巻二に移ります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p98以下)
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たけき武士の起こりをたづぬれば、古の田村・利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠ければさしおきぬ。そのかみより今まで、源平の二流れぞ、時により折にしたがひて、おほやけの御守りとはなりにける。桓武天皇と聞えし御門をば柏原とも申しけり。その御子に式部卿の御子と聞えしより五代の末に、平将軍貞盛といふ人、維衡・維時とて二人の子を持たりけり。間近く栄へし西八条の清盛のおとどは、かの太郎維衡より六代の末なりき。その一つ門亡びしかば、この頃はわづかにあるかなきかにぞまがふめる。さてかの維時がなごりはひたすら民と成りて、平四郎時政といふもののみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあめる。それも維時には六代の末なるべし。
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桓武平氏の起源と現状ですね。
次いで清和源氏他の武家の源氏の起源と現状です。
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又源氏武者といふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後どもなどなり。二条院の御時、平治の乱れに、伊豆の国蛭が島に流されし右兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れ、六条判官為義といひし者の孫なり。左馬頭義朝が三郎になんありける。西八条の入道おとど、やうやう栄花のおとろへんとて、後白河院をなやまし奉りしかば、安からず思ほされて、かの頼朝を召し出でて、いくさを起し給ひしに、然るべき時や至りけん、平家の人々は寿永の秋の木がらしに散りはてて、つひにわたつ海の底のもくづと沈みにし後、いよいよ頼朝権をほどこして、さらに君の御後見をつかうまつる。相模の国鎌倉の里といふ所にをりながら、世をば掌の中に思ひき。みな人知り給へる事なれば、今更申すもなかなかなれど、院の上、位につかせ給ひしはじめより、世のかためと成りて、文治元年四月、二の階をのぼりしも、八島の内の大臣宗盛いけどりの賞と聞えき。
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このあたりは『増鏡』の文章の力強さ、格調の高さを知ってもらえれば充分で、解説めいたことは省略します。
なお、今は亡き角田文衛氏は『増鏡』が平家一門について「この頃はわづかにあるかなきかにぞまがふめる」と述べていることに強い義憤を覚えられ、『平家後抄』の「終章 恩怨無常」の一番最後のページに次のように記されています。(講談社学術文庫版『平家後抄(下)』、2000、p280)
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ところで『平家物語』(巻第十二)は、六代丸(妙覚)の斬首に触れて、「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」と述べ、これを長編の物語の大団円としている。この一句は、冒頭に強調した「盛者必衰の理」に対応して書かざるを得なかった物語の作者ないし作者達の結論であり、要諦であった。また『増鏡』(第二)の作者は、壇ノ浦で一門が滅んだ後の動きについて、「この頃は、あるかなきかにぞさまよふめる」と記している。これは劇的効果を狙った誇張した叙述であり、上来述べた通り、史実に反することが夥しい。さらに平家の女人たちを無視した叙述は、いかに中世の物語とはいえ、赦し難いものがある。それにつけても、百七歳の長寿を全うした「北山の准后」こと藤原貞子が壇ノ浦以降の平家の動静について記録を残してくれなかったことが、衷心より悔やまれるのである。
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これが碩学角田文衛博士の長大な論考、『平家後抄』の大団円なのですが、この文章は「序章 北山准后」の、
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実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、きわめて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遺さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記をさせなかったのであろうか。
これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようという意欲も旺〔さか〕んに盛り上がるのである。
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に対応するもので、個人的にはなかなか味わい深い文章だなと思っています。