学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

牛山素行氏の見解について

2016-10-31 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月31日(月)11時21分15秒

仙台地裁判決について、批判的な立場の学者の中では静岡大学防災総合センター教授牛山素行氏の見解が一番参考になりそうなので、少し検討してみます。

『豪雨災害と防災情報を研究するdisaster-i.net別館』
「大川小学校災害に関する仙台地裁の判決から思うこと」
http://disaster-i.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-a04a.html

牛山氏は、御自身が認められているように、

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筆者は,災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たない.あくまでも災害に関する研究者としての私見であることをお断りしておきたい.
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という立場の人ですので、近時の判例においては安全配慮義務違反、特に学校事故のそれについて相当厳しい判例が蓄積されていることを、それほどは御存じないと思われます。
この点が今回の裁判所の判断が一般人には受け入れにくい理由のひとつになっていると思いますが、それは後で述べるとして、事実関係について若干気になる点を挙げてみます。

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一方,15時半頃以降に目指した避難場所(三角広場)が,大規模な津波の襲来を予見している中での判断としては不適当であり,裏山が避難場所として支障はなかったと判断している.事前の予見可能性ではなく,津波到達直前の避難場所の判断に主に過失を認めているようだ.
つまり,津波到達直前には,津波は堤防を確実に越え,三角広場への避難では低すぎると判断できたはずであり,かつ裏山を避難場所として選択しなかったことが不適当だという見方のようだ.しかし,内陸部での津波の挙動について誰もが的確な知識があるとは思えず,当時において三角広場の高さと予想されるその場所での津波の高さをとっさに比較できたはずだというのは,かなり厳しい判断だと思う.
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「三角広場」ではなく、「三角地帯」が判決での表現ですが、ここは逃げ場のない場所であることが重要ではないかと思います。
「三角広場の高さと予想されるその場所での津波の高さをとっさに比較」するのはもちろん無理ですが、「三角地帯」に行ってしまったら、後は登ることが全く不可能なコンクリートの擁壁と急斜面だけ、という予想は容易です。

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また,崖崩れなども懸念され,必ずしも明瞭な道のない裏山を避難先として選択しなかったことが不適当だというのも,かなり厳しい判断だと思う.判決は「現実に津波の到来が迫っており,逃げ切れるか否かで生死を分ける状況下にあっては,列を乱して各自それぞれに山を駆け上がることを含め,高所への避難を最優先すべきであり」とあるが,このような考え方が広く一般化したのは東日本大震災以降ではなかろうか.無論このような判断ができれば,それに越したことはないが,当然そうすべきだったとまで言えるだろうか.
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牛山氏が「崖崩れなども懸念され,必ずしも明瞭な道のない裏山」をどの範囲で捉えているのかはっきりしませんが、原告が主張した「裏山」は、水道施設建設などのために少なくとも50年以上前から、実際にはもっと昔から利用され、踏みしめられていた山道とその周辺で、校庭の集合場所から小走りで一分で行ける場所ですね。
裁判官もここを実際に視察しています。

『弁護士ドットコムニュース』
「革靴の裁判長が「裏山」の避難ルートを登った・・・津波被災の「大川小学校」視察」
https://www.bengo4.com/saiban/1139/n_3939/

個人的にはこの視察が裁判官の判断に大きな影響を与えたのではないかな、と思っています。
斜面の角度などは写真で見ても理解しにくく、実際にその空間に身を置かないと分からないですからね。

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また,住民と相談し,裏山への避難について反対されたことについて,判決は「(住民)の意見をいたずらに重視することなく,自らの判断において児童の安全を優先し,裏山への避難を決断すべきであった」としているが,住民と混在した避難場所での状況を踏まえると,そのような「判断」を「すべきだった」と言うのが現実的か,難しいのではなかろうか.
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ここは私は判決原文を読んでいないので、どのような事実認定がされたのか興味があるのですが、暫くすれば『判例時報』に掲載されるはずので、それを読みたいと思います。
一般的・抽象的には、「住民」は教員と違い児童に安全配慮義務を負う立場ではないので、教員が独自の判断をすべきとの判旨は肯けます。

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判決では,管理者(ここでは教員)が災害進行中の「的確なとっさの判断」が当然行われるべきであったとしているようにおもえる.しかしこれは,災害前に事態を予見しておくことよりもむしろ応用的な高い能力を求めているように感じられる.
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この牛山氏の指摘は非常に鋭いと思います。
津波直前の極めて短時間での判断ミスだけに「過失」を認める判断構造は、今回と同じ裁判官が担当した宮城県山元町坂元の「常磐山元自動車学校」事件(仙台地判平成27・1・13、『判例時報』2265号)と全く同じなのですが、私もちょっと不自然ではないかと感じています。
石巻市側が控訴することが決まったので、どの時点でのいかなる対応を「過失」と認定するかについては、控訴審で別の判断が出るかもしれないですね。

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行政関係者や教育関係者に限らず,誰もが「管理者」になり得る.こうした高い能力の行使を管理者に求めることは,我々の誰もが重い責任を追うことになる.それに我々は社会全体として対応できるだろうか.また,自然災害時の「管理者」故意ではない判断にこうした厳しい責任追及がおこなわれることが,関係者の口を過度に重くさせ,客観的な原因分析を阻害する可能性も懸念される.
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このあたりは牛山氏のご専門を離れて、法的判断の領域に入ってしまいますね。
安全配慮義務に関して蓄積された多くの判例の中には、その当時としては現実的に対処可能とは思えない重い責任を負わせたのではないか、と思われる例も多く見られます。
個別事件の解決を超えて、「管理者」に新たな水準の認識を要請し、社会全体に警鐘を鳴らすことは裁判所の重要な役割かもしれません。
ただ、それが一般人の規範意識とかけはなれてしまってはまずい訳で、牛山氏の懸念も理解できます。

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一方,被災後の校長,生存教員,市などの対応については注意義務違反は認められなかった.しかし,本裁判に至った心情的な背景としては,被災後の関係機関の遺族らへの対応に課題があった可能性は否定できない.ただしこのことも,単純に批判できるものではないと思う.災害後の現地機関は,未経験,かつ平常時をはるかに上回る業務量を抱え,丁寧な対応ができなくなる可能性がある.被災地域の各種機関を,いかに支えていくかも大きな課題だろう.
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原告勝訴を予想していた私も、判決が出た直後に遺族代表らしい人たちが掲げた「学校・先生を断罪!!」の横断幕には驚きました。
深刻な「心情的な背景」があったのでしょうが、石巻市側にも相当な言い分があるはずで、一方的に石巻市側を非難することはできないですね。
長くなってしまったので、いったんここで切ります。
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大川小学校のことなど。

2016-10-28 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月28日(金)20時39分17秒

岸信介と四方諒二の話、まとめようかなと思っていたところ、三笠宮が亡くなられたり、大川小学校の仙台地裁判決が出たりして、地味な私のブログ「学問空間」も珍しく訪問者が増え、ちょっと落ち着かない気分ですね。
三笠宮はこちらの記事です。

昭和33年、三笠宮VS「坂本天皇」史学会の戦い

大川小学校については「カテゴリー」にまとめていますが、


仙台地裁の判決は東日本大震災の一年後に私が出した結論と基本的には同趣旨でした。

「春の大川小学校」
「大川小学校の裏山再訪(その4)」

当時、少なくともネットの世界ではこういう結論は珍しかったはずで、素人なりに丁寧な事実調査を行った結果だとは思うのですが、そうかといって、ボクって先見の明があってスゴイなー、と喜んでいる訳でもありません。
今日、朝日・読売・毎日・日経四紙の27日朝刊を読み比べてみたところ、読売・毎日・日経では不法行為責任なのか債務不履行責任(安全配慮義務違反)なのかすら明確ではありません。
朝日の判決要旨の最後の方を見ると、国家賠償法、即ち不法行為で請求を認めたことになっていますが、債務不履行責任を排除する趣旨なのかははっきりしません。
不法行為か債務不履行かは時効に関係していて、不法行為は3年で時効ですね。(国賠4条、民法724条)
おそらく債務不履行責任を排除する趣旨ではないと思いますが、そうだとすると時効は10年で、今回の訴訟に加わらなかった残りの遺族も新たに訴訟提起が可能です。
とすると、23人の犠牲者で約14億2658万ですから、犠牲となった児童74人全員だと単純計算で45億9千万円くらいになりますね。
個人的には「過失」の判断については判旨に納得できるのですが、損害額で何か調整しないと一般の理解は得にくいのかな、という感じもします。
私の不法行為についての理解は森嶌昭夫氏の『不法行為法講義』(有斐閣、1987)くらいで止まっていて、最近の議論には詳しくないのですが、「割合的因果関係」論とか「寄与度」論とかを少し勉強してみようかなと思っています。

>筆綾丸さん
>片岡鶴太郎に似ているところがありますね。
賛同はしませんが、呉座氏の髪型はちょっと面白いですね。
お洒落なヘアスタイルなのか、それとも無頓着なのか、はたまた単なる寝ぐせなのかが気になります。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

片岡鶴太郎と長い階段 2016/10/27(木) 17:41:08
小太郎さん
呉座勇一氏は優秀な方だと思いますが、まだ助教ですか。史学の世界では普通なんでしょうが。同じ年の木村草太氏はすでに教授だというのに。僭越ながら、業績から判断すれば、呉座氏の方が上のような気がします。
http://kataoka-tsurutaro.com/
片岡鶴太郎に似ているところがありますね。

http://live.shogi.or.jp/joryu_ouza/kifu/6/joryu_ouza201610260101.html
女流プロの将棋はほとんど見たことがないのですが、昨日の一局は面白かったですね。
女性の場合、持ち時間が少ないのは何故なのだろう。
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そろそろ復活します。

2016-10-26 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月26日(水)20時45分58秒

22日に書いた件、直前までレジュメをまとめていて発表の練習を全くしないまま本番に臨んだところ、時間配分を間違えてしまい、けっこうアセりました。
ま、済んだことは仕方ないので、次の機会にはもう少ししっかりやろうと思います。

>筆綾丸さん
>『応仁の乱ー戦国時代を生んだ大乱』は期待外れ
そうですか。
ネットで見る限りそれなりに評判が良さそうですが、私はまだ手に取っていません。

『応仁の乱』/呉座勇一インタビュー

呉座勇一氏、国際日本文化研究センターに職を得て京都に移られたそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ラマヌジャン 2016/10/25(火) 13:42:24
http://kiseki-sushiki.jp/info/?page_id=45
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3
渋谷文化村のル・シネマで、インドの天才数学者ラマヌジャンの映画を観ました。
原題『The Man Who Knew Infinity』の邦訳『奇蹟がくれた数式』は、「博士が愛した数式」の模倣でしょうが、 日本語としても変で、もう少しまともな訳にならなかったのか、ラマヌジャンに失礼だろう、と思いました。

http://wareragasomukishimono-movie.jp/
『われらが背しき者』は、予想に反して、面白い映画でした。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/10/102401.html
呉座勇一氏の『応仁の乱ー戦国時代を生んだ大乱』は期待外れで、退屈しました。応仁の乱は、そもそも詰まらない乱なので、誰が書いても面白くならない、ということなのか。「応仁の乱は第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか」とありますが(あとがき、284頁)、残念ながら、似ているようには思われませんでした。
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ご連絡

2016-10-22 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月22日(土)21時33分24秒

掲示板には全く反映させていないのですが、少し前から明治時代のキリスト教布教活動の実態について群馬県を中心に調べていて、近日中に簡単なレポートを纏める必要があるので、こちらでの投稿が若干遅れます。
あしからず。
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原彬久『岸信介─権勢の政治家』

2016-10-20 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月20日(木)11時36分22秒

星野直樹も興味深い人物で、少し丁寧に追ってみたいような気もするのですが、なかなか時間がとれません。
星野家はプロテスタントの世界では名門で、一族に著名な牧師が多く、叔母の星野あい(1884-1972)は津田梅子の死去に伴い女子英学塾第二代塾長に就任し、戦後、津田塾大学の初代学長になった人ですね。
また、南原繁は内村鑑三門下の友人・星野鉄男の妹と最初の結婚をしたのですが、この兄妹は星野直樹の従兄弟・妹ですね。

星野あい(「歴史が眠る多磨霊園」サイト内)
星野直樹(同上)

ま、それはともかく、大日本帝国の終焉全般に手を広げると収拾がつかなくなるので、そろそろ「黙れ兵隊!」の纏めに入りたいと思います。
その参考として、岸関係の諸書を要領よく整理した原彬久氏の『岸信介─権勢の政治家』(岩波新書、1995)から、星野直樹も登場する部分を少し引用します。(p97以下)

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 東条の腹心星野直樹はのちに、「サイパンを失ったことは、事実上、大平洋戦争の勝敗が決したことであった」(『東條英機』)とのべている。しかし肝心の東条は、「日本の長所は、皆が生命がけであり、死ぬことを敢て怖れぬことである」として、相変らず持論の「決死隊精神」を秘書官たちに語るだけであった(『東条秘書官機密日誌』)。
 米軍に制海・制空権を奪われ、一段と厳しい批判にさらされていた東条は、いよいよ最後の賭けに出る。内閣改造である。天皇の意見を容れて嶋田繁太郎海相を更迭すること、軍需相を専任にすること、陸海両大臣による総長兼任を廃止すること、そして岸軍需次官兼国務相を退任させることなどが、この内閣改造の題目であった。
 岸の首に鈴をつけに行ったのは、「満州三角同盟」の一角を占める星野であった。もちろん東条の命を受けたからだ。星野は、岸が以前から辞意をもらしていたことを逆手にとって、東条の軍需相辞任を潮時に、岸もまた次官兼国務相を辞めるべきだ、と岸に迫ったのである。
 岸の「以前からの辞意」とはこうである。同年春から東条は軍需省内に岸次官の上席にもなりうる行政査察使を置いて、軍需物資の視察を担当させた。元商工相藤原銀次郎がこのポストに就くとき、岸はこれに激しく抗議して辞意を表明し、東条が慰留に努めたというものである。岸にとって、これが東条と対立するそもそもの出発点だった。
 星野の岸説得は、結局失敗に終わった。星野の回想によれば、岸は「自分が辞めるだけでは意義がない。この際、重臣を引き入れて、思い切った改造を行ない、挙国一致の実をあげるのが必要だ。……そうでなければ、軽々しく動けない」として、星野の要求をはねつけたのである(『東條英機』)。やがてもたれた東条・岸会談は、険悪な空気に包まれる。「辞めろ」、「辞めない」の押し問答の末、それでも岸は、「辞任拒否」の立場を押し通すことになる。
「あの当時、父は当局から狙われていた」と長男信和がのべているように、岸はその後暗殺の標的にされる。憲兵隊長四方諒二らが「岸を斬る」機会を執拗に求めていたのもちょうどこの頃である。しかし岸の「辞任拒否」は、結局東条の「内閣改造」構想を挫折させただけでなく、内閣そのものを「閣内不統一」によってついに総辞職に追い込んでしまうのである。
------

『東條英機』は前回投稿でも引用した東條英機刊行会・上法快男編『東條英機』(芙蓉書房、1974)のことですね。
私は原彬久氏の<憲兵隊長四方諒二らが「岸を斬る」機会を執拗に求めていたのもちょうどこの頃>との見解に否定的なのですが、それは後ほど。

>キラーカーンさん
>当時の内閣は大臣数の制限はなかったので、重臣の入閣だけなら
>岸の辞任にこだわる必要はなかったのですが、

大臣数の制限はちょっと確認したかった点なのですが、現代の歴史研究者・評論家でこの点を誤解している人がいるだけでなく、当時の東條周辺の関係者でも勘違いしている人がいたように感じます。

>筆綾丸さん
>益体もない言辞を弄している衒学者

私も結論的には木村草太氏と同じく皇室典範改正の方が筋が良いのでは、と思っているのですが、どうにも木村氏の論じ方・文体に抵抗を覚えます。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

才能にハンディキャップのある学者 2016/10/19(水) 17:54:47(筆綾丸さん)
小太郎さん
現憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」に関して、木村氏は、「皇室典範」に力点を置いて特例法は皇室典範ではないとしていますが、「国会の議決した」に力点を置けば特例法で何の問題もないはずで、要するに、益体もない言辞を弄している衒学者ということになりますね。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784101265742
昨日読んだ『棋士という人生―傑作将棋アンソロジー』は大変面白かったのですが、「床屋で肩こりについて考える」(村上春樹)にある言葉を勝手に借用すれば、秀才には甚だ失礼ですが、「才能にハンディキャップのある憲法学者」と言えなくもありませんね。
なお、坂口安吾の「九段」は絶品です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E7%AF%84%E4%B9%8B
日経(10月18日付)経済教室欄に、柳川範之氏がノーベル経済学賞の「契約理論」の解説をしていますが、単に商法の問題にすぎないだろう、と思われました。
------------
さらに現実の契約に関するものだけでなく、もっと幅広い問題にも応用されている。例えば政党の公約を、政治家と国民との間のある種の契約ととらえて、政党の意思決定を考えるなど政治経済学分野への応用も進んでいる。
------------
・・・なんと貧しい apps だろう。

駄レス 2016/10/19(水) 22:02:00(キラーカーンさん)
>>皇室典範は普通の法律と同じ扱いですから、特例法でも憲法違反の問題は生じない

では、憲法の条文を見てみましょう。比較のために第十条も並べています
第二条??  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。
第十条??  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
となっています。
この問題のキモは、

皇位の継承は「【法律】の定めるところにより」ではなく
「【皇室典範】の定めるところにより」

となっていることです。
つまり、皇位の継承は「皇室典範」という名前の文書によらなければならず、
一般の法律で皇位継承を規定することは【不可能】ということを意味します。
これとは別に「国会の議決」とあるので、【皇室典範は法律には限られない】
という論点も「白紙的」には存在します。
ただ、色々ややこしくなるので皇室典範を法律にしたという結論には賛成です。
(現在でも、「予算」や「国会承認人事」のように法律ではない「国会の議決」によ
る決定もあります)

ここで問題となるのは憲法で規定されている

「皇室典範」

の範囲となります。
一番わかりやすい(形式的)、かつ、最も狭い範囲は

「皇室典範」という名前の法律

です。
しかし、憲法にも「形式的意味の憲法」と「実質的意味の憲法」という用語がありま
す。
前者は「【成文憲法】としての憲法典」、後者は前者に加えて統治機構・人権に関す
る根本規定(「憲法関連法規」ともいいます)を含んだものです。
後者に含まれるものとしては、内閣法や国家行政組織法、皇室典範があります。

待鳥京都大学教授は、日本国憲法の統治機構に関する規定が簡素なため、
他国では憲法改正を要する統治機構改革が、わが国では「法律改正」で可能となるた
め、「憲法改正」に関して、他国との単純な比較は不可能である
と述べています
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO08498280Y6A011C1KE8000/
そのままでは全文の閲覧はできませんので、登録するか、紙の紙面でご確認ください
(極端に言えば、日本国憲法の場合、議院内閣制の廃止と一院制の導入以外の統治機
構改革は「法律改正」で対処が可能です)

また、フランスでは、「人権宣言」など過去の文書も第五共和国憲法前文で言及され
ているので、
それらの文書も実質的意味の第五共和国憲法に含まれます
(このため、第五共和国憲法には人権規定がありません)

ということで、「皇室典範」とあっても、例えば
「皇室典範第四条の特例に関する法律」という名前の特別法であれば
「実質的意味の皇室典範」であり、憲法には違反しないという論理構成です

もちろん、「皇室典範」は「皇室典範」という法律「のみ」を意味するので
「特別法」による譲位の容認は憲法第二条に違反する

という解釈も理論上は成立します。
むしろ、法律学の知識がなければ、この解釈のほうが分かり易い
木村氏はそういう「立場」を説明したのでしょう。

とはいっても

木村草太氏は変わり者、ないし目立ちたがり屋

という評価には私も賛成です。


>>星野氏と岸氏とは満洲時代から一緒で(中略)岸氏の心境、必ずしも平らかではな
かった

「2キ3スケ」の同格意識からいえば、この両者は四歳違いなので「いかにも」とい
う感じです。
この文から思いついたのですが
当時、内閣書記官長は閣僚ではなかったので、岸を内閣書記官長という形で体よく
「閣外追放」すれば内閣改造はできたのではないでしょうか。
書記官長なら首相の一存で更迭できたような気がします(記憶モード)
※閣僚経験者が内閣書記官長に就く例もあったので、あながち無理筋でもない

また、当時の内閣は大臣数の制限はなかったので、重臣の入閣だけなら
岸の辞任にこだわる必要はなかったのですが、岸が閣内にいたままなら「閣内不一
致」は確実で
内閣総辞職は時間の問題になるので、結局「意味がなかった」のでしょう。
米内も入閣には同意しなかったようですし

>>来る10月23日の「NHK杯テレビ将棋トーナメント」が三浦九段対橋本八段の対局

橋本八段が「三浦はクロ。対局したくない」と断言した直後のタイミングでの両者の
対局(放映)とは、将棋の神に愛されていたのは羽生三冠ではなく
実は橋本八段なのかもしれません。
(名人戦の神には見向きもされなかったようですが)

追伸
>>野村直邦
このドタバタで「在任最短閣僚」として日本史に名前が残ることになりました。

追伸2
「国政に関する機能を有しない」とされている日本国憲法下では、帝国憲法下で論じられた
譲位についての懸念の殆どは意味を成さないものとなっています。
問題は国民が「象徴としての権威」を当今と上皇(仮称)どちらに感じるかという

憲法の範囲を超えた次元

ということなので、「そもそも論」から始めるとかなり難しい議論になるのではと思料します
「象徴としての行為」(憲法上「公的行為」といわれるもの)の位置づけの整理は必要となるでしょうが
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「星野直樹の記録 東條内閣の崩壊」

2016-10-19 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月19日(水)00時20分9秒

>キラーカーンさん
>「若干」というからには、他にも入閣が取りざたされていた重臣がいたのでしょうか

ザゲィムプレィアさんが書かれているように、これは阿部信行ですね。
東條英機刊行会『東條英機』(上法快男編、芙蓉書房、1974)に「星野直樹の記録 東條内閣の崩壊」として上下二段組みで4頁分ほどの記述があって、おそらく「参考引用文献目録」に出ている星野直樹『時代と自分』(ダイヤモンド社、1968)からの引用と思われますが、これによると、

------
 七月の中ごろ、木戸内大臣は東條首相に対し、天皇の心持として、”国務、統帥の兼任をやめて、これを切り離す。さらに重臣を内閣に加えて、挙国一致の態勢を整える”よう伝えた。が、東條首相はそれが自分に対する不信任とはとらず、ひたすらこの主旨に従って、内閣の改造を行うことに努力した。
 まず第一に、陸海両大臣の総長兼任はさっそくやめた。陸軍側は梅津関東軍司令官を参謀総長に選んだ。海軍のほうは嶋田大将をそのまま軍令部総長の専任とし、海軍大臣には横須賀鎮守府司令長官であった野村直邦大将を選んだ。つぎに、重臣から大臣として内閣に二名はいってもらう案を立て、さらにこれに関連して大臣の入換えを行い、内閣の強化を図った。そのため、東條首相自身の軍需大臣兼任をやめ、軍需大臣には藤原国務相を選んだ。また岸国務相と小泉厚生大臣の二人には勇退してもらい、重臣から阿部、米内両氏の入閣を要請することとした。なおこの時は、私のほか、石渡蔵相、大麻国務相もいっしょに東條氏の相談にあずかった。
 そして、この時も私は、やめるほうの人々への交渉を引き受けた。また、藤原氏の軍需大臣就任ばなしも、私が引き受けた。
------

とのことで(p414)、この後、深夜の小泉・藤原・岸邸への訪問の様子が記されます。
そして、

------
 一方、東條首相は、石渡、大麻両君を通じ、米内、阿部の重臣に協力を求めたが、いずれもはっきりした結果は得られない。米内氏は断わり続けている。阿部氏は米内氏といっしょでなければ意味がないといって、確答はしない。やがて岸君は、総理官邸に東條氏をたずね、話し合ったが、それもはっきりしない。結局、内閣改造は完全にゆきづまりの状態となった。
------

と続きます。
このあたり、吉松安弘氏の『東條英機 暗殺の夏』では異常なほどの詳細さで時々刻々の情勢の変化が描かれていて、その中には阿部信行の動向も含まれているのですが、正直、私も少々疲れてきたので、その裏付け調査まではやっていません。
ま、星野直樹の記述には、野村直邦大将は「横須賀」鎮守府司令長官ではなく「呉」とかの細かい誤りはありますが、全体としては信用できる内容でしょうね。
なお、赤松貞雄の『東條秘書官秘密日誌』(文藝春秋、1985)には、前回投稿で紹介した長州閥への「仇討」の話のすぐ後に、

------
 それに星野氏と岸氏とは満洲時代から一緒で、岸氏は星野氏に対して常に目の上の瘤と思っていたようである。東条内閣の末期、内々星野氏を斥けて岸氏自身が星野氏のポストにつけるよう各方面に工作していたことは事実であった。その星野氏から逆に、やめろと頭からいい渡された岸氏の心境、必ずしも平らかではなかったのではあるまいか。
------

とあります(p159)。
これはちょっとどうかな、という感じがしますが。

阿部信行(1875-1953)
野村直邦(1885-1973)
星野直樹(1892-1978)

>筆綾丸さん
>「天皇の生前退位を一代限りの特例法で認めた場合・・・憲法違反と指摘される可能性がある」

新聞報道を見る限り、内閣法制局は特例法で進める方針のようですね。
旧憲法下と異なり、現憲法では皇室典範は普通の法律と同じ扱いですから、特例法でも憲法違反の問題は生じないと考えるのが一般的なはずで、木村草太氏は変わり者、ないし目立ちたがり屋さんじゃないですかね。
「憲法違反と指摘される可能性がある」みたいなもってまわった言い方ではなく、自分は憲法違反だと考える、と言えばよいのに、鬱陶しい奴だなと思います。

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

駄レス(続々) 2016/10/17(月) 23:05:25(キラーカーンさん)
>>『岡田啓介回顧録』を読んでみましたが、
>>文章にあまり軍人らしくないとぼけた味わい

岡田啓介は「政治的ではない」と言われる海軍軍人では珍しく「狸」とも言われていましたので
(515事件以後、短命内閣が続きますが、斉藤・岡田内閣時代は比較的長期安定政権でした)

>>重臣の若干が入閣せずんば
このとき、入閣が取りざたされていた重臣は米内という説がもっぱらですが、
「若干」というからには、他にも入閣が取りざたされていた重臣がいたのでしょうか
※ 「重臣」とは総理大臣経験者と現任の枢密院議長のことです。

強い味方 2016/10/18(火) 20:07:16(筆綾丸さん)
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html
いまごろ何を、と言われそうですが、旧憲法の行政に関する条文は、
「第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス・・・」
「第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」
くらいしかなく、旧憲法の論理上、当然とは言え、現憲法の「第五章 内閣」と比べると、呆れるほどの相違なんですね。任免権が天皇にある以上、大臣が一人言うことを聞かなければ、総理大臣はもうお手上げですね。

http://www.nikkei.com/article/DGKKASDG15H5G_X11C16A0EA2000/
木村草太氏が今日の日経で、「天皇の生前退位を一代限りの特例法で認めた場合・・・憲法違反と指摘される可能性がある」としていますが、特例法は皇室典範の一部なんだ、と詭弁を弄することは、法解釈上、可能でしょうか。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161018/k10010734201000.html
NHKが七時のニュースで、三浦九段の単独インタビューを報じていましたが、これは日本将棋連盟及び読売新聞に対する抗議で、来る10月23日の「NHK杯テレビ将棋トーナメント」が三浦九段対橋本八段の対局であるため、日本放送協会は事前に自らの方針を表明した、と理解すべきでしょうか。三浦九段には公共放送という強い味方ができましたね。
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『東條内閣総理大臣機密記録』

2016-10-17 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月17日(月)10時46分44秒

ザゲィムプレィアさんご紹介の伊藤隆・広橋真光・片島紀男編『東條内閣総理大臣機密記録』(東大出版会、1990)を確認したところ、1944年(昭和19)7月17日、岸信介は東條英機と二回会っているんですね。
そのまま転記すると若干見づらいので、時間だけ漢数字をアラビア数字に変更して〔〕で括っておきます。(p466以下)

------
七月十七日(月)
極力本日中に内閣改造を完成せんとする目的の下に、左の通努力す(於日本屋)。
〔07:30 07:50〕
書記官長要談。
〔08:30 09:00〕
岸国務大臣来訪要談。
辞任に関しては、所要の向に連絡の上、更めて回答すべき旨を明らかにして辞去す(此の後、岸国務大臣は木戸内大臣を往訪す)。
〔09:10 09:30〕
小泉厚生大臣来訪、要談、辞表を提出す。
〔09:30 10:00〕
大麻国務大臣要談。
〔10:00 10:45〕
藤原国務大臣来訪要談、軍需大臣就任を受諾す。
〔10:45 11:00〕
佐藤陸軍省軍務局長要談。
〔11:00 11:35〕
大麻国務大臣要談。
〔11:35 13:00〕
岸国務大臣来訪要談。
同大臣は重臣の若干が入閣せずんば、辞表を提出せず、若し重臣が入閣せざる以上は、総辞職を至当とすべく、其の場合に関しては、明日の閣議に於て緊急動議を提出すべしとの要旨の意見を固執して単独辞意を表明せず。
------

ということで、東條と岸は午前8時半から9時まで、午前11時35分から午後1時までの二回、合計1時間55分の面談を行っています。
吉松安弘氏の『東條英機 暗殺の夏』では「昨夜、辞表提出を断った岸は、約束通り、この朝八時すぎに首相官邸日本間に来た」「押問答は十時すぎまで二時間にも及んだが、岸はねばり続け、決着はつかなかった」とありますが、事実関係にかなり齟齬がありますね。
ま、合計約二時間は合っていますが。
これは『東條英機 暗殺の夏』が最初に刊行されたのが1984年(昭和59)2月なので、1990年刊行の『東條内閣総理大臣機密記録』を見ることができなかったという事情の反映でしょうね。

「黙れ兵隊!」の虚実(その1)

>キラーカーンさん
>東條英機の父も長州閥の妨害で岩手出身のゆえに大将になれなかったとの俗説もありますので

赤松貞雄の『東條秘書官機密日誌』(文藝春秋、1985)には、

------
 また、首相の実父英教氏は優秀な将軍でありながら、長州閥華やかな時代だったので、山形有朋元帥、寺内正毅元帥、田中義一大将ら長閥の人々によって早く予備役にされた。恐らく東条さんはことの真相を嫌というほど父君から聞かされていたと思う。したがって首相の壮年時代にあるいは長州出身者に対してその仇討をしたかも知れないのである。そのため、長州出身者の首相に対する反感は強かったように思う。
-----

などとありますね(p159)。
ま、どこまで当たっているかは別として。

>ザゲィムプレィアさん
『岡田啓介回顧録』を読んでみましたが、文章にあまり軍人らしくないとぼけた味わいがあって、非常に面白いですね。

>筆綾丸さん
>駒組から判断すると、封じ手の可能性が高いかと思われますが、
なるほど。
ありがとうございます。

>Poutine(プーチンヌ)
なかなか可愛らしいですね。

※筆綾丸・キラーカーン・ザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

天龍寺の精進料理 2016/10/15(土) 18:53:19(筆綾丸さん)
小太郎さん
ご指摘のとおり、日本のチェスは三人でするのか、と外国人に誤解されるかもしれないですね。
中央の老人は見覚えはあるものの、名前は思い出せないのですが、タイトル戦における立会人です。立会人は通常、高段位の長老が務めます。写真はおそらく名人戦の一局で、背後の右側は副立会人(現・将棋連盟理事の島朗)、左側は観戦記者(毎日或いは朝日)かと思われます。左側の棋士(森内俊之)の左奥には、棋譜の記録係(通常、奨励会三段以下の者)がいるはずで、右側の棋士は不世出の天才(羽生善治)です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E3%81%98%E6%89%8B
写真は二つの場合が考えられます。一つは、終局後の感想戦に立会人も参加して、勝因や敗因をあれこれ検討しているというものです。もう一つは、立会人が封じ手を開封したところというものです。名人戦のような大きなタイトル戦は、持ち時間が各自9時間もあって二日間に及ぶため、初日の夕刻にどちらかが封じて、翌日の午前、開封されて指し継がれます。この場合、写真の場面は、引用のウィキでいえば、「封じ手の手順」の「7」か「8」にあたります。
駒組から判断すると、封じ手の可能性が高いかと思われますが、この場合、写真は二日目の午前9時(10時)過ぎとなり、もし感想戦であれば、二日目の夕刻ということになります。

http://live.shogi.or.jp/ryuou/kifu/29/ryuou201610150101.html
これは今日、天龍寺で指された「竜王戦」の棋譜で、渡辺竜王が44手目を封じた場面です。夕食は、天龍寺の精進料理でしょうか。
深夜、スマホで将棋ソフトをみれば確実に有利になりますが、もしかすると疑惑の棋士はカンニングするかもしれないという怖れがあり、そんなことにでもなれば、竜王戦に傷がつき、スポンサーの読売新聞が将棋連盟に、疑惑の棋士を休場させろ、と要請したのかもしれないですね。挑戦者の丸山忠久は、本来ならば有り得ないピンチヒッターです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3
http://www.rfi.fr/france/20161011-visite-poutine-hollande-syrie-annulee-reactions-politiques
プーチンのラテン文字表記は Putin を、そのままフランス語で使うと putain(売春婦)と同じ発音(ピュタン)となってしまいますが、rfiの記事を読んで、いまさらながらフランスの涙ぐましい配慮がわかりました。当該記事はプーチンのフランス訪問の中止を報じたものですが、Putin は Poutine(プーチンヌ)なんですね。これなら、売春婦に間違われることはありません。

駄レス(続) 2016/10/15(土) 22:59:15(キラーカーンさん)
>>中央の老人
関根茂九段のような気がします。

>>長州閥の卑劣な陰謀家どもが
東條英機の父も長州閥の妨害で岩手出身のゆえに大将になれなかったとの俗説もありますので
ネタとしては面白いですが。
(当時はそこまで「長州贔屓」がなかったという説も聞いたことがありますが)

>>天龍寺で指された
最近は名刹での対局も時折見られるようになりました
昔は名刹での対局が定番でしたが(「南禅寺の決戦」、「高野山の対局」等々)

東條退陣と岸信介 2016/10/15(土) 23:24:40(ザゲィムプレィアさん)
今日、図書館で以下の本を調べました。

岡田啓介,岡田啓介回顧録,中公文庫,2001 改版
岸信介,岸信介回顧録,廣済堂出版,1983
岸信介・矢次一夫・伊藤隆,岸信介の回想,株式会社文藝春秋,1981
伊藤隆他編集,東條内閣総理大臣機密記録,東京大学出版会,1990

岸対四方について小太郎さんの書き込みに付け加えることはありません。

東條退陣と岸信介について自分なりに纏めてみます。

重臣を中心とする倒閣工作に木戸内府が合流(天皇の役割は資料に制約があり何とも言えません)。
東條は内閣改造で重臣を取り込み挙国一致体制を作ると内奏するものの、重臣は一致して(陸軍出身の阿部は立場を異にする)入閣を拒否し、
岸が辞任を認めず、内閣改造失敗を認めて総辞職する。

但し海相の交代以外に藤原銀次郎と小泉親彦が辞任に同意しているので、米内を取り込むことが出来ればそれで内閣改造完了と強弁したかもしれません。
その後で岸は処分できたでしょう。
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「黙れ兵隊!」の虚実(その2)

2016-10-15 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月15日(土)11時07分26秒

そして、様々な人の様々な動きが12頁分続いた後、四方が登場します。(p538以下)

------
 六時すぎ、西陽がななめに照りつける軍需大臣官邸に、憲兵隊のサイドカーが爆音をひびかせて走りこんだ。監視の憲兵たちが異常に緊張したのも道理で、降りたったのは四方隊長である。
 難しい表情をした四方は、玄関の土間に仁王立ちになると、応接間への案内を断わり、岸に、ここまで出てくるよう求めた。
 寝床から起き上った岸は、非礼になるから、と着更えをすすめる家人を叱り、着ていた寝巻き浴衣をそのままに、上からガウンを着て玄関に出た。相手が相手だし、刃物を持っているから、何をやられるかわからない。
(弱い病人として低姿勢にでれば、めったなことはやりにくい筈だ。挑戦的に見られるのは、避けなければ危ない)
 治安の責任者が暴力をもって押しかけているのだから、いまは、自分で自分を守ることを第一に考えなければならなかった。
 覚束ない足取りで玄関に出た岸があぐらをかいて座ると、四方は、腰に下げていた軍刀をはずし、身体の前に立てて両手をのせた。威圧する体勢である。
「あんたは、何ということをしているんだ。内閣の責任は総理がもっている。総理の東條閣下が右向け右、左向け左といえば、閣僚はそれに従うべきではないのか!」
「………」
「どうなんだ、責任ももっていないのに、総理のいうことに反対するとは何事か!」
 岸は、あくまで沈黙を守ってこの場を切りぬけようと心に決めていたが、つい、我慢しきれなくなって反論した。
「君はそういうが、日本において、右向け右、左向け左という力をもっているのは、天皇陛下だけではないのか」
 小さい声ではあったが、反論はやはり相手の癇にさわり、四方は軍刀で、式台をばしっと叩いた。
 大きな音に岸はびっくりして、鞭で叩かれでもしたようにとび上った。四方は怒鳴った。
「貴様、なにをいうか! 貴様ごときが畏れ多くも陛下を引き合いに出すとは何事だ! 東條閣下の御命令に従えないのなら、さっさと大臣を辞めたらどうなんだ!」
 いわれっ放しでいるのはいまいましかったが、凶器をもつ相手をこれ以上刺激してはならない。
 軍需省では、軍部がスタッフに入るようになって以来、意見の合わない役人と口論になった軍人がいら立ち、軍刀をぬいていきり立つ場面が一度ならずあった。役所では仲裁に入る人間がまわりにいるから殺傷にいたらず収まっていたが、ここでは危ない。
「答えんのか、裏切者が!」
 燃えるような眼で見据える仕方の前にあぐらをかき、沈黙したまま耐える岸に、また、身体の震えだすようなひどい寒さが襲っていた。
------

さすがに映画監督・脚本家だけあって吉松安弘氏の描写は実に詳細で生き生きとしていて映像的ですが、巻末に参考文献一覧がある以外は出典の明記は一切ありません。
吉松氏の描写が他の文献でどれだけ裏付けられるかを当たっているところなのですが、その割合はさほど高くはなさそうですね。

>キラーカーンさん
>「同輩」意識があったのかも
岸と東條は年齢が12歳離れていますし、岸を45歳の若さで大臣に抜擢してくれたのは東條ですから、それなりに恩義も遠慮もあったのではないでしょうか。

>筆綾丸さん
>八年前はこんなことを書いていたのか。
私もどんな話の流れだったのか分かりませんでしたが、足利義満=光源氏説の関連ですね。
あのときは国文学者も歴史学者も本当に莫迦ばっかりだなと思いましたが、さすがに小川剛生氏は自説を撤回されましたね。

「自戒をこめて」(by 小川剛生氏)

>掲載の写真
私は将棋の世界は全く知らないのですが、真ん中の人は誰なんでしょうか。
まるでゲーム参加者が三人いるような構図ですね。

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2016/10/14(金) 00:19:31(キラーカーンさん)
>>『聖の青春』
「詰みは村山に聞け」から、最近は「詰みはスマホに聞け」との疑惑が・・・

>>「兵隊が何を言うか」
岸と東條は「2キ3スケ」として並び称されていたので、他の人とは違って、
東條に対して「位負け」はしていなかったのかもしれません。
(首相とヒラ閣僚だったとしても、戦前の内閣制度もあり「同輩」意識があったのかも)

absolutely unjustified(濡れ衣だ)、と彼は言った 2016/10/14(金) 13:16:50(筆綾丸さん)
小太郎さん
安倍家に関して、不思議なことに、安倍晋太郎はほとんど話題にならず、泉下の故人は寂しい思いをしているでしょうね。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4744(注)
一行目の「加一見」と末尾の「十一月十日」くらいしか読めませんが、末尾の花押は足利将軍家の公家様花押に似ています。
持明院統と大覚寺統の花押は別様だったのか、あるいは、分裂前の花押はどのようなものだったのか、まったく知らないのですが、義満は案外、後深草院の花押あたりを真似たのかもしれないですね。(後深草院が誰の花押を継承したのか、不明ですが)
義満の公家様花押について、上島有氏は鹿説を提起していますが、『中世の花押の謎を解く』には後深草院をはじめ上皇の花押への言及はなかったと記憶しています。後深草院の花押は何という字を崩したものなのか、興味を惹かれますが、少なくとも諱の久仁には関係ないようですね。
・・・それにしても、八年前はこんなことを書いていたのか。なんだか、別人のような気がします。

追記
http://www.bbc.com/news/blogs-news-from-elsewhere-37643356
将棋の不正疑惑は BBC も報道していますね。しかし、掲載の写真は本文と無関係だから、断り書きがなければいけませんが、BBC にはどうでもいいことなんでしょうね。余談ながら、apps という語はもう普通に使われているのですね。

(注)
鹿ー公家様花押 2008/09/17(水) 19:23:42(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4634523302.html
上島有氏『中世の花押の謎を解く』に、義満の公家様花押が何の字を崩したものなのか、
次のようにあります。

「鹿苑院殿」の「鹿」と考える。鹿は「中原に鹿を逐う」という言葉があるように帝位・
国王を象徴する。公武統一政権=日本国王をめざした義満の好んだ言葉である。鹿王院・
鹿苑院など義満の創建にかかる寺院に、「鹿」が使われているのはそのためと考えられ
る。鹿王院は、義満が康暦二年(1380)四月、春屋妙葩(普明国師)を開山に招請して創建
した大福田宝幢寺のうしろに、春屋の塔所として開山堂を建立したところに、野鹿が群れ
をなしてあらわれたため鹿王院と称したという。義満の塔所となった鹿王院は、永徳
三年(1383)九月にその名を称することになるが、「鹿」ははやくから義満が好んだ一字
であったとしてよかろう。ちなみに、義満が「鹿」を象形化した公家様花押を使いはじ
めたのは永徳元年で、鹿王院創建の翌年である。(216頁)

足利義満を衝き動かしていたのは、文学青年松岡氏の説くように、花へのまぎれもない
欲望や渇望なんかではなく、瀆神かと見紛うほどの鹿への敬慕と崇敬であった(?)、
と考えるべきなのかもしれませんね。
義満の公家様花押の元の字が何なのか、よくわかりませぬが、すくなくとも、花(華)
の字の崩しではないような気がしますね。

・・・それにしても、なんで「花の聖母マリア大聖堂」が出てくるのか、訳がわかりま
せぬ。フィレンツェと京都が、あの時代、ユングの云うシンクロニシティで震えていた、と?
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「黙れ兵隊!」の虚実(その1)

2016-10-15 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月15日(土)10時49分37秒

ウィキペディアの東條英機の項を見ると、執筆者は本当に熱心に調べて丁寧に記述していて、その努力には頭が下がります。
しかし、ウィキペディア自体には記述の根拠となる出典をきちんと明記するという厳格なルールがあるとしても、その出典たる文献の方が出典を明示せず、引用と推測をごちゃ混ぜにしているような本だったら、結果的にウィキペディアのルールも無意味になりますね。

さて、「黙れ兵隊!」それ自体はたいした問題ではありませんが、乗りかかった船なので、ある程度の決着はつけておきたいと思います。
出発点となった吉松安弘著『東條英機 暗殺の夏』の記述を確認しておくと、東條は一時は内閣存続に非常に弱気になるも大規模な内閣改造で乗り切ろうとし、7月16日の深夜、内閣書記官長・星野直樹は東條の使者として深夜の交渉に走り回り、まず厚生大臣・小泉親彦を訪ねて辞任を了承してもらい、次いで国務大臣・藤原銀次郎を訪ねて軍需大臣就任を依頼し、了解を得ます。
そして、最後に翌17日の午前二時頃、星野は岸信介を訪ねて辞任を要請したところ、意外なことに岸は拒否し、若干のやり取りの後、星野は説得を諦めて帰ります。
そして、同日朝の岸と東條の対決の場面に移ります。(新潮文庫版、p524以下)

------
 昨夜、辞表提出を断った岸は、約束通り、この朝八時すぎに首相官邸日本間に来た。緊張しきった様子だった。
「総理のお考えが、重臣や国民の支持をも得る思い切った改造であり、また、そういったお考え通りに改造ができ上るなら、いさぎよく辞めましょう。しかし、できないとすれば、私はもやは内閣総辞職をすべきだと思います」
 満州時代以来の縁で、なにかと岸を引きたててきたつもりの東條にとって、岸の態度は裏切り以外のなにものでもなかった。東條は腹だたしかった。
「君は今年の一月、藤原さんに鉄鋼の管理を任せると私がいった時、それなら辞めると申し出たのではなかったのか。あの時、無理をいって引き留めさせて貰ったから、今度は君の望みをかなえることにしたのだ。君に辞めて貰うのは、君自身の希望に沿ったものであることを忘れんで欲しい」
 岸も負けてはいず、蒼白な顔で反論した。
「閣下はあの時、お前は陛下の前で全力をあげて御奉公申上げると約束したのに、途中で逃げ出すとは何事だ、と叱ったではありませんか。私は陛下の御信任を失ったわけではありませんから、最後まで辞めません」
 押問答は十時すぎまで二時間にも及んだが、岸はねばり続け、決着はつかなかった。
 東條は怒りのあまり、しばしば吃った。岸の顔はひきつるように歪み、両手はぎこちなく震え、彼の内心のおびえがどんなに激しいかを表していた。
 のっぴきならなくなった岸は、最後に木戸の名前をだした。もはや危険で、このままでは断わり切れなくなっていた。
「それでは、私の進退問題につきまして、郷里の先輩でもある木戸内大臣と相談させて頂きたいと思います。そのあとで、もう一度、考えさせて頂きます」
「いいだろう、そうしたいなら長州人同士で話しなさい。おかしな真似はやめて、陛下にむくいる、その一点だけを考えることだ」
 東條は軽蔑したように見て、最後の一言を吐き捨てた。
(木戸も結局は仲間か!? 長州閥の卑劣な陰謀家どもが!)
 怒鳴りつけたい衝動を抑えて岸を見送った東條は、四方を呼び、彼を監視下に置くように命令した。
 大きな目をしばたかせ、真蒼な顔で階段を降りてきた岸は覚束ない足取りで玄関に出てくると、車をそのまま宮中に向わせた。【後略】
------
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「現場を目撃した娘の洋子が証言している」(by 太田尚樹)

2016-10-13 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月13日(木)22時20分10秒

ウィキペディアの東條英機の項に、

------
東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・四方諒二を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈しなかった[38]。


とあったので、注38の<太田尚樹 『東条英機と阿片の闇』 角川ソフィア文庫>を探したところ、入手できたのは類似書名の『東條英機 阿片の闇 満州の夢』(角川学芸出版、2009)だけでしたが、これを文庫化したのが『東条英機と阿片の闇』(角川ソフィア文庫、2012)で間違いないでしょうね。
さて、『東條英機 阿片の闇 満州の夢』には、

------
【前略】
 のちに国務大臣の岸信介が反旗を翻して東条内閣が総辞職に追い込まれたとき、四方は岸信介の家に乗り込み軍刀を突きつけて、
「東条さんが右向け右と言ったら、その通りにするのが、閣僚の務めだろう」
と脅迫した。そのとき岸は、
「黙れヘイタイ! お前のような奴がいるから、最近の東条さんは評判が悪いのだ」
と言って追い払ったと、現場を目撃した娘の洋子が証言している。因みに洋子は首相を務めた安倍晋三の母親である。
------

とあったので(p210)、ええっ、安倍洋子氏が目撃者だったのか、と一瞬驚いたものの、出典が示されておらず、また全体的に些か信頼できかねる雰囲気が漂っているので、どうしたものかと迷いました。
で、とりあえず安倍洋子氏の著書『わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として』(文藝春秋、1992)を当たってみたところ、

------
【前略】
 やがて戦局は日本に不利になっていきました。昭和十九年七月、サイパン島をあくまで守るべきだ、サイパン島が陥落すれば日本はB29の空襲にさらされ、工場が爆撃されて軍需生産が低下するという、父の主張をめぐって、父と東條首相との対立が決定的になりました。が、父は首相の強要した辞職勧告をあくまで拒絶したのでした。父はのちに、次のようなエピソードを語っております。
 父が態度を変えないことに腹を立てた四方という東京憲兵隊長が大臣官舎に談判に押しかけてきて、軍刀を突き付け、
「東条閣下が右向け右、左向け左と言えば、閣僚はそれに従うべきではないか。それを反対するとはなにごとか」
 と、おどしたのです。父はそれに対して、
「だまれ、兵隊! なにを言うか。お前みたいなのがいるから、このごろ東條さんは評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左という力を持っているのは、天皇陛下だけではないか。下がれ!」
 と、一喝して追い返したそうです。
 父は商工大臣就任のときから、自分の命は陛下に差し上げた、自分は日本の国のために働くんだと申しておりましたが、それを第一に考えることは戦後も一貫していたと、わたくしは理解しております。
 後年、父は、生涯に三回死を覚悟したと言っておりました。一回はこの東條首相との対決のとき、二回はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されたとき、三回は安保国会のときです。このとき東條内閣は、父のとった態度のために閣内不統一が表面化し、ついに七月十八日、総辞職ということになり、父もまた野に下りました。
-----

ということで(p62以下)、昭和3年生まれで「黙れ事件」当時は白百合高等女学校に在学していた安倍洋子氏は父親の話を引用しているだけですね。
ま、太田尚樹氏(東海大学名誉教授)の「現場を目撃した娘の洋子が証言している」は事実ではなかった訳で、しょーもない手抜き仕事の実態を確認しようとして手間と時間を無駄にしてしまいました。
「黙れ、太田尚樹!」と言いたい気分ですね。

太田尚樹(1941-)

結局、四方と岸のやり取りに立ち会った人はおらず、四方は何も記録を残さずに死んでしまったようですから、仮に吉松安弘氏が岸の記憶を否定する材料をどこかから入手していたとしても、それはせいぜい四方からの伝聞程度でしょうね。

>筆綾丸さん
>「後深草天皇宸翰消息」
これですね。
達筆だということが分かるだけで、全然読めませんが。

文化遺産オンライン

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

細川家の春画 2016/10/13(木) 12:57:38
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%9D%92%E6%96%87%E5%BA%AB
話に関連がなくて恐縮ながら、永青文庫は、夏ならば、藪蚊でも潜んでいそうな薄暗い所にあって、あまり好きな場所ではないのですが、話題の春画展(2015年)は見られず、残念なことをしました。
ウィキに、
--------------
文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(建仁寺塔頭、現在は正伝永源院)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
--------------
とあり、永青の由来を初めて知りました。「後深草天皇宸翰消息」という、なんだか懐かしいようなものまで所蔵していますね。

http://mainichi.jp/articles/20161013/k00/00m/040/037000c
真偽のほどは不明ながら、将棋ソフトの威力はここまで来ました。三浦九段の棋士生命は終りになるかもしれませんね。
竜王戦は読売新聞がカネにものを言わせて十段戦を発展させたものですが、名人戦の対局者に「不正」がなくてよかった、と考えるべきでしょうか。
人間対ソフトの対局場は平泉の中尊寺や比叡山の延暦寺でしたが、竜王戦第一局も京都天龍寺ということで仏門が続きますね。ゆくゆくは、ローマ法王庁の一室で対局してほしい。
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ワカモト夫人と四方夫人

2016-10-13 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月13日(木)11時23分14秒

東條英機内閣の総辞職は1944年(昭和19)7月18日ですが、細川護貞『情報天皇に達せず 下巻』(同光社磯部書房、1953)の同年8月14日の項を見ると、

------
【前略】
 昨十三日公と同車軽井沢に来る。車中公は小畑氏の談として、富永次官が岸一派近衛一派を、思想国防の見地より逮捕せんとのことを云ひたることを挙げ、今日公が内府の地位につきて断行せずんば、彼等の為に却つて禍を受くべきことを述べ、梅津の人となりを説明せりと。又長尾欽弥(ワカモト社長)夫人は、昨今憲兵の感情の自己に悪しきを以て、志方憲兵司令を自宅に招きたる所、酒に酔ひて、「大谷句仏師を毒殺したるも、中野正剛を殺したるも自分なり。」とて得意気に語り、「今に重臣の一人と岸を殺すから見て居れ。」と云ひたりとて公に報告、注意を勧告。その後村田五郎氏を使ひて、重臣中の一人が誰なるかを尋ねたる所判然せざるも、公にてはなき模様なりと。公は松平秘書官長に、内府も共にねらはれ居るを以て、早く杉山に云つて志方をとり替へる様にしては如何と云はれたる由。又小畑氏は、一切の禍根は木戸内府にありと云ひ居れりと。余は将来梅津と木戸内府とが一緒になられる恐れありと云ひたる所、公も是に同意され、「お上の御覚えも梅津に対しては特によく、東条の如く軽燥ではないから、此の問題は非常に困難だ。」といはれたり。
------

とあります(p291以下)。
『情報天皇に達せず』は「著者自序」によると、

------
 此の日記は高松宮殿下に御報告する為に私が集めた政治上の情報の覚書である。私は高松宮殿下の御発意により、近衛公や高木海軍少将の推薦によつて、各方面の意見を殿下に御取次ぎする任務を御引受けしたのであつた。時恰も昭和十八年十月三十日である。此の時の背景は未だ記憶にも新な通り、四月に山本連合艦隊司令長官が戦死し、五月にはアッツ島の我軍が全滅、七月にはキスカの守備兵が撤退して居り、外に於ては伊太利亜のムッソリーニ首相が監禁されてパドリオ元帥が内閣を組織してゐる。九月にはその伊太利亜は無条件降伏を申し出たのである。この様に日一日と国の内外に於て困難は加速度的に加りつゝあつたのである。
 初め近衛公から此の話を聞いた時、私は直感的に事の重大さと危険さとを悟つた。つまり高松宮殿下の御意向も近衛公等の考へも国策の百八十度の転換を目指した準備行動であつたし、従つて軍閥政府はそれだけに神経を昂ぶらせて如何なる手段に出て来ないとも限らないからである。しかし私は二三の先輩の激励も手伝つて意を決してこの任務を御引受けしたのであつた。そしてその日から一つには殿下への報告の正確を期する為、二つにはこの間の事情を遺す為に日記を附け初めたのである。勿論此の場合日記を附けることの危険は充分に知つてゐた。それは私自身の為よりもより以上に本問題に関係ある人々の身の安全の為であり、目的達成の為であつた。従つて日記中の数字は、以上の様な配慮から後日書込んだものが多い為かなり誤りがあると思はれる。【後略】
-------

という性格の記録ですね。
8月14日の項に出てくる「公」は近衛文麿、「小畑氏」は皇道派の小畑敏四郎、「富永次官」は富永恭次、「梅津」は梅津美治郎、「松平秘書官長」は内大臣秘書官長の松平康昌、「木戸内府」は木戸幸一です。
さて、これで『東條英機 暗殺の夏』の「大谷句仏師を毒殺したのも、中野正剛を殺したのも自分だ。いまに重臣中の一人と岸を殺すから見ておれ」の出典と「長尾欽弥(ワカモト社長)夫人」が近衛文麿に話した内容を細川護貞が近衛から聞いて記録に残した、という経緯は分かったものの、酔っぱらった席の発言で、日時も正確には不明の話である点は多少割り引いて考えなければならないのでしょうね。
「ワカモト」で財を成した長尾欽弥・よね夫妻については「長尾資料館」というサイトに詳しい説明がありますね。


>筆綾丸さん
>「特別最上等の火葬炉で荼毘に付された」
吉松安弘氏は「参考資料について」の冒頭(p655)でインタビューした20人の名前を列挙しており、その中に「四方妙子(四方東京憲兵隊長夫人)」とありますので、これは四方夫人から聞いた話の受け売りなのでしょうね。

>同じ「しかた」でも漢字が違うのですね。
細川護貞が「志方」と間違えているのは、ちょっと面白いですね。

細川護貞(1912-2005)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ノーベル経済学賞 2016/10/12(水) 15:02:37
小太郎さん
ご引用の四方諒二の経歴に憲兵に転じた理由が書かれていますが、憲兵は陸軍の傍流ですから、このあたりに四方の人生の挫折や屈折が隠されていそうですね。
些末なことで恐縮ながら、「特別最上等の火葬炉で荼毘に付された」という奇妙な記述がありますが、高額の軍人恩給の一部を拠出して、遺族が火葬場に「特別最上等の火葬炉」を寄付した、ということでしょうか。普通、火葬場は公営ですから、奇特かつ殊勝な寄付行為でも市町村長の認可が必要になりますね。
火葬場の所在地は不明ですが、没年時(昭和52年)から考えて、火葬炉に軍隊のような厳格な階級差があったとは思えず、かりにあったとしても、元憲兵如きの火葬に「特別最上等の火葬炉」を使用するとは全く以て世も末だ、と本流の兵科出身の元軍人から、さんざん嫌味を言われたような気がします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%96%B9%E4%BF%8A%E4%B9%8B
昔、志方俊之氏はよくテレビに出ていましたが、同じ「しかた」でも漢字が違うのですね。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161010/k10010724911000.html
全く縁がなく、しかも何も知らないのですが、たかが契約如きがなぜノーベル賞になるのか、不可解です。受賞理由を読むと、なんだ、馬鹿くせえ、と感じませんか。
---------------
ノーベル賞の選考委員会は、授賞理由について「『契約論』は、会社の経営から法律まで多くの分野に影響を与えた。彼らの業績のおかげでわれわれは契約を結ぶ当事者の間で資産の権利などがどのように割り当てられているかを分析する手段を得た。民間市場や公共政策においてどのように契約が作られるべきか新たな考え方を提示してくれた」としています。
---------------

http://3lion-anime.com/
http://www.loc-lion.com/title.html
『三月のライオン』という題名は、英語の諺に基づくのですね。
一回目を見ましたが、原作同様、ちょっとたるい展開でした。

http://satoshi-movie.jp/
『聖の青春』は、昔、原作を読んだことがあるので、期待しています。
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東京憲兵隊長・四方諒二(その2)

2016-10-12 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月12日(水)09時52分30秒

「黙れ兵隊!」の場面は後で検討するとして、巻末の「登場人物のその後」での四方諒二の記述も引用しておきます。(p642以下)

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四方諒二(明治二十九年~昭和五十二年)

「東條の残党を掃蕩せよ」という声が聞えるなかでも、東條憲兵の中核であった四方は泰然としていた。
 東條辞職の旬日後、近衛の親友長尾欽也が自分に対する憲兵の悪感情を拭い去るために彼を招いた宴席では、酒に酔って「大谷句仏師を毒殺したのも、中野正剛を殺したのも自分だ。いまに重臣中の一人と岸を殺すから見ておれ」と放言し、御注進をうけた近衛をふるえあがらせた。
 この年十一月、四方は上海憲兵隊長に格下げされて東京を追われた。しかし、二十年春には中支派遣憲兵隊司令官の要職に返り咲き、少将に進級していた。
 敗戦によって彼は部下の憲兵百二十名とともに戦争犯罪人として捕われ、一時は死刑を噂されたものの、中国内戦の戦火が迫る中での裁判に無罪判決を得て放免され、帰国した。「いま帰ってくると、戦争中のことを糾弾している者たちから危害を加えられるのではないか」と、近親者が心配するなかでの帰国だった。
 四方は「敗戦とともに自分は終った」と口ぐせのように言い、「敗戦の責任をとって自決する」と言い張るのを家人が思い止まらせるのに苦労した。生甲斐を見失った彼はその後、収入を得るため一時、皮手袋製造会社に関係したぐらいで、それ以外は何もしなかった。人前に出ず、昔のことは口に出さず、旧憲兵が集まる憲友会の創設に発起人となるよう誘われて、もはやいっさい関わろうとはしなかった。「自分は亡き者だ」とする彼がただひとつ努めたのは、病に倒れるまでの三十年近く、毎月毎月絶対に欠かさなかった、命日の東條家訪問であった。
 「自分が病気になっても医者は呼ばずに放っておけ、死んだらそこらに捨てろ」という厳しい遺言に従って四方の葬儀は行われず、ただ、すべて一流を好んだ故人を偲び、特別最上等の火葬炉で荼毘に付されただけだった。
------

ということで、東條英機に仕えた栄光の日々の思い出だけを胸に、ニヒルな世捨て人として戦後を過ごした人のようですね。
「大谷句仏師を毒殺したのも、中野正剛を殺したのも自分だ。いまに重臣中の一人と岸を殺すから見ておれ」は気になりますが、上下二段組みで15頁に亘って記されている参考文献一覧のどれを読めばこの話が出ているのかも分かりません。
なお、「大谷句仏師」とは東本願寺第二十三代法主の大谷光演のことですね。

大谷光演(1875-1943)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%BC%94
中野正剛(1886-1943)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B
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東京憲兵隊長・四方諒二(その1)

2016-10-12 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月12日(水)09時48分10秒

>ザゲィムプレィアさん
図書館で吉松安弘著『東條英機 暗殺の夏』の新潮文庫版(1989)を見つけてパラパラ眺めているのですが、著者は映画監督・脚本家であって、『東條英機 暗殺の夏』もあくまで小説ですね。
参考文献はそれなりに詳細で、著者の意図としては事実のみの再現を志したのでしょうが、引用と自身の推測・意見は区別されておらず、読者は映像を見るが如くに詳細な一つ一つの描写の史料的根拠を知ることはできません。

吉松安弘(1933-)

四方諒二(1896-1977)が最初に登場する昭和19年(1944)6月7日の場面を少し引用してみます。(p76以下)

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 夜九時、官邸日本間警備の憲兵たちが急に緊張してあわただしく動いた。間もなく、日本間玄関に一台のセダンがひっそりと着き、黒っぽい微塵の結城に仙台平の袴をつけた男が降りると、憲兵が屹として敬礼する中を、勝手知った様子で中に入っていった。
 大きい眼、苦み走った精悍な顔つき、筋肉質の逞しくしまった躯、発散する精気があたりを払い、血色のいい頬が四十八歳のこの男をずっと若々しく見せている。男は、いあわせた赤松、井本両秘書官の敬礼に見向きもせず、東條のいる二階に上った。
 泣く子も黙ると怖れられた東京憲兵隊長の四方諒二憲兵大佐である。
 四方は陸軍将校として、多くの点で異色だった。士官学校を卒業したあと、派遣生として東京外語にドイツ語を学び、その後、高級幹部となるためには必須の陸軍大学を「相手のうらをかき、だますのを良しとする戦術の勉強は嫌いだから……」と敢て受験せず、憲兵学校に進んで、ここを首席で卒業した。
 憲兵は、歩兵や砲兵のような戦闘集団に比べ一段低い兵科と見られており、優秀な将校は志望してゆかないのが普通である。そこには、病弱のもの、将校団の嫌われ者、栄進の望みを失ったような者も多く、司令官以下憲兵内部の重要ポストは、転属してきた他兵科陸軍大学出身者の占めることがしばしばだった。【中略】
 四方の運は、東條が関東軍憲兵司令官の時、たまたま高級副官をつとめたことによってひらけた。理屈によってものを考えることを好む東條と四方はうまがあい、東條は四方を高く評価し、四方は東條を崇拝した。【中略】
 満州時代の経験で、東條は憲兵を使う味を知っていた。警察力をもつ憲兵を上手に使えば、情報をとること、工作をすること、法律にとらわれずに人を脅し、強権をふるうことさえ可能だった。政治的な敵対者を攻撃、弾圧するのに、これほど役に立つ組織はない。
 「ドイツ語のうまい検事型の憲兵」と評されていた四方も、中央の要職を得て東條の信頼に応え、忠実に酬いた。政界、財界、官界ににらみをきかせた彼は、海軍要職者にも「邪魔になるやつがあったら、いつでも私に言ってくれ」と牽制、東條批判の中野正剛代議士を自殺に追いこんだのが自分であることをもしばしばほのめかし、人々のあいだには恐怖の気持をこめた「東條憲兵」という言葉さえ生れていた。それまで警官任せだった首相官邸警備に憲兵が入るのも、東條憲兵時代に始まったことであり、東條の次女満喜枝(まきえ)が結婚する時には、勝子夫人の新居下検分に四方が自ら案内して話題をまいた。
-----

※ザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

Re:またまた綾小路きみまろ的感懐 2016/10/11(火) 23:19:28
>小太郎さん

『東條英機暗殺の夏』を読んだのはかなり昔の事で細部は覚えていません。
そもそも『岸信介回顧録』は読んで/買っていません。
レスは週末になると思います。
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またまた綾小路きみまろ的感懐

2016-10-10 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月10日(月)19時31分50秒

>筆綾丸さん
>宮沢先生の教えに反してはいないか

そうですね。
そこもブーメランになりそうな変な箇所の一つですね。
前にも書きましたが、私は樋口陽一氏が東北大から東大に来た頃に憲法の講義を聴講したことがあります。
ま、聴講と言っても六百人以上入る大教室で、講壇の遥か遠くの席から眺めていただけですが、樋口氏の慎重に言葉を択ぶ学究的態度と爽やかな容姿には非常に好感を抱きました。
数十年の時を経て、「立憲主義」騒動の主役としてメディアに頻繁に登場する樋口氏はすっかり老人になっていて、外見だけでなく頭脳もかなり衰えてしまったようで、ちょっと悲しいですね。

>『真田丸』
私は草刈正雄の演技が面白くて時々見ていました。
真田昌幸タイプの軍略の天才は、今でも「イスラム国」あたりで活躍していそうですね。

>ザゲィムプレィアさん
歴史的事実として重要なのは岸信介が東條内閣の継続を阻止する役割を果たしたことだけで、「黙れ兵隊!」など些細なエピソードですから、私もその事実関係に特にこだわる訳ではありません。
ただ、『岸信介回顧録─保守合同と安保改定』は最晩年の岸信介が自分の軌跡を歴史の評価に委ねるために、それなりに客観的立場を維持しつつ記述した自伝であって、都合の悪いことは書かなかったかもしれませんが、書いてあることは決して脚色だらけという感じではないですね。
ウィキペディアは調べものの出発点としては便利だとは思いますが、その記述を根拠に「疑問を感じます」と言われても、こちらも対応に困ります。
せめて吉松安弘『東條英機暗殺の夏』や細川護貞『細川日記(下)』を実際にご自分の目で確認されてから意見を述べて欲しいですね。
なお、『岸信介の回想』は既に読んでいます。

「内閣書記官長・星野直樹」


※筆綾丸さんと宮沢先生さんの下記投稿へのレスです。

宮沢先生 2016/10/10(月) 13:48:28(筆綾丸さん)
小太郎さん
次の個所を読むと(215頁~)、岸信介や日本会議の面々への批判は、宮沢先生の教えに反してはいないか、と思われますね。
-------------
樋口 その素性についての反論として、安倍首相が崇拝してやまないおじいさまの岸政権のとき、憲法学者の宮沢俊義先生が「憲法の正当性ということ」という論文を発表しています。
 この論文で興味深いのは、宮沢先生が使った「うまれ」と「はたらき」という言葉です。宮沢先生は、こういうレトリックを使った。「今の時代、生まれや素性を云々して、その人の価値を論ずるのはよくないはずだ」と。では、なにを基準にものを考えるかといえば、その人が成す物事、つまり「はたらき」であるはずだというわけです。
小林 憲法を擬人化しているんですよね。とても分かりやすい。
-------------

https://twitter.com/kazumaru_cf?lang=ja
『真田丸』は見ていませんが、Twitterを見ると、門前の小僧たちに講釈を垂れるという丸島先生のスタイルは貫徹されていますね。以下は昨日のもので、勝手な引用は怒られそうですが、まあ、こんな感じです。
----------------------
この「「国家安康」は喜んで貰えると思って書いた」という話は、戦前から論文発表されていたはずですが、なかなか研究者の間でも共有されません。思い込みというのを糺すのは、本当に難しい。したがいまして、ドラマ中で文英清韓がとうとうと述べていたのは、史料を踏まえたものなのです。

そして幕府から詰問された文英清韓は、「国家安康と申しますのは、御名乗りの字を隠れ題にいれ、縁語(表現の面白みやあやをつける事)をとったものです」「君臣豊楽も、豊臣を隠れ題にいれました。こういう事例は過去にもございます」と「喜んで貰えると思って撰した」と素直に述べています。

その後提出された鐘銘の写をみて、「御諱」が刻まれている点を特に不快に感じたとあります。しかし、私が戦国史研究会8月例会で報告したように、西国の戦国大名書札礼を継承した豊臣政権下では、「実名」を書くことが尊敬の念を示すものでした。拙著『真田信繁の書状を読む』158頁も参照。

家康は大仏殿の鐘銘について、「後世に残るものである」「時の天下人が作ったものであると理解されていくだろう」「現在の天下人は家康なので、恥ずかしいものは作りたくない」「しかるに田舎者が書いたような悪文らしい」と、写の提出を命じます。したがって、「国家安康」は発端ではありません。
-------------------

Re:「黙れ兵隊!」(その2) 2016/10/10(月) 14:38:18(ザゲィムプレィアさん)
四方涼二を詳しくは知らないのですが、「黙れ兵隊!」の件は違和感を感じました。

Wikipediaによると、四方は3年間陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学んだ経歴があります。
また、このエピソードについて吉松安弘著『東條英機暗殺の夏』と細川護貞著『細川日記(下)』を基に次のように記述しています。
-------------------------------------------------------------
岸は当時、高熱を発して寝込んでおり、寝巻きのまま玄関で四方に対座したものの、四方の非難に対し「日本において右向け右、左向け左という力をもっているのは天皇陛下だけではないのか」と反論した以外は、ほぼ沈黙を貫き通したとされる。四方の来訪は単なる脅迫目的ではなく、東條の意を受けて岸に大臣を辞任させるためであり、岸も迂闊なことを言うわけにはいかなかった。また治安の責任者であるにもかかわらず、大谷句仏の毒殺を公言するような四方と事を構えるのは非常に危険であったからである。両者は満州在任時からの知己であり、岸は四方の性格を十分に知悉していた。
-------------------------------------------------------------
やはり、四方が乱暴な脅迫をして岸が「黙れ兵隊!」と応える記述に疑問を感じます。
なお、東條の側近について「三奸四愚」の表現が使われたようですが、四方は三奸の側で四愚ではないようです。

ところで、小太郎さんが引用した『岸信介回顧録─保守合同と安保改定』、1983の記述と同様な記述が
岸信介、矢次一夫、伊藤隆著『岸信介の回想』、1981にあるようですが、四方は1977年に死亡しています。
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「国民怒りの声」と有権者の「より良き選択」

2016-10-10 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月10日(月)10時22分21秒

筆綾丸さんが省略された「革命と言い切ってもいいかもしれない」の後の部分を補うと、

-----
……普通のクーデターならば打倒される側である権力者が、みずから権力を用いて体制を破壊している。とても奇妙な構図です。しかし、やっていることは憲法の停止と、その憲法下にある体制の転覆である点は変わらない訳です。
 このまま、日本国憲法が遵守されない状態が定着し、近代憲法の枠組みから逸脱している、個人の権利も保障されない新憲法が成立してしまったとしたら、後世の歴史の教科書は自民党による「無血革命」があったと書くことになるかもしれません。
樋口 ええ。
小林 この動きを止めるのに、まだ幸いなことに「投票箱」というものが機能しています。それが機能しているうちに、我々の憲法を奪還し、権力が憲法を遵守する体制に戻さないことには……。
樋口 この日本でなにが起こっているのかを知る機会があれば、有権者は、より良き選択をしてくれると信じています。いや、有権者は、この状況を知る義務があるのです。
------

となっていますね(p213以下)。
長谷部恭男氏が石川健治氏の提唱する「7月クーデター説」を支持していることを知って私はけっこう驚いたのですが、小林節氏の場合は「やっていることは憲法の停止と、その憲法下にある体制の転覆」という具合に更にヒートアップして、とうとう「革命」に転化してしまったのですね。

「日本という国を殺そうとしているのが安倍政権」(by 長谷部恭男氏)

そして『「憲法改正」の真実』出版後、自ら新しい政党「国民怒りの声」を創設して参議院議員選挙に立候補し「投票箱」の機能を確かめようとした小林節氏は、個人で78,272票、「国民怒りの声」全体で466,706票という素晴らしい成績で落選し、「国民怒りの声」はあえなく消滅、ご本人は<「憑き物」が落ちたように政治に興味がなくなった>そうですね。

読売新聞、参院選2016 開票結果【比例代表】国民怒りの声
日刊ゲンダイ、2016年8月16日、小林節「自民党改憲草案を糺す」<第1回>

まあ、「革命」を防ぐために立ちあがったのなら、もう少し頑張って欲しいような感じもしますが、有権者の「国民怒りの声」など国政の場には全く不要、という「より良き選択」がここまで鮮やかに示された以上、もはや続けても無駄、という判断も賢明かもしれません。
さて、複数の著名な憲法学者が唱える「クーデター」「革命」という表現に私が抱く素朴な違和感は、安倍首相は別に「投票箱」、即ち代表民主制、憲法に基づく民主的な議会政治を破壊してはいないし、破壊しようともしていないのに、なぜ「クーデター」「革命」なのかな、というものです。
樋口氏は、

------
▼立憲主義の軽視で起きたナチスの台頭

樋口 ところが、ここが大事なのですが、民主主義だけでは、社会は不安定になるし、危うい方向にも向きやすい。
小林 そうそう!
樋口 世界でもっとも有名で、かつ重要な例を挙げれば、ナチスドイツの登場の仕方です。ナチスが台頭したときのワイマール憲法は、国民主権に基づく民主主義でした。いきなりクーデターでナチスが出てきたわけではないのです。民主主義的な選挙によってナチスが第一党になり、首相になったヒトラーがワイマール憲法そのものを実質的に無効化してしまった。【中略】
 ワイマール憲法のもとで、民主主義が暴走し、憲法の基礎を成していた基本的人権が破壊され、ドイツ民族の優位といったイデオロギーが跋扈するようになった。立憲主義を軽視すると、そういったことが起きてしまうのです。
------

という具合に、あっさり要約すると<安倍はヒトラー、自民党はナチス>なのだと主張する訳ですが(p43)、ヒトラー登場前のドイツで平穏な「国民主権に基づく民主主義」が機能していたかというとそんなことは全然なく、世界大恐慌下の経済的混乱の中で、ナチスと共産党の左右両翼がそれぞれ強大な武装組織を保有し、凄絶なテロを繰り返すという騒然たる社会情勢だった訳ですね。
そして、「民主主義的な選挙」の結果、共産党よりはナチスの方がマシなのでは、というドイツ国民の消極的な選択がなされると、その後、ナチスはいったん掌握した権力を断固として手放さず、「ワイマール憲法そのものを実質的に無効化」した訳です。
しかし、現在の自民党には旧憲法下の政党に見られたような「院外団」程度の暴力組織も存在せず、安倍首相も議会制民主主義への敵意など一切持たず、選挙に負けたら政権を新しい多数党に引き渡すことが明らかであるのに、<安倍はヒトラー、自民党はナチス>と言い募る複数の憲法学者を見ていると、私には「デマゴーグ」という言葉以外の適当な表現が浮かんで来ません。

>筆綾丸さん
>丸島説は着実に学界に受容されているようですね。

丸島和洋先生も『真田丸』の時代考証ですっかりメジャーになりましたね。
ツイッターでの大河ドラマ解説が評判らしいのですが、何故か私はブロックされているので見ることができません。
もしかしたら丸島先生に嫌われているのカモ、と悩む今日この頃です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ふたつの学説 2016/10/09(日) 18:23:19
小太郎さん
映画『シン・ゴジラ』に関して、後日、分厚い研究書が出版されるかもしれないですね。

樋口・小林両氏がクーデター説で意見が一致しているところをみると(213頁~)、石川説がジワジワと浸透していることがわかりますね。
---------------
小林 樋口先生は政治に直接つながる発言には、学者としてきわめて抑制的な方でいらっしゃるから、こういう表現は使われないかもしれませんが、憲法擁護義務のある権力者が憲法を擁護せず、違憲立法まで行うこの状況はは、クーデターと言っていい。
樋口 歴史の常を考えると、クーデターというのは、軍隊など実力部隊の戦力を背景に、政府を制圧して非常事態宣言を出したりして、憲法を停止して、そこからクーデター派の独裁がはじまるわけです。安倍政権の場合は逆に、権力を掌握して独裁的に国会運営をして、実質的に憲法停止状態をつくってしまうということになっている。
小林 ええ、ですから、権力者による「静かなるクーデター」です。革命と言い切ってもいいかもしれない。(後略)
---------------

キラーカーンさん
国王と所有権が inviolable et sacré で共通するのは、いまひとつピンと来なかったのですが、なるほど、法的には同一の発想に基づくのですね。inviolable はともかくsacré は法に馴染まない語で、「天皇ハ神聖ニシテ・・・」とくると、法を超越した神懸かり的な世界に迷い込んだような眩暈を覚えますね。神聖はただの法律用語にすぎない、と認識するのは、法学部出身者には自明のことかもしれませんが、一般にはかなり難問のような気がします。

神田千里氏『戦国と宗教』の以下の記述を読むと、丸島説は着実に学界に受容されているようですね。
--------------
 ところで、大名同士の戦争は、一方が他方を滅ぼすに至るまで続く場合がある反面、相互の和睦協定締結で終息する場合も珍しくない。また、他の大名との戦争に明け暮れているちょうど同じとき、別の大名とは友好関係をもち、同盟を結んで援軍を要請する事例は枚挙にいとまがない。つまり戦争は大名相互の、いわば「外交」関係の一部でもある。大名の「外交」関係を規定する重要な要素の一つが「面目の維持」であるという丸島和洋氏の指摘のように、戦争もまた戦国大名の対外的な「面目」から発生する場合が珍しくなく、武田信玄の信濃国侵攻にもこうした側面がある。(3頁~)
--------------

「第二章 一向一揆と「民衆」」で、浄土真宗(本願寺派)は別に反権力的な教団ではない、と神田氏は論じていて、とても面白く思いました。
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