投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月30日(火)21時16分58秒
次田香澄氏が「「くわいそ」は「楽所(がくそ)」(賀のときに舞楽を奏する所)の誤りか。一説に「荒序(くわうそ)」(秘曲の名)とする」と書かれているのを見て、「荒序(くわうそ)」はさすがに無理筋っぽいのでは、と思いましたが、これは玉井幸助・冨倉徳次郎氏の説でした。
冨倉氏の『とはずがたり』(筑摩書房、1969)の「巻二」補注18(p414)には、
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底本「しらかわ殿くわいそ」は玉井氏「くわうそ」の誤りと見て「荒序」を当て、「体源抄」の記事を証に引くのに従う。
「文永四年十一月七日御賀習礼、荒序、舞、兵部卿隆親卿息云々」(体源抄十三)
後嵯峨院の五十歳は実は文永六年に当るが繰り上げて文永五年に企画された。続史愚抄文永五年正月二十四日に、
「一院御賀<雖御年四十九可有五十賀者>試楽習礼於万里小路殿有之……」
文永四・五年間盛んに試楽が行なわれたが、本賀は蒙古使来朝の情勢のため停止された。ここに見える作者十歳のときとは文永四年の折で、十二月に富小路御所で内々賀の舞が行なわれたが(五代帝王物語)、それではなく、前記、体源抄記載の十一月七日がこれに当るかと思われ、増鏡に五年二月十七日富小路御所での試楽を記しつつ「この試楽よりさきなりしにや、内々白川殿にてこころみありしに」とあるのがそれであろう。
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とあり、『増鏡』の記述との関係もきちんと指摘されていますね。
ただ、白河殿の「くわいそ」ですから、これは「会所」と考えるのが自然で、三角洋一校注の『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』(岩波書店、1994)には、
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「会所(くわいしょ)」か。一説に「楽所(がくしょ)」「荒序(くわうじょ)」など。
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とあります。(p93)
「会所」で間違いないと思いますが、念のため、後で久保田淳氏の見解を確認してみるつもりです。
>筆綾丸さん
前回投稿の直前に筆綾丸さんが投稿されたのに気づいていませんでした。
失礼しました。
>「近江権守」
ウィキペディアで鷹司兼忠から鷹司兼平(1228-94)、近衛家実(1179-1243)、近衛基通(1160-1233)、近衛基実(1143-66)と遡ってみたところ、
兼平:十一歳で播磨権守
家実:十三歳で備前介、十四歳で美作権守
基通:十二歳で近江介、十六歳で美作権守
基実:九歳で近江介、十一歳で播磨権守
となっていますので、兼忠が異例な訳ではなく、むしろ家の慣例に従っているようですね。
この程度のことでも『公卿補任』で調べたらけっこう手間がかかりそうですが、ウィキペディアは便利ですね。
もちろん信頼性には留保がつきますが、当座の調べものにはありがたいツールです。
鷹司兼平(1228-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E5%B9%B3
>さらに退屈な「北山准后九十賀」
「後嵯峨院五十賀試楽」の退屈さに耐えて読み進んだ人の中でも、「巻十 老の波」の「北山准后九十賀」に至って、どうにも我慢できずに通読を断念した人もいたでしょうね。
須磨帰りならぬ北山帰りとでもいうべきでしょうか。
※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。
鼠入 2018/01/30(火) 12:52:54
小太郎さん
詰まらぬ話で恐縮ですが、浅原事件と言うと、四半世紀前の地下鉄サリン事件を思い出しますね。
ウィキの鷹司兼忠に関する記事に、「文永9年7月11日(1272年8月6日) - ? 近江権守」とあって、名門貴族にとって「近江権守」など経歴を汚す以外の何物でもないはずで、絶対有り得ない官職だと思いますが、『公卿補任』の鼠入でしょうか。
小太郎さん
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined33.3.html#paragraph3.5
「後嵯峨院五十賀試楽」と類似の場面を『源氏物語』に求めれば、六条院(光源氏)の四十賀を述べた第33帖「藤裏葉」の末尾になりますが(引用サイトの3.1.4 ~)、文体も語彙も似ている所が少なく、戸惑いますね。
『源氏物語』では、「藤裏葉」の後に、正編の中で最も優れている「若菜」が続きますが、「若菜」は六条院晩年の没落の序曲であり、直前の「藤裏葉」末尾のさりげなく簡潔な描写が心憎いほど効果的なんですね。
『増鏡』では、「後嵯峨院五十賀試楽」の後に、さらに退屈な「北山准后九十賀」が続きますが、『源氏物語』のようなフィクションとは違うのだ、という作者の意思のようなものを感じます。