不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)

2020-11-30 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月30日(月)11時22分4秒

続きです。(p35以下)

-------
鎌倉将軍府執権

 ここで鎌倉将軍府における直義の役割を、その発給した文書によって具体的に見ておこう。直義の確かな発給文書は北条時行の乱、すなわち中先代の乱の生起により鎌倉を一旦退去する建武二年(一三三五)七月までの約一年半の間に一〇数点が残っている。
 それらのなかでもっとも早いものは、上杉左近蔵人(頼成)に「大御厩」の管領を仰せ付ける元弘四年(一三三四)二月五日付の御教書(『上杉家文書』)である。「大御厩」とは鎌倉将軍府に設置された小侍所・政所・関東廂番などと同じ鎌倉幕府踏襲の役職で、その任免権を持った直義はまさに鎌倉執権であった。
 ほかの直義御教書をみると、鎌倉の大慈寺新釈迦堂・山内新阿弥陀堂の供僧職、右大将(源頼朝)家法華堂禅衆職、金沢称名寺・浄光明寺の住持職補任についてのものなどがあるが、それらはかつては鎌倉執権の発する関東御教書でなされていた。直義はこうした権限をそっくり継承したのである。
 また文書形式は御教書で、「任綸旨并牒」つまり後醍醐天皇綸旨と雑訴決断所牒(綸旨の施行)に任せて係争地相模国大友郷内の田地・屋敷を大友宗直に渡付せよと、直義が上杉左近蔵人(頼成)に命ずる内容の施行状も残っている(『詫間文書』)。これは直義の相模守護としての職権行使とみてよい。この文書は案文で差出書には「在御判」とあるだけだが、この「御判」が直義のものであることは右の理由から明らかである。
 御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある。建武元年四月一〇日付、三浦介時継法師(法名道海)に勲功賞として武蔵国大谷郷・相模国河内郷を宛行〔あてが〕うという内容のものがそれで、書き止めは「依仰下知如件」となっている(『葦名古文書』)。まさにかつての関東下知状さながらである。署判は「左馬頭」(花押)。
-------

いったん、ここで切ります。
森氏は前回投稿で引用した部分で「直義は新設の鎌倉将軍府の主帥に任ぜられた後醍醐天皇皇子成良親王を補佐する形で」(p34)とされ、ここでまた「主帥成良親王の仰せを奉ずる形で」とされていますが、「主帥」という用語は、少なくとも中世史では、史料用語としても講学上の分析概念としても、あまり聞かない表現ですね。
「コトバンク」に「精選版 日本国語大辞典」の解説が出ていますが、中世の用例はなさそうです。

-------
① 軍隊を統率するもの。主将。
※集義和書(1676頃)一四「帝堯の、天下の人の才知に主帥たる所は、人不知也。終に天下をも子に伝へずして賢にゆづり給ふは、遜譲の大なるもの也」 〔魏志‐東夷伝・韓〕
② 令制の軍団で、部隊長のこと。隊正(五〇人の隊長)・旅帥(一〇〇人の隊長)・校尉(二〇〇人の隊長)のこと。
※令義解(718)軍防「主帥以上。当色統領。不得参雑〈謂。主帥者。隊正以上挍尉以下也〉」
③ 行幸の際、天皇の護衛隊の隊長。五〇人以上の部隊の長。〔令義解(718)〕
④ 令制で衛府(衛門・衛士・兵衛など)の下級職員。〔令義解(718)〕
⑤ 左右馬寮の下級職員で官馬の飼育にあたる馬部のうち、当番の者。〔令義解(718)〕

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E5%B8%A5-528637

森氏は「鎌倉将軍府という言い方は当時の史料に登場する名辞ではないが、今日便宜的にこう呼んでいる」(p34)とされているので、「将軍」が不在なのだから「将軍」という表現は使えないし、かといって適当な用語も思い浮かばないので、悩んだ末に「主帥」という曖昧な表現を「便宜的に」使っているように感じられます。
しかし、「主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状」の書き止めが「依仰下知如件」となっていて、「まさにかつての関東下知状さながらである」ならば、仮にこの文書が発給された時点で成良が征夷大将軍だとすると、森氏の悩みは一瞬で解決しそうですね。
さて、もう少し続きを紹介します。(p36以下)

-------
 これらのほかに、直義領である相模国山内荘秋庭郷信濃村を建長寺正続院に寄進する内容の建武元年八月二九日寄進状もある(『円覚寺文書』)。
 このように鎌倉将軍府の執権に就任した直義の活動内容を子細に検討すると、右の桃崎の意見は首肯される。まさに鎌倉幕府の再現で、直義は鎌倉執権の地位にいたのである。京都に政権を樹立した後醍醐天皇にとっては鎌倉将軍府はあくまで地方統治のための出先機関にすぎなかったが、他方直義の側からみると、それは武家勢力の結集の核であって、第二の武家政権樹立の胎動がここから始まる必然性を有していたのである。そうした動きの底流には関東武士たちの建武政権に対する不平・不満と、これと裏腹の武家政権への回帰志向があったことはいうまでもない。その様子を『梅松論』は以下のように記している。

 ……然るに直義朝臣太守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩、是ニ帰服して京都には
 応ぜざりしかば、一統の御本意今におひてさらに其益なしと思食ければ、武家して又公家
 に恨をふくみ奉る輩は、頼朝朝のごとく天下を専らにせん事をいそがしく思へり。故に公
 と武家、水火の陣にて、元弘三年も暮にけれ。

 右の記事にみるように、当時の公武の関係を「水火の陣」(京都と鎌倉とが互いに相容れないこと)と的確に喝破している。みおとせないのはそれが直義の鎌倉到着と同時に実体化している事実である。
-------

ということで、森氏は桃崎説に全面的に賛成され、「まさに鎌倉幕府の再現で、直義は鎌倉執権の地位にいたのである」とされる訳ですね。
ただ、仮に「主帥」成良親王が「征夷大将軍」であったならば、直義の「執権」の地位と呼称も全く不自然ではなくなります。
また、阪田雄一氏の「陸奥・鎌倉両将軍府の成立」(佐藤博信編『中世東国の政治と経済』、岩田書院、2016)によれば、「鎌倉将軍府」は「中途半端な組織」で、「陸奥将軍府のような独立的組織」ではなく、「軍事的行動も守護を主体としていたことで将軍府自体には独自の軍事的組織がなかった」とのことで(p2)、どうも森氏が言われるような「武家勢力の結集の核であって、第二の武家政権樹立の胎動がここから始まる必然性を有していた」といった勇ましい組織ではなさそうです。
逆に後醍醐にしてみれば、実質的にそれほどの権限を与えず、「あくまで地方統治のための出先機関」に止めておくのであれば、成良親王を征夷大将軍に任じて、形式的には「鎌倉幕府の再現」を許してもよさそうです。
更に想像ないし妄想を逞しくすれば、鎌倉に下向した直義が、「関東武士たちの建武政権に対する不平・不満と、これと裏腹の武家政権への回帰志向」を認識し、やはり東国は統治が難しい地域であって、この野蛮な連中はかつての鎌倉幕府の伝統に縛られており、たとえ幼年の親王であろうと、トップが征夷大将軍でないと有難味を感じませんし、文書も将軍の権威を感じさせる鎌倉幕府の伝統に則ったものでないと喜びませんので、あくまで形式を整えるだけでけっこうですから、成良親王を征夷大将軍にしていただけませんか、と後醍醐に奏上すれば、後醍醐も、それもそうだな、地方の実情に応じて対応せねばいかんな、ということで了解してくれて、互いにウィンウィンの関係となることもありそうですね。
ま、これ以上は桃崎論文の検討を通じて論じてみたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「(鎌倉将軍府は)制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身」(by 森茂暁氏)

2020-11-30 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月30日(月)08時17分22秒

成良親王は征夷大将軍に就いたのか、就いたとしてその時期はいつか、という問題から次の課題、即ち、中先代の乱に際して尊氏が本当に征夷大将軍を望んだのか、という問題に移ると書いたばかりですが、やはり成良親王についてもう少し論じたいと思います。
前者を解明すれば後者も自ずから解答を得られるからです。
さて、北畠親房の『神皇正統記』は元弘三年(1333)の出来事として、

-------
同年冬十月に、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になしてつかはさる。【中略】同十二月左馬直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野太守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給(直義は高氏が弟なり)。
-------

と記し(岩佐正校注『神皇正統記』、岩波文庫、p171以下)、成良親王が征夷大将軍となった時期は明確にしないものの、その就任自体は肯定しています。
また、『梅松論』は、成良は鎌倉下向の時点で「征夷将軍」だとしています。
『太平記』より信頼性の高い両書が、時期はともかくとして、ともに成良の征夷大将軍就任を肯定している以上、就任自体は正しいものと考えてよいと思いますが、問題はその時期です。
この点、『相顕抄』に基づく建武二年(1335)八月一日説と『続史愚抄』に基づく建武元年(1334)十一月十四日説は、両書とも近世の編纂物であることから信頼性は乏しいと言わざるを得ません。
しかし、征夷大将軍就任が事実であれば、それは一次史料の古文書に反映されるはずです。
そこで、成良親王の下で直義が発給した文書から、その征夷大将軍就任時期を推定できないかを検討したいと思います。
といっても私は古文書の世界は全くの素人なので、最初に森茂暁氏の『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)から、いわゆる「鎌倉将軍府」期の直義発給文書の概要を把握したいと思います。
実は、この問題の解明に最も役に立つのは桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)という論文なのですが、同論文は若干難しいため、まずは森茂暁氏の見解、そして森氏の桃崎論文への評価を紹介しておきたいと思います。
森氏は「第一章 直義登場」の第二節「建武政権と足利直義」において、建武政権で「尊氏・直義兄弟は破格の厚遇をうけた」として、その官位昇進の様子を説明した後、次のように述べます。(p34以下)

-------
 この間の元弘三年十二月十四日、直義は新設の鎌倉将軍府の主帥に任ぜられた後醍醐天皇皇子成良親王を補佐する形で(その地位は室町期成立とされる「鎌倉大日記」<増補続史料大成51>では「執権」)、足利系の武将と軍勢を率いて鎌倉に下っている。鎌倉将軍府とは、鎌倉幕府の故地たる相模国の鎌倉に置かれた、関東地方統治のための建武政権の出先機関である。管轄する地域は「関東十か国」、つまり坂東八か国(相模・武蔵・下総・安房・常陸・上野・下野)と甲斐・伊豆である(「建武記」。元弘四年<建武元>正月)。
 鎌倉将軍府という言い方は当時の史料に登場する名辞ではないが、今日便宜的にこう呼んでいる。それは制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身ということになる。
 京都の建武政権が遠隔地たる関東地方を統治するにはこの地域に名声の高い足利氏の力を借りねばならなかったものと察せられる。足利尊氏の弟直義が成良親王を奉じて関東地方の中心都市鎌倉へ下向する様子、および鎌倉将軍府における執権直義の役割の重さについては、同時代史料たる『梅松論』が以下のように簡潔に描写している。

  大将軍〔足利尊氏〕の叡慮無双にして御昇進は申に不及、武蔵・相模、其外数ヶ国の守をもて、頼朝卿
  の例に任て御受領あり。次に関東へは同年〔元弘三〕の冬、成良親王征夷将軍として御下向なり。下
  の御所左馬頭殿〔足利直義〕供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩、大略属し奉て下向す。鎌倉は去夏の
  乱に地を払いしかども太守〔足利直義〕御座ありければ、庶民安堵の思ひをなしけり。

 近年桃崎有一郎は、鎌倉将軍府の構成や組織を検討して、その直義の流儀と支配権行使は鎌倉幕府の踏襲であるとし、直義は「後醍醐の意図を超えて建武政権内に幕府の再生を目論んだことは明らかである」と述べている(「建武政権論」『岩波講座日本歴史7』二〇一四年、六五頁)。
-------

いったん、ここで切ります。
森氏は「鎌倉将軍府」が「制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身ということになる」とされますが、桃崎氏の「鎌倉将軍府の構成や組織を検討して、その直義の流儀と支配権行使は鎌倉幕府の踏襲」という理解が正しいのであれば、むしろ「鎌倉将軍府」は「制度的にみると」鎌倉幕府の後身ではないかと思われます。
こう考えると、あまり信頼性が高いようにも思えなかった『相顕抄』「鎌倉将軍次第」の「頼朝卿・頼家卿・実朝公・二位家・頼経卿・頼嗣卿・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王・成良親王・義良親王」というリストも、それなりに一貫した歴史観の反映のようにも思えてきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成良親王についての一応の整理と次の課題

2020-11-28 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月28日(土)12時26分9秒

桃崎有一郎氏『室町の覇者足利義満』の成良親王に関する記述に疑問を持ったものの、コロナの影響ですぐに『大日本史料』を確認することができず、代わりに『続史愚抄』を覗いてみたところ、なかなか新鮮な指摘があったので、私も一時はすごい発見をしたかのように興奮していました。
しかし、冷静になって考えてみれば、近世の編纂物である『続史愚抄』が、秘められた歴史の真実を解きあかす究極の史料のはずがありません。
『続史愚抄』には、建武元年(1334)十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下。<鎌倉将軍次第作建武二年八月一日。〇紹運録、職原抄、梅松論、神皇正統記、鎌倉将軍次第。>」との記述がありますが、『相顕抄』と同一内容と思われる「鎌倉将軍次第」を除く四つの史料を見ても、この日に成良に征夷大将軍宣下があったとは書いていません。
もちろん私が見たのは容易に確認できる刊本だけなので、柳原紀光がそれらとは異なる写本を参照していた可能性はあるでしょうが、そのあたりは素人の私には全く手に負えない世界です。
他方、『相顕抄』もずいぶん奇妙な書物ですね。
『大日本史料 第六編之二』の建武二年八月一日条に「一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス」と断定的に書いてあるので、その典拠である『相顕抄』を確認してみたところ、南北朝初期の詳しい記述があるのかなと思ったら、太政大臣等の高位の職に就いた人の単なるリストでした。
しかも対象が古代から近世までという広く薄い史料であり、肝心な「鎌倉将軍次第」は最後の方に少し出ているだけです。
そして、その内容も、まるで守邦親王の後も鎌倉幕府が続いていて、成良・義良がその将軍であったかのように書かれており、ちょっとびっくりしました。

『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666

『相顕抄』がこの程度の史料なので、『大日本史料 第六編之二』の編集責任者である田中義成が『相顕抄』を根拠に「一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス」などと断定的に書いているのは相当に問題ですが、かといって『続史愚抄』を全面的に信頼することもできず、結局、成良が本当に征夷大将軍に任ぜられたのかを含め、今の私には判断する材料も能力もありません。
ま、これは今後の課題としたいと思いますが、成良を調べているうちに、私の関心は成良よりむしろ、中先代の乱に際して尊氏が本当に征夷大将軍を望んだのか、という問題に移ってきました。
この点、亀田俊和氏は『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)において、

-------
 尊氏が、弟直義を救援するために京都を出発したのは八月二日である(『梅松論』)。出陣に先立ち、尊氏は後醍醐に征夷大将軍と諸国惣追捕使へ任命されることを希望した。しかし後醍醐はこれを退け、代わりに征東将軍の称号を与えた。
 これも足利氏による武家政権樹立の意向表明とされているが、単に時行討伐を有利にするための権威づけを求めただけであろう。征夷大将軍なら、護良も鎌倉幕府滅亡直後に任命されたし、このときも尊氏の代わりに成良に与えられた。征夷大将軍の獲得は、ただちには幕府樹立や建武政権への謀反には直結しないのである。
-------

と述べられていて(p26)、尊氏が征夷大将軍を望んだことを前提としつつも、その意義については「足利氏による武家政権樹立の意向表明」とする従来の通説、即ち佐藤進一説と比べると極めて慎重、というか冷淡な評価をされています。
仮に『続史愚抄』の記述が事実であって、成良親王が鎌倉滞在中に征夷大将軍に任ぜられていたならば、尊氏・直義兄弟は既に身近に征夷大将軍を押さえていた訳ですから、尊氏自身が征夷大将軍を望む必要性は減じるので、亀田氏の立場を補強する材料になりそうです。
また、そもそも中先代の乱という緊急事態に際し、『太平記』第十三巻に描かれているように、尊氏が征夷大将軍という地位に固執したと考えるのは不自然ではなかろうか、という根本的な疑問も生じてきます。
そこで、尊氏が建武二年八月という時点で本当に征夷大将軍を望んだのかを少し検討してみたいと思います。
これは近時、呉座勇一氏や谷口雄太氏が論じておられるところの「『太平記』史観の克服」という課題にも通じるものと私は考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『相顕抄』を読んでみた。(その2)

2020-11-27 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月27日(金)11時05分35秒

『大日本史料 第六編之二』(明治三十四年発行、昭和四十三年覆刻、吉川弘文館)において、成良親王が建武二年(1335)八月一日に征夷大将軍になったことを明言する史料として唯一挙げられているのが『相顕抄』なので、私もこの史料に南北朝初期の詳しい記述があるのだろうなと期待して読み始めたのですが、太政大臣等の高位の職に就いた人のリストが延々と続き、しかも南北朝期で終わらず、元禄時代までという広範囲なので、ちょっとびっくりしました。
前回投稿で准大臣まで紹介しましたが、『相顕抄』の大分類は、

太政大臣
左大臣
右大臣
内大臣
准大臣
大将
非執政大臣賜兵仗
鎌倉将軍次第

となっていて、最後の最後(78コマ)にやっと成良親王が登場します。
念のため、そこまでの記載についても簡単に紹介しておくと、54コマからは「大将」(近衛大将)のリストで、これが71コマまで続き、最後は、

同輔実 貞享四三十三任

となっていて、これは九条輔実という人だそうです。
貞享四年は西暦だと1687年ですね。

近衛大将
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A7%E5%B0%86

72コマは空白で、73コマから75コマ(右面)まで「非執政大臣賜兵仗」リストとなり、最後の方は「義持・義教・義政・実淳」と続いて、一番最後は、

実淳 左大臣 長享三七八賜兵仗同十二月日
       辞

となっています。
これは徳大寺実淳で、長享三年は西暦だと1489年ですね。

徳大寺実淳(1445~1533)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E6%B7%B3

さて、75コマ(左面)からやっと「鎌倉将軍次第」となりますが、そこには「頼朝卿・頼家卿・実朝公・二位家・頼経卿・頼嗣卿・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王・成良親王・義良親王」と並んでいます。
「二位家」北条政子が「将軍」に挙げられている点も興味を惹きますが、何といっても変なのは、まるで守邦親王の後も鎌倉幕府が続いていて、成良・義良がその将軍であるかのように書いてあることですね。
その部分(78コマ)を引用してみます。

-------
成良親王 自元弘三年十二月至建武二年
     新院皇子御母准后廉子<従三位公廉卿女>
 元弘三十一廿立親王<八才>同十二月廿九着座鎌倉
 同四<改建武>正十三上野太守 建武二八一為征夷
 大将軍

<奥羽>
義良親王 新院皇子御母同鎌倉宮
 元弘三十廿御出京 同十一月廿九日着座多賀府
 建武元正廿三立親王<七才>

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005900#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-2472%2C-115%2C8014%2C2275

うーむ。
なんじゃこれ、と思わざるを得ないのですが(二回目)、まあ、確かに「建武二八一為征夷大将軍」という表現は存在しますね。
しかし、同じ近世の編纂物といっても、『続史愚抄』には出典が明記され、各出典間に異同があって、編者がその内のどれかを取った場合には、その判断も記されています。
それと比べると、出典など一切存在しない『相顕抄』はどこまで信頼できるのか。
『大日本史料 第六編之二』の編集責任者は田中義成だと思いますが、田中はこんな史料に基づいて「一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス」などと断言したのか。
謎は深まるばかりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『相顕抄』を読んでみた。(その1)

2020-11-27 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月27日(金)09時24分45秒

『相顕抄』なんて今まで聞いたこともなかったのですが、検索してみたところ、これは「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」で読めますね。

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005900#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-2472%2C-114%2C8014%2C2275

まず、書誌的事項を『国書総目録』で確認すると、第4巻p397に、

-------
相顕抄 しょうけんしょう 一冊
(類)補任
(写)京大(壬生家文書の内)(三部)・東大史料(尊経蔵本写)・彰考・尊経(山科言経写、相顕抄并中納言参議補任の内)・竜門(永禄一〇写)

https://kotenseki.nijl.ac.jp/page/kokusho.html

とあります。
そこで、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」を覗いてみると、見開きで80コマなので、160ページほどの冊子ですね。
表紙をめくって最初のページ(2コマ)を見ると、「太政大臣」の後に「大友皇子・高市皇子・道鏡禅師・従一藤良房・従一同基経・従一同忠平・従一同実頼・正二同伊尹・従一同兼通」の9名の名前・肩書・就任時期等が並んでいます。
この後、ずっと歴代太上大臣の名前がズラズラと並んで、南北朝時代で終わるのかなと思ったら、更に続いて7コマ目まで、合計83人の太政大臣が列挙されていますが、その最後から二番目は「従一藤前久」(近衛前久)、一番最後は「従一豊臣秀吉」ですね。
なんじゃこれ、と思って次の8コマを見ると、「左大臣」の後に、「阿倍倉橋麻呂・巨勢徳大臣・蘇我赤兄臣・多治比嶋・石上朝臣麿・長屋王・藤原武智麿・橘諸兄」の8名の名前等が並んでいます。
そして、この後、歴代左大臣のリストが17コマまで続き、一番最後は、

同基煕 延宝五十二八任 元右大
    元禄三正十三関白詔

となっています。
これは近衛基煕で、この人が左大臣から関白となった元禄三年は西暦だと1690年ですね。

近衛基煕(1648~1722)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E7%86%99

続く18コマは空白で、19コマを見ると、「右大臣」の後に「蘇我山田石川磨・大伴長徳連・蘇我連子臣・中臣金連・阿倍御主人・石上朝臣麿・藤原不比等・長屋王」の名前が並びます。
この後、歴代右大臣のリストが32コマまで続き、一番最後は、

同兼煕 天和三正十二 元内大

となっています。
これは鷹司兼煕で、この人が内大臣から右大臣になった天和三年は西暦だと1683年ですね。

鷹司兼煕(1660~1725)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E7%86%99

続く33コマは空白で、34コマを見ると、「内大臣」の後に「中臣鎌子連・藤原良継・同魚名・同高藤・同兼通・同道隆・同道兼」の7名の名前等が並びます。
この後、歴代内大臣のリストが49コマまで続き、最後は、

同家煕 貞享五二十六還任

です。
これは近衛家熙で、この人が内大臣還任となった貞享五年は西暦だと1688年ですね。

近衛家煕(1667~1736)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99

そして50コマが空白で、51コマから53コマまでは「准大臣」のリストであり、最後は、

同基福 貞享三五月 叙従一位
    十六日准大臣(読めず)
    宣下

ですね。
これは園基福(その・もとよし)という人だそうですが、聞いたこともありませんでした。

准大臣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E5%A4%A7%E8%87%A3
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)

2020-11-25 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月25日(水)18時46分28秒

昨日の投稿では桃崎有一郎氏『室町の覇者足利義満』の記述について、「桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です」などと息巻いてしまいましたが、これは『大日本史料』ですね。
私の場合、『大日本史料』は某大学図書館で閲覧できるのですが、コロナの関係でちょっと行きづらくなってしまっていて、代わりに何かないかなと考えて、『続史愚抄』を見て昨日の投稿となりました。
ただ、結果的には『大日本史料』を見ないまま色々考えたことが良かったようです。
というのは、『大日本史料』の記述にも少し問題がありそうだからです。
まず、『大日本史料 第六編之二』の建武二年八月一日条を見ると、

-------
一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス、

〔相顕抄<前田侯爵家本>〕<鎌倉将軍次第> 成良親王<自元弘三十二、至建武二年、>建武二八一、為征夷大将軍云々、

〔神皇正統記〕<後醍醐天皇> <〇上文、足利直義、成良親王ヲ奉ジテ鎌倉ニ赴キシコトヲ記セリ、元弘三年十二月十四日ノ条ニ収ム。>
此親王、<〇成良>後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ、

〔職原抄〕征夷大将軍一人、元弘一統之初、兵部卿護良親王暫任之、其後上野太守成良親王令兼之給、建武三年二月、被止其号畢、<〇号ヲ止メラレシコトハ、明年二月々末ニ本条アリ>

  〇是ヨリ先、親王出デゝ、鎌倉ニ鎮セラレ、執権以下ノ諸職ヲ補セラ
  レシモ、仍ホ上野太守ニテ在シゝガ、<元弘三年十二月十四日、建武元年正月十三日ノ条参看、>此ニ
  至リテ、遂ニ征夷大将軍ニ兼補セラレ給ヒシナリ、是時、尊氏自ラ東伐
  セントシテ、征夷大将軍タランコトヲ請ヒ奉リシモ、聴サレザルコト、
  二日ノ条ニ見ユ、参看スベシ、
-------

となっています。
『相顕抄』『神皇正統記』『職源抄』のうち、成良親王が建武二年(1335)八月一日に征夷大将軍になったことを明示するのは『相顕抄』だけで、北畠親房の『神皇正統記』は「後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ」、同じく北畠親房の『職原抄』は「建武三年二月、被止其号畢」と終期のみ記し、始期ははっきりしません。
とすると、『相顕抄』がどれだけ信頼できる史料なのかが問題となりますが、今の私には判断材料がないので、後日の課題とします。
『大日本史料』の編者はもちろん『続史愚抄』の存在を知っていて、他の箇所では引用していますが、成良親王の征夷大将軍任免に関しては『続史愚抄』の引用はありません。
そして、南北朝時代の研究者にとって、『続史愚抄』など所詮は近世の編纂物でしょうから、『大日本史料』で採用していないのにわざわざ見ようとする人は少ないでしょうね。
さて、『大日本史料』の編者が、この時、尊氏が征夷大将軍にしてくれと言ったけれども後醍醐の勅許はなかったことについては二日条を参照せよ、と書いているので、二日条を見ると、「前中納言従二位久我通定出家ス」関係の記事が少し、ついで「西園寺公宗、及ビ日野氏光、三善文衡ヲ誅ス」関係の記事が延々と続いた後、

-------
足利尊氏、自カラ往キテ北条時行ヲ伐タント請ヒ、且、征夷大将軍総追捕使タランンコトヲ望ム、未ダ許サズ、是日、命ヲ待タズシテ発ス、尋デ、尊氏ヲ征東将軍ニ補ス、

〔元弘日記裏書〕建武二年八月二日、尊氏卿出京、

〔武家年代記〕<下 裏書>今年七月先代一族、并諏訪祝、自信州令蜂起、打入鎌倉ノ間、足利源宰相家、蒙征夷将軍ノ宣旨、同八二進発、為凶徒追伐関東御下向、

〔神皇正統記〕<後醍醐天皇> 高氏ハ申うけて東国にむかひけるか、征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと、征東将軍<〇印本征夷ニ作レルハ誤レリ、>になされて、ことことくはゆるされず、<〇下文十一月十八日ノ条ニ収ム>

〔梅松論〕<〇前文七月二十二日ノ条ニ収ム> 扨関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依て、将軍<〇尊氏ヲ指ス、>御奏聞有けるは、関東にをいて、凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨、御申たひたひにをよふといへとも、勅許なき間、所詮私にあらす、天下の御為のよしを申し捨て、八月二日京を御出立あり、此比公家を背奉る人々、其数をしらす有しか、皆喜悦の眉をひらきて、御供申けり、三河の矢作<〇三河碧海郡>に御著有て、京都鎌倉の両大将御対面あり、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

〔太平記〕【中略】

〔保暦間記〕<〇前文七月二十五日ノ条ニ収ム、> 京都ノ騒動不斜、其時尊氏可罷向由仰ラル、直義打負テ落上ハ、申請テ可罷向由存候、但頼朝カ任例、征夷将軍ノ宣旨ヲ蒙ラント申ス処ニ、不叶シテ征夷<〇征夷ハ征東ノ誤リ、>将軍ノ官ヲ送ラル、無念ニ乍存、既ニ高氏<〇尊氏ニ作ルベシ>ハ発向シケリ、直義ニハ三河国ニシテ行合、共下向ス、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

〔保暦間記〕【中略】
〔難太平記〕【中略】
〔応仁記〕【中略】
〔源氏系図〕【中略】
〔吉野御事書案〕【中略】
〔室町家伝〕【中略】
〔石川系図〕【中略】

  〇尊氏ノ東下、諸書或ハ勅許ヲ得タリトセルモノアリ、今、梅松論ニ従
  ヒテ掲書ス、又、尊氏ノ征東将軍ニ補セラレシハ、九日ナレドモ、文連ナ
  ルヲ以テ、此ニ合叙ス、其征夷大将軍ニ補セラレシハ、南朝延元三年、北
  朝暦応二年八月十一日ニ在リ、諸書往々征夷征東ヲ混ゼルハ非ナリ、
  此後、尊氏連戦シテ、凶徒ヲ破リ、鎌倉ニ入ルコトハ、十八日ノ条ニ見ユ、
  参看スベシ、
-------

とあります。
編者が一番信頼したらしい『梅松論』には尊氏が征夷大将軍を望んだという記述はなく、『太平記』を除いて、尊氏が何らかの地位を望んだと記すのは、

『神皇正統記』:「征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと」
『保暦間記』:「頼朝カ任例、征夷将軍ノ宣旨ヲ蒙ラント申ス処ニ、不叶シテ征夷<〇征夷ハ征東ノ誤リ、>将軍ノ官ヲ送ラル、無念ニ乍存」

だけです。
『梅松論』が「直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨」云々と記すように、尊氏にしてみれば愛する弟が死ぬかもしれない緊急事態ですから、下向の勅許はともかく、その際にあれこれ官職を望むものなのか。
「征夷大将軍」の肩書に敵を撃退する魔法の力があればともかく、北条時行らの「凶徒」にそんな肩書は全く通用しないでしょうから、『太平記』が強調するところの「征夷大将軍」をめぐる尊氏と後醍醐の厳しい折衝は後付けの作り話ではなかろうか、という疑問を感じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その4)

2020-11-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月24日(火)11時02分45秒

※『大日本史料』を見ないで書いたので、最初の方で「桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です」などと頓珍漢なことを述べていますが、事情は次の投稿で説明しています。

『難太平記』評価の一環として、今川家関係者が青野原合戦でどのように描かれているかをざっと見るつもりだったのですが、成良親王はなかなか興味深い存在なので、もう少し寄り道を続けます。
私が成良親王を調べるきっかけとなったのは桃崎有一郎氏の『室町の覇者足利義満 朝廷と幕府はいかに統一されたのか』(ちくま新書、2020)です。

-------
足利一門大名に丸投げして創立された室町幕府では、南北朝の分断などに後押しされて一門大名の自立心が強すぎ、将軍の権力が確立できなかった。この事態を打開するために、奇策に打って出たのが足利義満である。彼は朝廷儀礼の奥義を極め、恫喝とジョークを駆使して朝廷を支配し、さらには天皇までも翻弄する。朝廷と幕府両方の頂点に立つ「室町殿」という新たな地位を生み出し、中世最大の実権を握った。しかし、常軌を逸した彼の構想は本人の死により道半ばとなり、息子たちが違う形で完成させてゆく。室町幕府の誕生から義満没後の室町殿の完成形までを見通して、足利氏最盛期の核心を描き出す。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072795/

同書には、

-------
成良親王は後に征夷大将軍になるが、それは約二年後に、京都に送り返された後である。(p26)

直義を救うため、尊氏は出陣の許可と征夷大将軍への任命を後醍醐に要請した。しかし後醍醐は却下し、京都に戻った成良親王を征夷大将軍にした。一〇歳の彼に将軍など務まらないが、「尊氏だけには与えない」というあてつけだ。(同)
-------

という指摘があったので出典を探したのですが、なかなか見つからず、『続史愚抄』に何か出ているかもと思って確認したところ、前回投稿で紹介したような記述があり、桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です。
『続史愚抄』は柳原紀光(1746~1800)を編者とする非常に詳細な年表のようなもので、本格的に成良親王を研究するには不充分ですが、その人生を概観するには便利ですね。
また、近世の公家の著作ですから、北朝を正統とする視角が一貫していて、北朝から見るとこの出来事はこんな風に見えるのか、といった新鮮な驚きを感じることもできます。

続史愚抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8F%B2%E6%84%9A%E6%8A%84

さて、前回投稿と若干重複しますが、『続史愚抄』によれば、建武元年(1334)十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」とのことで、後醍醐の意向で僅か九歳の成良が鎌倉に滞在したまま征夷大将軍に任ぜられます。
これがいつまで続くかというと、建武三年(1336)二月七日までですね。
この日、後醍醐は尊氏が摂津打出・豊島河原で正成・義貞に敗れたのを確認した後、「四品上野太守成良親王罷征夷大将軍<〇職原抄>」ということで、成良の征夷大将軍在任期間は一年二か月ほどとなります。
尊氏・直義の西走で後醍醐は一安心だったでしょうが、この後、九州へ逃げた足利軍は驚異の巻き返しに成功し、五月には湊川で楠木正成・新田義貞を破ります。
そして八月に尊氏の奏請で光明天皇が践祚し、十月に後醍醐が尊氏と和睦、十一月十四日、「新院第七皇子四品上野太守成良親王<御年十一。前征夷大将軍。母准后従三位藤原朝臣廉子。>冊為皇太子。」とのことで、光明天皇の皇太子に阿野廉子を母とする「新院」後醍醐の皇子、「前征夷大将軍」の成良親王が就きます。
まあ、北朝・南朝のねじれに加え、「前征夷大将軍」が天皇となる可能性が現実味を帯びていた訳ですから、何とも異例な人事との印象は否めず、尊氏・直義のあまりの強引さに不快感を抱いたのは必ずしも北朝関係者に限られないのではないか、と思われます。
さて、約九か月間のブランクを経て皇太子となった成良がいつまでその地位にあったかというと、建武四年(1337)四月一日までであり、その在任期間は四か月半ほどですね。
この間の事情を『続史愚抄』で概観すると、成良が皇太子となった翌月の十二月二十一日に「今夜。新院<後醍醐院。>窃帯三種神器。自花山院第幸大和路。自稲荷辺有赤雲燭幸路。侍従忠房及勾当内侍某等供奉云。」(『続史愚抄』)という事態となり、後醍醐と尊氏の束の間の和睦はあっさり破れます。
翌建武四年(1337)三月六日、「越前金崎城陥。執前坊恒良親王。中務卿尊良親王<南主第一皇子。母贈従三位藤原朝臣為子。御子左前大納言入道為世女。>自殺。<廿七歳云。未詳。>前大膳大夫行房朝臣。前越後守源義顕<前左中将義貞朝臣子。>已下数百人死之。」、そして同日「前坊恒良親王自越前入洛。<或作七日。不取。>故中務卿尊良親王首級到京師。僧智曜<後号疎石。字夢窓。>葬禅林寺云。」ということで、金崎城陥落、尊良親王自殺、前皇太子恒良親王帰洛との展開となります。
そして四月一日、「廃皇太子成良親王。<南主皇子。十二歳。或作去年十二月。謬矣。>而与前坊恒良親王幽入道前右大臣<家定。>花山院第。此日。内大臣<経通。>罷皇太子傅。<春宮坊補任、公卿補任、諸家伝、紹運録、類本太平記、或記<南>」とあります。
「南主皇子」の成良親王(十二歳)が皇太子を廃され、前皇太子で越前金崎城から連れ戻された恒良親王と一緒に花山院家定邸に幽閉された、とのことですが、同日、皇太子傅・一条経通が罷免されているので、廃皇太子は事実と思われます。
しかし、成良が恒良と一緒に花山院邸に幽閉された、という点はどうなのか。
この出典が『太平記』だけであればどうにも疑わしく、もう少し調べる必要がありそうです。

一条経通(1317~65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E7%B5%8C%E9%80%9A
花山院家定(1283~1342)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E5%AE%9A
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その3)

2020-11-22 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月22日(日)18時28分59秒

成良親王は西源院本『太平記』に二回しか登場しませんが、最初は第十三巻第四節「中先代の事」です。(兵藤校注『太平記(二)』、p321)

-------
 今、天下一統に帰して、寰中〔かんちゅう〕無事なりと云へども、朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪〔あ〕しかりぬべしとて、当今〔とうぎん〕第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。
-------

前回投稿で引用した第十九巻第四節では「連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮」でしたが、ここでは何故か「第八宮」になっていますね。
ま、それはともかく、『太平記』には成良が足利直義に伴われて鎌倉に下った年次は記載されていませんが、これは元弘三年(1333)十二月で、このとき成良は僅か八歳の無品親王です。
そして、翌建武元年十月二十二日、尊氏と対立していた「征夷大将軍二品兵部卿護良親王」が後醍醐の命令で逮捕され、同日、征夷大将軍の地位を剥奪されると、翌十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」(国史大系『続史愚抄 前篇』、吉川弘文館)とのことで、九歳の成良が鎌倉に滞在したまま征夷大将軍に任ぜられます。
更に翌十五日には「流二品護良親王于鎌倉」(同)とのことなので、この一連の措置は、例え前官であろうと護良親王が「征夷大将軍」の権威を帯びて鎌倉に入るのを許さない、という意思表示のようですね。
さて、成良が「征夷大将軍」となった翌建武二年(1335)六月に西園寺公宗の陰謀が発覚し、続いて七月には北条高時の遺児・時行が信濃から鎌倉に攻め込んできます。(兵藤校注『太平記(二)』、p321以下)

-------
 かかる処に、西園寺大納言公宗の陰謀露顕して誅せられ給ひし時、京都にて旗を挙げんと企つる平家の余類ども、皆東国、北国に逃げ下つて、なお素懐を達せんと謀る。【中略】
 時行、その勢を率して五万余騎、俄かに信濃より起こつて、時日〔ときひ〕を替へず鎌倉に攻め上るに、渋川刑部大夫、小山判官秀朝、武蔵国に出で合ひて支へんとしけるが、戦ひに利無くして、渋川と小山判官秀朝、ともに自害しければ、郎従三百余人、同所にして皆討たれにけり。また、新田四郎が上野国蕪川〔かぶらがわ〕にて支へてこれを防きけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力〔せいりき〕を摧〔くだ〕かれて、二百余人討たれにけり。
 その後、時行、いよいよ大勢になつて、三方より鎌倉へ押し寄する。直義朝臣は、事の急なる上、折節、用意の兵少なかりしかば、「なかなか戦ひては、敵に利を付けつべし」とて、将軍宮を具足し奉つて、建武二年七月二十六日の暁天に、鎌倉をぞ落ちられけり。
-------

この鎌倉逃亡の際、直義が淵野辺義博に命じて「前征夷大将軍二品護良親王」を殺害したことは有名ですが、「征夷大将軍成良親王」は直義に護られて鎌倉を脱出します。
そして直義は後醍醐の制止を無視して東下した尊氏と三河で合流し、反転して時行から鎌倉を奪還しますが、成良は鎌倉には戻らず、八月三日、「征夷大将軍成良親王自鎌倉帰洛。大江時古<相模守直義朝臣家人>守護云<〇元弘記裏書、南方紀伝、五大成>」(『続史愚抄』)とのことで、成良は京都で直義の家人・大江時古の保護下に置かれます。
この後の軍事・政治情勢の変転は目まぐるしく、十月、尊氏は後醍醐の召喚命令を拒否し、十一月、直義は新田義貞討伐を号して諸国の兵を募り、義貞は後醍醐の命を受けて鎌倉に向かうも、十二月、箱根竹下で敗れます。
足利軍は敗走する義貞を追って西上しますが、陸奥の北畠顕家はその足利軍を追撃し、翌建武三年(1336)正月、義貞・顕家は足利軍を破って入京、更に翌二月六日、足利軍は摂津打出・豊島河原で義貞・楠木正成に敗れます。
そして、翌七日、「自山門<坂本歟。>内侍所渡御花山院仮皇居。今日。官軍重討破足利前宰相尊氏。於湊川」、更に同日「四品上野太守成良親王罷征夷大将軍<〇職原抄>」(『続史愚抄』)とのことで、叡山から花山院仮皇居に移った後醍醐は征夷大将軍成良親王を更迭します。
足利軍の没落が確実と見えたから、これでやっと安心して尊氏・直義に近い成良親王を罷免できるとの判断だったのか、あるいはもっと早く罷免したかったけれど、後醍醐もいろいろ忙しかったのでこの日まで延びたのかは分かりませんが、とにかく成良親王と尊氏・直義の関係は密接ですね。
さて、尊氏は遠く九州まで落ちて行きますが、三月、多々良浜で菊池武敏を破り、四月に東上開始、五月に義貞・正成を湊川で破ります。
そして八月、尊氏の奏請で北朝の豊仁親王(光明天皇)が即位しますが、叡山で頑張っていた後醍醐も十月に尊氏と和睦し、十一月二日、「自花山院殿<先帝御座。>被渡剣璽内侍所等<兼各被作置偽物云。>于東寺仮皇居。此日。被献太上天皇尊号于先帝。」(『続史愚抄』)となります。
ついで同月十四日、「新院第七皇子四品上野太守成良親王<御年十一。前征夷大将軍。母准后従三位藤原朝臣廉子。>冊為皇太子。」(同)とのことで、北朝の天皇の皇太子に後醍醐天皇の皇子で「前征夷大将軍」の成良親王が就きます。
何とも不思議に思えるこの人事は今まであまり注目されていませんでしたが、亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、若干の分析をされていますね。
ただ、亀田氏も成良が「前征夷大将軍」であることには触れられていません。

「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d9df0c885a87bff89426d3b64d452ef
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その2)

2020-11-21 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月21日(土)13時03分16秒

第十九巻の第一節から第三節まで見て、『太平記』の作者が設定する年次は本当にいい加減で、改元の年すら間違っている上、重祚していない光厳院は重祚したことにされ、尊氏・直義の経歴は間違いだらけ、しかも直義が「日本〔ひのもと〕の将軍」になったという訳の分からない記述まであることを確認しました。
兵藤裕己氏は『太平記』の作者に「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」があったと言われますが、事実を正確に記録しようとする態度に乏しい『太平記』の作者にそんなものが本当にあったのか。
私自身は、『太平記』全巻を通じて「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」を感じたことは一度もないので、兵藤氏が論じている『太平記』はどこのパラレルワールドに存在しているのだろうかと疑問を感じるほどです。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その10)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61a0b004c656b87b9a80b4ab5225644
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

さて、第四節「金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事」も、『太平記』の作者に「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」が全然ないことを示す好例のように思われるので、丁寧に紹介してみます。(兵藤校注『太平記(三)』、p315以下)

-------
 新田義貞、義助、杣山より打ち出で、尾張守、伊予守、府中その外〔ほか〕所々落とされぬと聞こえければ、尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて、「この事はひとへに、東宮の宮の、かれらを御扶〔おんたす〕けあらんとて、金崎にて皆腹を切りたりと仰せられけるを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差し下しつるによつてなり。この宮、これ程に当家を失はんと思し召しけるを知らで、ただ置き奉らば、いかさま不思議の御企てもありぬと覚ゆれば、ひそかに鴆毒〔ちんどく〕をまゐらせて失い奉れ」と、粟飯原〔あいばら〕下総守氏光に下知せられける。
 東宮は、連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮と、一つ御所に押し籠められて御座ありける処へ、氏光、薬を一裹〔つつ〕み持参して、「いつとなくかやうに打ち籠りて御座候へば、病気なんどの萌〔きざ〕す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候。毎朝に一七日〔ひとなぬか〕の間聞こし召し候へ」とて、御前にぞ差し置かれける。
-------

いったん、ここで切ります。
建武四年(1337)三月、金埼城が落ち、尊良親王は自害しますが、「東宮」恒良親王は京都に連れ戻されます。
第十八巻第十節「東宮還御の事」では、「金埼にて討死、自害の頸八百五十四取り並べて、実検せられけるに、新田の一族の頸には、越後守義顕、里見大炊助義氏の頸ばかりあつて、義貞、義助二人の頸はなかりけり」という状況で、「足利尾張守」斯波高経が恒良親王に、「義貞、義助二人が死骸、いづくにあるとも見え候はぬは、何となつて候ひけるやらん」と聞いたところ、恒良親王は「御幼稚の御心にも、かの人々杣山にありと敵に知らせなば、やがてこれより寄する事もこそあれ」と思って、「義貞、義助二人は、昨日の暮れ程に自害したりしを、手の者どもが、役所の中にて、火葬にすると曰ひ沙汰せし」と答えたので、斯波高経はその答えに騙されて二人の追及を止めた、とあります。(p254以下)
足利尊氏と直義は、「これ程に当家を失はんと思し召しける」恒良親王を放置できないと考えて、鴆毒を用いて毒殺することを粟飯原氏光に命じ、「将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮」成良親王と二人纏めて毒殺しようとしますが、その毒は「三条殿」即ち直義が「調進」したことが明言されています。

-------
 氏光罷り帰つて後、将軍宮、この薬を御覧ぜられて仰せられけるは、「病の未だ見えぬ前に、かねて療治を加ふる程に、われらをいたはしく思ふならば、この一室の中に押し籠めて、朝暮〔ちょうぼ〕物を思はすべしや。これ必ず病を治〔じ〕する薬にはあるべからず。ただ命を縮〔しじ〕むる毒なるべし」とて、庭に打ち捨てんとせさせ給ひけるを、東宮、御手に取らせ給ひて、「そもそも尊氏、直義等、それ程に情けなき所存を挟〔さしはさ〕むものならば、たとひこの薬を飲まずとも、遁るべき命にても候はず。これ元来〔もとより〕願ふ所の成就なり。ただこの毒を飲んで、世を早くせばやとこそ思ひ候へ。「それ人間の習ひ、一日一夜を経〔ふ〕る程に、八億四千の思ひあり」と云へり。富貴栄花の人に於て、なほこの苦しみを遁れず。況んや、われら籠鳥〔ろうちょう〕の雲を恋ひ、涸魚〔かくぎょ〕の水を求むる如くになつて、聞くに付け見るに随ふ悲しみの中に、待つ事もなき月日を送らんよりは、命を鴆毒のために縮めて、後生善処〔ごしょうぜんしょ〕の望みを達せんには如〔し〕かじ」と仰せられて、毎日に法華経を一部あそばされて、この鴆毒をぞまゐりける。将軍宮、これを御覧じて、「誰とても浮世に心を留むべきにあらず。同じ暗き路に迷はん後世〔ごせ〕までも、御供申さんこそ本意〔ほい〕なれ」とて、もろともにこの毒を七日までぞまゐりける。
 やがて東宮は、その翌日〔つぎのひ〕より御心地〔おんここち〕例に違〔たが〕はせ給ひけるが、御終焉の儀閑〔しず〕まりて、四月十三日の暮程に、忽ちに御隠れありてけり。将軍宮は、二十日余りまで恙〔つつが〕もなくて御座ありけるが、黄疸〔おうだん〕と云ふ御労〔おんいたわ〕り出で来て、御遍身〔ごへんしん〕黄にならせ給ひて、これもつひにはかなくならせ給ひにけり。
 あはれなるかな。尸鳩樹頭〔しきゅうじゅとう〕の花、連枝一朝〔れんしいっちょう〕の雨に随ひ、悲しいかな、鶺鴒原上〔せきれいげんじょう〕の草、同根〔どうこん〕忽ちに三秋〔さんしゅう〕の霜に枯れぬる事を。去々年、兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は、中務卿親王御自害ありぬ。これらをこそ、例〔ためし〕少なくあはれなる事に聞く人心を傷〔いた〕ましめつるに、今また、東宮、将軍宮、同時に御隠れありぬれば、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人ごとに、悲しまずと云ふ事なし。
-------

ということで、「東宮」恒良親王と「将軍の宮」成良親王は、直義が「調進」した鴆毒を、それと承知で七日間飲み続け、結局二人とも死んでしまったのだそうです。
しかし、少なくとも成良親王は康永三年(1343)まで生存していたことが確実で、恒良親王についても、この時期に死去したことが他の史料で裏付けられる訳ではなく、この毒殺記事の信頼性は相当に疑問です。
そして、この同母兄弟が鴆毒で毒殺されたとする記事は、観応二年(1352)二月、尊氏に敗北して鎌倉に幽閉されていた直義が鴆毒で毒殺されたとの話を連想させます。
この点、次の投稿でもう少し検討します。

恒良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
成良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その1)

2020-11-20 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月20日(金)11時18分43秒

それでは青野原合戦から見て行きたいと思います。
ただ、『難太平記』の「建武四年〔1337〕やらん。康永元年〔1342〕やらんに」という曖昧な記述との関係で、いきなり合戦の場面ではなく、年次に関係する部分も確認しておきます。
さて、青野原合戦は第十九巻に出ていますが、同巻の構成は、

1 光厳院殿重祚の御事
2 本朝将軍兄弟を補任するその例なき事
3 義貞越前府城を攻め落とさるる事
4 金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事
5 諸国宮方蜂起の事
6 相模次郎時行勅免の事
7 奥州国司顕家卿上洛の事、付新田徳寿丸上洛の事
8 桃井坂東勢奥州勢の跡を追つて道々合戦の事
9 青野原合戦の事
10 嚢砂背水の陣の事

となっています。
第一節のタイトル「光厳院殿重祚の御事」は何とも妙な感じですが、冒頭を少し見ておきます。(兵藤校注『太平記(三)』、p303以下)

-------
 建武四年六月十日、光厳院太上天皇、重祚の御位に即かせ賜ふ。この君は、故相模入道崇鑑が亡びし時、御位に即けまゐらせたりしが、三年の内に天下反覆して、関東亡びはてしかば、その例いかがあるべからんと、諸人異儀多かりけれども、この将軍尊氏卿筑紫より攻め上り給ひし時、院宣をなされしもこの君なり。今また東寺へ潜幸なりて、武家に威を加へられしもこの御事なれば、いかでかその天恩を報じ申さぬ事なかるべきとて、尊氏卿平〔ひら〕に計らひ申されける上は、末座の異見、再往の沙汰に及ばず。
 されば、その比〔ころ〕、物にも覚えぬ田舎者ども、茶の会、酒宴の砌にては、そぞろごとなる物語しけるにも、「あはれ、この持明院殿ほど大果報の人こそおはしまさざりけれ。軍〔いくさ〕の一度をもし給はで、将軍より王位を給はらせ給ひたり」と、申し沙汰しけるこそ、をかしけれ。
-------

このように第十九巻は建武四年(1337)六月に始まります。
しかし、この記事の内容は相当変で、そもそも光厳院が重祚した史実はありません。

光厳天皇(1313~64)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

兵藤氏の脚注によれば、「建武三年八月の光明帝(豊仁親王。光厳院の弟で猶子)の践祚にともなう光厳院の院政を重祚としたものか(「梅松論」も光厳院「重祚」とする)」とのことですが、ともかく西源院本の第十九巻は建武四年六月に始まります。
そして、続く第二節「本朝将軍兄弟を補任するその例なき事」も、タイトルからして奇妙です。(p304以下)

-------
 同じき年十月三日、改元あつて、暦応に移る。その霜月五日の除目に、足利宰相尊氏、上首十一人を越え、正三位に上がり、大納言に遷つて、征夷大将軍に備はり給ふ。舎弟左馬頭直義は、五人を超越して、位〔くらい〕従上四品に叙し、官〔つかさ〕宰相に任じて、日本〔ひのもと〕の将軍になり給ふ。
-------

まず年次ですが、暦応への改元は「同じき年十月三日」ではなく、翌建武五年(1338)八月の出来事です。
また、尊氏は建武元年に正三位参議、同二年に従二位、同三年に権大納言、同五年(暦応元)八月に正二位、そして征夷大将軍ですから、「その霜月五日の除目に、足利宰相尊氏、上首十一人を越え、正三位に上がり、大納言に遷つて、征夷大将軍に備はり給ふ」は全部間違いです。

足利尊氏(1305~58)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F

直義の場合、確かに暦応元年八月に従四位上左兵衛督となっていますが、宰相(参議)任官の事実はなく、「日本〔ひのもと〕の将軍」も意味が分かりません。
この後、「それわが朝に将軍を置きし首〔はじめ〕は」云々と将軍に関する蘊蓄が語られるのですが、そもそも直義は「将軍」ではないので、第二節の「本朝将軍兄弟を補任するその例なき事」というタイトル自体意味不明です。

足利直義(1306~52)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9

ま、それはともかく、第三節「義貞越前府城を攻め落とさるる事」に入ると、金崎城没落の後、「杣山の麓、瓜生が館」で逼塞していた「左中将義貞朝臣、舎弟脇屋右衛門佐義助」が「国々所々に隠れ居たる敗軍の兵を集めて」、「馬、物具なんどこそきらきらしくはなけれども、心ばかりはいかなる樊噲〔はんかい〕、周勃〔しゅうぼつ〕にも劣らじと思ひける義心金鉄の兵ども、三千余騎になりにけり」(p306)という事態になります。
これを聞いた京都では、「将軍より、足利尾張守高経、舎弟伊予守二人を大将として、北陸道七ヶ国の勢六千余騎を差し添へて、越前府へぞ下されける」(p307)と対応しますが、加賀でも「宮方」が蜂起して越前と連動し、斯波高経は芳しい戦果を挙げることができません。
そして、冬場は雪のために互いに身動きが取れず、小競り合いに終始しますが、「さる程に、あらたまの年立ちかへつて、二月中旬にもなりければ、余寒も漸く退きて」(p309)、新田義貞・脇屋義助の活動が活発になり、越前府中をめぐる激しい攻防戦の末、斯波高経は敗北・逃亡してしまいます。
ところで、何とも奇妙なのは年次です。
「さる程に、あらたまの年立ちかへつて、二月中旬にもなりければ、余寒も漸く退きて」とあるので、素直に読むと、年明け以降の一連の出来事は暦応二年(1339)の話となりますが、史実ではこれらは暦応元年の出来事です。
ということで、青野原合戦に至るまでの西源院本『太平記』の年次はかなりいい加減であり、仮に今川了俊が西源院本『太平記』を持っていて、それを確認しつつ『難太平記』を書いたとしても、青野原合戦を建武四年(1337)の出来事と間違う可能性はありそうです。
しかし、いくら何でも康永元年(1342)と間違うことはないはずで、結局、了俊は手元に『太平記』を置いておらず、あくまで自分の記憶の中の『太平記』を語っているのだろう、と私は推測します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今川了俊が見た『太平記』

2020-11-19 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月19日(木)11時07分50秒

先に兵藤裕己・呉座勇一氏の対談を検討した際には引用しませんでしたが、この対談では『太平記』の成立過程について、次のようなやり取りがあります。(『アナホリッシュ国文学』第8号、p28以下)

-------
兵藤 つぎの段階は、『難太平記』に「後に中絶なり」とあるように、直義周辺での改訂作業が中断したことです。中断の原因は、貞和五年(一三四九)に直義が失脚したことでしょう。直義のこの失脚事件を、『太平記』は巻二十七に記します。このことからも、直義周辺で改訂された『太平記』は、「三十余巻」ではなくて「二十余巻」であって、その改訂作業は観応の擾乱で「中絶」したとみるのが自然です。
 直義周辺で改訂された『太平記』の前半部に、後半部(第三部)が書き継がれたのが、第三段階です。『難太平記』に「近代重ねて書き継げり」とありますが、『難太平記』が書かれたのは応永九年(一四〇二)ですから、「重ねて書き継」がれた「近代」とは、三代将軍義満の時代です。
 足利義満の時代に現存する四〇巻までが書き継がれたわけですが、『難太平記』によれば、その際、「ついでに入筆ども多く所望して書かせければ、人の高名、数を知らず」とあります。足利方の大名が、自分たちの「高名」の書き入れを「数を知らず」「所望」したわけです。今川了俊の『難太平記』も、今川氏の「高名」書き入れ要求の書物という面がありますね。

呉座 そうなりますよね。自分の父親である範国をはじめとする今川一族がこんなに手柄を立てたのに、『太平記』には書かれていない。そのこと自体を書き残しておく必要が今川了俊にはあった。
-------

この後、兵藤氏が「足利方大名が「高名」の書き入れを要求したのは……」と応じますが、その部分は既に引用済みです。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236

兵藤説に従うと、足利直義周辺での改訂作業が直義失脚により「中断」した後、『難太平記』が書かれた応永九年(1402)年まで、即ち「三代将軍義満の時代」まで実に半世紀以上も「書き継」き作業がダラダラ続き、その間、足利方大名による「高名」の書き入れ要求もダラダラ続いたことになります。
そして、「三代将軍義満の時代」に『太平記』の編集作業が完結したのかというと、兵藤氏は、

-------
オーセンティック(真正)な原本、権威あるオリジナルが不在のまま、『太平記』の編纂事業は放棄された、未完のまま放置されたことに関係すると思います。なんらかの政治的理由で削除された巻二十二の欠が補訂されない、未完の草稿本のようなテクストが残された。テクストの真正性を担保するオリジナル(原本)が不在のまま、転写と改訂がくり返され、新たに生まれた本も互いに影響し合って新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた結果だと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc06c6a477e7273102fc2816e5682446

などと言われていて、「三代将軍義満の時代」以降のどこかの時点で「『太平記』の編纂事業は放棄」され、「未完のまま放置」されたけれども、その後も「転写と改訂がくり返され」、「新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた」のだそうです。
うーむ。
まあ、出発点である『難太平記』のあらゆる表現を素直に受け止めて、更に論理を積み上げて行けばこのような境地に至るのかもしれませんが、正直、「講釈師見てきたような嘘を言い」という印象を禁じ得ません。
和田琢磨氏が強調されるように、『難太平記』の「六波羅合戦記事が『太平記』の作者・成立に関する貴重な情報を具体的に伝える唯一の資料」なので、ここの解釈を誤ると、とんでもない方向に彷徨ってしまうことになります。
私には、兵藤説はまさにそうしたトンデモの限界を極めた学説なのではないかと思われます。

和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d91b38bb8daf4d395033ffc3fc7c0702

さて、『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事を自分なりに丁寧に検討してみた結果、私としては、了俊が見た『太平記』は現存の古本系の写本とそれほど違っていないのではないか、という印象を受けています。
『太平記』の諸本のうち、最古の写本である永和本について、兵藤氏は、

-------
 永和本は、古本系の巻三十二に相当する巻だけが伝わる『太平記』の零本(本文の一部だけが伝わる端本)である。紙背に記された『穐夜長〔あきのよなが〕物語』の末尾に、永和三年(一三七七)二月の書写年次があり、そのおもてに書写された『太平記』巻三十二(に相当する巻)が、それ以前の書写であることはたしかである。すなわち、永和本の下限は、永和三年二月であり、それは『太平記』の末尾、巻四十「細川右馬頭西国より上洛の事」の年時貞治六年(一三六七)十二月から九年後であり、『洞院公定日記』で「太平記作者」「小嶋法師」が死去したとされる応安七年(一三七四)四月からは三年たらずである。零本ではあっても、『太平記』の成立直後ないしは当時の写本として貴重である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/08cde34f6467b40fc5afb2c868f48b53

と言われていますが、古本系の巻三十二が扱っているのは観応三年(1352)八月、後光厳天皇が三種の神器のないまま践祚した後、京都をめぐる目まぐるしい争奪戦を経て、南朝方の足利直冬が京都から没落する文和四年(1355)三月までです。
従って永和三年(1377)に巻三十二まで出来ていることは確定していますが、残りの八巻も次々に生ずる紛争を概ね時系列に従って描写しているだけなので、永和三年の時点で全て完成していたとしても不思議ではありません。
私としては、義満が独裁的な権力を振るい始める前に『太平記』は既に完成していて、以後は多少の改訂があった程度であり、従って了俊が見た『太平記』は現在の古本系と大体同じようなものと考えています。
そして、例の「降参」を除けば、そう考えても『難太平記』の記述と矛盾はしないであろうことを、西源院本の青野原合戦と細川清氏没落記事に即して、少し検討してみたいと思います。
まあ、所詮は印象論で終わってしまう程度の話かもしれませんが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その7)

2020-11-18 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月18日(水)12時49分6秒

「15.青野原合戦事」の冒頭、暦応元年(1338)一月に起きた青野原合戦を、今川了俊が「建武四年〔1337〕やらん。康永元年〔1342〕やらんに」という具合いに二つとも間違えている点、特に注目している研究者はいないようですが、私はこれはけっこう重要な問題ではなかろうかと思います。
というのは、この誤解は了俊が手元に『太平記』を置いて、その記載を確認しつつ意見を述べているのではなく、あくまで自分の記憶の中の『太平記』を語っていることを示唆しているからですね。
実は青野原合戦あたりの『太平記』の記述は、個々の事件の発生年次についてはけっこういい加減で、手元に置いていても建武四年(1337)と間違う可能性はありそうです。
しかし、いくら何でも康永元年(1342)と間違うことは考えにくくて、了俊は自分の記憶の中の『太平記』を語っており、そしてそれは一番重要な足利尊氏の「降伏」についても同様なのだろうと思います。
この点は後で改めて論じるつもりです。
さて、『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事の最後、「18.範国欲使貞世刺清氏事」に移ります。

-------
 細川相模守御不審の時。故入道殿随分奉公忠節人に越給ひしかども。彼太平記には只新熊野に入御とばかり書たるにや。其時の事は既及御大事べかりける間。右御所にひそかに故入道殿申給ひて。貞世は清氏に無内外申承者也。かれをめし上せて清氏に差ちがへさせらば。御大事にも及べからず。人をもあまたうしなはるべからずと申請給ひて。其時は我等遠州に有しを。以飛脚めし上せ給ひしかば。参川の山中まで上りしに。清氏若狭国に落けるとて重て飛脚下き。上着の時こそかかる御用にめされつるとは語給ひしか。言語道断の事なりき。此事を故殿申請給ひける故に。清氏野心の事は無実たる間。歎申さむために越州直世を清氏内々よびけるを依怖畏まからざりける時。貞世在京あらばさりとも可来物をと清氏楽所の信秋に申けると聞て。思ひ寄て申出られけるとかや。是は随分故入道忠と存て。子一人に替て此御大事を無為にと存給ひし事無隠しを。などや此太平記にかかざりけん。是も此作者に後に申ざりけるにや。其時の落書に。
 細川にかかまりをりし海老名社 今川出て腰はのしたれ
是は相模守に海老名備中守にくまれて無出仕也しかば。如斯よみけるとかや。比興の事なれども。その時の事なれば書の侍ばかりなり。
-------

「細川相模守御不審の時」とは、康安元年(1361)九月、義詮の執事であった細川清氏が失脚し、若狭に逃げた事件ですね。

細川清氏(生年不詳~1362)

背景事情を知らないと分かりにくい記述ですが、例によって「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)を参照させてもらうと、

-------
 細川相模守(清氏)が御不審をこうむった時、故入道殿はずいぶん奉公忠節を尽くされたけれども、かの太平記には新熊野に入御としか書かれていない。
 あの時は既に御大事に及びそうだったので、故入道殿(範国)が密かに右御所(義詮)に、
「貞世(今川貞世。了俊の俗名)が清氏と親しいとうけたまわっております。彼を召し上らせて清氏と刺し違えさせれば、御大事には至らずに済みましょう。人を多数失うこともないでしょう。」
と申し上げられて、その時は遠州にいた我らを飛脚で召し上らされた。
 三州の山中まで上ったところで、「清氏は若狭国に落ちた」という飛脚がまた下って来た。どのような御用で召されたのかは、上洛してから教えられた。言語道断のことであった。
 清氏の野心のことは無実だったので、清氏は無実を訴え申し上げるために越州直世(今川直世。了俊の弟)を内々に呼んだが、恐れて行かなかったという。その時、清氏が、「貞世が在京であれば、こんな時でも来るだろうに」と、楽所(楽事を教え、事務をとる役所)の信秋に言ったと聞いて、(故入道殿は)思い立って申し出られたという。
 これなどは故入道殿(範国)のずいぶんな忠であり、子一人に替えてこの御大事を何事もなく終わらせようと思われたことは明らかなのに、どうして太平記には書かないのだろうか。これも、あとからこの作者に言わなかったからであろうか。


といった状況です。
今川範国は細川清氏の反逆を犠牲なしに治めるために、了俊を清氏のもとに行かせて「清氏に差ちがへ」させるという提案を、当事者である了俊の了解もなしに勝手に義詮にして、了俊に使者を送って上洛を促したが、到着前に清氏が若狭に没落したのでその必要もなくなった、という話ですが、了俊の書き方が妙に淡々としている点、やはり中世の武士だなあ、という感じがして、なかなか味わい深いですね。
文中に「言語道断」という表現がありますが、ここは「とんでもないことだ」といった否定的な意味合いではなく、「言葉で言いようもないほど、りっぱなこと」といった肯定的な意味だと思います。
了俊は父の提案を見事な策だと評価し、弟の直世は躊躇したけれども、自分が在京していたら恐れずに清氏のもとに行って、立派に刺し違えてみせたのだ、と言いたいのでしょうね。

「言語道断」(コトバンク)

さて、この話は今川家関係者だけでなく、広く一般の興味を惹きそうな話題ではありますが、結局のところ関係者の密談に終始し、具体的な結果をもたらさなかった試案であって、『太平記』の「作者」にとっても華々しいストーリー展開は困難です。
了俊は「是は随分故入道忠と存て。子一人に替て此御大事を無為にと存給ひし事無隠しを。などや此太平記にかかざりけん。是も此作者に後に申ざりけるにや」と憤っていますが、仮に今川家関係者が『太平記』の「作者」に提案しても、関係者の密談だけじゃ証拠もないしねー、などといった理由で採用を拒否されたかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その6)

2020-11-17 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月17日(火)11時35分56秒

「故殿」今川範国が「米倉八郎右衛門」から「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒されたという話、高師直の「御所巻」などにも通じるような感じがして、面白いエピソードではありますね。
さて、「15.青野原合戦事」の続きです。

-------
桃井申けるは。戦の間互にしりぞかざれば身を全する事なし。先ずる敵には水ばなにすこし退て。亦味方たて直してかかるには敵も退也。物あひにより勝利するを高名と云ける。此事を後に故殿被仰しは。桃井は強からん敵には幾度も負軍せむずる人なり。人の天命は左様に故実によりて遁るる事不可有。先たたかひて力なく自力尽時。退は習也と被仰し也。
-------

この部分、「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)を参照させてもらうと、

-------
 桃井(直常)が、「戦(いくさ)の時、どちらも退かなければ身をまっとうすることはできない。敵が先手を取ったらまず少し退いて、味方をまた立て直して攻めかかれば敵も退くものだ。」と、言った。このことについて、後に故殿が仰せになった。
「桃井は、強そうな敵には何度も負け戦をするような人だ。人の天命は、そのように故実によって逃れることはできない。まず戦って、どうしようもなくなって力尽きた時に退くものである。」

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki13.html

ということですが、これは今川範国が「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒された話とどのようにつながるのか、今一つ分からないですね。
ま、それはともかく、この後に『太平記』に触れて、「15.青野原合戦事」は終わります。

-------
さて土岐打出しかば。黒地は京都より切ふさぎて支。海道は御方もみ合しかば。奥勢は青野原の軍の後伊勢路にかかりて。奈良天王寺の合戦も有し也。京勢伊勢雲津河に馳合て戦有しか共。御方打負しなり。青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞し也。自身手負けるかや。是も太記平には書たれども。故入道殿など如此。随分手をくだき給ひし事。注さざるは無念也。但作者不尋間又我等も不注間書ざるにや。後代には高名の名知る人有べからず。無念也。望申ても可書入哉。
-------

「太記平」は「太平記」の誤記、というより活字を組んだ際の誤植かと思います。
「青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞し也」とありますが、この後の記述を見ると、誰かから聞いたという話ではなくて、『太平記』には青野原合戦では土岐頼遠ばかり活躍したと書いてある、ということなのでしょうね。
西源院本の青野原合戦の記事を見ると、今川範国などの名前も出てはいますが、土岐頼遠自身の負傷が特記され、全体的に土岐頼遠の活躍が目立つ書き方がなされています。
結局、『太平記』で「土岐頼遠一人高名」であり、父・範国あたりもずいぶん活躍したのに、それが詳しく記されないことが了俊の具体的な「無念」の内容ですね。
「無念」はすぐ後にまた繰り返されていますから、よっぽど悔しかったのでしょうが、しかし、「但作者不尋間又我等も不注間書ざるにや」はどう考えたら良いのか。
『太平記』の「作者」が「我等」に尋ねず、「我等」も注文をつけなかったから、と断定している訳ではなく、疑問形となっているのは何故なのか。
『難太平記』を根拠に『太平記』の成立論を展開する研究者は、了俊が『太平記』の「作者」と成立過程に通じていることを前提として論を進めているように見えますが、了俊はそうした「作者」側の事情を本当に知っていたのでしょうか。
また、最後に「望申ても可書入哉」とありますが、現存する『太平記』の諸本には、青野原合戦に限らず、了俊の希望は全然反映されていません。
今川範国・了俊父子のみならず「我等」、即ち今川家には『太平記』に介入するノウハウが全くなかったようにも見えますが、そうだとすれば、了俊の希望が実現しなかったという客観的事実も、了俊が実際には『太平記』の「作者」と成立過程に通じていなかったことを示す間接証拠なのかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その5)

2020-11-16 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月16日(月)10時30分51秒

『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事の内、最後の二つは読み応えがありますね。
まず、「15.青野原合戦事」は暦応元年(1338)、北畠顕家が二度目の上洛軍を率いてきて青野原で合戦になったとき、了俊の父・範国が配下から「こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ」と言われたという強烈なエピソードを載せています。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki13.html

面白いので、原文(『群書類従』第二十輯、合戦部)を丁寧に紹介してみます。

-------
 建武四年やらん。康永元年やらんに。奥勢とて北畠源大納言入道の子息顕家卿三十万騎にて押て上洛せしに。桃井駿河守に<今播磨守>。宇津宮勢三浦介以下為味方自跡おそひ上りしに。故入道殿は其時は遠江国三倉山に陣どりて。此御方の勢に馳加て海道所々にて合戦なり。自三河国又吉良右兵衛督<于時兵衛佐>。満義朝臣。高刑部大輔。三河勢など馳加て。二千余騎にて美濃国黒田に着けるに。当国の守護人土岐弾正少弼頼遠。土岐山よりうち出て。青野原にてもみ合べしと申けるに。明日の合戦一大事とて海道勢三手に分て。一二三番の籤を取て入替々々せらるべしとてくじをとられしに。桃井。宇津宮勢は一くじ。故殿。三浦介は二のくじ。吉良。三河勢。高刑部は三籤也。桃井勢はみなたかの鈴をつけたり。故殿笠じるしを思案し給ひけるに。あか鳥を馬に付ばやとて其夜俄に付られき。
-------

建武四年(1337)も康永元年(1342)も両方間違いなので、了俊の記憶力に若干の疑念を抱かざるを得ない始まり方です。
顕家が率いた軍勢が三十万騎というのは過大な感じがしますが、『太平記』(西源院本)では五十万騎と書いた直ぐ後に六十万騎にしています(兵藤校注『太平記(三)』、p331・332)。
まあ、三十万騎でも大幅な水増しであることは間違いなく、了俊も軍勢の数についてはそれほど正確さを求めないようですね。
また、幕府側が籤で出陣の順序を決めたという話は『太平記』にも出てきますが、こちらは五番に分けていて、

 一番 小笠原信濃守(貞宗)・芳賀清兵衛入道禅可
 二番 高大和守(重茂)
 三番 今川五郎入道(範国)・三浦新介(高継)
 四番 上杉民部大輔(憲顕)・上杉宮内少輔(憲成)
 五番 桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠

となっています(兵藤校注『太平記(三)』、p334以下)。
さて、「15.青野原合戦事」の続きです。

-------
稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共申けるは。籤はさることなれ共。当手の人の中に少々一番勢の前がけをすべしとて。以上十一騎桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上けるを。御方は敵の馳上事かと見けるに。一番に上ける蘆毛なる馬に乗たる武者切落され。次々の武者皆切殺されて麓にころびたる時。味方とみければ一番勢合戦始けるに。桃井。宇津宮勢等うち負しかば。赤坂宿の南をくゐ瀬河に退けり。故入道殿入替られて敵山内と云けるもの以下打とり給ひて。西のなはて口にてほろかけ武者二騎を故殿射落し給ひし也。猶敵支ける間。くゐ瀬川の堤の上にの家ありけるにおりゐ給ひけり。夜に入て雨降しかば。敵重てかからぬ時。黒田の味方に加り給べしと人々申けるを。只是にて明日御方を可待と被仰ければ。米倉八郎右衛門。手負ながら有けるが云く。如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじとて火を付ければ。力なく此あかりにて黒田に被加けり。
-------

攻撃の順番を籤で決めたのに、今川範国配下の「稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共」合計十一騎が勝手に「桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上」ったものの、「次々の武者皆切殺されて麓にころびたる」という悲惨な状況になってしまった、ただ、それが開戦のきっかけとなった、とのことで、まあ、今川家にとってはそれなりに大事な話ですね。
そして、「故入道殿」範国の活躍が少し描かれた後、再び「米倉八郎右衛門」が登場します。
範国が「くゐ瀬川の堤の上」の「の家」で休んでいて、そのまま夜に入って雨になり、敵の重ねての攻撃が止んだとき、「黒田の味方に加り給べし」と「人々」が言ったにも拘らず、範国が「只是にて明日御方を可待」などとグズグズしていたところ、手負いの「米倉八郎右衛門」が、こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ、と言って「の家」に火を付けたので、範国も仕方なく「此あかりにて黒田に被加けり」という展開です。
死んだはずの「米倉八郎左衛門」が「米倉八郎右衛門」になって再登場していますが、まあ、「皆切殺されて」は言葉の綾で、「左衛門」と「右衛門」の違いも単なる誤記なのでしょうね。
途中ですが、いったんここで切ります。
それにしても、了俊は父親が配下から「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒されたという不名誉なエピソードを、何故こんなに淡々と記すのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その4)

2020-11-15 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月15日(日)12時03分10秒

川添昭二氏の古典的業績により『難太平記』の基礎知識を確認し、ついで和田琢磨氏の見解に即して現在の『難太平記』研究の水準を垣間見てきましたが、改めて『難太平記』は難解な史料だなと感じます。
さて、『難太平記』の本格的な検討は後の課題として、了俊にとってどんな『太平記』が望ましかったのか、どんな記事が『太平記』に入っていれば了俊は満足だったのかを確認した上で、何故そのような記事が実際には『太平記』に入らなかったのかを少し検討してみたいと思います。
まず、『難太平記』の構成ですが、これは前々回投稿で紹介した和田琢磨氏の論文「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」に適切に整理されているので、ちゃっかり利用させて頂くことにします。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/3/57_KJ00009521771/_article/-char/ja/

-------
校正本総目録(1~25)と私の分類(A~H)

A 昔人の発言の重要性
 1.人可知己先祖事
B 源氏の歴史と足利将軍家は特別であるということ
 2.神代唯有二人子事
 3.八幡太郎義家子孫取天下事
C 今川家と今川荘の由来
 4.今川家系譜事
 5.寄進今川荘於正法院事
D 尊氏・直義に起こった奇瑞
 6.尊氏直義産湯時有奇瑞事
 7.尊氏上洛於三河有奇瑞事
E 『太平記』の成立環境と批判
 8.太平記多謬事
 9.従尊氏九州退陣人数漏於太平記事
 10.尊氏篠村八幡宮願書時事
 11.可入太平記落書事
 12.範国所持太刀号八八王事
 13.細川今川異見事
 14.今川頼国討死事付<基氏子共事>
 15.青野原合戦事
 16.富士浅間神女託宣事
   (15の戦功として駿河国等を貰った旨を述べるA)
 17.貞世辞駿州事
   (駿河国を譲った泰範の裏切り。義満批判)
 18.範国欲使貞世刺清氏事
 19.清氏野心非実事
G 足利将軍家の絶対性と義満批判─応永の乱関係記事─
 20.鎌倉管領氏満謀叛事
 21.貞世被止九州探題子細事<付貞世隠居事>
 22.大内義弘謀叛時勧貞世事
H 追加項目
 23.
 24.
 25.
-------

以上の記事のうち、『太平記』に言及しているのは8・9・10・11、そして13・15・18の七つですね。
まず、「8.太平記多謬事」(和田氏の表現では「六波羅合戦記事」)は『太平記』関連記事の総論的部分で、「降参」の記述を削除せよ、とはありますが、それ以外の具体的な要求はありません。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

「9.従尊氏九州退陣人数漏於太平記事」は建武三年(1336)、尊氏が「九州に御退の時の事。御供申たりし人もおほく太平記に名字不入にや。子孫の為不便の事か」とあるだけで、具体的に誰々の名前を載せろ、といった要求はありません。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki08.html

「10.尊氏篠村八幡宮願書時事」は、元弘三年(1333)、「丹州篠村八幡宮の御前にて御旗揚給ひし」時に、「両御所の御上矢を一宛神前に被進しに。役人二人有けり。一人は一色右馬介。一人は今川中務大輔也。此事は子細有事にて無口伝人は誤も有にや。此事などは尤書入られて気味可有にや。此中務大輔とは我等が兄の範氏の事也」という話ですね。
ずいぶんもったいぶった書き方をしていますが、「両御所」(尊氏・直義)が矢を奉納する際、その儀礼の担当者二人のうちに了俊の兄、今川範氏がいたというだけの話で、今川家関係者以外にはどうでも良さそうな話です。
「11.可入太平記落書事」は何時の話かも書いてありませんが、「今川に細川そひて出ぬれば堀口きれて新田流るる」という落書を『太平記』に入れてくれれば「此人々の子孫の為面目ならまし」とのことで、今川・細川家関係者以外の人にとってはどうでも良い話ですね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki09.html

「13.細川今川異見事」は建武二年(1335)の「駿河国手河原の戦に御方打負けし」時と翌年の「九州御退の時。兵庫魚御堂と云所にてみな腹切の着到付られし」時、即ちいずれも「錦小路殿」直義が敗北を認めて切腹しようか迷ったときに、了俊の父「故入道」今川範国と細川定禅の助言が正反対で、直義が「きよき武士の心は同じかるべしと思ふに。此ちがひめは今に不審也と仰有し也」という話で、了俊は「此事などは殊更無隠間。太平記にも申入度存事也。若さる御沙汰やとて今注付者也」と書いています。
まあ、これは単に今川・細川家関係者だけでなく、それなりに多くの人の関心を惹きそうなエピソードですね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki11.html

ちょっと長くなったので、いったんここで切ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする