二次世界大戦が始まると、祖国イギリスを裏切ってドイツのスパイになる怖れがあるというので、英仏海峡に浮かぶマン島に潜在的なスパイとされる人々を強制移住させたんですね。そうした疑わしい連中は「第五列」と呼ばれたのですが、対象になったファシスト党員は一体どのくらいいたと思いますか。
手嶋 ざっと、数千人くらいでしょうか。
佐藤 なんと九万人ですよ。労働党のかなり上質な部分がファシストになると考え、その社会的影響力を怖れて隔離したというわけです。
手嶋 いやあ、それほどの人々が「第五列」として扱われたんですか。意外だなあ。
佐藤 イギリスの強制移住の話、ほとんど知られていませんね。「第五列」という意味では、アメリカでも、日系アメリカ市民の強制収容キャンプ送りがありましたが、イギリスは、ファシズムにつながる危険性があるとして、ごく一般のイギリス市民を強制移住させた事実があるんです。イギリス人というのは、そんな乱暴な部分も含めて検討に値しますね。(後略)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B3%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%88%97
マン島は独特な歴史を有する島のようですが、「英仏海峡」ではなく「アイリッシュ海」に浮かぶ島ですね。
俄然、マン島に行ってみたくなりました。
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大川小学校の事故検証委員会

2013-12-23 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月23日(月)08時17分57秒

今日の『河北新報』に次の記事が出ていました。

--------
大川小事故検証委 最終報告、来年1月以降に

 東日本大震災で児童と教職員計84人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小の事故検証委員会の8回目の会合が22日、市内であり、児童遺族が検証を求めた地震発生から避難開始まで約50分間かかった意思決定の遅れに関して議論が交わされた。年内に予定していた最終報告は、来年1月以降に持ち越した。
 避難行動の分析によると、地震発生後に校舎から校庭に避難した教員たちは津波の情報収集を積極的に行わず、学校を津波が襲う危険性も具体的に想定していなかった。
 学校裏山への避難に言及した教員はいたが、安全性が確認できないと判断したとみられる。新北上大橋たもとの堤防道路に移動を始めたのは、津波到達数分前の午後3時33~34分ごろという。
 検証委は「意思決定の遅れが被災の最大要因。避難の目的地の選定についても検証しないといけない」と指摘。学校の災害対応マニュアルの不備や市の防災体制、不十分だった教員への防災教育などの分析を進めることを確認した。
 遺族との意見交換では「避難について教員間でどんな議論があったのか」「裏山への避難を指摘した教員が強く主張できなかった要因として、教員間の人間関係の分析も必要では」などの声が上がった。(後略)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/20131223t13012.htm

大川小学校の問題、第三者委員会による報告書のとりまとめが難航しているようですね。
遺族の考え方も分裂しており、原因追及などに関わりたくないと思っている遺族もいれば、石巻市教育委員会に非常に厳しい立場を取る遺族もいて、率直に言って後者の動きには地元でも強い反発がありますね。
また、ネットで見る限り、被災地に詳しいと自負している人々の相当多くが後者に批判的なようです。
地元の反発の背後には、石巻市全体が甚大な災害に見舞われ、教育委員会のやるべき仕事は沢山あったのに、一部遺族がいつまでも騒ぎ立てたために他の重要な教育事業への対応が遅れてしまった、という不満があり、これはこれでもっともな話です。
私は自分で大川小学校付近を何度も歩いてみた結果、「裏山」についての認識のズレが問題を分かりにくくしているのだろうなと思っていて、結論的には後者の立場にかなり同情的です。
ただ、徹底的な事実解明は実際上は責任追及として機能しますから、第三者委員会で誰でも納得できる結論が出るはずもなく、最終的には訴訟に解決を委ねることになるんでしょうね。

私の現在の考え方はこちらで書いています。

「春の大川小学校」
http://chingokokka.sblo.jp/article/55492680.html
「大川小学校の裏山再訪(その4)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/54661115.html
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石母田正は偉い人?

2013-12-22 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月22日(日)18時01分57秒

丸島氏には慶應らしいスマートさを全く感じないので大学から慶應なのかなと思ったら、『戦国大名武田氏の権力構造』の「あとがき」に「在籍していた慶應義塾高校」とありますね。
幼稚舎からなのかは分かりませんが。
また、「大学院進学後は、中島圭一先生が中世史の専任教員として着任され、研究環境は大きく変化した。ひとつ下の学年に、桃崎有一郎氏が入ってきたこともあり、ゼミは早くから活気を帯びていた。私の宿痾といえる、ついつい先回りして結論を出し、議論を深めずに終わりがちな悪癖に自覚的になったのは、中島ゼミの場である」のだそうで、「あとがき」には中島圭一氏をはじめ、私も多少の面識がある人々の名前が挙がっています。
その中に今はある大学の准教授になっている方がいて、十年くらい前に飲み会の場でその人と石母田正について話したことがあります。
私より一回り以上若いその人は石母田正の『中世的世界の形成』に感激して歴史研究者の道を選ぶことにしたのだそうで、実は私は『中世的世界の形成』の熱っぽい文体が非常に苦手で、「名著」と言われているから何度も手には取ったのですが、結局、その時点でも全部通して読むことはできていない状態でした。
私より一回り上の全共闘世代あたりの人だったら『中世的世界の形成』に感激するタイプも多かったでしょうが、私よりずっと年下で、しかも経済界のエリートを輩出する慶應の人が今どき『中世的世界の形成』に感激するのか、と内心では思ったのですが、まあ、人それぞれだし、あえて感想を言ってしまうと話が変な方向へ進みかねないので、私は曖昧に頷いただけでした。
先方から見たら、私はポカンとした間抜けな顔をしていたのかもしれません。
でもまあ、例えて言えば、慶応の人から「近代文学の最高傑作は小林多喜二の『蟹工船』ですね」と言われた程度にはショッキングな出来事でしたね。
ちなみに小林多喜二は1903年生まれなので、石母田正より10歳上ですね。

小林多喜二

>筆綾丸さん
>三枝
この夏の高校野球でも山梨県のチームに三枝という名字の人がいて、古代的だなと思いました。(笑)

>東島誠氏
勝俣鎮夫氏の「国民国家」起源論や「公界としての共同体」論には、やはり問題が多いですね。
私もやっと東島誠氏の苛立ちが多少は理解できるようになりました。

【カテゴリー:東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』】

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

三枝夫人 013/12/22(日) 13:04:42
小太郎さん
http://www.shinchosha.co.jp/book/865146/
三枝という姓は、高校一年のとき、福永武彦『風土』の「三枝夫人」で初めて知りました。「さえぐさ」であったか、「さいぐさ」であったか、内容とともにすべて忘れてしまいましたが、よろめき夫人というか有閑マダムというか、そんなイメージが「三枝」には揺曳してしまうのを、どうすることもできません(笑)。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/1999/77.html
東島誠氏の『公共圏の歴史的創造 ー 江湖の思想へー』を、丸の内の丸善で立ち読みしました。
http://www.law.nihon-u.ac.jp/publication/pdf/nihon/78_1/01.pdf
謀反(謂謀危國家)と謀叛(謂謀背圀従偽)の差異について、前者は単一国家を前提にし、後者は複数の国家を前提にしたもので、ある時期以降、頼朝は大江広元の入れ知恵で両者を厳密に使い分けた、という論考をあらためて面白く思いました。
氏に従えば、「地域国家」論では「謀叛」はありうるけれども「謀反」はありえず、北朝鮮の一連の粛清劇などは逆に「謀反」の論理で一貫している、というようなことになりますね。

ご引用の中に、「しかしながら、地域国家という理解については、一定の評価を得つつあるように思われる(14)。」という、唐突な「論理」展開がありますが、べつに「地域国家」などと背伸びせずとも従来の「領国」でいいじゃないか、なぜ「領国」はダメなのか、という疑問は払拭できないですね。戦国期の流行語「国家」という用語の史料性・歴史性をなんとしても活かしたいのでしょうけれども。
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注記&石井進氏「日本中世国家論の諸問題」

2013-12-22 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月22日(日)08時26分10秒

研究史の状況を正確に理解するために、『戦国大名武田氏の権力構造』の前掲部分に関連する注記も載せておきます。

---------
(3)池亨「大名領国制試論」(同著『大名領国制』の研究、校倉書房、一九九五年。初出一九八八年)。
(4)藤木久志「知行制の形成と守護職」(同著『戦国社会史論-日本中世国家の解体-』、東京大学出版会、一九七四年。初出一九六六年)、宮川満「戦国大名の領国制について」(『宮川満著作集 三 中世社会の諸問題』、第一書房、一九九九年。初出一九六七年)。
(5)藤木久志「戦国法の形成過程」(前掲注4藤木著書所収。初出一九六七年)、勝俣鎮夫①「相良氏法度の一考察」(同著『戦国法成立史論』、東京大学出版会、一九七九年。初出一九六七年)。
(6)石母田正「解説」(『中世政治社会思想』上、岩波書店、一九七二年)。なお、ポルトガル人宣教師が各地の大名を室町幕府将軍と同様に「国王」と呼称・表記していたことは、松本和也「宣教師史料から見た日本王権論」(『歴史評論』六八〇号、二〇〇六年)において詳細な検討がなされている。布教成果を喧伝する意図を割り引く必要はあるが、海外からも「国」と見なされていた点は軽視すべきではなかろう。
(7)永原慶二「大名領国制の史的位置-研究史的検討-」(同著『戦国期の政治経済構造』、岩波書店、一九九七年。初出一九七五年)。
(8)勝俣鎮夫②「戦国法」(前掲注5勝俣著書所収。初出一九七六年)。
(9)勝俣鎮夫③「戦国法の展開」(永原慶二・ジョン=W=ホール・コーゾー=ヤマムラ編『戦国時代-一五五〇年から一六五〇年の社会転換-』、吉川弘文館、一九七八年)。
(10)勝俣鎮夫④「戦国大名「国家」の成立」(同著『戦国時代論』、岩波書店、一九九六年。初出一九九四年)。
(11)藤木久志「村の動員」(同著『村と領主の戦国世界』、東京大学出版会、一九九七年。初出一九九三年)、山本浩樹「戦国期戦争試論-地域社会の視座から-」(『歴史評論』五七二号、一九九七年)。
(12)久保健一郎「後北条氏における公儀と国家」(同著『戦国大名と公儀』、校倉書房、二〇〇一年。初出一九九三~二〇〇〇年)等。
(13)前掲注3池論文。
(14)久留島典子『日本の歴史13 一揆と戦国大名』(講談社、二〇〇一年)、有光友学編『日本の時代史12 戦国の地域国家』(吉川弘文館、二〇〇三年等)。
(15)代表的な議論として、東国国家論が挙げられる。佐藤進一「幕府論」(同著『日本中世史論集』、岩波書店、一九九〇年。初出一九四九年)、同「室町幕府論」(同書所収。初出一九六三年)等を参照。また「中世の日本に単一の国家機構があった、というのは、それほど明瞭な常識的事実に属するのであろうか。この前提自身、十分吟味してかかる必要がありはしないだろうか」という石井進の問いかけも、改めて受け止める必要があるのではないか(「日本中世国家論の諸問題」、『石井進著作集 第一巻 日本中世国家史の研究』、岩波書店、二〇〇四年。初出一九六四年)。
---------

ちなみに最後の石井進氏の論文、「日本中世国家論の諸問題」は「後深草院二条」サイトに載せています。
2001年(平成13)10月に石井氏が亡くなって、その翌月にアップしたものですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ishii-susumu-kaikototenbo-02.htm

石井進氏(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E9%80%B2_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)

丸島氏からは、

-------
なんつうか、サロン的な掲示板を作っていて、僕の本も色々議論してくれているんだけど、ほとんど「想像」上の空論なんだよね。研究史は勉強していない/する気がないのに、研究史を踏まえて議論したつもりになっているというか。前々から敬遠していたんだけど、嫌悪感しかない。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb

などと言われていますが、私も「国家論」に関しては研究史を全く知らない訳ではないので、一応、昔から興味だけは持っていたことを示す意味も込めてリンクしておきます。
それにしても丸島氏が把握していると称する「国家論」の研究史が全く日本国内に限定されており、しかも上限が1912年生まれ、1973年の病気以降は研究活動を実質的に行っていない石母田正というのは、かなり驚きですね。

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石母田正氏への奇妙に高い評価

2013-12-21 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月21日(土)21時41分32秒

『戦国大名武田氏の権力構造』の「序章 戦国大名研究の現状と本書の視角」から、「国家論」に関係する部分を、いささか長文ながらそのまま引用しておきます。(p4以下)

---------
 現代につながる戦国大名研究は、一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて行われた議論を出発点としている。これは戦国大名が、いかにして権力を獲得し、公権力化していったかを探る視角である。この議論は二つの方向から検討がなされたように思われる。ひとつは、大名権力の淵源を「守護公権」に求める視点であり、藤木久志氏や宮川満氏の手によって進められた(4)。しかしその後の研究により大きな影響を与えたのは、いまひとつの「戦国法」研究であるだろう。その嚆矢となったのは藤木久志・勝俣鎮夫両氏の研究であり、在地法のレベルでは対処できなくなった状況に対応するために、戦国法(分国法)が形成されていく過程が論じられた(5)。
 戦国法を、中世法全体の中で位置づけられたのが石母田正氏である。石母田氏は戦国法の制定権が戦国大名にあり、その認証をもって完結すること、数郡~数ヶ国にわたる各大名の支配地域において一般法としての地位を占めていること、大名権力が家産官僚制を組織していることなどを指摘された。そして各大名がキリスト教宣教師といった国外勢力から「国王」と見なされていたことなどをあわせて考察され、戦国期を国家主権が戦国諸大名に分裂した時代、戦国大名領国を「主権的な国家」と評価されたのである(6)。永原慶二氏も、こうした議論を踏まえて、戦国大名を日本における「下位国家」と把握し、その自立性を高く評価するようになる(7)。
 次いで勝俣氏は戦国大名を「分国における最高の主権者」「前代のあらゆる公権力の権力の効力を断ちきって、自己を最高とする大名の一元的支配権を確立」した存在と位置づけた(8)。勝俣氏は、戦国大名が自身を公儀化するための新しい支配理念として「国家」を創出したと評価され、その構成員として「国の百姓」を想定している。
 勝俣氏は国家について、主従制的支配権の客体としての「家」と、統治権的支配権の客体としての「国」の複合体と説明する(9)。戦国大名の用いる国家とは、いわゆる「日本国」ではなく、戦国大名領国を示しており、それは近世大名へと継承されていったもので、「地域国家」と位置づけられるものであったとしたのである。国そのものは国郡制の国を前提とはしているものの、地域的な共同意識(国共同体)が成立したとする。ここでは、戦国大名は「国民」に対する保護義務を負い、「国民」は国の平和と安全の維持に協力する義務を負うという双務的関係にあると位置づけられた。この後勝俣氏はこの論理を進めて、戦国大名の地域国家を、近代「国民国家」の萌芽と見通された(10)。
 勝俣氏の「国民国家」萌芽論は、大名滅亡の危機という非常時にのみ確認され、その上多くの制約を伴った民衆の軍事動員(11)を、戦国大名国家の一般的性質に拡大したものであるなど(12)、多くの問題を残す。特に大名側の一方的な支配論理主張(これはあくまで政治的フィクションに過ぎない)と、現実の政治状況が混同されている側面は軽視できない(13)。
 しかしながら、地域国家という理解については、一定の評価を得つつあるように思われる(14)。もともと中世史研究においては、列島全体を支配した統一国家という概念が無限定に適用できるかという議論が存在し、重層的な国家像が提示されてきた(15)。戦国大名を地域国家とみなす理解は、そのような研究史の延長線上に位置づけられるものといえる。
---------

私は史的唯物論の石母田正氏(1912-86)に対して全く何の敬意も親近感も抱いていないので、1977年生まれのまだ若い丸島氏が古くさい石母田の見解を紹介するに際し、一貫して敬語を使っているのが非常に奇異に感じられます。
引用部分では藤木・宮川・永原氏には一切敬語を用いず、勝俣氏についてはごく一部のみ敬語を用いてますね。
論文なのだから一切敬語を用いないのが一番すっきりするように思うのですが、丸島氏の対応はちょっと不思議な感じがします。

石母田正(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%AF%8D%E7%94%B0%E6%AD%A3
石母田正(マキペディア)
http://makipedia.jp/mediawiki/index.php?title=%E7%9F%B3%E6%AF%8D%E7%94%B0%E6%AD%A3

※追記(2015.8.18)
 本投稿を含むカテゴリーの中で、本投稿のみ特に頻繁に閲覧されているようですが、私の石母田正氏に対する評価は大きく変化していますので、他のより日時の新しい投稿や、カテゴリー「石母田正の父とその周辺」の投稿も見ていただけると幸いです。
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丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』

2013-12-21 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月21日(土)20時09分49秒

>筆綾丸さん
仙台のジュンク堂でパラパラ眺めてみたら、第10章に「武田家家臣三枝氏の家意識とその変遷」という論文が出ていたので、ちょっと躊躇った後、購入することにしました。
小説家の故・辻邦生の実家は山梨県春日居町で代々医者だったそうですが、辻家は古代から連綿と続く三枝一族だったことを誇りにしていたそうで、辻邦生は父の死を契機に先祖の歴史を知りたくなって、実家に大量に残されていた古文書を含め、相当本格的に調べたようです。
彼はその結果を『銀杏散りやまず』という小説、というかエッセイにまとめているのですが、一読したところ、やはり歴史に関する部分は素人くさくて、どうにももどかしい感じを受けました。
それから何となく三枝氏が気になっており、ちょうど良い機会なので読んでみることにしました。

辻邦生

「序章 戦国大名研究の現状と本書の視角」は筆綾丸さんが簡単に触れられた通りの内容で、まあ、こんなものなのだろうなという感じがしました。
やはり丸島氏には法制史の素養がないので、新田一郎氏の『中世に国家はあったか』を読んだ後だと、少なくとも「国家論」の部分に関してはガッカリ感が強いですね。
それにしても2004年に出ている『中世に国家はあったか』を本文はもとより注記でも引用していないのは少し妙な感じがしました。

『戦国大名武田氏の権力構造』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Air Force Two と 『 Rabbit, Run 』 2013/12/11(水) 14:33:13
小太郎さん
メリル・ニューマン氏が「幽閉」されたホテルは、もしかすると、私が滞在したのと同じかもしれません。二十数階建の大同江河岸のホテルで、ゴルフコース(9ホール)が隣接していて、宿泊客はすべて「外国人」、平壌市民には無縁の豪華なホテルでした(通訳と公安以外、平壌市民はアクセスできないようで、ある意味、「幽霊屋敷」なのかもしれない)。最上階のバーラウンジは閑散としていましたが、それでも、平壌の夜景を眺めることができました。一緒に行ったフランス人はフランス語の通訳と、ビールを飲みながら、ヴェトナムからの日本製中古車の輸入の話で盛り上がり、一台当たり、結構、いい金になるんだとかなんとか、言ってましたね。伝統的な朝鮮料理が、あのホテルのものだとすると、おそらく不味かったはずで、あの国で美味いのはビールだけだったような気がします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%AC%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB
ちなみに、この虚仮威しのホテルは私が行ったときのままで、 鴎外ではありませんが、まだ「普請中」なんですね。(倒潰するまで「普請中」なのかもしれない)

ご引用の Santa Cruz Sentinel にニューマン氏の Palo Alto の自宅前の写真がありますが、瓦の屋根や白壁は、韓半島風あるいは日本風の建物のようですね。サンタ・クルーズ周辺は、むかし、行ったことがありますが、あのあたりは、アメリカでも人生に成功した人が老後に住むところなんですね。ニューマン氏の退役時の階級がわかりませんが、相当な高官だったようにも思われます。
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Vice President Joe Biden, who was in South Korea to visit a war memorial in Seoul, spoke with Newman by phone Friday and offered him a ride home on Air Force Two.
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政治的な宣伝目的であれ、副大統領がエア・フォース・ツーに乗って帰らないか、などと気軽に言うとは、ちょっと考えられせんね。(「ワシントン経由は嫌で」北京ー桑港の直行便がいい、とニューマン氏が応じるのも、いかにもアメリカ的です)
日本であれば、死体にでもならないかぎり、政府専用機に庶民を乗せてくれることなど、まずありえないでしょうね。
バイデン氏が、防空識別圏の関係で慌ただしく日中韓を訪問しましたが、ニューマン氏の帰国が主目的で防空識別圏はついでだったのではないか、とすら思えてきます。「人質」解放に尽力したスウェーデンの駐韓(・駐北鮮)大使に御礼を申し上げ、スウェーデンに借りができたななどと思いながら、バイデン氏は帰って行ったのでしょうね。
色々なことを考えさせてくれたニューマン氏です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%AF
『走れウサギ』の「Updike」の up はなんとなく ap と同じように思われ、genealogy 的には先祖はウェールズなのかもしれませんね。(大工の倅すなわちキリスト?)

http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784215539
昨日、都内の所用の帰途、某書店の中世史コーナーに寄ると、丸島氏の『戦国大名武田氏の権力構造』があったので、序章を眺めてみました。「地域国家」を「主権的な国家」としたのは石母田正で、「地域国家」を「下位国家」としたのは永原慶二とありました。また、丸島氏は、「専門書」と「一般書」は全然違うと言ってますが、通読したかぎりでは、同じ文体で同じようなことしか書いてなくて、「地域国家」についての定義などは、「専門書」と「一般書」で瓜二つ、両者の差異がどこにあるのか、わかりませんでした。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/5/0029970.html
勝俣鎮夫氏の『戦国時代論』の関連領域を通読してみると、佐藤説を敷衍して、「地域国家」の国家とは、主従的制的支配権としての「家」と統治的支配権としての「国」の複合体である、というような記述がありました。
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新田一郎氏『中世に国家はあったか』

2013-12-18 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月18日(水)23時25分32秒

>筆綾丸さん
戦国時代の「国家論」に関する興味も消えかけていたのですが、たまたま新田一郎氏に『中世に国家はあったか』(山川出版社、日本史リブレット19、2004年)という著書があるのに気づき、入手して読んでみたら、私が知りたかったことが全て書いてありました。
後で少し引用してみます。

http://www.j.u-tokyo.ac.jp/about/kyoin/profile/nitta_i.html

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