投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月30日(月)11時22分4秒
続きです。(p35以下)
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鎌倉将軍府執権
ここで鎌倉将軍府における直義の役割を、その発給した文書によって具体的に見ておこう。直義の確かな発給文書は北条時行の乱、すなわち中先代の乱の生起により鎌倉を一旦退去する建武二年(一三三五)七月までの約一年半の間に一〇数点が残っている。
それらのなかでもっとも早いものは、上杉左近蔵人(頼成)に「大御厩」の管領を仰せ付ける元弘四年(一三三四)二月五日付の御教書(『上杉家文書』)である。「大御厩」とは鎌倉将軍府に設置された小侍所・政所・関東廂番などと同じ鎌倉幕府踏襲の役職で、その任免権を持った直義はまさに鎌倉執権であった。
ほかの直義御教書をみると、鎌倉の大慈寺新釈迦堂・山内新阿弥陀堂の供僧職、右大将(源頼朝)家法華堂禅衆職、金沢称名寺・浄光明寺の住持職補任についてのものなどがあるが、それらはかつては鎌倉執権の発する関東御教書でなされていた。直義はこうした権限をそっくり継承したのである。
また文書形式は御教書で、「任綸旨并牒」つまり後醍醐天皇綸旨と雑訴決断所牒(綸旨の施行)に任せて係争地相模国大友郷内の田地・屋敷を大友宗直に渡付せよと、直義が上杉左近蔵人(頼成)に命ずる内容の施行状も残っている(『詫間文書』)。これは直義の相模守護としての職権行使とみてよい。この文書は案文で差出書には「在御判」とあるだけだが、この「御判」が直義のものであることは右の理由から明らかである。
御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある。建武元年四月一〇日付、三浦介時継法師(法名道海)に勲功賞として武蔵国大谷郷・相模国河内郷を宛行〔あてが〕うという内容のものがそれで、書き止めは「依仰下知如件」となっている(『葦名古文書』)。まさにかつての関東下知状さながらである。署判は「左馬頭」(花押)。
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いったん、ここで切ります。
森氏は前回投稿で引用した部分で「直義は新設の鎌倉将軍府の主帥に任ぜられた後醍醐天皇皇子成良親王を補佐する形で」(p34)とされ、ここでまた「主帥成良親王の仰せを奉ずる形で」とされていますが、「主帥」という用語は、少なくとも中世史では、史料用語としても講学上の分析概念としても、あまり聞かない表現ですね。
「コトバンク」に「精選版 日本国語大辞典」の解説が出ていますが、中世の用例はなさそうです。
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① 軍隊を統率するもの。主将。
※集義和書(1676頃)一四「帝堯の、天下の人の才知に主帥たる所は、人不知也。終に天下をも子に伝へずして賢にゆづり給ふは、遜譲の大なるもの也」 〔魏志‐東夷伝・韓〕
② 令制の軍団で、部隊長のこと。隊正(五〇人の隊長)・旅帥(一〇〇人の隊長)・校尉(二〇〇人の隊長)のこと。
※令義解(718)軍防「主帥以上。当色統領。不得参雑〈謂。主帥者。隊正以上挍尉以下也〉」
③ 行幸の際、天皇の護衛隊の隊長。五〇人以上の部隊の長。〔令義解(718)〕
④ 令制で衛府(衛門・衛士・兵衛など)の下級職員。〔令義解(718)〕
⑤ 左右馬寮の下級職員で官馬の飼育にあたる馬部のうち、当番の者。〔令義解(718)〕
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E5%B8%A5-528637
森氏は「鎌倉将軍府という言い方は当時の史料に登場する名辞ではないが、今日便宜的にこう呼んでいる」(p34)とされているので、「将軍」が不在なのだから「将軍」という表現は使えないし、かといって適当な用語も思い浮かばないので、悩んだ末に「主帥」という曖昧な表現を「便宜的に」使っているように感じられます。
しかし、「主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状」の書き止めが「依仰下知如件」となっていて、「まさにかつての関東下知状さながらである」ならば、仮にこの文書が発給された時点で成良が征夷大将軍だとすると、森氏の悩みは一瞬で解決しそうですね。
さて、もう少し続きを紹介します。(p36以下)
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これらのほかに、直義領である相模国山内荘秋庭郷信濃村を建長寺正続院に寄進する内容の建武元年八月二九日寄進状もある(『円覚寺文書』)。
このように鎌倉将軍府の執権に就任した直義の活動内容を子細に検討すると、右の桃崎の意見は首肯される。まさに鎌倉幕府の再現で、直義は鎌倉執権の地位にいたのである。京都に政権を樹立した後醍醐天皇にとっては鎌倉将軍府はあくまで地方統治のための出先機関にすぎなかったが、他方直義の側からみると、それは武家勢力の結集の核であって、第二の武家政権樹立の胎動がここから始まる必然性を有していたのである。そうした動きの底流には関東武士たちの建武政権に対する不平・不満と、これと裏腹の武家政権への回帰志向があったことはいうまでもない。その様子を『梅松論』は以下のように記している。
……然るに直義朝臣太守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩、是ニ帰服して京都には
応ぜざりしかば、一統の御本意今におひてさらに其益なしと思食ければ、武家して又公家
に恨をふくみ奉る輩は、頼朝朝のごとく天下を専らにせん事をいそがしく思へり。故に公
と武家、水火の陣にて、元弘三年も暮にけれ。
右の記事にみるように、当時の公武の関係を「水火の陣」(京都と鎌倉とが互いに相容れないこと)と的確に喝破している。みおとせないのはそれが直義の鎌倉到着と同時に実体化している事実である。
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ということで、森氏は桃崎説に全面的に賛成され、「まさに鎌倉幕府の再現で、直義は鎌倉執権の地位にいたのである」とされる訳ですね。
ただ、仮に「主帥」成良親王が「征夷大将軍」であったならば、直義の「執権」の地位と呼称も全く不自然ではなくなります。
また、阪田雄一氏の「陸奥・鎌倉両将軍府の成立」(佐藤博信編『中世東国の政治と経済』、岩田書院、2016)によれば、「鎌倉将軍府」は「中途半端な組織」で、「陸奥将軍府のような独立的組織」ではなく、「軍事的行動も守護を主体としていたことで将軍府自体には独自の軍事的組織がなかった」とのことで(p2)、どうも森氏が言われるような「武家勢力の結集の核であって、第二の武家政権樹立の胎動がここから始まる必然性を有していた」といった勇ましい組織ではなさそうです。
逆に後醍醐にしてみれば、実質的にそれほどの権限を与えず、「あくまで地方統治のための出先機関」に止めておくのであれば、成良親王を征夷大将軍に任じて、形式的には「鎌倉幕府の再現」を許してもよさそうです。
更に想像ないし妄想を逞しくすれば、鎌倉に下向した直義が、「関東武士たちの建武政権に対する不平・不満と、これと裏腹の武家政権への回帰志向」を認識し、やはり東国は統治が難しい地域であって、この野蛮な連中はかつての鎌倉幕府の伝統に縛られており、たとえ幼年の親王であろうと、トップが征夷大将軍でないと有難味を感じませんし、文書も将軍の権威を感じさせる鎌倉幕府の伝統に則ったものでないと喜びませんので、あくまで形式を整えるだけでけっこうですから、成良親王を征夷大将軍にしていただけませんか、と後醍醐に奏上すれば、後醍醐も、それもそうだな、地方の実情に応じて対応せねばいかんな、ということで了解してくれて、互いにウィンウィンの関係となることもありそうですね。
ま、これ以上は桃崎論文の検討を通じて論じてみたいと思います。
続きです。(p35以下)
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鎌倉将軍府執権
ここで鎌倉将軍府における直義の役割を、その発給した文書によって具体的に見ておこう。直義の確かな発給文書は北条時行の乱、すなわち中先代の乱の生起により鎌倉を一旦退去する建武二年(一三三五)七月までの約一年半の間に一〇数点が残っている。
それらのなかでもっとも早いものは、上杉左近蔵人(頼成)に「大御厩」の管領を仰せ付ける元弘四年(一三三四)二月五日付の御教書(『上杉家文書』)である。「大御厩」とは鎌倉将軍府に設置された小侍所・政所・関東廂番などと同じ鎌倉幕府踏襲の役職で、その任免権を持った直義はまさに鎌倉執権であった。
ほかの直義御教書をみると、鎌倉の大慈寺新釈迦堂・山内新阿弥陀堂の供僧職、右大将(源頼朝)家法華堂禅衆職、金沢称名寺・浄光明寺の住持職補任についてのものなどがあるが、それらはかつては鎌倉執権の発する関東御教書でなされていた。直義はこうした権限をそっくり継承したのである。
また文書形式は御教書で、「任綸旨并牒」つまり後醍醐天皇綸旨と雑訴決断所牒(綸旨の施行)に任せて係争地相模国大友郷内の田地・屋敷を大友宗直に渡付せよと、直義が上杉左近蔵人(頼成)に命ずる内容の施行状も残っている(『詫間文書』)。これは直義の相模守護としての職権行使とみてよい。この文書は案文で差出書には「在御判」とあるだけだが、この「御判」が直義のものであることは右の理由から明らかである。
御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある。建武元年四月一〇日付、三浦介時継法師(法名道海)に勲功賞として武蔵国大谷郷・相模国河内郷を宛行〔あてが〕うという内容のものがそれで、書き止めは「依仰下知如件」となっている(『葦名古文書』)。まさにかつての関東下知状さながらである。署判は「左馬頭」(花押)。
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いったん、ここで切ります。
森氏は前回投稿で引用した部分で「直義は新設の鎌倉将軍府の主帥に任ぜられた後醍醐天皇皇子成良親王を補佐する形で」(p34)とされ、ここでまた「主帥成良親王の仰せを奉ずる形で」とされていますが、「主帥」という用語は、少なくとも中世史では、史料用語としても講学上の分析概念としても、あまり聞かない表現ですね。
「コトバンク」に「精選版 日本国語大辞典」の解説が出ていますが、中世の用例はなさそうです。
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① 軍隊を統率するもの。主将。
※集義和書(1676頃)一四「帝堯の、天下の人の才知に主帥たる所は、人不知也。終に天下をも子に伝へずして賢にゆづり給ふは、遜譲の大なるもの也」 〔魏志‐東夷伝・韓〕
② 令制の軍団で、部隊長のこと。隊正(五〇人の隊長)・旅帥(一〇〇人の隊長)・校尉(二〇〇人の隊長)のこと。
※令義解(718)軍防「主帥以上。当色統領。不得参雑〈謂。主帥者。隊正以上挍尉以下也〉」
③ 行幸の際、天皇の護衛隊の隊長。五〇人以上の部隊の長。〔令義解(718)〕
④ 令制で衛府(衛門・衛士・兵衛など)の下級職員。〔令義解(718)〕
⑤ 左右馬寮の下級職員で官馬の飼育にあたる馬部のうち、当番の者。〔令義解(718)〕
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E5%B8%A5-528637
森氏は「鎌倉将軍府という言い方は当時の史料に登場する名辞ではないが、今日便宜的にこう呼んでいる」(p34)とされているので、「将軍」が不在なのだから「将軍」という表現は使えないし、かといって適当な用語も思い浮かばないので、悩んだ末に「主帥」という曖昧な表現を「便宜的に」使っているように感じられます。
しかし、「主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状」の書き止めが「依仰下知如件」となっていて、「まさにかつての関東下知状さながらである」ならば、仮にこの文書が発給された時点で成良が征夷大将軍だとすると、森氏の悩みは一瞬で解決しそうですね。
さて、もう少し続きを紹介します。(p36以下)
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これらのほかに、直義領である相模国山内荘秋庭郷信濃村を建長寺正続院に寄進する内容の建武元年八月二九日寄進状もある(『円覚寺文書』)。
このように鎌倉将軍府の執権に就任した直義の活動内容を子細に検討すると、右の桃崎の意見は首肯される。まさに鎌倉幕府の再現で、直義は鎌倉執権の地位にいたのである。京都に政権を樹立した後醍醐天皇にとっては鎌倉将軍府はあくまで地方統治のための出先機関にすぎなかったが、他方直義の側からみると、それは武家勢力の結集の核であって、第二の武家政権樹立の胎動がここから始まる必然性を有していたのである。そうした動きの底流には関東武士たちの建武政権に対する不平・不満と、これと裏腹の武家政権への回帰志向があったことはいうまでもない。その様子を『梅松論』は以下のように記している。
……然るに直義朝臣太守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩、是ニ帰服して京都には
応ぜざりしかば、一統の御本意今におひてさらに其益なしと思食ければ、武家して又公家
に恨をふくみ奉る輩は、頼朝朝のごとく天下を専らにせん事をいそがしく思へり。故に公
と武家、水火の陣にて、元弘三年も暮にけれ。
右の記事にみるように、当時の公武の関係を「水火の陣」(京都と鎌倉とが互いに相容れないこと)と的確に喝破している。みおとせないのはそれが直義の鎌倉到着と同時に実体化している事実である。
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ということで、森氏は桃崎説に全面的に賛成され、「まさに鎌倉幕府の再現で、直義は鎌倉執権の地位にいたのである」とされる訳ですね。
ただ、仮に「主帥」成良親王が「征夷大将軍」であったならば、直義の「執権」の地位と呼称も全く不自然ではなくなります。
また、阪田雄一氏の「陸奥・鎌倉両将軍府の成立」(佐藤博信編『中世東国の政治と経済』、岩田書院、2016)によれば、「鎌倉将軍府」は「中途半端な組織」で、「陸奥将軍府のような独立的組織」ではなく、「軍事的行動も守護を主体としていたことで将軍府自体には独自の軍事的組織がなかった」とのことで(p2)、どうも森氏が言われるような「武家勢力の結集の核であって、第二の武家政権樹立の胎動がここから始まる必然性を有していた」といった勇ましい組織ではなさそうです。
逆に後醍醐にしてみれば、実質的にそれほどの権限を与えず、「あくまで地方統治のための出先機関」に止めておくのであれば、成良親王を征夷大将軍に任じて、形式的には「鎌倉幕府の再現」を許してもよさそうです。
更に想像ないし妄想を逞しくすれば、鎌倉に下向した直義が、「関東武士たちの建武政権に対する不平・不満と、これと裏腹の武家政権への回帰志向」を認識し、やはり東国は統治が難しい地域であって、この野蛮な連中はかつての鎌倉幕府の伝統に縛られており、たとえ幼年の親王であろうと、トップが征夷大将軍でないと有難味を感じませんし、文書も将軍の権威を感じさせる鎌倉幕府の伝統に則ったものでないと喜びませんので、あくまで形式を整えるだけでけっこうですから、成良親王を征夷大将軍にしていただけませんか、と後醍醐に奏上すれば、後醍醐も、それもそうだな、地方の実情に応じて対応せねばいかんな、ということで了解してくれて、互いにウィンウィンの関係となることもありそうですね。
ま、これ以上は桃崎論文の検討を通じて論じてみたいと思います。