投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月31日(火)11時02分18秒
7月15日の投稿で、近世身分制社会を「袋」に喩えた松沢裕作氏の比喩の能力にひどく感心してしまいましたが、『TN君の日記』(福音館書店、1976)によれば、福沢諭吉は「たんす」に喩えたそうですね。(p11)
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TN君の十歳ほど年上の福沢諭吉は、徳川の封建制の時代のやりきれなさを、こんなふうに説明している。
「それはひきだしのたくさんある、たんすのような世界だ。人間は、そのひきだしごとに、きちんと身分で区別されて整理されている。いくら、たんすをゆすってみても、上のひきだしの中のものと、下のひきだしの中のものとは、いつまでたったって、まじりあうことはない。そういう、きちんとした秩序に世の中がかためられていた。家老の家に生まれたものは、苦労しないでも大きくなれば家老になり、足軽はどんなに努力しても足軽だ。別のものになる自由がない」
TN君は、こうして代々足軽になることがきまった家に生まれたのだ。
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出典が気になりますが、『TN君の日記』は注記皆無なので手がかりがありません。
『福翁自伝』あたりですかね。
「袋」の世界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/322b07886959e6dde337407eedd0cc55
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E9%80%9A%E9%83%A8%E5%88%86_(%E6%95%B0%E5%AD%A6)
Nada y nada の言う「オウムとファシズムは同心円を描いている」の「同心円」という比喩が、私にはよくわかりません。集合Aと集合Bの共通部分と考えた方がいいような気がします。氏の論理で言えば、ナチズムもスターリニズムも Daech(IS)も中心が同じ円を描く、ということになるのでしょうね。眠狂四郎の円月殺法のような円を。
小太郎さん
Nada y nada の著書は未読ですが、「集団の精神療法」とか「治療的なコミュニティ」とかの、気持ち悪い表現を見ると、某教団のマインド・コントロールを思い出しますね。
数日前に読んだ池井戸潤『民王』に、「泣いて馬刺しを切る」というパロディがあって、思わず吹き出してしまいました。
前回投稿で『神、この人間的なもの─宗教をめぐる精神科医の対話─』(岩波新書、2002)のp183以下を引用しましたが、「ぼくたちは、一週間後に、二人が昔働いていた海辺の病院で会うことにした」(p148)、「思い出を語るとき、ぼくたちの視線はどうしても遠くを漂った。剣崎の灯台、オープンシーをはさんで洲崎、そこをひっきりなしにコンテナ船が行き来する」(p178)という記述があるので、著者の経歴に照らすと、対談場所に設定されているのは国立療養所久里浜病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)ですね。
なだいなだ(1929-2013)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%A0
そして、前回投稿で引用した部分の直前には、
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ぼくは東京湾の入り口に向けて、米軍の航空母艦が進んでいく姿を見た。一隻で何百万の命を奪う武器を積んだ船だ。この船だけで、地球を破壊できるくらいの原爆を持っているのだろう。
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とありますが、まあ、これは著者の単なる無知ですね。
冷戦終結後、1991年9月のブッシュ(父)大統領による一方的核削減措置演説に基づき、米軍は海軍の戦術核兵器を撤去しており、空母には核兵器は積まれていません。
これは、例えば原水禁のような団体のホームページにも出ている周知の事実ですが、著者はあまり国際情勢には興味がないのでしょうね。
ちなみに原水禁サイトの関係個所には、コリン・パウエル統合参謀本部議長の回想として、
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ここはレーガン時代の強硬派の牙城となっており、ポール・ウルフォウィッツ以下、全員が猛反対した。そういう経緯を承知していたにもかかわらず、私は機上でチェイニー長官にこの提案を突きつけたのである。すでに超遺憾の特別補佐役を務めるデービッド・アディントンが数々の問題点を指摘し、賛同できないとこき下ろした文書である。チェイニー長官は困ったようにぶつぶつ言いながら、読み始めた。
http://www.gensuikin.org/nw/n_artlry.htm
とありますが、「超遺憾」は謎ですね。
ま、おそらくこれは「長官」の誤変換なのでしょうが。
https://www.iwanami.co.jp/book/b371359.html
http://jinkaishu.webcrow.jp/translation/024.html
清水克行氏『戦国大名と分国法』を半分程、読みました。
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文中に出てくる「むて人」とは、「塵芥集」によく出てくる独特の言葉で「愚か者」といった意味である。原則的には敵討ちは禁止だが、すでに伊達家から処罰(この場合は追放刑だろう)をうけた加害者が、その処罰に従わず、再び領内に舞い戻ってきた場合は、「むて人」が仇を討つために襲いかかっても一向に構わない、というのだ。最初に原則的に敵討ちは禁止と述べているし、それでも敵討ちを強行する者のことを「むて人」と呼んでいるところから、稙宗が敵討ちを不当な行為であると位置づけていたことは明らかだろう。ところが、いったん処罰をうけた加害者が伊達家の処罰を無視するような行為に出た場合は、そのときに限って被害者遺族による復讐を認可する、というのが、この条文の後半の主旨なのである。復讐は基本的には認めないが、もし伊達家の処罰に従わないようなヤツなら、もう知らないから、そんなヤツは煮るなり焼くなり、どうぞご自由に、というわけである。(52頁~)
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『塵芥集』第24条に関して、氏は以上にように説明しますが、「むて人」を「愚か者」と解釈したのでは、意味が通らない。ここは、(伊達家による処罰という)事情を知らない人(被害者の親あるいは子)、つまり、「むて」は「無手」で、状況を知る手立てがない、というような意味ではあるまいか。猪突猛進の愚か者ということではあるまい。
読了しました。
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分国法を定めた大名たちも、個々には滅亡の憂き目をみたが、社会と切り結び、民間の法慣習に公的な位置を与えるという彼らの志向性は、最終的には、その後の近世社会に継承されていくことになる。近世に入ると、各大名家では藩法と呼ばれる領国法を定めるようにゆくが、そこでは分国法の理念がより純度を高めて継承されている。また、彼らを討ち滅ぼした大名たちも、当然ながら対外膨張政策を推し進めるだけでは、早晩、その支配に行き詰まりを見せることになる。やがて彼らも、既存の法慣習と自分たちの支配とのあいだに折り合いをつける模索をはじめることになる。(205頁)
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分国法を持たぬ大名が戦国時代の覇者になったが、分国法の理念だけはしぶとく生き延びて最終的には覇者を支配した、ということは、そんな迂遠なものを有したが故に滅んでいった大名たちへの、なんというか、有難いような情けないような、鎮魂歌にはなりえますね。
分国法を抱いて滅んだ亡者たちよ、君たちは、歴史に偉大な足跡を残したのだ、だから RIP(requiescant in pace)、と。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月23日(月)14時20分4秒
秩父事件関係の本をまとめて読んだ後、秩父事件に6か月先行する群馬事件についても福田薫『蚕民騒擾録─明治十七年群馬事件』(青雲書房、1974)や藤林伸治編『ドキュメント群馬事件─昔し思ヘば亜米利加の…』(現代史出版会、1979)などの関係書籍をパラパラと眺めてみました。
群馬事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
秩父事件の場合、その舞台が群馬県西南部に隣接する養蚕地帯であり、史料に出てくる語彙や口調が群馬に似ていて、何だか生々しい感じがしたのですが、群馬事件となると私の生活圏に近く、ふーん、あそこでそんなことがあったのか、みたいな驚きの連続です。
まあ、そんな訳で個人的にはそれなりに面白いのですが、ローカル過ぎてこの掲示板に載せるにはあまり適当な話題でもなさそうです。
ただ、人的な面から秩父事件と群馬事件の両方に関わる「浦和事件」(密偵殺し)という出来事があって、その関係者に旧高崎藩出身の士族で深井姓の人物がいるのですが、どうもこの人は以前この掲示板で少し論じた第十三代日銀総裁・深井英五の親族のようですね。
深井英五(1871-1945)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E4%BA%95%E8%8B%B1%E4%BA%94
慶応大学名誉教授・寺崎修氏の「明治十七年浦和事件の一考察」(『武蔵野大学政治経済研究所年報』第5号、2012)という論文がネットで読めますが、そもそも「浦和事件」とは何かというと、
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明治十七年(一八八四)四月十七日夜、埼玉県秩父郡日野原村の青年自由党員村上泰治の要請により岩井丑五郎、南関三の両名が、当時明治政府の密偵と怪しまれていた同じ自由党員の照山俊三をピストルで射殺する、という事件が起こった。のちに浦和事件(密偵殺し)と呼ばれる事件がこれである。
https://www.musashino-u.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00000883.pdf&n=%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B9%B4%E3%83%BB%E6%B5%A6%E5%92%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%80%83%E5%AF%9F.pdf
ということで、裁判が浦和で行われたために「浦和事件」という名前がついていますが、殺人事件自体は秩父で発生しています。
そして、裁判の経緯に若干不可解な点があるものの、「浦和重罪裁判所」の判決では殺人実行犯の他に宮部襄と深井卓爾が「謀殺教唆」で「有期徒刑十二年」に処せられ、二人は北海道の「樺戸集治監」に収監されることになります。
深井卓爾は深井家の分家の人で、深井本家の女性と結婚したと記す文献もあるので、深井英五の姉妹の夫なのかな、と思っています。
深井英五『回顧七十年』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/605b63aac3f2e40c619f3245c4fd32f3
「高崎潘兵中弓を携へたのは景命一人であつた」(by 深井英五)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c36207d2f5a0ba9975c758eeec597ef
軍都高崎の「坊ちやん」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89e75f603c5f54b0bca6a69bd0674805
>筆綾丸さん
ま、「袋」はあくまで比喩ですからね。
松沢裕作氏の「結社」についての説明は、「袋」の比喩を用いない「地方自治制と民権運動・民衆運動」(『岩波講座日本歴史』第15巻、2014)の方がむしろ分かりやすい感じがします。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
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・・・筆者は、近世史研究の蓄積にもとづき、少し違った意味で「近世の身分制」という言葉の意味をとらえている。「士農工商」が、三角形のヒエラルヒーでイメージされるとすれば、筆者のいう身分制とは、人間が、いくつかの「袋」にまとめられ、その「袋」の積み重ねによって一つの社会ができあがっているようなイメージである。(松沢裕作氏『自由民権運動』24頁)
結社は、身分制社会が解体した後の人びとの拠り所として立ち上げられた。そうであるとすれば、民撰議院がポスト身分制社会の最有力の構想となった一八七四(明治七)年以降、そのような結社が、民撰議院構想の実現を目標の一つに据えることは当然のなりゆきである。結社という新しい「袋」は、民撰議院という新しい「酒」を盛るのに最適な器だった、というわけである。
(同51頁)
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近世身分制社会の「袋」には閉鎖的で排他的なイメージが連綿とするのに対して、ポスト身分制社会の結社には参加と脱退が自由で開放的なイメージが揺曳するから、後者を新しい「袋」」とはせず、ほかの言葉、たとえば「風呂敷」くらいにしたほうがいいのではあるまいか。
近世社会の「袋」は、戊辰戦争でズタズタに破けて、いわば木綿の「袋」から絹の「風呂敷」へと移行した、といったようなイメージでしょうか。もっとも、木綿も絹も酒は盛れず、盛れるのは「皮袋」ですが、それでは、制外の卑賎な職業が付き纏ってしまいますね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月20日(金)11時43分45秒
早くピーター・ゲイの『シュニッツラーの世紀』を読み終えねば、などと思っていたのですが、自由民権運動も結構面白くて、ついつい長谷川昇『博徒と自由民権─名古屋事件始末記』(平凡社ライブラリー、1995。初版は中公新書、1977)と井上幸治『秩父事件─自由民権期の農民蜂起』(中公新書、1968)を読んでしまいました。
前者は松沢裕作氏が「私が『自由民権運動』を書いたときに強い影響を受けた本」だそうで、松沢氏は、
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本書には、著者の姿は正面に出てきません。自由民権運動の研究者と対象との距離は近づきやすいのですが、本書では、対象への思い入れが語られているわけではなく、博徒が運動に参加するに至る過程をある意味淡々と、事実関係に絞って記述してゆく。鮮明な図式が打ち出されたり見事な解説がなされたりしているわけでもないのですが、しかし、歴史書のなかには、物事が淡々と綴られていることに引き込まれる、叙事の面白さのある本も確かにある。本書はそのようなものです。
「このテーマの資料を追い求めて、いつのまにか二十余年の歳月が経過してしまった。……もうこのテーマを避けては通れない運命的な関わり合いをもってしまった」とあとがきに書かれているように、絶対に書き残さねばならないという強い執念が、じつは著者にはあるのです。この本の中で行われている事実関係を明らかにする仕事は、じつはものすごく大変で、ちょっとやそっとで調べられるようなことではありません。長期間にわたってそれだけを追い続けなければ明らかにはできない。幕末維新期の社会の変化に翻弄される人たちの運命を、埋もれさせずに、正確に記録しておきたいという熱意がなければ書けない本です。熱意を秘めつつ、淡々と書ききっているところに、歴史書の一つの模範を見ています。
https://www.iwanamishinsho80.com/contents/matsuzawayusaku
と言われています。
松沢氏は「ある意味淡々と」「物事が淡々と綴られている」「淡々と書ききっている」と「淡々」を三回も強調されるのですが、これは「自由民権運動の研究者と対象との距離は近づきやすい」一般的傾向のなかで、色川大吉のような研究者に典型的な「対象への思い入れ」がないことを言っているのみで、書かれている内容はあまり「淡々」としたものではないですね。
例えば、尾張藩草莽隊の中心となった博徒に近藤実左衛門という人物がいるのですが、長谷川氏は実左衛門の経歴を、
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嘉永三年、二五歳のとき、近隣岩作〔やさこ〕の博徒の親分直蔵の娘を娶り、直蔵と近隣の博徒太郎七との喧嘩のさい、五寸にもおよぶ刀疵をうけながら怯まなかった無鉄砲さが評判となり、水野村の吉五郎という尾張東部に名の知れた親分が自身で出向いて乾分〔こぶん〕にくわえた。嘉永五年二七歳のときである。翌年、奥伊勢で有名な親分桶吉という者の乾分が吉五郎宅に草鞋〔わらじ〕をぬいでいたさい、この者とのいさかいに示した実左衛門の気合の鋭さを聞きおよんだ桶吉から、義兄弟の縁を結ぶ申入れがあり、このころから実左衛門の侠名は近隣にひろまった。
水野村吉五郎には愛吉・伊勢常・新五郎など先輩格の有力乾分がいたが、安政二年実左衛門三〇歳のとき、親分吉五郎に見込まれて跡目をつぐことになったため、先輩格の乾分らが不平をとなえ陰に陽にこれを妨害した。実左衛門は腕力と度胸にものをいわせて、これらと数十回によぶ闘争をなしつつ圧服し、その縄張りを尾張東部から三河の西部に拡大していった。
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と描いていて、まるで講談でも聴くような趣があります。
ここなど、まだ「淡々」の度合いが少ない部分で、清水次郎長と三河の博徒「平井一家」の抗争を描く場面あたりはあまりに「淡々」としすぎていて、とても歴史学の論文とは思えない味わいがありますね。
なお、社会の底辺に生き、歴史の闇の埋もれてしまう運命にあった人びとの生態を調べるにあたって長谷川氏が手がかりとしたのは壬申戸籍であり、1968年以降は研究目的であっても閲覧できませんから、史料として非常に貴重なものが多いですね。
>筆綾丸さん
>『TN君の伝記』
「なだいなだ」という奇妙な名前の由来については、遥か昔、高校の英語教師から聞いた覚えがあり、ちょっと懐かしいですね。
『TN君の伝記』は未読ですが、読んでみたいと思います。
京極純一氏とキリスト教&共産主義
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e645e79f890a4b56757dc4d7b3ca5f61
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
松沢裕作氏『自由民権運動―〈デモクラシー〉の夢と挫折』を、少し読みました。
氏の言う「袋」は、フランスの commune やドイツの Gemeinschaft に近い概念のような気がしますが、そう言ってしまうと、ぽろぽろと袋から零れ落ちるものがあるのでしょうね。
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私がはじめて自由民権運動に関心をもったのは、おそらく小学生のときに読んだ、なだいなだ『TN君の伝記』だったと思う。以来つねに関心を寄せつつも、正面から向かうことなく回避しつづけてきたテーマでもある。(「おわりに」217頁)
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http://19san.com/?p=366
未読ですが、早熟な小学生だったのですね。
スペイン語の nada y nada は、敢えて訳せば、イヤよ、イヤイヤ、或は、ダメよ、ダメダメ、ですかね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月15日(日)11時36分23秒
昨日は松沢裕作氏の『自由民権運動―〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書、2016)を読んでみましたが、これは非常に良い本ですね。
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維新後,各地で生まれた民権結社.それは〈デモクラシー〉に夢を託した人びとの砦であった.新しい社会を自らの手で築く.その理想はなぜ挫折に終わったのか.旧来の秩序が解体してゆくなかで,生き残る道を模索する明治の民衆たち.苦闘の足跡が,いまの日本社会と重なって見えてくる.
https://www.iwanami.co.jp/book/b243833.html
国会図書館サイトで検索してみたら高島千代(『人民の歴史学』212号)、飯塚彬(『千葉史学』71号)、安在邦夫(『民衆史研究』94号)の諸氏の書評があるとのことなので、後で読んでみたいと思います。
ネットでも評価は高く、書評が多いようなので内容紹介はそちらに譲るとして、以下は個人的なメモです。
先月、大山喬平氏のインタビュー「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)を読んだ後、近世の身分制も一度きちんと勉強しておかねばいかんなあ、などと漠然と思っていたのですが、松沢氏の近世身分制に関する「袋」の比喩は卓抜ですね。
本書の「第一章 戊辰戦後デモクラシー」は、
一 戦場での出会い
二 それぞれの戊辰戦後
三 暴力の担い手たち
四 近世身分制社会とその解体
と構成されていて、四に「袋」の比喩が出てきます。(p24以下)
-------
さて、ここまで「近世の身分制」という言葉を漠然と使用してきたが、ここで少しその意味を厳密に考えておきたい。
江戸時代における身分制といえば、「士農工商」の階層的な秩序が想起されるかもしれない。いわば、政治権力を持つ武士を頂点とするヒエラルヒー的な上下関係、階層秩序のことである。
しかし、筆者は、近世史研究の蓄積にもとづき、少し違った意味で「近世の身分制」という言葉の意味をとらえている。「士農工商」が、三角形のヒエラルヒーでイメージされるとすれば、筆者のいう身分制とは、人間が、いくつかの「袋」にまとめられ、その「袋」の積み重ねによって一つの社会ができあがっているようなイメージである。
ここでいう「袋」とは、社会集団のことである。たとえば、「百姓」という身分を持つ人びとは、「村」という集団に所属し、幕藩領主から「村」単位で把握される。そのあらわれが、年貢の「村請制」である。【中略】
一人ひとりの人間が、身分的な社会集団という「袋」にまとめられ、支配者から集団を通じて賦課される「役」を果たす。これが近世身分制社会の基本的な構造である。
-------
ところが、戊辰戦争では、この身分制社会の根幹であったはずの武士の「軍役」の仕組みが崩れてしまう訳ですね。(p26以下)
-------
しかし、戊辰戦争による軍事動員は、近世社会の本来的なあり方だった軍役を通じた武士の動員という形ではおこなわれなかった。実際には、都市下層民や博徒の軍隊が戦場に投入され、河野広中のような、政治的に活性化した武士身分以外の人びとも戦争に参加した。つまり、戊辰戦争において、近世身分制社会の基本単位となっていた「袋」がやぶれてしまったのである。
-------
そして、この「袋」の比喩が「終章 自由民権運動の終焉」に改めて登場します。(p204以下)
-------
自由民権運動は、「ポスト身分制社会」を自分たちの手でつくり出すことを目指した運動であった。したがって、それはポスト身分制社会の形が、まだはっきりとは見えていない時代、すなわち、近世社会と近代社会の移行期に生まれた運動であった。そして移行期が終わり、近代社会の形が定まったとき、自由民権運動は終わる。一八八四(明治一七)年秋、展望を失った自由党が解党し、秩父の農民の解放幻想が軍隊の投入によって打ち砕かれたとき、自由民権運動は終わった。【中略】
近世身分制社会は、個々人が集団に仕分けされ、「袋」に閉じ込められる息苦しい社会であった。戊辰戦争は、一面でそうした息苦しい「袋」に穴をあけ、人びとの新たな活動への余地をつくり、一面でこれまでひとつの「袋」に良くも悪くも依存しながら生活してきた人びとに不安をもたらした。戊辰戦争による社会の流動化は、一方で政治参加への熱意と野心を、一方で依るべき集団を失った人びとの不安を同時に引きおこした。自由民権運動はそうした熱意と野心と不安のなかから生まれた。
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ひところ江戸をやたらと礼賛する風潮があり、当掲示板で少し検討した水谷三公氏などはその代表者でしたが、まあ、動機には酌むべきところがあるとはいえ、いくら何でも行き過ぎでしたね。
『江戸は夢か』への若干の疑問
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6eb788198813c79a40a3cd8da955ed70
「アメリカ人学者ハンレー及びヤマムラ夫妻の研究が、説得的」(by 水谷三公)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c56dcc7d20e4efd49b234bfbae182b4a
E・H・ノーマンと「戦後日本の倒錯した悲喜劇」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cb96c7eb79ed8a396a7bb5a8fa0917b
「近世身分制社会は、個々人が集団に仕分けされ、「袋」に閉じ込められる息苦しい社会であった」のは間違いなく、明治政府は諸々の「袋」を果断に破った点で、基本的には正しい方向を進んだ訳ですから、私はあまり自由民権運動に同情的ではありませんが、「おわりに」を見ると、松沢氏にはもう少し複雑な感情があるようです。
昨日は『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)の「むすび」について非常に否定的に書いてしまいましたが、松沢氏が一昔前の西川長夫氏あたりを中心とする国民国家批判を冷静に評価している点は良いですね。
そもそも西川長夫説はどのようなものかというと、
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フランス史家の西川長夫氏は、この木畑氏の定義をうけて、国民国家は以下の五つの特徴を備えているという。
第一に、国民国家は国民主権と国家主権によって特徴づけられること。
第二に、国民国家には国家統合のためのさまざまな装置(議会、政府、軍隊、警察、等々といった支配・抑圧装置、家族、学校、ジャーナリズム、宗教、等々といったイデオロギー装置)、国民統合のための強力なイデオロギー装置を必要とすること。
第三に、国民国家は、他の国民国家との関連において存在するのであって、単独では存在しえないこと。
第四に、国民国家による解放は抑圧を、平等は格差を、統合は排除を、普遍的な原理(文明)は個別的な主張(文化)を伴うというように、国民国家は本来矛盾的な存在であること。
第五に、国民国家を形作るさまざまな要素は、他の国民国家から取り入れ可能であり、別の国民国家に移植可能な、「モジュール」としての性格を持っていること。たとえば明治の日本が、分野に応じて、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカといった諸外国をモデルとして、それぞれのシステムを輸入することが可能だったのは、こうしたモジュール性ゆえである。
こうした国民国家の特徴に注目する歴史研究は、日本では一九九〇年代に盛んにおこなわれた。とくに注目されたのは、西川氏の指摘する第二の特徴、国民国家の統合装置とイデオロギーの研究である。現在の人々は、つい、「日本」や「フランス」といったひとつのまとまりが、遠い昔から存在していたように考えがちであるが、それは近代国民国家が創り出した幻想である。人びとは、教育やメディアを通じてそのような意識を身につけさせられるのである。そのような意識を持つことによって、ナショナリズムというイデオロギーに人びとは熱狂し、ついにはそのために命を投げ出し、戦争にまで駆り立てられてゆく。研究者たちはそのように論じた。
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といった内容です。(p194以下)
松沢氏は、
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これらの研究は、国民国家の存在を自明視していた人びとに対して、それが人工物、それも近代になってから作り出された人工物なのであって、太古の昔から存在していたわけではない、ということを暴露した点において大きな意義を持つものであった。
しかし、それだけでは、本書の視角からすれば不十分である。国民国家は、単独で存在しているのではなく、国民国家を同心円のひとつとする、複数の同心円によって成り立つ世界の秩序に支えられて存在しているからだ。
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とした上で、ホブズボームに着目します。
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この点で興味深いのは、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームのナショナリズム論である。ホブズボームによれば、一九世紀のヨーロッパにおいて、ある集団が、国民国家を形成しうる「ネイション」であるかどうかという点について、人口や面積に「閾値」があると考えられていた。国民国家を形成しうるのはすべてのエスニックな集団ではなく、その集団がある一定の規模を持っていることが必要だった。したがって、ネイションの形成とは、より大きな国家から小さな国家が「独立」していく過程ではなく、逆に、いくつもの小さな集団がひとつの「ネイション」という大きな集団にまとまってゆく過程であり、つまり国民国家の形成とは、世界を分割する単位の拡大の過程であると考えられていた。そして、いつかは全世界の統一に帰着すべき単位の拡大の次善の策として複数の国民国家からなる世界が存在する、とされていたのである。ホブズボームはこれを「自由主義ナショナリズムの古典的時代」と呼び、二〇世紀のナショナリズムと区別する。
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ということで(p196以下)、いわれてみれば当たり前の「コロンブスの卵」ですが、国民国家批判の狂騒期には、こうした視座を確保するのもけっこう難しいことでしたね。
さて、松沢氏は、
-------
ホブズボームのナショナリズム論の教えることは、本来、国民国家の人工性は自明視されていたのであって、人びとはそれを知らずに国民国家のイデオロギーに熱狂していたわけではない、ということである。
-------
と纏めた後で、独自の「同心円」理論を展開するのですが、ここは私には理解しにくいので紹介も難しく、興味を持たれた方は松沢著を確認していただきたいと思います。
私には、
-------
問題は、そうした、便宜的単位にすぎず、ごく散文的で事務処理的なつまらない国民国家から、人がそれに命がけになってしまうような、あるいは人の命を奪ってしまうようななにか、つまり「境界的暴力」が生まれてしまうことだ。
虚偽のイデオロギーとしてのナショナリズムを指弾するだけではじゅうぶんではないのだ。ナショナリズムの虚偽性を暴いたとしても、ナショナリズムを支える秩序の本体を撃ちぬいたことにはならない。本来はごく散文的でつまらない、切実性を持たないはずの国民国家が、人びとに対して暴力をふるうのはなぜなのか。
-------
といった松沢氏の問いかけの仕方が(p198)、国民国家を論ずるにしてはずいぶん無邪気で、「笑顔を輝かす少年のよう」だなあという感じがします。
西川長夫(1934-2013)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E9%95%B7%E5%A4%AB
Eric Hobsbawm(1917-2012)
https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Hobsbawm
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月13日(金)22時35分53秒
今日は松沢裕作氏の『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)をパラパラ眺めてみたのですが、あまり感心しませんでした。
この本の構成は、
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はじめに 境界を持たない社会・境界を持つ権力
第一章 江戸時代の村と町
第二章 維新変革のなかで
第三章 制度改革の模索
第四章 地方と中央
第五章 市場という領域
第六章 町村合併
むすび 境界的暴力と無境界的暴力
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195525
となっていて、第一章から第六章までは、おそらく「「難しくてよくわからない」という評価をしばしば頂戴した」(p217)という前著『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、2009)の内容を分かりやすく整理したであろう実証的な研究で、私など全く門外漢ですが、まあ、何とか理解できます。
しかし、松沢氏は「むすび」で西川長夫、エリック・ホブズボーム、ベネディクト・アンダーソン、カール・マルクス、イマニュエル・ウォーラーステインなどを引用しつつ、ものすごく大きなことを言われていて、ご本人はそれが第一章から第六章までと緊密に結びついていると思われているのでしょうが、分量だけ考えてもあまりに不親切な説明で、これで納得できる人は殆どいないんじゃないですかね。
松沢氏は同心円という表現がお気に入りのようで、最初から最後まで何十回と同心円が登場するのですが、池田嘉郎『ロシア革命─破局の8か月』のトロツキー評を借用するならば、
松沢裕作は大風呂敷に同心円を本当に美しく描いて「僕こんなのできるんだよ」と笑顔を輝かす少年のようであった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3fd30114a15f8f7d88c0a2d4935b19b
てなことを言いたくなりますね。
>筆綾丸さん
昨日の投稿では最後にラベンダーの香りとか書いてちょっと洒落たことを言ったつもりになっていましたが、ラベンダーの香り=「時をかける少女」と松田優作は全然関係ないのに変な思い込みで書いてしまいました。
読み直すとかなり恥かしいですね。
わはは。
時をかける少女
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%82%92%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E5%B0%91%E5%A5%B3
>「これもみたび仁和寺の法師」
仁和寺は労働裁判でも話題になりましたね。
拝金主義のブラック寺院。
「まさか寺までブラック化」元料理長349日連続勤務、世界遺産・仁和寺の「罰当たり」ネットで拡散
https://www.sankei.com/west/news/160516/wst1605160004-n1.html
https://unipa-web.atomi.ac.jp/kg/japanese/researchersHtml/R1160/R1160_Researcher.html
禿あや美氏の名で、『平家物語』に登場する密偵(禿)を連想しましたが、若い頃は、きっとイジメを受けたのでしょうね。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180711-00000001-pseven-soci
『徒然草』第53段「これも仁和寺の法師・・・」を踏まえ、この記事には、「これもみたび仁和寺の法師」という標題を付けて、第53段の2に分類したいところですね。
『分断社会・日本─なぜ私たちは引き裂かれるのか』のような陰気な本を読んでしまった後の毒消しという訳ではありませんが、ピーター・ゲイの『シュニッツラーの世紀─中流階級文化の成立1815-1914』(田中裕介訳、岩波書店、2004)もパラパラ眺めてみました。
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19世紀ウィーンの小説家・劇作家の日記の解読を通して,ブルジョア文化のさまざまな側面を分析.厳格で堅苦しい19世紀という神話化された西欧文化史の通念を大胆な手法で覆し,新しい時代像を描き出す刺激的力作.
■著者からのメッセージ
私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた.歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは,1970年代はじめのことである.その結実が,『ブルジョワの経験 ヴィクトリアからフロイト』(1984―98)の総題のもとにまとめた五巻に及ぶ嵩高い研究であり,セクシュアリティ,愛,攻撃感情,内面生活,中流階級の趣味といった異例な主題に的を絞っている.この主題の選択は私がフロイトの衝撃を受けたことをあからさまに物語っていようが,私は自分の過去への見方を,歴史家共通の土俵である「実在の」世界へと結びつけるように細心の注意を払った.結論とは裏腹に分量はつつましやかなこの書物は,先立つ大作の単なる『リーダーズ・ダイジェスト』風の要約ではない.大量の新しい史料と主題を投入しているうえに,既出のいくつかの主題もさらなる考察に値すると思われたものである.新しい小振りの瓶に詰め直した古いワインというわけではない.私はそれを再考し,相当に深く追究しえたと思うのである.(本書「序」より:圧縮のうえ転載)
https://www.iwanami.co.jp/book/b261537.html
<本書「序」より>とありますが、実際には「序文」なので、ずいぶん細かいところまで「圧縮」していますね。
「序文」冒頭を「圧縮」しないで紹介すると、
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この書物は、あるひとつの階級、すなわち一八一五年から一九一四年までの十九世紀の中流階級の伝記である。私が案内役として用いたのは、アルトゥア・シュニッツラー、その同時代でもっとも興味深いオーストリアの劇作家にして主に中篇と短篇を書いた小説家である。なぜシュニッツラーなのか。彼はおよそブルジョワの典型ではない。財産、才能、表現力─そして鋭敏な神経─の点で彼に劣る、つまり彼よりもよくこの階級を体現する十九世紀生れの人間は無数に存在する。「平均的なブルジョワ」という意味で「ブルジョワを体現する存在」を求める限り、「凡庸」とはまったく縁のないシュニッツラーは、私の目的とは合致しないであろう。しかし、私が研究の過程で気づいたように、かれはその才質によってこの書物で私が記述する中流階級の世界について信用のおける情報をおびただしくもたらす目撃者となっている。彼は以下に続く各章で、時に広範な研究への案内役として、また時に登場人物として現れるだろう。私はこの男がたいへん興味深い(つねに好ましいわけではないが)と思うのだが、それだけのために、私が探求を重ね、理解しようと努めてきた壮大なドラマの一種の進行役に任じたのではない。さらに私には好都合な、より説得力のある理由がある。
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とあり、そもそもシュニッツラーの小説自体を読んだことのない私でも理解できるのだろうかと不安に思って読み始めたところ、本文はシュニッツラーに関する詳細なエピソードに溢れているので、十分に理解可能ですね。
Arthur Schnitzler(1862-1931)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%A9%E3%83%BC
さて、ピーター・ゲイは自身の歴史研究の方法に関して、同じく「序文」で次のように述べています。
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私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた。歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは、一九七〇年代はじめのことである。もちろん十九世紀の中流階級について教えてくれる書物はいくつか存在していたが、この主題は歴史家の大多数の興味を惹いてはおらず、確かに食指が動く主題ではなかった。興味をそそる研究分野は他にあった。女性史、労働者階級の歴史、黒人の歴史、そしてやや羊頭の気味があるが「新しい」文化史と自ら名乗るものである。哲学者が歴史の因果律を世俗に引きずり下ろした十八世紀以降たっぷり二百年以上にわたって、専門の歴史家は不満を募らせる時期を周期的に経験してきた。誰もが了解する歴史研究の領域が狭苦しく思える時期である。
こうした不満の多くが豊かな実りに結びついた、つまりかつては問われなかった問いと抱かれなかった疑問を産み出したのである。しかし同時に事態が泥沼化したのは、とりわけ主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈するようになって以降のことである。彼らは、歴史家の地平を押し拡げるのではなく、これまで長いあいだ多くの歴史家が携わってきた過去をめぐる真実の探求へときわめて不当な疑念を投げかけた。このような騒然とした雰囲気のなかで、私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史─支えられている、のであって、押し潰されている、のではない─が、私には正しい導きの糸に思われたのであり、誰ひとり見向きもしなかった十九世紀のブルジョワが豊かな可能性を秘めた主題であるように思われたのである。私の仕事が修正主義的な性格を帯びようとは、当時気づかず、またその後何年も気づかなかった。私がそうした性格を当初より織り込み済みではなかったことは確かだ。証拠の導きに従って、わが道を進んでいっただけなのである。
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「主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈」云々は辛辣で笑えますね。
ピーター・ゲイは訳書も多く、「私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史」は日本においてもそれなりに好意的に受け止められているのではないかと思いますが、肝心の歴史研究者の世界において、ピーター・ゲイはどのような存在なのですかね。
ピーター・ゲイの方法を正面から受け止め、この方法で歴史叙述を行なっている日本の研究者は誰かいるのでしょうか。
私は松沢裕作氏の著書を全然読んだことがなかったのですが、何故か奇妙に懐かしい名前のような感じがしていたところ、昨日、某図書館で演劇関係の本を眺めている時に、俳優の松田優作に似ていることに気づきました。
松田優作(1949-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%84%AA%E4%BD%9C
ま、だから何なのだ、と言われればそれまでなのですが、ふとそんなことを思いついたので、その図書館で松沢氏の著書を検索してみたところ、
『明治地方自治体制の起源─近世社会の危機と制度変容』(東京大学出版会、2009)
『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)
『分断社会・日本―なぜ私たちは引き裂かれるのか』(岩波ブックレット、2016)
の三冊が出てきました。
最初の本は本格的に固い学術書みたいだったのでちょっと手が出ず、二番目の選書メチエをパラパラ眺めてみたところ、「あとがき」によれば、この本は松沢氏が史料編纂所にいたときに、本郷和人氏が講談社の編集者を紹介してくれたので出せたそうですね。
また、最後の岩波ブックレットは井出英策氏(慶応大学経済学部教授)と松沢氏の共編で、『世界』の特集記事をまとめたものでした。
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いまや、メディアを覆い尽くすのは、自分よりも弱いものを叩きのめす「袋叩きの政治」であり、強者への嫉妬、「ルサンチマン」である。そして、社会的な価値の共有の難しさが連帯の危機を生み、地方誘導型の利益分配も機能不全に陥るなか、不可避的に強められるしかない租税抵抗が、財政危機からの脱出を難しくしている。「獣の世」としての明治社会は、まさに今日の「分断社会の原風景」だったのである。
近代化が進められたプロセスにあって、わたしたちは、既存の秩序が綻ほころびを見せるたびに、繰り返しこの原風景へと立ち返ってきた。世界史的な人口縮減期に入り、持続的な経済成長が前提とできない時代、いわば近代自体が終焉へと向かう時代がわたしたちの目の前に広がっている。
わたしたちは、新しい秩序や価値を創造し、痛みや喜びを共有することを促すような仕組みを作り出すことができるだろうか。あるいは、経済的失敗が道徳的失敗と直結する社会を維持し、叶かなわぬ成長を追いもとめては、失敗者を断罪する社会をふたたび強化するのだろうか。明治維新から約一五〇年。これからの一五〇年のあり方がいま問われている。
https://www.iwanami.co.jp/book/b243803.html
この本は、
Ⅰ 分断社会の原風景─「獣の世」としての日本
Ⅱ 分断線の諸相
Ⅲ 想像力を取り戻すための再定義を
の三部構成になっていて、Ⅰ・Ⅲは井出氏と松沢氏の共同執筆、Ⅱは禿あや美(跡見学園女子大学マネジメント学部准教授)、祐成保志(東京大学文学部准教授)、吉田徹(北海道大学法学研究科教授)、古賀光生(中央大学法学部准教授)、津田大介(ジャーナリスト)の諸氏が執筆しています。
「獣の世」は大本教の出口なおの、
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外国は獣類の世、強いもの勝ちの悪魔ばかりの国であるぞを。日本も獣の世になりて居るぞよ……是では国は立ちて行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。
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という不気味な予言に出てくる表現です。(p3)
まあ、パラパラ眺めただけですが、私の関心とはあまり重ならないテーマの生真面目で陰鬱な文章が続いて、ちょっとしんどかったですね。
「Ⅲ 想像力を取り戻すための再定義を」には、
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今回、私たちは、解決のための処方箋ではなく、問題の所在を明らかにすることを目的とした。おそらくは、いまの日本社会で頻繁に目に留まる議論、耳にする主張が、どのように私たちの社会の分断を強めているかを確認できたと思う。
分断が問題なのは、社会のいたるところに境界線が引かれ、他者に対する想像力が次第にうしなわれていくことで、私たちは「日本社会」の一員であること、「日本国民」の一員であることの実感をなくしてしまう、ということである。それは、肯定するにせよ、批判するにせよ、私たちが無意識のうちに前提としてきた社会や国民という概念そのものに疑問を投げかけるものである。
だが、それだけではなく、その時どきの支配者は、社会の凝集力を維持するために、もっともらしい装いをした偏ったイデオロギーでもって、なかば「一君万民」的に人びとを理念で結合し、社会や国民を力ずくで「建設」しようとするかもしれない。各層への分解と国家的・理念的結合、それが全体主義の時代を生むメカニズムである。
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とあり(p84以下)、「その時どきの支配者は」以下は随分古風な感じがするので、これを書いている井出英策氏が1972年生まれ、松沢裕作氏が1976年生まれと私よりかなり若い世代であることを考えると、ちょっとびっくりです。
私が高校・大学生のころの岩波新書などには、こんな雰囲気の本がけっこうあったような感じがするのですが、その後、山口昌男らの『へるめす』を契機に岩波の雰囲気も相当変わった後、再び時代が一回りしたのかな、とも思います。
ま、私も『世界』などを時々読んでいたのは殆どラベンダーの香りが漂ってくるほどの昔のことで、岩波の動向に詳しい訳ではないのですが、何だか妙な気分ですね。
井手英策(1972-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%89%8B%E8%8B%B1%E7%AD%96
松澤裕作(1976-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%BE%A4%E8%A3%95%E4%BD%9C
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月11日(水)08時14分35秒
ずいぶん長く投稿を休んでしまいましたが、そろそろ復活したいと思います。
網野徹哉氏の『インカとスペイン 帝国の交錯』(講談社、2008)をチラ見した後、桜井万里子・本村凌二氏のギリシア・ローマ関係の本とか、以前から気になっていたピーター・ゲイのフロイト伝などをパラパラ眺めていたところ、たまたま松沢裕作氏(慶応大学准教授)が池田嘉郎氏(東京大学准教授)の『ロシア革命─破局の8か月』(岩波新書、2017)を好意的に紹介されている文章を読んだので、同書を通読してみました。
松沢氏は、
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そして3冊目は、池田嘉郎『ロシア革命――破局の8か月』(岩波新書、2017年)です。
この本を読んだときは、正直に言って嫉妬しました。ロシア革命という巨大な歴史的変革を一挙に描き切る力量があるんだな、池田さんには、と。くやしかったですね。
本書も対象を突き放して距離をとっているといえます。ロシア革命を突き放すときに最も簡単で思いつきやすいのは、レーニンを中心としたボリシェヴィキから距離を取る、ということでしょう。冷戦終結も遠くなった現在では、もちろんそう考える人が多いわけです。ところが、本書はそれだけではない。2月革命以降、自由主義者たちや他の社会主義者たちがどういう行動をとったかに焦点を当てるのですが、彼らにロシアを変えてゆく可能性があったのかという話すらしない。彼らは頑張ったけれどもあまりに力が弱くて、それ以前の歴史に規定されて、負けるべくして負けたことが克明に描かれている。
つまり、あらゆる勢力に対して冷たい記述なわけですが、それでもなお面白いのはすごいことだと思います。物事がどう起きてゆくかの描き方に大変な力量を感じます。それからこの本は人物描写が際立っていますね。レーニンとトロツキーの比較をするところなど、登場人物一人ひとりの姿が鮮明に描き出されています。
https://www.iwanamishinsho80.com/contents/matsuzawayusaku
と書かれていて、この「レーニンとトロツキーの比較をするところ」は、池田著によれば、
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要するにレーニンの「ソヴィエト共和国」構想は、民衆の反乱を全肯定し、そうした反乱のありようをそのままあたらしい秩序の基礎に据えようというものなのであった。「底が抜けた」状態を全肯定して、資本主義や私的所有権を迂回したロシアをつくろうというのであった。それは世界革命への確信とも結びついていた。
レーニンの主張はそれまでの社会主義者の常識とはかけ離れていたので、彼の同志や弟子たちでさえも大いに困惑した。みな、ゆっくりとレーニンの発想に近づいていったが、彼の古くからの弟子であるカーメネフはのちのちまで、よりゆるやかな革命の道を求め続けた。ボリシェヴィキ党の幹部たちよりも、党外にいたトロツキーの方が、ずっと先に「四月テーゼ」に賛同した。ロシア革命はひとたび始まったならば社会主義革命の段階までとまることなく進むであろうという予見は、むしろトロツキーに著作権があると言ってよかった。
レーニンとトロツキーはロシア革命の傑出した二人の指導者であった。自律心の強いトロツキーはレーニンと長らく対立していたが、ロシアで革命が起こると二人の立場は急速に接近した。既存の秩序を何とも思わない点において、二人はともに子供に似ていた。だが、レーニンが泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児のようであるとすれば、トロツキーは積木をきれいに積み上げて「僕こんなのできるんだよ」と笑顔を輝かす少年のようであった。
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となっています。(p97以下)
おそらく池田嘉郎氏はこの比喩が非常に気に入っていて、「僕こんなに素晴らしい比喩を思いつくことができるんだよ」と「笑顔を輝かす少年のよう」に喜んでいるのでしょうが、私はあまり感心しませんでした。
ずいぶん昔、中沢新一の『はじまりのレーニン』(岩波書店、1994)を手に取って、中沢がレーニンはよく笑う人だったと強調していたのを読んだときと同じような、いささか落ち着かない、ある種、気味の悪い感じを抱きました。
別に『ロシア革命─破局の8か月』全体の学問的評価に影響を与える部分ではないのですが、前日にこの文章の直前まで読んで、
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松沢氏が推薦する『ロシア革命―破局の8か月』(岩波新書、2017年)を途中まで読んでみたけど、これは優れた著作。池田嘉郎氏の著書・論文は纏めて読んでみたい。
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1016464889785692160
などと暢気な感想を述べていた私の心を冷え冷えとさせるには十分な記述でした。
ま、私にはロシア革命全般に関する知識が乏しいので、池田著に漠然とした違和感を感じるだけで何か具体的に反論することはできないのですが、もう少し勉強すれば何か掴めそうな予感もするので、今後の課題としたいと思います。
それにしてもレーニンは当時のロシアとしては裕福な家庭で、家族の愛情に恵まれて精神的にも豊かな環境の中で育ったのに、ちょっと想像できないほど冷酷な人間に成長した点は本当に謎ですね。
スターリンあたりは、まあ、あの環境に育って権力を握ったらこうなっても不思議じゃないな、みたいな感じがするのですが。
「少年少女世界の名作 レーニン」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c23cd2ef63568c1430c13d46c82630bc
レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4912e353610bdb7b1fc146dccf4d0ca4
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月 1日(日)11時01分2秒
六月後半は京都大学名誉教授・大山喬平氏のインタビュー「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)から始まったラテンアメリカ紀行になってしまいましたが、いろいろ課題はできたものの、一応このあたりで終えようと思います。
発端となった大山氏のインタビューは、その聞き手が、
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大山先生の最初のご本『日本中世農村史の研究』の刊行に協力されるなど先生の研究の身近なところに七〇年代から八〇年代初め頃までおられた久野修義さん、清水三男『日本中世の村落』を岩波文庫に収録する仕事を先生と一緒にされた馬田綾子さん、中世の身分・寺社・社会研究から近年は「ムラの戸籍簿研究会」を大山先生と一緒に進めておられる三枝暁子さんに聞き手をお願いし、近世史からも塚田孝さんにもご参加いただくこととしました。久野さん・馬田さんは、大山先生も中心になって進められた『部落史史料選集』(第一巻「古代・中世篇」、部落問題研究所、一九八八年)の編集にも参加しておられます。なお、この聴き取り会の事務局は、近代史が専門ですが西尾泰広さん(部落問題研究所)と私、竹永が務めます。
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ということで(p3以下)、専門も世代も幅広く、非常に充実していますね。
ちなみに久野修義氏は岡山大学名誉教授、馬田綾子氏は梅花女子大名誉教授、三枝暁子氏は立命館大学准教授を経て東京大学准教授、塚田孝氏は大阪市立大学教授、竹永三男氏は島根大学教授です。
大山氏が早熟な政治青年だった高校生の頃の話は既に少し紹介しましたが、大学に入るとすっかり政治嫌いになり、林屋辰三郎や赤松俊秀の下で勉強に専心したそうですね。
「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1422218c8cfcc2a3e215a63052fd5d0
大山氏が黒田俊雄から「君らは赤松先生の弟子や」と言われていたという話はちょっと面白いですね。
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久野 でも、その黒田さんが、大山先生は赤松さんのお弟子やというふうに感じるというのは、どういうふうに考えればいいのですか。
大山 僕だけではないですよ。黒田さんは「君たちは」と複数で言っていました。赤松先生の演習に出席した、村井康彦さん以下の新制の中世史のことですね。西田直二郎さんの講義とは大違いだって。西田さんの黒板はフランス語、ドイツ語、英語と横文字ばかりだったと言っていました。僕たちは赤松さんの匂いがぷんぷんすると。
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ということで(p25)、黒田俊雄氏は1926年生まれだから大山氏とは7歳違いですが、僅かな年齢差で京大史学科の雰囲気もかなり異なったようですね。
率直に言うと、当時、旧制の人は新制の人を、語学ができない莫迦ども、みたいに軽蔑していたところがあったようです。
赤松俊秀(1907-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E4%BF%8A%E7%A7%80
黒田俊雄(1926-93)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E4%BF%8A%E9%9B%84
さて、大山氏が大山荘の研究を始めたのは姓が大山だから、という伝説もあるようですが、大山氏自身は、
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久野 大山荘(丹波国)との出会いもかなり偶然という感じでしたか。
大山 そういうことです、まったく。あの当時、中世史は個別荘園研究と決まっているというような状態でしたね。村井康彦さんは伊勢国川合大国荘。史料カードに筆写した「川合大国荘関係文書」を年次順にリングで閉じて、いつも繰っていました。戸田さんが伊賀国黒田荘、熱田公さんが紀伊国荒川荘という具合でした。それで村井さんがドクターの一番上、新制のトップでした。それで村井さんのお宅に河音と二人で卒論の相談に行き、「何にしようか」と言いましたら、村井さんが僕には大山荘を薦めました。
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と言われていますね。(p26)