学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

久しぶりの東北(その2)

2017-02-28 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 2月28日(火)11時34分0秒

国道45号線を引き返して志津川地区に戻り、戸倉で国道398号線に入ったころには雨も小降りになりましたが、工事用車両の通行が多いので勝手に適当なところで停まる訳にも行かず、戸倉小学校跡地・戸倉神社周辺の激変ぶりも車から眺めるだけでした。
南三陸町と石巻市北上町の境にある神割崎で缶コーヒーを飲んでから通称「神割ロード」を進み、南側に海を眺めつつ新北上大橋まで行ってみましたが、北浜支所・吉浜小跡地や釣石神社付近に新しく造られた巨大堤防はすごい迫力ですね。
土木好きの私には胸躍らせる光景でしたが、堤防が完成し、土地が嵩上げされたとしても、果たして人がどれだけ戻ってくるのかなあ、という感じもしました。
新北上大橋を渡って大川小学校跡地に寄った後、長面方面に向かおうかなとも思ったのですが、ここも工事用車両が多いので遠慮し、雄勝経由で女川町に行くことにしました。
途中、水浜・分浜に寄ってみたところ、かなり荒れていた分浜五十鈴神社周辺も手入れがなされていました。
この社殿は拝殿と本殿の間が屋根に覆われた長い階段になっているちょっと珍しい造りで、以前、階段から飛び出してきた野生化した猫に驚かされたことがある私にとってのプチ思い出の地です。
女川は事前にある程度情報を集めていたので地区単位での変化にはそれほどの驚きはしなかったのですが、町立病院のある高台、というか周辺の嵩上げが進んだので今はそれほど高くも感じられない場所に立って周囲をぐるっと眺めると、よくもまあ、これだけ山を削ったものだなあと感心しました。
リアス式海岸で平地が少ないとはいえ、山を崩せば、ある意味無限に平地は造成出来る訳ですが、女川のようなもともと経済力のある土地でないと、ここまでの改変は難しいのだろうなと思いました。
時間の関係で牡鹿半島には廻らず、女川街道を石巻に向い、渡波から日和大橋を渡って石巻工業港周辺を少し見た後、鳴瀬大橋で国道45号から県道27号線(奥松島パークライン)に入り、野蒜周辺を見てから松島町で国道45号に戻りました。
ここでプチ懸案の仙台・江厳寺の石母田家墓地訪問もチラッと考えたのですが、朝早くからずっと運転をしていたのでいささか疲れており、仙台市街の狭い道路で事故でも起こしたらイヤだなと思ってあっさりあきらめることにしました。
ついでに温泉に入ることに決めて、仙台港北ICで仙台東部道路に入って常磐自動車道の亘理ICで降り、「わたり温泉鳥の海」に行ってみました。
雨はすっかり止み、日も射してきて、5階の露天風呂から眺める海岸線は絶景でした。

>筆綾丸さん
ご紹介の記事のタイトルにマントル影響云々とあり、何のことかと思いましたが、

----
研究者はプレートの下にあるマントルに注目する。マントルは岩石でできているが、水あめのようにゆっくりと流れる。陸のプレートの跳ね上がりに遅れる形で、徐々に滑った方向に動く「粘弾性緩和」が起きている。
----

ですか。
ま、別に理解できて引用した訳ではありませんが、専門研究者にとっても謎だらけの世界なのですね。


※写真

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「蔦紅葉」 2017/02/27(月) 17:52:37
小太郎さん
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO13400150W7A220C1TJM000/
今日の日経に、東北沿岸において沈んだ地盤の隆起が続いている、という記事がありますね。

http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kumokiri3/
雲霧仁左衛門が俳諧の宗匠に化けて安濃津藩の江戸家老と対決する場面で(「雲霧仁左衛門3」最終回)、藤堂氏の家紋(蔦)を踏まえ、
 蔦紅葉 果てはあらずや 冬の霧
と詠むのですが、蔦紅葉は秋の季語だから、「冬の霧」では基本的なルールに抵触して、俳句になりえません。原作者(池波正太郎)が間違えるはずはないから、たんに番組制作者が無知なだけなんでしょうね。ほかにも変な設定はありますが、面倒なのでやめます。

呉座氏の著書の売れ行きは、応仁の乱終息以降における歴史的な事件になるかもしれないですね。NHKが大河ドラマにしないことを祈ります。
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久しぶりの東北(その1)

2017-02-26 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 2月26日(日)10時45分8秒

22日(水)に出発した時点では素直に東北道を行くつもりだったのですが、サービスエリアで休憩中に地図を見ていて、矢吹ICから「あぶくま高原道路」を小野町まで行き、そこから川内村を経て滝川溪谷沿いに常磐自動車道の常磐富岡IC付近に出るのが沿岸部への最短ルートかな、と思って行ってみました。
以前川内村に行った時、小野町から川内村に向かう道は非常に狭くて苦労した覚えがあるのですが、矢大臣山の北を通る県道145号線は相変わらず狭いものの、県道36号に入ると改修工事が進んでいて、けっこう快適な道になっていました。
川内村の「かわうちの湯」でのんびりしてから、以前は立入禁止だった滝川溪谷沿いの県道36号を辿ると、道も広くてあっさりと常磐富岡ICまで行くことができました。
そこから突貫工事で全線開通した常磐自動車道を行くか、それとも国道6号を通るかちょっと迷いましたが、既に夕方になってはいたものの、復興の雰囲気を知ることができそうな国道6号を選んで北上してみたところ、帰還困難区域は相変わらずでしたが、浪江町付近の雰囲気も若干変化し、南相馬市小高区は活気が出てきた感じでした。

高原のいで湯「かわうちの湯」

23日(木)は早起きして午前4時過ぎに仙台東部道路の仙台空港ICに入り、強い雨の中を南三陸町に向いましたが、途中の春日PAでかなりの休憩時間を入れたにもかかわらず、午前6時には志津川ICに着くことができました。
三陸自動車道は仙台・石巻間が複線化したので非常に快適になり、昨年開通したばかりの登米東和ICと志津川IC間は弾丸道路の趣きで、南三陸町は本当に近くなりましたね。
志津川地区は地盤の嵩上げが進んで風景が一変しており、見覚えのないセブンイレブンの駐車場で周囲を暫く眺めていて、あれ、ここは上山八幡宮の近くだったのか、とやっと気づいたほどでした。
その後、久しぶりに荒島に行こうと思ったら工事中で入れず、海沿いに東に向かって荒砥漁港から清水浜に出て国道45号を気仙沼方面に向い、伊里前地区の激変ぶりを眺めてから気仙沼市本吉町に入り、津谷川河口の小泉小学校のある高台に登ってみました。
ここで更に北上するかちょっと迷ったのですが、時間の関係もあって気仙沼・陸前高田訪問はまたの機会にすることとし、地図を眺めて本吉から西に向かって馬籠で南に折れ、県道206号線を南三陸町に行こうと思ったら冬季閉鎖になっていました。
そういえば東日本大震災の直後、2011年4月にもこの道を辿ろうとして途中で引き返したことがあったなと思い出したものの後の祭りで、さてどうしようかと迷った挙句、国道45号を引き返すことにしました。

>筆綾丸さん
>呉座勇一氏『応仁の乱』が10刷18万部のベストセラー
呉座氏が印税長者になったらしいというツイートを見かけたのですが、個人的に暫くは日本中世史に戻る気分になれなくて、相変わらず未読です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「冥途の飛脚」 2017/02/25(土) 21:21:59
昨日の新聞に、呉座勇一氏『応仁の乱』が10刷18万部のベストセラーとありましたが、類書として記録的な売れ行きのようですね。石母田正『中世的世界の形成』や網野善彦『異形の王権』がどんなに売れたと云っても、到底及ばない部数でしょうね。
呉座氏の視座は、大和国から応仁の乱を見てみた、という点に尽きると思いますが、このような限定的な考察がなぜ空前のベストセラーになったのか、氏の筆力を差し引いたとしても、不思議な気がします。それはともかく、同業者のなかには、なぜ俺の本は売れんのだ、とショックを受けている人もいるのだろうな。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E9%80%94%E3%81%AE%E9%A3%9B%E8%84%9A
『冥途の飛脚』(於国立劇場、2月17日)を観て、いくつか疑問が湧き、原文(岩波文庫)で確認しましたが、少なくとも以下の点は、大近松らしからぬ変な設定です。古典の名作にケチをつけるのは野暮ではありますが。

?「五千両七千両 人の金を預かつて。百三十里を家にし 江戸大坂を。広ふ狭ふする亀屋」ほどの後家(忠兵衛の養母である妙閑)が、「無筆の一文字も読まれぬ」などということが有り得るだろうか。文盲では、大店の女主人は、到底、勤まらなかっただろう。
?「大和新口村。勝木孫右衛門と云ふ大百姓の独子。母御前はお死にやつて継母がかりのわざくれに。悪性狂ひも出来るぞと父御前の思案で是の世取りに貰ひしが」、つまり、忠兵衛は亀屋の養子であるが、たとえ継母との関係が悪くとも、大百姓の一人息子が養子に出されてしまうなどということが有り得るだろうか。
?梅川は忠兵衛のことを「忠様も世帯持ち」と言うが、妻が全く登場しないため、忠兵衛の廓通いに切実さが感じられない。亀屋の資産を遣り繰りすれば、封印切などせずとも、梅川の身請けができたのではないか。つまり、最初の上段の巻で、妻の性格を書き込んでおかねばならない。

余計なことながら、『応仁の乱』に大和新口村は出て来ないですね。
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酒田の本間家VS鶴岡の風間家(その3)

2015-02-24 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 2月24日(火)08時58分56秒

ここ数日、妙にカウンターの数字が伸びていて、昨日あたりからやっと通常ペースに戻ったのですが、原因は本間家・風間家の雛人形訴訟ですかね。
和解が成立したとのニュースを聞いて検索をかけた人が多かったのかもしれません。
ツイッターには少し書いたのですが、備忘のため、こちらに河北新報の記事を保存しておきます。

--------
<ひな人形訴訟>和解、今春「里帰り」

 ひな人形の所有権をめぐり、鶴岡市の旧家風間家の財産管理団体「克念社」が、酒田市の旧家本間家設立の本間美術館に約65年前に貸したとする人形の返還を求めた訴訟は19日、山形地裁酒田支部で和解が成立した。所有権を美術館側に認めた上で4年ごとに克念社側に人形を貸し出すとの内容で、この春ひな人形の「里帰り」が実現する。
 和解には「郷土の貴重な財産であるひな人形が末永く鑑賞されるよう連携する」との条項が盛り込まれた。美術館側がことしから4年に1度、3月1~31日に貸し出し、荷造りや輸送の費用は克念社側が負担する。
 訴えなどによると、ひな人形は江戸時代に風間家に伝わった56点。時価700万~1000万円とされる。
 2013年に始まった訴訟で風間家側は、1950(昭和25)年ごろに本間家が企画したひな人形展に貸し出したと主張。本間家側は58年以降に10万円を支払ったが、賃貸料と購入費で対立していた。人形は以後、本間美術館が保管して毎春公開してきた。
 和解を受け、美術館は27日にも人形を送る。鶴岡市の旧風間家住宅「丙申堂」で3月1~31日に開催されるひな人形展で里帰り公開される予定。本間美術館が2月28日~4月6日に開く展示会では、ほかに受け継いできた人形を飾る。双方とも会場に経緯の説明文を示すことを検討している。
 美術館側は「さまざまな経緯があったが、この機会に人形の歴史的価値を知ってほしい」と述べ、克念社側は「早く解決して里帰りを実現させたかった。関係者に感謝したい」と話している。


ま、和解といっても所有権が本間家側にあることが明確にされているので、実質的には訴訟を提起した風間家側の全面的な敗北ですが、大人の事情で勝ち負けをはっきりさせるのを避けたのでしょうね。
私も当初から法律論では本間家の勝ちだろうなと思っていました。

酒田の本間家VS鶴岡の風間家
酒田の本間家VS鶴岡の風間家(その2)
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小高城攻防戦

2014-03-01 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月 1日(土)23時21分26秒

>筆綾丸さん
小高城は南相馬市小高区の立ち入り禁止が解除された2012年4月に初めて訪問したのですが、境内の観光案内板には、南北朝期の出来事として「建武三年三月次子光胤に命じて修築せしめ爾後相馬氏の本拠として南北朝の争乱に重要な位置を占め小高城攻防戦は相馬文書の外岡田大非山飯野文書等によつて史上明らかな事実である」とだけ記されており、殆ど族滅の危機だった割にはずいぶんあっさりした記述ですね。
まあ、負け戦は詳細には書きづらいでしょうが。


水林氏関係のレスはまた後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Selbstrechtfertigung ふたたび 2014/02/28(金) 19:03:44
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89
志賀直哉は生粋の江戸っ子と思っていたので、石巻の生まれとは知りませんでした。先祖は相馬藩と関係が深いのですね。
呉座氏の『戦争の日本史』には、相馬氏の小高城が出てきますね(152頁)。

『国制と法の歴史理論』には、「「支配の Legitimität」概念再考」を受けた「『経済と社会』「旧稿」における Legalität と Legitimität」という論文が続き、水林氏は Selbstrechtfertigung の訳語に苦労されているようですが(この論文は難解です)、「自己弁護」としたのでは、ヴェーバーの真意から外れるような気がしますね。この論文でも、なぜ義認というような宗教的背景のある訳語にしたのか、よくわかりません。
----------------------------
・・・ヴェーバーは、「支配」という行為を、まずは「積極的に特権づけられた者」が「消極的に特権づけられた者」に対して行う「自己の優越的状態の義認(Selbstrechtfertigung)」(自己義認的行為)という性質のゲマインシャフト行為として理解しようとし、「自己の優越的状態の義認」を行う際の人間の思考を、legitimieren なる語を用いて、”〇〇(自身の功績、神の思し召し、法・習律など)が自己の優越的状態を legitimieren している”というように表現した・・・(365頁)
・・・Legitimität 概念は、人間社会に広く認められる次のような事態、すなわち”人は、他人と比較しての自分自身の何らかの点での優越的状態を、selbstrechtfertigung(自己弁護、自己義認)ないし legitimieren する傾向にある”という事態から出発するものであった。(369頁)
----------------------------
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新年のご挨拶

2014-01-01 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月 1日(水)12時09分18秒

明けましておめでとうございます。
今年も世界を総合的に理解することを目指しつつ、地味にコツコツと勉強を続けて行くつもりです。


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八重垣神社近くの防波堤

2013-12-07 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月 7日(土)16時55分34秒

東日本大震災から1000日経過して、海岸の風景も相当変化していますね。
下の写真3枚は八重垣神社の夏祭りで神輿の浜入りが行われる場所の近くから撮影したものですが、この付近の2012年12月、2013年7月の写真と比較すると、防波堤工事の急速な進展具合が分かると思います。
瓦礫焼却施設は既に役割を終え、これから解体されることになりますね。

「山元町瓦礫焼却施設周辺」(その3)~(その5)、2012年12月撮影

「八重垣神社の夏祭り」(その4)、2013年7月撮影

※写真
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八重垣神社の鳥居

2013-12-07 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月 7日(土)11時34分47秒

昨日の『河北新報』に次の記事が出ていました。

---------
鳥居復活、復興見守る 八重垣神社 宮城・山元

 東日本大震災の津波で境内が被災した宮城県山元町の八重垣神社に、鳥居が再建された。真新しい朱色が、荒地になった沿岸部で鮮やかな彩りを放ち、初詣客を待つ。
 鳥居は高さ約5メートル、幅約3メートルで、東京・下谷神社の支援を受けて建立した。塩化ビニール製のパイプを組み立て、外壁用の赤いフィルムを貼り、11月12日に完成した。
 807年創建とされる神社は津波で社殿が流失し、2基あった鳥居は倒壊した。320戸いた氏子のうち約90人が犠牲になった。震災後、寄贈を受けた小さなほこらを設置し、ことしの正月は町内外に離散した住民ら約800人が訪れた。
 宮司の藤波祥子さん(57)は「少しずつ復興に向かっている気持ちが湧く。来年の正月は震災前のように鳥居をくぐって参拝してほしい」と笑顔で話した。


良いニュースにケチをつける訳ではないですが、鳥居が11月12日に完成しているのに12月6日に記事にするというのは地元紙の報道体制としてはどんなものなのだろうか、という気がしないでもないですね。
また、文中の「寄贈を受けた小さなほこら」という表現も、若干気になります。
「小さなほこら」と聞くと、私は屋敷神を祀るような石造物を連想するのですが、八重垣神社にあるのは小さいとはいえ、木造の手の込んだ仮社殿ですね。
実はこの仮社殿は二代目で、最初、東京の阿佐谷神明宮が寄贈し、2011年7月に設置された背の高い優美な仮社殿が2012年4月の「爆弾低気圧」で吹き飛ばされてしまい、その後、少し背の低い二代目に替えられたんですね。
仮社殿自体がなかなか苦難の道を歩んでいます。
私は7月の夏祭り以降、暫く参詣していなかったのですが、12月1日に訪問したところ、鳥居が新調されていることより、仮社殿がなくなっていることにびっくりしました。
あれれ、と思って近づいたら、仮社殿の土台の部分が掘り起こされ、仮社殿自体は近くの松の根元に移されていました。
正月も近いので、本格的な社殿に立て直すというよりは、倒壊した旧社殿の基礎が残っていた部分を整地するための工事なのかな、と想像しています。

「八重垣神社の夏祭り」(その1)
初代の仮社殿(2011年12月撮影)

※写真
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湯殿山神社本宮

2013-11-23 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年11月23日(土)18時46分51秒

>好事家さん
それでは私も湯殿山神社の写真など。
撮影は10月28日です。
山形自動車道を月山ICで下り、月山花笠ラインを経て湯殿山有料道路の坂道を登って行くと、途方もなくでかい鳥居と参籠所・レストハウスがあります。
そこからは専用バスで湯殿山神社本宮入口まで入り、更に数分歩くと本宮の神域があります。
数人の神職がいる社務所近くで裸足になってお祓いを受け、静々と濡れた岩の上を歩いて御神体を拝む訳ですが、まあ、御神体と言っても温泉が噴き出ている岩なので、有難いと思うかは人それぞれですね。
写真1枚目、バス・人物と鳥居の根元を比較すると、このコンクリート製の鳥居の巨大さが分かると思います。
3枚目は湯殿山神社本宮入口から紅葉の中の大鳥居を眺めたものです。
帰宅後、11月3日には閉山だったと知りました。

出羽三山神社公式サイト内、湯殿山神社境内

※写真
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冬支度

2013-11-17 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年11月17日(日)21時58分26秒

>好事家さん
写真、ありがとうございます。
京都でも紅葉がずいぶん進みましたね。
この秋、私にとって一番印象的だったのは月山の紅葉でした。
湯殿山奥の院などの定番コースに加え、月山湖周辺から大井沢地区のような比較的マイナーなところまで廻って写真も沢山撮ったのですが、この掲示板にアップするのをさぼっている間に季節は慌ただしく変化し、東北はすっかり雪を迎える時期になってしまいました。
今さら紅葉の写真を載せるのもどうかと思うので、少しずつ撮りためている白鳥の写真でもアップしようかなと思っています。

>筆綾丸さん
美術の世界で直近の話題と言えば、やはり哲学者でない方のフランシス・ベーコンの三連画が142億円で売れた一件ですが、それを伝えるニューヨークタイムズの記事が最初から最後まで金のことしか書いていないのが特別に印象に残りました。

At $142.4 Million, Triptych Is the Most Expensive Artwork Ever Sold at an Auction

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

支那絵画史 2013/11/12(火) 21:56:20
小太郎さん
いわゆる Literati Painting(文人画)の説明に、
--------------------------
One of the most famous of all literati painters was Shen Zhou (1427-1509), who lived on China's east coast, not far from the modern Shanghai region.
--------------------------
とあり、Hongxing Zhang 氏は質問に対して、
I was born in a provence in China close to Shanghai and I’m incredibly proud of my native place. It’s a cultural hub that includes a wide variety of painters so I was always immersed in art.
-------------------------
と答えているので、同郷の文人画家沈周への氏の崇敬の念はきわめて強いようですね。彼がテレビのインタビューで答えた神の話を聞いて、この人はイギリス生まれではないな(そして、たぶんクリスチャンではないな)と思いましたが、やはり上海生まれ(の上海育ち)ですね。

肖像画の賛に、「正徳改元石田老人自題」(正徳元年(1506)に石田老人(沈周)自ら題す)とあるので、自画像なのでしょうね。中国において、自画像がいつごろ生まれたのか、知らないのですが。この文の直前にある「死隔壁」という表現が気になるものの、意味がわかりません。沈周さんには申し訳ないのですが、「猿図」の猿の方がずっと気品があるような気がしますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BE%B3%E5%B8%9D
正徳帝は問題の多い皇帝だったようですね。

http://www.amazon.co.jp/%E6%94%AF%E9%82%A3%E7%B5%B5%E7%94%BB%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%86%85%E8%97%A4-%E6%B9%96%E5%8D%97/dp/4480086889
内藤湖南の『支那絵画史』を眺めてみましたが、沈周の名は出ていませんでした。
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小高区復興文化祭

2013-10-27 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月27日(日)22時21分13秒

今日は南相馬市の「小高区復興文化祭」に行ってきました。


ポスターに書かれていたメイン行事のひとつに「曲芸飛行」があり、何だかずいぶん古風な感じがしましたが、実際に見てみたらキリモミ降下や超低空飛行など大変にダイナミックで、予想外に面白かったですね。
本当は昨日に予定されていたそうですが、台風の影響で順延となり、今日しか行けなかった私にはラッキーでした。
帰宅してからネットで調べたら、曲芸飛行を行ったのは福島市を拠点とする「チーム・ヨシ・ムロヤ」で、代表者の室屋義秀氏は映画「紅の豚」を見てパイロットを志したそうです。
様々な人生がありますね。


一万発の花火も日曜に順延となったのですが、残念ながら私は所用のため早めに帰宅したので見ることができませんでした。

写真の3枚目は車道に駐車して曲芸飛行を見物する人々です。

※写真
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五大虚空蔵菩薩

2013-10-03 | 東北にて
投稿日:2013年10月 3日(木)08時59分24秒

神護寺サイトを見ると、寺宝紹介の2番目に五大虚空蔵菩薩像が出てきますね。

---------
 五大虚空蔵菩薩は金剛界の五智如来の変化身といわれ、富貴成就、天変消除をこの菩薩に祈って秘法を行う。
 わが国での初見は弘仁十二年(821)、空海が両部曼荼羅、祖師像の新写の際に描かせた絵画であるが、本像もあるいはその像にもとづいて彫られたのかもしれない。
 五大虚空蔵菩薩を修する法を金門鳥敏法(かのととりどしのほう)ともいい、変革の年といわれる辛酉の年に除災のため行われた。
 本像は五体とも像高90センチメートルあまり。ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる。
 肉身の色は中尊の法界虚空蔵が白色、東方尊金剛虚空蔵は黄色、南方尊宝光虚空蔵は緑色、西方尊蓮華虚空蔵は赤色、北方尊業用虚空蔵は黒色に塗り分けられている。
 いまは一直線に祀られているが、もとは東寺講堂の五菩薩像などと同様に、中尊を囲んで左右斜め前と、斜め後ろに他の四体が配されていた。
http://www.jingoji.or.jp/treasure02.html

同サイトの写真は不鮮明ですが、YouTubeには綺麗な動画があります。

http://www.youtube.com/watch?v=ykNsCbde8HI

東寺・観智院の五大虚空蔵菩薩は獅子・象・馬・孔雀・迦楼羅の上に鎮座していて、像高も90cmの神護寺のものよりは相当高いようですね。
なかなか迫力があります。

http://www.toji.or.jp/kanchiin.shtml

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烏崎・津神社

2013-10-02 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月 2日(水)23時22分49秒

ブログの方、久々の更新です。
9月13日、南相馬市鹿島区烏崎の津神社に仮社殿・鳥居が建立されたことが報道されましたが、神社周辺がどのように変化したかを知るための素材として、去年の6月8日に同社敷地を訪問したときの写真をアップしてみました。
9月29日に再建後の同社に参詣しましたので、直近の様子も後でアップします。

「烏崎・津神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/77170812.html

参考:「南相馬市の津波被害受けた神社、氏子の手によって再建」(FNNローカル)
http://www.youtube.com/watch?v=7a5pEBIzou8

また、岩沼市の「千年希望の丘」についてもまとめておきました。

「千年希望の丘」(その1)~(その3)
http://chingokokka.sblo.jp/article/77011715.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/77012972.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/77045657.html
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岩沼市・千年希望の丘(その2)

2013-09-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 9月30日(月)19時31分42秒

防波堤の上に移動し、1枚目は南方向(亘理・相馬方面)を撮りました。
2枚目は西方向の「千年希望の丘」を振り返ったもの、3枚目は北方向(仙台市方面)ですね。

※写真
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岩沼市・千年希望の丘(その1)

2013-09-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 9月30日(月)19時25分25秒

9月27日(金)に訪問した岩沼市の「千年希望の丘」の様子です。
この付近の防波堤は既に完成し、今は防潮林の植林が進められています。
5月26日に植樹祭があったそうですが、4か月経過し、順調に育っているようですね。
防潮堤にはところどころ灰色の細長い部分が見えますが、これは風に吹き寄せられた砂の模様です。

津波よけ「千年希望の丘」について(岩沼市サイト内)

※写真
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黒島or黒嶋

2013-09-25 | 東北にて
黒島or黒嶋 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 9月25日(水)21時58分40秒

>筆綾丸さん
名字がクロシマで海に関心があると聞くと連合艦隊の奇人参謀、黒島亀人を連想してしまいますが、黒嶋敏氏は「嶋」ですから、御親戚という訳でもないんでしょうね。


ネットで少し話題になっていた與那覇潤氏と東島誠氏の対談集『日本の起源』を通読してみたのですが、與那覇潤氏の中世に関する認識は網野善彦氏の多大な影響を受けていますね。

與那覇潤『日本の起源』序文

中世史の若手研究者は網野氏が大胆に広げ過ぎた「明るい中世」のイメージを、近世ときちんと接合できるように実証的に、聊か地味な「暗い中世」に引き戻す仕事を要求されている感じがしますが、黒嶋氏の『海の武士団』もその一環と言ってよいのでしょうね。

黒嶋氏の所謂<海の勢力>、とても学術的な概念とはいえない曖昧な表現なので、4字使うくらいだったらいっそのこと「海民」でいいんじゃないの、と思いましたが、最初の方を読み直したら網野氏が「海民」の定義らしきものをしているので(p16)、黒嶋氏としては安易に使うことはできないのでしょうね。
網野氏の網は広大かつ稠密で、後進の研究者はなかなか大変ですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿への返信です。

three-hour tour 2013/09/20(金) 14:01:37
小太郎さん
黒嶋敏氏の『海の武士団』は、ところどころ立ち読みはしてみたのですが、辻堂(藤沢)あたりのサーフィンの話で、ずっこけました。もういちど、兆戦してみます。

http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-24156005
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He inspected storage tanks holding radioactive water and water treatment equipment at the plant during his three-hour tour, reports say.
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three-hour tour(駈足旅行?)とはずいぶん馬鹿にされたものですが、この3時間には、安倍首相が激務の合間によく行くゴルフの1ラウンドに要する時間にも満たないだろう、という皮肉がこめられているような気がします。フランスのどうでもいいような新聞には、原発絡みで抗議したものの無視されましたが、さすがBBCくらいになると、文句は言わないのでしょうね。まあ、事実ではありますが。

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The two reactors are in addition to four others that were earlier marked for decommissioning.
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decommissioning(廃炉)は、映画『終戦のエンペラー』で降伏後の武装解除の意味にも使われていましたが、アサドの chemical weapons の場合は、 destroy と言って decommission とは言わないのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
連合艦隊の旗艦「長門」などは、 decommission と同時に confiscate され、あげくは destroy された、ということになるのでしょうね。 


寄船と置石とオマージュ 2013/09/22(日) 19:49:43
黒島敏氏の『海の武士団』に、以下のような記述がありますが、decommissioning に似ていなくもないですね
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これは中世日本に広く見られた、寄船慣行によるものだ。寄船とは漂着船のこと。船やその積み荷は、漂着した時点で「無主」つまり持ち主のいないものとなり、その土地のものとすることができるのである。(中略)
せっかく船が無事に入港しても、積み荷が濡れていたら漂着物として没収されかねない。いかに寄船慣行が根強く存在し、船からすれば理不尽なものであっても、寄船と見なされることのリスクが大きく、その言いがかりも常態化していたかが分かる。(42~44頁)
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追記
同書67頁に、伏見上皇院宣案(1308年)の「云上船石別升米、云下船置石」の説明として、津料には二種あって、
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「上船」つまり畿内へ上る船には積み荷ごとに「石別升米」という賦課が、「下船」とされた西へ帰る船には「置石」という賦課がそれぞれ課せられていたのだ。(中略)するとここでの「上船」「下船」は積み荷の有無を指した可能性が高く、「升米」は積み荷に対する賦課、「置石」は積み荷ではなく船体に対する賦課だと考えられる。
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とありますが、ここで思い出されるのが鎌倉若宮大路の段葛の別称としての置石です。この別称が何時頃発生したのか不明ですが、置石に八幡宮(寺)への「初穂」というような含意があったのかどうか。頼朝と政子の「初穂」とも云うべき頼家が、八幡様へのいわば供物にされたことなどを考え合わせると、気になる名称ではありますね。
http://www.kcn-net.org/sisekihi/dankazura.htm
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室町時代の文献には「置石」「置路」「作道」と記され、絵図も残されている。(石井進『中世の村を歩く』126頁)
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追記の追記
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現在の和賀江島は潮が満ちてくると沈んでしまうが、鎌倉時代の和賀江島は、ある意味で得宗専制という海に沈んだのだ。(94頁)
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巧みな表現ですね。

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室町幕府は海賊禁圧を放棄することで、鎌倉幕府のように海賊を反体制者と位置づける必要もなくなり、それゆえに自由に系列化を推進できたのである。(中略)体制・反体制という色分けを、しなやかに脱ぎ捨てた為政者の登場は、<海の勢力>に大きな影響を与えた。(151頁~)
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なるほど。

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天下統一以降、静かな安定へと流れていく日本社会と、ざわざわと賑わうアジアとの、海のギャップが広がっていくなかで、一攫千金の好機をねらうもの、起死回生の新天地を求めるもの、ざわめきへの郷愁に突き動かされたもの、さまざまな思いを抱いて彼らは海を渡ったのである。(210頁)
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「海の勢力」への涙ぐましいオマージュですね。
コメント
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