学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「巻二 新島守」(その1)─角田文衛

2017-12-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月31日(日)17時35分31秒

巻二に移ります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p98以下)

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 たけき武士の起こりをたづぬれば、古の田村・利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠ければさしおきぬ。そのかみより今まで、源平の二流れぞ、時により折にしたがひて、おほやけの御守りとはなりにける。桓武天皇と聞えし御門をば柏原とも申しけり。その御子に式部卿の御子と聞えしより五代の末に、平将軍貞盛といふ人、維衡・維時とて二人の子を持たりけり。間近く栄へし西八条の清盛のおとどは、かの太郎維衡より六代の末なりき。その一つ門亡びしかば、この頃はわづかにあるかなきかにぞまがふめる。さてかの維時がなごりはひたすら民と成りて、平四郎時政といふもののみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあめる。それも維時には六代の末なるべし。
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桓武平氏の起源と現状ですね。
次いで清和源氏他の武家の源氏の起源と現状です。

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 又源氏武者といふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後どもなどなり。二条院の御時、平治の乱れに、伊豆の国蛭が島に流されし右兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れ、六条判官為義といひし者の孫なり。左馬頭義朝が三郎になんありける。西八条の入道おとど、やうやう栄花のおとろへんとて、後白河院をなやまし奉りしかば、安からず思ほされて、かの頼朝を召し出でて、いくさを起し給ひしに、然るべき時や至りけん、平家の人々は寿永の秋の木がらしに散りはてて、つひにわたつ海の底のもくづと沈みにし後、いよいよ頼朝権をほどこして、さらに君の御後見をつかうまつる。相模の国鎌倉の里といふ所にをりながら、世をば掌の中に思ひき。みな人知り給へる事なれば、今更申すもなかなかなれど、院の上、位につかせ給ひしはじめより、世のかためと成りて、文治元年四月、二の階をのぼりしも、八島の内の大臣宗盛いけどりの賞と聞えき。
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このあたりは『増鏡』の文章の力強さ、格調の高さを知ってもらえれば充分で、解説めいたことは省略します。
なお、今は亡き角田文衛氏は『増鏡』が平家一門について「この頃はわづかにあるかなきかにぞまがふめる」と述べていることに強い義憤を覚えられ、『平家後抄』の「終章 恩怨無常」の一番最後のページに次のように記されています。(講談社学術文庫版『平家後抄(下)』、2000、p280)

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 ところで『平家物語』(巻第十二)は、六代丸(妙覚)の斬首に触れて、「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」と述べ、これを長編の物語の大団円としている。この一句は、冒頭に強調した「盛者必衰の理」に対応して書かざるを得なかった物語の作者ないし作者達の結論であり、要諦であった。また『増鏡』(第二)の作者は、壇ノ浦で一門が滅んだ後の動きについて、「この頃は、あるかなきかにぞさまよふめる」と記している。これは劇的効果を狙った誇張した叙述であり、上来述べた通り、史実に反することが夥しい。さらに平家の女人たちを無視した叙述は、いかに中世の物語とはいえ、赦し難いものがある。それにつけても、百七歳の長寿を全うした「北山の准后」こと藤原貞子が壇ノ浦以降の平家の動静について記録を残してくれなかったことが、衷心より悔やまれるのである。
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これが碩学角田文衛博士の長大な論考、『平家後抄』の大団円なのですが、この文章は「序章 北山准后」の、

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 実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、きわめて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遺さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか。
 これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようという意欲も旺〔さか〕んに盛り上がるのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/adfad97edb5de091b83c509169d1c3d7

に対応するもので、個人的にはなかなか味わい深い文章だなと思っています。
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西園寺家と洞院家

2017-12-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月31日(日)12時03分58秒

>キラーカーンさん
>西園寺家が今出川(菊亭)家、洞院家という清華家(並)の分家を輩出できた

洞院家の分家は鎌倉時代中期で、西園寺家の最盛期にあたりますね。
今出川家の方は鎌倉末期で、経済的にはともかく、政治的には西園寺家もかなり衰えてきた時期となり、分家の背景は少し異なるようです。
私は最近、近藤成一氏の『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)を読んで、いろいろと刺激を受けたのですが、西園寺家に関して同書に次のような記述があります。(p68以下)

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 後嵯峨院政開始直後の政変により、九条家が逼塞し、替わって西園寺氏が台頭した。天皇の外戚という立場と幕府との公式の連絡にあたる関東申次という立場が二つながら九条家から西園寺家に移ったのである。
 しかし外戚の立場により権勢を勝ち得た者は、その権勢を維持しつづけるために、外戚関係を再生産しつづけなければならない。康元二年(一二五七)、後深草天皇の中宮に西園寺実氏の娘公子が立てられた。公子は後深草の母姞子の同母妹であるから甥と叔母の結婚になる。後深草十五歳、公子二十六歳であった。
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公子が後深草より十一歳も上であることは、『増鏡』の「巻六 おりゐる雲」の冒頭にも、「女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど」(大宮院の御妹なので、ふけた御年配だが)という具合に、若干嫌味っぽく出てきますね。
ま、それはともかく、

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 後嵯峨の中宮姞子は、後嵯峨の譲位後には大宮院と称されたが、建長元年(一二四九)に皇子を産んだ。この皇子は正嘉二年(一二五八)に皇太子に立てられ、翌年、後深草天皇から皇位を譲られた。亀山天皇である。
 そして二年後の文応二年(一二六一)二月、亀山はまだ十三歳であったが、洞院実雄の娘佶子が中宮に立てられた。洞院実雄は西園寺実氏の弟である。ところが同年八月、佶子は皇后に移され、西園寺公相の娘嬉子が新たに中宮に立てられた。後堀河天皇の中宮三条有子がそうであったように、中宮が皇后に移されることは、天皇との配偶関係を否定されることを意味する。新中宮嬉子の父公相は西園寺実氏の嫡子であり、洞院実雄の甥にあたる。実雄が外戚工作において先んじたのに対して、公相が巻き返したのであった。
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ということで、西園寺家と洞院家の外戚争いが展開されます。
西園寺実氏(1194-1269)と洞院実雄(1219-73)はともに西園寺公経(1171-1244)の息子ですが、年齢差は実に二十五歳で、親子ほども離れています。
洞院実雄と西園寺公相(1223-67)は叔父・甥とはいえ、ほぼ同世代ですね。
関東申次を西園寺家が独占した等の事情もあって、本来ならば両家は威勢を競うような関係にはならなかったはずですが、実雄は娘に恵まれ、洞院家は持明院統・大覚寺統の両方で外戚となります。
ちょっと細かくなりますが、近藤氏は、

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 ところが佶子は皇后に移された後に亀山の皇子を出産した。文永二年(一二六五)に最初の皇子が生まれたが同四年八月に夭逝した。しかし同年十二月に生まれた二番目の皇子は、翌年八月に皇太子に立てられた。後の後宇多天皇である。嬉子のほうは、後宇多誕生の直前に父公相が亡くなり、その服喪により宮中を退下した後、再度の入内がかなわず、後宇多立太子の年の末に今出川院の院号を宣下された。かつて後堀河天皇の二番目の中宮長子が天皇在位中に院号を宣下されたのに相似する。長子も嬉子も前中宮を追って立てられた二番目の中宮であった点も同じである。有子を追った長子は竴子に追われたのであったが、佶子を追った嬉子は第三の誰かに追われたわけではない。嬉子に院号が宣下された後に新たな中宮は立てられていない。おそらく呼称を皇后に変えられ、院政期以来の慣例によれば天皇との配偶関係の存しないはずの佶子が、亀山の正妻として扱われることになったのであろう。佶子は亀山より四歳年長、嬉子は三歳年少であるが、亀山の「情愛」は佶子に対するものが嬉子に対するものを上回った。ただし天皇の「情愛」は単に個人の資質だけでは決まらず、個人の背後にあって個人を庇護する者の権勢に大きく左右される。皇后佶子は文永九年八月九日に二十八歳で亡くなり、その日に京極院の院号が宣下された。
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と続けて、このあたりは後堀河天皇(1212-34)の後宮事情を先に読んでおかないと難しい話になっていますが、要するに天皇自身の「情愛」と「個人の背後にあって個人を庇護する者の権勢」、即ち西園寺家と洞院家の権勢の重要性を説くのが近藤説ですね。
私自身は若干異なる考え方をしていて、本来は西園寺家と並ぶはずのない洞院家の権勢を作り上げたのは「亀山天皇の背後にあって亀山天皇を庇護する者」、即ち後嵯峨院の権勢なのではないかと思っています。
後嵯峨院は自分が天皇になるのに貢献してくれた土御門定通の息子たちに冷淡な仕打ちをしたり、実務官僚の吉田一族の中で、母の出自の関係で出世が遅れていた中御門経任の地位を強引に引き上げて吉田家の内紛の原因を作るなど、人事権を自在に繰って廷臣が自分に忠誠を誓うように誘導・強制した辣腕政治家です。
洞院家の台頭もその一環であって、公経の息子だからといってあまりデカい面をするなよ、という西園寺実氏への牽制のような感じがします。
ま、龍粛氏らの「西園寺家中心史観」は行き過ぎでしたが、西園寺家は少なくとも経済的には公家社会において別格の存在であり、「羽振り」が良かったことは間違いないですね。

西園寺実氏(1194-1269)
西園寺公相(1223-67)
洞院実雄(1219-73)

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2017/12/31(日) 02:17:49
>>通親の子孫である久我・中院・土御門・三条坊門等の諸家
この諸家による源氏長者争いが、「儀同三司伊周の旧例」を復活する一因になったという説もあります

>>西園寺家
閑院流清華家の中で西園寺家が今出川(菊亭)家、洞院家という清華家(並)の
分家を輩出できたということは、当時の西園寺家の「羽振り」がよかった
ということでしょうか

確か、記憶モードですが、鎌倉時代には、西園寺家から結構、太政大臣を
輩出していたかと思います
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「巻一 おどろのした」(その5)─土御門院

2017-12-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月31日(日)10時01分15秒

順徳天皇について述べた後、後鳥羽院の博識ぶりを示すエピソードとして囲碁の賭物や水無瀬殿での料理の話が続き、興味深い内容ではあるのですが省略します。
また、「清撰歌合」と慈円・定家の長歌も省略し、「巻一 おどろのした」の最後、土御門院の暮らしぶりを紹介しておきます。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p94以下)

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 新院も、のどかにおはしますままに、御歌をのみ詠ませ給へど、よろづのこと、もて出でぬ御本性にて、人々など集めて、わざとあるさまには好ませ給はず。建保のころ、うちうち百首の御歌よみ給へりしを、家隆の三位、また定家の治部卿のもとなどへ、「いふかひなき児の詠める」とて、つかはして見せ給ひしに、いづれもめでたくさまざまなる中に、懐旧の御歌に、

  秋の色を送り迎へて雲の上になれにし月も物わすれすな

とある所に、定家の君、おどろきかしこまりて、裏書に、「あさましくはかられ奉りけること」などしるして、

  あかざりし月もさこそは思ふらめ古き涙も忘られぬ世を

と奏せられたり。院も縁ありて御覧ずべし。げにいかが御心動かずしもおはしまさん、とその世の事かたじけなくなん。今も少し、世の中隔たれるさまにてのみおはしますこそ、いといとほしき御有様なめれとぞ。
-------

華やかな後鳥羽院・順徳天皇周辺に比べ、土御門院(1195-1231)はひっそりと地味に暮らしていた訳ですね。
楽しみは和歌くらいで、『新古今集』撰者の藤原家隆(1168-1237)や藤原定家(1162-1241)と交流していたところ、定家になかなかの秀歌を贈り、定家は「御才能に驚きました。今までまったく騙され申しておりました」と返信し、後鳥羽院も何かの縁でこの歌を御覧になって新院をお気の毒に思うだろうと同情した、ということですね。
このあたりのしんみりした様子は、承久の乱の激しい動きを引き立て、また土御門院の子孫が後に復権することの伏線になっています。
「巻一 おどろのした」はこれで終わりです。

土御門院(水垣久氏『やまとうた』内、「千人万首」)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tutimika.html
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「巻一 おどろのした」(その4)─順徳天皇

2017-12-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月30日(土)21時39分23秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p62以下)

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 なにとなく明け暮れて、承元二年にもなりぬ。十二月廿五日、二宮御冠し給ふ。修明門院の御腹なり。この御子を院かぎりなく愛しきものに思ひ聞えさせ給へれば、二なくきよらを尽し、いつくしうもてかしづき奉り給ふことなのめならず。つひに同じ四年十一月に御位につけ奉り給ふ。
-------

承元二年(1208)、修明門院を母とする二宮(順徳天皇)が元服、同四年(1210)に土御門天皇に代って践祚となります。
修明門院は後鳥羽院の乳母の親族で、後鳥羽院は承明門院より修明門院の周辺への配慮を優先した訳ですね。

藤原重子(1182-1264、修明門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%87%8D%E5%AD%90
順徳天皇(1197-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

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 もとの御門、ことしこそ十六にならせ給へば、いまだ遙かなるべき御さかりに、かかるを、いとあかずあはれに思されたり。永治のむかし、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬにおろし聞えて、近衛すゑ奉り給ひし時は、御門いみじうしぶらせ給ひつつ、その夜になるまで、勅使をたびたび奉らせ給ひつつ、内侍所・剣璽などをも渡しかねさせ給へりしぞかし。さて、その御憤りの末にてこそ、保元の乱れもひき出で給へりしを、この御門は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思しむすぼほれぬにはあらねども、気色にも漏らし給はず。世にもいとあへなき事に思ひ申しけり。承明門院などは、まいて胸痛く思されけり。その年の十二月に太上天皇の尊号あり。新院と聞ゆれば、父の御門をば本院と申す。なほ御政事は変らず。
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土御門院(1195-1231)は順徳天皇より二歳上で、承元四年(1210)にはまだ十六歳でしたから譲位を強いられて面白いはずはありませんが、崇徳院(1119-64)のような強い自己主張をする性格ではなく、内心の不平不満を表には出さなかったということですね。

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 いまの御門は十四になり給ふ。御いみな守成と聞えしにや。建暦二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時も仕うまつられたりし資実の中納言に、この度も悠紀方の御屏風の歌めさる。長楽山、

  菅の根のながらの山の峰の松吹きくる風も万代の声

かやうの事は、皆人のしろしめしたらん。こと新しく聞えなすこそ、老のひがごとならめ。
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「悠紀方」は後鳥羽天皇即位の記事にも出てきたのですが、そのときは【中略】で済ませてしまいました。
「大嘗会では、前もって悠紀(ゆき)・主基(すき)二国を決めて新穀を作らせる。悠紀は近江か尾張、主基は丹波か備中で、その新穀を祀る悠紀殿・主基殿を造営し、屏風を立て、そこにそれぞれの国を題材とした絵と歌をかかせる」ものですね。(p40)

「巻一 おどろのした」(その1)─九条兼実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25f4a89f6c5e5554fa9364d4c9012a47

「かやうの事は」以下の「このようなことはどなたも御存じでしょう。それを今さら珍しいことのように申し上げるのは、老人の愚痴というものでしょうね」(井上訳、p67)という文章は語り手の老尼の感想で、序文に登場した老尼はこんな風に時々出現して何か言います。
その大部分はここにある程度、あるいはもっと短い文章なのですが、既に紹介した巻十一「さしぐし」の新陽明門院(亀山院女御)の不行跡に関する場面では老尼はずいぶん饒舌で、ちょっと奇妙な印象を与えます。

『増鏡』序─補遺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9323efa6ef04bb9fc49ec314813ddc23

ま、それはともかく、先に進みます。

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 この御代には、いと掲焉なること多く、所々の行幸しげく、好ましきさまなり。建保二年、春日社に行幸ありしこそ、ありがたきほどいどみつくし、おもしろうも侍りけれ。さてその又の年、御百首歌よませ給ひけるに、去年の事、思し出でて、内の御製、

  春日山こぞのやよひの花の香にそめし心は神ぞ知らん

 御心ばへ、新院よりも少しかどめいて、あざやかにぞおはしましける。御才も、やまともろこし兼ねて、いとやむごとなくものし給ふ。朝夕の御いとなみは、和歌の道にてぞ侍りける。末の世に八雲などいふものつくらせ給へるも、この御門の御事なり。
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順徳天皇は兄の新院(土御門院)よりも才気煥発で、和漢の教養に富み、和歌を好んで後に『八雲御抄』という歌学書を書いたりする人でした。

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摂政殿の姫君まいり給ひていと花やかにめでたし。この御腹に、建保六年十月十日一の御子生まれ給へり。いよいよものあひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月廿一日、やがて親王になし奉り給ひて、同じ廿六日坊に居給ふ。未だ御五十日だに聞こしめさぬに、いちはやき御もてなし、珍らかなり。心もとなく思されければなるべし。いまひとしほ世の中めでたく、定まりはてぬるさまなめり。新院はいでやと思さるらんかし。
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「摂政殿の姫君」は九条良経の娘、立子のことです。
良経は既に元久三年(1206)に亡くなっていますが、九条家は良経男の道家(1193-1252)が継いでいて、立子は承元四年(1210年)、弟の道家の世話で入内した訳ですね。
皇子の誕生はかなり遅れて建保二年(1218)でしたが、このとき生まれて直ちに皇太子となったのが懐成親王、後の九条廃帝(仲恭天皇)です。
ただし、仲恭天皇の名前が付いたのは実に明治三年(1870)ですね。

九条立子(112-1248、東一条院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%AB%8B%E5%AD%90
仲恭天皇(1218-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
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「巻一 おどろのした」(その3)─宮内卿

2017-12-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月30日(土)13時39分10秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p56以下)
『新古今集』の撰集以前、建仁元年(1201)に「千五百番の歌合」という行事が行われたのですが、これは後鳥羽院が「三十人の歌人に各百首の歌を詠進させ(計三千首)、それを左右に分け、番えて千五百番とした歌合。現存最大規模の歌合」(p60)です。

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 この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、すぐれたる限りをえらばせ給ひて、その道の聖たち判じけるに、院も加はらせ給ひながら、「猶このなみにはたち及びがたし」と卑下せさせ給ひて、判の詞をばしるされず、御歌にて優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へる、なかなかいと艶に侍りけり。
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「判の詞をばしるされず、御歌にて優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へる」というのは具体例を見ないと分かりにくいのですが、井上氏によれば、

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『千五百番歌合』は和歌史上最大規模の歌合で、現代に至るまでこれを越えるものは存在しない。後鳥羽院の判歌の例を一つ掲げておこう。
   六百八十二番
     左                      宮内卿
  雲かかる生駒が岳に月落ちて三輪の檜原にましら鳴くなり
     右<勝>                      俊成卿女
  さらでまた慰むものか長き夜に月よりほかのひとり寝覚は
   寝もやらずさぞなみ山に目覚めつつ夜渡る月をしのぶ秋風
 この「寝もやらず」が院の判歌で、五七五七七の各句の頭字を拾うと「ねさめよし」となり、右の「……ひとり寝覚は」の俊成卿女の歌が良しということになる。折句の判歌で、百五十首すべてがこの形という、こったものである。
------

とのことで(p62)、何とも優雅で巧妙な判定の仕方であり、後鳥羽院の才能は凄いですね。
建仁元年(1201)というと、後鳥羽院はまだ数えで二十二歳です。

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 上のその道を得給へれば、下もおのづから時を知る習にや、男も女も、この御代にあたりて、よき歌よみ多く聞え侍りし中に、宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官浅さくて、うち続き四位ばかりにて失せにし人の子なり。まだいと若き齢にて、そこひもなく深き心ばへをのみ詠みしこそ、いとありがたく侍りけれ。
 この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなん。かまへてまろが面起すばかり、よき歌つかうまつれ」と仰せらるるに、面うち赤めて、涙ぐみてさぶらひけるけしき、限りなき好きのほど、あはれにぞ見えける。さてその御百首の歌、いづれもとりどりなる中に、

  薄く濃き野辺のみどりの若草に跡まで見ゆる雪のむら消え

草の緑の濃き薄き色にて、去年の古雪遅く疾く消ける程を、推し量りたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひ寄り難くや。この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなん。
 かくて、この度撰ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月廿六日、竟宴といふ事を、春日殿にて行はせ給ふ。いみじき世のひびきなり。かの延喜の昔思しよそへられて、院の御製、

  いそのかみ古きを今にならべこし昔の跡をまたたづねつつ

摂政殿<良経の大臣>、

  敷島や大和ことの葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり

つぎつぎ順流るめりしかど、さのみはうるさくてなん。
-------

「宮内卿の君」は「村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官浅さくて、うち続き四位ばかりにて失せにし人の子なり」ということで、村上天皇の子孫である村上源氏とはいえ、源俊房(1035-1121)の末流です。
村上源氏は俊房の弟・顕房(1037-1094)の子孫の方が栄えて、顕房─雅実─顕通の後、通親が出て、鎌倉時代には通親の子孫である久我・中院・土御門・三条坊門等の諸家が高い家格を誇ります。
従って、『増鏡』で当時の数多くの歌人の中から宮内卿だけに相当の分量の記述が費やされ、かつ非常に好意的に描かれているとしても、それは直接的には私が検討しようとしている『増鏡』における摂関家・西園寺家・村上源氏諸家の記述のバランスの問題とは関係ないのですが、わざわざ村上源氏の出自に言及している点は留意すべきではないかと思っています。
なお、宮内卿の父である源師光は実際には五位に止まっており、「四位ばかりにて失せにし」は若干盛っていますね。
それにしても、『千五百番歌合』『新古今集』に関連して、同時代の綺羅星の如き歌の名手の群れの中から後鳥羽院・九条良経・宮内卿の三人だけを取り上げているのは、なかなか興味深い選択です。

千五百番歌合
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88
後鳥羽院宮内卿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%BF
宮内卿(水垣久氏『やまとうた』、「千人万首」より)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kunaikyo.html
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「巻一 おどろのした」(その2)─源通親

2017-12-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月30日(土)10時41分59秒

続きです。
「奥山のおどろの下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん」の歌の説明や水無瀬殿造営は省略して、土御門天皇即位の場面に移ります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p47以下)

------
 今の御門の御いみ名は為仁と申しき。御母は能円法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつられける程に、この御門生まれさせ給ひて後、内大臣通親の御子になり給ひて、末には承明門院と聞えき。かの大臣の北の方の腹にておはしければ、もとより後の親なるに、御幸さへひき出で給ひしかば、まことの御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひ奉らせ給ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月廿七日に御禊、十一月は例の大嘗会、元久二年正月三日御冠し給ふ。いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も、父御門よりは、少しぬるくおはしましけれど、情け深う、物のあはれなど聞こし召しすぐさずぞありける。
------

月輪関白・九条兼実の娘・任子には昇子内親王(1195-1211、春華門院)しか生まれず、他方、兼実の政敵・源通親の養女・在子は為仁親王(1195-1231、土御門天皇)を生んで、建久九年(1198)に為仁親王が即位します。
この間、「建久七年の政変」があって九条兼実は失脚するのですが、『増鏡』は沈黙しています。
「もとより後の親なるに、御幸さへひき出で給ひしかば、まことの御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひ奉らせ給ひける」あたりは源通親に好意的な記述のようにも感じられますが、源通親の政治的才能を称賛する訳でも、逆に悪辣な佞臣として非難する訳でもなく、単に幸運な女性を養女にしてよかったね、と言っているだけですね。

源通親(1149-1202)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E8%A6%AA
源在子(1171-1257、承明門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%9C%A8%E5%AD%90
建久七年の政変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%B9%85%E4%B8%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

この後、勅撰和歌集編纂の話になります。(p49以下)

------
 今の摂政は、院の御時の関白<基通>の大臣。その後は後京極殿<良経>と聞え給ひし、いと久しくおはしき。この大臣はいみじき歌の聖にて、院の上同じ御心に、和歌の道をぞ申し行はせ給ひける。文治のころ千載集ありしかど、院いまだきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを、当代位の御ほどに、また集めさせ給ふ。土御門の内の大臣の二郎君、右衛門督通具といふ人をはじめて、有家の三位、定家の中将、家隆、雅経などにのたまはせて、昔より今までの歌を広く集めらる。おのおの奉れる歌を、院の御前にてみづからみがき整へさせ給ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も、さきに聞えつる摂政殿、とりもちて行なはせ給ふ。【後略】
------

土御門天皇の摂政は当初は後鳥羽院在位時の関白・近衛基通ですね。
法性寺関白・藤原忠通(1097-1164)に基実・基房・兼実、そして慈円らの子息がいて、近衛基通は近衛家の祖・基実の子であり、九条家の祖・兼実にとっては甥です。
摂関家は基実・兼実の世代で近衛流と九条流に大きく分かれます。
近衛基通は兼実とは異なり源通親と対立することもなく、土御門天皇の即位とともに摂政になった訳ですが、源通親が建仁二年(1202)に死去すると、九条良経(兼実男)に変わります。
「いと久しくおはしき」とありますが、良経は元久三年(1206)に三十八歳の若さで急死してしまい、摂政在任期間もそれほど長くはないですね。

近衛基通(1160-1233)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
九条良経(1169-1206)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%89%AF%E7%B5%8C

【後略】とした部分には勅撰集編纂の歴史が縷々述べられています。
『新古今集』の編者のうち、「土御門の内の大臣の二郎君、右衛門督通具」は源通親の次男、堀川家の祖となる堀川通具で、母は平教盛の娘、妻は藤原俊成の孫で養女となった「俊成卿女」(1171-?)ですね。

堀川通具(1171-1227)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E9%80%9A%E5%85%B7

この部分、井上宗雄氏は、

-------
 『新古今集』選定における後鳥羽院の果した役割について、簡潔的確に述べている。『新古今集』は五人の撰者(初めはもう一人寂蓮が撰者を命ぜらたが撰中没)がいたというが、実際は治天の君、後鳥羽の親撰に近く、撰者よりも良経の方が相談相手として大きな力を持っていたことが記されており、史実的にもそうであったと思われる。
-------

と評されています。(p55)
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「巻一 おどろのした」(その1)─九条兼実

2017-12-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月29日(金)19時49分23秒

本文に入ります。
巻一は治承四年(1180)から建保六年(1218)までの出来事を記していて、後鳥羽院の出生から始まります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p32以下)

-------
 御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御いみなは尊成、これは高倉院第四の御子、御母七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめなり。高倉院位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられしほどに、忍びて御覧じ放なたずやありけん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ。
 その年の春のころ、建礼門院、后の宮と聞えし御腹の第一の御子、三つになり給ふに位を譲りて、御門はおり給ひにしかば、平家の一族のみいよいよ時の花をかざしそへて、花やかなりし世なれば、掲焉にももてなされ給はず。またの年養和元年正月十四日、院さへ隠れさせ給ひしかば、いよいよ位などの御望みあるべくもおはしまさざりしを、かの新帝、平家の人々にひかされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮たち渡し聞えて見奉り給ふ時、三の宮を次第のままにと思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ、「あな、むつかし」とて、率て放ち給ひて、「四の宮ここにいませ」との給ふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いとむつましげなる御気色なれば、「これこそ誠の孫におはしけれ。故院の児生ひにも、まみなど覚え給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月廿日、御年四にて位につかせ給ひけり。
 内侍所・神璽・宝剣は、譲位の時、必ず渡る事なれど、先帝、筑紫に率ておはしにければ、こたみはじめて三つの神器なくて、珍しきためしに成ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり帰のぼりにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身にそへて沈み給ひけるこそ、いと口惜しけれ。
-------

後鳥羽院(1180-1239)は高倉院の第四皇子で、平家が安徳天皇(1178-85)を連れて西海に逃れた後、寿永二年(1183)、後白河法皇(1127-92)の指名によって三種の神器のないまま四歳で践祚します。
「三の宮を次第のままにと思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて泣き給ひければ」とありますが、ここで「三の宮」とされているのは実際には第二皇子の守貞親王(1179-1223、後高倉院)で、安徳天皇と同じく平家に伴なわれて都の外にいたので、この部分は文学的脚色ですね。

-------
 かくてこの御門、元暦元年七月二十八日御即位、そのほどの事、常のままなるべし。平家の人々、いまだ筑紫にただよひて、先帝と聞ゆるも御兄なれば、かしこに伝へ聞く人々の心地、上下さこそはありけめと思ひやられて、いとかたじけなし。
【中略】
 御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじううつくしと思さる。文治二年十二月一日、御書始せさせ給ふ。御年七つなり。同じ六年女御参り給ふ。月輪の関白殿の御むすめなり。立后ありき。後には宜秋門院と聞えし御事なり。この御腹に、春花門院と聞え給ひし姫君ばかりおはしましき。建久元年正月三日十一にて御元服し給ふ。
------

文治六年(1190)、月輪関白・九条兼実(1149-1207)の娘、任子(1173-1239、後の宜秋門院)が女御として入内し、ここで初めて摂関家関係者が登場します。
ただ、特別な説明はなく、事実を淡々と伝えているだけですね。
任子は男子を産むことができず、兼実の政敵である村上源氏・源通親に付け入る隙を与えてしまった経緯など興味深い政界事情はあるのですが、『増鏡』は沈黙しています。

九条兼実
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
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『増鏡』序─補遺

2017-12-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月29日(金)13時15分2秒

昨日、「老尼は本文において、忘れた頃にときどき登場しますが、聞き手は一切現れず、この序文だけに出てくる人物です」と書いてしまい、間違いに気づいて後で削除しました。
実は聞き手はずっと後、巻十一「さしぐし」の愛欲エピソードのひとつ、新陽明門院(亀山院女御)の不行跡の場面で一度だけ登場します。
詳しい検討は後日行いますが、原文を紹介しておくと、

------
 新陽明門院も、禅林寺殿の下の放ち出に、つれづれとしておはします程に、松殿宰相中将兼嗣、いかがしたりけん、常に参り給ひし程に、はてには、その宰相の中将の御子に世を逃れ給へる人ありき、その御房におぼしうつりて、限りなく思したりし程に、御子さへ生み給ひき。その姫君ははじめは富小路中納言季雄の北の方にておはせしが、後には歓喜園の摂政と聞え給ひし末の御子に、基教三位中将と聞えし上になりて、失せ給ふまでおはしき。故女院いとほしくし給ひしかば、御処分などいとど猛にありき。
「さのみかかる御事どもをさへ聞ゆるこそ、物いひさがなき罪さり所なけれど、よしや昔もさる事ありけりとこの頃の人の御有様も、おのづから軽き事あらば、思ひ許さるるためしにもなりてん物ぞ、と思へば、遠き人の御事は今は何の苦しからんぞとて少しづつ申すなり」とうち笑ふもはしたなし。「いづらこの頃は誰かあしくおはする」と問へば、「いないな、それはそら恐ろし」とて頭をふるもさすがをかし。
-------

ということで(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p381)、老尼は時々登場するとはいえ、ここまで多弁なのは珍しく、何か示唆的な印象を与える部分です。
言い回しも微妙なので、正確を期すために井上訳を紹介すると、

------
そのように深く立ち入って、こんな御事などまでお話し申すのは、物の言い方が悪いという罪を逃れられないのですが、それでもまあ、昔もそういうことがあったというのは、近ごろの人の御様子(御身持)にもたまたま軽々しいことがあった場合、(世間から)大目に見てもらえる先例にもなるでしょう、と思います。そこで遠い昔の人の御事は、今お話ししてどうして悪いことがあろうか、と思って、すこしずつ申しあげるのです」といって(老尼が)笑うのもつつましそうではない。「どこに、最近ではだれが悪くいらっしゃるのですか」と聞くと、「いやいや、今の方を申すのはなんとなく恐ろしいですね」といって頭を振る様子も、やはりおもしろい。
------

ということで(p382)、つつましげなくニヤニヤ笑っている老尼に「いづらこの頃は誰かあしくおはする」と質問する人は序文の聞き手と考えざるを得ないのですが、この人は本文ではここまで一回も登場しておらず、非常に唐突な印象を受けます。
ところで、前回投稿では話し手の老尼と聞き手の二人に言及しましたが、正確には序文にはもう一人の人物が登場しています。
即ち、「具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり」(連れて来た若い女房で、主人の尼のお供には似合わしいほどの者を僧房の方へ帰したようである)とある「若き女房」ですね。
この人も、本文中にただ一回だけ登場してきます。
その部分はやはり巻十一「さしぐし」で、冒頭の伏見天皇即位の場面に続く西園寺実兼の娘・※子(京極派の歌人として著名な永福門院)の女御入内の場面です。(※金偏に「章」)
詳しい検討は後で行いますが、原文を紹介しておくと、

-------
 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の女。三の左に大納言の君、室町の宰相中将公重の女、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの女、四の左、宰相の君、坊門三位基輔の女、右、治部卿兼倫の三位の女なり。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、なにくれがむすめどもなるべし。童・下仕へ・御雑仕・はしたものに至るまで、髪かたちめやすく、親うち具し、少しもかたほなるなくととのへられたり。
 その暮れつ方、頭中将為兼朝臣、御消息もて参れり。内の上みづから遊ばしけり。

  雲の上に千代をめぐらんはじめとて今日の日かげもかくや久しき

 紅の薄様、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかやのたまひけるとて、花山に心えたると聞かせ給ひければ、遣して包ませられけるとぞ承りしと語る。またこの具したる女、「いつぞやは御使ひに実教の中将とこそは語り給ひしか」といふ。
-------

ということで(p339)、「久我大納言雅忠の女」が三条という女房名をつけられたのはつらいと嘆いたところ、ほかの方が先に一条・二条とつけられたので、あいているまま三条とつけたのにすぎないのだと慰められた、という何だか良く分からない話の少し後に「この具したる女」が登場します。
ここも言い回しが微妙なので井上訳を紹介すると、

-------
紅の薄様の紙に書かれ、同じ薄様に包まれていたようだ。関白師忠公は「包み方を知らぬ」とかおっしゃって、花山院家教に、その心得があるとお聞きになったので、それを遣わして包ませられたとうかがった、と老尼は語る。すると連れていた女房が、「いつぞやは、天皇のお使いは実教中将であったとお話になったのに」という。
-------

ということで(p343)、序文の「具したる若き女房」は、いつ戻ってきたのかの説明もないまま、ここで唐突に登場し、老尼の発言を修正しようとする訳ですね。
なお、ここで「包むやう知らず」と故実を知らない人物として登場する「関白殿」は二条良基の曾祖父・師忠ですが、巻十一「さしぐし」の冒頭、伏見天皇即位の場面を見ると、師忠の名前は出てくるものの、二条家にとって非常に重要な新儀礼であるはずの即位灌頂への言及はありません。
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『増鏡』序

2017-12-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月28日(木)18時07分36秒

それでは早速始めます。
さて、冒頭の序文は前回投稿で示した二つの留意点とは関係ありませんが、やはり『増鏡』全体の構想に関わる重要部分ですので、全文を紹介しておきます。
引用は井上宗雄氏の『増鏡(上)全訳注』(講談社学術文庫、1979)から行います。(p19以下)

-------
 二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつましさに、嵯峨の清涼寺にまうでて、「常在霊鷲山」など、心のうちにとなへて拝み奉る。かたはらに、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかかりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひ立ちつれど、いと腰いたくて堪へ難し。こよひはこの局にうちやすみなん。坊へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば返しぬめり。
「釈迦牟尼仏」とたびたび申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端近くかたぶきぬめる日影かな。我身の上の心地こそすれ」とて寄りゐたる気色、何となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、「いづくより詣で給へるぞ。ありつる人の帰り来ん程、御伽せんはいかが」などいへば、「このあたり近く侍れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る。あはれになん」といふ。「さてもいくつにか成り給ふらん」と問へば、「いさ、よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百年にもこよなく余り侍りぬらん。来し方行先、ためしもありがたかりし世のさわぎにも、この御寺ばかりつつがなくおはします。猶やんごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。
-------

『大鏡』以下の鏡物の伝統を踏まえて最初に語り手と聞き手が登場します。
ある年の二月十五日、八十歳を超えていそうな年齢の老尼が嵯峨の清凉寺に「鳩の杖」にすがって参詣に来たとの設定です。
聞き手については特段の説明はなく、男のような感じがしますが、男女の別も明示はされていません。

-------
 年の程など聞くも、めづらしき心地して、かかる人こそ昔物語もすなれ、と思ひ出でられて、まめやかに語らひつつ、「昔の事の聞かまほしきままに、年のつもりたらん人もがな、と思ひ給ふるに、嬉しきわざかな。少しのたまはせよ。おのづから古き歌など書き置きたる物の片はし見るだに、その世にあへる心地すかし」といへば、すげみたる口うちほほゑみて、
「いかでか聞えん。若かりし世に見聞き侍りし事は、ここらの年ごろに、むば玉の夢ばかりだになくおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思へるけしきなれば、いよいよいひはやして、「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の詞をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。またかの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひぐさになれるは、御有様のやうなる人にこそありけめ。猶のたまへ」などすかせば、さは心得べかめれど、いよいよ口すげみがちにて、
「そのかみは人の齢も高く、機も強かりければ、それにしたがひて魂も明らかにてや、しか聞えつくしけん。あさましき身は、いたづらなる年のみつもれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事だに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていとあやしきひがごとどもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧じ集めけるふるごとどもはいかにぞ」といふ。
-------

聞き手が昔の話をして下さいと頼むと、老尼は歯が抜けてすぼまった口で微笑して、昔のことは忘れてしまったと断るのですが、しかし、「けしうはあらず、あへなんと思へるけしきなれば」(まんざらでもなく、まあよかろうと思っている様子なので)、聞き手が「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の詞」、即ち『大鏡』や、「かの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語」、即ち『今鏡』がもてはやされているのはきっとあなたのような方が語ったからでしょう、などとおだてると、老尼はいよいよ口をすぼめて、私は耄碌しているので昔の人のようにしっかりした話はできなく、間違いも多いでしょうと言いつつ、逆に聞き手に、あなたはどんな本を読んだのですかと反問します。

--------
「ただおろおろ見及びしものどもは水鏡といふにや。神武天皇の御代より、いとあららかにしるせり。その次には大鏡、文徳のいにしへより、後一条の御門まで侍りしにや。また世継とか四十帖の草子にて、延喜より堀川の先帝まで少し細やかなる。またなにがしの大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡に、後一条より高倉院までありしなめり。まことや、いや世継は、隆信朝臣の、後鳥羽院の御位の程までをしるしたるぞ見え侍りし。その後の事なん、おぼつかなくなりにける。覚え給ふらん所々までものたまへ。こよひは誰も御伽せん。かかる人に会ひ奉れるも、しかるべき御契りあらんものぞ」など語らへば、
「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事の続きを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事ぞ多からんかし。そはさし直し給へ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かの古ごとどもには、なぞらへ給ふまじううなん」とて、

  おろかなる心や見えん増鏡古き姿にたちは及ばで

と、わななかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、いまのたまはん事をもまた書きしるして、かの昔の面影にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、

  今もまた昔をかけば増鏡ふりぬる代々の跡にかさねん
--------

聞き手が『水鏡』、『大鏡』、『世継』(『栄花物語』)、『今鏡』や藤原隆信の『いや世継』(現存せず)を読んだと答えると、老尼は、自分の話には間違いも多いと思うのでそれは直して下さい、きっとお聞き苦しいでしょう、古い書物とは比較されますな、などと謙虚なフリをしつつ、歌を一首詠みます。
井上訳を借用すると、

『大鏡』以下の古い物語にはとても及ばず、むなしく一つの鏡物を加えてしまうでしょう。しかも真澄の鏡に物が映るように私の愚かな心が見えてしまって。

ということで、これに対し、聞き手は、

今もまた昔のことを書き記しますと、真澄の鏡に物が映るように、過去の代々のことがはっきり映るでしょうから、これを『増鏡』と名づけて代々の歴史物語のあとに重ねましょう。

と返します。
「序」はこれで終わりです。
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『増鏡』を読み直してみる。

2017-12-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月28日(木)13時30分6秒

今までの投稿で小川剛生氏『二条良基研究』の「終章」に反論する準備は全て整ったのですが、ここで性急に結論を出さず、改めて『増鏡』を読み直してみようと思います。
この試みに際しては、二つの留意点を設定しておきます。
まず第一に、二条家その他の摂関家関係者が『増鏡』においてどのように描かれているか、を検討します。
これは作者についての従来の通説である二条良基説(木藤才蔵氏ら)、そして小川剛生氏の修正説(二条良基監修者説)が成り立ち得るのかを確かめるために、果たしてそのような身分・家柄の人物を作者ないし作者関係者と考えるにふさわしい記事はどれだけ存在するのか、あるいは存在しないのかを検証するものです。
その際に摂関家との比較のため、西園寺家とその分家の洞院家、そして村上源氏の諸家についても必要に応じて言及します。
第二に、鎌倉時代の公家社会の変動をトータルに描いた格調高い歴史物語である『増鏡』において、歴史的重要性がないにもかかわらず相当の頻度で登場する、当時の公家社会の倫理水準に照らしても問題があると思われる男女間・同性間の挿話(以下、「愛欲エピソード」という)の出現時期・内容について検討します。
これは小川氏が『増鏡』の実際の執筆者として丹波忠守を想定していることに対し、私は丹波忠守レベルの人間では、仮に『増鏡』の主軸である歴史的重要性の高い出来事を描くことは可能であるとしても、数々の愛欲エピソードの執筆はおよそ無理なのではないか、と考えているためです。
私は丹波忠守レベルではそもそも愛欲エピソードの情報源に近づくことができず、また、貴族社会の最高レベルの人々の「愚行」を見下すように描くことはできないと考えるので、この点を具体例に即して検討してみたいと思います。
それでは『増鏡』の叙述の順序に従って早速検討に入りますが、最初に『増鏡』の構成を確認しておきます。

-------
第一 おどろのした
第二 新島守
第三 藤衣
第四 三神山
第五 内野の雪
第六 おりゐる雲
第七 北野の雪
第八 あすか川
第九 草枕
第十 老の波
第十一 さしぐし
第十二 浦千鳥
第十三 秋のみ山
第十四 春の別れ
第十五 村時雨
第十六 久米のさら山
第十七 月草の花
-------

各巻のタイトルは本文中に出てくる歌から取っており、例えば第一巻の「おどろのした」は後鳥羽院の「奥山のおどろの下を踏み分けて道ある世ぞと人に知らせん」によっています。

>筆綾丸さん
いえいえ。
久しぶりに中世史に戻ってみたら、歴史学にはずいぶん進展があったので、いろいろ刺激を受けました。
他方、国文学の『増鏡』研究はというと、ここ十数年の論文の数は僅少であり、久しぶりの本格的な注釈書である河北騰氏の『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)も、その作者論・成立年代論は旧態依然たるもので、今なお2005年の小川著が最先端の研究のようです。
これはさすがに情けない事態なので、国文学界の『増鏡』研究の知的水準を上げてもらうために、僭越ながら一般人の私が少しだけ貢献したい、という謙虚さのカケラもない決意に基づき、若干の投稿を行なうつもりです。
お時間がある時に適当におつきあい下さい。

--------
河北騰『増鏡全注釈』

後鳥羽帝の即位から、後醍醐帝の隠岐よりの
還京まで、十五代、約一五二年間を記した
編年体の歴史物語の全注釈。

中世院政期の歴史や文化を克明に記録しながら、平安王朝的優美典雅への憧憬が極めて強く存在し、洗練された文体や表現の工夫、人の世の栄枯盛衰や無常観が強く感じられる、文学性も極めて強く、豊かな歴史物語──。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

日本問答 2017/12/28(木) 11:40:37
小太郎さん
読ませていただくだけで、はかばかしいレスもできず、すみません。小川説の弱点が見えてきました。

https://www.iwanami.co.jp/book/b325114.html
このところ、何の役にも立たないサスペンス小説を読み耽っていますが、息抜きに『日本問答』でも読んでみようかと考えています。
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二条師忠と即位灌頂(その2)

2017-12-26 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月26日(火)12時00分2秒

ウィキペディアの「即位灌頂」の項を見ると、あまりに詳細なのでちょっとびっくりしますね。
私が即位灌頂について調べ始めた頃は、ネットには参考になりそうな情報はまったく存在せず、全て紙媒体に頼っていました。
あれから二十年、という綾小路きみまろ的な感慨はさておき、ウィキペディアの「歴代の印明伝授者」表を見ると江戸時代末期に至るまで歴代の二条家当主の名前がズラズラ並び、この儀礼が二条家において持った意味の重大性を自ずと物語っています。

即位灌頂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82

さて、二条良基と即位灌頂の関係について、再び小川剛生氏の解説を聞いてみることにします。
「第一章 即位潅頂と摂関家」「第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂」の「五 寺家即位法と二条家の印明説」「六 二条良基と即位灌頂(1)」は省略して、「七 二条良基と即位灌頂(2)」を見ると(p163以下)、

-------
 さきに北朝の天子に対する良基の印明伝授の実績を跡づけた。近世の二条家の史料の伝えるところでは、二条家が問題なく伝授を行なっていたかのように見えるが、そうではなく、王家の疑問や抵抗にあいつつ、伝授の実績を作り、時には相当な無理を通して、ようやく即位式に於ける執柄伝授という形式を作り上げたのであった。従って二条家独自の印明の説というのは、この時期にようやく形成されてくるのである。「後福照院関白消息」によれば、良基は「三家の説なとハ、さらにさらに他所ニあるましき由書置」いた「秘説の口伝一帖」を遺したというから、その段階で家説の整備を行ったことは十分考えられる。
 良基が即位灌頂の定着にあたり最大の功労者とみなされたことは故なしとしない。そこで近世の文献には、良基の記の内容として印明の説に及ぶものが多い。たとえば林羅山の神道伝授、追加・七五の記述がある。

 二条関白良基公ノ秘記ニ云、即位灌頂ノ印咒ハ、天照大神・春日明神ヨリ以来、神代ノ印トシテ、藤原氏
 嫡々相承ノ口訣、秘中ノ甚奥秘也、帝王登壇ノ時授奉、ヨ人是不知、真言家祖ノ血脈ニモアラズ、此事ヲ
 尋ニ、真偽ヲ決セン為ニ問ニヨリテ、彼意ニ真言家ノ知事ニト思ヘルハ誤也。永徳三年十一月十八日ノ記ニ
 慥ニセラレタリ。
【後略】
-------

ということで、伏見院の即位に際して二条師忠が兄の道玄と「共謀」して新たに創作した即位灌頂という儀礼は、けっして直ちに定着したのではなく、「時には相当な無理を通して、ようやく即位式に於ける執柄伝授という形式を作り上げた」訳で、良基は即位灌頂の定着についての「最大の功労者」ですね。
「八 おわりに」からも少し引用すると、

------
 二条師忠が、道玄の知恵を借りて、周囲の反撥と疑問を押し切る形で導入した即位灌頂は、曾孫良基の印明伝授の実績と家説の整備によって、寺家の即位法から完全に独立したばかりか、思想上はなんら関係を持たなかった大嘗会の神膳供進の儀をも包摂し、中世の王権の保持に不可欠な「天子御灌頂」へと展開した。
【中略】
 良基が、大嘗会の神膳供進の儀に較べれば、儀礼としてなんら伝統も有さなかった即位灌頂を殊更家の秘説として粉飾・喧伝することで、自分と子孫の繁栄をもたらしたと見れば、そのしたたかさに対しては驚嘆するほかない。
------

ということで(p166)、二条良基は師忠・道玄兄弟が「共謀」して創作した「儀礼としてなんら伝統も有さなかった即位灌頂」を「粉飾・喧伝」して「自分と子孫の繁栄をもたらした」訳で、良基自身が師忠・道玄との時を超えた共犯者ですね。
その「したたかさ」は吉田兼倶の系図偽造と同種、というか遥かに壮大かつ巧妙で、さすがは摂関家です。
なお、小川氏は上記引用部分に続けて、

------
しかし、そのような一面ばかりを強調するのも、正しい評価ではないと思われる。観応の擾乱の後、極度に衰弱した北朝の王権を内側から支えていたのが、二条家による「天子御灌頂」であったことも、また疑う余地はないからである。
------

と書かれていますが、ま、小川氏の二条良基に対する思い入れの深さだけは「疑う余地」がなさそうです。
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二条師忠と即位灌頂(その1)

2017-12-25 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月25日(月)12時40分50秒

国文学者が『増鏡』に関して「通説」という場合、それは日本女子大学名誉教授・木藤才蔵氏の学説であることが多いのですが、木藤氏がその主著『二条良基の研究』(桜楓社、1987)を出した頃の学説の水準では、二条師忠(1254-1341)など別にたいした人とは思われていませんでした。

木藤才蔵(1915-2014)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%97%A4%E6%89%8D%E8%94%B5

そこで、木藤氏を始め『増鏡』の作者を二条良基と考える国文学者たちが、『増鏡』に良基の曾祖父・師忠が奇妙なエピソードの中で登場することに格別の注意を払わなかったとしても、まあ、仕方ないような感じもするのですが、その後、学説の状況が大きく変わりました。
即ち、即位灌頂という儀式に関する研究の進展に伴い、二条師忠が二条家にとってけっこう重要な人物であることが分かって来たのですが、そうだとすると、『増鏡』の作者=二条良基説、ないしその修正説にとって、師忠のエピソードの意味は相当変わってきます。
小川剛生氏はこのような学説の進展を熟知しているばかりか、まさに小川氏こそが即位灌頂の研究を深化させ、二条師忠の重要性を明かにしてきた人です。
『二条良基研究』(笠間書院、2005)にも「第2篇 朝儀典礼」の「第一章 即位潅頂と摂関家」として約50頁の長大な論文が載っていますね。
その「第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂」の構成を見ると、

------
一 はじめに
二 二神約諾史観
三 大嘗会神膳供進の儀
四 二条師忠と即位灌頂
五 寺家即位法と二条家の印明説
六 二条良基と即位灌頂(1)
七 二条良基と即位灌頂(2)
八 おわりに
------

ということで、この構成からも二条師忠の重要性が伺えます。
私も昔、即位灌頂にちょっと興味を持って調べたことがあるのですが、ここでは即位灌頂そのものではなく、二条家との関係だけを小川氏の説明に従って確認してみます。
まず、「はじめに」の冒頭、そももそ即位灌頂とは何かというと、

------
 即位礼の諸儀の一つで、中世になって発生した特殊な作法に即位灌頂と呼ばれるものがある。具体的には新帝が高御座に昇る際に、手に印を結び、口に明(咒あるいは真言)を誦す所作を指す。正応元年(一二八八)の伏見天皇の例を史料上の初見とし、以後中世・近世を通じ、ほぼ間断なく続いている。
------

ということですね。(p145)
「二 二神約諾史観」「三 大嘗会神膳供進の儀」は即位灌頂との比較で置かれているだけなので飛ばして、「四 二条師忠と即位灌頂」を見ると(p150以下)、

------
 中世の摂関が、自らの存在理由の一端を大嘗会神膳の儀に見出したとする視点は、即位灌頂についても有効であろう。即位式では新帝が高御座に登壇する際に母后や摂関が扶持する慣例が中古からあって、即位式-摂関-即位法が結びつく前提の一つとして顧みられるべきであろう。
 即位灌頂の実修は鎌倉後期の伏見天皇を初見とする。これはまた二条家の主導によることも知られているので、以下に詳しく検討したい。
【中略】
 ここで注目すべきは、この時、師忠の兄十楽院道玄僧正の勧めがあったことである。
 道玄(一二三七-一三〇四)は二条良実の男、師忠より十七歳も年長で、建長元年(一二四九)十二月、後鳥羽院皇子入道道覚親王より青蓮院門跡を譲られ、建治二年(一二七六)十一月天台座主となった。入滅の前年には准三后宣下された。僧中准后の初例であり、その権勢は頗る大きかった(門葉記巻一二九・門主行状二)。
【中略】
 とすれば道玄こそ、即位灌頂という仏教儀礼を実際の即位式で実修させた功労者であったといえる。そのことは東山御文庫「後福照院関白消息 即位秘事事」(第二節参照)にも明記されている。
------

ということで、道玄・師忠兄弟が即位灌頂の実質的な創始者です。
ここで重要なのは二条家の「世俗的な事柄」であって、小川氏は、

------
 ここで頗る世俗的な事柄に目を転じたい。道玄・師忠の行動は鎌倉後期の二条家の事情と無関係ではない。兄弟の父二条良実は、その父道家と不和で、遂に家記・家領を一切譲られなかった。家祖の義絶は二条家に暗い記憶となってつきまとった。
 道家は四男実経を愛して嫡子となし、一条家は豊富な文書と厖大な所領を相続した。師忠と家経の代にも両家の確執は続いていた。
【中略】
 ここまで記せば明らかであろう。伏見院の代に実修された即位灌頂とは、大嘗会神膳供進の儀のかわりに、摂関と天皇の関係を証明しようとする、新しい試みであった。師忠がわざわざ「此の事他家存知せざる由」を奏上していることで察知されるように、他家、就中大嘗会の神膳故実を独占する一条家経に対抗し、自らの地位を保つために、道玄と共謀して持ち出した疑いが非常に強いのである。二条家以外の摂関家が即位法に関心を持つ必要は少しもなかった。即位灌頂の実修には、五摂家対抗の情勢における二条家の思惑が強く作用していたことは、強調しておく必要があろう。
------

という具合に(p152以下)、即位灌頂の背景事情を師忠が「道玄と共謀して持ち出した疑いが非常に強い」とまで赤裸々に暴露されています。
まあ、ここまで来ると、吉田兼倶の系図偽造とたいして違いのない行為のようにも思えてきます。
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「照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あった」(by 井上宗雄氏)

2017-12-24 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月24日(日)11時51分11秒

昨日までの投稿で二条師忠を良基の祖父と書いていましたが、これは曾祖父の誤りでした。
二条家の家祖・良実から良基までの系譜は、

二条良実(1216-71)
二条師忠(良実男、1254-1341)
二条兼基(良実男、兄師忠の養子、1267-1334)
二条道平(兼基男、1287-1335)
二条良基(道平男、1320-88)

となっていて良基の祖父は兼基であり、師忠は兼基の実兄かつ養父なので、良基から見ると曾祖父になりますね。
一応修正しておきましたが、見落としがあるかもしれません。
さて、前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の奇妙な三角関係について、井上宗雄氏は、

-------
この実兼らとの関係は何によったのかわからない。小説的な話のようでもあるが、照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あったのであろう。
-------

と述べられていますが(『増鏡(中)全訳注』、p233)、問題の本質は照明の有無ではありません。
今まで私は堀川具親が後醍醐帝の御所から大納言典侍を盗み出した話や岡本関白・近衛家平の男色の話、そして後深草院と異母妹・前斎宮の一夜限りの交情の話など、『増鏡』からかなり変な話を択んで紹介してきましたが、『増鏡』の主軸は鎌倉時代の公家社会の変動をトータルに描いた格調高い歴史物語であって、愛欲エピソードはあくまで添え物です。
しかし、添え物とはいえそれなりに面白い数々のエピソードの中で、この前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の三角関係ほどシュールな脱力感、どーでもいいだろ感に溢れたエピソードは珍しく、何でこんな話をわざわざ入れたのかが不思議です。
そして、それは作者を二条良基ないし良基関係者と考える研究者の場合、きちんと検討すべき課題です。
現代の歴史研究者はあくまで歴史的事象の客観的な観察者であって、例えば大久保利通の孫である近代史研究者の大久保利謙氏が明治維新を描く場合、大久保利通がご先祖様だからという理由で、実際の役割以上に大久保利通だけ偉大な存在のように記述することはありません。
井上馨と桂太郎の孫である井上光貞氏は古代史研究者ですが、仮に井上氏が近代史を描いたとして、井上馨と桂太郎を客観的根拠なく称揚すれば研究者仲間から笑われます。
飛鳥井雅道氏は飛鳥井伯爵家の御曹司として生まれた人ですが、仮に客観的根拠なく「明治大帝」に飛鳥井家の一族がこんなに貢献しました、みたいな話を書いたら、左翼的な研究者仲間からだけでなく、研究者の世界そのものから放逐されてしまったはずです。
しかし、『増鏡』の時代には歴史物語の筆者には歴史叙述の客観性といった研究者倫理は全くありませんから、それなりに事実に即して書こうという立場の人であっても、その人の身分・家柄といった主観的事情がある程度反映するのが自然です。
まあ、先祖に誉めるべき事績が全くないのだったら、その種の事績を捏造するのはためらうかもしれませんが、先祖の愚行や不名誉な話をわざわざ載せるはずはないと思います。
そう考えると、二条良基が『増鏡』の作者だとする木藤才蔵氏らの研究者は、『増鏡』に描かれた二条師忠像についてそれなりに検討を加えるべきだったはずなのですが、その種の考察はなされていないようです。
そして、二条良基監修者説の小川剛生氏の場合、更に深刻な問題を抱えています。

大久保利謙(1900-95)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E8%AC%99
井上光貞(1917-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%85%89%E8%B2%9E
飛鳥井雅道(1934-2000)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E9%81%93
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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その8)

2017-12-23 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月23日(土)13時23分11秒

続きです。

-------
 大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
 残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
-------

井上訳は、

-------
 実兼大納言はこの女宮の所をこころざして、このように参られたのだが、いつもとは違って男が車からおりる様子が見えたので、なにかわけがあるのだろうと思われて、「御随人一人、その辺でなにげないふうをして様子を見ていよ」といって、御随人をとどめて帰られた。師忠公はまことに意外で、気の進まぬ御旅寝ではあるが、女宮の御様子を御覧になっても、また先程の実兼大将の車のことなどを思い合わせられて、「どうも(実兼は)この宮とわけがあるようだ」と合点されると、「(それと知ってこういうことをするのは)ほんとうに好色なしわざだ。つまらないことだ」と思われたので、夜更けにならぬうちにそこをお出になった。
 (実兼が)残して置かれた随人はこの様子をよく見たので、「かくかくしかじかでございます」と実兼に言上したので、実兼はたいへん情けなく思われて、「つね日ごろもこうであったのだろう。たいそうばかな目にあったものだし、またあの大臣の(私に対する)思わくもどうであろう」と、いろいろ思い乱れられて、その後は長い間まったく訪れがないのをも、この宮のほうでは、あんなにまですっかり(実兼に)見あらわせれてしまったともご存じないので、不思議に思いながら過ぎて行くうちに、宮が懐妊の御様子で悩んでおられるのをも、実兼大納言は、宮の相手が自分一人とも思われないので、このことをたいへん不愉快に思い申したのも、どうにもしかたがないことであった。
-------

ということで、何と感想を言っていいのか分からないシュールな展開です。
二条師忠の役割はこれでお終いで、この後に西園寺実兼のみが登場する若干の後日談があります。

-------
 さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
-------

井上訳は、

-------
 しかしやはり(自分の子と)思い当たられることがあったのだろうか、お産のときのことなどもたいそう懇切にお世話申しあげたのであった。別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた。財産の御分配もあったということだ。いくらもたたぬうちに、弘安七年(一二八四)二月十五日に宮が亡くなられたのを、実兼大納言はたいそう嘆かれたということである。
-------

ということで、これで前斎宮をめぐる長いエピソードは終わりです。
西園寺実兼は不誠実な愛人にも最後まで尽くし、生まれた子供に財産分与までしてあげた立派な人物として描かれているので、まあ良いとしても、二条師忠はいったい何だったのか。
『増鏡』の作者を丹波忠守、監修者を二条良基とする小川剛生氏に対しては、丹波忠守は何故にこのような話を書いて二条良基に提出したのか、そして何故、二条良基は曾祖父に関するこのような話の削除を命ぜず、そのまま残しておいたのかを是非ともお聞きしたいところです。

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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その7)

2017-12-23 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月23日(土)12時43分56秒

この前斎宮のエピソードは、『とはずがたり』の年表を作っている国文学者によれば文永十一年(1274)の出来事とされています。
そして『とはずがたり』でも『増鏡』でも西園寺実兼は「西園寺大納言」として出てきますが、細かいことを言うと、この当時の実兼は正確には「権大納言」ですね。
実兼は文永八年(1271年)に権大納言になった後、昇進がストップしてしまって、大納言になれたのは実に17年後、正応元年(1288年)になってからです。
一昔前の歴史学界では、東大史料編纂所の所長を長く務めた龍粛氏(1890-1964)などの研究の影響で、鎌倉時代の公家社会では西園寺家の勢威が大変なものだった、みたいに思われていたのですが、こうした「西園寺家中心史観」が歴史学界で疑問視されるようになった後でも国文学界ではけっこう長く影響力を保ち続け、西園寺実兼に関する国文学者の解説には妙なものが多いですね。
ま、それはともかくとして、『増鏡』に西園寺実兼とセットで登場する二条師忠の地位はどうかというと、文永六年(1269)に僅か十六歳で内大臣、文永八年(1271)右大臣、建治元年(1275)左大臣ですから、さすがに摂関家ならではの凄まじい昇進スピードです。
しかし、このように宮廷社会での公的な序列では五歳下の二条師忠の方が圧倒的に上であるのに、『増鏡』に描かれた二人の関係は些か妙なものです。
さて、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)

------
 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。
------

井上訳は、

------
 女宮のほうでは大納言が参られたのだと思われて、いつもは忍んで来られることとて、門のうちへ車を引き入れて対の屋の端のほうからいらっしゃるのに、(今夕は)門の所からお降りになるのを変だとは思いながら、夕暮時のはっきりしないころで、何の見わけもつかず、(師忠公のほうは)妻戸のかけがねを外して自分の訪れを待つ人の気配がみえるので、なんとなく不思議な気持がされて、中門の廊へ上られると、宮のほうではいつも慣れたことなので、かわいらしい童や女房が現われ出て、形ばかりお迎えの口上を申すのを、大臣は思いがけないことだが興あることに思われて、そのあとについて奥にお入りになると、女宮も何心なく対座申されたので、大臣はこれはいったいどうしたことかとは思われたが、なにかとこの場にふさわしいように、日ごろからお慕い申す気持があったことなどうまく申しあげなさって、(そこで女宮のほうは間違いに気づき)ほんとうに驚いて、ひととおりでないお悩みが加わりなさったのであった。
-------

ということで、何とも間の抜けた展開となります。

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